スラム街
ー/ー 地下水道を抜け、地上に出た勇斗は、悪臭に鼻を曲げた。
「ここが、スラム街」
臭いの原因は、辺り一面に放置された大量のゴミだった。変な虫が足元を横切った。ここで立ち止まっているのは、体に悪そうだった。
勇斗は狭い路地を抜け、広い通りに出た。今にも壊れてしまいそうな粗末な家が、ひしめき合っていた。行き交う人々は皆、みすぼらしい服装をしていた。
――誰だ、あのガキ。
――豪華な鎧を着て、こんなところで何をしているんだ。
周りから、ひそひそ声が聞こえてきた。
「おい、坊主」
突然声をかけられた。振り向くと、痩せ型の中年男が立っていた。無精髭を触り、ニヤニヤ笑っていた。
「だ、誰ですか?」
「オレは情報屋のシリ。お前、偽物勇者だろ?」
鋭い眼光が突き刺さった。全身が固まった。
「どうして知ってるんだって顔をしてるな。ハハッ、情報屋を舐めたらいけないぜ?」
シリと名乗った情報屋は、つぎはぎのコートから小さな葉巻を取り出し、マッチで火をつけた。
「僕を売るのですか?」
「ハッ、そんなことしねぇよ。オレは城の連中が嫌いなんでね。アイツらから一銭も貰いたくねぇ。情報は奪うがな」
シリはニッと笑った。
「この路地から出てきたってことは、牢屋から抜け出してきたんだろ? たまにいるんだよ。ほら、アイツだってそうだ」
シリの視線の先には、傷だらけの男がいた。大きな剣を収めた鞘を大事そうに抱え、地面に座り込んでいる。目は虚ろだった。
「アイツは元々、城の騎士だったんだ。クラバンの悪事を暴こうとして、牢にぶち込まれたらしい。名残惜しいのか、剣だけは売らずに持ち続けてやがる」
脳裏に、ゲジゲジ眉毛のいやらしい顔が浮かんだ。吐きそうになった。
「クラバン大臣って、何者なのですか?」
「あのデブは、立場を利用して好き勝手してやがるクソだよ。女子供関係なく、目障りなやつを牢に入れて、こっそり拷問するのが趣味の、イカれた野郎だ」
シリは、遠くに映る城を眺め、煙を吐いた。
「酷い」
「あぁ、酷いやつさ」
床に落とされた葉巻が、足で揉み消された。
「それで、お前はこれからどうすんだ? ここで暮らすのか? その剣と鎧を売ったら、しばらくは生活に困らないと思うぜ?」
「いや、僕には目的があります。仲間と合流して、ここから抜け出さなければいけないんだ」
勇斗は震える手を握りしめ、シリの目をじっと見た。
「事情があるようだな。よし、抜け道を教えてやる」
「えっと、僕、今お金が」
「特別サービスだ。タダにしといてやる。坊主、名前は?」
「勇斗です」
「ユートか。よし、じゃあついてこい」
スラム街は、迷路のように入り組んでいた。早足で歩くシリの後ろ姿を、勇斗は必死に追った。
「あそこから外に出られる」
シリは、スラム街を囲む石壁を指差した。一部分が崩れ、ぽっかりと口を開けていた。人ひとりなら余裕で通り抜けられそうだ。
「僕一人では行けない。仲間を待たないと」
ここで待っていたら、みんな来てくれるだろうか。一度戻った方がいいだろうか。
そわそわしながら周囲を見渡していると、甲高い声が飛んできた。
「あんちゃん!」
小柄な少年が、目を輝かせながら走ってきた。
「きみは、確か」
城下町で、ランパとぶつかった少年だった。無事だったみたいだ。もし捕まっていたら、この子も――そう思うと、背筋が冷えた。
「よう、イメル。ユートと知り合いだったのか?」
「うん。この前、逃げるのを手伝ってくれたんだ」
「あぁ、そういや話してたな」
「そうだ、今日はこれだけ稼いだんだよ」
「ほぉ、大したもんだ」
シリとイメルが笑い合っていた。
「二人は親子なのですか?」
あまりにも仲が良さそうだったので、何気なく尋ねてみた。
