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 早朝の薄闇の中、目を伏せて言葉を呟くだけだった少年がようやく笑顔を見せたその日から、少女はいくつかのことに気がついた。
 彼の目は、暗いのではない。深いのだ。黒々とした水面のような瞳の奥は、海の底のように深かった。少女が前髪を通して覗き込むと、新聞を届けに来た彼は深海の瞳で瞬きをした。しかし何も言わない少女が、自分を見ているのではなく見つめているのだと気が付くと、途端に目を逸らして頭を下げ、慌てて次へ向かってしまうのだった。

 相変わらず、安い缶コーヒーを片手に会話をする時間は、三分にも満たない。誤差を一、二分しか許さない新聞配達の少年がやってくる五時半という早朝は、睡眠リズムの崩れた不眠症の少女が起き出すにはあまり適さない時間だった。
 隣の部屋で眠る母を起こさないよう、目覚まし時計ではなく小さな音で短時間だけ鳴るようにスマートフォンのアラームをセットしたことを、少女は気まぐれと呼んだ。五時二十分。この時間には喉が渇くんだ。家の麦茶や牛乳では満たされない類の、身体に悪い味を求める時間。それだけなのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
 少女にとって、それまで朝は憎しみの象徴で、待ち伏せている今日という憂鬱を予感させる厄介なものだった。
 しかし鳴り始めたアラームを切るたびに、少女は一つのことを思う。
 今日は何を話そうか。コーヒーに溶けるミルクのように、緩やかに差し込む朝陽をカーテンの隙間に感じながら考えた。
 家のことなどつまらない。学校のことなど思い出したくもない。そうだ、それなら聞いてやろうか。あいつはいっつも真面目に答える。中三のくせに反抗期のはの字もない、変なやつ。
 そうして彼女は、階段を下りる。

 五月も終わる季節になると、出会った約ひと月前より朝の光は少しだけ強さを増し、夜から力を奪い始めた。それでも性懲りもなく居座る霧のような薄闇に、タイヤの軋む音が響く。
「おはよ」しつこい低血圧のせいで、わざわざ外に出てくる少女の声に覇気はない。
「おはようございます」自転車を止めて答える少年の声も小さく、夜明けの邂逅は短くささやかで儚い。ほんの数分、缶コーヒーを飲み終わるにも至らない時間、二人は言葉を交わした。
「よくやるよね」
 美味しくなどない缶の中身をあおり、新聞を取り出す少年に少女は言った。
「雨の日なんか大変なんじゃない」
「大変です」
 彼は決してにこやかではない。少なくとも、いつも笑顔で元気いっぱいの少年には程遠い。だが、無闇に視線を逸らしはしなくなった。
 少女は、彼の本当の姿を考えた。表と裏。本音と建て前。必ずこいつにもあるはずだと少ない記憶を手繰ったが、紐の先に答えは結び付いてはこない。いくらからかってみても、皮を脱いで嫌悪を向ける兆候すらなく、憮然とした表情を見せても怒る気配さえない。
「水たまりで滑って転んだりしたら、もう……」
「死にたくなる?」
 彼女の言葉に、「そこまでは」と彼は僅かに頬を上げて少しだけ笑った。
 塀にもたれ、中身の半分残った缶を右手にふらふらと揺らし、新聞受けに腕を伸ばす少年を眺める。
「楽しいの、新聞配達」
「……楽しいとかは、あまり、ないですけど」
「楽しくもないのに、よくやってんね」
 少年の深い瞳が彼女に向けられる。呟くような声量でも、彼の声は下に落ちず、穏やかに彼女の鼓膜を叩く。
「冬のまだ暗い時間は、専売所に行く途中の坂道で、星が綺麗に見えるんです」
「星なんて、晴れてればいつでも見えるでしょ」
「特別なんです。それに、この先の坂の上からも、振り返ったら朝陽が見えて。街が照らされていって……。なんだか、この世界に自分しかいないって気がして」
 彼が前髪で隠す目を見つめると、心に思い浮かべるその光景がまさにその中に見える気がする。
「みんなが眠ってて。この景色はぼくしか知らないんだって。ぼくだけの世界だって、思って。すごく綺麗で。後ろに白い三日月が昇ってると、それだけで、充分で」
 朝と夜の境目の、静謐な世界。足元に広がるこの町を、少年は一人で眺める。空には、型抜きされた月の跡。少女が憎む朝を、一方で少年はそうして見つめている。自分しか知らない、誰の声も姿もない、孤独で美しい世界の様相。
 夜の星空を、冷たい空気を、迎える朝焼けを、薄まる月の影を。新聞配達の少年は、全身で受け止める。
 言葉を交わす時間はそれがせいぜいで、少年はサドルから下りることもなく、いつも軽く頭を下げて行ってしまう。全ての人間に横顔だけを見せ、自分だけが知る世界へ向かい、潜るように消えていく。毎朝。飽くことなく、毎朝。


