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5.幽明の狭間に落つる慟哭-3

ー/ー



 メイシアが〈(ムスカ)〉の地下研究室で『ライシェン』と対面している、その時刻。
 リュイセンは割り当てられた自室でひとり、思索にふけっていた。


『この手の話の定石だとは思いますが、もしも私が死ぬようなことがあれば、〈ベラドンナ〉のもとに彼女の『秘密』がもたらされるよう、仕掛けをしてあります』
 だから私を害そうなどと、ゆめゆめ考えることのなきよう……。
 耳に蘇る、聞き慣れた低音は、あからさまな牽制。
 一族特有の声質でありながら誰のものとも違う、ねっとりとした響きがリュイセンに絡みつき、彼の自由を奪った。
 リュイセンとて、〈(ムスカ)〉の脅迫を頭から信じたわけではない。彼の持つ野生の勘は、五分の確率だと告げた。
(ムスカ)〉の弁が本当である確率が半分。ハッタリである確率が半分。
 しかし、半々では身動きを取れない。
 だから昨晩、リュイセンは〈(ムスカ)〉に問うたのだ。
『そんなに『死』が怖いのかよ? 死んだら何もかもなくなると、恐れているのか?』
 対して、〈(ムスカ)〉はこう答えた。
『死んだあとのことなど、どうでもよいことですよ。考える価値もありません。大切なのは、生きていることなのですから』
 聞いた瞬間、リュイセンは天啓を得た。
『死んだあとのことなど、どうでもよい』――すなわち〈(ムスカ)〉は、自分の死後の現世に、興味がない。
 リュイセンの脳裏で、確率の天秤が、ぐらりと音を立てて傾いた。
 ――ハッタリだ……。
 無論、常人であれば、この程度の台詞から確信に至るのは早急であろう。しかしリュイセンには天性の直感がある。細かな理屈などは一足飛びに捨て置き、彼は本質を見抜き、真理へとたどり着く。

(ムスカ)〉を殺す。

 決意を胸に虚空を仰げば、黄金比の美貌から表情が消えた。無慈悲な機械人形が如き瞳には、冷徹な光が浮かぶ。
(ムスカ)〉がこの世から失せれば、ミンウェイを脅かすものはなくなる。彼女は安心して、穏やかな日常を過ごすことができる。

 ミンウェイの幸せを守るために。

(ムスカ)〉を亡き者にするのだ。
 それからタオロンに頼んで、メイシアをルイフォンのもとに帰す。
 そして――。

 ミンウェイの『秘密』をなかったことにするために、それを知るリュイセンは姿を消す……。

 リュイセンは壁にもたれ、思考を巡らせる。
「ミンウェイ……」
 その名を呟いた途端、無機質な氷と化していたはずのリュイセンの面差しが、ふわりと解けた。口元に柔らかな微笑が浮かび、双眸に切なげな光が灯る。
 心の一部をどこかに置き去りにしてきてしまったミンウェイ。
 無防備で、不安定で、危うい、大切な(ひと)
 彼女の欠けた心を埋めてあげるのだと、幼き日に誓った。
 守ってあげるのだ――と。
「俺は、ミンウェイを守る」
 どんなことをしてでも。
 たとえ、二度と逢うことは叶わなくとも……。
「…………」
 雑念を振り払うように首を振ると、肩の上で(そろ)えられた黒髪がさらさらと哀しげな音を立てながら流れた。


 昼が近づき、リュイセンは地下へと向かう。朝、〈(ムスカ)〉のもとに送ったメイシアを迎えに行き、彼女が起居する展望室に連れて帰るという、日課のためである。
 地下研究室で何が行われているのか、詳しいことをリュイセンは知らない。初めは、メイシアの身に何か危険があるのではないかと、ひやひやしていたのだが、一週間は問題ないのだと彼女から聞いた。
