アルトⅣ
ー/ー アルトは机に肘をつき、開け放たれた窓の外を見ていた。
天陽山が見える。校舎の向こう、町並みの奥に、暗い緑の塊のように横たわっている。
何度も登った。だが、頂には届かない。御神木を目指して進んでいるはずなのに、近づくほど道がずれていく。気づけば同じ岩場に戻され、同じ沢の音を聞いていた。
光太は言っていた。あの山は昔からそういう山だと。誰ひとり御神木にたどり着けないのだと。
元の世界へ戻る手がかりは、あそこにある。そう思うのに、山は口を閉ざしたままだった。
「こら、日向。何ぼーっとしてる。お前の番だぞ」
教師の声で、アルトは顔を上げた。教室のあちこちで笑いが起きる。
「すみません」
立ち上がって教科書を開く。その直後、背中から光太の小声が飛んだ。
「逆さまだぞ」
はっとしたアルトは、教科書を持ち直した。
終業のチャイムが鳴る。椅子が鳴り、机が揺れ、生徒たちが一斉に立ち上がる。教室の空気がいきなり和らいだ。
アルトも鞄に教科書をしまい、立ち上がった。
「今日も山か」
独り言のつもりだったが、横から腕をつかまれた。
「待てって」
光太だった。
「俺たち今日、掃除当番」
言われて見回すと、教室にはまだ三人残っていた。光太と、小杉と太田。いつも後ろの席でアニメの話をしている二人だ。
「四人でやればすぐ終わる。お前だけ帰ったら、先生に見つかった時のほうが面倒だぞ」
アルトは小さく息を吐いた。
「……わかった」
机を下げ、床を掃き、窓を拭く。どれも地味な作業だった。剣の素振りも地味だが、あちらは積み重ねた分だけ自分に返ってくる。こちらは違う。ただ汚れを落とし、物を元に戻しているだけに見えた。
「日向」
小杉が雑巾を絞りながら話しかけてきた。
「最近、ちょっと怖ない? 前までそんな顔せえへんかったやろ」
アルトは返事をしなかった。グラウンド側の窓ガラスを拭く。白く乾いた跡が残り、もう一度拭き直す。
「うわ、無視された。なあ夏野、日向ってあんなんやったっけ」
「まあ……いろいろあったんじゃね」
光太が曖昧に笑った。
「それに、急に運動もできるようになったし。俺ら体育見学組やのに、急に裏切られた感じやわ」
光太の視線が泳いだ。
アルトは窓を拭く手を止めなかった。窓ガラスに自分の顔がうっすら映っている。その顔を見て、皆は日向勇斗だと言う。だが違う。ボクはアルトだ。魔神を倒すために育てられた勇者だ。
なのに今、学校で窓を拭いている。
ため息をついたとき、廊下側で声が弾けた。
「あ、うわっ」
振り向く。脚立の上にいた太田が、体をぐらりと傾けていた。
アルトは考えるより先に踏み込んでいた。倒れてくる体を両腕で受け止める。思ったより重い。だが支えきれない重さではなかった。
「た、助かった……」
太田が息を切らしている。顔が真っ青だ。
「どんなときも、注意を払え」
アルトは太田を立たせ、手を離した。
「お前、本当に日向?」
「ああ。ヒナタユートだ」
口にした瞬間、胸の奥底で何かが引っかかった。違う。ボクはアルトだ。
「おーい、ちょっと来てくれー」
教室の奥から光太が呼ぶ。
行ってみると、小杉が教師用の大きな机の下を覗き込んでいた。
「鍵、落としてもうてん。夏野が蹴って、奥入ってしもた」
太田が箒を差し出す。
「これで取れるだろ?」
「いや、届かんねんて」
三人とも困った顔をしていた。
時間の無駄だと、アルトは思った。
アルトは机の端に手をかけた。そのまま持ち上げる。鉄製の脚が床から離れた。
「今のうちだ、はやく取れ」
小杉が一瞬止まり、それから慌てて机の下へ腕を入れた。
「あ、あった!」
鍵をつかんで立ち上がる。
アルトが机を戻すと、三人は揃ってこちらを見ていた。全員、怪訝な表情をしていた。
三十分後、掃除は終わった。
机は揃い、床は乾き、窓は西日の最後の光を返している。四人でやったから早く済んだのだと、そのくらいはアルトにもわかった。
「終わった終わった」
「じゃ、お疲れー」
小杉と太田が軽く頭を下げる。アルトも一拍遅れて、ぎこちなく頭を下げた。
「日向、さっきは助かったよ」
太田が言う。
「鍵の件も助かったしな」
小杉が笑う。
「やっぱお前、優しいやつやわ」
アルトは返事に困った。
