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アルト⑸

ー/ー



 アルトは机に肘をつき、開いた教室の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。
 
 天陽山。あれから何度か登ってみたが、どうしても山頂にはたどり着けなかった。まっすぐ目指しているはずなのに、近づけば近づくほど、御神木は遠ざかっていく。光太によれば――天陽山は、昔から誰一人として御神木にたどり着けない、不思議な山なのだという。

 まるで、精霊樹が佇む聖域のようだ。マナの存在も含め、元の世界へ戻る手がかりが、あの山に隠されている気がするのだが――
 
「こら、日向! 何ボーッとしてるんだ。お前の番だぞ」
 
 先生の声で我に返った。周りから、クスクスと笑い声が聞こえる。
 
「すみません」
 
 アルトは立ち上がり、国語の教科書を両手に持つ。
 
「おーい、逆さまだぞ」
 
 アルトの背後から、光太のひそひそ声が聞こえてきた。
 
「むっ、しまった」
 
 アルトは教科書を回転させ、音読をはじめた。
 

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、クラスメイトたちがゾロゾロと教室を出ていった。
 
「今日も山を調べてみるか」
 
 アルトは教科書をかばんに詰め、扉に向かって歩き出した。
 
「おい、ちょっと待て」
 
 アルトの腕が、光太に掴まれた。
 
「離せよ、ボクは忙しいんだ」
 
 思い切り手をふりほどく。掴んでいた腕があまりにも軽く、逆にこちらがよろけそうになった。
 
「いてて、お前本当に容赦ないな」
 
 光太がしかめっ面をした。
 
「ボクはこれから山に行く。はやく帰らせてくれ」
 
「俺たち、今日は掃除当番なんだ。終わるまで帰れないんだよ」
 
 教室内には、光太のほかに、メガネをかけた背の低い男子と、少しぽっちゃりした男子が残っていた。いつもアニメとやらの話をしている、ひ弱そうな二人組だ。
 
「俺と小杉と太田、そしてお前の四人で教室の掃除をするんだ。全員でやったら、すぐ終わるから。勝手に帰ったら先生に怒られて、余計に時間を取られるぞ?」
 
「――仕方ないな」

 机の上に椅子をひっくり返して乗せ、教室の前方に運び、後方の床をほうきで掃き、モップをかける。終われば反対側も同様に行う。地味な作業だ。剣の素振りも地味だったが、取り組むことで確実に己の力となった。しかし、この作業にはまったく価値を感じない。一体、これで何を得られるというのか。
 
「日向」
 
 無表情で床を掃除しているアルトに向かって、小杉が声をかけた。
 
「何だ? ボクはこの作業をはやく終わらせたい。話しかけないでくれるか」
 
「いやぁ、ちょっと怖いと思ってな。前まではそんな顔しなかったのに。なんかあったん?」
 
 アルトは、小杉の問いを無視して作業を続けた。人と話す必要性を、今の彼は感じていなかった。
 
「うわ、シカトされた。ねぇ夏野、日向ってあんなんやったっけ?」
 
 顔を歪めた小杉が、光太の背中をほうきの柄でつっついた。
 
「え? あぁ、まぁ、いろいろあったんじゃね?」
 
 光太が苦笑いをする。冷や汗がだらだらと流れていた。
 
「そうそう、急に運動もできるようになったし。俺たち体育見学組にとっては一大事なんだよ。仲間が一人減った感じでさぁ」
 
 太田がでっぱった腹部をポンと叩き、ため息をついた。
 
「か、陰でこっそりトレーニングでもしてたんじゃね? それより、次は窓拭きだ。俺、水汲んでくる。さぁ、ちゃっちゃかやるぞー!」
 
 冷や汗を流しつつ、光太は教室から出ていった。
 
「夏野も最近変やなぁ」
 
「何か隠してるのかな」
 
 小杉と太田が、怪訝そうな顔を見合わせた。
 
 アルトは廊下の窓ガラスを拭いていた。脚立に足をかけ、湿らせた雑巾をスライドさせていく。
 
 窓ガラスに、アルトの顔が映った。この顔を見て、他の連中はユート、ユートと連呼する。ボクはアルトだ。ユートではない。魔神を倒すためだけに生きてきた、勇者アルトだ。しかし、なぜ今、掃除なんかしている? 早く元の世界に戻らなければいけないのに、自分は何をしているのだ。
 
