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9

ー/ー



 昼間に振り始めた雨は、夜中には随分と激しさを増していた。
 いつものように天井板を見上げ、数を数え、細い手足を投げ出していた少女は、雨音が聞こえるかと耳を澄ませてみた。しかし窓もカーテンも閉ざされた部屋の中、補聴器すら外した耳では、雨粒の飛び降りる音など聞こえるはずがなかった。
 叔父が少女を独占する時間は、年月を追うごとに少しずつ長くなっていた。始まりが遅ければ、夜明けを感じる時刻にようやく終わる。
「まだ、雨降ってるの」
 横たわったまま、痩せた背中で呟く。
 カーテンレールがきしむ音に、もう雨は止んだという声が聞こえた。どこか訝しげな叔父の言葉に、「そう」とだけ返した彼女は僅かに目を細めた。それなら、滑って転ばなくて済む。それだけを思った。

 見ないようにした。追い抜いた自転車が決して追いつかないようにと願った。
 一秒でも早く自宅から車が離れるよう、停車したそれの助手席から最小限の隙間で滑り降りた。
 またねなど絶対に言わない。言ってたまるか。一瞥してやるだけで充分だろうと振り返り、思わず息を呑んだ。こうしてわざわざ運転席から叔父が降りてくることは初めてだった。
「菜々ちゃん」
 周りが静かなおかげで、耳の機械のスイッチを入れてしまったせいで、その声がしっかりと頭に届いてしまう。
「どこにも行くなよ」
 自分勝手な台詞とともに、無骨な両手で頬を挟まれる。意味を問いかけようとした口が塞がれる。手から鞄が滑り落ち、雨に濡れたアスファルトの上で音を立てた。
 呻くことすら、拒むことさえ少女にはできなかった。どんなに不安定でも辿るたびに嫌悪していても、いま現在の日常が存在する限り、この男を突き飛ばし拒絶する真似など許されなかった。
 辛うじて相手の肩を両手で掴み軽く押してみたが、男には離れるどころかそんな少女の抵抗になど気づく気配すらない。

 考えるな、何も感じるな、怖くない、板を見つめて、そう、見えなくても、数えて、ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 予想外の展開のおかげで上手な息継ぎさえ出来ない。僅かな酸欠に肩で呼吸をする少女からようやく顔を離した男は、乾いた右手でみずみずしい彼女の頬に触れる。
「おまえは俺のものだ。愛してるんだ」
 言いたいことだけを言うと、男は満足げに車に戻った。
 去っていくテールランプを横目に見ているうちに、夜の静寂が再び戻ってくる。
 彼女は腕で思い切り口元を拭った。唾を吐くことさえしなかったが、しつこいほどに右腕で唇を拭う。家の門の前で、後悔よりも不甲斐なさに近しい悔しさに、いっそのこと胃をひっくり返して嘔吐してしまいたくなる。

 愛だと。ふざけんな。ふざけんなふざけんな! 死ね、今すぐ死んでしまえ!

