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5.幽明の狭間に落つる慟哭-4

ー/ー



 研究室の扉を開くと、真っ暗な地下通路が広がった。
 闇に沈むような空間に向かって、メイシアは、ふらつく足で転げるように身を躍らせる。
 背後で、重い音を立てながら扉が閉まった。その音が石造りの壁に反響し、振動が空気を伝って彼女の肌を撫でた。
「……っ」
 かくっ、と。足の力が抜けた。
 メイシアは、へなへなとその場に崩れ落ちる。
 部屋からの光は完全に遮断され、一面の漆黒の世界。だがそれは〈(ムスカ)〉と隔てられた証拠であり、彼女は恐怖どころか、安らぎを覚えた。まるで『悪魔』が封印されたかのように安堵したのだ。
「大丈夫か?」
 頭上から、リュイセンの声が降りてきた。夜目が効く彼には、彼女がへたり込んでいる姿が見えているのだろう。
 人の動く気配がして、やがて、あたりが明るくなる。リュイセンが電灯を点けてくれたのだ。
 メイシアは立ち上がろうとして、しかし、動けなかった。今ごろになって、全身が激しく震えていた。
「メイシア?」
「リュイセン……、ありがとう……」
 もう少しで、〈(ムスカ)〉に絞め殺されるところだった。リュイセンが助けてくれなければ、命はなかった。
 二度と再び、ルイフォンに逢えないところだった……。
「――っ」
 ルイフォンを心に想い描いた瞬間、黒曜石の瞳から、はらりとひと筋、涙がこぼれた。
 彼がここに居たら、きっと強く抱きしめてくれたに違いない。彼女の髪をくしゃりと撫で、優しいテノールで『怖かったな』と包み込んでくれたことだろう。――そう、思ってしまった。
 胸が苦しい。喉が熱い。
 涙は、堰を切ったように次から次へとあふれてきた。止めたいのに止まらない。メイシアは、嗚咽を殺して泣きじゃくる。
「お、おい……、メイシア……」
 リュイセンがうろたえ、彼の影が戸惑いに揺れ動いた。
「ご、ごめんなさい」
 メイシアは慌てて顔を拭う。
 そうだ、泣いている場合ではない。
 危機は去ったのだ。経緯は最悪だったかもしれないが、狙い通りに、〈(ムスカ)〉に『考えさせてほしい』と言わせることができた。明日までという期限が守られる保証はなくとも、少なくとも、ルイフォンと連絡を取るくらいの時間は稼げたはずだ。
 だから、まずは立ち上がり、携帯端末のある展望室に戻る――。
 気持ちを入れ替えると、意外なほどに滑らかに体が動いた。リュイセンがほっと息をつき、「行くぞ」と歩き始める。
 リュイセンの広い背中を追いながら、メイシアは徐々に冷静になってきた。
 今までは、一週間が過ぎるまで、メイシアの身に危険はないと考えていた。だから、その間に、リュイセンを〈(ムスカ)〉の支配から解放する予定だった。そして、〈(ムスカ)〉の首級(くび)を手柄に、リュイセンが一族に戻れるように、と――言い方は悪いが、お膳立ての準備をしていた。
 しかし、状況が変わった以上、今は一刻も早く〈(ムスカ)〉の息の根を止めるべきだ。したがって、次に〈(ムスカ)〉が研究室から出てきたときに、タオロンに仕留めてもらうことになるだろう。
 おそらくは、今夜――。
「……っ」
 リュイセンの後ろ姿を見つめるメイシアの目が、悲痛に歪んだ。
 タオロンに暗殺を依頼すれば、リュイセンが再び鷹刀一族を名乗る道は閉ざされる。
(ムスカ)〉がいなくなり、リュイセンがこの庭園に(とど)まる理由がなくなったとき、彼は速やかに誰も知らない何処(いずこ)かに去っていくことだろう。高潔であるがゆえ、裏切ってしまった一族のもとへは決して姿を現すまい。事実上の永久(とわ)の別れだ。
 ――嫌だ。
 メイシアは奥歯を噛み、潤みそうになった黒曜石の瞳に力を込めた。
 目の前には、リュイセンのすらりと伸びた背と、迷わずに前へと突き進む手足。あたかも、彼の性格を表しているかのような――。
 そう。
 彼はただ、ミンウェイのためを想ってまっすぐに行動しただけだ。
 彼の気持ちを利用する〈(ムスカ)〉に、抗えなかっただけだ。
 リュイセンを見捨てるような真似はしたくない……。
 ふと。
 メイシアは思った。
 リュイセンに、すべてを打ち明けては駄目だろうか。
 ルイフォンは、ミンウェイが母親のクローンだという確たる証拠を示した上で、リュイセンに〈(ムスカ)〉暗殺を持ちかけると言っている。そうでもしなければ、リュイセンは頑なにミンウェイの『秘密』を認めないであろうから、と。
 だが寸刻を争う事態なら、何はともあれ、リュイセンと腹を割って話すべきではないだろうか。もしかしたら証拠などなくとも、リュイセンは、こちらの手を取ってくれるかもしれない。その可能性に賭けたい。
 今までのルイフォンの苦労を無にするようで申し訳ないが、リュイセンを失いたくないのだ。
 それに、ルイフォンだって、現状を知れば同意してくれるのではないかと思う。何故なら、彼は『リュイセンを取り戻したい』と明言しているのだから。
 ルイフォンに提案してみよう。
 メイシアは、前を歩くリュイセンの背中をじっと見つめる。まるで、視線で彼を取り戻そうとでもするかのように。
 ともかく、まずは展望室に戻り、昼食を終える。そして、ひとりきりになったら、ルイフォンと連絡を取る。リュイセンと話すのは夕食のときだ。
 諦めるのはまだ早い。
 メイシアは頭の中で段取りを決め、気を引き締めるべく体の芯にぐっと力を入れた。