 脚立から飛び降りたアルトは、舌打ちをした。
 
 目線を横にやると、太田が窓ガラスを懸命に拭いている。表情は、どこか清々しい。
 
「あ、うわわぁ」
 
 脚立の上の太田がバランスを崩す。丸っこい体が、後方に傾き、落下した。
 
 アルトは素早く動き、太田の身体を受け止めた。ずっしりと重い。筋肉ではなく脂肪の重さだ。
 
「た、助かったよ。危うく死ぬところだった」
 
 全身に汗をかいた太田が、上ずった声色で言った。
 
「どんなときも、細心の注意を払わなければいけない。気をつけるんだな」
 
 アルトは両腕を組み、語気をとがらせた。
 
「う、うん」
 
 太田は目を泳がせ、一歩後ずさる。
 
「どうした?」
 
「お前、本当に日向なの?」
 
「……あぁ、ボクはヒナタユートだ」
 
 違う。ユートではない。
 
「おーい、ちょっと手伝ってくれー」
 
 教室から、光太の声が聞こえてきた。
 
「どうした、コータ」
 
 教室の端にある、先生が使用する大きな机の横で、光太がそわそわしていた。落ち着かない様子で、ツンツンした頭をしきりに触っている。
 
「あーっ、どうやっても取れない」
 
 机の下から、小杉が顔を出した。浮かない顔をしている。
 
「どうした?」
 
「家の鍵、落としてん。それを夏野が蹴っちゃってな、この下に入り込んだんや」
 
 小杉は、机と床のわずかな隙間を指差した。
 
「これで取ったら?」
 
 太田は、黒板横に立てかかっているほうきを握った。
 
「それがな、微妙に入らんねんて。こんなん、もう持ち上げるしかないやん」
 
「でも、かなり重そうだぜ?」
 
「中身を全部出してみよか?」
 
「先生に怒られるって」
 
 三人が、掃除の手を止めている。こっちは早く終わらせたいのに、じれったい。
 
 アルトは両腕を大きく広げ、机の端と端を掴む。「はっ」という短い息とともに、重厚な机が床から浮いた。
 
「ええっ?」
 
 小杉は言葉を失い、口を半開きにしたまま固まっている。
 
「今のうちに取れ」
 
 身体を屈めた小杉は、床に転がっている鍵を自身の方に寄せた。
 
「取れたか?」
 
「あ、うん」
 
 ドシン、と床が響いた。
 
「ありがとう。日向、お前凄いねんな」
 
「あ、あぁ」
 
 アルトはぎこちなくうなずいた。これくらいで感謝されるものなのか。
 
「鍛えていれば、これくらいどうってことない。さぁ、仕上げに取り掛かるぞ」
 
 三十分後、掃除は完了した。アルトは教室全体を眺める。机と椅子が綺麗に並べられ、汚れていた床や窓がうっすらと光り輝いている。もし、これを一人でやっていたら、倍の時間はかかっていただろう。
 
