嬉なる誓い
ー/ー ジェラルドの予期せぬ言葉に、アンジュの方が躊躇していた。
「本当に、いいんですか? 呼んでも……」
「構わない。もう、この眼にも……生まれにも、囚われたくない」
彼の口振りと眼差しには、とても強く、潔い決意が滲み出ている。自分にそんな大それた力があるとは思えない。しかし、彼がそこまで望むなら、応えたかった。
「……わかりました。ジェイド、さん」
彼への好意を精一杯含みながら、ふわ、とはにかみ、アンジュは呼んだ。そんな様子を目にし、ジェラルドは切れ長の目元を少し細め、表情を和らげる。
彼女の口から出た言葉は、何故か特別に彩られ、新しく聴く旋律のように、素直に響いてくる…… そんな不可思議な動きを改めて感じながら、続けて提案した。
「……君も、楽団でのステージネーム……『アンジェリーク』という名は広まってきている。一時的にでも呼び名を変えた方がいいと思う」
「そう、ですね……」
確かに、フィリップの手紙にはフランスの貴族社会まで届いていると書いてあった。こちらの方に住む貴族は少ないだろうが、用心した方がいいのは理解できる。
「考えよう。何がいい?」
「……すみません。単語をあまり知らなくて……学が、無いんです」
少し困惑した後、きらきら、と瞳の水面に光を瞬かせ、願った。
「ジェラルドさんに、付けて欲しいです」
「……⁉ 俺もそんな洒落た言葉は……知らない」
「貴方が付けてくれたのが、いいです」
いつになく強い意気込みを見せる彼女にたじろぎ、押されたジェラルドは、シャープな眉を潜め、考えた。ふと、彼女と初めて会った夜を思い出した。晩餐会のステージで歌う姿を見た時の印象、感じたもの……
初めてステージネームを聞いた時は、どんな女だと思った。アンジェリーク……『天使』を形容する名。相当、誇示欲の強い女だろう、と冷ややかな目で見ていた。
実際に目の当たりにした時……確かに衣装はそれらしくて似合ってもいたが、どこか違和感があった。崇められるような神々しい出で立ちというよりは、小さく細かな白い花が、精一杯、咲いているようだと感じた。
そう言えば、昔、スコットに見せてもらった花の中に、そんな植物があった。確かハーブの一種で、名は――
「『シスリー』」
「『シス……リー』?」
「『スイート・シスリー』、というハーブがある。細かな白い花を咲かせ、呼吸器などに効く薬草になると、スコットさんから聞いた。『アンゼリカ』も良いかと思ったが、今の名と似てるからな……」
ぽかん、として黙ってしまったアンジュが心配になり、恐る恐る、窺いを立てる。
「……やはり、気に入らないか?」
「いえ。どんなものか知りませんが、花は好きなので嬉しいです。でも……」
「何だ?」
「あの、どうして、そんな綺麗な名前……」
すると、ジェラルドは困ったように彼女から視線を反らし、口ごもった。頬を薄紅に染め、気まずそうに、ぼそり、と返す。
「似ている、と思ったから。君に……」
アンジュの胸の中で、至極温かく、甘い喜びが弾けた。俯いてしまった彼の手を取り、テーブルの上で包む。同じくピーチスキンに染まった泣き出しそうな顔で、白い掌を擦り付けた。
「アンジュ」
「……シスリー、です。そう、呼んでくれました」
花開くような笑顔を、久しぶりに見せた彼女に、安堵と高揚で、ジェラルドの心が密かに高鳴る。
「じゃ、今日からよろしく。シスリー」
水の膜が滲むマリンブルーの瞳を見つめ、口角をぎこちなく上げた。
宿屋を出て数時間後。夕刻時、ようやっと、二人はグレアム夫妻の家にたどり着いた。質素だが、どこか温かみを感じる小ぶりの一軒家だ。
いきなり、こんな時間に訪ねては迷惑だろうと憚られた。が、今夜も宿屋をとれるかわからない今、多少の無礼はやむを得ないと、思い切った二人は、呼び鈴を控えめに鳴らす。
「はい…… あの、どちら様で……?」
玄関の扉を開け、出迎えた老婦人は、明らかに見慣れない風貌の若い男女に対し、怪訝そうに尋ねた。