 展望室に着くと、リュイセンの後ろ姿がひらりと翻った。勢いよく黒髪がなびき、メイシアと正面から向き合う。
 双刀の煌めきを宿したかのような双眸が、しかとメイシアを捕らえた。今までずっと、彼女の目を避けるようにしていたのが嘘のようだった。
「リュイセン……?」
 急激な変化に彼女は戸惑う。
 黄金比の美貌は相変わらずだが、そこには温かみの欠片もなかった。眼差しは冷たく冴え渡る氷のようで、睫毛(まつげ)の先までもが凍りついたかのように張り詰めている。
 凄みのある美の根底にあるのは――深い憤り。
「メイシア」
「は、はい」
 彼女は思わず、びくりと肩を上げた。
「お前が危険な目に遭ったのは、お前をさらってきた俺のせいだ。すまなかった」
「リュイセン!?」
 頭を下げる彼に、メイシアは驚き、声を跳ね上げる。
 どうやら、彼女が殺されかけたことに責任を感じ、〈(ムスカ)〉と自分自身に対して怒っているのだろう。――メイシアは、そう解釈した。
 だが、それは正解ではなかった。
 確かに、リュイセンの内部にはメイシアへの罪悪感が存在する。けれど彼の激情は、死んだ妻のことしか頭にない〈(ムスカ)〉に向けられていた。
 詳しいことを知らないリュイセンでも、先ほどの研究室では〈(ムスカ)〉の妻の話がなされていたのだと察しがついた。そして、あのときの〈(ムスカ)〉の口ぶりは、リュイセンにしてみれば、妻を亡くした不幸な自分の運命を呪い、憐れんだ自己陶酔としか思えなかった。
『娘』のミンウェイを不幸に陥れておきながら、よくもぬけぬけと……と、リュイセンの心には嵐が吹き荒れていた。
『娘』を無理やりに妻の代わりにしておきながら、結局のところ、彼は死んだ妻を求め続ける。
『娘』には、自分だけを望むよう、支配して育てたくせに。
 歪んだ世界に閉じ込められた『娘』は、服毒自殺を試みるまでに追い詰められたというのに……。
 リュイセンは〈(ムスカ)〉の殺害をとうに決意していたが、研究室からこの展望室に着くまでの間、〈(ムスカ)〉の言動を反芻し続け、(くら)い憎悪を更に腹に溜め込んでいた。
 ――故に。彼は抜き身の刀と化していたのだ。
 勿論、メイシアは、そんなリュイセンの心情など知る(よし)もない。だから、彼女はただ恐ろしげな雰囲気に圧倒され、困惑するばかりだった。
「リュイセン……、あのっ、ごめんなさい」
「なんで、お前が謝るんだ?」
「私が不用意に〈(ムスカ)〉を怒らせたから、あんなことになったんです」
 リュイセンは自分のために怒っているのだと勘違いしているメイシアは、恐縮に身を縮こめる。
「〈(ムスカ)〉のことは許せない。けど、だからといって、私が礼儀知らずになるのは違ったんです」
(ムスカ)〉の妻を駆け引きに利用したのは、やはり卑劣だったと思う。メイシアにも非があるのだから、ともかくリュイセンには怒りを鎮めてほしい。――そういう思いだった。
 しかし、リュイセンは、(まなじり)を吊り上げた。
「礼儀だと? 本気で言っているのか? あいつは、ミンウェイを追い詰め、死に追いやろうとした奴だぞ!」
「……え?」
 突然、叫びだしたリュイセンに、メイシアは混乱した。
 にわかには彼の言葉の意味を理解できず、声を失う。その間にリュイセンは、はっと我に返り、余計なことを言ったと気まずげな顔になった。
 だが――。
 メイシアの聡明な頭脳は、聞き流してはいけないと警告を発した。
「ミンウェイさんが殺されそうになった……? ……それはあり得ないはずです……。〈(ムスカ)〉にとって、『生』は尊いものなんですから……」
「忘れてくれ」
 リュイセンは吐き捨てたが、メイシアは思考を巡らせる。
 激しい違和感があった。
『生を()けた以上、生をまっとうする』――そう言って『生』に執着する〈(ムスカ)〉が、ミンウェイに『死』を与えようとすることはないはずなのだ。
「『追い詰められて』の『死』ということは……、ミンウェイさんは過去に自殺しようとした――ということですか……?」
「昼食を運んでくる!」
 唐突にリュイセンが言い放ち、神速で(きびす)を返した。
 彼の荒い声が、苦しげな響きが、そして何よりも彼の態度が――メイシアの言葉は正しいと、雄弁に語っていた。それと同時に、もうこの話題に触れるなという、強い拒絶もまた。
「ご、ごめんなさい……」
 リュイセンが消えたあとの扉に向かって、メイシアは謝る。
 しかし――。
 胸騒ぎがした。
『看過してはならない』という、奇妙な――焦燥のような、ざわついた気持ちが拭えない。

