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『#さじきょー生誕祭』
夕飯の支度をひと通り終えても夫からの連絡はない。午後八時。スマートフォンで何気なくXに目を通していると、そんなハッシュタグを見つけた。百四十文字以内で綴られるSNSのおすすめ投稿だった。生誕祭。身近なようで親しみのない単語に興味を引かれ、文字をタップするとようやく意味を理解した。
佐治恭介、愛称さじきょー。最近テレビでよく見るようになった二十代半ばの若手俳優だ。リビングで点けっ放しになっているグルメ番組でもタイミングよく佐治恭介の姿が映し出された。シンプルな服装や黒髪でも地味になりすぎないのは、顔が整っているからだろう。番組内で出てきた料理を口に運ぶ姿が上品だった。箸の持ち方も綺麗だ。しばらくテレビを見入っていると、エプロンのポケットに入れていたスマホが振動音を鳴らした。
『夕飯いらなくなった』
夫からのメッセージだった。連絡が遅いのはいつもの事だ。三人分の夕食を作り終えた私に謝罪がない事も。
小さなストレスを発散する為にもう一度Xを眺めた私は、ソファーから立ち上がって気持ちを切り替える。廊下に出て、階段下から二階に向かって声をあげた。
「夏樹、ご飯よ!」
一人息子の夏樹は、学校から帰宅後のほとんどを自室で過ごしている。中学二年生、何もかもを母親と共有する年齢ではない。
背中を丸めた夏樹が、のっそりとリビングに入ってきた。
「そのスウェット、もうパツパツじゃないの。捨てなさいって言ったでしょ」
「でもまだ着れるし」
ボソボソと話す夏樹の声がもどかしい。昔は溌剌と話す子だったのに。
二人で向かい合って食事をとる。会話はほとんどない。リビングで流れているテレビの音が、沈黙をかき消してくれる。
食事の途中で、テーブルにあったスマホが通知音を鳴らした。すかさず夏樹が返信をする。
「食事中にスマホを弄らないでって言ったでしょ」
スマホ画面をタップする指の音が耳に障った。スマホを置いた夏樹は、私が数十分かけて作った料理を勢いよく食べ進めていく。グルメ番組のエンディングに映った佐治君とは、正反対だ。
Xの仕様なのか、その日以来、タイムラインには佐治恭介に関する投稿が並ぶようになった。
『あのドラマ、さじきょーも出てたんだね』
『恭介の今の髪型、めっちゃ好みすぎて』
『今年もイベントあるのかな? #さじきょー生誕祭』
顔の見えない人々の声。特にファン達の投稿は期待や希望に溢れているようで、これまで負の感情で埋め尽くされていた私のタイムラインに光が届いたようだった。そして、公式アカウントからの情報は非常に的確だ。
『今夜ライブ配信予定です! よろしくお願いします!』
ライブ配信? あまり耳馴染みのない単語だった。どうやら、インスタグラム内で行われるらしい。私はそのSNSを知っていた。学生時代の友人に誘われてアカウントを作ったものの、数年開いていないアプリだ。
四角いアイコンが並んだスマホの画面から、インスタグラムを立ち上げてみる。途端に表示された数々の写真は、フォローしているアカウント、つまり友人達のものだった。
成長した子供や旅行先の絶景、そしてお洒落な室内。スクロールしていくと、あらゆる写真が流れていく。日常のほんの一部を切り取っただけの一枚の積み重ねが、平坦な日々を送る私に重くのしかかる。
リビングで点けっ放しのテレビは朝の情報番組を終え、通販番組が始まっていた。午前十一時半。そろそろ小腹がすいてきたから昨日の夕食の残り物を食べて、夕方には買い物に行かなければならない。梅雨に入ったばかりの窓の外は、昼間だというのにどんよりと薄暗い。
「みんなコメントありがとう」
縦長の画面上で佐治君が微笑んだ。その上をすべるように多くのコメント達が流れていく。
「『低気圧大丈夫ですか』、うん、俺は大丈夫。みんなは大丈夫? えーっと、『今夜何食べましたか』、夜ご飯はまだなんだー」