「どうした、ボーッとして。終わったんだから帰るぞ」

 光太が、アルトの肩を叩いた。
 
「あ、あぁ」
 
「じゃあ、お疲れ様でーす!」
 
 アルト以外の三人が、大声を出し、軽くお辞儀をした。三人とも満足そうな顔をしている。アルトも遅れて、少し頭を下げた。
 
「日向、今日は本当に助かったよ。ありがとう。お前がいなかったら、俺、病院送りだったかもしれない」
 
 太田が照れくさそうに頭をかいた。
 
「僕も。鍵を取るの手伝ってくれてありがとな。やっぱ、日向って優しいやつなんやな」
 
 小杉がにっこり微笑んだ。
 
 こういう場合、どうやって返せばいいのかわからない。剣を振るうより、よほど難しい。
 
 アルトは戸惑いの表情を見せた。
 
「ど、どうも」
 
 もじもじしながら呟くアルトの姿を見て、光太がぷっと笑う。
 
「笑うなよ」
 
「すまん。お前のそんな表情、はじめて見たからさ」
 
 窓を見る。頬が少し緩んだアルトの顔が、うっすらと映し出されていた。
 

 電線の上で、五羽のカラスが鳴いている。一羽だけ飛び立った。
 
 アルトと光太は、薄暗くなった道をゆっくり歩いていた。
 
「で、お前これから山に行くんだっけ?」
 
「いや、今日はもう帰る。少し、疲れた」
 
 身体は問題ない。ただ、胸の奥が落ち着かなかった。
 
 脚立から落ちる太田を受け止めたこと。小杉の鍵を取る手伝いをしたこと。いずれも自分の目的とは関係のない行動だ。あのとき、なぜ動いてしまった? わからない。
 
 そして、二人から感謝されたときの、胸の中に暖かいものが広がる感覚。これは、何なのだ。
 
「ボーっとしてるけど、熱でもあるのか?」
 
「大丈夫だ、気にするな」

 アルトは、光太に背を向け、茶色の髪をくしゃりと掻きむしった。どういうわけか、自分に自信がなくなった。

 
 アルトは、勇斗の部屋でスマートフォンをいじっていた。インターネットとやらに繋ぐ。操作に手間取り、一時間以上かかってしまった。

 夏野神社について調べてみる。人差し指を慎重に動かす。文字を入力するのが面倒で仕方がない。十分後、検索結果が表示された。

 アルトは、『高日町の歴史』というページに飛んだ。二人の神様の言い伝えが書かれていた。高日町の守り神であるヤト様、そして、災害から高日の町を救ったと言われるてんぴ様。知っている情報ばっかりだ。天陽山については、めぼしい記述がない。あれだけ不思議な現象が起こるのに、どうしてだ?

 それにしても、インターネットとやらは便利だ。この世界の、ありとあらゆる情報が一瞬で手に入る。これなら他の手を借りずとも、情報収集ができそうだ。
 
 突如、陽気な音楽がスピーカーから鳴り響いた。画面には『夏野光太』と表示されている。
 
 右手首が、痺れを伴って熱を帯びた。通話ボタンをスライドさせると、画面全体が砂のようになった。
 
「これは、まさか」
 
 しばらくして画面に映し出されたのは、日向勇斗の顔だった。
 
『よ、ようやく繋がった。あ、アルト?』
 
 異世界と、繋がった。このスマートフォンは、この世界とボクのいた世界を繋ぐ、唯一の連絡手段だ。どういう原理なのか全くわからないが。
 
「ユートか。生きていたんだな」
 
『ま、まぁ。いっぱい死にかけたけど。でも、この通り生きている』
 
 ユートの顔に違和感を覚えた。以前見たときより、どこか垢抜けた表情をしている。目には一切の迷いが見られない。何があった?

