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 夜明けの邂逅がぽつりぽつりと日常に点在するようになったある晩、少女はその背を眺めながら、燃え尽きたはずの感情を持て余していた。
 白々しい。よくもまあ、ぬけぬけと手を合わせられるもんだ。
 家の仏壇の前で両手を合わせる叔父の背中に向け、そんな感想を心中で吐き捨てた。線香の束の横にオイルライターがある。あれで火をつけてやるのはどうだろう。脂がのっているから、準備がなくともさぞかしよく燃えるだろう。
 だが、家が火事になれば、自分や母親までが生活に困る羽目になる。この男のためにそんな苦労をするだなんて、たまったもんじゃない。
「菜々ちゃん、お皿運んでちょうだい」
 そんなことを言う母も母だと、少女はうんざりしてしまう。いつになく動作と声が弾んでいるのは、錯覚ではないだろう。人はこうまでも、単独で生きることに耐えられないのか。小遣い程度の金で叔父が恩を売っているのは知っているが、母が依存しているのは金銭面ではない。
 だからこそ、時折こうして図々しくやって来る男に、いそいそと手料理を振舞うのだ。夕刻になって急に連絡をよこす相手のために、娘との夕食を遅らせてまで時間を合わせる母親の姿は、眺めていたくなかった。
 だから少女は、茶碗の一つを棚に伏せた。
「どうしたの。それ、貸してちょうだい。ご飯よそうから」
 しゃもじを手にする母親から目を逸らす。
「いい。私、お腹空いてないから」
「なに言ってるの。もう九時でしょ、空いてないわけないじゃない」
「いらない。本当に入らないの」
「でも折角なのに」
 なにが折角だ。そんな言葉を呑み込み、代わりに「宿題多いから終わらせてくる」と逃げ口上を口にする。「お腹すいたら、あとで勝手にするから」
「だけど……」
 本心から残念そうな顔色を見せる母親の横を通り過ぎる。なんとか引き止めようとどこか必死な姿は、一刻も早く視界から消し去りたい。
 そのうえ最も意識から排除したい人間が易々とキッチンに入ってくるのに、いっそう心がささくれ立つ。
「まあ女の子だし、そんな気分の日もあるよ」
 女の子だしって、どういう意味だ。わかったような口利きやがって。
 そう心の奥で毒づきながらも一切表情を変えることなく、彼女は叔父とすれ違った。舐めるような視線を受け流し、軽い笑みを顔に張り付ける。
「ごめんね。折角だけど」
 不服そうな母親と三日前に会ったばかりの男に微笑んで、彼女は自室へ向かった。

 弱い者いじめの好きな小心者の叔父が、この家の中で少女に触れたことはなかった。彼女の母親を手放すことさえ惜しむ、道徳の死に絶えた男の強欲さのおかげだった。だから少女も、母親の暮らすこの空間では、姪としての最低限の可愛げを守るのだった。
 だが、油断は禁物だ。相手は所詮、倫理を(どぶ)に捨て去った人でなしのクズ野郎なのだ。うたた寝さえ出来ないまま、わがままなすきっ腹をあやし、夜が更けて日付が変わっても少女は勉強机に向かう。
 彼女の成績は極めて優れていた。今も、この世の他の事象からひたすら自身を隔離するように問題を解いていく。不眠症に悩む夜行性の頭で、すらすらとノートに数字を書き込む。階下に叔父と母親が存在する現実から少しでも遠ざかるため、左耳から取り出した機械のスイッチさえ切った。深夜一時を示す卓上時計を伏せた頃には、空っぽの胃はようやく自己主張を諦めていた。

