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夏休みの最終日

ー/ー



三人で食べた最後の昼食から少し後、ふと冷蔵庫を覗いたら、未開封のラムネ瓶が十本、冷やされていた。祖母に聞くと、スーパーで安く売られていたから、まとめて買ってきたらしい。

「……彩織ちゃん、飲むん?」

「うん。あやめちゃんと一緒に飲もうかなって」

「おー……太っ腹だねっ。ありがとっ」

  冷蔵庫の前に集まりながら、居間の祖父母には聞こえない程度の声で話す。冷気がずっと頬を撫でて気持ちよかった。ちなみに駄菓子屋で買ったカルパスは、あっという間になくなっている。こういう時は絶対に小夜が裏で食べ尽くしたり……。

「冷蔵庫が冷えなくなるからあまり開けとくんじゃないよ!」

「はーい。おばあちゃんさ、このラムネ二本もらっていい?」

「いいよ、好きに持ってきな。いっぱい買ってきたから」

  冷えた瓶を握る手が、浮かぶ水滴に濡らされる。それだけビニール袋に入れて、僕は一瞥するようにあやめを見た。

「彩織ちゃん、どっか行くん?」

「あやめちゃん家。のんびりしてたいから」

  彼女の手をそっと引いて、玄関に向かう。小夜もそのままついてきて、眺めるように後ろ姿を見つめていた。僕たちが履物を履いても、それ以上ついてくる素振りは見せなかった。

「……小夜も行く?」

「ううん、もう邪魔したくないから、ここでええわ」

「じゃあせめて、道のとこまで行こうよ」

  頷く彼女と、嬉しそうに顔を綻ばせるあやめ。カランコロンと鳴く戸の音が、今日は特に澄み渡っていた。三人分の靴音も重なって、降り注ぐ日射しはやはり、底抜けに眩しい。

  家を出て、アスファルトを踏んだ。

「じゃあ、ウチはここで」

  軽快な小夜の声だけが、この昊天に融けていくようだった。紺青の空を、普段と何も変わらない入道雲が昇っている。

「あの、あやめちゃんさ──本当に、ありがとね。こういう形だけど、話せて嬉しかった。あやめちゃんのおかげで頑張れるし、絶対、無駄になんないように生きようって思ったんよ。失望されるようなことはせんから……見守ってくれると、いいなって」

  そう言って、気恥ずかしそうに笑う。一瞬だけアスファルトに落とした視線をすぐに上げると、まるであやめの答えを待つように、じっと、見えないはずのそこを見つめていた。

「うんっ、当たり前だよねぇ」

  届かない声を洩らしながら、あやめは一歩、二歩と近づいていく。そのまま小夜の身体を抱きしめると、小さくはにかんだ。

「……やっぱり、あやめちゃん、あったかいな」

  夏の暑さを抱え込むように、或いは夏そのものをしまい込むように、彼女はそれを抱き返す。懐かしそうな微笑。眦に溜まりかけた紅涙の、玻璃みたいな美しさ。けれども小夜はそれを自分で拭って、あやめには見せまいと、強がっていた。

  ──やがて、小夜のほうから手をほどく。額に滲む汗が煌めく。向こうに立つ陽炎が、夢心地のように揺らいでいる。それを無理やり引き戻すように、彼女はあやめと目線を合わせた。

「なぁ、あやめちゃん」

「……うん」

「また来年、会いに行くわ」

「……えへ、了解」

  小夜には、今のあやめがどんな顔をしているか、きっと分かっているのだろう。片方は盛夏のように吹っ切れた笑みで、もう片方は、晩夏の儚さにも似た、少しだけ控えめな笑み。それでも笑って終わらせるのがいいのだと、お互い、分かっていた。

「彩織ちゃん。あやめちゃんのこと、よろしくな」

「うん、任せて」

「じゃ、そういうことで。あやめちゃん、またなっ」

  手を振って、振り返す。そこを一瞬だけ眺めてから、駆けるように玄関へと戻った。今まで小夜がいた空間そのものが、晩夏の熱気に融和してしまうのが、目に見えて分かる気がした。

