「一度、落ち着かせてほしい」とジェラルドが先に浴室を使い、続けてアンジュもシャワーを浴びた。温かな湯を全身に受けて、ようやく、心が落ち着きを取り戻す。
体中が生き返ったが、彼に触れられた部分が、水圧を受ける度、一層熱く、甘くざわつく。自分の身体なのに、もう自分のものではないような気がした。何かが新しく刻まれたような、何かを遺されたような余韻が、纏う。
髪と身体を拭いて乾かし、持って来たネグリジェに着替え、バスローブを羽織り、浴室を出る。そっ、と部屋を覗くと、パジャマ姿にバスローブを羽織ったジェラルドが、ダブルベッドの奥側にいた。布団に入り、背もたれに身体を預け、ぼんやりとしている。
「……大丈夫か?」
気づいた彼が、労るように声をかける。先程までの燃え上がるような猛りは、消えていた。静かな深緑の瞳が、心配そうに見つめてくる。
「はい。だいぶ、落ち着きました」
今夜も傍にいてくれるのだ、という安堵と嬉しさで、アンジュは頬を少し緩めて、微笑み返す。先程と同じ部屋の同じ空間なのに、また別の、ほのかに甘く、温かな緊張感が、互いの間を漂う。
「……じゃあ、休むか」
「はい」
気恥ずかしそうに視線を反らし、黙ったままジェラルドは彼女に背中を向け、布団を被り横になった。そんな彼の隣に、おずおず、と潜り込んだアンジュは、改めて礼を言う。
「……ジェラルドさん、ありがとうございます」
「気にしなくて良い。……暫く、何も考えずゆっくり休め」
『しあわせ』という言葉が、アンジュの心に満ちていく。誰よりも好きな人が、自分のすぐ近くにいて、優しく気遣ってくれる。
「はい。それで……あの……」
「何だ?」
そんな彼女に対し、もどかしい照れ臭さを感じたジェラルドは、少し苛立ちを含ませて、ぶっきらぼうに返した。
「こんな時に、なんですけど…… 何だか、嬉しい……みたい。誰かと一緒に、眠った事ないから」
「……‼」
はっ、と覚醒する。思わず、顔をアンジュの方に向けた。彼も同じだった。しかし……
「人の体温と眠るって……こんなに、心地好いんですね……」
目元を細め、幼子のように無邪気に、嬉しそうに微笑む。そんな彼女を見た瞬間、ジェラルドは、また顔の熱が上がった気がした。頭を抱え、さっきまでの自分を殴りたくなる。
快楽や淫靡な欲も伴う性の営みを、純粋な愛情表現としか捉えていないような彼女に、何て事をしたのだ……と思った。
ぐるっ、と反転して寝返りをうち、驚くアンジュを、すぐ側まで抱き寄せる。
「……まだ、怖いか?」
「いえ、だいぶ、怖くなくなり……ました。ですが……」
今度は、アンジュの方が、妙に狼狽え始めている。
「何だか、ふわふわして……落ち着かなく、なりました」
目の前に若葉色に透ける瞳がある。まだ熱が冷め切っていない身体に、新しい温もり、彼の固い胸元と腕の感触が、じわじわ、と再び沁みていく。互いを見つめ合ううち、二人の間に流れる朧気な甘い残り香が、段々と艶を帯び、濃さが増していくのがわかった。
まずい、とジェラルドは危惧し、焦って自身を制する。
「……俺も、落ち着かない。だから、もう……何も言わないでくれ…… 早く眠ろう」
「は……はい、すみません……」
「いや、謝る事ではない……」
詫びなければいけない事ではない。むしろ、初めて感じる類いの喜びが、彼の胸の奥にも、熱く湧いている。だが、今は、その時ではないのだ。
翌日の昼前。小窓から差し込む淡い陽射しが照らす中、二人は少し遅い朝食を、揃って小さなテーブルで向かい合って食べた。固めのパンと卵と野菜入りスープという質素なメニューだったが、『今までで一番穏やかで、美味しい朝食だ』と、控えめにスープを啜る音しか響かない静寂の中で、共に感じていた。
今朝、先に目覚めたのは、ジェラルドだった。いつもと違う質感の寝具と、慣れない雰囲気に違和感を覚え、不審な思いで眼球を回した瞬間、驚きと動揺で、らしくなく大声を上げそうになった。
