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作者: 鹿嶋 雲丹





第2話 母

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 あの日は、雨が降っていた。
 今のように、感染病予防の為に病院の面会が制限されていなかった時代だ。
「女の子か……じゃあ、名前は(みお)だな……なんだか漢字だと堅っ苦しいから、平仮名でもいいかもな」
 警察官の夫は、生まれたばかりの娘を抱いて、柔らかく微笑んだ。
「みお、か……かわいい名前……」
 いきみと痛みで意識が霞んでいる頭で、そうぼんやりと呟いた。
 澪、という漢字は水辺を連想させる。
 淡い水色の空に馴染む、青い水平線。
 海に流れ込む、留まることのない河川。
 河川に、ざあざあと注がれる雨水。
 水は、いつも私の身近にあって、心を癒やし潤してくれる存在だった。
 おぎゃあ、と元気よく生まれて来てくれた娘に、私は願う。
 どうか、周りの人達の心を潤す水辺のように……優しくあたたかい子に育って欲しい。

 月日は流れ。
 いつものように、夫が好きだったノンアルコールのビールを仏壇にお供えした。
 漂うお線香は、珈琲の香りのものだ。
 私はじっと手を合わせた後、仏壇の夫の写真を見つめた。
「明日は、みおの入学式よ。むぎほし大学の法学部……あなたが叶えられなかった大学進学の夢を、あの娘が叶えたのよ……やるわよね、ほんと根性あるわ」
 私は自分の分の缶ビールのプルタブに指をかけた。
 よく冷やしておいた、ちょっと値の張る缶ビールだ。
 ぷしゅっ……

『酒の飲めない俺からしたら、飲める君が少し羨ましいけど……飲みすぎるなよ』

 付き合い始めたばかりの頃から、たまに夫から言われていた言葉が頭によぎる。
「今日は特別! だって、明日からいよいよ、みおの新しいステージが始まるんだもの……そのお祝いだから!」
 乾杯、とノンアルコールビールの缶に冷えた私の缶ビールを合わせた。

『まゆ、ありがとう』
 ……ああ、何年ぶりだろう……
 あなたから『お母さん』じゃなくて、名前で呼ばれるなんて。
『ありがとうなんて……頑張ったのは、みお自身よ。私は、あの娘に発破かけただけだもの』
 ザザッ……という波音が、繰り返し聞こえてくる。
 穏やかな笑みを浮かべて私をみつめる夫の足元で、ぼんやりと光る淡いブルー。
 それは、きっと浜辺に打ち寄せる波の色だ。
『うん、みおも頑張った……俺は、なんの準備もできないままこっちに来てしまったから、ちゃんとまゆに言いたかったんだ……ありがとうって』
 ゆっくりとした足取りで、警察官の制服を着た夫が私に近づいてくる。
 これは夢だ。夢なんだ。
 きっとビールを飲みすぎて、潰れて寝ちゃったんだ。そうに違いない。
 でも。それでも。
 甘いようでいて苦しい……よくわからない自分自身の感情に、胸が押しつぶされそうだった。
『俺はこれからも、君とみおを見守っているよ』
『……うん』
 あたたかい。
 急にいなくなってしまったあなたに、私も言えなかったのよ。

「ありがとう」
「あれ、お母さん起きてたの? こんなとこでうたた寝なんかしたら風邪ひくよ! ちゃんとお布団で寝なよ!」
 あれ……みお?……なんだ、やっぱり夢だったんだ……
 そっか、私がさっきあったかいって感じたのは、夫のぬくもりじゃなくて、みおが毛布をかけてくれたからだったんだな……
「うん、ありがとう。ちゃんと布団で寝るから大丈夫。おやすみ、みお」
 私はみおに気づかれないように、こっそり目尻の雫をぬぐった。
「うん、おやすみ」
 やれやれといったみおの視線が、仏壇で微笑む夫の写真のところで止まった。
「……気のせいかな、お父さんの表情(かお)、いつもより優しいような気がする」
「えっ?」
 ……本当だ。
『これからも、君とみおを見守っているよ』
 ……そんなことを言いたげな、表情(かお)に見える。
 うん。これからもよろしくね、隆弘さん。





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