「……じゃあ、行こっか、彩織ちゃん」

  名残惜しそうな笑みが、僕を見上げる。繋いだ手のひらが、少し湿っている。数歩ほど歩いて、ふと振り返った。

  ──涙の跡が、アスファルトに消える寸前だった。

 



「……あ、曼珠沙華」

  僕があやめの髪飾りを眺めているのと、彼女がそう洩らしたのは、ほぼ同時だった。線路沿いにいよいよ咲き始めた紅い曼珠沙華が、帯のように連なっている。一つ、二つ、と咲いていた少し前を思うと、本格的に夏が終わるんだなと寂しくなった。

「やっぱり、あのくらい赤くないとねっ」

「……そうだね。鮮やかなほうが綺麗だもん」

「一本だけ、持ってっていい?」

「いいけど……何に使うの?」

「えへへ、最後までのお楽しみってやつ」

  悪戯っぽく笑いながら、あやめは線路沿いへと向かう。そのまま品定めするように曼珠沙華の大群を見回すと、ひときわ小さい、けれどひときわ鮮やかなものを、優しく手折った。

「それがいいの?」

「うんっ」

  僕はビニール袋にラムネ瓶を入れて、あやめは曼珠沙華を持って、けれどその間は、握りしめた手で繋がれている。少しだけ汗ばんだ手。少しだけ火照った手。柔らかくて、温かな。

  白い眩しさに目を細めながら、ふと気づく。

「あやめちゃん、今日は麦わら帽子、かぶらなかったの?」

「だって、眩しいほうが、目が見えるって感じするもんね」

  いつも通りの、向日葵のような笑み。もう一度だけ顔を上げると、さっきと変わらない入道雲が昇っていた。アスファルトから立つ熱気が肌に滲んで、そのせいか、胸の奥まで熱くなるような気がする。零れた笑みを、あやめが不思議そうに見た。

「お家に行くのも、久しぶりな気がするねぇ」

「ここ何日か、ずっと行ってなかったもんね」

「うんっ。やっぱりお家がいちばん落ち着くかも」

  頭上に生える枝葉の影が、坂ばいのアスファルトに落ちている。夏の木漏れ日も、至るところを照らしている。そこを踏まないように歩きながら、視界の端にかかる眩しさに目を細めた。蝉時雨の勢いも、一週間前よりは、大人しくなってしまった。

「いぇーい、到着っ」

あやめは家に戻るや否や、僕の手を引っ張りながら縁側に座る。いつものように「彩織ちゃんはここね」と、隣を叩いた。この感覚も、たった数日なのに、随分と久しぶりな気がする。

「やっぱり、最後はこの家だねっ」

  子供のように無邪気な笑顔が、黒髪を揺らす。曼珠沙華の髪飾りも陽光に燦々と瞬いて、とびきりご機嫌に思えた。

  焼けて熱い縁台も気にせず、あやめは足を揺らしている。見慣れたサンダルが、残影を伴って動いている。純白のワンピースが、風をはらんで膨らんでいる。曼珠沙華が、変わらない鮮やかさのまま、昊天を仰いでいる。手は、離していない。

「夕方くらいまでは、たぶん、ゆっくりしてられるよ」

「そっか。……なにする?」

「こういう時はねぇ、やっぱり、昔話っ!」

「絶対に泣くからやめよう」

  得意げなあやめの提案を却下する。「えー……」と残念そうな横顔を眺めながら、代替案はないものかと考えてみた。ふと居間のなかを覗くと、数日前の状態で、布団が敷きっぱなしになっている。あやめが起きてそのままだったのだろう。

「暑いから、せめて中に入らない?  布団あるし」

「おー……。じゃあ、そうしよっか」

「それじゃ、お布団にダーイブっ」

  手にしていた曼珠沙華を放り投げながら、子供のように布団の上ではしゃぐ。呆れたものだと思いつつも、最後の最後までこんな調子なら、むしろありがたいとさえ思った。例の曼珠沙華に関しては、どうして取ったのかさえ、分からないけれど。

