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ー/ー
なんの変哲もない一日だった。
少女は板張りの天井を仰ぎ見、体を横たえたまま、今日という一日を振り返る。細い指で手繰り寄せる糸の先は他の日々と絡まり合い、個々の日にちという感覚などとうに麻痺してしまっている。
その一本が、ふいと引き抜けた。弱々しい糸が微かに他とは異なる形を結んでいるのに、少女は目を細めた。
眠れない早朝の、確か五時半頃。温かいか冷たいか。迷った末に手にした缶コーヒーは心地よく体を冷やしていき、日の出に僅かに足りない時分のアスファルトはまだ街灯に照らされていた。闇は色濃く空気を染め、まるで夜が朝を拒んでいるような景色を、狭い庭の門から眺めていた。
カラカラと乾いた音がする。それが自転車の音だと気づいたときには、小さなブレーキ音と共に減速した自転車が、門の傍らにある新聞受けの前に止まった。
少年が慣れた手つきでかごから一部を取り出し、塀に空いた口に半分差し込んだまま振り返った。
――暗そうなやつ。
少し伸びた前髪の向こうで目を伏せた少年に、少女は勝手にそんな感想を抱いた。
「おはよ」
「……おはようございます」
返事を呟いた少年は、器用に自転車のバランスを取りながら新聞を奥に突っ込んだ。自転車の前かごと荷台には幾束も新聞が積まれている。充分に子どもっぽさの残る横顔に、力仕事の似合わない線の細い体つきは、塀にもたれる少女よりも更に幼い風貌をしていた。
「あんた、中学生?」
「はい」
前髪に隠れるように、目を合わせないまま頷く。そして一度頭を下げた彼は、まるで何かに追い立てられるかのように、右足でペダルを踏みこんだ。
――中学生で新聞配達とか、漫画みたい。
そう声をかける間もなく、重たげな自転車をこぐ少年の背中は、夜明けを頑なに拒む薄闇の世界に消えていった。街灯の光を受ける自転車の反射板だけが、夜の海で輝く夜光虫のように揺れていた。
暗いやつ。
今朝初めて見かけた相手を思い出し、少女は心の奥でぽつりと呟いた。眠れない不眠症の夜明け。そこで見かけた少年がどんな顔だったかを思い出そうと、彼女は記憶の糸を更に手繰り寄せる。
だが、そうして丁寧に指先で摘む細い糸は、突如太い手にわし掴みにされ、修復不可能にこんがらがっていった。
「菜々ちゃん」
少女は、そうして名を呼ぶ男に返事をしなかった。だが男は構う様子もなく、彼女の白く薄い肌をさすり、陶器のような頬に手を当てる。硬く乾燥し、皺の寄った男の手には、彼女の繊細な肌を傷つける可能性への躊躇いなど、露ほども存在しない。
「本当に、可愛いなあ」
価値のない誉め言葉などには表情すら変えず、少女は手足を投げだしたまま瞼だけを動かした。自分に馬乗りになり、あちこちを撫で回す相手の鼻息が、まるで他人事のように意識の外にある。
「あいつも、いいもん残してったよな。弟想いの兄貴だ」
他人事のくせに割り込んできたそんな台詞に対し、細い指先が辛うじてシーツに皺を作る。それに男が気が付くことはない。
相手の手の動きに、肌にかかる吐息の荒さに、少女はその時を悟る。ようやっと顔を動かし乾いた唇を舐め、幾分掠れた小声をこぼす。
「叔父さん」
想像通り、ひどく短絡的で動物的な感覚に酔いしれる男の顔がこちらを向いた。「醜悪」という言葉の権化だと、彼女は思っている。
「いいよ」
興奮に溺れる男の目に映る自分に対し、心を亡くした言葉を呟いた。