「夜分遅くに、大変失礼致します。こちらのご主人のご友人の紹介で参りました。……ジェラルド・グラッドストーンと申します」
なるべく礼儀良く自己紹介した後、丁寧に頭を下げたジェラルドと、隣で同じようにお辞儀する少女を見て、婦人は何かを察したように、僅かに表情を固くした。グレアムづてに、何か聞いていたのだろうか。
「……主人は、間もなく戻りますので、中にどうぞ」
明らかに動揺を抑えながらも室内に招き入れ、温かい紅茶を用意してくれた彼女に、二人は心底救われた思いだった。
暫くして帰って来た主人らしき年配の男は、アンジュ達二人を見るなり、やはり驚いた素振りを見せた。しかし、ジェラルドが素性を名乗り、スコットの名前を出すと、納得したように話を聞いてくれた。
「あいつとは昔なじみでね。あんたの事は、手紙で時々聞いてたよ。けど、まさか女連れで避難してきたとはなぁ」
からかい混じりに、ははっ、とグレアムは豪快に笑った。恰幅の良い風貌に陽気な言動。スコットとは異なるタイプの人間だが、人の良さ、気の優しさが滲み出ている彼に、ジェラルドは懐かしさを感じた。
「てっきり、来る時は一緒だと思ったけどねぇ……元気か? あいつは」
「……あの庭園を離れられない、と言って、私だけ逃がしてくれました。説得出来なくて申し訳ありません」
最後に見たスコットの姿を思い出し、ジェラルドは俯く。そんな経緯があったのかと、アンジュは切なくなった。
「……あいつは、昔から変なところで頑固だからなぁ。あんたのせいじゃねぇよ」
「いえ。いきなり、押し掛ける形になって、本当に申し訳ありません」
「気にすんな。生活が落ち着くまで、暫くウチに居たらいい。狭い家で悪いがね」
「嫁いだ娘が、昔使っていた部屋があります。そちらを整えますので、どうぞ。お二人では窮屈でしょうが……」
「とんでもないです。ありがたいです。お世話になります」
揃って頭を下げたアンジュ達二人に微笑みかけた後、グレアムとは対照的に、物静かだがしっかりとした雰囲気の夫人が、部屋を整頓しに行ってくれた。
そんな夫婦が、アンジュとジェラルドには非常に眩しく、羨望……憧れのような思いを抱いた。
その夜。二人はグレアム夫妻の娘が使っていたという部屋の、シングルベッドを半分に分けて床についていた。とは言うもの、一人用のベッドだ。成年二人が使うには狭い。身体が密着状態で布団をかぶっている。
アンジュはジェラルドと触れながら眠れるという状況に、至福の思いでいたが、彼の方は理性と睡魔の両方と、必死に戦っていた。
「素敵なご夫婦ですね」
そんな彼の葛藤を知るはずもなく、アンジュは夫妻の様子を思い出し、感慨深く、呟く。明日から暫く、ジェラルドはグレアムの協力を得ながら職探し、アンジュは世話になる礼として、夫人の手伝いをすることになった。
グレアムは数年前まで、炭鉱夫としてウェールズの鉱山まで出稼ぎに行き、働いていたらしい。夫人は彼の留守の間は、内職やレストランで働きながら、家計を支えていた。
高齢になったグレアムが炭鉱夫を引退してからは、二人で内職や畑仕事、貯蓄を切り崩しながら、隠居暮らしをしているという。裕福とはいえないが、そんな風に仲睦まじく、二人三脚で生きてきた二人がアンジュにはとても眩しく、尊敬せずにいられない。
「……どうしたら、あんな風になれるんでしょうね。なれるかしら……」
うつらうつら、と微睡みながら、まるで自分達二人の未来を夢見るように呟く彼女が、ジェラルドにはいとおしく、切なかった。
一刻も早く仕事を見つけ、住まいを探し、二人で暮らしたいという、希望に満ちた思いに駆られる。
「……暫く、本名を名乗れない事情も理解してくれた。本当に感謝しても、しきれないな……」
頷くアンジュに、改まった声色で呼ぶ。
「シスリー」
はっ、と彼の顔を見る。翡翠色に艶めく瞳には、確固たる光があった。
「いつまで続くかわからないが、なるべく早く……暮らしを落ち着かせよう」
「……はい。ジェイド、さん。頑張りましょう」
喜びと希望に溢れる思いを含みながら微笑み返し、誓い合うように、二人はきつく抱き合った。