 遠くで玄関のドアが開く音。車のエンジン音が遠ざかり、再びドアが開いて閉まる音を鼓膜が拾う。母はどうやら、わざわざ見送りに出ていたらしい。
 ため息とともにペンを教科書の上に投げ、彼女は欠伸と共に大きく伸びをした。一気に力を抜き、背もたれに身を預け、暗い天井を眺める。母が食器を洗う音、風呂に入る音、二階に上がり寝室に入るスリッパの音。
 全ての気配が消えてから、少女はようやく立ち上がった。
 既に空腹は感じなかったが、静かに階下に下り、キッチンの棚から子袋を取り出して味噌汁椀に開けた。沸かした湯をかけて軽く混ぜると、長方形に固まっていた細い麺が、ゆっくりとほぐれていく。
 それを最低限の明かりの下で、静寂の真夜中に隠れて食べていると、忘れかけていた胸のもやもやが静かに何かを囁きだした。それが自らの惨めさを嘆き始める前に、少し塩辛い一滴を飲み干す。椀を軽くすすいで手早く風呂場に向かった。風呂上がりのパジャマ姿のまま、この家であの男と呼吸をすることなど、天地がひっくり返っても許したくない。
 シャワーを浴び、着替え、髪を乾かして再び自室に戻った頃には、時刻は二時をとうに過ぎていた。
 点けっぱなしだったスタンドの明かりを消してベッドに潜り込んだが、予想通り眠気などやってこなかった。冴えた頭はすっかり不眠モードに陥っている。
 それでも階下に睡眠薬を飲みに戻るのは億劫だった。例えそれが効果を発揮しても、狂った生活リズムは今更治せない。

 ――なにやってんだろ、ほんとに。

 ため息をついて、少女は毛布を口元まで引き上げた。

 うつらうつらと、眠ったのかどうか分からない時間を過ごしても、いつも通り朝の気配は訪れる。上手く眠れてしまえるなら、一生夜の中にいてもいいのにな。それは非常に幸せな世界に思えた。朝を嫌うあまり、様々な事柄を終わらせる方法さえ考えてしまう。
 例えば、学校の職員室に爆弾を仕掛けたりだとか。体育倉庫から金属バットを盗んで、校門の前を三番目に通る誰かを殴ってみるだとか。身体を張って電車を止める方法とか。
 そんな実行には遠く及ばない野蛮な妄想を、ひどく落ち着いた思考で少女は毎朝繰り返した。それは憂鬱な時間を超えるための、一つの生存戦略でもあった。

 ふいに目が覚め、時計を見る。五時十五分。

 そうだ。喉が乾いた。
 彼女は頭の中で両手を打った。いいことを思いついた。飲み物を買いに行こう。
 折角微かな眠気を帯びた目を擦り、簡素なTシャツとハーフパンツに着替え、カーディガンを羽織る。
 家の麦茶では味気ない。あれがいい、あの安い自販機、八十円のやつ。外の空気を吸いたいと思っていたとこなんだ、丁度いい。なにより安くて、経済的だ。自分に声なく語りかけ、彼女は机の引き出しから小銭入れを手に取り、部屋を出た。
 軽く顔を洗って口をゆすぎ、静かに外に出る。夜の漆黒に朝焼けの白がゆったりと混ざり始めているが、強固な夜のとばりは未だカーテンのように世界を覆っていた。
 家の門を出て二軒分ほど歩いた先の自動販売機で、いつも通りコーヒーを購入する。以前、気まぐれにジュースを買って飲んだことはあるが、人工甘味料の過度な甘ったるさに辟易してしまった。コーヒーが、この激安自販機の安牌なのだ。
 ただ喉が渇いただけ。目が覚めて眠れなくなって、朝の空気を吸いたくなっただけ。
 自分自身にそう語りながら、門の外でちびちびとコーヒーを胃に流していると、夜の残像の中から聞き覚えのある軋んだ音が響いてきた。
 タイヤのから回る音に、軽いブレーキ。
「おはよ」
 決して朝に強くない彼女の覇気のない声に、それ以上に元気のない声で、少年は「おはようございます」と返事をする。
 そんな彼が新聞受けに一部をつっ込む前に、少女は腕を伸ばした。伏せった目を少し迷わせながら、「……どうも」と彼は呟き、新聞を手渡した。
 更に一口すすった缶を塀の上に置き、想像よりも重みのある新聞を彼女は両手で持ち直す。四つ折りのそれを軽く振り、文字に目を落とした。
 街灯の薄明かりに浮かび上がるのは、小中学校において増加傾向にあるいじめの実態。ちっとも面白くない。
「何か面白い記事ないの?」
 普段通り軽く頭を下げて横顔を向けた少年は、目を落としたままの彼女の台詞に「え」と短い声を出して振り向いた。少女が視線を上げると、いつも伏せられている彼の目が、少しだけ丸く見開かれていた。
「今日の新聞。面白いこととか、書いてないの」
「面白いこと……」
 愉快な答えなど期待しないまま、気まぐれに問いかけた少女は適当な返事を待つ。彼にとっての面白いことが自分にとっても面白いとも思えないし、まずこの暗そうな少年が面白いと思うことなどあるのか。
 そんな失礼なことを彼女が考えていると、時間をおいた彼は意外にも口を開いた。
「リュウグウノツカイ」
 彼が発した聞きなれない言葉に、「なに、りゅう……?」と彼女は眉根を寄せる。
「深海魚です。リュウグウノ、ツカイ」聞き取りやすいよう、先ほどよりテンポを落として言葉を区切るのに、彼女は軽く首を傾けた。深海魚と返されることなど、これっぽちも想像していなかった。
「深海魚って、海の深いとこにいるやつ?」
「はい。二百メートルの深さから、深海です」
 二百メートルもの深さの海に思いを馳せたことなど、十七年の人生で一度もなかった。だが彼にとって深海とは、もっと身近にあるものらしい。「最近、よく打ちあがってるって、話題になってて……」そう繋げる。
「そんな深いところにいるのに、そいつ、上がっちゃうんだ」
 少女が返すと、少年は頷いた。
 彼は普段のように目を伏せさせてはいなかった。見つめはしなくとも、相手にきちんと目を向けていた。
「だから、それで最近書かれた本の紹介があって……確か、三十七面の文化面。カラーで、海を泳いでる写真が載ってて。ラブカとか、ほかの魚の説明も……」
 また知らない単語が出てきた。だが少女は口を挟まず、初めて自ら口を開く彼の言葉に耳を傾ける。今の彼は呟いてはいない。確かに、相手に考えを伝えるために声を出している。
 しかし、少女が初めて聞く単語を更に数個重ねると、彼はたちまち口を閉じて目を伏せてしまった。うっかり話し過ぎたのだと、一つ失敗を犯したのだと思ったらしい。
「ごめんなさい……」
 少女が謝罪の意味を訊ねる間もなく、彼は小さく頭を下げると、右足でペダルを踏み込んだ。もう彼女の方を見ない横顔で、朝の訪れる夜を見つめながら、重たげな自転車をこぎ出した。
 見たことのない深海へ彼がいつもと変わりなく消えていくのを、少女はいつもと少し異なる感情とともに見送った。