この三文字の言葉があれば、全てが合意のもとになるのだと聞かされた。そのあまりの馬鹿馬鹿しさと勝手の良さと、吐き戻すほどの嫌悪感に、少女はこの男を枕元の電気スタンドで殴る気さえ失った。賢明な彼女は、二、三度頬にこぶしを受ければ、泣いて嫌がることの無益さを理解した。風呂に入るたびに身体のあざを目にし、怖気立つことにも飽きてしまった。なにもしないことが、彼女の唯一の抵抗だった。
「菜々ちゃんがな、悪いんだからな」
だからせめて、投げ出した手の指先を、真っ白なシーツに絡ませるだけ。
「こんなに可愛いのが、悪いんだ」
一体それは何罪だ。懲役何年の罰なんだ。
そんな自問すら、やがて少女はやめた。
呼吸のために開けた自分の口から漏れる切れ切れの声を、彼女は堪えようとはしなかった。口元を腕で塞ぎ、懸命に唇を噛みしめる様子を、「可愛い」と嘗て評価されたためだった。
まるで海の底に沈むように、全ての音を遠ざけ、感触を失わせ、ただ天井を見上げる。見つめるほどの力はない。時々思い出したように鳥肌が立ち、そのたびに感覚が死に切れていないことを知る。
彼女の唇が、震えた。誰にも気づかれない声は、空気を震わせることさえない。
いち、にい。さん。よん……ご、ろく。
少女の光を失った瞳には、天井が映っている。正確にいえば、あちこちに走る天井板の筋。たとえ視界に相手の姿が映りこんでも、彼女はそれを透かして数え続けた。
板張りの安っぽい天井は毎度のことで、どうせなら少しぐらい金をかけてみせろと、初めは悪態を抱いたものだった。欲の深さと自尊心だけは、常人の五、六倍膨れ上がっているくせに、こうしたところで僅かな損失を惜しむ器の小さな人間が、この「醜悪」だった。
ただ、今は少しだけ感謝している。この部屋を選んだ人間ではなく、この部屋の古い天井板に対して。
にじゅうご、にじゅうろく……さんじゅうよん……よんじゅうに。
無視しきれない痛みに、少女は喉の奥から短い声を上げた。うっかり、身体が放つ信号を拾い、空気を振動させてしまった。だが、その引きつった声に目の前の男が愉快にほくそ笑むのがあまりに癪なので、彼女は懸命に息を呑み、喉を潰す。頭の動きと身体の痛みを引きはがす努力をする――。
幾つまで数えたか、忘れてしまった。
再び天井を見つめ、一から数え始める。風の泣くような自身の声を鼓膜から遠ざけ、醜悪から目を逸らし、シーツの感触さえ切り離しては、ひたすら数を数えていく。
はちじゅうさん。
今日は、彼女の奥底にその数字だけが痩せた膝を抱えてうずくまった。以前そこにいた数字を彼女はすっかり忘れていたし、この八十三も、あと五分もすれば記憶から消えて成仏するだろう。
そんな彼らを、彼女は少しだけ、羨ましいと思う。
「菜々ちゃん、気持ちよかったかい」そんな言葉を口にする相手に、少女は返事をしなかった。僅かに首を傾げ、聞こえないふりをした。
叔父は忌々し気な舌打ちを降らせる。それを頭から被りながら、目を細める少女は尚も知らんふりをする。だって、外せって言ったのはあんたじゃないか。
それを口にするほど彼女は幼くも愚かでもなかった。気が萎えるから外せと言われれば、大人しく従った。左耳にあるべき補聴器はケースの中で沈黙している。だから聞こえないんだと目を逸らす。
菜々ちゃん、と男が口にした。
聞こえないふりが通用しないよう、耳元で、菜々ちゃん、ナナチャンと。菜々ちゃん、菜々ちゃん、菜々、ナナ。次第に募る苛立ちを察するには、彼女の感受性は充分成長していた。からからの喉など動かしたくないが、無意味な痛みを浴びる気にもならず、彼女は自身の耳にさえ辛うじて届く程度の細い小声を振り絞る。叔父さん、と。
「私のこと、好き?」
