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作者: 脆衣はがね





第2章

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 二十四歳OLの一人暮らしの家にブルーレイなんてあるわけもなく、私はスマホの小さな画面でその番組を観ていた。
 佐治恭介の顔がアップで映り、観覧の女性たちから歓声が溢れる。佐治恭介は一瞬だけその声量に驚いたように眉をぴくりと動かした後、少し照れ臭そうな顔で会釈をした。
「なんでも今日は佐治くんの初恋の話まで聞けちゃうと言うことで!」
 小さい頃からテレビで毎日のように観ていたタレントが、今日も衰えなんて一切感じさせない声で番組を進行する。やだーっと大きな声を出して、女性タレントが両手で顔を覆った。
「黛さん、佐治くんの大ファンなんでしょ?」
「そうですよ、この前主演をやってたドラマを見てすっかりさじきょーファンになっちゃって! 初恋の話なんて最後まで聞いてられるかどうか!」
 白い歯を覗かせて、けらけらと佐治恭介は笑う。
 ピロンッと音が鳴り、スマホの画面の上部に新着のメッセージを知らせるバナーが現れた。
『紗耶ー!いい加減あの番組見てくれた?』
 動画を一度停止して、LINEへと画面を切り替えた。
『今観てるよ』
『ほんとに!? 私出てきた??』
『3分くらいしか観てないからまだ』
『私が出るの、35分くらいからだよ〜』
 そのメッセージに、了解とスタンプを返して、既読がつくよりも先にさっきまで開いていたアプリに戻った。
 再生ボタンを押すと、再びスマホから賑やかな笑い声が流れてくる。一度シークバーを三十五分のところにまで持っていこうとして、止めた。司会者の合図で佐治恭介のこれまでをまとめた大きなパネルが出てくる。
「まず、佐治くんの生まれは神奈川県ということで」
 きゅっと細くなる目元に、血色のいい唇。そこから覗く綺麗に並んだ白い歯。芸能人だなとぼんやりと思う。芸能人。私と彼の間には計るまでもなく長い距離があって、見上げるのも億劫になるほどの高い壁が聳え立っている。
 別世界。断絶。隔離。私たちの間に細くも確かな交流があったことを、きっと彼はもう覚えていない。

 中学二・三年の時に同じクラスだった佐治くんのことを、私はあまり知らない。
 その時の彼は佐治恭介ではなく、佐治香介だった。四月の頭、各教科の初回授業で先生が一人ひとりの名前を読み上げる時に、いつだって「さじこうすけ」と呼ばれるのを「きょうすけです」と訂正していたことがやけに記憶に残っている。さじきょーなんて呼ばれているところは一度も耳にしたことはなく、先生を含めたみんなから「きょうすけ」と呼ばれていた。クラスの中心人物というわけではなかったけれど、女子でもなんの躊躇いもなく下の名前で呼べてしまう、人懐っこさのようなものを纏っている人だった。
「私さ、きょうすけのこと好きかも」
 玲奈がそう私に打ち明けてくれたのは、二年生の五月下旬。体育祭が終わって少し経ってからのことだった。
 まだ今のクラスが始まって二ヶ月も経っていない。体育祭でクラス団体の競技があったとはいえど、記憶に残っているのは応援団やら体育祭の実行委員ばかりで、きょうすけと言われても彼がどんな人なのかがあまりパッと頭に浮かんでこなかった。
「きょうすけって好きな人とかいるのかな」
 玲奈の視線を辿った先で、何人かの男子がサッカーをしているのが見えた。この距離からだと、私には誰が誰だかわからない。
「どうなんだろうね」
 そう返すと、玲奈はやけに湿度のある声色で「いないといいなあ」と呟いた。
 佐治くんと初めて会話をするよりもずっと前に玲奈が佐治くんのことを好きだということを知ったから、私が彼をきょうすけと呼んだことは一度もない。