 かつて、ミンウェイが自殺――自殺未遂をした。

 よく考えれば、それはちっとも不思議なことではない。
 少女時代のミンウェイは、『父親』に溺愛という名の虐待を受けていた。そのころの彼女なら、『死』を望んでもおかしくないだろう。
「あ……、『〈(ムスカ)〉』じゃなくて、『ヘイシャオさん』だ……」
 先ほどの会話では、メイシアもリュイセンも混同していたが、『〈(ムスカ)〉』と『ヘイシャオ』は、共通の記憶を持ちつつも『別人』だ。
 現在の『〈(ムスカ)〉』とミンウェイは、一度も会ったことはない。
 ミンウェイは、生前の『ヘイシャオ』との生活で追い詰められ、自ら『死』を求めたのだ。
「――っ!」
 メイシアの心臓が激しく跳ね上がった。
 鋭く息を呑み、無意識に体を掻き(いだ)く。

『ミンウェイ』と呼ばれる存在が、ヘイシャオの前で、『死』を望んだ……。

 たとえクローンであっても、『娘』のミンウェイは、妻のミンウェイとは違う人間だ。
 しかし、頭では分かっていても、ヘイシャオの心は、ふたりを区別できていなかった節がある。
 (ミンウェイ)に先立たれたヘイシャオを生かしていたのは、『生を()けた以上、生をまっとうする』という(ミンウェイ)との約束。そんなヘイシャオのそばで、(ミンウェイ)と見分けがつかなくなった『(ミンウェイ)』が自殺しようとしたら……?

