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「ご用件は?」
インターホン越しに、人に在らざるような声を使って尋ねると、囁くような声が帰ってきた。
「ロンリコホワイト。ホワイトキュラソー。レモンジュース」
聞こえてきたカクテルの名前は最後の手段にして最高の一杯。XYZ。
このカクテルの中身を伝えてくる客には要注意だ。俺に傷害や人殺し以外の犯罪をやらせようとしてくる。
耳を澄ましてその言葉を確認した後、俺は左手でドアノブを回し――思わず息を飲み込んだ。
彼女はうだるような暑さの熱気と共にやって来た。
汗が光るしっとりとしたうなじの横には、紺色のレースで出来たシュシュとくくられた黒髪が寄り添っている。ぽってりとした赤い唇はやや突き出され、しっかりとラインが描かれた眉を潜めている。
はっきりとした二重の瞳は俺をけだるげに見つめている。この真夏日だからこそさらけ出された、やや柔らかくなってきた二の腕から放たれる、二十代半ばでは決して放つことの出来ない落ち着いた色気。
俺の目の前には、若さから成熟へと変わりゆく狭間に佇む美しき女神アフロディーテがいた。
悩める美女の依頼人。小説の主人公のようなささやかな幸福に驚きつつ、俺は深く頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました」
その声に彼女は眉をひそめた。
「それ、ボイスチェンジャーじゃなかったの?」
俺の甲高くへしゃげた声が気に入らないようだった。
あーあー、と何回か言って俺本来のものに戻す。
「ええ。不幸なことに今朝壊れまして。明日届くまでの間に合わせとして、取り急ぎ買ってきました」
「……買ったのそこのドソキよね? ボイスチェンジャーも売ってるんじゃないかしら?」
「聡明な方ですね」
俺は、自身が知らなかった知識を与えてくれたアテナを褒め称えた。
彼女は首を傾げる。
「紹介元からは優秀だと聞いているけど、本当かしら」
「私の口からの評価のみでは胡散臭いでしょうが、あの方からはよくご依頼を頂いてはおります」
そう返し、ひとまず彼女をソファへと誘った。昨夜仕込んだ水出しアイスコーヒーをグラスに入れる。近くの珈琲屋で買っている俺の癒しの一杯だ。
「コーヒーは飲めますか」
「ええ」
「ミルクか砂糖はご必要で?」
「いらないわ」
さらりと答え、彼女は水出しアイスコーヒーを受け取り一気に半分飲む。俺のお気に入りの一杯は、この砂漠のようなじりつく酷暑の中で彼女を潤すひと掬いのオアシスにはなったようだ。
俺は口角を上げる。
「ようこそ。『何でも屋シェイク』へ。店長のXYZと申します」
このカクテルの名を答えたときの名前を告げる。
女神は首を一つ縦に振る。
「自己紹介はありがたいけど、私の方はできないわ」
「存じております。何の問題もありません」
女神の紹介元は信頼できる常連だ。取りっぱぐれはないだろうし、俺がこれから依頼される内容を通報されることもない。この仕事は信用で成り立っている。
俺は胸元からスマートフォンを取り出した。
「では、事前に頂いた依頼の確認です。とあるものを盗み出してほしいとのことですね」
「ええ。正確には取り替えてほしいのだけれど」
彼女は、サブバッグの手提げから、鬱金色の風呂敷を取り出し、テーブルに置いた。広げると、そこには赤銅色の円盤状の物が輝いている。のぞき込むと、そこに掘られている生き物と目があった。
ヘレナは言う。
「このウサギのレリーフを、むぎほし大学の学長室にある同じ物と交換してほしいの」
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九月上旬。まだまだ熱を放つ件坂を、人の並びに沿って進んでいく。俺の前も後ろも様々な形の制服で溢れていた。
今日は大学の入試日だ。 不安な表情で歩みを進める若者たちが歩いている。
何でこんな日に『仕事』をやろうと思ったかというと、依頼人の提案ないしご希望だ。
今日は学長室にその住人はいないらしい。
かつてセンター試験と一般入試を経験した自分(惨敗だった結果、色々あってこんな仕事をしている)には無縁なこの推薦入試。内申点に出席日数、部活の結果と面接で選抜されるらしく、不真面目の代表格だった自分には分からない世界だ。