 私にとって佐治くんは、いつだって親友の好きな子だった。玲奈が「外部活なのにすごく綺麗な黒髪だよね」と言っていたから彼の真っ黒な髪を覚えていて、「都内の高校目指してるんだって」と教えてくれたから私立を受験することを知っていた。
「きょうすけの『香』って字は、おじいちゃんが将棋の駒からとってつけたんだって。真っ直ぐな子に育つようにって」
 そう教えてもらった時は、もしかしたら佐治くんも玲奈のことが好きなんじゃないかと思った。自分の名前にどんな想いが込められているかを世間話として話すほど佐治くんは薄っぺらい人間ではない気がしたし、他愛もない会話の一つとして消化できるほどありふれた由来でもないように感じた。
 その予想が当たっていたと確信をしたのは、三年の秋の修学旅行だった。二泊三日での京都・奈良への旅行。一日目はクラスごとに奈良を回って、二日目は各班に分かれて京都を自由に巡る。先生が私たちに丸投げをした班決めで、私は玲奈と、佐治くんを含めた男子三人組と同じ班になった。玲奈はいつだって明るくて誰にでも優しい。だから、みんな当たり前のように玲奈が佐治くんと同じ班になれるように流れを作ってくれていた。もちろん、玲奈が佐治くんを好きなことだって女子の中では周知の事実だった。
「あ! あそこにスタバあるよ!」
 二日目の朝、二条城へと向かう途中で先頭を歩いていた玲奈が不意に立ち止まり、前の方を指差した。その先を少し目を細めながら辿ると、よく目にする白と緑のものではなく、木の板に焼き印をつけたような色合いの看板が見えた。
「飲んじゃおうかな、新作気になってたんだよね」
 玲奈はきらきらと目を輝かせながらスターバックスへと駆けていく。いつになく落ち着きがない。きっと佐治くんと同じ班ということに緊張しているのだろう。
「みんなも飲む? 今回の新作、さつまいもらしいよ」
 私たち四人が追いつくと、玲奈はくるりとこちらを振り返って小首を傾げた。いつもは校則で耳の下で一つに結んでいる髪が、今日は二つにゆるく三つ編みで結われている。
「じゃあ俺も何か飲もうかな」
 そう言ったのは佐治くんだった。見えたのは横顔だけだったけれど、黒髪から除く右耳がやけに赤く染まっている。佐治くんも玲奈のことが好きなんだ。そう確信した。一気にその場に緊張感が走り、玲奈が助けを求めるような眼差しを私に向ける。
「私はいいや、そんなお金持ってきてないし」
 慌ててそう言うと、高村くんと飯塚くんも同じように少し慌ただしく「俺も」と賛同した。二人の後ろ姿を見ながら、飯塚くんが「いい仕事をしたのではないでしょうか」とまじめ腐った口調で言った。
「いい仕事って?」
 わかった上で敢えてそう尋ねると、飯塚くんは「まあね」と意味ありげに笑った。
 十分ほど待って店内から出てきた二人は、どちらも顔が赤く染まっていた。
「ねえ聞いてよ、きょうすけったらスタバ来たことないんだって。期間限定にした方がいいって言ったのに、バニラクリームフラペチーノにしてるの。これはいつでも飲めるよって言ったのに」
 私の顔を見た途端、堰を切ったように玲奈が喋りだす。今までに見たことがないくらい饒舌な彼女を見て、二人が店内でどれだけ気を張っていたかが手に取るようにわかった。
「だって玲奈がおすすめだよって言うから」
 真っ白なフラペチーノを手にしながら、佐治くんは照れ臭そうに笑う。
 道の端に寄って、二人がフラペチーノを飲み切るのを待った。各班に一人のカメラ係として写ルンですを持たされていた私は、貴重な二十七枚のうちの一枚を二人がフラペチーノを飲む姿に使った。いくら「こっち見てよ」と言っても頑なに二人はこちらを見なかったけれど。