「彩織ちゃん、こっち」

  手持ちを一緒にまとめたところで、服の袖を引っ張られる。あやめの隣に寝転ぶと、開けっ放しの戸の向こうに、ずっと広がる夏空が見えた。吸い込まれてしまいそうなほど、青かった。

  それを遮るように、少女の顔がひょいと現れる。えへへ、とだらしなく笑うのはいつものことで、僕の伸ばした腕を枕代わりに、あやめはやや上目遣いになりながら、口を開いた。

「……私、ずっと彩織ちゃんのこと好きだったからさ、いつかは恋人になるのかなって思ってた。でも、子供だったから、具体的に何するか分かんなかったんだ。小学校の時までね」

「やっぱり……中学生になると、意識しちゃった?」

「うん。こんな村だから、噂とかはすぐに回るし。私は……彩織ちゃん以外に、縁とかなかったから。あっ、でもっ、この夏に会ってからずっとそういうこと考えてたわけじゃないよっ」

  誤解されないように弁明してくるのが可愛くて、「分かってるよ」と言いながら、無意識的に抱き寄せてしまう。こういうことができるようになったのも、恋人になったおかげだった。

  この夏は、色々なことが変わった夏だ。環境、関係、境遇。成り行きで一線を越えたのも、そのなかに含めたっていい。

「プラトニックとか言いながら、昨日、結局しちゃったねっ」

「……雰囲気とノリで進めちゃった感あったよね」

「でもまぁ、彩織ちゃん、やっぱり優しかったよ」

ぽつりと零した言葉のなかに、小さな嬉しさが滲んでいる。蕩けたように目を細めるあやめの、逆光になったその姿がはっきりと見えることに、僕は堪らないほどの愛おしさを感じていた。

「……どっちのほうが引きずるのかなって、彩織ちゃんとお話してさ、ちょっと考えてみたんだよ。でもどうせ、どっちも引きずることになるから、思い出を増やすくらいはいいかなって」

  それにね、と彼女は続ける。

「現実的な話、彩織ちゃんはこの後も、ずっと一人で生きてくわけじゃないもん。私のことは覚えてても、きっと、他のパートナーさんができるんだよ。小夜ちゃんとか、いい子だよ」

「……なんで、いま他の子の名前を出すわけ」

「ごめんね。でも怒んないで聞いてほしいの。彩織ちゃんが私のこと大好きなのは知ってるよ。私だって大好きだよ。だけどさ、いつまででも一途じゃいられない時だってあるよ」

  ……分かっているはずだった。だった、のに、あやめからそれを言われると、これだけ辛いのはなぜなのだろうか。心臓が締め付けられるような、そんな痛みが続いて消える気配もない。

  目の前の少女は、いつになく真剣な眼差しで、黒曜石のようなあの瞳も、澄み切って凛としている。瞳の奥に深さを兼ね備えているんだと、気圧されるような雰囲気に気付かされた。

「あらかじめ言っておくね。私のことは……早いうちに、思い出にしてほしいんだ。いつまでも、そこに縋るのはダメだよ。けど、彩織ちゃんのことだから、それが難しいのは分かってる。他の女の子になんて、見向きもしないって、絶対に言えるもん」

  僕の服の裾を掴みながら、あやめはずっと、目を逸らさないでいた。それが彼女自身の覚悟だと、言外に告げているようで──やっぱり、あやめちゃんは強いな、と、そう思った。

「だから、小夜にってこと?  本人にも言われたよ」

「……やっぱり、小夜ちゃんも分かってたんだね」

  伏し目がちに呟いて、それから一瞬、静寂に戻る。耳が痛くなりそうな森閑のなかに、遠い蝉時雨と軽風の音がした。

「彩織ちゃんがいちばん気を許してるのって、私以外だと、小夜ちゃんしかいないよね。……別に、無理に恋人になれって言ってるわけじゃないよ。でも、そうじゃなければ、彩織ちゃんはずっと一人ぼっちになっちゃう気がして……。それだけは嫌なんだよ。だから、隣にいてくれる人は、いたほうがいいよ」