『一ヶ月ぶりだね、こうやって話すのは』

「一ヶ月? こっちではまだ一週間くらいしか経ってないが」

 画面の向こう側にいる勇斗が驚いた表情をした。二つの世界は、時間の流れが違うようだ。

『そ、そうだ。トゥーレさんに会ったよ。僕を二回も助けてくれたんだ』

「そうか。彼は優秀な人物だ。今後も頼るといい」

『う、うん。あと、シグネリア王女にも会ったよ』

『シグネリアに会ったのか!』

 アルトは、無意識にスマートフォンを強く握りしめていた。

『彼女は、元気だったか?』
 
『う、うん、元気だったよ。トゥーレさんと一緒に、捕まった僕を助けてくれたんだ。アルトがそっちにいることも、信じてくれた』
 
「そう、か」

 アルトの口元に、わずかな笑みが浮かんでいた。
 
『そっちは手がかりは見つかった? こっちはこれから次の四大精霊の封印を解きに行くところなんだけど』
 
「いや、何も見つかっていない」
 
 明らかにユートは前へ進んでいる。しかし、こちらは少しも前進していない。今日だって、ただ掃除をしていただけだ。
 
 アルトは歯軋りをした。

『ところでアルト』

「どうした?」

『魔神って、本当に倒したの』

「どういう、ことだ? ボクは確かに魔神の心臓を撃ち抜いた。やつがマグマに沈むところも見ている」

 アルトの声が曇る。

『でも、魔族はまだ活発に活動してるんだ。僕は何度も襲われた』

 妙だ。魔族は魔神の支配下にあるので、主がいなくなれば活動は休止するはず。もし、ユートの言うことが本当なら、魔神はまだ生きているのか? だが、しかし――

「勇斗、ご飯よ! 何度呼べばわかるの?」

 部屋の扉がノックされた。まずい、鍵はかけていない。このまま勇斗の母に入ってこられたら、状況を説明するのが困難だ。
 
『お、お母さんっ!?』
 
 画面の向こう側で、勇斗が叫んだ。

「勇斗? 誰かと電話してるの?」

 扉が開く。勇斗の母が、部屋に入ってきた。

「どうしたの? 慌ててスマホを隠して」

「いや、何でもない」

 スマートフォンの画面をチラリと見る。

 画面は真っ黒だった。まるで、最初から何も映っていなかったかのように。


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 アルトは机に肘をつき、開いた教室の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。
 天陽山。あれから何度か登ってみたが、どうしても山頂にはたどり着けなかった。まっすぐ目指しているはずなのに、近づけば近づくほど、御神木は遠ざかっていく。光太によれば――天陽山は、昔から誰一人として御神木にたどり着けない、不思議な山なのだという。
 まるで、精霊樹が佇む聖域のようだ。マナの存在も含め、元の世界へ戻る手がかりが、あの山に隠されている気がするのだが――
「こら、日向! 何ボーッとしてるんだ。お前の番だぞ」
 先生の声で我に返った。周りから、クスクスと笑い声が聞こえる。
「すみません」
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「おーい、逆さまだぞ」
 アルトの背後から、光太のひそひそ声が聞こえてきた。
「むっ、しまった」
 アルトは教科書を回転させ、音読をはじめた。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、クラスメイトたちがゾロゾロと教室を出ていった。
「今日も山を調べてみるか」
 アルトは教科書をかばんに詰め、扉に向かって歩き出した。
「おい、ちょっと待て」
 アルトの腕が、光太に掴まれた。
「離せよ、ボクは忙しいんだ」
 思い切り手をふりほどく。掴んでいた腕があまりにも軽く、逆にこちらがよろけそうになった。
「いてて、お前本当に容赦ないな」
 光太がしかめっ面をした。
「ボクはこれから山に行く。はやく帰らせてくれ」
「俺たち、今日は掃除当番なんだ。終わるまで帰れないんだよ」
 教室内には、光太のほかに、メガネをかけた背の低い男子と、少しぽっちゃりした男子が残っていた。いつもアニメとやらの話をしている、ひ弱そうな二人組だ。
「俺と小杉と太田、そしてお前の四人で教室の掃除をするんだ。全員でやったら、すぐ終わるから。勝手に帰ったら先生に怒られて、余計に時間を取られるぞ?」
「――仕方ないな」
 机の上に椅子をひっくり返して乗せ、教室の前方に運び、後方の床をほうきで掃き、モップをかける。終われば反対側も同様に行う。地味な作業だ。剣の素振りも地味だったが、取り組むことで確実に己の力となった。しかし、この作業にはまったく価値を感じない。一体、これで何を得られるというのか。