これで男がみるみるうちに機嫌を直すことを彼女は嫌というほど知っていた。ともすれば興奮に至る男の顔を、少女は力のない瞳で眺める。ただうっすらと開いた瞼を向けただけだが、男にそれを気にする風はない。
――ああ、好きだよ、大好きだよ、この世の誰よりも愛してるんだ、生まれた瞬間から、愛していたよ。
歯の浮く寒気のする台詞に、少女の中には可笑しさが滲み出る。生まれた瞬間なんて知らないくせに、本当に調子のよすぎる男だ。見るに堪えない人間だ。
父の両親がとっくの昔に離婚している事実を鑑みると、この「叔父」という人間が自分にとって苗字も異なる真っ赤な他人であった現実も、彼女にとっては当然のことだった。今になってこんな台詞を吐き出すなんて、正気の沙汰じゃないとも思った。
七、八年前に突然現れ、叔父だと名乗ったこの男が、十六年前に塀の中に入っていたことは後から知った。六年の懲役、実刑判決。その刑罰の名称を知ると、性犯罪者の再犯率の高さに納得し、「更生」という言葉の意味を辞書で調べてみたが、腹落ちする回答は学校の図書館では見つからなかった。
そんな人間にも逆らえない悔しさが、少女の中で初めは燃えていた。
怒りだとか、憎しみだとか、不甲斐なさだとか。かき集められたマイナスと名のつく感情が、胸の奥いっぱいに詰め込まれ、強い火力でぐつぐつと煮込まれていた。
やがて水分は蒸発し、それらはない交ぜになったまま指先程に縮こまり、時折思い出したようにころりと転がるだけになった。だが、それらは少女の中で言葉を失い、自己主張をしなくなっただけで、消滅したわけではない。彼女が使いもしない新品のナイフを常に鞄に隠しているのが、その証拠だった。
――この小心者め。
叔父の言葉に心の奥底で呟いた罵倒は、乾ききった砂漠に染み込むひと雫。
「ちゃんと、飲んでおくんだよ」名残惜しげに離れる男は、そう言ったのだ。
――責任一つ取れないくせに、何が愛してるだ。死んじまえ。
脂肪のおかげで背骨の見当たらない背中に向かって、少女は奥の奥で罵声を吐き捨てる。
その背にナイフを突き立てる幻影だけを瞼に映し、今はそうするだけで、彼女は細い背中を丸めた。
静寂の満ちた早朝の住宅街に侵入する、グレーの乗用車。少女はなるだけ手早く助手席のドアを開けると、最小限の隙間から滑り下りた。まだ何か言い足りないらしい男に耳を貸す気などさらさらなく、温度を失った瞳で振り返る。
またなと馴れ馴れしい言葉を吐いた相手には辛うじて頷いただけだったが、満足そうにアクセルを踏み込むのを、門の前で黙って見送った。
全てが一瞬の出来事で、逃げ場を失くした少年はペダルを踏まず、咄嗟に左足を地面についていた。轢いても構う様子を見せない車に自転車をひっかけられないよう、塀にもたれるように車体を傾かせる。振り向いた先のヘッドライトの眩しさに目を細め、バランスを崩しそうな自転車を、膝を曲げた左足で懸命に支えていた。
ペダルを踏み込むのがあと三秒早ければ、見ないふりが出来たのに。
「誰か、見えちゃった?」彼の不運を想いながら、なんとか持ち直して息をつく少年に近寄る。
そして、少年が差し入れたばかりの新聞を引き抜いた。彼はというと、昨日同様に目を伏せさせ、無言で首を横に振った。車内の人間の顔を見通すにあたって、薄闇のヘッドライトは人の目には強すぎた。
「ふうん」恐らく彼は嘘などついてはいないだろうが、彼女はそっけなく息を吐く。
叔父にとっては、彼は偶然通りかかっただけのただの新聞配達の少年だ。記憶に残す必要すらない存在だ。
それでも彼女は、緩く丸めた新聞で、自身の肩をとんとんと叩いた。「まあね」口元だけで軽く笑い、少年を一瞥する。