 胸いっぱいの罵詈雑言が今にも喉から転げ落ちそうだ。
 ただ、一言でも口から漏らせば、聞こえの悪い言葉の奔流が止まらなくなりそうだった。早朝にも関わらず、家の前で死ねと叫び続ける気の触れた高校生と化してしまう。ここまできて。これまで幾年も耐え凌いできて、今更、あんな男のために――。
 足元の小石を思い切り蹴飛ばした彼女は、響きすぎない声を八つ当たりのように投げつけた。
「見てたでしょ。隠れないでよ」
 彼には何一つ非などない。きちんと時間を守って自分の仕事を成しているだけの少年は、悪いことなどこれっぽちもしていない。だから全てとばっちりなのだが、やがてタイヤのから回る音が自動販売機の向こうで返事をした。
 ひどく項垂れて自転車を押しているばつの悪そうな彼は、彼女の数歩手前で足を止めた。折角雨が止んだというのに、滑って転んでしまうことよりも、二人にとってはよほど不運な出来事だった。
「なにその顔」
 落ちている鞄の紐を掴み家の敷地内へ手荒く投げ込むと、両腕を組んで少女は表情だけで笑った。嘲笑った。可哀想な少年を見下した。そうでもしなければ彼女自身も、彼の顔など見ることはできなかった。
「全部、見えちゃった?」
 顔を覗き込むと彼は微かに首を横に振り、濡れた地面にぽつぽつと雨粒のような言葉を落とす。
「……顔は、わかりませんでした。影だけで」
「ふーん。あっそう。でも何してるかぐらい、わかっちゃったでしょ」
 少年は言葉を返さない。
「前も言ったよね。喋ったら殺すよ。本気だから」
 いつか聞いたのと同種の脅迫に、少年は一度だけ頷く。朝を目前とした空を仰ぐ少女は、そんな彼を小ばかにするように、背に垂らした髪を軽く揺らした。
「あんたさ、どーせ女の子と付き合ったことなんてないでしょ。知らないでしょ、キスってさ、気持ちいいし、身体にも良くて、寿命まで延びるんだって。最高じゃない。どう、羨ましい?」
 彼だけには、見られたくなかった。この少年だけには、あんな自分の姿を目にしてほしくなかった。
 入り乱れる感情が、悲しみへベクトルを変えていく。
 それを全力で無視した彼女の明るく得意げな声に、少年はぽつりと呟いた。
「……でも、嫌そうだった」
 思いがけない言葉に、少女は作り笑顔を固める。嫌そうだって? そんな顔、誰にも見せたことはない。相手の叔父にさえ何年も隠し続けているというのに。
「嫌そう?」
 少女のオウム返しに、少年は俯いたままこくりと頷く。
「どうして」
「わからない」かぶりを振る。「だけど、絶対に嬉しそうじゃなかった。……だから、嫌だと思った」
 嫌だ嫌だと言いながら小さく首を横に振る少年。その揺れる前髪の向こうにある瞳は、言葉をその通りに映し、言いようのない悲しみに暮れていた。
 それを見て、少女は息を詰まらせた。彼の言葉を心で反芻し、胸の奥でつかえていた声の言うことに、ようやくまともに耳を貸した。

