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小町がいたこと

ー/ー



 引き出しの中が空っぽになっていることを確認し、綺麗に片付いたデスクを最後にゆっくりと見渡してから、僕は椅子を立った。エアコンの放つ肌寒いほどの冷風に身体を固くしながら、僕の他に誰もいないオフィスに向かって、形式だけの一礼をする。
「伊勢さん」
 オフィスに背を向け、歩き出そうとしたとき、ちょうどフロアをこちらに向かってくる人が僕を呼んだ。去年に新卒で入社した、僕と同じ制作部の女の子だった。僕が記憶する限り、彼女とはこれまでにほとんど話したことはなかった。
「昨日が最後だって聞いてたんで、びっくりしました」
 肩にかかる長さまで伸びた茶髪を揺らしながら近づいてきた彼女は、青みがかったアイライナーで強調された目元でこちらを見上げた。
「社員証を返すのを忘れてたんだ」
「そのためにわざわざ?」
「そう。誰もいなくなる昼休憩の時間を狙って」
「律儀ですねえ」
 称賛とも皮肉ともつかない微妙な物言いをやり過ごし、僕は「じゃあ」とその場を離れようとした。けれど、彼女は「伊勢さん」ともう一度僕の名前を呼んだ。
「私、もっと伊勢さんと話してみたかったです」
 僕は、どう返事をしたらいいのかわからなかった。
「どうして?」
「なんなんでしょう、不思議というか、他の人より大人っぽいというか……よくわかんないけど、気になっちゃうんですよね」
 紡がれた言葉は曖昧なものでも、そこに迷いは感じられない。
「ありがとう」
「今のその落ち着いた喋り方が、伊勢さんには合ってると思いますよ」
 その言葉を耳にした瞬間、自分が仮面を必要とせずに彼女と会話していることに気づいた。この出版社に四年間勤めていた中で、そうすることができたのはこれが初めてのことだった。
「そうかな」
 はい、と彼女は魅力的な笑顔を見せて頷いた。髪をかけた左耳には、小粒な赤色のピアスが輝いている。
「次の仕事とか、もう決めてるんですか?」
「いや、決めてないよ」
「え、じゃあリフレッシュ休暇、みたいな感じですか?」
 僕は頭を振り、わずかに怪訝そうな表情を浮かべる彼女に、こう告げた。
「しばらく、海外を回ろうと思っているんだ」
 今の仕事を辞めて、海外を回る。僕がそんな展望を最初に語ったのは、折原だった。
 去年の暮れに小町の墓を訪れて以来、僕は少しずつ、人並みの生活を送ろうと心がけるようになった。料理を作ったり、新しい服を買ったり、髪を整えてみたり、車で遠いところまで出かけてみたり。そうやって自発的に余暇時間をすごすことは、僕にとって一種のリハビリに近い行為だった。
 そして今年の六月、僕はその延長として折原の住む東京を訪れた。新幹線に乗り、適当に見繕ったビジネスホテルに泊まるという簡素な旅程だ。特に行きたい店や観光地があるわけでもなければ、食べたい料理があるわけでもない。僕が定めた目的は、折原に会い、決意表明をすることだった。
 僕が今後の展望を語ると、彼はとても驚いていた。そして、『それはお前のリハビリの一環なのか?』と訊ねた。僕はその問いに対する明確な答えを用意できていなかった。けれど、意志の固さを感じとったのか、彼は反対するようなことは言わなかった。
 その日の別れ際、折原は最後にこう言った。
『お前が帰ってきたら、久しぶりに三人で集まろうぜ』
 僕と、折原と、小町。
 三人で過ごした日々があったことを、そのとき僕はまっさらな気持ちで受け入れることができた。
「海外ですか。素敵ですね」
 大きな目もとと赤いピアスを輝かせて、目の前の彼女が控えめな笑みを浮かべる。そして、「最初はどこに向かうんですか?」と訊ねた。
 僕は、小さく息を吸って、
「ポルトガル」
 と答えた。
 小町が最後に目にした景色を、僕も見てみたい。
 それは、後ろ向きな願いなのかもしれない。僕が今、十年分の空白を埋めようと正しく行動的に日々を過ごせているとしたら、彼女が命を落としてしまった場所へ赴くのは、まったくの逆効果になってしまうのかもしれない。そんな懸念があった。
 けれど、僕は小町を思うことをやめないと、心に決めたのだ。花家小町はもう、この世にはいない。求めることはできない。彼女が僕を求めることもない。だからといって、それが思うことをやめる理由になるわけではない。彼女が僕に向けていた思いが、なかったことにはならない。そんな目には見えない双方向の思いを、観念的な事実として愛していく。そうしながら、僕は僕の人生を生きていこう。精神的な拠り所にするのではなく、かといって過去の思い出として片付けることもなく。