 ――だから、その間に〈(ムスカ)〉を殺す。
 今日か、明日か……。
 刀は取り上げられてしまっているが、管理しているのは〈(ムスカ)〉ではなく部下の私兵だ。奪い返すことなど、造作もない。私兵ごときなら素手で黙らせる自信はある。
 そんなことをつらつらと考えながら、リュイセンは廊下を歩く。
 生真面目な性格上、彼は時間に余裕を持って行動する。だからいつも、かなり早くに到着して、扉の前で待っているのだ。
 研究室と廊下は丈夫な扉で隔てられており、中の様子は、ほとんど読み取れない。ただ、メイシアが出てくる少し前になると、決まって〈(ムスカ)〉が嫌味を言うような気配を感じる。
 しかし、今日は違った。
 リュイセンが地下に降り立った瞬間、肌を刺すような予感がした。気のせいであってほしいと願いながら、彼は足早に通路を駆け抜ける。
 そして、扉の前に着いたとき、それは現実に変わった。
 漏れ聞こえる、〈(ムスカ)〉とメイシアの言い争うような声。飛びつくように扉に耳を付ければ、『小娘……』という〈(ムスカ)〉の轟くような怒号が、振動となって伝わってくる。
『つまり、あなたは……、……私を、ずっと影で嘲笑(あざわら)っていた――ということですね!』
 言葉の端々までは、正確には聞き取れない。しかし、ただならぬ様子は明らか――。
 刹那、椅子が倒れるような音が響き、間髪を()れず、メイシアの苦しげなうめきがリュイセンの耳朶を打った。
「――!」
 メイシアが危ない――!
 止めなければ――と、リュイセンの体は瞬時に動いた。
 扉には鍵が掛かっている。秘密の地下研究室なのだから、当然だ。
 だから彼は、蹴破ろうと身を翻した。
 助走をつけ……、そこではっと、我に返る。
 彼が如何(いか)な武の達人でも、この頑丈な扉を壊せるわけがない。頭を使うのだ。――ルイフォンのように。
 そのとき、リュイセンの脳裏にルイフォンの言葉が蘇った。
 それは、ハオリュウの車に隠れ、初めてこの館に侵入したときのもの。
 ルイフォンは、敵地に乗り込むハオリュウを案じ、万一のときには小火(ぼや)騒ぎを起こすと言った。それからリュイセンへの指示として、こう付け加えたのだ。
『お前は非常ベルを押してくれ。混乱に乗じて助けに行く』
 ――非常ベルだ!
 確か、地下に降りる階段の脇にあった。
 リュイセンは、全力で通路を戻る。小火(ぼや)まで起こせなくとも警報が鳴れば、さすがの〈(ムスカ)〉も研究室から出てくるはずだ――!


 けたたましい警報音が響き渡った。
 私兵たちが次々に廊下に飛び出し、何ごとかと右往左往する。その気配を尻目に、リュイセンは再び地下通路を走り抜け、研究室の前に戻ってきた。
「〈(ムスカ)〉! 火事だ!」
 どんどんどんどん……。
 リュイセンは力いっぱい、扉を叩く。
 非常ベルの音は、研究室の中にまで届いていたのだろう。リュイセンが叫ぶまでもなく、〈(ムスカ)〉は外に出ようとしていたらしい。――そんなタイミングで、扉が開かれた。
 暗い地下通路に、部屋の明かりが差し込んだ。
 逆光に沈んだ〈(ムスカ)〉の姿が幽鬼のように浮かび上がる。しかし、リュイセンは構わずに室内に目を走らせた。
「メイシア!」
 硬質な白い床に、長い黒絹の髪が広がっていた。(まぶた)を閉じ、仰向けに倒れた顔は蒼白で、喉元には締められたような指の跡がくっきりと赤く残っている。
 リュイセンは、取っ手を掴んだままの〈(ムスカ)〉を突き飛ばし、メイシアのもとへ駆け寄った。
「メイシア! 大丈夫か!」