「いいや、他人だよ。まぁ、このスラム街では、みんな家族のようなものだけどな」
「みんな協力し合って、なんとか生きてるんだよ! えらい人たちは何もしてくれないからね。ボクも働いているんだ!」
イメルの笑顔が、眩しかった。よく見ると、顔には小さな傷や痣がたくさんついている。こんな小さな子でも、生きるのに必死なのか。元の世界での何不自由ない生活が、急に後ろめたく思えた。
「そういや、ユピーはまだ帰ってきてないのか?」
「兄ちゃん、まだ戻らない」
「イメルくん、お兄さんがいるの?」
「うん。ユピー兄ちゃん、街の外に出て行ったきり戻らないんだ。たんまり稼いですぐに戻ってくるって言ってたけど、全然帰ってこない」
イメルの表情が暗くなった。
「イメルの兄はな、仲間と一緒に危険な仕事を引き受けたんだ。旅人を襲って金目のものを奪う、非合法な仕事さ」
ひそひそと、耳元で囁かれた。
心がざわざわした。
「やれやれ、散々な目に遭ったよ」
壁に空いた穴から、一人の男が姿を現した。
「えっ」
勇斗は言葉を失った。
男の服装には見覚えがあった。黒マント。山で襲ってきた連中と、同じ服装だった。
「おう、ようやく帰ったか。つーかひでえ怪我だな。ユピーはどうした」
「あいつは……」
男は沈黙したあと、勇斗の顔を見た。
「あ、てめえは!」
男の顔がみるみる険しくなる。
「この鎧のガキに、ユピーが殺されたっ! こいつが……ぐっ」
男は叫んだあと、倒れた。
「おい、大丈夫かっ! 誰か、医者を呼べ!」
シリが大声を上げる。周囲がざわついた。
山道で人を殺してしまったときの状況が思い出された。
「僕が、僕が殺したのは……」
勇斗は両手で頭を抱え、両膝を折った。体の震えが止まらない。過呼吸になり、思考が乱れた。
「あんちゃん」
顔を上げると、眉をひそめたイメルの顔があった。目は、どす黒く曇っていた。
「あんちゃん、ユピー兄ちゃんを殺したの? 本当なの? なんで? 兄ちゃんはもういないの? もう会えないの?」
イメルは、感情の抜け落ちた声で、淡々と言葉を発した。
「あれは、仕方がなかったんだ。やらなきゃ、僕が死んでいた」
勇斗の声が震える。
「どうして兄ちゃんが死ななきゃいけないの? どうして、どうして……」
イメルの小さな手が小刻みに震えた。
「ごめんなさい、ごめ、ごめんっ……」
勇斗の顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる。
「…………」
黙り込んだイメルは、倒れた男に歩み寄り、黒いマントの中を漁り出した。
「殺してやる……」
イメルが、ゆっくりと振り向いた。手には、ダガーが握られていた。
「しね、死んでしまえぇっ!」
イメルの雄叫びが、スラム街に響き渡った。
憎悪に満ちた刃が迫ってきた。避けてはいけないと、体のどこかが思っていた。自分は、生き残ってはいけない人間なのかもしれない。
「ユートーっ!」
目の前に、エメラルドグリーンの髪が飛び込んできた。
「うがっ!」
ランパの腹部に、短剣が深々と刺さっていた。じわりと、赤いシミが広がった。
「ランパ……」
「間に合って、よかった。危なかったな」
ランパは、突き刺さった短剣を抜き、放り投げた。
「どうして」
「絶対に助けるって、前にも言ったろ? ユートは生きて元の世界に戻るんだ」
ランパはニッと笑った。
「助ける……」
イメルの目が、一瞬だけ潤んだ。
「くそっ」
「待て、イメル!」
シリの呼びかけを無視したイメルは、壁の外に姿を消した。
辺りが静寂に包まれる。
「がはっ」
ランパは血を吐き、膝を折った。
「いてぇ。クラクラする」
「ランパ、血がこんなにも」
「泣くなよ。オイラ精霊だから、これくらいじゃ、死にはしないって。しばらくしたら、治るから」