右上に表示されている四桁の数字が閲覧者数と気付いたのは、つい先ほどだった。佐治恭介のインスタライブ。夕食の片付けが一段落ついた頃に開いたインスタグラムで、フォローしたばかりの佐治恭介のライブ配信が始まっていたのだ。
「『仕事が辛いです慰めて』、お仕事お疲れ様! 頑張ってて偉いよ、その頑張りは絶対に無駄にならないよ!」
佐治君の整った顔が画面に近付き、コメントの流れが速くなる。きょーすけ優しい、うん頑張る~、恭ちゃん大好き――、さまざまな文字が誰かの心を代弁するように画面に映り、佐治君がそれを拾う。リアルタイムという距離感で。
「――何してるんだ?」
初めて体験するインスタライブに感動を覚えていたのに、一気に現実に引き戻された。空いたグラスを持った夫がキッチンに入って来たのだ。
「別に何も」
「何か聞こえたけど」
「ちょっと動画を見ていただけ」
「ふーん。風呂、入ってくる」
つい先ほどまでテレビ相手に晩酌していた夫は、のたのたと洗面所に消えていった。シンクにはグラスが、食卓にはお皿が残っている。それらを片付けるのは私の役目だ。
「そろそろ時間になるね。今夜も観てくれてありがとう」
画面の向こうで佐治君が笑う。コメントが歓喜と共に呼応していく。
「みんな、おやすみなさい!」
消費されるだけの料理、会話のない食事、自室にこもる夏樹、いつまでも晩酌を終えない夫。小さな不満が、佐治君の笑顔によって浄化された。
頑張りは絶対に無駄にならない。二十歳近く年下の若者の言葉に突き動かされるように、残りのものを片付ける。毎日磨いているシンクは、今日も綺麗だ。
『佐治恭介ドラマツアーに行ってきたよ』
Xのタイムラインは、今日もキラキラと輝いている。
『佐治くんが足を踏み入れた撮影現場です! #さじきょー』
フォローしているアカウントのほとんどが佐治恭介のファンになった事で、ますます情報が手に入りやすくなった。
『佐治くんが花火を見ていた縁側だよ! 特別に入らせてもらいました』
なかでも、『ナツメグ』という名前のアカウントは、熱狂的なファンのようだった。
ひと昔前までには考えられなかった世界だ。スマホひとつであらゆる情報を手に入れられる。佐治恭介の言葉、佐治恭介のファンの動向、そして近づいてくる生誕祭。
『今年も盛大にお祝いするために準備中。#さじきょー生誕祭』
『去年はこんな神棚を作りました。#さじきょー生誕祭』
佐治恭介の誕生日である八月に向けて、ファン達はこぞって準備をし、画像と共に報告してきた。タイムラインがカラフルに彩られていく。
「あら、夏樹君のお母さん?」
買い物をしようとスーパーでかごを手に取った時だった。隙のない化粧とファッションを身に付けた、少し年上に見える女性が、にこやかに微笑んでいる。
「こんにちは。お久しぶりねぇ」
「……こんにちは。ご無沙汰しています」
夏樹君のお母さん、と呼ばれたという事は、夏樹の同級生の母親だろうか。いつからか私は、家族の付属品としての呼ばれ方をするようになっていた。そこに私個人の名前はない。
スーパーの入口近くだというのに、その女性はまくしたてるように色々話し始めた。自分自身の近況、近所付き合いの愚痴、夏樹の通う中学校の噂話。彼女の履くロングスカートが揺れるたびに自動ドアが反応する。私達を邪魔そうに避けていく買い物客の視線が痛い。
「そういえば今日はお仕事お休み?」
ひとしきりの話題の後、彼女が訊ねた。ドアが開くたびに流れ込む湿った空気が、野菜売場の匂いに混ざり込んでいく。私はかごを持ち直した。
「今はしていないんです」
答えながら、「今は」って何だろうって自嘲したくなった。寿退職をしてから仕事なんてしていないのに。
女性は追い打ちをかけるように、私に笑う。
「そういえば、一昨日、夏樹君が女の子と歩いているのを見かけたわよ。やるわねぇ」
店内で流れている安っぽいテーマソングが、フィルターをかけられたようにがさがさと雑音に混じった。
『「東京デイズ」のエキストラに当たりました~! #さじきょー』
『舞台「無光の月」の円盤、高値になってて手を出せね~涙 今となってはプレミアだよ #さじきょー』