剣なら振れる。魔族が相手なら、どう動くかもすぐ決まる。だが、こういう時に何を言えばいいのかはわからない。
「……どうも」
出た声は、自分でも驚くほど硬かった。
光太がぷっと吹き出す。
「何だその返し」
「笑うな」
「いや、悪い。そんな顔するんだなと思って」
窓に映った自分の顔を、アルトは見た。
頬が少しゆるんでいた。
電線の上でカラスが鳴いた。一羽が羽を打ち、夕方の空へ飛んでいく。
アルトと光太は、薄暗くなった道を並んで歩いていた。
「で、これから山行くのか」
「いや、今日は帰る」
「珍しいな」
「少し疲れた」
体は疲れていない。疲れているのは別のところだった。
太田を受け止めた時も、小杉の鍵を取った時も、考えて動いたわけではなかった。体が勝手に先に出た。しかも、礼を言われた時、胸のあたりに妙な温かさが残った。それの正体が何なのか、アルトにはわからなかった。
「熱でもあるんじゃねえの」
「ない」
短く返し、光太から顔をそらす。
茶色の髪を指でかき上げた時、自分の輪郭が少し曖昧になる気がした。アルトである自分と、日向勇斗として呼ばれる自分。その境目が、ほんのわずかに揺らいだ。
帰宅して、夕食をすませたアルトは、勇斗の部屋で、スマートフォンを両手で持っていた。
画面に指を置き、ゆっくり文字を打ち込む。まだ慣れない。指先一つで文字が出るのは便利だが、剣より思いどおりにならない。
検索結果からページを開く。ヤト様。テンピ様。災厄を鎮めた伝説。どれも既に知っている話ばかりだった。天陽山については、肝心なことが何もない。あれほど異様な山なのに、曖昧な伝承しか残っていない。
それにしても、この道具は便利だった。人に頼らずとも、知りたいことの入口まではすぐ辿り着ける。
その時、陽気な音楽が鳴った。
画面に出た名前を見て、アルトの指が止まる。
『夏野光太』
同時に、右手首が熱を帯びた。痺れが走る。アルトはすぐに通話ボタンを押した。
画面が乱れる。砂をかけたようなノイズが広がる。
「これは……」
しばらくして、黒い画面の奥に顔が浮かんだ。勇斗だった。
『よ、ようやく繋がった。アルト?』
異世界と繋がった。理屈はわからない。だが、このスマートフォンは二つの世界を繋ぐ唯一の連絡手段らしい。
「ユートか。生きていたんだな」
『まあ……いっぱい死にかけたけど』
アルトは、目を細めた。勇斗の顔つきが前より引き締まって見えた。目の迷いが薄い。何かがあったのだろう。
『そういや、話すの一か月ぶりだね』
「一か月?」
アルトは眉をひそめる。
「こっちでは、まだ一週間ほどだ」
アルトの言葉で、勇斗は目を見開いた。
どうやら二つの世界では時間の流れが違うらしい。
『……そうだ。トゥーレさんに会ったんだ。二回も助けてもらった』
「そうか。彼は優秀だ。頼れるなら頼れ」
『うん。あと……シグネリア王女にも会ったよ』
アルトの手に力が入る。
「シグネリアに?」
『捕まった僕を助けてくれた。アルトがそっちにいるって話も、信じてくれたよ』
「……そうか」
それだけ言って、アルトは少し視線を落とした。口元に、かすかな笑みが浮く。
『そっちは何かわかった?』
「いや」
短く答えたあと、自分でもその言葉の軽さが嫌になった。ユートは前へ進んでいる。こちらは何も掴めていない。今日もしていたのは掃除だけだ。
ぎりっと奥歯を噛みしめる。
『ところでアルト』
「何だ」
『魔神って、本当に倒したの?』
アルトは勇斗の顔を見返した。
「どういう意味だ」
『魔族がまだ動いてるんだ。何度も襲われた』
アルトの中で、何かが引っかかった。
魔族は魔神の支配下にある。主を失えば統率は乱れるはずだ。にもかかわらず活発に動いている。だとすれば――。
「勇斗、ご飯よ! 何度呼べばわかるの?」
不意に扉の向こうから女の声がした。
アルトは顔を上げる。まずい。鍵をかけていない。
『お母さん!』
画面の向こうで勇斗が叫ぶ。
「勇斗? 誰かと電話してるの?」
扉が開き、勇斗の母が入ってきた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「いや、何でもない」
アルトはスマートフォンの画面を見た。何も映っていなかった。真っ黒だった。
