今の彼は目を伏せず、きちんと相手の顔に視線をやって口を開いている。そんな随分と珍しい様子の少年を、少女は途中にある公園に誘った。「暇でしょ?」そんな無礼な台詞をかけられた彼は数秒悩む顔を見せたが、特に反論もせず大人しく着いてきた。
いつも少年が自転車に跨っているおかげで、こうして初めて二人は並んだが、互いの目の高さはほぼ同じ位置にあった。正確には少女の方が僅かに身長は高かったが、それが誤差の範囲であれば、二人はどちらも首を傷めずに相手の顔を見ることが出来た。
広い公園では小学生が鬼ごっこをし、更に幼い子どもたちは砂場やブランコではしゃいでいる。
「あんた、中学このへん?」
ベンチに腰掛けた少女の左側で、少年は頷いた。
「第二でしょ。緑ヶ丘」
少女の言葉に彼は怪訝な顔を見せたが、すぐに自分の半袖シャツをつまんで納得した。白いシャツには、袖に学校の名称が刺繍されている。卒業生である彼女は、それをよく知っていた。
「じゃあ、家この近くなんだ」
「この近く……近いかは、わからないですけど」
首を傾げる少年が口にした町名は、少女が想像した方角とは全く異なっていた。
「遠くない? え、じゃあ、そっからわざわざうちの方まで新聞配達しに来てんの。もっと家に近い専売所とかなかったの」
「初めは、いくつかあたったんですけど……高校生からっていうところばかりで。ぼくでもいいって言ってくれる専売所は、今のところだけです」
「それじゃあ、いっつも何時に起きてんの」
「四時、十分くらいですね……。四時半に出たら、五時には間に合います」
早朝に自転車で三十分かけて専売所へ赴き、更に一時間半かけて新聞を届けた後に、急いで帰って学校に向かう。当然今日もそれらの帰りだと知り、生活リズムの崩れている少女は内心で感嘆した。細い体してるくせに、意外と体力おばけなんだな。口には出さずにそう思った。
「あんたさ、それ下手な大人よりきつい生活じゃん」
「慣れたら、そうでもないです」
「大人ぶっちゃって。卵ボーロなんて買ってるくせにさ。ただのおこちゃまじゃない」
「ぼくの分じゃないし……スーパーに行って、目に入ったから買ったんです」
自分の左脇に置いていた鞄を膝に乗せ、彼はチャックを開いて中身を見せた。スーパーのビニール袋の中には、卵ボーロに加えて洗濯用洗剤や歯磨き粉といった日用品が詰められていた。
「ふーん。おつかいの帰りなんだ」
「まあ……。今朝見たら、洗剤が切れそうだったから。買って帰ったら、喜ぶかなと思って」
「そんで、おやつなんか買ったの」
「これは、弟が喜ぶから」
「弟なんかいるんだ」鞄を横に置き直す少年に、少女は僅かに驚きを秘めた声をかけた。「卵ボーロなんか食べんの、その子」
「大好きみたいです」
「歳離れてんだ」
「そうですね……。十一、離れてます」
「それはまた」
それならば、彼の先ほどの対応には納得がいった。女の子の耳が聞こえないことに戸惑いはしても、膝をついて目線を合わせる姿にはどこか慣れた雰囲気があった。あの女の子は、彼の弟と年の近い子どもだったのだ。
「可愛くて、危なっかしいんです」明るい日差しの下、彼はいつも引き結んでいる口元を緩めていた。
「両親が見てられない間、ぼくが面倒見るんですけど……いたずらばっかりで。コンロに手を伸ばしたり、お風呂によじ登ったり、ベランダに出ようとしたりして」
迷惑そうな話をする割に、彼はどこか楽しそうだった。そういえば自分に向けられる笑顔は初めてだと、少女はそれを見て思う。
「なんか、あんたとあんま似てないっぽいね」
「全然似てないです。弟は、いっつもにこにこしてて、元気で、可愛くて」
「ばか兄貴じゃん」
否定せず、彼はその通りだと笑った。
少年の笑い声は決して大きすぎず、耳に優しい。笑顔は底抜けていないが、静かで柔らかい。大事な弟にもこうして笑いかけて可愛がっているのだとは、楽に察することが出来た。
「じゃああんた、家でたかいたかーいとかすんの?」少女は宙に伸ばした両腕を軽く上げてみせる。
しかし彼は笑ってかぶりを振った。
「いえ。ぼくだと危ないって、あまり抱っこするなって、両親は言うんです」
「信用ないんじゃん」
「そうですね」少し困った風に指先で頬をかく。「でも、たまに二人で団地の駐車場で遊んでるとき、負ぶって走ってあげると、すっごく喜んで」
「ふーん。私、ちびっ子と関わることなんて全然ないし、兄弟いないからよくわかんないけど。懐いてんだ」
「そうなら嬉しいんですけど……」
「急に弱気になりやがって」
控えめな少年の台詞に、少女はにやりと笑う。こちらを向く彼の顔の手前で軽く空気を弾いてやると、自身の卑屈さを理解している少年は苦笑した。