『昨年のイベント最高だったからアップする! #さじきょー生誕祭』
梅雨はまだ明けない。まだ夕方だというのに、雨空はずいぶんと暗い。
しかし、電気を付けなくてもスマホは光をくれる。Xは永久的にスクロールされ、佐治恭介の情報を、ファン達の声を届けてくれる。
ガチャリ、と玄関でドアの閉まる音が響き、私はソファーから立ち上がってリビングを出た。
「おかえりなさい」
脱いだスニーカーを揃えていた夏樹は、私を一瞥しただけで階段を上がっていこうとする。制服姿の背中がやけに大人びて見えて、慌てて呼び止めた。
「待ちなさい、夏樹。ただいまの挨拶は?」
暗い階段の三段目に足を踏みかけた夏樹が、ゆっくりと私を見下ろした。普段より影の多い夏樹の顔が大人の骨格になっていた。「ただいま」と掠れた声でつぶやいた夏樹は、今度こそ二階へと静かに消えていく。ドアの音が階下まで落ちてきた。午後六時。今まで何をしていたの。誰といたの。女の子と付き合っているの。同じ学校の子なの。どんな会話を繰り広げているの。いつの間に背が高くなって、声が変わろうとしていたの。
情報を与えられるたびに、新たな疑問が生まれていく。
夏樹には夏樹の世界がある。それを見守るのが母親である私の役目で、だからこそ足元がひどく空虚だ。
リビングに戻ってスマホを眺める。癖を覚えた指先が開いたインスタグラム。そこは相変わらず、学生時代の友人達の写真で埋まっていた。
『娘とショッピング。私も若返りました』
『家族を置いて出張、今夜は飲むぞ~』
『結婚十五周年、付き合って十八年。旦那にはいつも感謝です』
娘と訪れた街中の風景、出張先の居酒屋での料理とビール、デート先の夜景の見えるレストラン。私の持たないものばかりだ。スマホ画面の上部に、メッセージの通知が届く。夫からだった。
『今夜も接待が入った。夕飯はいらない』
夫ですら、私の知らない世界を持っている。
インスタグラムを閉じて、Xを開いた。佐治恭介の最新情報が、無断で使用されている佐治君の画像が、私の荒んだ心を優しく撫でた。
七月も終わりに差し掛かり、夏樹の三者面談が行われた。学校では品行方正らしく、成績も優秀だと女の担任教師は夏樹を一通り褒めただけで、何の実にもならない十五分間はすぐに終わった。
梅雨が明けたばかりの空は、突き抜けるほどの青色で世界を覆っている。夏樹と二人で歩くのは久しぶりだった。
「夏樹、先生に褒められていたわね。よかったじゃない」
頬に触れる風が、湿度を伴った夏の匂いを帯びている。
「学校で楽しくやっているなら安心よ」
歩道のない道を車が通っていくたび、夏樹の後ろに避けるように歩く。まっすぐ前を見ると、夏樹の太い首元がわずかな汗に濡れていた。白いシャツの襟元に汚れはない。よかった。日頃の洗濯の成果なのだと小さな安堵を胸に落とす。
私が話しかけても、夏樹は「うん」や「ああ」しか返してこない。それでも必死に話題を探した。喋らないと、夏樹がどんどん遠くなっていきそうで。
四月からお世話になっている担任教師は、三十代半ばに見える女性だった。慣れているのかひどく落ち着いた様子で、事務的に面談を終わらせた。――夏樹君は優秀ですし、お友達とも仲良くされていて、これといった問題はないですよ。高校受験も心配いらないでしょう。
自宅の屋根が見えてくると、先ほど聞いたばかりの担任の声がテレビ画面の向こうのもののように思えてきた。母親の私ですら夏樹のすべてを知らないのに、担任教師が夏樹の何を知っているというのか。
「母さん」
帰宅して制服から私服に着替えた夏樹が、私を呼んだ。キッチンで昼食について考えながら冷蔵庫を開けている時だった。
「ちょっと友達と勉強してくる」
冷蔵庫からの冷気が、指先を冷やした。久しぶりに「母さん」と呼ばれた高揚感が、ドアの音と共に弾けてしまった。そして、私はまた一人、家に取り残される。
夏樹が小学四年生になった頃、パートで働こうかと夫に相談した事があった。しかし、私の要望はすぐさま却下された。――俺が稼ぐからおまえには家でおかえりと笑って欲しい。若かった私を舞い上がらせたプロポーズの言葉は、十年以上経った今になって私を縛っている。