 膝を付き、そっと体を起こす。彼女は小さく咳き込んで、やがて薄目を開けた。
「リュイセン……?」
「メイシア! よかった……」
 苦しげではあるが、ちゃんと意識がある。リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろす。
 と同時に、ゆっくりと近づいてくる白衣の影が、彼らのそばまで伸びてきた。黒い陰りに呑まれるよりも先に、リュイセンはメイシアを庇うように立ち上がる。
(ムスカ)〉とメイシアの間で、何があったのかは分からない。けれど、〈(ムスカ)〉が非道を働いた。そのことに間違いはない。
 ――この男は『悪』だ。滅ぼすべき相手だ。
 ミンウェイを不幸に陥れ、メイシアにも危害を及ぼす。
 (つや)やかな黒髪を逆立たせ、若き狼が牙をむく。
 愛刀を取り戻してから〈(ムスカ)〉と対峙するつもりだった。
 敵の本拠地ともいえる、この研究室では、どんな不測の事態が起こるか分からない。得体のしれない薬物でも持ち出されたら、一瞬にして不利になるだろう。
 しかし、ここで見過ごすなどあり得ない。

 素手でいい。〈(ムスカ)〉を(くび)り殺す。

 リュイセンの殺気が膨れ上がった。
 重心を移し、まさに飛びかかろうとした――その瞬間だった。
「ほう……」
 よく通る〈(ムスカ)〉の低音が機先(きせん)を制した。
 揶揄するような、尻上がりの軽い響き。――しかし、研ぎ澄まされすぎたリュイセンの神経には、充分すぎるほどの妨害(ノイズ)だった。
「――っ!」
 リュイセンは、たたらを踏む。
「なるほど。非常ベルを鳴らしたのは、あなたというわけですね」
 リュイセンから発せられる、魂が凍りつきそうなほどの殺気を浴びながらも、〈(ムスカ)〉はいつもと変わらぬ調子で嗤った。そして、あろうことか、リュイセンの脇を平然とすり抜け、床にうずくまるメイシアのそばにしゃがみ込んだのだ。
「〈(ムスカ)〉!?」
 リュイセンが慌てて振り返ると、〈(ムスカ)〉は後ずさるメイシアの手首を強引に取り、彼女の脈をとっていた。どうやら医者として容態を診ているらしい。
 白衣の背中が、無防備に晒されている。
 しかし、リュイセンは拳を握りしめ、その手を力なく下ろした。
 今ここでやりあえば、確実にメイシアを巻き込む。〈(ムスカ)〉はそれを示唆したのだ。
「特に異常はありません。――私としたことが、つい話に夢中になってしまいましたね」
(ムスカ)〉は悪びれもせずにメイシアにそう言うと、すっと立ち上がり、リュイセンを睥睨した。
 反射的に身構えたリュイセンに、〈(ムスカ)〉は不気味な嗤いを漏らす。
 ……だがそれは、実のところ、〈(ムスカ)〉の虚勢だった。
 扉を開けた瞬間に、〈(ムスカ)〉はリュイセンが何をしたのかを理解した。だから、リュイセンが次に取る行動を容易に想像できた。
 すなわち。
 倒れているメイシアを見れば、リュイセンは激昂する。そして、〈(ムスカ)〉に敵意を――否、殺意を(いだ)く。
 メイシアに危害が加えられただけなら、殺意に至るまでの憎悪にはならないだろう。しかし、〈ベラドンナ〉に愛を注いでいるリュイセンは、もともと〈(ムスカ)〉が憎くてたまらない。〈(ムスカ)〉に脅迫されていることを忘れ、一時的に(たが)が外れても不思議ではない。
 リュイセンが本気で歯向かえば、〈(ムスカ)〉にまず勝ち目はない。
 だから〈(ムスカ)〉は、リュイセンの殺意を削ぐべく、動じない態度という先手を打ったのだ。リュイセンの熱い血も、機を逃せば冷めるだろう。何しろ〈(ムスカ)〉には、〈ベラドンナ〉の『秘密』という盾があるのだから――と。