「でも、その子が生まれた時って、もう十一だったんでしょ。よっぽど面倒見てきたんじゃない」
「両親、共働きなので。見てはきたつもりです」
「そんなら懐くもんでしょ、子どもなんて」
次第に傾く陽射しに照らされる横顔で、「そうですね……」と彼は小さく首を傾げたが、やがて思いついた風に少しだけ目を細める。
「夜……いえ、明け方、ぼく四時過ぎに起きて家出るんですけど。うち、団地で狭いから、気をつけないと家族を起こしちゃうんです。それで、ゆうと……弟が目を覚ましちゃうと、もう大変で。一緒に行くって言うんです。まだ真っ暗で、寝てていいのに。おにいちゃんと行きたいって、外行きたいって、眠いくせに騒ぐんです」
うっかり弟を弟を呼ぶことを忘れた彼の話に、「ふうん」と少女は頷く。
「両親も起きちゃうし、だけどぼくは出ないといけないから……いつも寝かしつけてもらうのは、悪いけど」
呟くのでも訴えるのでもない彼の語り口調は柔らかく穏やかで、話の登場人物たちがいかに大切な存在であるかを物語っていた。
「じゃあ、もしね。もしもの話よ。その子がさ、大きな病気になったりしたらどうする? 現代医学じゃ治らない、原因不明の病気になったら」
少し意地悪な質問だった。それだけ大切な人の不幸に、この少年は何を考えるだろうと、少女は興味を抱いたのだった。
少年は不審そうに眉根を寄せたが、すぐに返事をした。
「医者になります」
「医者? 自分が?」
あはは、と少女は明るく笑う。
「あのね、中学生。医者ってそうそうなれないんだから。あんたの偏差値知らないけど、よっぽど頭良くって、ずっと勉強してないといけないんだから。それに、治らないってさっき言ったじゃん」
「それなら、頑張ります。現代医学で駄目なら、その先で成功するまで頑張ります」
なんて根拠のない話だ。やっぱりこいつは馬鹿なんだ。さっきまで笑ってたくせに、たちまち真剣な顔をして。
「そんでもさ、病気の治療とか研究だとかって、お金もかかるのよ。たとえ技術があってもお金がなければどうしようもない」
「なら、もっと働きます。もっとずっと働いて、早く大人になります」
「それでも足りなかったら? 大人になる時間もなかったら?」
「内臓売ります」
いいことを思いついたという表情をみせ、彼は言った。
だが、あまりの台詞に少女は吹きだした。現実的なのか妄想的なのかわからない言葉に、うっかり笑ってしまう。
「若い臓器って、高く売れるっていうじゃないですか」
「ばかだね、ほんとに。腎臓でも売るの?」
「二個ある分なら、かたっぽぐらい平気ですよ。助けられるなら、腎臓でも、肺でも、目でも」
「心臓ならって言われたら」
「あげます」
即答する彼は、彼女の冗談に冗談を返していなかった。まるで本当に弟が病気になったかのように、真剣に考えている。
「よっぽどだね、あんた。よっぽど頭悪いんだ」
だが馬鹿にする彼女には、「嘘でしょ、いざとなれば出来ないくせに」という意地悪な台詞は思いつかなかった。ただ本気でこんな台詞を並べる彼の真剣さに笑った。
そうして笑われる少年は不本意から憮然な顔を見せたが、全てがifの話であると思い出すと口元を緩めた。可笑しそうな顔をする少女に何も言わないまま、どこか幼さの残る笑顔を見せた。
笑われてんのに、やっぱり変なやつ。
そう思う彼女は、そんな変なやつを前に不思議な感情が湧いているのに気が付いた。ほんの少し前の自分が抱いていた、世界の生きとし生けるものに対する憎しみの嵐はいつの間にか収まり、穏やかな波間へと化けていた。押しつけではない控えめで緩やかな彼の笑顔は、儚いくせにそんな効果を彼女に与えた。
「なんか、ちょっと気晴れたわ」
「気?」
「すっごい苛々してたからさ。もーほんと、通り魔にでもなろうかってぐらい」
「いらいらって、何かあったんですか」
伸びた前髪の向こうで不思議そうな目をする少年に、少女は軽く手を振ってみせる。
「大人の話よ。おこちゃまのあんたに言ったって、どーしようもないこと」
男どもの下心や女どもの嫉妬心が原因だなんて、わざわざ年下の彼に語る気にはなれない。思い出すと、折角収まりかけた心の波が再びざわめきだす気もしたのだ。
そうして少女は少年に煽るような台詞を吐いたのだが、彼は少し考えるそぶりを見せた後、再び自分の鞄に手を入れた。
「ひとつ、食べますか?」取り出すのは、残りの四袋が連なった子ども向けの駄菓子。「これ、カルシウムが入ってるって。いらいらしてる時って、カルシウム摂るといいんだって聞きました」
いかにも子どもじみた台詞だが、これが彼なりの励まし方なのだ。中三の癖に可愛いやつだなと、少女は笑う。
「でもこれ、さっき言ってた弟の分でしょ。千切ったのバレたら拗ねるんじゃない?」