 ようやく眠りにつき、再度目を覚ました時刻には、とうに陽は高く昇っていた。カーテンの隙間から差し込む光にぼんやりとした頭を振り、少女は通学鞄を引きずって自室のドアを開けた。
 このまま一日サボってしまおうかと思ったが、折角終わらせた課題が無為に消えてしまうのももったいない。提出を目的に午後からだけでも出席するかと、面白くもない一日の計画を立てる。上役出勤だな。そう思った端でトーストが焼けた。
 母はとうに仕事に出ており、午前九時半のリビングは静かだ。カップ一杯のコーンスープ、甘さ控えめのコーヒーを並べ、焼けたばかりのトーストにマーガリンを塗りたくりながら、スイッチを入れたテレビ画面を眺めた。
 黄色の着ぐるみが踊り狂い、手作り玩具が組み立てられ、粘土の青虫が枝の上を這いずる。そんな幼児向け番組を繰った先で、ようやくニュース番組にたどり着いた。
 億単位の政治資金の使い込み、どこかの街にいる逃亡中の通り魔、今週のヒットチャート、年々増えていくいじめの件数。今日のお天気は、そして気になる星座占いの行方は。
 うるさい。口に出さずにぼやいて、少女はテレビ画面を真っ黒に塗りつぶした。一貫性がないにもほどがある。このトーストに塗られたマーガリンみたいに、随分と無秩序でムラがある。
 サクサクとトーストを咀嚼しながら、ふと思いついて新聞を手元に寄せた。明け方にテーブルの隅に放ってから母も目にしなかったらしい。もしかすると、今朝の出来事は寝つきの悪い夢であったかもしれない。四十面ある新聞を後ろからめくった。
 どうやら、今朝聞いた台詞は現実のものだったようだ。三十七面の上半分、更に右半分にも満たない大きさの枠には、確かに本の紹介文がある。枠内には、リュウグウノツカイとやらが海を泳いでいる写真。この魚の出現は、地震の前兆だともいわれているらしい。
 記事を読み終わり、新聞を二つに畳んだ。
 面白くもなんともない。わざわざ思いながら指先のパンくずを払い、テーブルの端にあるスマートフォンを操作した。画面に触れ、下から生えてきたキーボードをすいすいと指でなぞる。

