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後悔と贖罪Ⅱ

ー/ー



  眠くなったから部屋に行ってるね、という嘘は、みんなにはとっくに見抜かれているのだろうか。もはや何回目かの嘘か分からない。けれども騒がしい居間に寝転がっていたあやめの様子に、僕もあてられてしまった……というのが正直なところだ。夕食は少し、喉に詰まった。

  布団の上で猫のように丸くなっている彼女を横目に、僕は日記帳へと筆を走らせる。等身大の想いを書き綴って、結びの句点からペン先を離して、安堵の吐息とともにノートを閉じた。

「あやめちゃん、眠い?」

「……ちょっとだけ」

 窓の向こうが暗くなったから、昼間よりも、彼女の姿がよく見えた。座卓の上には、数時間前に置いたばかりのラムネ瓶とビー玉が、静止しながら蛍光灯の白を煌々と映している。

「ねぇ、このビー玉さ、まだあやめちゃんの名前を書いてないよね」

「……あっ。書く。マジックどこ?」

「ほら、これ。持ってきといたから」

「えへへ……マジックで書くときってなんか緊張するなぁ」

 さっきまで眠たがっていたのが嘘のように、あやめは僕の隣に肩を寄せて座る。細い指先でペンを持ち、ビー玉を押さえながら、真剣な顔つきで筆先を硝子の上に滑らせていった。

 瞬きすらしない横顔が、黒い髪に透けて見える。目線がわずかに動くばかりで、これだけ集中している彼女の面持ちを、未だに僕は、あまり見たことがないような、そんな気がした。

「できたっ」

 小さな手に乗せた小さなビー玉に、崩れた字。たどたどしい筆致で、乱れていて、お世辞にも上手いとはいえないけれど──そこに込めた感情は、安堵の笑みとともに伝わってきた。

「彩織ちゃんも、書いて」

「えっ?」

「お守りにするから。お父さんに会った時に、自慢するの」

「……じゃあ、ちゃんと成仏できるお守りだね」

「うんっ」

 屈託のない笑みで、あやめは笑う。明日が彼女の命日だ。すべて清算して送り出すのが、僕の役目なのだから──そう、これでいい。父親に会えると、嬉しそうに話してくれているぶん、もう現世に未練はないのだろうなと思った。あとはもう、心の整理をつけておくだけだ。

 彼女から受け取ったペンを片手に、もう一つのビー玉を手繰り寄せる。硝子に歪んで映る二人の顔が、やはり、照明の白に掻き消されがちだった。爛々として、少し眩しい。

「……ごめん、手が震えちゃうから押さえてくれない?」

「もー、彩織ちゃんは緊張しいで甘えんぼだなぁ」

あやめは僕の背後に移ると、そこから身体を寄せて、包み込むように手を握る。首筋を撫でる毛先がくすぐったくて、けれどもなんとか我慢しながら、温かい感触に意識を向けた。

「大丈夫?」

「うん、おかげさまで」

 触れているだけで、落ち着くような気がした。それは今だけじゃなくて、昔から。 

「……書くね」

  彼女が息を呑む音も、よく聞こえる。軽く押さえられた優しさを運ぶように、少しだけ重い手でペン先を動かした。漢字で書くのは難しそうだから、あやめに合わせて、平仮名。

「どうかな」

「うん、いいかもねっ」

  お揃いだねぇ、と、二つのビー玉を手に笑う。これだけありふれた存在が宝物になるなんて、不思議な感じだ。とはいえ思い出と呼ぶには、あまりにも儚すぎる。それは子供の頃、大切にポケットに入れていた、あの蝉の抜け殻にも、どこか似ていた。

「……ねぇ、お布団、入ろ」

「ふふっ、集中したら疲れちゃった?」

「えへへ、そうかもしれないねぇ」

  ビー玉を動かないように座卓へ置くと、あやめはそのまま僕の膝の上へ寝転がる。甘えんぼなのはどっちだか、と笑いながら、梳くような手触りの髪越しに、頭を優しく撫でた。

「よっと」

「わっ……!?」

  しっかり抱き抱えながら、僕は立ち上がりざまに布団へと向かう。本当は膝枕をしてあげても良かったのだけれど、顔を見ていたら、無性にくっつきたくなった。それだけの話だ。

