ようやく辿り着いた、深夜のロンドン駅。闇夜の中に黒々と浮かぶ蒸気機関車が、見る者を威圧させる重厚感を放ちながら、最終便の発車を待っていた。
濃灰の煙を盛大に噴き上げ、甲高い雄叫びのような汽笛を轟かせている。そんな緊迫した状況に間に合ったアンジュとジェラルドは、車内に駆け込むように乗った。
これから、夜行列車の中で一晩を過ごすつもりだ。人気はあまり無い。目立たないよう、なるべく隅の座席を選び、四人掛けの場所に向かい合わせで座った。
ガタン……ゴトン……という振動と共に走り出した列車が、冬の闇の中を進み始めた。しゅ、しゅ、と噴き出す蒸気に合わせ、車輪が忙しなく回る音が、車内まで聞こえてくる。次々と横切る景色は真っ暗で、今からロンドンの街を離れようとしている実感が、アンジュにはあまり湧かなかった。
「……冷えてきたな」
向かいの席で腕組みをしたジェラルドが、少し眉をひそめて呟く。暖房器具が乏しい車内は、快適とは言えない。結露が浮き出た窓から、アンジュは外を覗いた。ガラス越しに降り注ぐ、白い粉砂糖のようなものが、宵闇を横流れに埋め始めている。
「雪が……降り出してます。吹雪そう……」
「寒くないか?」
「ジェラルドさんの部屋から、これを持ってきました」
小さく丸めた、濃いネイビーの薄手のブランケットを、ボストンバッグから取り出す。ジェラルドは感心したように言った。
「準備がいいな」
「鞄に入らなかったので……一枚しか無いですが」
「君が使えばいい」
「そんな、ダメですよ。一緒に……」
『使いましょう』とブランケットを差し出したが、言葉を止め、アンジュは俯いた。自分が言った事の意味に気づき、向かいの席の彼の顔を見られない。
そんな彼女の様子に、ジェラルドは少し動揺した後、なるべく平静を装い、頼んだ。
「……持って来て、くれるか?」
ほのかな喜びと甘さを毛布ごと抱え、アンジュは手荷物と共に、ゆっくりと向かいの席に移る。窓際の彼の左隣に座った瞬間、ジェラルドは素早い動作で毛布を広げ、彼女の身体ごと、自身をくるんだ。
ブラックとカフェオレ色の二種のウール生地が、しゃり、と密着して触れ、同時に温かなウッディ調の香りが、ふわり、とアンジュの鼻腔を擽る。
「あったかい……」
あまりの心地好さに、思わず零れ出た彼女の言葉に、ジェラルドの体温が一気に上がった。が、また普段通りのペースを保つ。
「なら……良かった」
じわじわ、と次第に温もりを増していく自分の身体と、恋しい彼と密着している状況が、段々と気恥ずかしく、居たたまれなくなってきた。気分を紛らわしたくなったアンジュは、ふと窓を見やり、何気なく話題をふる。
「……こんな雪の日にクリスマスだと……素敵でしょうね。温かい暖炉があって、キャンドルの灯りが綺麗で……」
「……見たこと、無いのか?」
「オーストラリアでは、夏の行事でしたから」
思わず、ジェラルドは彼女の顔を見る。そう言えば、生い立ちについては、あまり聞いていなかった。
「いつもより長いミサが終わった後、孤児院に水着姿で赤い帽子をかぶった慈善事業の方が来て、子供たちにお菓子や人形、絵本などをプレゼントして下さったんです。皆、それが年に一度の楽しみでした」
その場面を想像して、ジェラルドの口元が僅かに緩む。彼にとっては非常にユニークで、微笑ましい光景だ。
「院の子供ではなかった私にも、叔母……院長に内緒でくださった方がいて、とても嬉しかったのを覚えています」
意外な背景に、少し驚いたジェラルドを他所に、少し哀しくも、話していて懐かしくなったアンジュは続ける。こんな話ができたのは、随分久しぶりだった。フィリップとの会話以来かもしれない。
「こちらに来て、真っ白い雪景色のクリスマスに驚きました。礼拝堂の催しの仕事が忙しかったので、ゆっくりは出来ませんでしたが……」
「……ウチもその時だけは、昔から一家揃って食事をしたが……ほぼ無言で、厳かというより気まずい雰囲気で……それらしい思い出は、無い…… 夏のクリスマスか……面白いな……」
「ジェラルドさん」