……天使、いや、女がいたからだ。蜂蜜色の長くゆるやかな巻き髪にマシュマロのような肌。未だあどけなさの否めない面立ちの、純白のネグリジェに身を包んだ少女が、遠慮がちに隣に寄り添い、囁くような寝息をたてている。
昨夜の彼女への所為を思い出し、一気に顔が熱くなった。が、そっ……と手を伸ばし、飴細工のように透ける髪を、指で掬う。目の前の天使が、実在する本物か、確認したかった。
羽根のように柔らかな感触。ラズベリー色の唇からは、湿度を帯びた吐息が微かに漏れている。安心しきった幼子のような寝顔……瞬きした次の刹那には、年頃の女らしい艶が、プリズムのように煌めき、垣間見る。
――彼女が、ここに、いる
そう認識できた瞬間、空しい幻影の世界から、ようやく醒めた気がした。それも、哀しみや落胆を伴うものではなく、安堵と歓喜が変わらず存在する目覚めだ。
信じられない位に目映い光明…… 長い間、抱くことすら辛く、考えもしなかった希望を、真正面から、彼は全身に浴びた。
「……アンジュ」
「はい」
そんな至福の光景を思い出しながら、食後の紅茶を飲んでいたジェラルドが、改まった声色と素振りで切り出した。
「これからの事、だが……」
ぴっ、とアンジュの背筋が伸びる。自分が置かれている現状を思い出し、気を引き締めた。
「……スコットさんの親友というグレアムさんに、君のことを話そうと思う。が……ただの連れと言うのは、状況的に無理があるだろう。とはいえ、その……伴侶とも言えない」
淀みながらも真剣な表情で語る彼に、今から言われることを何となく察し、アンジュは神妙な面持ちで頷く。
「友人、恋人というのが適切だろうが、このような形で、共に避難してきたとなると……」
この場に相応しい言葉をずっと探していたジェラルドだったが、覚悟を決めたように顔を正面に向けた。アンジュの揺れる両の瞳を捕らえ、しっかりと見つめる。
「――はっきり言おう。俺は、いい加減な気持ちで、君をここまで連れて来た訳じゃない」
未知の甘やかな喜びに、アンジュの心臓は、ぎゅっ、と絞られた。
「初めは償いのつもりだった。が……君さえ良ければ、共に生きていく未来を、前向きに考えて、いきたい……」
「ジェラルドさん……」
男女関係の知識に乏しいアンジュでも、それがプロポーズに近い発言だとわかった。しかし、嬉しさ反面、どこか他人事で素通りしていく。何かの舞台のシーンを、目の前で再現されているような感覚。耳慣れない言葉の数々を、どう受け止めていいのか分からず、戸惑う。
そんな彼女の複雑な心境には気づかず、ジェラルドは続ける。
「ただ、共に逃げて来た……周りから見れば、身分違いの駆け落ちのようなものだ。グレアムさんはともかく、町には様々な人間がいる。好意的な視線ばかりではないだろう……君を悪い立場にしたくない」
「構いません。平気と言えば、嘘になりますけど…… そんなのは昔からですし、慣れてます。覚悟の上です」
元々、こんな風に彼といられるとすら思っていなかった。今の状況だけでも、アンジュは十分に幸せだし、一時は、身を捨てようと覚悟した位だ。恋しい人と毎日過ごせるなら、周りの目も耐えられる。
「……せめて、もう少し出自が判ればな……『アンジェリーク』は、フランス語だろう? フランス人じゃないのか?」
「判りません。預かってもらった院長の叔母がオーストラリア人だったので、父もそうだと思いますが、母は……どこの、どんな人かも……知らないんです……」
自分は、一体どこからきたのだろう。何故、見捨てられたのだろう…… 自身の思いや存在理由すら、アンジュには認識出来ないでいる。
「……変ですよね。自分が何なのか……分からないなんて……」
「はっきり分からない、知らない方がいいこともある……と、俺は思う。俺だって、親と呼んで良いのかわからない人間の子だ。父親は職業しか知らない」
はっ、とジェラルドの方を見た。今更ながら、彼が抱えている痛みを思い出す。普段、人に弱みを見せない冷静沈着な彼からは、そんな背景は見えない。
「何故、父親が身売りをしていたのかも知らない。飢えていたのか、別の理由があったのか…… いずれにしろ、そいつの血をひいているのには変わりない」