  寝転がらせて、手を絡める。目線が合うのも逸らさないまま、お互い少しはにかんで、なんとはなしに足も絡めた。お風呂に入っていた余韻なのか、肌はまだ微かに火照っていた。

「……まだ九時にもなんないよ?」

「じゃあ、それまで抱きついてようか」

「彩織ちゃん、ぎゅーっしてるの好きだねぇ」

「……落ち着くんだよ、これ以上なく」

「でも、あっちいんだもん」

  そう言いながら、あやめは絡めていた手をほどいて、僕の背中に入れてくる。確かな温もりを持つそれが、柔らかさとともに背筋を優しく撫でていった。まるで陽だまりのようだ。

「彩織ちゃんの肌、ひんやりしてて気持ちいね」

「あやめちゃんはこんなに温かいのにさ」

「えへへ、くすぐったいから触っちゃ嫌だよ」

  手のひらを温めていく彼女の体温が、僕にはやはり心地よい。じっと触れているだけでも、意識が微睡んでいくようだった。睡魔が目蓋を押さえていって、それを必死に払い落とす。

「彩織ちゃんはもう、ドキドキしないの?」

「慣れたよ、流石にね」

「可愛いなって、思ってくれてる?」

「……そりゃあ、昔から」

  彼女は何も言わずに目を細めると、そのまま指先を絡めた。抵抗も反応もしない。それが自然とでも言うような、そんな、日常的な行動。ただ、胸の奥は、温かくなった。

「──んっ」

  ついばむように唇を尖らせて、あやめは不意に重ねてくる。悪戯をした子供のような、或いは蕩けたような笑みを洩らしながら、彼女は小さな歯を見せて、また指先に力を込める。

「あやめちゃん、もしかして、キスが好き?」

「んー……気分だよ、気分っ」

「僕の顔を見てたら、キスしたくなっちゃうってこと?」

  うん、と、迷いなく頷いた。キス……ではないけれど、無性にあやめを抱きしめたくなるのは、あれもきっと同じなのだろう。甘えられるし、甘やかせる。手を握るのも、たぶん一緒。

「……彩織ちゃんからは?」

  節操なく甘えてくる。一週間前の自分なら、きっと恥ずかしがって何もできなかっただろう。でも、変わった。変わらざるを得なかった。受け入れてくれたのは、他ならぬ彼女自身だ。

  目蓋を閉じて、顔を寄せる。唇が触れて、柔らかい感触がした。ぬるい吐息が漏れた。泡沫が、空気の海に浮かんでいった。

一秒では終わらない。三秒、五秒──胸の奥が苦しくなって、そのたびに頭上で泡が爆ぜていく。朦朧としかけた脳が、せめて息継ぎをしろと言ったから、泡沫はそのまま酸素を吸った。 「……これで、満足かな」

「……えへ、ボーッとしてきちゃった」

  困ったように二人で笑う。心臓が捕食に喘いでいる。絡めた指先の脈が、馬鹿みたいに早くなっている。回らない頭で、今はお互いに眠いんだ、ということだけを理解していた。

「彩織ちゃんさ、子供の頃……」

「うん?」

「寝る時、どんな歌を歌ってもらった?」

「……蝶々の歌。歌詞は覚えてないけど」

「蝶々?」

「うん。メロディはなんとなく覚えてる」

  そっか、と呟いて、あやめはそのまま目を閉じた。やがて口ずさんだメロディは、少し聴いただけでも分かる、適当なもので──僕の記憶にあるものではないけれど、でもどこか優しくて、温かくて、白い眩しさみたいに、懐かしいような気がした。

「えへへ、彩織ちゃん、おねむだねぇ」

  とん、とん、という規則的な感覚が、僕の意識を引きずり込んでいく。明日が最後なのだから、せめて今日くらいは夜更かししていたいのに。そんな想いも虚しく、いつの間にか寝てしまっていた。隣の気配は、ずっと動かないままだった──。