 五年坂で、お土産を見て帰ろうと言う話になった。修学旅行生は他にもたくさんいるようで、どのお店もセーラー服や学ランを着た生徒で溢れかえっていた。
「三十分後にさっきの場所に集合ね」
 あまりの混み具合に五人全員で回ることを早々に諦めた玲奈が、さくっと待ち合わせ時間と場所を決める。彼女のこの性格のおかげで、最初のスターバックスでのロスが嘘のように、私たちは計画通りに予定を進めていた。
 一袋二百五十円の生八つ橋を三つ手に取る。京都らしい和柄のハンカチなんかも自分用にほしいなと思っていたけれど、あまりにも店内が混んでいて奥に進めそうにない。まずはこれだけを買って他の店を回ろうとレジに向かうと、神妙な面持ちでお土産を見ている佐治くんを見つけた。
「佐治くん」
 パッとこちらを振り返った佐治くんは、それが私だとわかるとふわっと表情を和らげた。
「どうしたの、そんな顔して」
 左手にシュガー味のラスク、右手に抹茶のラングドシャを持ったまま、彼は困ったように首を捻った。
「おじいちゃんへのお土産に両方買って行きたいんだけど、お金が微妙に足りなくてさ」
 清水寺までの道中で佐治くんは、昨日の奈良の時点でだいぶお金を使ってしまったと言っていた。
「おじいちゃん、ずっと京都に行きたいって言ってたんだよね。でも体も良くないから結局行けてなくて。せめてお土産をって思ったんだけど」
 そう言って佐治くんは再び視線を候補の二つに戻した。
 香介という名前の由来を思い出す。険しい面持ちで交互にお土産を見つめる彼の横顔を見ながら、まさしく名前の通りだと思った。玲奈は佐治くんのこういうところを好きになったのだろうか。
「お金、貸そうか」
 気づいたらそう言葉を発していた。え、とこちらを振り返った佐治くんに「もちろん後で返してもらうけど」と付け加えると、佐治くんは二回大きく頭を縦に振った。
「それはもちろん。でも、いいの?」
 今日までに先生たちからは何度も、お金の貸し借りは絶対にしないように言われていた。だからもちろん罪悪感はあるけれど、彼の真っすぐなところを見て助けてあげたいと思ってしまったのだから仕方がない。それに彼が今ここでどちらか一つのお土産を諦めて、後で「あの時フラペチーノを買わなければ良かった」なんて思うことだけは絶対に嫌だった。
「うん」
私が頷くと、佐治くんはもう一度「本当に?」と尋ねてくる。
「あんまりしつこいと気が変わるかも」
「え、それは困る。貸してほしいです、ほんっとうにありがとう」
 あまりの慌てように少し笑ってしまう。しっかり話すのが初めてとは思えないくらい、佐治くんとは何の気も張らずに会話ができる。今なら、私だってなんてことないふりをして「きょうすけ」と呼べるんじゃないかと思ってしまうくらいに。
「いくら足りないの?」
「えっと、二百円くらい」
 財布の中を見ると、生憎小銭は一円玉が数枚、五円玉と五百円玉が一枚ずつしか入っていなかった。五百円玉を取り出して、佐治くんに渡した。
「いいの? これがなくなったら紗耶が困ったりしない?」
「うん、大丈夫。けっこうお金残ってるから」
 これしか買わないしね、と手に持っていた生八つ橋を見せると、彼は「それ安いし美味しくていいよね」と笑った。
「明日はちょっと無理なんだけど、明後日とか、絶対に学校戻ってから返すから」
「いいよ、いつでも」
 そんな会話をしながら、二人でレジへと続く長蛇の列の最後尾に並んだ。さくさくと進む会話が心地良い。あと一分、佐治くんに順番が回ってくるのが遅ければ、私は「玲奈のことどう思ってるの?」なんて聞けたかもしれない。
 この瞬間以降、佐治くんはまた私の中で親友の好きな人に戻り、それはきっと彼にとっても同じで、この日貸したお金はお互いにタイミングを逃したまま、結局最後まで返されることはなかった。

