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 一方で彼女の気まぐれは毎朝は続けられず、元来の不眠は底意地悪く体を支配し早朝のアラームを拒んだ。
 それでも夜行性の彼女にとって、飛び飛びであれど早朝の起床は随分とした快挙だった。ともすれば、彼の言った景色を見たいとさえ思った。頼めば、彼は連れて行ってくれるだろうか。自分だけの世界を、ほんの少しでも見せてくれるだろうか。誰も知らない、深海の瞳を持つ少年だけが、一人きりで潜り続ける世界を。
 馬鹿馬鹿しい。思うたびに、彼女は自分で自分を笑う。
 所詮はただの景色の話、網膜に結ばれる像のこと、視神経が脳に伝えて見せているだけのもの。あいつは多分、歳の割に感受性が子どものままなんだ。誰かに笑いながら、少女はアラームを止める。
「これ、飲む?」
 そんなある朝、以前に自分が言った約束にもならない台詞をふと思い出し、少女は安いコーヒーの缶を揺らした。中身はまだたっぷり残っている。
「喉乾くでしょ。自転車なんかこいでたら」
 不思議そうな顔をする少年は、「まあ……」と曖昧な声を漏らした。
「ほら。気に入ったら全部飲んじゃってもいいよ」
「コーヒーですか……?」
「どう見てもコーヒーじゃん」
 缶のラベルを見せると、少年は左足を地について右手でハンドルを握ったまま、困ったように頷いた。
「もしかして飲めないの、コーヒー」
「いえ……飲めないことは、ないですけど……」
 どうにも歯切れが悪く、隙あらば彼は彼女から視線を外そうとする。前髪にその目を隠そうとする。
 なんだこいつ。少女は迷っている風な彼の素振りに、そのわけを考えた。
 そうして一つの答えにたどり着くと、眠気を忘れた笑い声をあげた。
「もしかして、照れてんの?」
「それは……」
 かき消えそうな声で何かを言おうとする彼は、否定をしない。代わりに、一層居心地悪そうに、上げかけた視線を逸らしてしまう。
「私がもう飲んだから? なにそれ、そんなん気にしてんの」
 遠慮なく彼女は笑った。この程度の間接キスに戸惑って躊躇うだなんて、小学生じゃあるまいし。
 これがもしも学校の男どもなら、いくらか金を出すやつだって現れるだろう。そんな輩に缶を渡すことなど、地球が最後の日を迎えたってあり得ないが。
 だからこそ、目の前の少年が彼らと同じ種の同じ性別の生き物であることすら、なんだか信じがたく思える。
「もしかして、いや?」
 そう問いかけると彼はぎゅっと口を閉じ、小さく首を横に振った。
「ならいーじゃん」
「……あなたは、嫌じゃないですか」
「嫌なら言わないし」
 その通りかと彼は頷く。煮え切らない手が伸ばされるのに、少女は軽く笑いながら缶を渡す。
「心配すんなよ、毒なんか入れてないって」
 少年は何かを訴えるように彼女を上目遣いに見ると、缶の中身を確かめるように軽く振り、ようやく一口含んだ。
 だがその一口で彼は口の端を歪め、缶を口元から離してしまった。眉を寄せる表情は、いかにも心外な味だと言っている風だ。
「どうしたの。まずかった?」
「いえ……」そう否定するがこれ以上は飲む気が起きないらしく、口をつけた部分と自身の口元を手で拭う。「ブラックですね……」
 缶を受け取った少女は思わず吹きだした。
「なに、あんたブラック飲めなかった? 書いてるじゃん、ほら」
「見えてなくって……ごめんなさい」
「謝んなよ。あーおかし」
 彼女の手に隠れ、BLACKの文字が読み取れなかったらしい。苦みが消えないのかしきりに口を動かす様子を見て、彼女は声を殺しながら、それでも笑ってしまう。
「目え覚めた?」
「覚めてます」
 気のせいか普段より投げやりな台詞を最後に、少年は会話を打ち切ってしまった。
 そうして夜明けへ向かう背中を見送り、缶の残りをあおって、少女はまた一つ気が付いた。

 彼は、こちらへ近づかない。

 最初は、視線を向けることさえしなかった。目を合わせるどころか言葉も最低限のまま、まるで少女に興味のかけらもない態度を貫いていた。今になって、ようやく伏せ気味の目を上げ、感情があることを示すように静かに笑うようになった。からかわれれば少しだけむくれ、または戸惑い、問いかけられると話し出す。
 だが、それだけなのだ。
 それが少女には新鮮だった。どれだけ構っても視線すら合わせない彼は、普段同級生の視線を浴びている彼女には稀有な存在だった。
 今だって無糖だと知れば無理に口に含むこともせず、あっさりと缶を返しさっさと背を向けてしまう。どこまでも素直で裏の見えない彼だから、全ての態度が本音に見える。だからこそようやく見られるその笑顔に、無理に縮められない距離感に、安堵してしまう。
 彼は無闇にこちらへ踏み込まず、触れようなど決してせず、ただただ律儀に新聞だけを届けに来る。互いの名前さえ教えないまま。
 だけどさ――。
 そんな想いが沈むのを、彼女は飲み込んだ。
 わざわざ遠回りをして、下校中に公園の前を通るのは、ただの気まぐれなんだ。いい運動になるから、そうだ、そうなんだ。中学校と高校の放課時刻は違う。電車が駅に着くまでの時間だってある。
 だから、用事のあった彼の後ろ姿を数度見かけたのだって、別に朝の延長だ。「またね」は副産物。勝手に口から出てくるだけなんだ。