──誰かの話し声で目が覚めた、ような気がした。重い目蓋をそっと持ち上げると、とうに昇りきった陽光の眩しさが滲みる。眦を伝う涙を指先で拭うと、視界にもピントが合ってきた。

「あっ、彩織ちゃん、起きた?」

 いつもの聞き慣れた声がする。布団に手をついて、僕の顔を覗き込んでくる。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように澄んだ瞳も、前と何も変わらないのに──なんだか、妙な違和感があった。透き通るように綺麗な肌に触れて、僕はふと気付くと同時に、彼女を抱きしめた。

「えへへ……気付いた?」

「そりゃあっ……え、なんで……?」

「私も、分かんないけど」

 見間違いかと思った。夢かと思った。何度も寝ぼけまなこを擦って、到底、嘘にしか思えない目の前の現実を見ようとした。けれど何も変わらないまま、あやめは昔のように笑っている。何もかもが戻っている。この夏、出会った時の姿で、透明ではない姿で、存在していた。

「最初は、見間違いかなって思ったよ。……朝日がね、すっごく眩しいみたいな気がした。空も、すっごく青くて、自分の手を見たら、透明じゃなくて……でも、透明に見えるほど、綺麗な肌色。それで分かったんだ。きっとね、たぶん神様が、お願いごと、叶えてくれたんだよ」

 「神社でお祈りしたの、覚えてる?」と、耳元で声がする。

「私、『この夏を楽しく過ごせますように』ってお願いした。今日が私の命日だから……今日、ちゃんと成仏するから、いい子だねって、褒めてくれたんだと思うな」

「……うん、きっとそうだよ。しっかり踏ん切りつけられるのは、偉いし、凄いから」

「それにね、気付いたんだ。昨日までは分からなかったけど……よくよく考えたら、昨日くらいから、目もはっきり見えるの。色も、こんなだったなって。自然すぎて、気付かなかったや」

 屈託なく笑うあやめの姿に、思わず僕もつられてしまう。神様はいたんだ、なんて、そんな思いが胸を満たしていった。薄幸ばかりの彼女が、最後の最後に報われたような気がして、眦から伝っていた涙を優しい指先が拭ってくれる。何も言わずにただ、眩しさに目を細めていた。

 けれどそれは──今のあやめは、まるで消えかけの蝋燭みたいで、純白のワンピースと、透き通ったような髪も、肌も、夏の終わりを彩る、儚い産物の一つに思えた。僕にとっての夏は、昔から、彼女だから。それが紛れもなく終わってしまうのだと、胸の奥が鈍く痛む。

「──おっ、彩織ちゃん起きたん? おっはよー」

「……小夜。早いんだね」

「ちょっと覗いてみたら、あやめちゃんが起きてたっぽくて」

  ほら、と座卓の上を指し示す。破いたノートとペンが置かれていて、昨日にはなかったものだ。ページの終わりまで何か書かれているのを覗こうとしたら、あやめにすぐ止められた。

「なに」

「彩織ちゃんはまだ見ちゃダメっ」

「なんで」

「これは小夜ちゃんのお手紙だから」

「小夜に?」

  僕の隣に座りながら、小夜は自慢げに頷く。

「あやめちゃんの気遣いやね。ウチは何も渡せるものとかないんやけど……それでも構わんって言うから」

「へぇ……。あやめちゃんが手紙を書くって、あんまりイメージないけどなぁ。でも、いいね。形に残るものだもんね」

  そんな話を横目に、彼女は手紙を丁寧に折りたたんでいく。変わった折り方をしているなと思ったら、どうやらハート型らしい。小夜が可愛らしい声を上げると同時に、あやめも笑った。

  『小夜ちゃんへ  椎奈あやめより』と、ペンで書く。それを大切そうに手渡すと、少し迷ったように視線を彷徨させてから、またノートのページを破いたそこに、何かを書き始めた。