息も絶え絶えに、ランパは言う。
「うわああああっ!」
壁の外側から、イメルの悲鳴が聞こえた。
「ちっ、魔族か。騎士団の連中め、狩り損ねたのか? それともわざとこの辺だけ残してやがったのか?」
穴から外を覗いているシリが舌打ちをする。
「ユート」
ふらふらと立ち上がったランパは、勇斗のマントの内側に手を伸ばし、魔法の葉巻――ドラシガーを一本取り出した。
「ユート、行け」
勇斗の掌にドラシガーが乗せられた。吸い口は綺麗にカットされている。
「でも、僕は……」
勇斗の視線がさまよった。
「今、あいつを助けてやれるのは、ユートだけだぞ。誰かを助けるのに、理由なんていらないんだ。迷うなよ」
ランパは、口角を上げ、サムズアップをした。
「うん」
勇斗は立ち上がり、ガントレットに埋め込まれた宝石から放たれる青白い炎で、ドラシガーに火をつけた。淡い緑色の煙が、真っ直ぐ立ち昇った。
「ちゃんと帰ってこいよー」
ランパは、ふらっと地面に倒れ込んだ。
「うん」
勇斗はドラシガーを咥え、駆け出した。
イメルは、魔族に囲まれていた。牛のような頭をした、筋肉質な人型。一匹は何も持っていなかったが、もう一匹の手には斧が握られていた。
「た、助けて……」
地面に座り込んだイメルは、ガタガタと震えていた。真弘くんが不良たちに絡まれていたときのことが重なった。あの頃の自分は、電柱の影で尻込みしているだけだった。しかし、今は違う。足は、前に出ていた。
剣を抜き、両手で構える。咥えたドラシガーから煙を吸い込む。マナが体内を駆け巡る感覚。口の隙間から煙を一気に放出する。
全身に煙を纏った勇斗は、瞬く間にイメルの前へ躍り出た。
金属音。
イメル目掛けて振り下ろされた斧を、聖剣クトネシスの刃で受け止めていた。
「あ、あんちゃん」
腕に力を集中させ、斧を押し返す。牛頭がよろけた。すかさず左の掌を突き出す。炎が、牛頭の体を激しく焼いた。
今のうちに逃げて、と叫びたかったが、ドラシガーを咥えているせいで、うまく言葉にならなかった。
「イメル、走れ!」
シリの叫び声が聞こえた。イメルはぎこちない動作で立ち上がり、スラム街の方を向く。
もう一匹の牛頭が反応した。太い腕が、イメルに向かって伸びる。
勇斗は体勢を変え、イメルを捕まえようとしている牛頭の右腕に剣を振り下ろした。太い腕に刃が食い込む。肉と骨を断つ感触が伝わってきた。ありったけの力を込める。
牛頭の右腕が切り落とされ、地面に転がった。切断面からは黒い液体が吹き出している。
右腕を失った牛頭は、低く唸りながら、左腕で殴りかかってきた。即座に煙で視界を奪い、攻撃を躱した。
標的を見失った牛頭の背後に回った。煙で相手を拘束し、勢いよく刃を背中に突き刺す。刹那、剣身が紅い光を帯びた。素早く剣を引き抜くと、傷口から炎が噴き上がった。
火だるまになった牛頭は、その場に倒れ、やがて消滅した。
ドラシガーは本当に不思議だ。煙を吸いながら動くと、戦い方が次々と体に流れ込んでくる。精霊術の使い方も、煙の操り方も、自然とわかる。
突然、左肩に衝撃が走った。
斧が鎧の肩当てを砕き、刃が肉にまで届いていた。口からドラシガーが離れそうになったが、強く噛み、煙を吸い込んだ。痛みが薄れる。ここで倒れるわけにはいかない。
振り向くと、最初に焼いた牛頭が咆哮していた。まだ動けたようだ。油断した。
再び斧が振り下ろされる前に、煙で相手の視界を奪う。空振りした斧が地面に突き刺さり、牛頭の動きが一瞬止まる。すかさず懐へ潜り込み、首元に刃を当てた。
牛のような頭部が、宙を舞った。
スラム街の方を見る。シリが、イメルを抱えていた。傍には、ミュールとチカップとソーマの姿も見えた。
剣を納め、右手でドラシガーを掴み、頬をそっとへこませた。