 ヘイシャオの世界は、壊れる――……。

「――だから、なの……?」
 誰もいない部屋で、メイシアは虚空に向かって尋ねる。
「『ミンウェイ』さんが『死』を求めたから、ヘイシャオさんを『生』に繋ぎ留めていた約束が消えてしまった――ということなの……?」
 メイシアの耳に、〈(ムスカ)〉の深い憤りが、怨嗟に満ちた自嘲が、狂おしいほどの慟哭が蘇る。

『鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!』
『ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ』
『私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、彼が心変わりするような事件があった、ということでしょう』

『生』を望む〈(ムスカ)〉と、『死』を求めたヘイシャオ。
 ふたりの狭間に横たわる、記憶の時差。
『生』から『死』へと心変わりした理由は――。

 ミンウェイの自殺未遂だ……。

 ぴたりと合った符丁に、メイシアの顔から血の気が引いていく。知らず、握りしめていた掌は、うっすらと汗で湿っていた。
(ムスカ)〉は『『死』はミンウェイへの裏切り行為』だと吐き捨て、オリジナルのヘイシャオを許さないと言っていた。
 しかし本当は、『自分』が自殺した理由を知りたがっていたように思える。
 それを知ったところで何にもならないが、純粋に知りたいのだろう。――最愛の妻を裏切るほどの理由とは、なんであったのかを。
 メイシアは、ごくりと唾を呑んだ。
 これは『情報』だ。
 相手の知りたい情報は、武器になる。
 だから、これは〈(ムスカ)〉に対する、強い武器だ。
 彼女はそう思い、しかし、首を振った。
(ムスカ)〉はもう、メイシアの話には、まともに耳を貸さないだろう。なんの戯言(ざれごと)だと言って、一笑に付すに違いない。
 ……それに。
 憎き仇ではあるけれども、〈(ムスカ)〉は『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』に利用されるために作られた被害者でもある。セレイエの記憶に引きずられて罪悪感を覚えているだけかもしれないが、これ以上、彼の心をえぐるような真似はしたくない……。
 メイシアは高ぶる感情を落ち着けようと、ゆっくりと深呼吸をした。
 そして、気づいた。
「……違う。逆かもしれない……」
 駒として作り出され、何も知らされず、嘘に翻弄されるがままであった〈(ムスカ)〉にとって、真実の情報を得ることは――。
「救いに――なるのかもしれない……?」
 小さく呟き、彼女は慌てて口元を押さえた。
(ムスカ)〉は敵なのだ。
 情のような気持ちを(いだ)くべきではない。
 彼の『生』は、できるならリュイセンに――それが無理な場合にはタオロンに、幕を下ろしてもらう。
 それで、終わり。今晩、決着をつける。
 だからメイシアは、二度と彼に会うことはない……。
 彼女はそう結論づけ、この情報を心の奥に封印した。
 けれど、口の中には、なんともいえない苦さが残り続けた。


 リュイセンが運んできてくれた昼食は、腕の良い料理人の作であるにも関わらず、砂を噛むような味しかしなかった。
 会話のない、事務的な食事は短時間で終わり、再び、リュイセンが部屋を出ていく。
 メイシアは、エレベーターが地上まで降りたのを確認すると、部屋を移動し、ベッドの隙間から携帯端末を取り出した。滑らかに動かぬ指先をもどかしく思いながら、ルイフォンへと電話を掛ける。
 一刻も早く、彼の声を聞きたかった。
 あの優しいテノールに、身を委ねたかった……。