回想しながら独り言のように呟く、彼を凝視する。この人も、穏やかに楽しく家族と過ごすクリスマスを知らないのだ。
そして、お互いについて知らない事が、まだ沢山あるという事実に、改めて気づく。少し寂しくなったが、同時に不思議な甘い高揚感が生まれた。
これからは、今までより沢山、彼と一緒にいられる。もっと色んな事を話して、聞いてみたい。それが許される状況になれた事が嬉しく、アンジュは安堵した。
ほうっ……と、軽く息をつく。すると、ぶるっ、と身体が芯から震え、はっ、はっ……と、息遣いが微かに、荒くなり始めた。思わず胸元を押さえたアンジュを、驚いたジェラルドが凝視する。彼女の片方の目から、一筋の滴が零れ落ちていた。
「……すみ、ません。なんだか、今頃……」
あの時の最中も、邸宅から彼と逃げ出す時も、震えはあったし不安でいっぱいだったが、こんな風に泣くことはなかった。
気持ちが落ち着き、安心したからなのだろうか。ずっと張り詰めていた糸が、ぷつり、と切れてしまったようだ。
「大丈夫か?」
「は、い……少し、息苦しいだけです……」
「……本当に、すまなかった」
改めて、深々とジェラルドが頭を下げる。慌てて、アンジュは否定した。
「ち、違います……! 私が、望んで……やったことです……」
「……俺とアイツの問題に、巻き込んだ」
「そんな、風に……言わないでください…… 貴方には、言わないで……ほしいです……」
「アンジュ」
「もう、傷ついてほしく……なかったんです」
涙混じりに訴えるアンジュは、細かく震える両手で、先程の乱闘で傷ついていない方の、彼の左手を包む。そうすると、少しだけ落ち着く気がした。
「……俺だって、あんな目に……遭わせたくなかった」
重い声色で悲しげに呟き、ジェラルドはゆっくりと身体を寄せ、その手で躊躇いがちに、アンジュの肩を抱いた。一瞬、固まったが喜びが溢れ、ゆるり、と彼のコート越しの胸に額を当てる。静かに聞こえる心音が、安らぎを呼び戻してくれるようだった。
少し周囲を伺った後、ジェラルドはいつかの夜のように、アンジュの冷えた額と頬に、そっと唇をあてた。何度か不器用に、慰め、温めて労るような、謝罪の口付け。だからか、唇は避けた。公共の場だから……という理由だけではない。
成り行きとはいえ、共に旅することになり、ようやく二人だけになれて、こんなにすぐ側にいるのに、どこか遠く心許ない。好いた人を守りたくて身を捨てた事で、その人との距離が開いてしまったのが、アンジュは悲しかった。
そんな、自分を求める寂しげな眼差しに、ジェラルドは気づいていた。だが、自分の想いが引き金になり、その大切な人が危機に陥って傷ついたという事態を、まだ受け入れられない……
「……もう、休もう」
そのまま彼女の後頭部を包み、ジェラルドは目を閉じた。そんな彼の横顔を、複雑な思いで見つめたアンジュは、これから私達はどうなっていくのだろう、という不安を打ち消したく、軽く深呼吸してから自分も瞼を下ろした。
翌日も鉄道を乗り継ぎ、手持ちの現金で行ける所まで西へ向かっていた二人は、ウェールズ地方の首都、カーディフで一度下車した。真っ先に質屋を探し、ジェラルドは持参していた貴金属の一部を手放し、現金に換金した。暫くの間の生活費にする為だ。
さすがに一日中の旅で、くたくたになった二人は、疲れをとる為、今夜は宿屋を訪れ、二人用の部屋に泊まる事にした。スコットの親友夫婦が住んでいるという町は、もう少し遠い上、宿屋があるかわからない。
今日は、朝方からずっと雪で、夜更けになっても小降りだった。そんな英国の部屋は、ストーブを焚いても、なかなか暖まらない。
「……疲れただろう。もう少しで、スコットさんの友人の町に着く。グレアムというらしい」
宿の室内に入ったジェラルドは、敢えてアンジュと目を合わせず、そう告げながらコートを脱ぎ、首もとを緩めて一息ついた。そんな何気ない仕草にすら、自分もコートや帽子を取りながらも、アンジュの心臓は揺れ動く。
節約の為に一つの部屋にしたというもの、一晩を密室で共に過ごす…… 二人きりの夜は二度目だが、そんな状況が双方の心を乱していた。惹き寄せるように漂って来る、互いが纏うオーラが気になって仕方ない。