  訴えかけるような、諭すような、それでも、少しだけ無理をしているみたいな──少女の儚い笑みが、目の前で咲く。

  自分の恋人と別れることが決まっているのに、それだけでも辛いはずなのに、僕のことだけを案じて、あやめは現実的な心配だけをしてくれる。いや、辛いからこそ──いちばん傷の少ない可能性を提示しているのだと、そのことに今、気付いた。

「……小夜ちゃんはね、いい子だよ。優しくて、友達思いで、明るい子だよ。ただ、ちょっとだけ……自分で抱え込んじゃうところがあるから、そこは、しっかりケアしてあげてほしいな。私は本当に何も気にしてないんだって、何回も言ってきたけど──やっぱり、負い目は感じてると思うから。……お願い」

  ふと、あの時に言っていた小夜の言葉を思い出した。僕たちは『同じ穴のムジナ』のようなもので、彼女からすれば、それは『責任と贖罪』でもある。あやめはきっと、そんなことは思っていないだろうけど──まるで傷の舐め合いみたいな気がした。

「後追いなんてしたら、許さないからね」

「……分かってるよ、そのくらい」

  聞いたこともない低い声が、彼女の本気を示唆していた。どんな表情をしているかは見たくないから、また空を仰ぐ。

  ……仮に小夜がパートナーになったとして、それから一生続く傷の舐め合いが、果たして贖罪になるのだろうか。そんな僕の心境を見透かしているかのように、あやめは言う。

「あの……彩織ちゃんも、小夜ちゃんも、すっごく辛いのは分かるよ。でもそのままじゃ、私が安心できないんだよ。一生このままでいてほしくないの。だから、二人が一緒になったとしてもね──私に悪いと思ってるなら、せめて、楽しんで生きて。私のせいで、重荷を背負って生きないで。私のぶんまでさ……っ」

  彼女が裾をさらに強く握るのが分かった。逃げるように僕の胸元へと顔を埋めて、文句の一つでも言いたそうに、額を押し付けてくる。声は何も聞こえなかった。身体は少し震えていた。

  ──僕は、僕自身で自分を許せていなくても、あやめを信じきれていないのだろうか。限りなく本心に近いと分かっていても、どこかで罪悪感が邪魔をしてしまっていた。それは一種の呪いのような、死んでも解けないもののように思える。

「……分かった、約束する。あやめちゃんに迷惑はかけたくないから。小夜も同じこと言ってたし、一緒に頑張るよ」

「うん……。私はずっと、応援してあげるから」

  少しだけ弾んだ、けれどくぐもった声が、胸元で小さく響く。

さっきよりも強く抱き寄せた。確かに存在するその温もりを忘れないように、手のひらと指先で、優しく撫でた。穏やかな脈拍が、悠然とした時間の波を刻んでいく。それはやがて泡沫に変わって、紺青の空に吸い込まれていくように思えた。

手触りのいい髪は、わずかに汗の玉が煌めいている。火照った肌は、瑞々しさを残している。外から煙る土草の匂いが、遠くを微かに香った蚊取り線香のそれと、綯い交ぜになっていた。

「ねぇ、あやめちゃん」

  顔を上げたところに、ふと口付ける。ひんやりしていた。そんな感覚がどれほど続いたかは分からない。ただ、息継ぎのために唇を離した。目元も、口元も、愛らしく綻んでいた。

  暑さに朦朧としかけたなかで、二度目のキスをする。少女の目蓋が軽く震える。どうしてまた、こんなことをしているんだろうかと、ふと思った。理由はない。最初からなかった。

「えへへ……ばっちぃ」

  唾液が軽く糸を引く。あやめはそれをワンピースの裾で拭うと、一点だけ汚されて、色が変わって染みになった。

「……あっちいから、ついでに脱いじゃうね」

  悪戯っぽく笑いながら、拭ったばかりの裾をまくり上げる。白い下着が涼しそうで、何がなしに、いいなと思った。汗ばんだ肌に触れる風が心地よいのか、布団を足で扇ぎ始める。けれど、繋いだ手はやはり熱くて、それはそれで安心する。