「誰にも言うなよ。言ったら殺すから」
まだ陽も昇らない静寂の中、決して大きくない少女の声に、彼は一度頷く。口を開くどころか目を合わせることもしないまま、彼女の脅迫に小さく頭を下げると右足を踏み込む。
いざとなれば刺してしまうか、せめてこのナイフや薬の入った重い鞄で頭を殴り、気絶させて記憶を奪おうかとも思った。それを実行せずに済んだ幸運に、彼女は軽く頭を振った。
「ばかやろう」
誰に向けたのか自分でさえわからない言葉を、ただ一言、アスファルトに零した。
「おはよ」
眠れない少女が、いっそう眠れなくなる缶コーヒーを手にしたまま声をかけると、少年は「おはようございます」と丁寧に呟いた。俯けた視線を新聞受けに向け、さっさと前かごから取り出した一部を突っ込む。まるで先日の脅迫文句などすっかり忘れてしまったような彼の姿を、彼女は指に挟んだ缶を軽く振りながら眺めていた。
「あんた、中学何年?」
問いかけると、彼はようやく首を曲げて彼女を視界に入れた。
「中三です」
彼がぽつりと落とす言葉に、少女は納得して頷く。細身で痩せているが、今年で十五歳だと言われれば、なるほど、それ以上にも以下にも見えない。
「じゃあ、私の二つ下なんだ」
そう返すと、ほんの一瞬だけ、暗い瞳が少女の目を見た。見つめる、というほどの時間などない。確認するように向けただけだ。
「高校生、なんですか」
「そうよ。私のこと幾つだと思ってたの」
責めたつもりなど彼女にはなかったが、彼は再び視線を外してしまった。
「考えたことなくって……」
ハンドルを握りしめる彼が、ごめんなさいと呟いた理由が少女にはわからなかった。
致命的に会話のキャッチボールが下手なやつだ。人の目すら見やしないで。
遠のく自転車の軋む音はやがて聞こえなくなり、その頃には、昇り始めた朝陽のおかげで、夜霧は少しだけ白く染まり始めていた。
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その一本が、ふいと引き抜けた。弱々しい糸が微かに他とは異なる形を結んでいるのに、少女は目を細めた。
眠れない早朝の、確か五時半頃。温かいか冷たいか。迷った末に手にした缶コーヒーは心地よく体を冷やしていき、日の出に僅かに足りない時分のアスファルトはまだ街灯に照らされていた。闇は色濃く空気を染め、まるで夜が朝を拒んでいるような景色を、狭い庭の門から眺めていた。
カラカラと乾いた音がする。それが自転車の音だと気づいたときには、小さなブレーキ音と共に減速した自転車が、門の傍らにある新聞受けの前に止まった。
少年が慣れた手つきでかごから一部を取り出し、塀に空いた口に半分差し込んだまま振り返った。
――暗そうなやつ。
少し伸びた前髪の向こうで目を伏せた少年に、少女は勝手にそんな感想を抱いた。
「おはよ」
「……おはようございます」
返事を呟いた少年は、器用に自転車のバランスを取りながら新聞を奥に突っ込んだ。自転車の前かごと荷台には幾束も新聞が積まれている。充分に子どもっぽさの残る横顔に、力仕事の似合わない線の細い体つきは、塀にもたれる少女よりも更に幼い風貌をしていた。
「あんた、中学生?」
「はい」
前髪に隠れるように、目を合わせないまま頷く。そして一度頭を下げた彼は、まるで何かに追い立てられるかのように、右足でペダルを踏みこんだ。
――中学生で新聞配達とか、漫画みたい。
そう声をかける間もなく、重たげな自転車をこぐ少年の背中は、夜明けを頑なに拒む薄闇の世界に消えていった。街灯の光を受ける自転車の反射板だけが、夜の海で輝く夜光虫のように揺れていた。