「……あやめちゃん、こんなんできたんやなぁ」

  可愛いんね、と、僕に耳打ちしてくる。昔から一緒にいたのに、この歳にもなって、まだ知らないことがあったらしい。

  小夜はずっと、あやめのことを無言で見つめていた。もちろん見えているわけではない。ただ、やはり、本当に見えているかのように──動いているペン先ではなくて、まるで、彼女の横顔を眺めているみたいな、そんな懐かしい表情をしていた。

「ウチはね、見えなくてもいいんよ。いてくれるだけで。こんだけ大事な人だったら、それだけで安心できるやん?  ……あと、不思議なことにさ、なんか、ぼんやりと見える気がして」

  珍しく女の子座りをしながら、太ももの間に手を挟んでいる。いじらしい彼女が言うことも、なんだか分かるような気がした。

「……よし、書けたっ」

「なに、それ」

「私から小夜ちゃんに言いたいこと!」

  満面の笑みで、それだけ告げる。ページびっしりには書かれていないけれど、それでも、一行や二行は書かれていた。

「『いま渡したお手紙は、私から小夜ちゃんへの想いを書いたものだよ!  目の前で読まれるとはずかしいから、ぜったい、私がいなくなったあとに読んでね。彩織ちゃんには見せてもいいけど、しっとされるかもだから、気をつけてほしいな……。』」

  なにを書いたのか知らないけど、僕がそれくらいのことで小夜に嫉妬するだろうか。自分があやめにとっての一番だと分かりきっているのだから、心の余裕は大海原よりも広い。はず。

「ここじゃ読まへんよ、どうせ泣いちゃうもん。ボロボロ泣いて笑われるくらいなら、普通に笑って別れたいわ。あとでギャーギャー泣いて、彩織ちゃんに慰められるんがオチやけどっ」

  三人で、顔を見合わせて笑う。きっと……いや、絶対、そうなるんだろう。僕だって、本当は小夜に慰めてもらいたいんだ。ただ少なくとも、この二人では、今後もやっていけるはず。そんなことを無意識に思いながら、あやめを安心させたかった。

「……前にも言ったけど、あやめちゃんに会えて良かったって思うわ。会えなかったらきっと、何も清算できないままで、何も変わらないままで、ずっと後悔してるばっかやったから。まだ自分じゃ許しきれてないけど……あやめちゃんが許してくれたから、なんとかやってこうって思えた。ありがとね、ほんとに」

「『昔のことは忘れてもいいけど、私のことは忘れちゃダメだよ。これはワガママだけど、二人には、私のぶんまで楽しんでほしいんだ。ときどき思い返してくれれば、それでいいから。』」

  あやめはやはり、どこまでも優しかった。底抜けに優しくて、それはずっと、昔から。ときどき自分勝手なところもあるけど、それさえ必ず、周りに対する優しさゆえの行動だから、強く言えないのだ。その優しさに、今まで甘え続けてきた。

「……あやめちゃん、ほんと優しすぎて心配になるわ」

  困ったような、けれども泣き笑いのような表情で、小夜はそっとあやめに手を伸ばす。あやめもそれに応えるように、小夜の指先を優しく撫でる。朝日がそれを照らしていた。

「……小夜ちゃんの手、柔らかいねぇ」

「……あったかい」

  感触は分からない。見えないし、聞けない。そうだとずっと思っているのに、小夜自身がそう言っているのに、ほとんど確信にも近いこの動きは──本当に、なんなのだろう。ここまでお互いに通じあっているのが、とても羨ましくなった。

  ──不意にあやめが指をほどくと、小夜が一瞬、寂しそうな顔をする。しかしそれを横目に彼女は、卓の上にあるペンを取って、さっきの紙をさらに破いて、一言だけ書き加えた。

「……好き好き言っても、今日くらいは許されるよね?」

  お茶目なあやめの照れ顔に苦笑しながら、僕は迷わず頷く。昔と変わらない筆跡で、『小夜ちゃん大好きだよ』と、それだけ。彼女の小さな嗚咽が洩れるのと、陽光の眩しさが目に眩むのは、ほとんど同時だった。それをまた、あやめが優しく拭っていた。