「──忘れられないくらい、お願いしますっ」

  上目に僕を見るあやめの表情が、これ以上ないほどに愛おしかった。せめて、感触の断片でも覚えていようと、そう決めた。


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みんなのリアクション

三人で食べた最後の昼食から少し後、ふと冷蔵庫を覗いたら、未開封のラムネ瓶が十本、冷やされていた。祖母に聞くと、スーパーで安く売られていたから、まとめて買ってきたらしい。
「……彩織ちゃん、飲むん?」
「うん。あやめちゃんと一緒に飲もうかなって」
「おー……太っ腹だねっ。ありがとっ」
  冷蔵庫の前に集まりながら、居間の祖父母には聞こえない程度の声で話す。冷気がずっと頬を撫でて気持ちよかった。ちなみに駄菓子屋で買ったカルパスは、あっという間になくなっている。こういう時は絶対に小夜が裏で食べ尽くしたり……。
「冷蔵庫が冷えなくなるからあまり開けとくんじゃないよ!」
「はーい。おばあちゃんさ、このラムネ二本もらっていい?」
「いいよ、好きに持ってきな。いっぱい買ってきたから」
  冷えた瓶を握る手が、浮かぶ水滴に濡らされる。それだけビニール袋に入れて、僕は一瞥するようにあやめを見た。
「彩織ちゃん、どっか行くん?」
「あやめちゃん家。のんびりしてたいから」
  彼女の手をそっと引いて、玄関に向かう。小夜もそのままついてきて、眺めるように後ろ姿を見つめていた。僕たちが履物を履いても、それ以上ついてくる素振りは見せなかった。
「……小夜も行く?」
「ううん、もう邪魔したくないから、ここでええわ」
「じゃあせめて、道のとこまで行こうよ」
  頷く彼女と、嬉しそうに顔を綻ばせるあやめ。カランコロンと鳴く戸の音が、今日は特に澄み渡っていた。三人分の靴音も重なって、降り注ぐ日射しはやはり、底抜けに眩しい。
  家を出て、アスファルトを踏んだ。
「じゃあ、ウチはここで」
  軽快な小夜の声だけが、この昊天に融けていくようだった。紺青の空を、普段と何も変わらない入道雲が昇っている。
「あの、あやめちゃんさ──本当に、ありがとね。こういう形だけど、話せて嬉しかった。あやめちゃんのおかげで頑張れるし、絶対、無駄になんないように生きようって思ったんよ。失望されるようなことはせんから……見守ってくれると、いいなって」
  そう言って、気恥ずかしそうに笑う。一瞬だけアスファルトに落とした視線をすぐに上げると、まるであやめの答えを待つように、じっと、見えないはずのそこを見つめていた。
「うんっ、当たり前だよねぇ」
  届かない声を洩らしながら、あやめは一歩、二歩と近づいていく。そのまま小夜の身体を抱きしめると、小さくはにかんだ。
「……やっぱり、あやめちゃん、あったかいな」
  夏の暑さを抱え込むように、或いは夏そのものをしまい込むように、彼女はそれを抱き返す。懐かしそうな微笑。眦に溜まりかけた紅涙の、玻璃みたいな美しさ。けれども小夜はそれを自分で拭って、あやめには見せまいと、強がっていた。
  ──やがて、小夜のほうから手をほどく。額に滲む汗が煌めく。向こうに立つ陽炎が、夢心地のように揺らいでいる。それを無理やり引き戻すように、彼女はあやめと目線を合わせた。
「なぁ、あやめちゃん」
「……うん」
「また来年、会いに行くわ」
「……えへ、了解」
  小夜には、今のあやめがどんな顔をしているか、きっと分かっているのだろう。片方は盛夏のように吹っ切れた笑みで、もう片方は、晩夏の儚さにも似た、少しだけ控えめな笑み。それでも笑って終わらせるのがいいのだと、お互い、分かっていた。
「彩織ちゃん。あやめちゃんのこと、よろしくな」
「うん、任せて」
「じゃ、そういうことで。あやめちゃん、またなっ」
  手を振って、振り返す。そこを一瞬だけ眺めてから、駆けるように玄関へと戻った。今まで小夜がいた空間そのものが、晩夏の熱気に融和してしまうのが、目に見えて分かる気がした。
「……じゃあ、行こっか、彩織ちゃん」
  名残惜しそうな笑みが、僕を見上げる。繋いだ手のひらが、少し湿っている。数歩ほど歩いて、ふと振り返った。
  ──涙の跡が、アスファルトに消える寸前だった。
 