『恭介の映画エキストラに参加してきました~』
『写真フォルダを漁っていたら、売れる前のさじきょーが出てきた。若い、可愛い #佐治恭介』
『今夜の「あの僕」録画準備完了! #さじきょー』
タイムラインには、佐治恭介に関する投稿以外のものもひっそりと流れてくる。
『担任とバトった。うちの子の受験が失敗したら担任のせいだ』
『旦那の不倫相手見つけた。なんであんな女と』
佐治恭介に関する情報の隙間を埋めるような、ドロドロとした言葉達。このSNSは、元々は顔の見えない誰かの愚痴を見るために使っていたものだった。Xで愚痴を垂れ流す主婦よりも幸せなのだと自分に言い聞かせる材料になった他人の不幸が、今では私を疲弊させる。ひとつずつフォローを外して、タイムラインを佐治君に関するものだけに塗り替えていく。
『二年前のドラマ「昨日に花束」の聖地です! 佐治君と同じ学ランを着てみたよ~』
佐治恭介のファンの多くは若い女の子達のようだ。彼女達は佐治君に会う為、イベントに参加する為、聖地巡りをする為、お洒落な服を身に付けて、カラフルなネイルを施して、出かけていく。
いいなぁ、と思った。それは決してその行動力に対する羨望だけではない。怖いもの知らずな若さも、有り余るほどの時間も、家庭を気にしなくて済む自由も、すべてが羨ましかった。
夏樹も、夫も、学生時代の友人ですらも持っている世界。佐治恭介のファンの女の子達も同じだった。私だけが、小さな家に籠っている。
「急だったのに、今日も観てくれてありがとう」
突然始まった佐治君のインスタライブを、今日は観る事ができた。上機嫌で夕食の支度をし、夫と夏樹の三人で食卓を囲む。いつもと同じ私の席。私の役割。私の日常。
「夏樹、食事中にスマホを弄るのやめなさい」
口を動かしながらスマホから目を離さない夏樹に注意をすると、隣でビールを飲んでいた夫が吹き出すように笑った。
「そういう母さんも、最近スマホを弄ってばかりだよな」
夏樹を叱る時に茶々を入れてくる夫にむっとしたが、言い返せなかった。エプロンのポケットに入れたままのスマホが震えるたびに、新たな世界を手に入れたようなときめきに満たされる。佐治君の言葉は、笑顔は、声は、何も持たない私の支えだ。
スマホをテーブルの端に置いた夏樹が、鶏のから揚げを口に入れた。サクサクと咀嚼しながら、「これ美味い」と掠れた声でつぶやいている。子供の頃からの、夏樹の好物だった。
「母さんの作ったものは何でも美味いだろ」
お酒に強くない夫が、頬を赤らめておおらかに笑う。
テーブルにはいつも通りの料理が並んでいる。育ち盛りの夏樹の箸のスピードは相変わらず速いし、夫は晩酌代わりにサラダをつまんでいる。その光景は、家にいるだけの私自身が消費されているものなのだと思っていた。だけど、そうではないのかもしれない。美味いの一言が、ただの主婦であり母親である私を駆り立てる。
残り三つになったから揚げを口に含むと、ジューシーな味わいが胸に落ちていった。
「それでは、ゲストの佐治恭介さんをお迎えしましょう」
リビングで流れているトーク番組「あの頃、僕たちは」では、佐治君が出演していた。スマホの上ではタイムラインが更新され続けている。
『今日の「あの僕」は荒れる模様 #あの僕 #佐治恭介 #さじきょー』
『やめて! 恭介と一般人女を絡ませないで! #あの僕 #さじきょー』
『やばいやばいやばい、さじきょーの元同級生が告白 #さじきょー #あの僕』
夏らしい爽やかな色合いのジャケットを羽織った佐治君は、今日も爽やかな笑顔を見せている。
「母さん、食事中のスマホは駄目だよ」
からかうように言った夫に、素直にうなずいてXをそっと閉じる。今度は腹が立たなかった。「ごちそうさま」と立った夏樹の背中を視線だけで見送る。階段をのぼる音が、様々な声に混ざっていく。
食卓に並んだ皿は、空っぽになっていた。
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