数日後の昼過ぎ。アンジュはグレアム夫人と共に、市場に買い物に出かけた。ついでに、町に住む友人達を紹介してくれるということだった。
三人の女性達に囲まれ、緊張する。ロンドンで出会った楽団や客層とは違う、素朴で家庭的な風貌の婦人ばかりだ。
「シスリー、と呼んで下さい。よろしくお願いします」
グレアム夫人から紹介され、丁寧に頭を下げて挨拶する。そんなアンジュに、少し年長の女性が開口一番、問いかけた。
「あんた、グレアムさんの知り合いっていうけど……ロンドンから避難しに来たって……本当なの?」
「はい。そうです…… お世話になります」
新参者が気になるのはわかるが、並々ならぬ緊迫感がどことなく漂う彼女達に、アンジュは戸惑う。
「ああ、悪いね。……いや、ね。ドイツ軍が英国にも攻撃……侵略が始まるってことで、ロンドン近郊の……『J』が、こっちに逃げてくるんじゃないかって、皆、ちょっと警戒してるんだよ」
『J』――今時世のユダヤ人の隠語だ。こんな平穏そうな町にまで、開戦の影響が伝わっているという状況におののき、固まった。
「逃亡の手助けしただけでも、バレたら秘密警察に捕まって、まとめて収容所行きだそうじゃない?」
「ね……親戚や友達でも躊躇うってのに、見ず知らずのあんた達じゃ……」
「……私は、オーストラリア人で、就労移民です。一緒に来た彼は、カトリック系のイギリスの方です」
ここで尻込みしてはいけない、とアンジュはなるべく動揺を抑え、冷静に、丁寧に説明する。嘘ではないが、複雑な思いだ。ユダヤ人というだけで、そんな風に言われる時世。
――もしかしたら、自分もそうかもしれないのに……
先日、ジェラルドと話した事を思い出す。母親はどこの誰かわからない。現在、国家的に敵対している、ドイツやイタリアの血が混じっている可能性だって……あるのだ。
「南半球から来たの⁉ すごいわね。彼は元貴族なんでしょ⁉ どんな人⁉」
別の若い女性が、驚きながらも無邪気な言葉をそんなアンジュにかける。戸惑う彼女に代わり、グレアム夫人が静かに返した。
「真面目そうで礼儀正しくて、素敵な方ですよ。ちょっと無愛想だけど。羨ましいわ」
彼女も自らジェラルドと話して、これまでの事情を聞いてくれたようだった。
「へぇ、そうなの⁉ あんたも、まぁ可愛らしいけど……やるわねぇ。貴族のお嬢様達なんて、美女ばかりでしょ? よく捕まえたわね」
このアンジュと同じ年頃の女性は、興味津々な眼差しを変わらず向けてくる。
「あ、ありがとうございます」
歌以外を褒められ慣れていないアンジュは、まごつきながら礼を返した。しかも、自身の事ではないのに、彼を良く言われるのは何故か嬉しい……という初めて感じる気持ちだ。
そんな彼女に、先程、懸念の声を共にこぼした、夫と二人の子供がいるという別の女性が提案する。
「じゃあさ、式は、いつ挙げるんだい? あたしらで良ければ、準備手伝うよ」
「式……?」
アンジュは呆然とした。確かに、彼と思いを通じ、未来までを想定はし合ったが、この先の具体的な予定までは考えていなかった。
「やだ、結婚式に決まってるじゃないか。あんた達、夫婦になりたいから駆け落ちしたんだろ?」
「え、まだ、何も決めてないの?」
信じられない、と言いたげな二人を、グレアム夫人は穏やかに窘める。
「少しばかり訳ありみたいだし、ご時世的にもすぐには無理ですよ。まずは生活を整えられるよう、協力してあげましょう」
夫人の助け船のお陰で、その場はおさまったが、アンジュは動揺していた。大好きな人に新しい呼び名をもらって、頑張れば、ずっと一緒に暮らせるかもしれない。それだけで満ち足りていた。
これ以上、何かを求めたらバチがあたるような、今の幸せも全て壊れてしまうような、恐怖にも近い思い。分不相応という以上に、自らが手にするのすら……想像も出来ないでいたのだった。
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