「……あ、曼珠沙華」
  僕があやめの髪飾りを眺めているのと、彼女がそう洩らしたのは、ほぼ同時だった。線路沿いにいよいよ咲き始めた紅い曼珠沙華が、帯のように連なっている。一つ、二つ、と咲いていた少し前を思うと、本格的に夏が終わるんだなと寂しくなった。
「やっぱり、あのくらい赤くないとねっ」
「……そうだね。鮮やかなほうが綺麗だもん」
「一本だけ、持ってっていい?」
「いいけど……何に使うの?」
「えへへ、最後までのお楽しみってやつ」
  悪戯っぽく笑いながら、あやめは線路沿いへと向かう。そのまま品定めするように曼珠沙華の大群を見回すと、ひときわ小さい、けれどひときわ鮮やかなものを、優しく手折った。
「それがいいの?」
「うんっ」
  僕はビニール袋にラムネ瓶を入れて、あやめは曼珠沙華を持って、けれどその間は、握りしめた手で繋がれている。少しだけ汗ばんだ手。少しだけ火照った手。柔らかくて、温かな。
  白い眩しさに目を細めながら、ふと気づく。
「あやめちゃん、今日は麦わら帽子、かぶらなかったの?」
「だって、眩しいほうが、目が見えるって感じするもんね」
  いつも通りの、向日葵のような笑み。もう一度だけ顔を上げると、さっきと変わらない入道雲が昇っていた。アスファルトから立つ熱気が肌に滲んで、そのせいか、胸の奥まで熱くなるような気がする。零れた笑みを、あやめが不思議そうに見た。
「お家に行くのも、久しぶりな気がするねぇ」
「ここ何日か、ずっと行ってなかったもんね」
「うんっ。やっぱりお家がいちばん落ち着くかも」
  頭上に生える枝葉の影が、坂ばいのアスファルトに落ちている。夏の木漏れ日も、至るところを照らしている。そこを踏まないように歩きながら、視界の端にかかる眩しさに目を細めた。蝉時雨の勢いも、一週間前よりは、大人しくなってしまった。
「いぇーい、到着っ」
あやめは家に戻るや否や、僕の手を引っ張りながら縁側に座る。いつものように「彩織ちゃんはここね」と、隣を叩いた。この感覚も、たった数日なのに、随分と久しぶりな気がする。
「やっぱり、最後はこの家だねっ」
  子供のように無邪気な笑顔が、黒髪を揺らす。曼珠沙華の髪飾りも陽光に燦々と瞬いて、とびきりご機嫌に思えた。
  焼けて熱い縁台も気にせず、あやめは足を揺らしている。見慣れたサンダルが、残影を伴って動いている。純白のワンピースが、風をはらんで膨らんでいる。曼珠沙華が、変わらない鮮やかさのまま、昊天を仰いでいる。手は、離していない。
「夕方くらいまでは、たぶん、ゆっくりしてられるよ」
「そっか。……なにする?」
「こういう時はねぇ、やっぱり、昔話っ!」
「絶対に泣くからやめよう」
  得意げなあやめの提案を却下する。「えー……」と残念そうな横顔を眺めながら、代替案はないものかと考えてみた。ふと居間のなかを覗くと、数日前の状態で、布団が敷きっぱなしになっている。あやめが起きてそのままだったのだろう。
「暑いから、せめて中に入らない?  布団あるし」
「おー……。じゃあ、そうしよっか」
「それじゃ、お布団にダーイブっ」
  手にしていた曼珠沙華を放り投げながら、子供のように布団の上ではしゃぐ。呆れたものだと思いつつも、最後の最後までこんな調子なら、むしろありがたいとさえ思った。例の曼珠沙華に関しては、どうして取ったのかさえ、分からないけれど。
「彩織ちゃん、こっち」
  手持ちを一緒にまとめたところで、服の袖を引っ張られる。あやめの隣に寝転ぶと、開けっ放しの戸の向こうに、ずっと広がる夏空が見えた。吸い込まれてしまいそうなほど、青かった。
  それを遮るように、少女の顔がひょいと現れる。えへへ、とだらしなく笑うのはいつものことで、僕の伸ばした腕を枕代わりに、あやめはやや上目遣いになりながら、口を開いた。