暗いやつ。
今朝初めて見かけた相手を思い出し、少女は心の奥でぽつりと呟いた。眠れない不眠症の夜明け。そこで見かけた少年がどんな顔だったかを思い出そうと、彼女は記憶の糸を更に手繰り寄せる。
だが、そうして丁寧に指先で摘む細い糸は、突如太い手にわし掴みにされ、修復不可能にこんがらがっていった。
「菜々ちゃん」
少女は、そうして名を呼ぶ男に返事をしなかった。だが男は構う様子もなく、彼女の白く薄い肌をさすり、陶器のような頬に手を当てる。硬く乾燥し、皺の寄った男の手には、彼女の繊細な肌を傷つける可能性への躊躇いなど、露ほども存在しない。
「本当に、可愛いなあ」
価値のない誉め言葉などには表情すら変えず、少女は手足を投げだしたまま瞼だけを動かした。自分に馬乗りになり、あちこちを撫で回す相手の鼻息が、まるで他人事のように意識の外にある。
「あいつも、いいもん残してったよな。弟想いの兄貴だ」
他人事のくせに割り込んできたそんな台詞に対し、細い指先が辛うじてシーツに皺を作る。それに男が気が付くことはない。
相手の手の動きに、肌にかかる吐息の荒さに、少女はその時を悟る。ようやっと顔を動かし乾いた唇を舐め、幾分掠れた小声をこぼす。
「叔父さん」
想像通り、ひどく短絡的で動物的な感覚に酔いしれる男の顔がこちらを向いた。「醜悪」という言葉の権化だと、彼女は思っている。
「いいよ」
興奮に溺れる男の目に映る自分に対し、心を亡くした言葉を呟いた。
この三文字の言葉があれば、全てが合意のもとになるのだと聞かされた。そのあまりの馬鹿馬鹿しさと勝手の良さと、吐き戻すほどの嫌悪感に、少女はこの男を枕元の電気スタンドで殴る気さえ失った。賢明な彼女は、二、三度頬にこぶしを受ければ、泣いて嫌がることの無益さを理解した。風呂に入るたびに身体のあざを目にし、怖気立つことにも飽きてしまった。なにもしないことが、彼女の唯一の抵抗だった。
「菜々ちゃんがな、悪いんだからな」
だからせめて、投げ出した手の指先を、真っ白なシーツに絡ませるだけ。
「こんなに可愛いのが、悪いんだ」
一体それは何罪だ。懲役何年の罰なんだ。
そんな自問すら、やがて少女はやめた。
呼吸のために開けた自分の口から漏れる切れ切れの声を、彼女は堪えようとはしなかった。口元を腕で塞ぎ、懸命に唇を噛みしめる様子を、「可愛い」と嘗て評価されたためだった。
まるで海の底に沈むように、全ての音を遠ざけ、感触を失わせ、ただ天井を見上げる。見つめるほどの力はない。時々思い出したように鳥肌が立ち、そのたびに感覚が死に切れていないことを知る。
彼女の唇が、震えた。誰にも気づかれない声は、空気を震わせることさえない。
いち、にい。さん。よん……ご、ろく。
少女の光を失った瞳には、天井が映っている。正確にいえば、あちこちに走る天井板の筋。たとえ視界に相手の姿が映りこんでも、彼女はそれを透かして数え続けた。
板張りの安っぽい天井は毎度のことで、どうせなら少しぐらい金をかけてみせろと、初めは悪態を抱いたものだった。欲の深さと自尊心だけは、常人の五、六倍膨れ上がっているくせに、こうしたところで僅かな損失を惜しむ器の小さな人間が、この「醜悪」だった。
ただ、今は少しだけ感謝している。この部屋を選んだ人間ではなく、この部屋の古い天井板に対して。
にじゅうご、にじゅうろく……さんじゅうよん……よんじゅうに。