 好きなんだ。

 今まさに、悲しむ自分に代わって暗い顔をする彼が。笑顔と声が柔らかく、一度も怒ったことのない、深海の瞳を持つ少年が。
 いつからかはわからない。けれど、少し前から思っていた。それなのに、年下に対するつまらないプライドと意固地が邪魔をして、懸命に聞こえないふりをさせていた。
 だが、どう足掻いても、どんな言い訳をしても、心が訴える言葉は虚言ではない。
「ねえ」
 黙り込んでしまった少女に対し、どうすべきか迷っていた少年は、伏せていた目を慌ててあげた。
「休みっていつ?」
「休み?」
「そう。新聞配達だって、休みはあるでしょ。土日と被ってる日って、次はいつ?」
 まるで繋がりのない言葉に答えられずにいる少年に、少女はどこか大人びた表情で笑いかける。
「ちょっと付き合ってよ」
「なにに……」
「内緒」いたずらっぽく、唇の前に人差し指を立てた。
「……シフト見ないと、覚えてないです」
 もう彼女は大丈夫なのかという心配と、意図を読み取れない不安とを半分ずつ混ぜながら、彼は重たげに自転車のスタンドを立てた。配達の時間に、少年が少女の前でハンドルから両手を離すのは、今日が初めてだった。
 シャツの上に着ている黒いジャケットの胸ポケットから、一冊の手帳を取り出してパラパラと捲る。裏表紙には細く短いボールペンが挟まれている。片手で扱えるほどの小さな手帳は、子どもっぽさがなくシンプルだった。黒い皮のカバーに、紙は随分と薄くページ数が多い。中には小さくコピーされた新聞配達のシフト表が貼り付けられ、学校の時間割や電車の時刻表、あらゆるメモが細かく書き込まれている。途中に丸々一ページに「どうしたの?」と書かれただけの空間が目立ち、後ろの白紙のページは数えるほどしか残っていない。随分と使い込まれた手帳だった。
 それを見ながら、彼は二週間後の土曜日を探し当てた。
「大人みたいなもん、持ってんだ」
「あっ」
 向かいからひょいと手を伸ばし、少女はそれを軽く取り上げてしまった。
「もらったんです」途端に不満げな顔をして彼が手を伸ばすが、それを避ける少女は手帳を適当に捲り、愉快そうに頬を上げてみせた。
「誰に?」
「父親に。……二年前、中学入ったぐらいの頃に」
「てことは、入学祝い?」
「祝いっていうか……。年度初めで、買っておいたのを忘れててもう一冊買ってきたっていうのを、もらって……」
「なにそれ。余りもんじゃん」
 少女は勝手にページを捲りながら身体を背ける。文句を表情で語る彼の手が空をかく。
「……新聞配達始めた頃で、これいるかって……。ぼくが欲しそうに見てたからだろうけど」
「物乞いっていうんだよ、それ」
 ふざけて目の前でひらひらと振ってやると、ようやく手帳を取り返した彼は彼女の言葉に苦笑した。安堵しながらペンを挟みなおし、大事そうにポケットにしまう。
 そうして本来の進行方向を向いた彼は、いつもより強く迫りくる夜明けにはっと目を見開いた。慌てて手帳とは反対の右ポケットから取り出したのは、ありふれた安っぽい腕時計。
 まずい。珍しくそんな表情を見せると、かごから取り出した新聞を彼女に手渡し、ハンドルを握った自転車のスタンドを音を立てて倒した。
「なに、そんなに時間やばい?」
「かなり」
「遅刻する?」
「頑張ります」
 それでも普段通りに律儀に軽く頭を下げると、余裕のなさをあらわに数歩アスファルトを蹴っていく。まだ抱えるほどの新聞を積んだ自転車は見た目通り重たく、少しだけ助走をつけてタイヤを回すと、その勢いで自転車に飛び乗った。
 細い少年の身体は、懸命に立ち漕ぎで加速しながら、躊躇も未練も何一つなく去っていく。踏み込み過ぎない、彼のいつもの後ろ姿。
 言ってやればよかったと、少女は少しだけ後悔した。時間の経過は気に留めていたが、好きだと気づいてから彼の表情が気になって、僅かだけでも見ていたくて、そろそろじゃないかと言い出せないでいた。あれほどまでに慌てる時間なら、さっさと言うべきだったのに。
 雨上がりのアスファルトで、転んだりしませんように。たちこめる白い朝焼けを見つめながら、少女は祈る。
 急ぐ彼が、決して事故に遭ったりしませんように。学校に遅刻しませんように。誰かに叱られたりしませんように。
 聡明で成績優秀な少女は、これまで一度も習わなかった感情を噛み締めた。誰かに対する祈りという、胸のつまりを感じていた。