 深海魚 リュウグウノツカイ

 現れた膨大な検索結果の中から、トップに躍り出た一文を叩く。すると至極丁寧な説明やカラーの写真が流れてきた。
 太刀魚に似た細長い体、背をなぞる鮮やかな赤いヒレは、特に頭側でたてがみの様に長く伸びている。神秘的かもしれないが、可愛いものではない。世界最長の硬骨魚。大きなもので十一メートルの長さになるという。
 冷めたスープを飲み干しながら、読むやつの気が知れないと適当に検索ページをめくる。世間のどこに隠れているのか、深海魚好きがまとめたサイトは意外にも充実していた。
 ラブカとは、数時間前に聞いた気がする。切れ込みのようなエラを持った、恐ろしい顔つきの生きた化石は、サメの一種に相応しく大きな口を開けている。いかにも男の子が好きそうな生き物だ。

 ――なんだ。あいつもやっぱり、子どもなんじゃないか。

 毎朝機械の様に同じ時刻にやって来ては寸分違わぬ動作で去っていく。あの暗い瞳を伏せた少年にも、やはり好きなものはあるのだ。当然のことを考えながら、今朝がた珍しくこちらを向いた瞳と下に落ちない声を思い出す。大人ぶってるくせにと、まんざらでもない気分で悪態をつく。
 つらつらと流れる名前一覧の中には、あの時彼が紡いだ単語と一致するものもいくつか含まれていた。
 デメニギス。クシクラゲ。ミツクリザメ。ブロブフィッシュ。
 写真に写る彼らはどれも見覚えのない形態で、不思議に光ったり口が飛び出たり、更には頭が透明だったり。こんなのが泳いでいるなんて、深海とは地球の中心に近いくせに、まるでこの世とは別世界のようだ。
 顔を上げると、テレビの頭上にかかっている時計は、いつの間にか一時間の経過を示していた。これから食器を洗い、遅めの洗濯をすれば、午後の授業には間に合ってしまう。
 機器をホーム画面に戻すと、彼女は大きくため息をついた。