 それが、小町を思い、小町に甘え続けた十年間を経た末に、僕が辿り着いた答えだった。
 一人で考え、一人で動き、一人で選び、一人で喜び、一人で傷つく。それはとても困難で、辛いことだ。けれど、決して不可能なことではないと、僕は信じている。
「ポルトガル、私も一度両親に連れて行ってもらいました」
「いいところだった?」
「はい。ちょうどこれからの時期、アゲダの街でアゲダグエダっていう芸術祭があるんですけど、街の色んな所で色んな色の傘が宙づりになっているのがとっても綺麗で、晴れの日なんか最高に素敵な光景なんですよ」
 ひたむきな様子で説明するその言葉が、密かな好意によって形作られていることに、僕はようやく気がついた。
 けれど僕は、「ありがとう。アゲダの街にも行ってみるよ」と返すだけに留めた。込められるだけの誠意を込めて、彼女に礼と、笑顔を向ける。メイクに彩られた目元をほんの一瞬だけ大きくしてから、彼女は眉を下げるようにして笑った。
「はい。是非」
 僕はもう一度「じゃあ」と言った。今度は彼女も僕を引きとめなかった。
 人生は、記憶の集約だ。
 赤いピアスをした茶髪の彼女と、きっと二度と巡り会うことはない。けれど、僕の巡礼とも、回顧とも、逃避とも、訣別ともつかない曖昧な旅に、一つの目的を添えてくれた――そして、最後の最後で僕を認めてくれた――彼女という存在を、僕はきっとこれからも憶えているだろう。
 そうやって、これから少しずつ記憶を収集していこう。それはいつしか、性質を変え、頭ではなく心の中に存在する、大切なものをしまう場所に収納されていくのだろう。
 いつか人生の終焉を意識するとき、僕はそれらをひっくり返してみたいと思う。子どものおもちゃみたいにバラバラに散らかして、その中から、一つずつ手にとってみたい。
 仕事を辞める最後の日に、密かな好意に触れたこと。
 一人きりですごした、長く苦しかった大学生活のこと。
 少し風変わりで、けれどどこか僕と似通った感性をした小曽根夕菜のこと。
 小学生のときに、折原という男と出会えたこと。
 夜の高速道路を、オレンジ色の道路照明がどこまでも連なっていたこと。

 ――輝かしい青春の時に、小町がいたこと。


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 引き出しの中が空っぽになっていることを確認し、綺麗に片付いたデスクを最後にゆっくりと見渡してから、僕は椅子を立った。エアコンの放つ肌寒いほどの冷風に身体を固くしながら、僕の他に誰もいないオフィスに向かって、形式だけの一礼をする。
「伊勢さん」
 オフィスに背を向け、歩き出そうとしたとき、ちょうどフロアをこちらに向かってくる人が僕を呼んだ。去年に新卒で入社した、僕と同じ制作部の女の子だった。僕が記憶する限り、彼女とはこれまでにほとんど話したことはなかった。
「昨日が最後だって聞いてたんで、びっくりしました」
 肩にかかる長さまで伸びた茶髪を揺らしながら近づいてきた彼女は、青みがかったアイライナーで強調された目元でこちらを見上げた。
「社員証を返すのを忘れてたんだ」
「そのためにわざわざ?」
「そう。誰もいなくなる昼休憩の時間を狙って」
「律儀ですねえ」
 称賛とも皮肉ともつかない微妙な物言いをやり過ごし、僕は「じゃあ」とその場を離れようとした。けれど、彼女は「伊勢さん」ともう一度僕の名前を呼んだ。
「私、もっと伊勢さんと話してみたかったです」
 僕は、どう返事をしたらいいのかわからなかった。
「どうして?」
「なんなんでしょう、不思議というか、他の人より大人っぽいというか……よくわかんないけど、気になっちゃうんですよね」
 紡がれた言葉は曖昧なものでも、そこに迷いは感じられない。
「ありがとう」
「今のその落ち着いた喋り方が、伊勢さんには合ってると思いますよ」
 その言葉を耳にした瞬間、自分が仮面を必要とせずに彼女と会話していることに気づいた。この出版社に四年間勤めていた中で、そうすることができたのはこれが初めてのことだった。
「そうかな」
 はい、と彼女は魅力的な笑顔を見せて頷いた。髪をかけた左耳には、小粒な赤色のピアスが輝いている。
「次の仕事とか、もう決めてるんですか?」
「いや、決めてないよ」
「え、じゃあリフレッシュ休暇、みたいな感じですか?」
 僕は頭を振り、わずかに怪訝そうな表情を浮かべる彼女に、こう告げた。
「しばらく、海外を回ろうと思っているんだ」