勇斗は、淡い緑色の煙を穏やかに吐き出した。
シリの家で一夜を明かし、再び壁の外へと出た。
「ランパ、もう大丈夫なの?」
「おう、もう平気だ!」
ランパは服をめくった。刺された箇所は綺麗に塞がっている。
安堵の息をついた、そのとき、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、シリが険しい表情をしていた。
「ユート、ユピーのことは他の連中から聞いた。正直、オレも同じような状況だったら、自分の命を優先していた。人間の持つ本能。これは魔族にも言えることか」
シリは、髪の毛をボリボリとかきむしった。
「お前はこれからユピーを殺したことを背負っていく必要がある。忘れてしまったら、それはただの狂人だ。辛いだろうけど、頑張れよ」
「はい」
勇斗は左の掌を眺めたあと、その手を固く握りしめた。
「あ、あの、イメルは」
「お前の顔は見たくないってよ。でも、伝えてほしいことがあるって、依頼されちまった」
「伝えたいこと?」
「助けてくれてありがとう、だとよ」
全身の力が抜け、一瞬気が遠くなった。複雑な感情が一緒くたに押し寄せる。
大粒の涙が、勇斗の頬を伝った。
「おーい、ユート! 見てくれ!」
ランパの大声が飛んできた。慌てて涙を拭い、振り返る。精霊樹の枝から、一本の細い光が放たれていた。
「これは、何ですの?」
ソーマが首を傾げる。
「この光の先に、四大精霊の封印があるんだよ」
勇斗は、草原の彼方を指差した。
「まぁ。それでは早く行きましょう」
「次はどんなとこなんだろーな。うまいもんあるかなー?」
「チビスケはいつもこうだな」
「そうだね。あれ? チカップ、どうしたの?」
「あの先は……」
光が伸びていく方角を見つめるチカップの表情は、どこか曇っていた。
「ここが、スラム街」
臭いの原因は、辺り一面に放置された大量のゴミだった。変な虫が足元を横切った。ここで立ち止まっているのは、体に悪そうだった。
勇斗は狭い路地を抜け、広い通りに出た。今にも壊れてしまいそうな粗末な家が、ひしめき合っていた。行き交う人々は皆、みすぼらしい服装をしていた。
――誰だ、あのガキ。
――豪華な鎧を着て、こんなところで何をしているんだ。
周りから、ひそひそ声が聞こえてきた。
「おい、坊主」
突然声をかけられた。振り向くと、痩せ型の中年男が立っていた。無精髭を触り、ニヤニヤ笑っていた。
「だ、誰ですか?」
「オレは情報屋のシリ。お前、偽物勇者だろ?」
鋭い眼光が突き刺さった。全身が固まった。
「どうして知ってるんだって顔をしてるな。ハハッ、情報屋を舐めたらいけないぜ?」
シリと名乗った情報屋は、つぎはぎのコートから小さな葉巻を取り出し、マッチで火をつけた。
「僕を売るのですか?」
「ハッ、そんなことしねぇよ。オレは城の連中が嫌いなんでね。アイツらから一銭も貰いたくねぇ。情報は奪うがな」
シリはニッと笑った。
「この路地から出てきたってことは、牢屋から抜け出してきたんだろ? たまにいるんだよ。ほら、アイツだってそうだ」
シリの視線の先には、傷だらけの男がいた。大きな剣を収めた鞘を大事そうに抱え、地面に座り込んでいる。目は虚ろだった。
「アイツは元々、城の騎士だったんだ。クラバンの悪事を暴こうとして、牢にぶち込まれたらしい。名残惜しいのか、剣だけは売らずに持ち続けてやがる」
脳裏に、ゲジゲジ眉毛のいやらしい顔が浮かんだ。吐きそうになった。
「クラバン大臣って、何者なのですか?」
「あのデブは、立場を利用して好き勝手してやがるクソだよ。女子供関係なく、目障りなやつを牢に入れて、こっそり拷問するのが趣味の、イカれた野郎だ」
シリは、遠くに映る城を眺め、煙を吐いた。