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 白々しい。よくもまあ、ぬけぬけと手を合わせられるもんだ。
 家の仏壇の前で両手を合わせる叔父の背中に向け、そんな感想を心中で吐き捨てた。線香の束の横にオイルライターがある。あれで火をつけてやるのはどうだろう。脂がのっているから、準備がなくともさぞかしよく燃えるだろう。
 だが、家が火事になれば、自分や母親までが生活に困る羽目になる。この男のためにそんな苦労をするだなんて、たまったもんじゃない。
「菜々ちゃん、お皿運んでちょうだい」
 そんなことを言う母も母だと、少女はうんざりしてしまう。いつになく動作と声が弾んでいるのは、錯覚ではないだろう。人はこうまでも、単独で生きることに耐えられないのか。小遣い程度の金で叔父が恩を売っているのは知っているが、母が依存しているのは金銭面ではない。
 だからこそ、時折こうして図々しくやって来る男に、いそいそと手料理を振舞うのだ。夕刻になって急に連絡をよこす相手のために、娘との夕食を遅らせてまで時間を合わせる母親の姿は、眺めていたくなかった。
 だから少女は、茶碗の一つを棚に伏せた。
「どうしたの。それ、貸してちょうだい。ご飯よそうから」
 しゃもじを手にする母親から目を逸らす。
「いい。私、お腹空いてないから」
「なに言ってるの。もう九時でしょ、空いてないわけないじゃない」
「いらない。本当に入らないの」
「でも折角なのに」
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「だけど……」
 本心から残念そうな顔色を見せる母親の横を通り過ぎる。なんとか引き止めようとどこか必死な姿は、一刻も早く視界から消し去りたい。
 そのうえ最も意識から排除したい人間が易々とキッチンに入ってくるのに、いっそう心がささくれ立つ。
「まあ女の子だし、そんな気分の日もあるよ」
 女の子だしって、どういう意味だ。わかったような口利きやがって。
 そう心の奥で毒づきながらも一切表情を変えることなく、彼女は叔父とすれ違った。舐めるような視線を受け流し、軽い笑みを顔に張り付ける。
「ごめんね。折角だけど」
 不服そうな母親と三日前に会ったばかりの男に微笑んで、彼女は自室へ向かった。
 弱い者いじめの好きな小心者の叔父が、この家の中で少女に触れたことはなかった。彼女の母親を手放すことさえ惜しむ、道徳の死に絶えた男の強欲さのおかげだった。だから少女も、母親の暮らすこの空間では、姪としての最低限の可愛げを守るのだった。
 だが、油断は禁物だ。相手は所詮、倫理を|《どぶ》に捨て去った人でなしのクズ野郎なのだ。うたた寝さえ出来ないまま、わがままなすきっ腹をあやし、夜が更けて日付が変わっても少女は勉強机に向かう。
 彼女の成績は極めて優れていた。今も、この世の他の事象からひたすら自身を隔離するように問題を解いていく。不眠症に悩む夜行性の頭で、すらすらとノートに数字を書き込む。階下に叔父と母親が存在する現実から少しでも遠ざかるため、左耳から取り出した機械のスイッチさえ切った。深夜一時を示す卓上時計を伏せた頃には、空っぽの胃はようやく自己主張を諦めていた。
 遠くで玄関のドアが開く音。車のエンジン音が遠ざかり、再びドアが開いて閉まる音を鼓膜が拾う。母はどうやら、わざわざ見送りに出ていたらしい。
 ため息とともにペンを教科書の上に投げ、彼女は欠伸と共に大きく伸びをした。一気に力を抜き、背もたれに身を預け、暗い天井を眺める。母が食器を洗う音、風呂に入る音、二階に上がり寝室に入るスリッパの音。
 全ての気配が消えてから、少女はようやく立ち上がった。
 既に空腹は感じなかったが、静かに階下に下り、キッチンの棚から子袋を取り出して味噌汁椀に開けた。沸かした湯をかけて軽く混ぜると、長方形に固まっていた細い麺が、ゆっくりとほぐれていく。
 それを最低限の明かりの下で、静寂の真夜中に隠れて食べていると、忘れかけていた胸のもやもやが静かに何かを囁きだした。それが自らの惨めさを嘆き始める前に、少し塩辛い一滴を飲み干す。椀を軽くすすいで手早く風呂場に向かった。風呂上がりのパジャマ姿のまま、この家であの男と呼吸をすることなど、天地がひっくり返っても許したくない。
 シャワーを浴び、着替え、髪を乾かして再び自室に戻った頃には、時刻は二時をとうに過ぎていた。
 点けっぱなしだったスタンドの明かりを消してベッドに潜り込んだが、予想通り眠気などやってこなかった。冴えた頭はすっかり不眠モードに陥っている。