 今の仕事を辞めて、海外を回る。僕がそんな展望を最初に語ったのは、折原だった。
 去年の暮れに小町の墓を訪れて以来、僕は少しずつ、人並みの生活を送ろうと心がけるようになった。料理を作ったり、新しい服を買ったり、髪を整えてみたり、車で遠いところまで出かけてみたり。そうやって自発的に余暇時間をすごすことは、僕にとって一種のリハビリに近い行為だった。
 そして今年の六月、僕はその延長として折原の住む東京を訪れた。新幹線に乗り、適当に見繕ったビジネスホテルに泊まるという簡素な旅程だ。特に行きたい店や観光地があるわけでもなければ、食べたい料理があるわけでもない。僕が定めた目的は、折原に会い、決意表明をすることだった。
 僕が今後の展望を語ると、彼はとても驚いていた。そして、『それはお前のリハビリの一環なのか?』と訊ねた。僕はその問いに対する明確な答えを用意できていなかった。けれど、意志の固さを感じとったのか、彼は反対するようなことは言わなかった。
 その日の別れ際、折原は最後にこう言った。
『お前が帰ってきたら、久しぶりに三人で集まろうぜ』
 僕と、折原と、小町。
 三人で過ごした日々があったことを、そのとき僕はまっさらな気持ちで受け入れることができた。
「海外ですか。素敵ですね」
 大きな目もとと赤いピアスを輝かせて、目の前の彼女が控えめな笑みを浮かべる。そして、「最初はどこに向かうんですか?」と訊ねた。
 僕は、小さく息を吸って、
「ポルトガル」
 と答えた。
 小町が最後に目にした景色を、僕も見てみたい。
 それは、後ろ向きな願いなのかもしれない。僕が今、十年分の空白を埋めようと正しく行動的に日々を過ごせているとしたら、彼女が命を落としてしまった場所へ赴くのは、まったくの逆効果になってしまうのかもしれない。そんな懸念があった。
 けれど、僕は小町を思うことをやめないと、心に決めたのだ。花家小町はもう、この世にはいない。求めることはできない。彼女が僕を求めることもない。だからといって、それが思うことをやめる理由になるわけではない。彼女が僕に向けていた思いが、なかったことにはならない。そんな目には見えない双方向の思いを、観念的な事実として愛していく。そうしながら、僕は僕の人生を生きていこう。精神的な拠り所にするのではなく、かといって過去の思い出として片付けることもなく。
 それが、小町を思い、小町に甘え続けた十年間を経た末に、僕が辿り着いた答えだった。
 一人で考え、一人で動き、一人で選び、一人で喜び、一人で傷つく。それはとても困難で、辛いことだ。けれど、決して不可能なことではないと、僕は信じている。
「ポルトガル、私も一度両親に連れて行ってもらいました」
「いいところだった?」
「はい。ちょうどこれからの時期、アゲダの街でアゲダグエダっていう芸術祭があるんですけど、街の色んな所で色んな色の傘が宙づりになっているのがとっても綺麗で、晴れの日なんか最高に素敵な光景なんですよ」
 ひたむきな様子で説明するその言葉が、密かな好意によって形作られていることに、僕はようやく気がついた。
 けれど僕は、「ありがとう。アゲダの街にも行ってみるよ」と返すだけに留めた。込められるだけの誠意を込めて、彼女に礼と、笑顔を向ける。メイクに彩られた目元をほんの一瞬だけ大きくしてから、彼女は眉を下げるようにして笑った。
「はい。是非」
 僕はもう一度「じゃあ」と言った。今度は彼女も僕を引きとめなかった。
 人生は、記憶の集約だ。
 赤いピアスをした茶髪の彼女と、きっと二度と巡り会うことはない。けれど、僕の巡礼とも、回顧とも、逃避とも、訣別ともつかない曖昧な旅に、一つの目的を添えてくれた――そして、最後の最後で僕を認めてくれた――彼女という存在を、僕はきっとこれからも憶えているだろう。
 そうやって、これから少しずつ記憶を収集していこう。それはいつしか、性質を変え、頭ではなく心の中に存在する、大切なものをしまう場所に収納されていくのだろう。
 いつか人生の終焉を意識するとき、僕はそれらをひっくり返してみたいと思う。子どものおもちゃみたいにバラバラに散らかして、その中から、一つずつ手にとってみたい。
 仕事を辞める最後の日に、密かな好意に触れたこと。
 一人きりですごした、長く苦しかった大学生活のこと。
 少し風変わりで、けれどどこか僕と似通った感性をした小曽根夕菜のこと。
 小学生のときに、折原という男と出会えたこと。
 夜の高速道路を、オレンジ色の道路照明がどこまでも連なっていたこと。
 ――輝かしい青春の時に、小町がいたこと。