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 研究室の扉を開くと、真っ暗な地下通路が広がった。
 闇に沈むような空間に向かって、メイシアは、ふらつく足で転げるように身を躍らせる。
 背後で、重い音を立てながら扉が閉まった。その音が石造りの壁に反響し、振動が空気を伝って彼女の肌を撫でた。
「……っ」
 かくっ、と。足の力が抜けた。
 メイシアは、へなへなとその場に崩れ落ちる。
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「大丈夫か?」
 頭上から、リュイセンの声が降りてきた。夜目が効く彼には、彼女がへたり込んでいる姿が見えているのだろう。
 人の動く気配がして、やがて、あたりが明るくなる。リュイセンが電灯を点けてくれたのだ。
 メイシアは立ち上がろうとして、しかし、動けなかった。今ごろになって、全身が激しく震えていた。
「メイシア?」
「リュイセン……、ありがとう……」
 もう少しで、〈|蝿《ムスカ》〉に絞め殺されるところだった。リュイセンが助けてくれなければ、命はなかった。
 二度と再び、ルイフォンに逢えないところだった……。
「――っ」
 ルイフォンを心に想い描いた瞬間、黒曜石の瞳から、はらりとひと筋、涙がこぼれた。
 彼がここに居たら、きっと強く抱きしめてくれたに違いない。彼女の髪をくしゃりと撫で、優しいテノールで『怖かったな』と包み込んでくれたことだろう。――そう、思ってしまった。
 胸が苦しい。喉が熱い。
 涙は、堰を切ったように次から次へとあふれてきた。止めたいのに止まらない。メイシアは、嗚咽を殺して泣きじゃくる。
「お、おい……、メイシア……」
 リュイセンがうろたえ、彼の影が戸惑いに揺れ動いた。
「ご、ごめんなさい」
 メイシアは慌てて顔を拭う。
 そうだ、泣いている場合ではない。
 危機は去ったのだ。経緯は最悪だったかもしれないが、狙い通りに、〈|蝿《ムスカ》〉に『考えさせてほしい』と言わせることができた。明日までという期限が守られる保証はなくとも、少なくとも、ルイフォンと連絡を取るくらいの時間は稼げたはずだ。
 だから、まずは立ち上がり、携帯端末のある展望室に戻る――。
 気持ちを入れ替えると、意外なほどに滑らかに体が動いた。リュイセンがほっと息をつき、「行くぞ」と歩き始める。
 リュイセンの広い背中を追いながら、メイシアは徐々に冷静になってきた。
 今までは、一週間が過ぎるまで、メイシアの身に危険はないと考えていた。だから、その間に、リュイセンを〈|蝿《ムスカ》〉の支配から解放する予定だった。そして、〈|蝿《ムスカ》〉の|首級《くび》を手柄に、リュイセンが一族に戻れるように、と――言い方は悪いが、お膳立ての準備をしていた。
 しかし、状況が変わった以上、今は一刻も早く〈|蝿《ムスカ》〉の息の根を止めるべきだ。したがって、次に〈|蝿《ムスカ》〉が研究室から出てきたときに、タオロンに仕留めてもらうことになるだろう。
 おそらくは、今夜――。
「……っ」
 リュイセンの後ろ姿を見つめるメイシアの目が、悲痛に歪んだ。
 タオロンに暗殺を依頼すれば、リュイセンが再び鷹刀一族を名乗る道は閉ざされる。
〈|蝿《ムスカ》〉がいなくなり、リュイセンがこの庭園に|留《とど》まる理由がなくなったとき、彼は速やかに誰も知らない|何処《いずこ》かに去っていくことだろう。高潔であるがゆえ、裏切ってしまった一族のもとへは決して姿を現すまい。事実上の|永久《とわ》の別れだ。
 ――嫌だ。
 メイシアは奥歯を噛み、潤みそうになった黒曜石の瞳に力を込めた。
 目の前には、リュイセンのすらりと伸びた背と、迷わずに前へと突き進む手足。あたかも、彼の性格を表しているかのような――。