「日向」
 無表情で床を掃除しているアルトに向かって、小杉が声をかけた。
「何だ? ボクはこの作業をはやく終わらせたい。話しかけないでくれるか」
「いやぁ、ちょっと怖いと思ってな。前まではそんな顔しなかったのに。なんかあったん?」
 アルトは、小杉の問いを無視して作業を続けた。人と話す必要性を、今の彼は感じていなかった。
「うわ、シカトされた。ねぇ夏野、日向ってあんなんやったっけ?」
 顔を歪めた小杉が、光太の背中をほうきの柄でつっついた。
「え? あぁ、まぁ、いろいろあったんじゃね?」
 光太が苦笑いをする。冷や汗がだらだらと流れていた。
「そうそう、急に運動もできるようになったし。俺たち体育見学組にとっては一大事なんだよ。仲間が一人減った感じでさぁ」
 太田がでっぱった腹部をポンと叩き、ため息をついた。
「か、陰でこっそりトレーニングでもしてたんじゃね? それより、次は窓拭きだ。俺、水汲んでくる。さぁ、ちゃっちゃかやるぞー!」
 冷や汗を流しつつ、光太は教室から出ていった。
「夏野も最近変やなぁ」
「何か隠してるのかな」
 小杉と太田が、怪訝そうな顔を見合わせた。
 アルトは廊下の窓ガラスを拭いていた。脚立に足をかけ、湿らせた雑巾をスライドさせていく。
 窓ガラスに、アルトの顔が映った。この顔を見て、他の連中はユート、ユートと連呼する。ボクはアルトだ。ユートではない。魔神を倒すためだけに生きてきた、勇者アルトだ。しかし、なぜ今、掃除なんかしている? 早く元の世界に戻らなければいけないのに、自分は何をしているのだ。
 脚立から飛び降りたアルトは、舌打ちをした。
 目線を横にやると、太田が窓ガラスを懸命に拭いている。表情は、どこか清々しい。
「あ、うわわぁ」
 脚立の上の太田がバランスを崩す。丸っこい体が、後方に傾き、落下した。
 アルトは素早く動き、太田の身体を受け止めた。ずっしりと重い。筋肉ではなく脂肪の重さだ。
「た、助かったよ。危うく死ぬところだった」
 全身に汗をかいた太田が、上ずった声色で言った。
「どんなときも、細心の注意を払わなければいけない。気をつけるんだな」
 アルトは両腕を組み、語気をとがらせた。
「う、うん」
 太田は目を泳がせ、一歩後ずさる。
「どうした?」
「お前、本当に日向なの?」
「……あぁ、ボクはヒナタユートだ」
 違う。ユートではない。
「おーい、ちょっと手伝ってくれー」
 教室から、光太の声が聞こえてきた。
「どうした、コータ」
 教室の端にある、先生が使用する大きな机の横で、光太がそわそわしていた。落ち着かない様子で、ツンツンした頭をしきりに触っている。
「あーっ、どうやっても取れない」
 机の下から、小杉が顔を出した。浮かない顔をしている。
「どうした?」
「家の鍵、落としてん。それを夏野が蹴っちゃってな、この下に入り込んだんや」
 小杉は、机と床のわずかな隙間を指差した。
「これで取ったら?」
 太田は、黒板横に立てかかっているほうきを握った。
「それがな、微妙に入らんねんて。こんなん、もう持ち上げるしかないやん」
「でも、かなり重そうだぜ?」
「中身を全部出してみよか?」
「先生に怒られるって」
 三人が、掃除の手を止めている。こっちは早く終わらせたいのに、じれったい。
 アルトは両腕を大きく広げ、机の端と端を掴む。「はっ」という短い息とともに、重厚な机が床から浮いた。
「ええっ?」
 小杉は言葉を失い、口を半開きにしたまま固まっている。
「今のうちに取れ」
 身体を屈めた小杉は、床に転がっている鍵を自身の方に寄せた。
「取れたか?」
「あ、うん」
 ドシン、と床が響いた。
「ありがとう。日向、お前凄いねんな」
「あ、あぁ」
 アルトはぎこちなくうなずいた。これくらいで感謝されるものなのか。
「鍛えていれば、これくらいどうってことない。さぁ、仕上げに取り掛かるぞ」
 三十分後、掃除は完了した。アルトは教室全体を眺める。机と椅子が綺麗に並べられ、汚れていた床や窓がうっすらと光り輝いている。もし、これを一人でやっていたら、倍の時間はかかっていただろう。
「どうした、ボーッとして。終わったんだから帰るぞ」
 光太が、アルトの肩を叩いた。
「あ、あぁ」
「じゃあ、お疲れ様でーす!」
 アルト以外の三人が、大声を出し、軽くお辞儀をした。三人とも満足そうな顔をしている。アルトも遅れて、少し頭を下げた。
「日向、今日は本当に助かったよ。ありがとう。お前がいなかったら、俺、病院送りだったかもしれない」
 太田が照れくさそうに頭をかいた。
「僕も。鍵を取るの手伝ってくれてありがとな。やっぱ、日向って優しいやつなんやな」
 小杉がにっこり微笑んだ。
 こういう場合、どうやって返せばいいのかわからない。剣を振るうより、よほど難しい。