 ――しかし。
 リュイセンに対しては冷静に対処できる〈(ムスカ)〉も、自分自身の感情に関しては違っていた。
 内心では、必死に動揺を隠していた。
 正直なところ、彼は非常ベルの音に救われたと思っていたのだ。
『鷹刀セレイエ』の記憶を持つメイシアは、絶対に手放してはならない切り札。もしも怒りに身を任せ、衝動で殺していたら、彼は大事な手札を失うところだった。自分の落ち度で取り返しのつかない事態となれば、悔やんでも悔やみきれない。
 リュイセンの邪魔が、結果として役に立ったからだろう。いつもなら楯突くような真似をした相手を決して許さない〈(ムスカ)〉が、リュイセンを軽くいなしただけで、報復を忘れていた。――そのくらい動転していたのである。
「もう昼ですか」
 まるで世間話のような調子で発した言葉の裏に、〈(ムスカ)〉は『命拾いしましたね』という、メイシアへの嫌味を含ませる。
 勿論、そんなことはリュイセンには分からない。
 ただ、ともかくメイシアを安全なところに連れて行くべきだと、彼は思った。〈(ムスカ)〉の首級(くび)は、おあずけだ。
「小娘。あなたが話したことについて、私は冷静に考える必要がありそうです。……続きは明日にしましょう」
 視線を下げ、まだ床に座り込んだままのメイシアへと〈(ムスカ)〉が声を掛ける。
 その際、向き合って立っていたリュイセンには、〈(ムスカ)〉の眉間に刻まれた皺が妙にくっきりと見えた。色あせた白髪頭も精彩を欠き、随分と弱気な〈(ムスカ)〉に彼は首をかしげる。
 しかし、そんな疑問は、〈(ムスカ)〉の次の台詞を聞いた瞬間に、どうでもよくなった。
「……ミンウェイの記憶を手に入れたとしても、それは彼女が亡くなったときの年齢のもの――また二十歳にもならない少女のものなのですよ。その記憶を、そこの硝子ケースの『ミンウェイ』に入れるなど、酷いことです」
「……っ!」
 メイシアが鋭く息を呑んだ。細い指が口元を押さえるが、体は小刻みに震え、黒曜石の瞳が罪悪感に染まる。
「――だからといって、その記憶のために新しく若い肉体を作ったとして……、二十歳にもならない娘に、この老いた肉体の私のそばにいてくれ、と言うのですか……?」
 静かに吐き出された言葉は、慟哭の裏返し……。
「続きは明日です。――出ていってください」
 念を押すように繰り返し、〈(ムスカ)〉は白衣を翻しながら研究室の奥へと歩いていく。その先の衝立(ついたて)の向こうに『ミンウェイ』がいる。リュイセンは、そう察した。
 そして、そのとき。
 リュイセンは……苛立ちを――怒りを覚えていた。
(ムスカ)〉が、この研究室でメイシアに何をさせようとしているのかは分からない。
 しかし、今の〈(ムスカ)〉の言動は、亡くした妻への深い想いだ。
『娘』のミンウェイを、さんざん妻の代わりにしておきながら、それでも〈(ムスカ)〉は永遠に妻を想い続けるのだ。
 ――許せねぇ……。
「リュイセン……?」
 ぎこちなく立ち上がったメイシアが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ……、いや……」
 リュイセンは奥歯を噛み、ぐっとこらえる。
 今はまだ、動くべきときではない。夜だ。
 今宵――。
 就寝のために、この研究室を出たときが奴の最期だ。
「メイシア、行こう」
 ここに長居をする理由はない。彼はメイシアを伴い、部屋を出た。


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 メイシアが〈|蝿《ムスカ》〉の地下研究室で『ライシェン』と対面している、その時刻。