天陽山が見える。校舎の向こう、町並みの奥に、暗い緑の塊のように横たわっている。
何度も登った。だが、頂には届かない。御神木を目指して進んでいるはずなのに、近づくほど道がずれていく。気づけば同じ岩場に戻され、同じ沢の音を聞いていた。
光太は言っていた。あの山は昔からそういう山だと。誰ひとり御神木にたどり着けないのだと。
元の世界へ戻る手がかりは、あそこにある。そう思うのに、山は口を閉ざしたままだった。
「こら、日向。何ぼーっとしてる。お前の番だぞ」
教師の声で、アルトは顔を上げた。教室のあちこちで笑いが起きる。
「すみません」
立ち上がって教科書を開く。その直後、背中から光太の小声が飛んだ。
「逆さまだぞ」
はっとしたアルトは、教科書を持ち直した。
終業のチャイムが鳴る。椅子が鳴り、机が揺れ、生徒たちが一斉に立ち上がる。教室の空気がいきなり和らいだ。
アルトも鞄に教科書をしまい、立ち上がった。
「今日も山か」
独り言のつもりだったが、横から腕をつかまれた。
「待てって」
光太だった。
「俺たち今日、掃除当番」
言われて見回すと、教室にはまだ三人残っていた。光太と、小杉と太田。いつも後ろの席でアニメの話をしている二人だ。
「四人でやればすぐ終わる。お前だけ帰ったら、先生に見つかった時のほうが面倒だぞ」
アルトは小さく息を吐いた。
「……わかった」
机を下げ、床を掃き、窓を拭く。どれも地味な作業だった。剣の素振りも地味だが、あちらは積み重ねた分だけ自分に返ってくる。こちらは違う。ただ汚れを落とし、物を元に戻しているだけに見えた。
「日向」
小杉が雑巾を絞りながら話しかけてきた。
「最近、ちょっと怖ない? 前までそんな顔せえへんかったやろ」
アルトは返事をしなかった。グラウンド側の窓ガラスを拭く。白く乾いた跡が残り、もう一度拭き直す。
「うわ、無視された。なあ夏野、日向ってあんなんやったっけ」
「まあ……いろいろあったんじゃね」
光太が曖昧に笑った。
「それに、急に運動もできるようになったし。俺ら体育見学組やのに、急に裏切られた感じやわ」
光太の視線が泳いだ。
アルトは窓を拭く手を止めなかった。窓ガラスに自分の顔がうっすら映っている。その顔を見て、皆は日向勇斗だと言う。だが違う。ボクはアルトだ。魔神を倒すために育てられた勇者だ。
なのに今、学校で窓を拭いている。
ため息をついたとき、廊下側で声が弾けた。
「あ、うわっ」
振り向く。脚立の上にいた太田が、体をぐらりと傾けていた。
アルトは考えるより先に踏み込んでいた。倒れてくる体を両腕で受け止める。思ったより重い。だが支えきれない重さではなかった。
「た、助かった……」
太田が息を切らしている。顔が真っ青だ。
「どんなときも、注意を払え」
アルトは太田を立たせ、手を離した。
「お前、本当に日向?」
「ああ。ヒナタユートだ」
口にした瞬間、胸の奥底で何かが引っかかった。違う。ボクはアルトだ。
「おーい、ちょっと来てくれー」
教室の奥から光太が呼ぶ。
行ってみると、小杉が教師用の大きな机の下を覗き込んでいた。
「鍵、落としてもうてん。夏野が蹴って、奥入ってしもた」
太田が箒を差し出す。
「これで取れるだろ?」
「いや、届かんねんて」
三人とも困った顔をしていた。
時間の無駄だと、アルトは思った。
アルトは机の端に手をかけた。そのまま持ち上げる。鉄製の脚が床から離れた。
「今のうちだ、はやく取れ」
小杉が一瞬止まり、それから慌てて机の下へ腕を入れた。
「あ、あった!」
鍵をつかんで立ち上がる。
アルトが机を戻すと、三人は揃ってこちらを見ていた。全員、怪訝な表情をしていた。
三十分後、掃除は終わった。
机は揃い、床は乾き、窓は西日の最後の光を返している。四人でやったから早く済んだのだと、そのくらいはアルトにもわかった。
「終わった終わった」
「じゃ、お疲れー」
小杉と太田が軽く頭を下げる。アルトも一拍遅れて、ぎこちなく頭を下げた。
「日向、さっきは助かったよ」
太田が言う。
「鍵の件も助かったしな」
小杉が笑う。
「やっぱお前、優しいやつやわ」
アルトは返事に困った。
剣なら振れる。魔族が相手なら、どう動くかもすぐ決まる。だが、こういう時に何を言えばいいのかはわからない。