 アルトは戸惑いの表情を見せた。
「ど、どうも」
 もじもじしながら呟くアルトの姿を見て、光太がぷっと笑う。
「笑うなよ」
「すまん。お前のそんな表情、はじめて見たからさ」
 窓を見る。頬が少し緩んだアルトの顔が、うっすらと映し出されていた。
 電線の上で、五羽のカラスが鳴いている。一羽だけ飛び立った。
 アルトと光太は、薄暗くなった道をゆっくり歩いていた。
「で、お前これから山に行くんだっけ?」
「いや、今日はもう帰る。少し、疲れた」
 身体は問題ない。ただ、胸の奥が落ち着かなかった。
 脚立から落ちる太田を受け止めたこと。小杉の鍵を取る手伝いをしたこと。いずれも自分の目的とは関係のない行動だ。あのとき、なぜ動いてしまった? わからない。
 そして、二人から感謝されたときの、胸の中に暖かいものが広がる感覚。これは、何なのだ。
「ボーっとしてるけど、熱でもあるのか?」
「大丈夫だ、気にするな」
 アルトは、光太に背を向け、茶色の髪をくしゃりと掻きむしった。どういうわけか、自分に自信がなくなった。
 アルトは、勇斗の部屋でスマートフォンをいじっていた。インターネットとやらに繋ぐ。操作に手間取り、一時間以上かかってしまった。
 夏野神社について調べてみる。人差し指を慎重に動かす。文字を入力するのが面倒で仕方がない。十分後、検索結果が表示された。
 アルトは、『高日町の歴史』というページに飛んだ。二人の神様の言い伝えが書かれていた。高日町の守り神であるヤト様、そして、災害から高日の町を救ったと言われるてんぴ様。知っている情報ばっかりだ。天陽山については、めぼしい記述がない。あれだけ不思議な現象が起こるのに、どうしてだ?
 それにしても、インターネットとやらは便利だ。この世界の、ありとあらゆる情報が一瞬で手に入る。これなら他の手を借りずとも、情報収集ができそうだ。
 突如、陽気な音楽がスピーカーから鳴り響いた。画面には『夏野光太』と表示されている。
 右手首が、痺れを伴って熱を帯びた。通話ボタンをスライドさせると、画面全体が砂のようになった。
「これは、まさか」
 しばらくして画面に映し出されたのは、日向勇斗の顔だった。
『よ、ようやく繋がった。あ、アルト?』
 異世界と、繋がった。このスマートフォンは、この世界とボクのいた世界を繋ぐ、唯一の連絡手段だ。どういう原理なのか全くわからないが。
「ユートか。生きていたんだな」
『ま、まぁ。いっぱい死にかけたけど。でも、この通り生きている』
 ユートの顔に違和感を覚えた。以前見たときより、どこか垢抜けた表情をしている。目には一切の迷いが見られない。何があった?
『一ヶ月ぶりだね、こうやって話すのは』
「一ヶ月? こっちではまだ一週間くらいしか経ってないが」
 画面の向こう側にいる勇斗が驚いた表情をした。二つの世界は、時間の流れが違うようだ。
『そ、そうだ。トゥーレさんに会ったよ。僕を二回も助けてくれたんだ』
「そうか。彼は優秀な人物だ。今後も頼るといい」
『う、うん。あと、シグネリア王女にも会ったよ』
『シグネリアに会ったのか!』
 アルトは、無意識にスマートフォンを強く握りしめていた。
『彼女は、元気だったか?』
『う、うん、元気だったよ。トゥーレさんと一緒に、捕まった僕を助けてくれたんだ。アルトがそっちにいることも、信じてくれた』
「そう、か」
 アルトの口元に、わずかな笑みが浮かんでいた。
『そっちは手がかりは見つかった? こっちはこれから次の四大精霊の封印を解きに行くところなんだけど』
「いや、何も見つかっていない」
 明らかにユートは前へ進んでいる。しかし、こちらは少しも前進していない。今日だって、ただ掃除をしていただけだ。
 アルトは歯軋りをした。
『ところでアルト』
「どうした?」
『魔神って、本当に倒したの』
「どういう、ことだ? ボクは確かに魔神の心臓を撃ち抜いた。やつがマグマに沈むところも見ている」
 アルトの声が曇る。
『でも、魔族はまだ活発に活動してるんだ。僕は何度も襲われた』
 妙だ。魔族は魔神の支配下にあるので、主がいなくなれば活動は休止するはず。もし、ユートの言うことが本当なら、魔神はまだ生きているのか? だが、しかし――
「勇斗、ご飯よ! 何度呼べばわかるの?」
 部屋の扉がノックされた。まずい、鍵はかけていない。このまま勇斗の母に入ってこられたら、状況を説明するのが困難だ。
『お、お母さんっ!?』
 画面の向こう側で、勇斗が叫んだ。
「勇斗? 誰かと電話してるの?」
 扉が開く。勇斗の母が、部屋に入ってきた。
「どうしたの? 慌ててスマホを隠して」
「いや、何でもない」
 スマートフォンの画面をチラリと見る。
 画面は真っ黒だった。まるで、最初から何も映っていなかったかのように。