 リュイセンは割り当てられた自室でひとり、思索にふけっていた。
『この手の話の定石だとは思いますが、もしも私が死ぬようなことがあれば、〈ベラドンナ〉のもとに彼女の『秘密』がもたらされるよう、仕掛けをしてあります』
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 耳に蘇る、聞き慣れた低音は、あからさまな牽制。
 一族特有の声質でありながら誰のものとも違う、ねっとりとした響きがリュイセンに絡みつき、彼の自由を奪った。
 リュイセンとて、〈|蝿《ムスカ》〉の脅迫を頭から信じたわけではない。彼の持つ野生の勘は、五分の確率だと告げた。
〈|蝿《ムスカ》〉の弁が本当である確率が半分。ハッタリである確率が半分。
 しかし、半々では身動きを取れない。
 だから昨晩、リュイセンは〈|蝿《ムスカ》〉に問うたのだ。
『そんなに『死』が怖いのかよ? 死んだら何もかもなくなると、恐れているのか?』
 対して、〈|蝿《ムスカ》〉はこう答えた。
『死んだあとのことなど、どうでもよいことですよ。考える価値もありません。大切なのは、生きていることなのですから』
 聞いた瞬間、リュイセンは天啓を得た。
『死んだあとのことなど、どうでもよい』――すなわち〈|蝿《ムスカ》〉は、自分の死後の現世に、興味がない。
 リュイセンの脳裏で、確率の天秤が、ぐらりと音を立てて傾いた。
 ――ハッタリだ……。
 無論、常人であれば、この程度の台詞から確信に至るのは早急であろう。しかしリュイセンには天性の直感がある。細かな理屈などは一足飛びに捨て置き、彼は本質を見抜き、真理へとたどり着く。
〈|蝿《ムスカ》〉を殺す。
 決意を胸に虚空を仰げば、黄金比の美貌から表情が消えた。無慈悲な機械人形が如き瞳には、冷徹な光が浮かぶ。
〈|蝿《ムスカ》〉がこの世から失せれば、ミンウェイを脅かすものはなくなる。彼女は安心して、穏やかな日常を過ごすことができる。
 ミンウェイの幸せを守るために。
〈|蝿《ムスカ》〉を亡き者にするのだ。
 それからタオロンに頼んで、メイシアをルイフォンのもとに帰す。
 そして――。
 ミンウェイの『秘密』をなかったことにするために、それを知るリュイセンは姿を消す……。
 リュイセンは壁にもたれ、思考を巡らせる。
「ミンウェイ……」
 その名を呟いた途端、無機質な氷と化していたはずのリュイセンの面差しが、ふわりと解けた。口元に柔らかな微笑が浮かび、双眸に切なげな光が灯る。
 心の一部をどこかに置き去りにしてきてしまったミンウェイ。
 無防備で、不安定で、危うい、大切な|女《ひと》。
 彼女の欠けた心を埋めてあげるのだと、幼き日に誓った。
 守ってあげるのだ――と。
「俺は、ミンウェイを守る」
 どんなことをしてでも。
 たとえ、二度と逢うことは叶わなくとも……。
「…………」
 雑念を振り払うように首を振ると、肩の上で|揃《そろ》えられた黒髪がさらさらと哀しげな音を立てながら流れた。
 昼が近づき、リュイセンは地下へと向かう。朝、〈|蝿《ムスカ》〉のもとに送ったメイシアを迎えに行き、彼女が起居する展望室に連れて帰るという、日課のためである。
 地下研究室で何が行われているのか、詳しいことをリュイセンは知らない。初めは、メイシアの身に何か危険があるのではないかと、ひやひやしていたのだが、一週間は問題ないのだと彼女から聞いた。
 ――だから、その間に〈|蝿《ムスカ》〉を殺す。
 今日か、明日か……。