「酷い」
「あぁ、酷いやつさ」
床に落とされた葉巻が、足で揉み消された。
「それで、お前はこれからどうすんだ? ここで暮らすのか? その剣と鎧を売ったら、しばらくは生活に困らないと思うぜ?」
「いや、僕には目的があります。仲間と合流して、ここから抜け出さなければいけないんだ」
勇斗は震える手を握りしめ、シリの目をじっと見た。
「事情があるようだな。よし、抜け道を教えてやる」
「えっと、僕、今お金が」
「特別サービスだ。タダにしといてやる。坊主、名前は?」
「勇斗です」
「ユートか。よし、じゃあついてこい」
スラム街は、迷路のように入り組んでいた。早足で歩くシリの後ろ姿を、勇斗は必死に追った。
「あそこから外に出られる」
シリは、スラム街を囲む石壁を指差した。一部分が崩れ、ぽっかりと口を開けていた。人ひとりなら余裕で通り抜けられそうだ。
「僕一人では行けない。仲間を待たないと」
ここで待っていたら、みんな来てくれるだろうか。一度戻った方がいいだろうか。
そわそわしながら周囲を見渡していると、甲高い声が飛んできた。
「あんちゃん!」
小柄な少年が、目を輝かせながら走ってきた。
「きみは、確か」
城下町で、ランパとぶつかった少年だった。無事だったみたいだ。もし捕まっていたら、この子も――そう思うと、背筋が冷えた。
「よう、イメル。ユートと知り合いだったのか?」
「うん。この前、逃げるのを手伝ってくれたんだ」
「あぁ、そういや話してたな」
「そうだ、今日はこれだけ稼いだんだよ」
「ほぉ、大したもんだ」
シリとイメルが笑い合っていた。
「二人は親子なのですか?」
あまりにも仲が良さそうだったので、何気なく尋ねてみた。
「いいや、他人だよ。まぁ、このスラム街では、みんな家族のようなものだけどな」
「みんな協力し合って、なんとか生きてるんだよ! えらい人たちは何もしてくれないからね。ボクも働いているんだ!」
イメルの笑顔が、眩しかった。よく見ると、顔には小さな傷や痣がたくさんついている。こんな小さな子でも、生きるのに必死なのか。元の世界での何不自由ない生活が、急に後ろめたく思えた。
「そういや、ユピーはまだ帰ってきてないのか?」
「兄ちゃん、まだ戻らない」
「イメルくん、お兄さんがいるの?」
「うん。ユピー兄ちゃん、街の外に出て行ったきり戻らないんだ。たんまり稼いですぐに戻ってくるって言ってたけど、全然帰ってこない」
イメルの表情が暗くなった。
「イメルの兄はな、仲間と一緒に危険な仕事を引き受けたんだ。旅人を襲って金目のものを奪う、非合法な仕事さ」
ひそひそと、耳元で囁かれた。
心がざわざわした。
「やれやれ、散々な目に遭ったよ」
壁に空いた穴から、一人の男が姿を現した。
「えっ」
勇斗は言葉を失った。
男の服装には見覚えがあった。黒マント。山で襲ってきた連中と、同じ服装だった。
「おう、ようやく帰ったか。つーかひでえ怪我だな。ユピーはどうした」
「あいつは……」
男は沈黙したあと、勇斗の顔を見た。
「あ、てめえは!」
男の顔がみるみる険しくなる。
「この鎧のガキに、ユピーが殺されたっ! こいつが……ぐっ」
男は叫んだあと、倒れた。
「おい、大丈夫かっ! 誰か、医者を呼べ!」
シリが大声を上げる。周囲がざわついた。
山道で人を殺してしまったときの状況が思い出された。
「僕が、僕が殺したのは……」
勇斗は両手で頭を抱え、両膝を折った。体の震えが止まらない。過呼吸になり、思考が乱れた。
「あんちゃん」
顔を上げると、眉をひそめたイメルの顔があった。目は、どす黒く曇っていた。
「あんちゃん、ユピー兄ちゃんを殺したの? 本当なの? なんで? 兄ちゃんはもういないの? もう会えないの?」