 それでも階下に睡眠薬を飲みに戻るのは億劫だった。例えそれが効果を発揮しても、狂った生活リズムは今更治せない。
 ――なにやってんだろ、ほんとに。
 ため息をついて、少女は毛布を口元まで引き上げた。
 うつらうつらと、眠ったのかどうか分からない時間を過ごしても、いつも通り朝の気配は訪れる。上手く眠れてしまえるなら、一生夜の中にいてもいいのにな。それは非常に幸せな世界に思えた。朝を嫌うあまり、様々な事柄を終わらせる方法さえ考えてしまう。
 例えば、学校の職員室に爆弾を仕掛けたりだとか。体育倉庫から金属バットを盗んで、校門の前を三番目に通る誰かを殴ってみるだとか。身体を張って電車を止める方法とか。
 そんな実行には遠く及ばない野蛮な妄想を、ひどく落ち着いた思考で少女は毎朝繰り返した。それは憂鬱な時間を超えるための、一つの生存戦略でもあった。
 ふいに目が覚め、時計を見る。五時十五分。
 そうだ。喉が乾いた。
 彼女は頭の中で両手を打った。いいことを思いついた。飲み物を買いに行こう。
 折角微かな眠気を帯びた目を擦り、簡素なTシャツとハーフパンツに着替え、カーディガンを羽織る。
 家の麦茶では味気ない。あれがいい、あの安い自販機、八十円のやつ。外の空気を吸いたいと思っていたとこなんだ、丁度いい。なにより安くて、経済的だ。自分に声なく語りかけ、彼女は机の引き出しから小銭入れを手に取り、部屋を出た。
 軽く顔を洗って口をゆすぎ、静かに外に出る。夜の漆黒に朝焼けの白がゆったりと混ざり始めているが、強固な夜のとばりは未だカーテンのように世界を覆っていた。
 家の門を出て二軒分ほど歩いた先の自動販売機で、いつも通りコーヒーを購入する。以前、気まぐれにジュースを買って飲んだことはあるが、人工甘味料の過度な甘ったるさに辟易してしまった。コーヒーが、この激安自販機の安牌なのだ。
 ただ喉が渇いただけ。目が覚めて眠れなくなって、朝の空気を吸いたくなっただけ。
 自分自身にそう語りながら、門の外でちびちびとコーヒーを胃に流していると、夜の残像の中から聞き覚えのある軋んだ音が響いてきた。
 タイヤのから回る音に、軽いブレーキ。
「おはよ」
 決して朝に強くない彼女の覇気のない声に、それ以上に元気のない声で、少年は「おはようございます」と返事をする。
 そんな彼が新聞受けに一部をつっ込む前に、少女は腕を伸ばした。伏せった目を少し迷わせながら、「……どうも」と彼は呟き、新聞を手渡した。
 更に一口すすった缶を塀の上に置き、想像よりも重みのある新聞を彼女は両手で持ち直す。四つ折りのそれを軽く振り、文字に目を落とした。
 街灯の薄明かりに浮かび上がるのは、小中学校において増加傾向にあるいじめの実態。ちっとも面白くない。
「何か面白い記事ないの?」
 普段通り軽く頭を下げて横顔を向けた少年は、目を落としたままの彼女の台詞に「え」と短い声を出して振り向いた。少女が視線を上げると、いつも伏せられている彼の目が、少しだけ丸く見開かれていた。
「今日の新聞。面白いこととか、書いてないの」
「面白いこと……」
 愉快な答えなど期待しないまま、気まぐれに問いかけた少女は適当な返事を待つ。彼にとっての面白いことが自分にとっても面白いとも思えないし、まずこの暗そうな少年が面白いと思うことなどあるのか。
 そんな失礼なことを彼女が考えていると、時間をおいた彼は意外にも口を開いた。
「リュウグウノツカイ」
 彼が発した聞きなれない言葉に、「なに、りゅう……?」と彼女は眉根を寄せる。
「深海魚です。リュウグウノ、ツカイ」聞き取りやすいよう、先ほどよりテンポを落として言葉を区切るのに、彼女は軽く首を傾けた。深海魚と返されることなど、これっぽちも想像していなかった。
「深海魚って、海の深いとこにいるやつ?」
「はい。二百メートルの深さから、深海です」
 二百メートルもの深さの海に思いを馳せたことなど、十七年の人生で一度もなかった。だが彼にとって深海とは、もっと身近にあるものらしい。「最近、よく打ちあがってるって、話題になってて……」そう繋げる。
「そんな深いところにいるのに、そいつ、上がっちゃうんだ」
 少女が返すと、少年は頷いた。
 彼は普段のように目を伏せさせてはいなかった。見つめはしなくとも、相手にきちんと目を向けていた。
「だから、それで最近書かれた本の紹介があって……確か、三十七面の文化面。カラーで、海を泳いでる写真が載ってて。ラブカとか、ほかの魚の説明も……」
 また知らない単語が出てきた。だが少女は口を挟まず、初めて自ら口を開く彼の言葉に耳を傾ける。今の彼は呟いてはいない。確かに、相手に考えを伝えるために声を出している。