「……どうも」
出た声は、自分でも驚くほど硬かった。
光太がぷっと吹き出す。
「何だその返し」
「笑うな」
「いや、悪い。そんな顔するんだなと思って」
窓に映った自分の顔を、アルトは見た。
頬が少しゆるんでいた。
電線の上でカラスが鳴いた。一羽が羽を打ち、夕方の空へ飛んでいく。
アルトと光太は、薄暗くなった道を並んで歩いていた。
「で、これから山行くのか」
「いや、今日は帰る」
「珍しいな」
「少し疲れた」
体は疲れていない。疲れているのは別のところだった。
太田を受け止めた時も、小杉の鍵を取った時も、考えて動いたわけではなかった。体が勝手に先に出た。しかも、礼を言われた時、胸のあたりに妙な温かさが残った。それの正体が何なのか、アルトにはわからなかった。
「熱でもあるんじゃねえの」
「ない」
短く返し、光太から顔をそらす。
茶色の髪を指でかき上げた時、自分の輪郭が少し曖昧になる気がした。アルトである自分と、日向勇斗として呼ばれる自分。その境目が、ほんのわずかに揺らいだ。
帰宅して、夕食をすませたアルトは、勇斗の部屋で、スマートフォンを両手で持っていた。
画面に指を置き、ゆっくり文字を打ち込む。まだ慣れない。指先一つで文字が出るのは便利だが、剣より思いどおりにならない。
検索結果からページを開く。ヤト様。テンピ様。災厄を鎮めた伝説。どれも既に知っている話ばかりだった。天陽山については、肝心なことが何もない。あれほど異様な山なのに、曖昧な伝承しか残っていない。
それにしても、この道具は便利だった。人に頼らずとも、知りたいことの入口まではすぐ辿り着ける。
その時、陽気な音楽が鳴った。
画面に出た名前を見て、アルトの指が止まる。
『夏野光太』
同時に、右手首が熱を帯びた。痺れが走る。アルトはすぐに通話ボタンを押した。
画面が乱れる。砂をかけたようなノイズが広がる。
「これは……」
しばらくして、黒い画面の奥に顔が浮かんだ。勇斗だった。
『よ、ようやく繋がった。アルト?』
異世界と繋がった。理屈はわからない。だが、このスマートフォンは二つの世界を繋ぐ唯一の連絡手段らしい。
「ユートか。生きていたんだな」
『まあ……いっぱい死にかけたけど』
アルトは、目を細めた。勇斗の顔つきが前より引き締まって見えた。目の迷いが薄い。何かがあったのだろう。
『そういや、話すの一か月ぶりだね』
「一か月?」
アルトは眉をひそめる。
「こっちでは、まだ一週間ほどだ」
アルトの言葉で、勇斗は目を見開いた。
どうやら二つの世界では時間の流れが違うらしい。
『……そうだ。トゥーレさんに会ったんだ。二回も助けてもらった』
「そうか。彼は優秀だ。頼れるなら頼れ」
『うん。あと……シグネリア王女にも会ったよ』
アルトの手に力が入る。
「シグネリアに?」
『捕まった僕を助けてくれた。アルトがそっちにいるって話も、信じてくれたよ』
「……そうか」
それだけ言って、アルトは少し視線を落とした。口元に、かすかな笑みが浮く。
『そっちは何かわかった?』
「いや」
短く答えたあと、自分でもその言葉の軽さが嫌になった。ユートは前へ進んでいる。こちらは何も掴めていない。今日もしていたのは掃除だけだ。
ぎりっと奥歯を噛みしめる。
『ところでアルト』
「何だ」
『魔神って、本当に倒したの?』
アルトは勇斗の顔を見返した。
「どういう意味だ」
『魔族がまだ動いてるんだ。何度も襲われた』
アルトの中で、何かが引っかかった。
魔族は魔神の支配下にある。主を失えば統率は乱れるはずだ。にもかかわらず活発に動いている。だとすれば――。
「勇斗、ご飯よ! 何度呼べばわかるの?」
不意に扉の向こうから女の声がした。
アルトは顔を上げる。まずい。鍵をかけていない。
『お母さん!』
画面の向こうで勇斗が叫ぶ。
「勇斗? 誰かと電話してるの?」
扉が開き、勇斗の母が入ってきた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「いや、何でもない」
アルトはスマートフォンの画面を見た。何も映っていなかった。真っ黒だった。
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