淡々と語るジェラルドが、アンジュには不思議だった。今までの彼なら、一番避けて、口にしたくなかった話題だろう。
「犯罪まがいの事にも手を出していたかもしれない。それは……君の両親もだろう…… が、『親が誰だろうと、どんな人間だろうと、俺は俺』……なんだろ?」
「ジェラルドさん」
彼の変わり様と自分が以前言った言葉に驚き、アンジュの瞳孔が揺れた。空虚な重い陰を落としていた、哀しい深緑の瞳の青年の姿は、もういない。
「親が、たとえ犯罪者だろうと狂人だろうと、自分はそうならなければいい……だけだ。生きてきて少しでも目にした、大切な……美しいモノだけ忘れないよう、覚えていればいい……と思う」
思い出の薔薇園で最後に会ったスコットの、穏やかな微笑みと清廉な強い意志が、ジェラルドの脳裏に過った。彼に恥じる行いだけは……したくない。
「まあ……この時世、いざという時が来るかもしれないがな……」
悲しげに自分の手を眺め、皮肉めいた口振りで、ジェラルドは呟く。いつか、自分も戦地に行かされ、この手も身体も血泥に染まるのだろうか……
この地に敵軍が攻めて来た時、どんな惨事になるかわからない。もし、敵兵が目の前でアンジュを襲ったら、自分は、確実にその人間を殺すだろう。彼女が飢えて死にかけたら、盗みをはたらく。例え、相討ちで自分が殺されても――
ジェラルドだけではない。大切な人がいる人間は、皆、同じ事をするだろう。自分が生きる為にするのは、もはや暗黙の了解になる。軍人も民間人も、いつ、誰が、犯罪者になるかわからない。なっても咎められない。理不尽な暴挙が、狂気が、正当化される世界に変貌する……
遠い目をしている彼を見ているのが辛くなり、アンジュは思わず止めた。
「……どうなるか、私にもわかりません。けど……そんな風にしたくないです。貴方の手は、あの素敵なピアノを奏でる為に、あると思います……」
「俺もそうだ。だから、逃がしたかった。君の歌は、人を生かすためにある」
あの初めてキスを交わした日以来、互いを賛辞し合っている状況に気づき、恥ずかしくなった二人は、共に頬を薄紅に染めた。咳払いをしたジェラルドが、話題を変える。
「名前と言えば…… いくら貴族とはいえ、俺の名は、多分ここまでは届いていないと思うが、暫く本名は広めない方が良いと踏まえてる。まぁ、平たく言えば、偽名だが……考えたい。何が良いと思う?」
「私も、考えていいんですか?」
頷く彼に嬉しくなり、少し考えたアンジュは、久しぶりに弾んだ声を出した。
「――『ジェイド』さん、って呼んでいいですか?」
「……⁉」
その単語を耳にした瞬間、ジェラルドの表情がたちまち険しくなり、硬直した。
「以前、単独依頼だった宝石商のお客様が、私物の指輪を見せながら話して下さったんです。東の異国にある『翡翠』という石で、こちらの言葉では『ジェイド』と呼ばれると……」
高揚したアンジュは彼の変化に気づかず、明るい口調で続ける。
「とても神秘的で綺麗で、貴方の瞳の色に似ていると思ったんです…… 同じ名前の、蒼い羽根の鳥もいるんですって…… あの、嫌ですか? すみません……」
瞳孔を見開き、固まってしまったジェラルドにようやく気づき、慌てて詫びた。
「……いや、まさか、その名が出るとは、と」
「……?」
「母親と同じ色の……この眼が、ずっと、嫌いだった」
息が止まった。とんでもないことを申し出て、彼の傷跡に土足で踏み込んでしまったと自責する。
「確かに、翡翠は『jade』……ジェイドというが、『浮気女』という意味もある」
「……‼ すみません、私……‼」
思わず口元を抑え、アンジュは思い切り頭を下げた。無知故とはいえ、よりによって最も深い傷を抉る行為をしてしまった、と真っ青になり、激しい後悔が襲う。
「――だが、君が呼んでくれるなら…… それも良いかもしれない」
驚いて顔を上げたアンジュの前には、複雑そうでそれでいて、以前なら考えられない位に穏やかな表情を浮かべた、ジェラルド・グラッドストーン――『ジェイド』がいた。