次のエピソードへ進む 夏休みの最終日


みんなのリアクション

  眠くなったから部屋に行ってるね、という嘘は、みんなにはとっくに見抜かれているのだろうか。もはや何回目かの嘘か分からない。けれども騒がしい居間に寝転がっていたあやめの様子に、僕もあてられてしまった……というのが正直なところだ。夕食は少し、喉に詰まった。
  布団の上で猫のように丸くなっている彼女を横目に、僕は日記帳へと筆を走らせる。等身大の想いを書き綴って、結びの句点からペン先を離して、安堵の吐息とともにノートを閉じた。
「あやめちゃん、眠い?」
「……ちょっとだけ」
 窓の向こうが暗くなったから、昼間よりも、彼女の姿がよく見えた。座卓の上には、数時間前に置いたばかりのラムネ瓶とビー玉が、静止しながら蛍光灯の白を煌々と映している。
「ねぇ、このビー玉さ、まだあやめちゃんの名前を書いてないよね」
「……あっ。書く。マジックどこ?」
「ほら、これ。持ってきといたから」
「えへへ……マジックで書くときってなんか緊張するなぁ」
 さっきまで眠たがっていたのが嘘のように、あやめは僕の隣に肩を寄せて座る。細い指先でペンを持ち、ビー玉を押さえながら、真剣な顔つきで筆先を硝子の上に滑らせていった。
 瞬きすらしない横顔が、黒い髪に透けて見える。目線がわずかに動くばかりで、これだけ集中している彼女の面持ちを、未だに僕は、あまり見たことがないような、そんな気がした。
「できたっ」
 小さな手に乗せた小さなビー玉に、崩れた字。たどたどしい筆致で、乱れていて、お世辞にも上手いとはいえないけれど──そこに込めた感情は、安堵の笑みとともに伝わってきた。
「彩織ちゃんも、書いて」
「えっ?」
「お守りにするから。お父さんに会った時に、自慢するの」
「……じゃあ、ちゃんと成仏できるお守りだね」
「うんっ」
 屈託のない笑みで、あやめは笑う。明日が彼女の命日だ。すべて清算して送り出すのが、僕の役目なのだから──そう、これでいい。父親に会えると、嬉しそうに話してくれているぶん、もう現世に未練はないのだろうなと思った。あとはもう、心の整理をつけておくだけだ。
 彼女から受け取ったペンを片手に、もう一つのビー玉を手繰り寄せる。硝子に歪んで映る二人の顔が、やはり、照明の白に掻き消されがちだった。爛々として、少し眩しい。
「……ごめん、手が震えちゃうから押さえてくれない?」
「もー、彩織ちゃんは緊張しいで甘えんぼだなぁ」
あやめは僕の背後に移ると、そこから身体を寄せて、包み込むように手を握る。首筋を撫でる毛先がくすぐったくて、けれどもなんとか我慢しながら、温かい感触に意識を向けた。
「大丈夫?」
「うん、おかげさまで」
 触れているだけで、落ち着くような気がした。それは今だけじゃなくて、昔から。 
「……書くね」
  彼女が息を呑む音も、よく聞こえる。軽く押さえられた優しさを運ぶように、少しだけ重い手でペン先を動かした。漢字で書くのは難しそうだから、あやめに合わせて、平仮名。
「どうかな」
「うん、いいかもねっ」
  お揃いだねぇ、と、二つのビー玉を手に笑う。これだけありふれた存在が宝物になるなんて、不思議な感じだ。とはいえ思い出と呼ぶには、あまりにも儚すぎる。それは子供の頃、大切にポケットに入れていた、あの蝉の抜け殻にも、どこか似ていた。
「……ねぇ、お布団、入ろ」
「ふふっ、集中したら疲れちゃった?」
「えへへ、そうかもしれないねぇ」
  ビー玉を動かないように座卓へ置くと、あやめはそのまま僕の膝の上へ寝転がる。甘えんぼなのはどっちだか、と笑いながら、梳くような手触りの髪越しに、頭を優しく撫でた。
「よっと」
「わっ……!?」