 そう。
 彼はただ、ミンウェイのためを想ってまっすぐに行動しただけだ。
 彼の気持ちを利用する〈|蝿《ムスカ》〉に、抗えなかっただけだ。
 リュイセンを見捨てるような真似はしたくない……。
 ふと。
 メイシアは思った。
 リュイセンに、すべてを打ち明けては駄目だろうか。
 ルイフォンは、ミンウェイが母親のクローンだという確たる証拠を示した上で、リュイセンに〈|蝿《ムスカ》〉暗殺を持ちかけると言っている。そうでもしなければ、リュイセンは頑なにミンウェイの『秘密』を認めないであろうから、と。
 だが寸刻を争う事態なら、何はともあれ、リュイセンと腹を割って話すべきではないだろうか。もしかしたら証拠などなくとも、リュイセンは、こちらの手を取ってくれるかもしれない。その可能性に賭けたい。
 今までのルイフォンの苦労を無にするようで申し訳ないが、リュイセンを失いたくないのだ。
 それに、ルイフォンだって、現状を知れば同意してくれるのではないかと思う。何故なら、彼は『リュイセンを取り戻したい』と明言しているのだから。
 ルイフォンに提案してみよう。
 メイシアは、前を歩くリュイセンの背中をじっと見つめる。まるで、視線で彼を取り戻そうとでもするかのように。
 ともかく、まずは展望室に戻り、昼食を終える。そして、ひとりきりになったら、ルイフォンと連絡を取る。リュイセンと話すのは夕食のときだ。
 諦めるのはまだ早い。
 メイシアは頭の中で段取りを決め、気を引き締めるべく体の芯にぐっと力を入れた。
 展望室に着くと、リュイセンの後ろ姿がひらりと翻った。勢いよく黒髪がなびき、メイシアと正面から向き合う。
 双刀の煌めきを宿したかのような双眸が、しかとメイシアを捕らえた。今までずっと、彼女の目を避けるようにしていたのが嘘のようだった。
「リュイセン……?」
 急激な変化に彼女は戸惑う。
 黄金比の美貌は相変わらずだが、そこには温かみの欠片もなかった。眼差しは冷たく冴え渡る氷のようで、|睫毛《まつげ》の先までもが凍りついたかのように張り詰めている。
 凄みのある美の根底にあるのは――深い憤り。
「メイシア」
「は、はい」
 彼女は思わず、びくりと肩を上げた。
「お前が危険な目に遭ったのは、お前をさらってきた俺のせいだ。すまなかった」
「リュイセン!?」
 頭を下げる彼に、メイシアは驚き、声を跳ね上げる。
 どうやら、彼女が殺されかけたことに責任を感じ、〈|蝿《ムスカ》〉と自分自身に対して怒っているのだろう。――メイシアは、そう解釈した。
 だが、それは正解ではなかった。
 確かに、リュイセンの内部にはメイシアへの罪悪感が存在する。けれど彼の激情は、死んだ妻のことしか頭にない〈|蝿《ムスカ》〉に向けられていた。
 詳しいことを知らないリュイセンでも、先ほどの研究室では〈|蝿《ムスカ》〉の妻の話がなされていたのだと察しがついた。そして、あのときの〈|蝿《ムスカ》〉の口ぶりは、リュイセンにしてみれば、妻を亡くした不幸な自分の運命を呪い、憐れんだ自己陶酔としか思えなかった。
『娘』のミンウェイを不幸に陥れておきながら、よくもぬけぬけと……と、リュイセンの心には嵐が吹き荒れていた。
『娘』を無理やりに妻の代わりにしておきながら、結局のところ、彼は死んだ妻を求め続ける。
『娘』には、自分だけを望むよう、支配して育てたくせに。
 歪んだ世界に閉じ込められた『娘』は、服毒自殺を試みるまでに追い詰められたというのに……。
 リュイセンは〈|蝿《ムスカ》〉の殺害をとうに決意していたが、研究室からこの展望室に着くまでの間、〈|蝿《ムスカ》〉の言動を反芻し続け、|昏《くら》い憎悪を更に腹に溜め込んでいた。
 ――故に。彼は抜き身の刀と化していたのだ。