 刀は取り上げられてしまっているが、管理しているのは〈|蝿《ムスカ》〉ではなく部下の私兵だ。奪い返すことなど、造作もない。私兵ごときなら素手で黙らせる自信はある。
 そんなことをつらつらと考えながら、リュイセンは廊下を歩く。
 生真面目な性格上、彼は時間に余裕を持って行動する。だからいつも、かなり早くに到着して、扉の前で待っているのだ。
 研究室と廊下は丈夫な扉で隔てられており、中の様子は、ほとんど読み取れない。ただ、メイシアが出てくる少し前になると、決まって〈|蝿《ムスカ》〉が嫌味を言うような気配を感じる。
 しかし、今日は違った。
 リュイセンが地下に降り立った瞬間、肌を刺すような予感がした。気のせいであってほしいと願いながら、彼は足早に通路を駆け抜ける。
 そして、扉の前に着いたとき、それは現実に変わった。
 漏れ聞こえる、〈|蝿《ムスカ》〉とメイシアの言い争うような声。飛びつくように扉に耳を付ければ、『小娘……』という〈|蝿《ムスカ》〉の轟くような怒号が、振動となって伝わってくる。
『つまり、あなたは……、……私を、ずっと影で|嘲笑《あざわら》っていた――ということですね!』
 言葉の端々までは、正確には聞き取れない。しかし、ただならぬ様子は明らか――。
 刹那、椅子が倒れるような音が響き、間髪を|容《い》れず、メイシアの苦しげなうめきがリュイセンの耳朶を打った。
「――!」
 メイシアが危ない――!
 止めなければ――と、リュイセンの体は瞬時に動いた。
 扉には鍵が掛かっている。秘密の地下研究室なのだから、当然だ。
 だから彼は、蹴破ろうと身を翻した。
 助走をつけ……、そこではっと、我に返る。
 彼が|如何《いか》な武の達人でも、この頑丈な扉を壊せるわけがない。頭を使うのだ。――ルイフォンのように。
 そのとき、リュイセンの脳裏にルイフォンの言葉が蘇った。
 それは、ハオリュウの車に隠れ、初めてこの館に侵入したときのもの。
 ルイフォンは、敵地に乗り込むハオリュウを案じ、万一のときには|小火《ぼや》騒ぎを起こすと言った。それからリュイセンへの指示として、こう付け加えたのだ。
『お前は非常ベルを押してくれ。混乱に乗じて助けに行く』
 ――非常ベルだ!
 確か、地下に降りる階段の脇にあった。
 リュイセンは、全力で通路を戻る。|小火《ぼや》まで起こせなくとも警報が鳴れば、さすがの〈|蝿《ムスカ》〉も研究室から出てくるはずだ――!
 けたたましい警報音が響き渡った。
 私兵たちが次々に廊下に飛び出し、何ごとかと右往左往する。その気配を尻目に、リュイセンは再び地下通路を走り抜け、研究室の前に戻ってきた。
「〈|蝿《ムスカ》〉! 火事だ!」
 どんどんどんどん……。
 リュイセンは力いっぱい、扉を叩く。
 非常ベルの音は、研究室の中にまで届いていたのだろう。リュイセンが叫ぶまでもなく、〈|蝿《ムスカ》〉は外に出ようとしていたらしい。――そんなタイミングで、扉が開かれた。
 暗い地下通路に、部屋の明かりが差し込んだ。
 逆光に沈んだ〈|蝿《ムスカ》〉の姿が幽鬼のように浮かび上がる。しかし、リュイセンは構わずに室内に目を走らせた。
「メイシア!」
 硬質な白い床に、長い黒絹の髪が広がっていた。|瞼《まぶた》を閉じ、仰向けに倒れた顔は蒼白で、喉元には締められたような指の跡がくっきりと赤く残っている。
 リュイセンは、取っ手を掴んだままの〈|蝿《ムスカ》〉を突き飛ばし、メイシアのもとへ駆け寄った。
「メイシア! 大丈夫か!」
 膝を付き、そっと体を起こす。彼女は小さく咳き込んで、やがて薄目を開けた。