  しっかり抱き抱えながら、僕は立ち上がりざまに布団へと向かう。本当は膝枕をしてあげても良かったのだけれど、顔を見ていたら、無性にくっつきたくなった。それだけの話だ。
  寝転がらせて、手を絡める。目線が合うのも逸らさないまま、お互い少しはにかんで、なんとはなしに足も絡めた。お風呂に入っていた余韻なのか、肌はまだ微かに火照っていた。
「……まだ九時にもなんないよ?」
「じゃあ、それまで抱きついてようか」
「彩織ちゃん、ぎゅーっしてるの好きだねぇ」
「……落ち着くんだよ、これ以上なく」
「でも、あっちいんだもん」
  そう言いながら、あやめは絡めていた手をほどいて、僕の背中に入れてくる。確かな温もりを持つそれが、柔らかさとともに背筋を優しく撫でていった。まるで陽だまりのようだ。
「彩織ちゃんの肌、ひんやりしてて気持ちいね」
「あやめちゃんはこんなに温かいのにさ」
「えへへ、くすぐったいから触っちゃ嫌だよ」
  手のひらを温めていく彼女の体温が、僕にはやはり心地よい。じっと触れているだけでも、意識が微睡んでいくようだった。睡魔が目蓋を押さえていって、それを必死に払い落とす。
「彩織ちゃんはもう、ドキドキしないの?」
「慣れたよ、流石にね」
「可愛いなって、思ってくれてる?」
「……そりゃあ、昔から」
  彼女は何も言わずに目を細めると、そのまま指先を絡めた。抵抗も反応もしない。それが自然とでも言うような、そんな、日常的な行動。ただ、胸の奥は、温かくなった。
「──んっ」
  ついばむように唇を尖らせて、あやめは不意に重ねてくる。悪戯をした子供のような、或いは蕩けたような笑みを洩らしながら、彼女は小さな歯を見せて、また指先に力を込める。
「あやめちゃん、もしかして、キスが好き?」
「んー……気分だよ、気分っ」
「僕の顔を見てたら、キスしたくなっちゃうってこと?」
  うん、と、迷いなく頷いた。キス……ではないけれど、無性にあやめを抱きしめたくなるのは、あれもきっと同じなのだろう。甘えられるし、甘やかせる。手を握るのも、たぶん一緒。
「……彩織ちゃんからは?」
  節操なく甘えてくる。一週間前の自分なら、きっと恥ずかしがって何もできなかっただろう。でも、変わった。変わらざるを得なかった。受け入れてくれたのは、他ならぬ彼女自身だ。
  目蓋を閉じて、顔を寄せる。唇が触れて、柔らかい感触がした。ぬるい吐息が漏れた。泡沫が、空気の海に浮かんでいった。
一秒では終わらない。三秒、五秒──胸の奥が苦しくなって、そのたびに頭上で泡が爆ぜていく。朦朧としかけた脳が、せめて息継ぎをしろと言ったから、泡沫はそのまま酸素を吸った。 「……これで、満足かな」
「……えへ、ボーッとしてきちゃった」
  困ったように二人で笑う。心臓が捕食に喘いでいる。絡めた指先の脈が、馬鹿みたいに早くなっている。回らない頭で、今はお互いに眠いんだ、ということだけを理解していた。
「彩織ちゃんさ、子供の頃……」
「うん?」
「寝る時、どんな歌を歌ってもらった?」
「……蝶々の歌。歌詞は覚えてないけど」
「蝶々?」
「うん。メロディはなんとなく覚えてる」
  そっか、と呟いて、あやめはそのまま目を閉じた。やがて口ずさんだメロディは、少し聴いただけでも分かる、適当なもので──僕の記憶にあるものではないけれど、でもどこか優しくて、温かくて、白い眩しさみたいに、懐かしいような気がした。
「えへへ、彩織ちゃん、おねむだねぇ」
  とん、とん、という規則的な感覚が、僕の意識を引きずり込んでいく。明日が最後なのだから、せめて今日くらいは夜更かししていたいのに。そんな想いも虚しく、いつの間にか寝てしまっていた。隣の気配は、ずっと動かないままだった──。