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 いつものように天井板を見上げ、数を数え、細い手足を投げ出していた少女は、雨音が聞こえるかと耳を澄ませてみた。しかし窓もカーテンも閉ざされた部屋の中、補聴器すら外した耳では、雨粒の飛び降りる音など聞こえるはずがなかった。
 叔父が少女を独占する時間は、年月を追うごとに少しずつ長くなっていた。始まりが遅ければ、夜明けを感じる時刻にようやく終わる。
「まだ、雨降ってるの」
 横たわったまま、痩せた背中で呟く。
 カーテンレールがきしむ音に、もう雨は止んだという声が聞こえた。どこか訝しげな叔父の言葉に、「そう」とだけ返した彼女は僅かに目を細めた。それなら、滑って転ばなくて済む。それだけを思った。
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「どこにも行くなよ」
 自分勝手な台詞とともに、無骨な両手で頬を挟まれる。意味を問いかけようとした口が塞がれる。手から鞄が滑り落ち、雨に濡れたアスファルトの上で音を立てた。
 呻くことすら、拒むことさえ少女にはできなかった。どんなに不安定でも辿るたびに嫌悪していても、いま現在の日常が存在する限り、この男を突き飛ばし拒絶する真似など許されなかった。
 辛うじて相手の肩を両手で掴み軽く押してみたが、男には離れるどころかそんな少女の抵抗になど気づく気配すらない。
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 去っていくテールランプを横目に見ているうちに、夜の静寂が再び戻ってくる。
 彼女は腕で思い切り口元を拭った。唾を吐くことさえしなかったが、しつこいほどに右腕で唇を拭う。家の門の前で、後悔よりも不甲斐なさに近しい悔しさに、いっそのこと胃をひっくり返して嘔吐してしまいたくなる。
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 ただ、一言でも口から漏らせば、聞こえの悪い言葉の奔流が止まらなくなりそうだった。早朝にも関わらず、家の前で死ねと叫び続ける気の触れた高校生と化してしまう。ここまできて。これまで幾年も耐え凌いできて、今更、あんな男のために――。
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 ひどく項垂れて自転車を押しているばつの悪そうな彼は、彼女の数歩手前で足を止めた。折角雨が止んだというのに、滑って転んでしまうことよりも、二人にとってはよほど不運な出来事だった。
「なにその顔」
 落ちている鞄の紐を掴み家の敷地内へ手荒く投げ込むと、両腕を組んで少女は表情だけで笑った。嘲笑った。可哀想な少年を見下した。そうでもしなければ彼女自身も、彼の顔など見ることはできなかった。
「全部、見えちゃった?」
 顔を覗き込むと彼は微かに首を横に振り、濡れた地面にぽつぽつと雨粒のような言葉を落とす。
「……顔は、わかりませんでした。影だけで」
「ふーん。あっそう。でも何してるかぐらい、わかっちゃったでしょ」
 少年は言葉を返さない。
「前も言ったよね。喋ったら殺すよ。本気だから」
 いつか聞いたのと同種の脅迫に、少年は一度だけ頷く。朝を目前とした空を仰ぐ少女は、そんな彼を小ばかにするように、背に垂らした髪を軽く揺らした。
「あんたさ、どーせ女の子と付き合ったことなんてないでしょ。知らないでしょ、キスってさ、気持ちいいし、身体にも良くて、寿命まで延びるんだって。最高じゃない。どう、羨ましい?」
 彼だけには、見られたくなかった。この少年だけには、あんな自分の姿を目にしてほしくなかった。
 入り乱れる感情が、悲しみへベクトルを変えていく。
 それを全力で無視した彼女の明るく得意げな声に、少年はぽつりと呟いた。
「……でも、嫌そうだった」
 思いがけない言葉に、少女は作り笑顔を固める。嫌そうだって? そんな顔、誰にも見せたことはない。相手の叔父にさえ何年も隠し続けているというのに。
「嫌そう?」
 少女のオウム返しに、少年は俯いたままこくりと頷く。
「どうして」
「わからない」かぶりを振る。「だけど、絶対に嬉しそうじゃなかった。……だから、嫌だと思った」
 嫌だ嫌だと言いながら小さく首を横に振る少年。その揺れる前髪の向こうにある瞳は、言葉をその通りに映し、言いようのない悲しみに暮れていた。