無視しきれない痛みに、少女は喉の奥から短い声を上げた。うっかり、身体が放つ信号を拾い、空気を振動させてしまった。だが、その引きつった声に目の前の男が愉快にほくそ笑むのがあまりに癪なので、彼女は懸命に息を呑み、喉を潰す。頭の動きと身体の痛みを引きはがす努力をする――。
幾つまで数えたか、忘れてしまった。
再び天井を見つめ、一から数え始める。風の泣くような自身の声を鼓膜から遠ざけ、醜悪から目を逸らし、シーツの感触さえ切り離しては、ひたすら数を数えていく。
はちじゅうさん。
今日は、彼女の奥底にその数字だけが痩せた膝を抱えてうずくまった。以前そこにいた数字を彼女はすっかり忘れていたし、この八十三も、あと五分もすれば記憶から消えて成仏するだろう。
そんな彼らを、彼女は少しだけ、羨ましいと思う。
「菜々ちゃん、気持ちよかったかい」そんな言葉を口にする相手に、少女は返事をしなかった。僅かに首を傾げ、聞こえないふりをした。
叔父は忌々し気な舌打ちを降らせる。それを頭から被りながら、目を細める少女は尚も知らんふりをする。だって、外せって言ったのはあんたじゃないか。
それを口にするほど彼女は幼くも愚かでもなかった。気が萎えるから外せと言われれば、大人しく従った。左耳にあるべき補聴器はケースの中で沈黙している。だから聞こえないんだと目を逸らす。
菜々ちゃん、と男が口にした。
聞こえないふりが通用しないよう、耳元で、菜々ちゃん、ナナチャンと。菜々ちゃん、菜々ちゃん、菜々、ナナ。次第に募る苛立ちを察するには、彼女の感受性は充分成長していた。からからの喉など動かしたくないが、無意味な痛みを浴びる気にもならず、彼女は自身の耳にさえ辛うじて届く程度の細い小声を振り絞る。叔父さん、と。
「私のこと、好き?」
これで男がみるみるうちに機嫌を直すことを彼女は嫌というほど知っていた。ともすれば興奮に至る男の顔を、少女は力のない瞳で眺める。ただうっすらと開いた瞼を向けただけだが、男にそれを気にする風はない。
――ああ、好きだよ、大好きだよ、この世の誰よりも愛してるんだ、生まれた瞬間から、愛していたよ。
歯の浮く寒気のする台詞に、少女の中には可笑しさが滲み出る。生まれた瞬間なんて知らないくせに、本当に調子のよすぎる男だ。見るに堪えない人間だ。
父の両親がとっくの昔に離婚している事実を鑑みると、この「叔父」という人間が自分にとって苗字も異なる真っ赤な他人であった現実も、彼女にとっては当然のことだった。今になってこんな台詞を吐き出すなんて、正気の沙汰じゃないとも思った。
七、八年前に突然現れ、叔父だと名乗ったこの男が、十六年前に塀の中に入っていたことは後から知った。六年の懲役、実刑判決。その刑罰の名称を知ると、性犯罪者の再犯率の高さに納得し、「更生」という言葉の意味を辞書で調べてみたが、腹落ちする回答は学校の図書館では見つからなかった。
そんな人間にも逆らえない悔しさが、少女の中で初めは燃えていた。
怒りだとか、憎しみだとか、不甲斐なさだとか。かき集められたマイナスと名のつく感情が、胸の奥いっぱいに詰め込まれ、強い火力でぐつぐつと煮込まれていた。
やがて水分は蒸発し、それらはない交ぜになったまま指先程に縮こまり、時折思い出したようにころりと転がるだけになった。だが、それらは少女の中で言葉を失い、自己主張をしなくなっただけで、消滅したわけではない。彼女が使いもしない新品のナイフを常に鞄に隠しているのが、その証拠だった。
――この小心者め。
叔父の言葉に心の奥底で呟いた罵倒は、乾ききった砂漠に染み込むひと雫。
「ちゃんと、飲んでおくんだよ」名残惜しげに離れる男は、そう言ったのだ。
――責任一つ取れないくせに、何が愛してるだ。死んじまえ。