イメルは、感情の抜け落ちた声で、淡々と言葉を発した。
「あれは、仕方がなかったんだ。やらなきゃ、僕が死んでいた」
勇斗の声が震える。
「どうして兄ちゃんが死ななきゃいけないの? どうして、どうして……」
イメルの小さな手が小刻みに震えた。
「ごめんなさい、ごめ、ごめんっ……」
勇斗の顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる。
「…………」
黙り込んだイメルは、倒れた男に歩み寄り、黒いマントの中を漁り出した。
「殺してやる……」
イメルが、ゆっくりと振り向いた。手には、ダガーが握られていた。
「しね、死んでしまえぇっ!」
イメルの雄叫びが、スラム街に響き渡った。
憎悪に満ちた刃が迫ってきた。避けてはいけないと、体のどこかが思っていた。自分は、生き残ってはいけない人間なのかもしれない。
「ユートーっ!」
目の前に、エメラルドグリーンの髪が飛び込んできた。
「うがっ!」
ランパの腹部に、短剣が深々と刺さっていた。じわりと、赤いシミが広がった。
「ランパ……」
「間に合って、よかった。危なかったな」
ランパは、突き刺さった短剣を抜き、放り投げた。
「どうして」
「絶対に助けるって、前にも言ったろ? ユートは生きて元の世界に戻るんだ」
ランパはニッと笑った。
「助ける……」
イメルの目が、一瞬だけ潤んだ。
「くそっ」
「待て、イメル!」
シリの呼びかけを無視したイメルは、壁の外に姿を消した。
辺りが静寂に包まれる。
「がはっ」
ランパは血を吐き、膝を折った。
「いてぇ。クラクラする」
「ランパ、血がこんなにも」
「泣くなよ。オイラ精霊だから、これくらいじゃ、死にはしないって。しばらくしたら、治るから」
息も絶え絶えに、ランパは言う。
「うわああああっ!」
壁の外側から、イメルの悲鳴が聞こえた。
「ちっ、魔族か。騎士団の連中め、狩り損ねたのか? それともわざとこの辺だけ残してやがったのか?」
穴から外を覗いているシリが舌打ちをする。
「ユート」
ふらふらと立ち上がったランパは、勇斗のマントの内側に手を伸ばし、魔法の葉巻――ドラシガーを一本取り出した。
「ユート、行け」
勇斗の掌にドラシガーが乗せられた。吸い口は綺麗にカットされている。
「でも、僕は……」
勇斗の視線がさまよった。
「今、あいつを助けてやれるのは、ユートだけだぞ。誰かを助けるのに、理由なんていらないんだ。迷うなよ」
ランパは、口角を上げ、サムズアップをした。
「うん」
勇斗は立ち上がり、ガントレットに埋め込まれた宝石から放たれる青白い炎で、ドラシガーに火をつけた。淡い緑色の煙が、真っ直ぐ立ち昇った。
「ちゃんと帰ってこいよー」
ランパは、ふらっと地面に倒れ込んだ。
「うん」
勇斗はドラシガーを咥え、駆け出した。
イメルは、魔族に囲まれていた。牛のような頭をした、筋肉質な人型。一匹は何も持っていなかったが、もう一匹の手には斧が握られていた。
「た、助けて……」
地面に座り込んだイメルは、ガタガタと震えていた。真弘くんが不良たちに絡まれていたときのことが重なった。あの頃の自分は、電柱の影で尻込みしているだけだった。しかし、今は違う。足は、前に出ていた。
剣を抜き、両手で構える。咥えたドラシガーから煙を吸い込む。マナが体内を駆け巡る感覚。口の隙間から煙を一気に放出する。
全身に煙を纏った勇斗は、瞬く間にイメルの前へ躍り出た。
金属音。
イメル目掛けて振り下ろされた斧を、聖剣クトネシスの刃で受け止めていた。
「あ、あんちゃん」
腕に力を集中させ、斧を押し返す。牛頭がよろけた。すかさず左の掌を突き出す。炎が、牛頭の体を激しく焼いた。