しかし、確かに各校から推薦されるに相応しい『お行儀の良い子』たちばかりが歩いているのは分かる。
その代表格は目の前を歩いている彼女だろうか。恐らく校則に合わせた膝丈のセーラー服が踊る。緊張と暑さでうつむく受験生が多い中、このショートカットの女子高校生は随分と背筋が伸びていた。背中で存在を主張するリュックサックには、『M』の文字が縫い付けられた手作りお守りがぶらぶらと揺れている。
片手に持つスマートフォンに、彼女は呼びかけていた。
「うん。人に沿って歩けば大丈夫。……お母さん、だから大丈夫だから。終わった後連絡するよ」
真後ろに位置するため顔立ちはわからないが、汗が光るうなじは白く輝いている。勝手に抱いたイメージの通りにはきはきと喋り、彼女はスマートフォンを持つ手をぶらりと下ろした。
その姿を何となく見つめながら、俺はむぎほし大学へと向かった。
人混みに紛れて門を抜け、その後は受験生達と違う方向へと進む。
途中の植え込みにはウサギを持つ創始者の像が見える。
俺はシンプルなTシャツにパンツ、リュックサックとトートバッグという実に『大学生らしい』格好でふらふらとダラダラと歩くことにする。実際のところは卒業して久しい年齢だが、実に特徴のない平坦な顔のため、若くなることも老いることも容易だ。
こういう仕事には非常にありがたい外見ではある。
試験中の大学は厳重な警備だった。
しかし、女神の言うとおり、それは狭くて深い厳しさだった。試験とは関係のない場所に関しての警備は、あくまで想定だが通常よりも薄いと思われる。
そういうことで、結論から言うと、仕事は楽勝だった。
清掃員の格好をして、コピーしたカードキー(下調べの際に警備員室から一時的に拝借して情報を抜き取った)を使うことにしていたが、日中は特に目立ったセキュリティサービスにも入っていないのだろうか。
事務棟に入り、そのままエレベーターの上から二番目に位置する学長室へ何の苦もなく入ることが出来た。
レリーフに何かアラートでも仕込まれていると思い、充分な準備はしていたが、そんなこともない。
そうして、あっさりとウサギのレリーフを手持ちの物と交換することができた。
しかし、これだけであったらわざわざ俺を雇う必要がないか?
依頼元の確かさと、なかなかの額の金がもらえるため深くは聞かなかったが、俺はこの依頼に首を傾げていた。
後日、ターコイスブルーのレースで二の腕を包むアフロディーテは、事務所のソファで俺の結果報告を聞く。そして、妖艶な笑みを浮かべる。
「ありがとう。ヘリウムガスの時は不安だったけど、確かに腕は良いようね。だったら、追加でお願い良いかしら?」
「仰せのままに」
十月の社会人入試の日、こちらでも学長室にかかっているウサギの絵画を取り替えろと言われ、実施した。カードキーは念の為更新しておいたが、やはり警備の薄い、恐ろしく簡単な仕事だった。
レリーフが取り替えられたことにも気付いていないのだろうか。
もしかして、これは俺の預かり知らぬ何かの真実が隠されているのではないだろうか。
そうは思うが、金を貰っている以上、仕事は完遂させなくてはいけない。
俺はそうしてまた依頼を受ける。
「最後の依頼。入学式の前日よ。学長はいないの」
「左様ですか」
俺は言われたとおりに仕事を成功させた。いくつか回り道し、姿を替えた後で、事務所に戻る。
ブラックのコーヒーを一口のんだ彼女は笑みを浮かべた。カップソーサーに彼女の唇の艶が移る。
「今までありがとう。完璧よ」
少年の頃、漫画で見て憧れた、謎を持つ麗しき依頼人。
依頼人には手を出さないのがポリシーだが、そのままその手を伸ばしたら、そのまま胸の中にいることを受け入れてくれそうな表情でこちらを見つめる美しき女神。
俺も微笑んだ。
「随分と不思議な依頼でした」
「あら、気になるかしら?」
「そうですね」
くすくすと、口元のみで彼女は笑う。
「明日楽しいことがあるの。いいわよ? 見に行っても」
「なかなか魅力的なお誘いではありますね」
アフロディーテが誘う真実への扉。それを拒むことができる者は果たしてどれほどいるのだろうか。
そうして、俺は社会人入学生のふりをして、むぎほし大学入学式に出向くのだった。
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