「リュイセン……?」
「メイシア! よかった……」
 苦しげではあるが、ちゃんと意識がある。リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろす。
 と同時に、ゆっくりと近づいてくる白衣の影が、彼らのそばまで伸びてきた。黒い陰りに呑まれるよりも先に、リュイセンはメイシアを庇うように立ち上がる。
〈|蝿《ムスカ》〉とメイシアの間で、何があったのかは分からない。けれど、〈|蝿《ムスカ》〉が非道を働いた。そのことに間違いはない。
 ――この男は『悪』だ。滅ぼすべき相手だ。
 ミンウェイを不幸に陥れ、メイシアにも危害を及ぼす。
 |艷《つや》やかな黒髪を逆立たせ、若き狼が牙をむく。
 愛刀を取り戻してから〈|蝿《ムスカ》〉と対峙するつもりだった。
 敵の本拠地ともいえる、この研究室では、どんな不測の事態が起こるか分からない。得体のしれない薬物でも持ち出されたら、一瞬にして不利になるだろう。
 しかし、ここで見過ごすなどあり得ない。
 素手でいい。〈|蝿《ムスカ》〉を|縊《くび》り殺す。
 リュイセンの殺気が膨れ上がった。
 重心を移し、まさに飛びかかろうとした――その瞬間だった。
「ほう……」
 よく通る〈|蝿《ムスカ》〉の低音が|機先《きせん》を制した。
 揶揄するような、尻上がりの軽い響き。――しかし、研ぎ澄まされすぎたリュイセンの神経には、充分すぎるほどの|妨害《ノイズ》だった。
「――っ!」
 リュイセンは、たたらを踏む。
「なるほど。非常ベルを鳴らしたのは、あなたというわけですね」
 リュイセンから発せられる、魂が凍りつきそうなほどの殺気を浴びながらも、〈|蝿《ムスカ》〉はいつもと変わらぬ調子で嗤った。そして、あろうことか、リュイセンの脇を平然とすり抜け、床にうずくまるメイシアのそばにしゃがみ込んだのだ。
「〈|蝿《ムスカ》〉!?」
 リュイセンが慌てて振り返ると、〈|蝿《ムスカ》〉は後ずさるメイシアの手首を強引に取り、彼女の脈をとっていた。どうやら医者として容態を診ているらしい。
 白衣の背中が、無防備に晒されている。
 しかし、リュイセンは拳を握りしめ、その手を力なく下ろした。
 今ここでやりあえば、確実にメイシアを巻き込む。〈|蝿《ムスカ》〉はそれを示唆したのだ。
「特に異常はありません。――私としたことが、つい話に夢中になってしまいましたね」
〈|蝿《ムスカ》〉は悪びれもせずにメイシアにそう言うと、すっと立ち上がり、リュイセンを睥睨した。
 反射的に身構えたリュイセンに、〈|蝿《ムスカ》〉は不気味な嗤いを漏らす。
 ……だがそれは、実のところ、〈|蝿《ムスカ》〉の虚勢だった。
 扉を開けた瞬間に、〈|蝿《ムスカ》〉はリュイセンが何をしたのかを理解した。だから、リュイセンが次に取る行動を容易に想像できた。
 すなわち。
 倒れているメイシアを見れば、リュイセンは激昂する。そして、〈|蝿《ムスカ》〉に敵意を――否、殺意を|抱《いだ》く。
 メイシアに危害が加えられただけなら、殺意に至るまでの憎悪にはならないだろう。しかし、〈ベラドンナ〉に愛を注いでいるリュイセンは、もともと〈|蝿《ムスカ》〉が憎くてたまらない。〈|蝿《ムスカ》〉に脅迫されていることを忘れ、一時的に|箍《たが》が外れても不思議ではない。
 リュイセンが本気で歯向かえば、〈|蝿《ムスカ》〉にまず勝ち目はない。
 だから〈|蝿《ムスカ》〉は、リュイセンの殺意を削ぐべく、動じない態度という先手を打ったのだ。リュイセンの熱い血も、機を逃せば冷めるだろう。何しろ〈|蝿《ムスカ》〉には、〈ベラドンナ〉の『秘密』という盾があるのだから――と。