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 一方で彼女の気まぐれは毎朝は続けられず、元来の不眠は底意地悪く体を支配し早朝のアラームを拒んだ。
 それでも夜行性の彼女にとって、飛び飛びであれど早朝の起床は随分とした快挙だった。ともすれば、彼の言った景色を見たいとさえ思った。頼めば、彼は連れて行ってくれるだろうか。自分だけの世界を、ほんの少しでも見せてくれるだろうか。誰も知らない、深海の瞳を持つ少年だけが、一人きりで潜り続ける世界を。
 馬鹿馬鹿しい。思うたびに、彼女は自分で自分を笑う。
 所詮はただの景色の話、網膜に結ばれる像のこと、視神経が脳に伝えて見せているだけのもの。あいつは多分、歳の割に感受性が子どものままなんだ。誰かに笑いながら、少女はアラームを止める。
「これ、飲む?」
 そんなある朝、以前に自分が言った約束にもならない台詞をふと思い出し、少女は安いコーヒーの缶を揺らした。中身はまだたっぷり残っている。
「喉乾くでしょ。自転車なんかこいでたら」
 不思議そうな顔をする少年は、「まあ……」と曖昧な声を漏らした。
「ほら。気に入ったら全部飲んじゃってもいいよ」
「コーヒーですか……?」
「どう見てもコーヒーじゃん」
 缶のラベルを見せると、少年は左足を地について右手でハンドルを握ったまま、困ったように頷いた。
「もしかして飲めないの、コーヒー」
「いえ……飲めないことは、ないですけど……」
 どうにも歯切れが悪く、隙あらば彼は彼女から視線を外そうとする。前髪にその目を隠そうとする。
 なんだこいつ。少女は迷っている風な彼の素振りに、そのわけを考えた。
 そうして一つの答えにたどり着くと、眠気を忘れた笑い声をあげた。
「もしかして、照れてんの?」
「それは……」
 かき消えそうな声で何かを言おうとする彼は、否定をしない。代わりに、一層居心地悪そうに、上げかけた視線を逸らしてしまう。
「私がもう飲んだから? なにそれ、そんなん気にしてんの」
 遠慮なく彼女は笑った。この程度の間接キスに戸惑って躊躇うだなんて、小学生じゃあるまいし。
 これがもしも学校の男どもなら、いくらか金を出すやつだって現れるだろう。そんな輩に缶を渡すことなど、地球が最後の日を迎えたってあり得ないが。
 だからこそ、目の前の少年が彼らと同じ種の同じ性別の生き物であることすら、なんだか信じがたく思える。
「もしかして、いや?」
 そう問いかけると彼はぎゅっと口を閉じ、小さく首を横に振った。
「ならいーじゃん」
「……あなたは、嫌じゃないですか」
「嫌なら言わないし」
 その通りかと彼は頷く。煮え切らない手が伸ばされるのに、少女は軽く笑いながら缶を渡す。
「心配すんなよ、毒なんか入れてないって」
 少年は何かを訴えるように彼女を上目遣いに見ると、缶の中身を確かめるように軽く振り、ようやく一口含んだ。
 だがその一口で彼は口の端を歪め、缶を口元から離してしまった。眉を寄せる表情は、いかにも心外な味だと言っている風だ。
「どうしたの。まずかった?」
「いえ……」そう否定するがこれ以上は飲む気が起きないらしく、口をつけた部分と自身の口元を手で拭う。「ブラックですね……」
 缶を受け取った少女は思わず吹きだした。
「なに、あんたブラック飲めなかった? 書いてるじゃん、ほら」
「見えてなくって……ごめんなさい」
「謝んなよ。あーおかし」
 彼女の手に隠れ、BLACKの文字が読み取れなかったらしい。苦みが消えないのかしきりに口を動かす様子を見て、彼女は声を殺しながら、それでも笑ってしまう。
「目え覚めた?」
「覚めてます」
 気のせいか普段より投げやりな台詞を最後に、少年は会話を打ち切ってしまった。
 そうして夜明けへ向かう背中を見送り、缶の残りをあおって、少女はまた一つ気が付いた。
 彼は、こちらへ近づかない。
 最初は、視線を向けることさえしなかった。目を合わせるどころか言葉も最低限のまま、まるで少女に興味のかけらもない態度を貫いていた。今になって、ようやく伏せ気味の目を上げ、感情があることを示すように静かに笑うようになった。からかわれれば少しだけむくれ、または戸惑い、問いかけられると話し出す。
 だが、それだけなのだ。
 それが少女には新鮮だった。どれだけ構っても視線すら合わせない彼は、普段同級生の視線を浴びている彼女には稀有な存在だった。
 今だって無糖だと知れば無理に口に含むこともせず、あっさりと缶を返しさっさと背を向けてしまう。どこまでも素直で裏の見えない彼だから、全ての態度が本音に見える。だからこそようやく見られるその笑顔に、無理に縮められない距離感に、安堵してしまう。
 彼は無闇にこちらへ踏み込まず、触れようなど決してせず、ただただ律儀に新聞だけを届けに来る。互いの名前さえ教えないまま。
 だけどさ――。
 そんな想いが沈むのを、彼女は飲み込んだ。
 わざわざ遠回りをして、下校中に公園の前を通るのは、ただの気まぐれなんだ。いい運動になるから、そうだ、そうなんだ。中学校と高校の放課時刻は違う。電車が駅に着くまでの時間だってある。
 だから、用事のあった彼の後ろ姿を数度見かけたのだって、別に朝の延長だ。「またね」は副産物。勝手に口から出てくるだけなんだ。