脂肪のおかげで背骨の見当たらない背中に向かって、少女は奥の奥で罵声を吐き捨てる。
その背にナイフを突き立てる幻影だけを瞼に映し、今はそうするだけで、彼女は細い背中を丸めた。
静寂の満ちた早朝の住宅街に侵入する、グレーの乗用車。少女はなるだけ手早く助手席のドアを開けると、最小限の隙間から滑り下りた。まだ何か言い足りないらしい男に耳を貸す気などさらさらなく、温度を失った瞳で振り返る。
またなと馴れ馴れしい言葉を吐いた相手には辛うじて頷いただけだったが、満足そうにアクセルを踏み込むのを、門の前で黙って見送った。
全てが一瞬の出来事で、逃げ場を失くした少年はペダルを踏まず、咄嗟に左足を地面についていた。轢いても構う様子を見せない車に自転車をひっかけられないよう、塀にもたれるように車体を傾かせる。振り向いた先のヘッドライトの眩しさに目を細め、バランスを崩しそうな自転車を、膝を曲げた左足で懸命に支えていた。
ペダルを踏み込むのがあと三秒早ければ、見ないふりが出来たのに。
「誰か、見えちゃった?」彼の不運を想いながら、なんとか持ち直して息をつく少年に近寄る。
そして、少年が差し入れたばかりの新聞を引き抜いた。彼はというと、昨日同様に目を伏せさせ、無言で首を横に振った。車内の人間の顔を見通すにあたって、薄闇のヘッドライトは人の目には強すぎた。
「ふうん」恐らく彼は嘘などついてはいないだろうが、彼女はそっけなく息を吐く。
叔父にとっては、彼は偶然通りかかっただけのただの新聞配達の少年だ。記憶に残す必要すらない存在だ。
それでも彼女は、緩く丸めた新聞で、自身の肩をとんとんと叩いた。「まあね」口元だけで軽く笑い、少年を一瞥する。
「誰にも言うなよ。言ったら殺すから」
まだ陽も昇らない静寂の中、決して大きくない少女の声に、彼は一度頷く。口を開くどころか目を合わせることもしないまま、彼女の脅迫に小さく頭を下げると右足を踏み込む。
いざとなれば刺してしまうか、せめてこのナイフや薬の入った重い鞄で頭を殴り、気絶させて記憶を奪おうかとも思った。それを実行せずに済んだ幸運に、彼女は軽く頭を振った。
「ばかやろう」
誰に向けたのか自分でさえわからない言葉を、ただ一言、アスファルトに零した。
「おはよ」
眠れない少女が、いっそう眠れなくなる缶コーヒーを手にしたまま声をかけると、少年は「おはようございます」と丁寧に呟いた。俯けた視線を新聞受けに向け、さっさと前かごから取り出した一部を突っ込む。まるで先日の脅迫文句などすっかり忘れてしまったような彼の姿を、彼女は指に挟んだ缶を軽く振りながら眺めていた。
「あんた、中学何年?」
問いかけると、彼はようやく首を曲げて彼女を視界に入れた。
「中三です」
彼がぽつりと落とす言葉に、少女は納得して頷く。細身で痩せているが、今年で十五歳だと言われれば、なるほど、それ以上にも以下にも見えない。
「じゃあ、私の二つ下なんだ」
そう返すと、ほんの一瞬だけ、暗い瞳が少女の目を見た。見つめる、というほどの時間などない。確認するように向けただけだ。
「高校生、なんですか」
「そうよ。私のこと幾つだと思ってたの」
責めたつもりなど彼女にはなかったが、彼は再び視線を外してしまった。
「考えたことなくって……」
ハンドルを握りしめる彼が、ごめんなさいと呟いた理由が少女にはわからなかった。
致命的に会話のキャッチボールが下手なやつだ。人の目すら見やしないで。
遠のく自転車の軋む音はやがて聞こえなくなり、その頃には、昇り始めた朝陽のおかげで、夜霧は少しだけ白く染まり始めていた。