 しかし、少女が初めて聞く単語を更に数個重ねると、彼はたちまち口を閉じて目を伏せてしまった。うっかり話し過ぎたのだと、一つ失敗を犯したのだと思ったらしい。
「ごめんなさい……」
 少女が謝罪の意味を訊ねる間もなく、彼は小さく頭を下げると、右足でペダルを踏み込んだ。もう彼女の方を見ない横顔で、朝の訪れる夜を見つめながら、重たげな自転車をこぎ出した。
 見たことのない深海へ彼がいつもと変わりなく消えていくのを、少女はいつもと少し異なる感情とともに見送った。
 ようやく眠りにつき、再度目を覚ました時刻には、とうに陽は高く昇っていた。カーテンの隙間から差し込む光にぼんやりとした頭を振り、少女は通学鞄を引きずって自室のドアを開けた。
 このまま一日サボってしまおうかと思ったが、折角終わらせた課題が無為に消えてしまうのももったいない。提出を目的に午後からだけでも出席するかと、面白くもない一日の計画を立てる。上役出勤だな。そう思った端でトーストが焼けた。
 母はとうに仕事に出ており、午前九時半のリビングは静かだ。カップ一杯のコーンスープ、甘さ控えめのコーヒーを並べ、焼けたばかりのトーストにマーガリンを塗りたくりながら、スイッチを入れたテレビ画面を眺めた。
 黄色の着ぐるみが踊り狂い、手作り玩具が組み立てられ、粘土の青虫が枝の上を這いずる。そんな幼児向け番組を繰った先で、ようやくニュース番組にたどり着いた。
 億単位の政治資金の使い込み、どこかの街にいる逃亡中の通り魔、今週のヒットチャート、年々増えていくいじめの件数。今日のお天気は、そして気になる星座占いの行方は。
 うるさい。口に出さずにぼやいて、少女はテレビ画面を真っ黒に塗りつぶした。一貫性がないにもほどがある。このトーストに塗られたマーガリンみたいに、随分と無秩序でムラがある。
 サクサクとトーストを咀嚼しながら、ふと思いついて新聞を手元に寄せた。明け方にテーブルの隅に放ってから母も目にしなかったらしい。もしかすると、今朝の出来事は寝つきの悪い夢であったかもしれない。四十面ある新聞を後ろからめくった。
 どうやら、今朝聞いた台詞は現実のものだったようだ。三十七面の上半分、更に右半分にも満たない大きさの枠には、確かに本の紹介文がある。枠内には、リュウグウノツカイとやらが海を泳いでいる写真。この魚の出現は、地震の前兆だともいわれているらしい。
 記事を読み終わり、新聞を二つに畳んだ。
 面白くもなんともない。わざわざ思いながら指先のパンくずを払い、テーブルの端にあるスマートフォンを操作した。画面に触れ、下から生えてきたキーボードをすいすいと指でなぞる。
 深海魚 リュウグウノツカイ
 現れた膨大な検索結果の中から、トップに躍り出た一文を叩く。すると至極丁寧な説明やカラーの写真が流れてきた。
 太刀魚に似た細長い体、背をなぞる鮮やかな赤いヒレは、特に頭側でたてがみの様に長く伸びている。神秘的かもしれないが、可愛いものではない。世界最長の硬骨魚。大きなもので十一メートルの長さになるという。
 冷めたスープを飲み干しながら、読むやつの気が知れないと適当に検索ページをめくる。世間のどこに隠れているのか、深海魚好きがまとめたサイトは意外にも充実していた。
 ラブカとは、数時間前に聞いた気がする。切れ込みのようなエラを持った、恐ろしい顔つきの生きた化石は、サメの一種に相応しく大きな口を開けている。いかにも男の子が好きそうな生き物だ。
 ――なんだ。あいつもやっぱり、子どもなんじゃないか。
 毎朝機械の様に同じ時刻にやって来ては寸分違わぬ動作で去っていく。あの暗い瞳を伏せた少年にも、やはり好きなものはあるのだ。当然のことを考えながら、今朝がた珍しくこちらを向いた瞳と下に落ちない声を思い出す。大人ぶってるくせにと、まんざらでもない気分で悪態をつく。
 つらつらと流れる名前一覧の中には、あの時彼が紡いだ単語と一致するものもいくつか含まれていた。
 デメニギス。クシクラゲ。ミツクリザメ。ブロブフィッシュ。
 写真に写る彼らはどれも見覚えのない形態で、不思議に光ったり口が飛び出たり、更には頭が透明だったり。こんなのが泳いでいるなんて、深海とは地球の中心に近いくせに、まるでこの世とは別世界のようだ。
 顔を上げると、テレビの頭上にかかっている時計は、いつの間にか一時間の経過を示していた。これから食器を洗い、遅めの洗濯をすれば、午後の授業には間に合ってしまう。
 機器をホーム画面に戻すと、彼女は大きくため息をついた。