今のうちに逃げて、と叫びたかったが、ドラシガーを咥えているせいで、うまく言葉にならなかった。
「イメル、走れ!」
シリの叫び声が聞こえた。イメルはぎこちない動作で立ち上がり、スラム街の方を向く。
もう一匹の牛頭が反応した。太い腕が、イメルに向かって伸びる。
勇斗は体勢を変え、イメルを捕まえようとしている牛頭の右腕に剣を振り下ろした。太い腕に刃が食い込む。肉と骨を断つ感触が伝わってきた。ありったけの力を込める。
牛頭の右腕が切り落とされ、地面に転がった。切断面からは黒い液体が吹き出している。
右腕を失った牛頭は、低く唸りながら、左腕で殴りかかってきた。即座に煙で視界を奪い、攻撃を躱した。
標的を見失った牛頭の背後に回った。煙で相手を拘束し、勢いよく刃を背中に突き刺す。刹那、剣身が紅い光を帯びた。素早く剣を引き抜くと、傷口から炎が噴き上がった。
火だるまになった牛頭は、その場に倒れ、やがて消滅した。
ドラシガーは本当に不思議だ。煙を吸いながら動くと、戦い方が次々と体に流れ込んでくる。精霊術の使い方も、煙の操り方も、自然とわかる。
突然、左肩に衝撃が走った。
斧が鎧の肩当てを砕き、刃が肉にまで届いていた。口からドラシガーが離れそうになったが、強く噛み、煙を吸い込んだ。痛みが薄れる。ここで倒れるわけにはいかない。
振り向くと、最初に焼いた牛頭が咆哮していた。まだ動けたようだ。油断した。
再び斧が振り下ろされる前に、煙で相手の視界を奪う。空振りした斧が地面に突き刺さり、牛頭の動きが一瞬止まる。すかさず懐へ潜り込み、首元に刃を当てた。
牛のような頭部が、宙を舞った。
スラム街の方を見る。シリが、イメルを抱えていた。傍には、ミュールとチカップとソーマの姿も見えた。
剣を納め、右手でドラシガーを掴み、頬をそっとへこませた。
勇斗は、淡い緑色の煙を穏やかに吐き出した。
シリの家で一夜を明かし、再び壁の外へと出た。
「ランパ、もう大丈夫なの?」
「おう、もう平気だ!」
ランパは服をめくった。刺された箇所は綺麗に塞がっている。
安堵の息をついた、そのとき、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、シリが険しい表情をしていた。
「ユート、ユピーのことは他の連中から聞いた。正直、オレも同じような状況だったら、自分の命を優先していた。人間の持つ本能。これは魔族にも言えることか」
シリは、髪の毛をボリボリとかきむしった。
「お前はこれからユピーを殺したことを背負っていく必要がある。忘れてしまったら、それはただの狂人だ。辛いだろうけど、頑張れよ」
「はい」
勇斗は左の掌を眺めたあと、その手を固く握りしめた。
「あ、あの、イメルは」
「お前の顔は見たくないってよ。でも、伝えてほしいことがあるって、依頼されちまった」
「伝えたいこと?」
「助けてくれてありがとう、だとよ」
全身の力が抜け、一瞬気が遠くなった。複雑な感情が一緒くたに押し寄せる。
大粒の涙が、勇斗の頬を伝った。
「おーい、ユート! 見てくれ!」
ランパの大声が飛んできた。慌てて涙を拭い、振り返る。精霊樹の枝から、一本の細い光が放たれていた。
「これは、何ですの?」
ソーマが首を傾げる。
「この光の先に、四大精霊の封印があるんだよ」
勇斗は、草原の彼方を指差した。
「まぁ。それでは早く行きましょう」
「次はどんなとこなんだろーな。うまいもんあるかなー?」
「チビスケはいつもこうだな」
「そうだね。あれ? チカップ、どうしたの?」
「あの先は……」
光が伸びていく方角を見つめるチカップの表情は、どこか曇っていた。
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