──誰かの話し声で目が覚めた、ような気がした。重い目蓋をそっと持ち上げると、とうに昇りきった陽光の眩しさが滲みる。眦を伝う涙を指先で拭うと、視界にもピントが合ってきた。
「あっ、彩織ちゃん、起きた?」
 いつもの聞き慣れた声がする。布団に手をついて、僕の顔を覗き込んでくる。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように澄んだ瞳も、前と何も変わらないのに──なんだか、妙な違和感があった。透き通るように綺麗な肌に触れて、僕はふと気付くと同時に、彼女を抱きしめた。
「えへへ……気付いた?」
「そりゃあっ……え、なんで……?」
「私も、分かんないけど」
 見間違いかと思った。夢かと思った。何度も寝ぼけまなこを擦って、到底、嘘にしか思えない目の前の現実を見ようとした。けれど何も変わらないまま、あやめは昔のように笑っている。何もかもが戻っている。この夏、出会った時の姿で、透明ではない姿で、存在していた。
「最初は、見間違いかなって思ったよ。……朝日がね、すっごく眩しいみたいな気がした。空も、すっごく青くて、自分の手を見たら、透明じゃなくて……でも、透明に見えるほど、綺麗な肌色。それで分かったんだ。きっとね、たぶん神様が、お願いごと、叶えてくれたんだよ」
 「神社でお祈りしたの、覚えてる?」と、耳元で声がする。
「私、『この夏を楽しく過ごせますように』ってお願いした。今日が私の命日だから……今日、ちゃんと成仏するから、いい子だねって、褒めてくれたんだと思うな」
「……うん、きっとそうだよ。しっかり踏ん切りつけられるのは、偉いし、凄いから」
「それにね、気付いたんだ。昨日までは分からなかったけど……よくよく考えたら、昨日くらいから、目もはっきり見えるの。色も、こんなだったなって。自然すぎて、気付かなかったや」
 屈託なく笑うあやめの姿に、思わず僕もつられてしまう。神様はいたんだ、なんて、そんな思いが胸を満たしていった。薄幸ばかりの彼女が、最後の最後に報われたような気がして、眦から伝っていた涙を優しい指先が拭ってくれる。何も言わずにただ、眩しさに目を細めていた。
 けれどそれは──今のあやめは、まるで消えかけの蝋燭みたいで、純白のワンピースと、透き通ったような髪も、肌も、夏の終わりを彩る、儚い産物の一つに思えた。僕にとっての夏は、昔から、彼女だから。それが紛れもなく終わってしまうのだと、胸の奥が鈍く痛む。
「──おっ、彩織ちゃん起きたん? おっはよー」
「……小夜。早いんだね」
「ちょっと覗いてみたら、あやめちゃんが起きてたっぽくて」
  ほら、と座卓の上を指し示す。破いたノートとペンが置かれていて、昨日にはなかったものだ。ページの終わりまで何か書かれているのを覗こうとしたら、あやめにすぐ止められた。
「なに」
「彩織ちゃんはまだ見ちゃダメっ」
「なんで」
「これは小夜ちゃんのお手紙だから」
「小夜に?」
  僕の隣に座りながら、小夜は自慢げに頷く。
「あやめちゃんの気遣いやね。ウチは何も渡せるものとかないんやけど……それでも構わんって言うから」
「へぇ……。あやめちゃんが手紙を書くって、あんまりイメージないけどなぁ。でも、いいね。形に残るものだもんね」
  そんな話を横目に、彼女は手紙を丁寧に折りたたんでいく。変わった折り方をしているなと思ったら、どうやらハート型らしい。小夜が可愛らしい声を上げると同時に、あやめも笑った。
  『小夜ちゃんへ  椎奈あやめより』と、ペンで書く。それを大切そうに手渡すと、少し迷ったように視線を彷徨させてから、またノートのページを破いたそこに、何かを書き始めた。
「……あやめちゃん、こんなんできたんやなぁ」
  可愛いんね、と、僕に耳打ちしてくる。昔から一緒にいたのに、この歳にもなって、まだ知らないことがあったらしい。