「綺麗に切ったら、きっとわからないし……」
袋同士の境目を折り曲げながら、しかし少年は首をひねった。「いや、察しのいい子だから、わかっちゃうかな……」
「怒るよ、その子。せっかくの大好きなおやつをさ、兄貴が女の子二人に浮気してプレゼントしたなんて知ったら、ぶちギレんじゃない? もう遊んでくんないかもよ」
初めはきょとんとしていた少年も、やがて可笑しそうに笑った。それを見ていると何故だか彼女の方も、カルシウムを摂る前から心のもやもやが晴れていくのを感じる。
「それなら、半分こしましょう」
「半分こって、その言い方。小学生じゃないんだから」
「ぼくが我慢できなくて、食べちゃったってことにします。食べれば嘘にはならないから。あと三つは全部あげて、許してもらいます」
開けた子袋の中身を、二人は一粒ずつ数えてちょうど同じ数だけ食べた。少女が嘗てそれを口にしたのは記憶にないほど昔のことだが、これほど美味しいものだったろうか。小さなクリーム色の粒は、口の中で柔らかく溶けていった。
「じゃあ、お返し。いいこと教えてあげる」
最後の一粒が消えてなくなると、少女は少年の方へ身を乗り出した。
戸惑う彼の右手を掴みこぶしに握らせ、顔の横に持ち上げる。
「これで、おはよう」
その手を下ろさせると、少年はようやく納得したように頷いた。
「知っといて損はないでしょ。さっきの子がまた道に迷った時に泣いちゃったら、あんたも泣いちゃうんじゃない?」
短時間では会話になるほど詳しい手話は教えられない。しかし少女は自分の手を動かし、彼に真似させる。対する彼も至極興味深そうな顔をして、覚えてしまおうと同じように手を動かした。
おはよう。ごめんね。ありがとう。
軽く握った左手の甲を、右手で撫でる仕草をする。
「これで、大好き」
「だいすき……」
呟いて、彼は真剣な態度で手を動かす。そうして顔を上げ、正面の少女がにやにやと笑っているのに気付くと、うっと息を呑んだ。たちまち一気に口を結び視線を逸らすのは、彼の幼い照れ隠しだった。
「マセガキ」
少女がわざと意地悪に笑って顔を覗き込もうとすると、彼は咄嗟に前髪に隠れてしまう。
「そういうことじゃ……」
一気に小さくなった彼の声は、公園の時計台から流れる六時を告げるメロディーにかき消された。
「もう遅いけど、大丈夫ですか」
公園を出て少女の隣を並んで歩きながら彼が言った。
「大丈夫よ。まだ陽が暮れたわけじゃないし」
「でも、家まで距離ありますよね」
「家知ってんの。ストーカーか」
「だって、毎朝……」
「わかってるって」
不満げな少年に少女は笑いかける。これでも彼は怒らないらしい。ようやく笑顔は見られたが、彼の苛立ちや怒りといった表情は、彼女はまだ目にしていなかった。
「大した距離じゃないし、大通り通ってくし。それよりあんたの方がずっと遠いじゃん。よかったの? こんな時間になって」
「大丈夫です」そう言って彼は頷いた。「今日は、お迎えもないし……」
「お迎え?」
「弟が、保育園に行ってるので。今は母も時短で職場の帰り道だから、いつもは母が行ってるんですけど。それでも行けなかったり遅くなりそうなときは、ぼくが代わりに行ってるんです」
「それじゃ今日みたいなさ、迎えがない時はなにやってんの。夕刊は配ってないんでしょ」
「バイトは、朝だけです。普段は……洗濯物入れといたり、掃除とか……上手にはできないけど、ちょっとだけ、晩ご飯作るとか」
「苦労少年」
「難しいことはしてないです。昼間は家に誰もいないし。ぼくはどうせ暇だから」
今時珍しい中三だな。まるで漫画の世界だ。出会った当初に感じたのと同じ感想を少女は抱いた。
「今日はよかったの」
「まあ、少しぐらいは……。明日から、ちゃんとやり直します」
「明日やろうは馬鹿やろうよ」
随分とふざけた無慈悲な台詞だったが、困った顔をした少年は少女が笑うと目を細めて笑った。
彼女にとってこれほど誰かと話し込んだのは、随分と久々のことだった。せいぜい一休みする程度のはずが、一時間以上も言葉を交わしていただなんて。普段の生活では考えられない。
強火で燃えていたはずの炎が、いつの間にか弱火どころかすっかり消えてしまっているのに少女は気がついた。
今日最後の陽射しを横顔に受ける少年が、さようならと言いかけた。
「またね」
よく通る声とともに、少女が片手を上げる。それを見た少年は小さく頭を下げ、同じ言葉を口にした。迷いながらも上げた左手を軽く振り、家を目指す人たちの雑踏に踏み込んでいく。
変わったやつ。変なやつ。
声に出さず呟きながら、少女は彼の後ろ姿が見えなくなるまで幾度も振り返り見送った。しっかりと伸びた少年の細い背中は、朝とは異なる夕暮れの世界に消えていった。