「次は中学二年生なんですが、お! ここで気になる文字が!」
 司会者の一声で、グンとパネルの一部分がズームされる。ピンク色の艶の入った字体で書かれた「初恋」の文字。キャーッという悲鳴が一際大きく響く。
「ここでついに、佐治くんに初恋!」
「うわー、なんかそうやってちゃんと言われると照れますね」
 佐治恭介は少し顔を赤らめて、それを隠すように右手で軽く頬を擦った。
「相手は? 同じ学校の子?」
「そうです。二年と三年の時に同じクラスだった子で」
「どういうところが好きだったの?」
 まじかーと言いながら、さっきよりも一段と赤い顔をした佐治恭介が大きく体を反らせる。それに引っ張られるように、くるりと椅子が回転して佐治恭介がカメラに背中を見せる。黒髪からちらりと見える赤い耳が、あの頃によく似ているはずなのに、それがあの日一緒に京都の街並みを歩いた彼と同一人物だとどうしても思うことができない。
「彼女との一番の思い出は?」
「修学旅行かな。同じ班だったんですけど、そこで一緒にフラペチーノを飲んで。京都まで行ってフラペチーノって、て今なら思うんですけどそれが当時は幸せでしかなくて。その時に飲んだバニラクリームフラペチーノが青春の記憶すぎて、俺それから一回も飲めてないんですよ」
 司会者に細かく質問をされ、佐治恭介は顔を覆ったり額の汗を拭ったりしながら、その一つひとつに丁寧に答えていく。
「で、告白とかは?」
「しませんでした。というか、できなかったですね。もう当時はその子の横を歩くだけでも心臓がバクバクで、会話ができたらそれから三日間くらい足取りが軽くなるような、そんな可愛い男子中学生だったんで」
 なんか暑くないですかここ、と胸元のシャツを掴んでパタパタと風を起こしながら、佐治恭介は真っ赤になった顔で照れ臭そうに笑っている。
「今でもその子とは会ったりしてるの?」
「いや、ぜんぜん。中学校の卒業式が最後かな。連絡先も持ってないし」
「なるほどね。じゃあ今でも、会いたいなとかは思ったりする?」
「それは、まあたまには。って、え、なんですか」
 急ににやにやと笑い出した司会者に、佐治恭介がわかりやすく慌てる。画面をタップすると、ちょうど今が玲奈の言っていた三十五分あたりだった。
「実はね、その佐治くんの初恋の相手がなんとスタジオに来てくれました! では、どうぞ!」
 司会者の声でスタジオの右側にあった深い赤のカーテンが捲れた。淡い黄色のブラウスに黒いパンツを履いた玲奈が、にこりと笑みを浮かべながら立っている。照明を浴び、真っ直ぐに佐治恭介の元に歩いていく姿はあまりにも大人っぽい。つい画面の右端を二回タップして十秒ほど飛ばしてしまった。
 再び動き出した画面で、佐治恭介と玲奈が向き合っている。
「お久しぶりです」
 そういう佐治恭介の声は震えていて、「久しぶり」と返す玲奈の方が堂々としているように見えた。
「レナさんは当時、佐治くんのことをどう思ってたんですか?」
「好きでした」
 司会者からの質問に玲奈は迷わずに、そう言葉を発した。十年の時を経てようやく玲奈が口にしたはずのその言葉は、月日の重みを感じさせないほどやけにさっぱりとしている気がした。
「修学旅行の時に、一緒にフラペチーノを飲んだそうなんだけど」
「もちろん覚えてます」
 司会者が間に入る形で、当時の二人の想いが答え合わせされていく。お互いがずっとお互いのことが好きだった。でもどちらも勇気が出なくて、告白はできなかった。玲奈は高校で新たに好きな人ができたのをきっかけに、佐治恭介は芸能界にデビューして忙しさでその感情が紛れたことでそれぞれの恋に終止符を打った。
「ちなみに今レナさん、お付き合いされてる方や旦那さんがいたりは……?」
 そう司会者に聞かれた玲奈は、笑顔を崩すことなく「はい、結婚しています」と答える。佐治恭介がその場でうずくまり、スタジオには笑い声が溢れる。
「大丈夫か、佐治くん!」
「うわー、もう今日絶対この収録の帰りにバニラクリームフラペチーノ飲みます!」
 佐治恭介がそう叫び、司会者の愉快な笑い声がそれを覆うように響いた後で、画面が切り替わり、広告が流れてきた。アプリを閉じる。それを見ていたかのように玲奈から何やらメッセージが届いたけれど、文面は一切見ずに画面を閉じた。
 時刻はすでに二十二時を迎えていた。明日も六時半に起きて、一時間満員電車に揺らされて、八時間働く。どこにでもいるありふれたOLの日常だ。私のやっていることは確かに誰かの支えにはなっているのだろうけれど、それをやるのは私じゃなくたっていい。
 帰宅後すぐに取り込んだ洗濯物の山から、フェイスタオルとパジャマ、下着類を引っ張り出す。すっかり使い込んで、レースの部分が毛玉のようになった下着を、私はあとどれくらい身につけ続けるのだろう。
 佐治くんのことを好きだったわけではない。佐治恭介にだってさほど興味はない。かつての想い人としてテレビに出た玲奈に嫉妬しているわけでもない。ただ、どうしても引っかかる。しこりのように何かが胸の奥の方に残っている。
 例えばあの日、私が貸したお金がおじいちゃんへのお土産ではなく玲奈と飲むフラペチーノに遣われたのなら、彼は私のことを覚えてくれていたのだろうか。テレビで玲奈との思い出を語る中で、実はこんな素敵な時間の裏には当時のクラスメイトからの助けがあったからで、と私の存在に触れてくれたのだろうか。
 バニラクリームフラペチーノに封印された甘酸っぱい記憶なんて、私にはない。





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