  小夜はずっと、あやめのことを無言で見つめていた。もちろん見えているわけではない。ただ、やはり、本当に見えているかのように──動いているペン先ではなくて、まるで、彼女の横顔を眺めているみたいな、そんな懐かしい表情をしていた。
「ウチはね、見えなくてもいいんよ。いてくれるだけで。こんだけ大事な人だったら、それだけで安心できるやん?  ……あと、不思議なことにさ、なんか、ぼんやりと見える気がして」
  珍しく女の子座りをしながら、太ももの間に手を挟んでいる。いじらしい彼女が言うことも、なんだか分かるような気がした。
「……よし、書けたっ」
「なに、それ」
「私から小夜ちゃんに言いたいこと!」
  満面の笑みで、それだけ告げる。ページびっしりには書かれていないけれど、それでも、一行や二行は書かれていた。
「『いま渡したお手紙は、私から小夜ちゃんへの想いを書いたものだよ!  目の前で読まれるとはずかしいから、ぜったい、私がいなくなったあとに読んでね。彩織ちゃんには見せてもいいけど、しっとされるかもだから、気をつけてほしいな……。』」
  なにを書いたのか知らないけど、僕がそれくらいのことで小夜に嫉妬するだろうか。自分があやめにとっての一番だと分かりきっているのだから、心の余裕は大海原よりも広い。はず。
「ここじゃ読まへんよ、どうせ泣いちゃうもん。ボロボロ泣いて笑われるくらいなら、普通に笑って別れたいわ。あとでギャーギャー泣いて、彩織ちゃんに慰められるんがオチやけどっ」
  三人で、顔を見合わせて笑う。きっと……いや、絶対、そうなるんだろう。僕だって、本当は小夜に慰めてもらいたいんだ。ただ少なくとも、この二人では、今後もやっていけるはず。そんなことを無意識に思いながら、あやめを安心させたかった。
「……前にも言ったけど、あやめちゃんに会えて良かったって思うわ。会えなかったらきっと、何も清算できないままで、何も変わらないままで、ずっと後悔してるばっかやったから。まだ自分じゃ許しきれてないけど……あやめちゃんが許してくれたから、なんとかやってこうって思えた。ありがとね、ほんとに」
「『昔のことは忘れてもいいけど、私のことは忘れちゃダメだよ。これはワガママだけど、二人には、私のぶんまで楽しんでほしいんだ。ときどき思い返してくれれば、それでいいから。』」
  あやめはやはり、どこまでも優しかった。底抜けに優しくて、それはずっと、昔から。ときどき自分勝手なところもあるけど、それさえ必ず、周りに対する優しさゆえの行動だから、強く言えないのだ。その優しさに、今まで甘え続けてきた。
「……あやめちゃん、ほんと優しすぎて心配になるわ」
  困ったような、けれども泣き笑いのような表情で、小夜はそっとあやめに手を伸ばす。あやめもそれに応えるように、小夜の指先を優しく撫でる。朝日がそれを照らしていた。
「……小夜ちゃんの手、柔らかいねぇ」
「……あったかい」
  感触は分からない。見えないし、聞けない。そうだとずっと思っているのに、小夜自身がそう言っているのに、ほとんど確信にも近いこの動きは──本当に、なんなのだろう。ここまでお互いに通じあっているのが、とても羨ましくなった。
  ──不意にあやめが指をほどくと、小夜が一瞬、寂しそうな顔をする。しかしそれを横目に彼女は、卓の上にあるペンを取って、さっきの紙をさらに破いて、一言だけ書き加えた。
「……好き好き言っても、今日くらいは許されるよね?」
  お茶目なあやめの照れ顔に苦笑しながら、僕は迷わず頷く。昔と変わらない筆跡で、『小夜ちゃん大好きだよ』と、それだけ。彼女の小さな嗚咽が洩れるのと、陽光の眩しさが目に眩むのは、ほとんど同時だった。それをまた、あやめが優しく拭っていた。