 勿論、メイシアは、そんなリュイセンの心情など知る|由《よし》もない。だから、彼女はただ恐ろしげな雰囲気に圧倒され、困惑するばかりだった。
「リュイセン……、あのっ、ごめんなさい」
「なんで、お前が謝るんだ?」
「私が不用意に〈|蝿《ムスカ》〉を怒らせたから、あんなことになったんです」
 リュイセンは自分のために怒っているのだと勘違いしているメイシアは、恐縮に身を縮こめる。
「〈|蝿《ムスカ》〉のことは許せない。けど、だからといって、私が礼儀知らずになるのは違ったんです」
〈|蝿《ムスカ》〉の妻を駆け引きに利用したのは、やはり卑劣だったと思う。メイシアにも非があるのだから、ともかくリュイセンには怒りを鎮めてほしい。――そういう思いだった。
 しかし、リュイセンは、|眦《まなじり》を吊り上げた。
「礼儀だと? 本気で言っているのか? あいつは、ミンウェイを追い詰め、死に追いやろうとした奴だぞ!」
「……え?」
 突然、叫びだしたリュイセンに、メイシアは混乱した。
 にわかには彼の言葉の意味を理解できず、声を失う。その間にリュイセンは、はっと我に返り、余計なことを言ったと気まずげな顔になった。
 だが――。
 メイシアの聡明な頭脳は、聞き流してはいけないと警告を発した。
「ミンウェイさんが殺されそうになった……? ……それはあり得ないはずです……。〈|蝿《ムスカ》〉にとって、『生』は尊いものなんですから……」
「忘れてくれ」
 リュイセンは吐き捨てたが、メイシアは思考を巡らせる。
 激しい違和感があった。
『生を|享《う》けた以上、生をまっとうする』――そう言って『生』に執着する〈|蝿《ムスカ》〉が、ミンウェイに『死』を与えようとすることはないはずなのだ。
「『追い詰められて』の『死』ということは……、ミンウェイさんは過去に自殺しようとした――ということですか……?」
「昼食を運んでくる!」
 唐突にリュイセンが言い放ち、神速で|踵《きびす》を返した。
 彼の荒い声が、苦しげな響きが、そして何よりも彼の態度が――メイシアの言葉は正しいと、雄弁に語っていた。それと同時に、もうこの話題に触れるなという、強い拒絶もまた。
「ご、ごめんなさい……」
 リュイセンが消えたあとの扉に向かって、メイシアは謝る。
 しかし――。
 胸騒ぎがした。
『看過してはならない』という、奇妙な――焦燥のような、ざわついた気持ちが拭えない。
 かつて、ミンウェイが自殺――自殺未遂をした。
 よく考えれば、それはちっとも不思議なことではない。
 少女時代のミンウェイは、『父親』に溺愛という名の虐待を受けていた。そのころの彼女なら、『死』を望んでもおかしくないだろう。
「あ……、『〈|蝿《ムスカ》〉』じゃなくて、『ヘイシャオさん』だ……」
 先ほどの会話では、メイシアもリュイセンも混同していたが、『〈|蝿《ムスカ》〉』と『ヘイシャオ』は、共通の記憶を持ちつつも『別人』だ。
 現在の『〈|蝿《ムスカ》〉』とミンウェイは、一度も会ったことはない。
 ミンウェイは、生前の『ヘイシャオ』との生活で追い詰められ、自ら『死』を求めたのだ。
「――っ!」
 メイシアの心臓が激しく跳ね上がった。
 鋭く息を呑み、無意識に体を掻き|抱《いだ》く。
『ミンウェイ』と呼ばれる存在が、ヘイシャオの前で、『死』を望んだ……。
 たとえクローンであっても、『娘』のミンウェイは、妻のミンウェイとは違う人間だ。
 しかし、頭では分かっていても、ヘイシャオの心は、ふたりを区別できていなかった節がある。
 |妻《ミンウェイ》に先立たれたヘイシャオを生かしていたのは、『生を|享《う》けた以上、生をまっとうする』という|妻《ミンウェイ》との約束。そんなヘイシャオのそばで、|妻《ミンウェイ》と見分けがつかなくなった『|娘《ミンウェイ》』が自殺しようとしたら……?
