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あの日は、雨が降っていた。
今のように、感染病予防の為に病院の面会が制限されていなかった時代だ。
「女の子か……じゃあ、名前は澪だな……なんだか漢字だと堅っ苦しいから、平仮名でもいいかもな」
警察官の夫は、生まれたばかりの娘を抱いて、柔らかく微笑んだ。
「みお、か……かわいい名前……」
いきみと痛みで意識が霞んでいる頭で、そうぼんやりと呟いた。
澪、という漢字は水辺を連想させる。
淡い水色の空に馴染む、青い水平線。
海に流れ込む、留まることのない河川。
河川に、ざあざあと注がれる雨水。
水は、いつも私の身近にあって、心を癒やし潤してくれる存在だった。
おぎゃあ、と元気よく生まれて来てくれた娘に、私は願う。
どうか、周りの人達の心を潤す水辺のように……優しくあたたかい子に育って欲しい。
月日は流れ。
いつものように、夫が好きだったノンアルコールのビールを仏壇にお供えした。
漂うお線香は、珈琲の香りのものだ。
私はじっと手を合わせた後、仏壇の夫の写真を見つめた。
「明日は、みおの入学式よ。むぎほし大学の法学部……あなたが叶えられなかった大学進学の夢を、あの娘が叶えたのよ……やるわよね、ほんと根性あるわ」
私は自分の分の缶ビールのプルタブに指をかけた。
よく冷やしておいた、ちょっと値の張る缶ビールだ。
ぷしゅっ……
『酒の飲めない俺からしたら、飲める君が少し羨ましいけど……飲みすぎるなよ』
付き合い始めたばかりの頃から、たまに夫から言われていた言葉が頭によぎる。
「今日は特別! だって、明日からいよいよ、みおの新しいステージが始まるんだもの……そのお祝いだから!」
乾杯、とノンアルコールビールの缶に冷えた私の缶ビールを合わせた。
『まゆ、ありがとう』
……ああ、何年ぶりだろう……
あなたから『お母さん』じゃなくて、名前で呼ばれるなんて。
『ありがとうなんて……頑張ったのは、みお自身よ。私は、あの娘に発破かけただけだもの』
ザザッ……という波音が、繰り返し聞こえてくる。
穏やかな笑みを浮かべて私をみつめる夫の足元で、ぼんやりと光る淡いブルー。
それは、きっと浜辺に打ち寄せる波の色だ。
『うん、みおも頑張った……俺は、なんの準備もできないままこっちに来てしまったから、ちゃんとまゆに言いたかったんだ……ありがとうって』
ゆっくりとした足取りで、警察官の制服を着た夫が私に近づいてくる。
これは夢だ。夢なんだ。
きっとビールを飲みすぎて、潰れて寝ちゃったんだ。そうに違いない。
でも。それでも。
甘いようでいて苦しい……よくわからない自分自身の感情に、胸が押しつぶされそうだった。
『俺はこれからも、君とみおを見守っているよ』
『……うん』
あたたかい。
急にいなくなってしまったあなたに、私も言えなかったのよ。
「ありがとう」
「あれ、お母さん起きてたの? こんなとこでうたた寝なんかしたら風邪ひくよ! ちゃんとお布団で寝なよ!」
あれ……みお?……なんだ、やっぱり夢だったんだ……
そっか、私がさっきあったかいって感じたのは、夫のぬくもりじゃなくて、みおが毛布をかけてくれたからだったんだな……
「うん、ありがとう。ちゃんと布団で寝るから大丈夫。おやすみ、みお」
私はみおに気づかれないように、こっそり目尻の雫をぬぐった。
「うん、おやすみ」
やれやれといったみおの視線が、仏壇で微笑む夫の写真のところで止まった。
「……気のせいかな、お父さんの表情、いつもより優しいような気がする」
「えっ?」
……本当だ。
『これからも、君とみおを見守っているよ』
……そんなことを言いたげな、表情に見える。
うん。これからもよろしくね、隆弘さん。
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