 それを見て、少女は息を詰まらせた。彼の言葉を心で反芻し、胸の奥でつかえていた声の言うことに、ようやくまともに耳を貸した。
 好きなんだ。
 今まさに、悲しむ自分に代わって暗い顔をする彼が。笑顔と声が柔らかく、一度も怒ったことのない、深海の瞳を持つ少年が。
 いつからかはわからない。けれど、少し前から思っていた。それなのに、年下に対するつまらないプライドと意固地が邪魔をして、懸命に聞こえないふりをさせていた。
 だが、どう足掻いても、どんな言い訳をしても、心が訴える言葉は虚言ではない。
「ねえ」
 黙り込んでしまった少女に対し、どうすべきか迷っていた少年は、伏せていた目を慌ててあげた。
「休みっていつ?」
「休み?」
「そう。新聞配達だって、休みはあるでしょ。土日と被ってる日って、次はいつ?」
 まるで繋がりのない言葉に答えられずにいる少年に、少女はどこか大人びた表情で笑いかける。
「ちょっと付き合ってよ」
「なにに……」
「内緒」いたずらっぽく、唇の前に人差し指を立てた。
「……シフト見ないと、覚えてないです」
 もう彼女は大丈夫なのかという心配と、意図を読み取れない不安とを半分ずつ混ぜながら、彼は重たげに自転車のスタンドを立てた。配達の時間に、少年が少女の前でハンドルから両手を離すのは、今日が初めてだった。
 シャツの上に着ている黒いジャケットの胸ポケットから、一冊の手帳を取り出してパラパラと捲る。裏表紙には細く短いボールペンが挟まれている。片手で扱えるほどの小さな手帳は、子どもっぽさがなくシンプルだった。黒い皮のカバーに、紙は随分と薄くページ数が多い。中には小さくコピーされた新聞配達のシフト表が貼り付けられ、学校の時間割や電車の時刻表、あらゆるメモが細かく書き込まれている。途中に丸々一ページに「どうしたの?」と書かれただけの空間が目立ち、後ろの白紙のページは数えるほどしか残っていない。随分と使い込まれた手帳だった。
 それを見ながら、彼は二週間後の土曜日を探し当てた。
「大人みたいなもん、持ってんだ」
「あっ」
 向かいからひょいと手を伸ばし、少女はそれを軽く取り上げてしまった。
「もらったんです」途端に不満げな顔をして彼が手を伸ばすが、それを避ける少女は手帳を適当に捲り、愉快そうに頬を上げてみせた。
「誰に?」
「父親に。……二年前、中学入ったぐらいの頃に」
「てことは、入学祝い?」
「祝いっていうか……。年度初めで、買っておいたのを忘れててもう一冊買ってきたっていうのを、もらって……」
「なにそれ。余りもんじゃん」
 少女は勝手にページを捲りながら身体を背ける。文句を表情で語る彼の手が空をかく。
「……新聞配達始めた頃で、これいるかって……。ぼくが欲しそうに見てたからだろうけど」
「物乞いっていうんだよ、それ」
 ふざけて目の前でひらひらと振ってやると、ようやく手帳を取り返した彼は彼女の言葉に苦笑した。安堵しながらペンを挟みなおし、大事そうにポケットにしまう。
 そうして本来の進行方向を向いた彼は、いつもより強く迫りくる夜明けにはっと目を見開いた。慌てて手帳とは反対の右ポケットから取り出したのは、ありふれた安っぽい腕時計。
 まずい。珍しくそんな表情を見せると、かごから取り出した新聞を彼女に手渡し、ハンドルを握った自転車のスタンドを音を立てて倒した。
「なに、そんなに時間やばい?」
「かなり」
「遅刻する?」
「頑張ります」
 それでも普段通りに律儀に軽く頭を下げると、余裕のなさをあらわに数歩アスファルトを蹴っていく。まだ抱えるほどの新聞を積んだ自転車は見た目通り重たく、少しだけ助走をつけてタイヤを回すと、その勢いで自転車に飛び乗った。
 細い少年の身体は、懸命に立ち漕ぎで加速しながら、躊躇も未練も何一つなく去っていく。踏み込み過ぎない、彼のいつもの後ろ姿。
 言ってやればよかったと、少女は少しだけ後悔した。時間の経過は気に留めていたが、好きだと気づいてから彼の表情が気になって、僅かだけでも見ていたくて、そろそろじゃないかと言い出せないでいた。あれほどまでに慌てる時間なら、さっさと言うべきだったのに。
 雨上がりのアスファルトで、転んだりしませんように。たちこめる白い朝焼けを見つめながら、少女は祈る。
 急ぐ彼が、決して事故に遭ったりしませんように。学校に遅刻しませんように。誰かに叱られたりしませんように。
 聡明で成績優秀な少女は、これまで一度も習わなかった感情を噛み締めた。誰かに対する祈りという、胸のつまりを感じていた。