「俺はカウチで、この毛布を被って寝る。そのベッドは君が使え」
昨夜も使ったネイビーの毛布を広げ、淡々と当たり前のように提案する彼に、アンジュは慌てた。足元は冷え込んでいる。質素なカウチは固そうで、寝心地も悪そうだ。
「えっ、そんな。ダメです」
「今夜もかなり冷える。君は体調が悪いだろう。きちんと休んだ方が……」
「……あ、の」
恥も怖さも捨て、覚悟を決めたように、ジェラルドの深緑の瞳を見つめながら、思い詰めた表情で申し出た。
「……お、願いです。今夜も……すぐ近くに、側にいて、くれませ、んか? 怖い、んです……」
これから先のことが不安で堪らない中、先日の事件がきっかけで、彼との関係が変わってしまう気がしていたアンジュは、その事に一番怯えていた。それに、自分のせいで、彼をこんな冷えた場所に休ませるのも、嫌だった。
若い男性と寝室で二人きりの状況は、二度目だ。落ち着かなくて不安だけど、あの時とは、違う。それに……
「……な、にを言……」
揺れる瞳孔を見開き、ジェラルドは絶句した。しかし、反面、妙な躍動と歓喜が、身体全体を駆け巡る。そんな自身に動揺し、狼狽えた。
「ダメ、ですか……?」
彼女の身体が細かく震えているのはわかっていた。しかし、だからこそだと、ジェラルドは自身を律し、制した。
「……悪いが、俺も、男だ」
身も蓋もない言葉と鋭い拒絶に、反射的にアンジュは硬直し、固まる。それでも、激しい想いが関を切ったように溢れて、止まらない。沈んだ心に鞭打ち、とうとう、切り出した。
「……あの人に触られた私、は……もう、嫌ですか……?」
「違う‼」
思わず声を荒げ、ずっと昂っていた本音を、ジェラルドは言い淀みながら、吐き出す。
「……何を、されたか……知らないが…… 似たようなことを、多分、俺も……するぞ?」
彼女に言い聞かせたく、一言、一言をしっかりと告げ、自分から逃げられるように背を向け、距離をとる。
そんな彼のシビアな言動に茫然としたが、衝撃を呑み込み、アンジュは後を追う。惹かれて止まない背中にしがみつくように抱きつき、薄紅に染まった顔を埋めた。
恐怖以上に、どうしようもない心細さと激しい焦燥が、心の中で甘く匂い立ちながら混じり合い、渇望するように沸騰している。
「……こういう、事は、よく……わからないですが……」
「ア、ンジュ……?」
背中全体に感じる、彼女の温かな体温と柔らかな感触が、ジェラルドの心を大きく揺さぶる。珍しく、動揺した声色が、震えて零れた。そんな彼にアンジュは白状した。誤解してほしくなかった。貴方のせいじゃない、と伝えたかった。
「あの時……もう、身を捨てるしかないと覚悟した時…… 今からされる事は、全て貴方からだと思い込めば……耐えられるかも、って思ったんです……」
「……⁉」
背後から耳に飛び込んできた信じ難い言葉に、ジェラルドの心臓が跳ね上がる。
「す、き……です……」
熱く詰まる胸の奥から、精一杯の想いを絞り出す。か細く、切なる声で、アンジュは生まれて初めて、告白、をした。
「だから、一緒に、いてく……」
そこまで言った瞬間、握っていた白いシャツが反転し、気づけば、目の前に彼の胸元があった。懐かしい心地好い匂いと、身体を締め付ける腕の力が、苦しい位に甘い高鳴りと、高揚した安堵感を誘う。
「……何故、今、ここで、そんなことを言う……⁉ 頼むから、もう……煽るな……」
「ジェ……」
小さな驚きの声を漏らし、彼を見上げたアンジュの唇は、塞がれた。昨夜の慰めるような優しいキスとは違う。柔らかな刻印を押し付けるような、激しさを伴う口付け。角度を何度か変え、彼女全てを喰らうかのように掻き抱き、腕、身体全体を使い、迫る。
ずっと求め続けていた、乞いて止まない甘美な感触だった。今はもう二人を遮るものも、障害も、何も、無い……
無音の空間が、湿度を帯びた艶めく熱で満ちる。宿の外で、舞うように降り続けている粉雪は、とうとう吹雪始めた。
初春の雪は、時が経つ程に勢いを増し続けている。が、どこか散り散りで、儚く……危うかった。