 ヘイシャオの世界は、壊れる――……。
「――だから、なの……?」
 誰もいない部屋で、メイシアは虚空に向かって尋ねる。
「『ミンウェイ』さんが『死』を求めたから、ヘイシャオさんを『生』に繋ぎ留めていた約束が消えてしまった――ということなの……?」
 メイシアの耳に、〈|蝿《ムスカ》〉の深い憤りが、怨嗟に満ちた自嘲が、狂おしいほどの慟哭が蘇る。
『鷹刀ヘイシャオが、自殺などするはずがないのです。彼が自ら『死』を望むなど、あり得ない!』
『ええ、私も馬鹿ではありません。分かっていますよ』
『私の持つ記憶が保存された時点から、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが死ぬまでの間に、彼が心変わりするような事件があった、ということでしょう』
『生』を望む〈|蝿《ムスカ》〉と、『死』を求めたヘイシャオ。
 ふたりの狭間に横たわる、記憶の時差。
『生』から『死』へと心変わりした理由は――。
 ミンウェイの自殺未遂だ……。
 ぴたりと合った符丁に、メイシアの顔から血の気が引いていく。知らず、握りしめていた掌は、うっすらと汗で湿っていた。
〈|蝿《ムスカ》〉は『『死』はミンウェイへの裏切り行為』だと吐き捨て、オリジナルのヘイシャオを許さないと言っていた。
 しかし本当は、『自分』が自殺した理由を知りたがっていたように思える。
 それを知ったところで何にもならないが、純粋に知りたいのだろう。――最愛の妻を裏切るほどの理由とは、なんであったのかを。
 メイシアは、ごくりと唾を呑んだ。
 これは『情報』だ。
 相手の知りたい情報は、武器になる。
 だから、これは〈|蝿《ムスカ》〉に対する、強い武器だ。
 彼女はそう思い、しかし、首を振った。
〈|蝿《ムスカ》〉はもう、メイシアの話には、まともに耳を貸さないだろう。なんの|戯言《ざれごと》だと言って、一笑に付すに違いない。
 ……それに。
 憎き仇ではあるけれども、〈|蝿《ムスカ》〉は『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』に利用されるために作られた被害者でもある。セレイエの記憶に引きずられて罪悪感を覚えているだけかもしれないが、これ以上、彼の心をえぐるような真似はしたくない……。
 メイシアは高ぶる感情を落ち着けようと、ゆっくりと深呼吸をした。
 そして、気づいた。
「……違う。逆かもしれない……」
 駒として作り出され、何も知らされず、嘘に翻弄されるがままであった〈|蝿《ムスカ》〉にとって、真実の情報を得ることは――。
「救いに――なるのかもしれない……?」
 小さく呟き、彼女は慌てて口元を押さえた。
〈|蝿《ムスカ》〉は敵なのだ。
 情のような気持ちを|抱《いだ》くべきではない。
 彼の『生』は、できるならリュイセンに――それが無理な場合にはタオロンに、幕を下ろしてもらう。
 それで、終わり。今晩、決着をつける。
 だからメイシアは、二度と彼に会うことはない……。
 彼女はそう結論づけ、この情報を心の奥に封印した。
 けれど、口の中には、なんともいえない苦さが残り続けた。
 リュイセンが運んできてくれた昼食は、腕の良い料理人の作であるにも関わらず、砂を噛むような味しかしなかった。
 会話のない、事務的な食事は短時間で終わり、再び、リュイセンが部屋を出ていく。
 メイシアは、エレベーターが地上まで降りたのを確認すると、部屋を移動し、ベッドの隙間から携帯端末を取り出した。滑らかに動かぬ指先をもどかしく思いながら、ルイフォンへと電話を掛ける。
 一刻も早く、彼の声を聞きたかった。
 あの優しいテノールに、身を委ねたかった……。