 ――しかし。
 リュイセンに対しては冷静に対処できる〈|蝿《ムスカ》〉も、自分自身の感情に関しては違っていた。
 内心では、必死に動揺を隠していた。
 正直なところ、彼は非常ベルの音に救われたと思っていたのだ。
『鷹刀セレイエ』の記憶を持つメイシアは、絶対に手放してはならない切り札。もしも怒りに身を任せ、衝動で殺していたら、彼は大事な手札を失うところだった。自分の落ち度で取り返しのつかない事態となれば、悔やんでも悔やみきれない。
 リュイセンの邪魔が、結果として役に立ったからだろう。いつもなら楯突くような真似をした相手を決して許さない〈|蝿《ムスカ》〉が、リュイセンを軽くいなしただけで、報復を忘れていた。――そのくらい動転していたのである。
「もう昼ですか」
 まるで世間話のような調子で発した言葉の裏に、〈|蝿《ムスカ》〉は『命拾いしましたね』という、メイシアへの嫌味を含ませる。
 勿論、そんなことはリュイセンには分からない。
 ただ、ともかくメイシアを安全なところに連れて行くべきだと、彼は思った。〈|蝿《ムスカ》〉の|首級《くび》は、おあずけだ。
「小娘。あなたが話したことについて、私は冷静に考える必要がありそうです。……続きは明日にしましょう」
 視線を下げ、まだ床に座り込んだままのメイシアへと〈|蝿《ムスカ》〉が声を掛ける。
 その際、向き合って立っていたリュイセンには、〈|蝿《ムスカ》〉の眉間に刻まれた皺が妙にくっきりと見えた。色あせた白髪頭も精彩を欠き、随分と弱気な〈|蝿《ムスカ》〉に彼は首をかしげる。
 しかし、そんな疑問は、〈|蝿《ムスカ》〉の次の台詞を聞いた瞬間に、どうでもよくなった。
「……ミンウェイの記憶を手に入れたとしても、それは彼女が亡くなったときの年齢のもの――また二十歳にもならない少女のものなのですよ。その記憶を、そこの硝子ケースの『ミンウェイ』に入れるなど、酷いことです」
「……っ!」
 メイシアが鋭く息を呑んだ。細い指が口元を押さえるが、体は小刻みに震え、黒曜石の瞳が罪悪感に染まる。
「――だからといって、その記憶のために新しく若い肉体を作ったとして……、二十歳にもならない娘に、この老いた肉体の私のそばにいてくれ、と言うのですか……?」
 静かに吐き出された言葉は、慟哭の裏返し……。
「続きは明日です。――出ていってください」
 念を押すように繰り返し、〈|蝿《ムスカ》〉は白衣を翻しながら研究室の奥へと歩いていく。その先の|衝立《ついたて》の向こうに『ミンウェイ』がいる。リュイセンは、そう察した。
 そして、そのとき。
 リュイセンは……苛立ちを――怒りを覚えていた。
〈|蝿《ムスカ》〉が、この研究室でメイシアに何をさせようとしているのかは分からない。
 しかし、今の〈|蝿《ムスカ》〉の言動は、亡くした妻への深い想いだ。
『娘』のミンウェイを、さんざん妻の代わりにしておきながら、それでも〈|蝿《ムスカ》〉は永遠に妻を想い続けるのだ。
 ――許せねぇ……。
「リュイセン……?」
 ぎこちなく立ち上がったメイシアが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ……、いや……」
 リュイセンは奥歯を噛み、ぐっとこらえる。
 今はまだ、動くべきときではない。夜だ。
 今宵――。
 就寝のために、この研究室を出たときが奴の最期だ。
「メイシア、行こう」
 ここに長居をする理由はない。彼はメイシアを伴い、部屋を出た。