「……私、ずっと彩織ちゃんのこと好きだったからさ、いつかは恋人になるのかなって思ってた。でも、子供だったから、具体的に何するか分かんなかったんだ。小学校の時までね」
「やっぱり……中学生になると、意識しちゃった?」
「うん。こんな村だから、噂とかはすぐに回るし。私は……彩織ちゃん以外に、縁とかなかったから。あっ、でもっ、この夏に会ってからずっとそういうこと考えてたわけじゃないよっ」
  誤解されないように弁明してくるのが可愛くて、「分かってるよ」と言いながら、無意識的に抱き寄せてしまう。こういうことができるようになったのも、恋人になったおかげだった。
  この夏は、色々なことが変わった夏だ。環境、関係、境遇。成り行きで一線を越えたのも、そのなかに含めたっていい。
「プラトニックとか言いながら、昨日、結局しちゃったねっ」
「……雰囲気とノリで進めちゃった感あったよね」
「でもまぁ、彩織ちゃん、やっぱり優しかったよ」
ぽつりと零した言葉のなかに、小さな嬉しさが滲んでいる。蕩けたように目を細めるあやめの、逆光になったその姿がはっきりと見えることに、僕は堪らないほどの愛おしさを感じていた。
「……どっちのほうが引きずるのかなって、彩織ちゃんとお話してさ、ちょっと考えてみたんだよ。でもどうせ、どっちも引きずることになるから、思い出を増やすくらいはいいかなって」
  それにね、と彼女は続ける。
「現実的な話、彩織ちゃんはこの後も、ずっと一人で生きてくわけじゃないもん。私のことは覚えてても、きっと、他のパートナーさんができるんだよ。小夜ちゃんとか、いい子だよ」
「……なんで、いま他の子の名前を出すわけ」
「ごめんね。でも怒んないで聞いてほしいの。彩織ちゃんが私のこと大好きなのは知ってるよ。私だって大好きだよ。だけどさ、いつまででも一途じゃいられない時だってあるよ」
  ……分かっているはずだった。だった、のに、あやめからそれを言われると、これだけ辛いのはなぜなのだろうか。心臓が締め付けられるような、そんな痛みが続いて消える気配もない。
  目の前の少女は、いつになく真剣な眼差しで、黒曜石のようなあの瞳も、澄み切って凛としている。瞳の奥に深さを兼ね備えているんだと、気圧されるような雰囲気に気付かされた。
「あらかじめ言っておくね。私のことは……早いうちに、思い出にしてほしいんだ。いつまでも、そこに縋るのはダメだよ。けど、彩織ちゃんのことだから、それが難しいのは分かってる。他の女の子になんて、見向きもしないって、絶対に言えるもん」
  僕の服の裾を掴みながら、あやめはずっと、目を逸らさないでいた。それが彼女自身の覚悟だと、言外に告げているようで──やっぱり、あやめちゃんは強いな、と、そう思った。
「だから、小夜にってこと?  本人にも言われたよ」
「……やっぱり、小夜ちゃんも分かってたんだね」
  伏し目がちに呟いて、それから一瞬、静寂に戻る。耳が痛くなりそうな森閑のなかに、遠い蝉時雨と軽風の音がした。
「彩織ちゃんがいちばん気を許してるのって、私以外だと、小夜ちゃんしかいないよね。……別に、無理に恋人になれって言ってるわけじゃないよ。でも、そうじゃなければ、彩織ちゃんはずっと一人ぼっちになっちゃう気がして……。それだけは嫌なんだよ。だから、隣にいてくれる人は、いたほうがいいよ」
  訴えかけるような、諭すような、それでも、少しだけ無理をしているみたいな──少女の儚い笑みが、目の前で咲く。
  自分の恋人と別れることが決まっているのに、それだけでも辛いはずなのに、僕のことだけを案じて、あやめは現実的な心配だけをしてくれる。いや、辛いからこそ──いちばん傷の少ない可能性を提示しているのだと、そのことに今、気付いた。