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 早朝の薄闇の中、目を伏せて言葉を呟くだけだった少年がようやく笑顔を見せたその日から、少女はいくつかのことに気がついた。
 彼の目は、暗いのではない。深いのだ。黒々とした水面のような瞳の奥は、海の底のように深かった。少女が前髪を通して覗き込むと、新聞を届けに来た彼は深海の瞳で瞬きをした。しかし何も言わない少女が、自分を見ているのではなく見つめているのだと気が付くと、途端に目を逸らして頭を下げ、慌てて次へ向かってしまうのだった。
 相変わらず、安い缶コーヒーを片手に会話をする時間は、三分にも満たない。誤差を一、二分しか許さない新聞配達の少年がやってくる五時半という早朝は、睡眠リズムの崩れた不眠症の少女が起き出すにはあまり適さない時間だった。
 隣の部屋で眠る母を起こさないよう、目覚まし時計ではなく小さな音で短時間だけ鳴るようにスマートフォンのアラームをセットしたことを、少女は気まぐれと呼んだ。五時二十分。この時間には喉が渇くんだ。家の麦茶や牛乳では満たされない類の、身体に悪い味を求める時間。それだけなのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
 少女にとって、それまで朝は憎しみの象徴で、待ち伏せている今日という憂鬱を予感させる厄介なものだった。
 しかし鳴り始めたアラームを切るたびに、少女は一つのことを思う。
 今日は何を話そうか。コーヒーに溶けるミルクのように、緩やかに差し込む朝陽をカーテンの隙間に感じながら考えた。
 家のことなどつまらない。学校のことなど思い出したくもない。そうだ、それなら聞いてやろうか。あいつはいっつも真面目に答える。中三のくせに反抗期のはの字もない、変なやつ。
 そうして彼女は、階段を下りる。
 五月も終わる季節になると、出会った約ひと月前より朝の光は少しだけ強さを増し、夜から力を奪い始めた。それでも性懲りもなく居座る霧のような薄闇に、タイヤの軋む音が響く。
「おはよ」しつこい低血圧のせいで、わざわざ外に出てくる少女の声に覇気はない。
「おはようございます」自転車を止めて答える少年の声も小さく、夜明けの邂逅は短くささやかで儚い。ほんの数分、缶コーヒーを飲み終わるにも至らない時間、二人は言葉を交わした。
「よくやるよね」
 美味しくなどない缶の中身をあおり、新聞を取り出す少年に少女は言った。
「雨の日なんか大変なんじゃない」
「大変です」
 彼は決してにこやかではない。少なくとも、いつも笑顔で元気いっぱいの少年には程遠い。だが、無闇に視線を逸らしはしなくなった。
 少女は、彼の本当の姿を考えた。表と裏。本音と建て前。必ずこいつにもあるはずだと少ない記憶を手繰ったが、紐の先に答えは結び付いてはこない。いくらからかってみても、皮を脱いで嫌悪を向ける兆候すらなく、憮然とした表情を見せても怒る気配さえない。
「水たまりで滑って転んだりしたら、もう……」
「死にたくなる?」
 彼女の言葉に、「そこまでは」と彼は僅かに頬を上げて少しだけ笑った。
 塀にもたれ、中身の半分残った缶を右手にふらふらと揺らし、新聞受けに腕を伸ばす少年を眺める。
「楽しいの、新聞配達」
「……楽しいとかは、あまり、ないですけど」
「楽しくもないのに、よくやってんね」
 少年の深い瞳が彼女に向けられる。呟くような声量でも、彼の声は下に落ちず、穏やかに彼女の鼓膜を叩く。
「冬のまだ暗い時間は、専売所に行く途中の坂道で、星が綺麗に見えるんです」
「星なんて、晴れてればいつでも見えるでしょ」
「特別なんです。それに、この先の坂の上からも、振り返ったら朝陽が見えて。街が照らされていって……。なんだか、この世界に自分しかいないって気がして」
 彼が前髪で隠す目を見つめると、心に思い浮かべるその光景がまさにその中に見える気がする。
「みんなが眠ってて。この景色はぼくしか知らないんだって。ぼくだけの世界だって、思って。すごく綺麗で。後ろに白い三日月が昇ってると、それだけで、充分で」
 朝と夜の境目の、静謐な世界。足元に広がるこの町を、少年は一人で眺める。空には、型抜きされた月の跡。少女が憎む朝を、一方で少年はそうして見つめている。自分しか知らない、誰の声も姿もない、孤独で美しい世界の様相。
 夜の星空を、冷たい空気を、迎える朝焼けを、薄まる月の影を。新聞配達の少年は、全身で受け止める。
 言葉を交わす時間はそれがせいぜいで、少年はサドルから下りることもなく、いつも軽く頭を下げて行ってしまう。全ての人間に横顔だけを見せ、自分だけが知る世界へ向かい、潜るように消えていく。毎朝。飽くことなく、毎朝。