「……小夜ちゃんはね、いい子だよ。優しくて、友達思いで、明るい子だよ。ただ、ちょっとだけ……自分で抱え込んじゃうところがあるから、そこは、しっかりケアしてあげてほしいな。私は本当に何も気にしてないんだって、何回も言ってきたけど──やっぱり、負い目は感じてると思うから。……お願い」
  ふと、あの時に言っていた小夜の言葉を思い出した。僕たちは『同じ穴のムジナ』のようなもので、彼女からすれば、それは『責任と贖罪』でもある。あやめはきっと、そんなことは思っていないだろうけど──まるで傷の舐め合いみたいな気がした。
「後追いなんてしたら、許さないからね」
「……分かってるよ、そのくらい」
  聞いたこともない低い声が、彼女の本気を示唆していた。どんな表情をしているかは見たくないから、また空を仰ぐ。
  ……仮に小夜がパートナーになったとして、それから一生続く傷の舐め合いが、果たして贖罪になるのだろうか。そんな僕の心境を見透かしているかのように、あやめは言う。
「あの……彩織ちゃんも、小夜ちゃんも、すっごく辛いのは分かるよ。でもそのままじゃ、私が安心できないんだよ。一生このままでいてほしくないの。だから、二人が一緒になったとしてもね──私に悪いと思ってるなら、せめて、楽しんで生きて。私のせいで、重荷を背負って生きないで。私のぶんまでさ……っ」
  彼女が裾をさらに強く握るのが分かった。逃げるように僕の胸元へと顔を埋めて、文句の一つでも言いたそうに、額を押し付けてくる。声は何も聞こえなかった。身体は少し震えていた。
  ──僕は、僕自身で自分を許せていなくても、あやめを信じきれていないのだろうか。限りなく本心に近いと分かっていても、どこかで罪悪感が邪魔をしてしまっていた。それは一種の呪いのような、死んでも解けないもののように思える。
「……分かった、約束する。あやめちゃんに迷惑はかけたくないから。小夜も同じこと言ってたし、一緒に頑張るよ」
「うん……。私はずっと、応援してあげるから」
  少しだけ弾んだ、けれどくぐもった声が、胸元で小さく響く。
さっきよりも強く抱き寄せた。確かに存在するその温もりを忘れないように、手のひらと指先で、優しく撫でた。穏やかな脈拍が、悠然とした時間の波を刻んでいく。それはやがて泡沫に変わって、紺青の空に吸い込まれていくように思えた。
手触りのいい髪は、わずかに汗の玉が煌めいている。火照った肌は、瑞々しさを残している。外から煙る土草の匂いが、遠くを微かに香った蚊取り線香のそれと、綯い交ぜになっていた。
「ねぇ、あやめちゃん」
  顔を上げたところに、ふと口付ける。ひんやりしていた。そんな感覚がどれほど続いたかは分からない。ただ、息継ぎのために唇を離した。目元も、口元も、愛らしく綻んでいた。
  暑さに朦朧としかけたなかで、二度目のキスをする。少女の目蓋が軽く震える。どうしてまた、こんなことをしているんだろうかと、ふと思った。理由はない。最初からなかった。
「えへへ……ばっちぃ」
  唾液が軽く糸を引く。あやめはそれをワンピースの裾で拭うと、一点だけ汚されて、色が変わって染みになった。
「……あっちいから、ついでに脱いじゃうね」
  悪戯っぽく笑いながら、拭ったばかりの裾をまくり上げる。白い下着が涼しそうで、何がなしに、いいなと思った。汗ばんだ肌に触れる風が心地よいのか、布団を足で扇ぎ始める。けれど、繋いだ手はやはり熱くて、それはそれで安心する。
「──忘れられないくらい、お願いしますっ」
  上目に僕を見るあやめの表情が、これ以上ないほどに愛おしかった。せめて、感触の断片でも覚えていようと、そう決めた。