夏休みの最終日Ⅱ
ー/ー 気付いた時には、すぐに分かるくらい陽が傾いていた。汗ばんだ服が肌に張り付いて、少し気持ち悪い。腕のなかで穏やかな呼吸をしながら、あやめは僕の顔を覗き込んでいる。結局、面倒だからと脱がなかったワンピースは、ほとんど透けていた。
「……なんか、時間が経つのも早いねぇ」
ゆっくりと身体を起こして、彼女は外の様子を眺める。紺青から藍白に変わりゆく空の色を見ると、まるで空も透明になっていくような気がして、夕暮れ時の静けさは、やはり寂しい。
癖のついた髪を手ぐしで梳かしてやりながら、そうだ、と思い出しざまに、傍らのビニール袋たちを手に取る。もう一度あやめに向き直ると、斜陽が放つ茜色が、瞳に眩しかった。
「あやめちゃん、ラムネ飲もう。あと、これも」
縁台へと向かいかけている背姿を呼び止めて、僕は小さな手にそれを持たせた。ぬるくなってしまったラムネ瓶と、少しだけ疲れたような、たった一つの曼珠沙華。無意識に脈が速くなっていることに気がついて、何を焦っているんだ、と思う。
「あっ、曼珠沙華……。そう、これはね、使うんだ」
「何に使うかは、まだ教えてくれない?」
「うん、もう少し待っててね。私の思いつきだけど」
無邪気に笑いながら、だんだんと涼しくなってきた軒先の縁台に座る。僕もその隣に腰掛けて、またいつもの横顔を見た。足元を彩る影が長い。今はいったい、何時になったろうか。
「やっぱり、夏はラムネが美味しいね」
瓶の口を塞ぐビー玉を落としながら、あやめは飲みもしないうちに、そう呟く。とぷん、と沈む音が聞こえて、炭酸の弾ける細やかな音も、瓶の内側で反響しているような気がした。
「えへへ……ぬるいや。あんまり美味しくないっ」
「もっと早く飲めば良かったね。忘れててごめん」
「ううん、これはこれで思い出になるんだから」
さほど冷たくないラムネ瓶越しに、庭先の景色を透かしてみる。炭酸水が背景を歪ませて、ピントの合わない写真みたいだった。ただ、斜陽の眩しさだけは、そこに溶け込んでいる。
「あ、彩織ちゃん、乾杯」
「あっ、うん、乾杯」
硝子がカランと音を立てた。中のビー玉が波に揺れる。
「……あやめちゃんとラムネを飲んでるとさ、いちばん最初に会った時のことを、やっぱり思い出すんだよね」
「昔話? 絶対に泣くからやめようって言ってたのにねぇ」
「ふふっ。この際、別に泣いたっていいよ。最後くらいは懐かしんで終わるのがいいんじゃない? どうせ幼馴染ならね」
「んー……まぁ、それもそうだねっ」
ラムネ瓶を傾けるたびに、とぷん、と波が立つ。炭酸が喉を洗っていく。胸の内にある靄をすべて流し去ってくれるみたいな、そんな爽快感だった。思わず溜息が漏れてしまう。
「……でも、そうだよねぇ。あの時、彩織ちゃんに、麦茶あげたもんね。なんなら、えっと……関節キス、だったし」
「子供同士だから、まぁ、ノーカンってことでさ。でも、今なら普通に関節キスできちゃうよね。キスくらいならするし」
「えへへ……。じゃあ、飲む?」
「ううん、いいよ。これあるもん」
「ねーえっ! 私の勇気……!」
恥ずかしそうに身体を仰け反らせながら、勢いそのまま叩かれる。大声を出して恥ずかしがるあやめは、ちょっと貴重だ。
笑い声が夕暮れ時に染みていく。蝉時雨も、ほとんど聞こえなくなっている。ラムネを飲むたびに、喉が鳴った。
「彩織ちゃんはさ、夏休みも終わったけど、どうするの?」
「……地元に戻るよ。学校はもう始まってるし、夏休みが終わったら、ここにいる理由もないから。それに──ほら、小説も書き上げなきゃいけないんだ。ずっと、スランプだったから」
「そういえば、言ってたね……。スランプは治った?」
「さぁ、どうだろう、書いてみなきゃ分からないね。ただ……今年の夏休みは色々と楽しめたから、いっぱい頑張るよ」
「うんっ。私は、彩織ちゃんのおかげで目が見えるようになったからね。そこは本当にありがとうって思ってる。きっとね、彩織ちゃんだからできたんだよ。彩織ちゃんは凄いよ」
僕の手の上に、そっと重ねてくる。寄せた肩が、軽く当たって離れない。自分の存在理由を本当に認めてもらえた気がして、この後も、きっとやっていけると思った。あの盲目に、色を分けてあげられたことが、あやめにとっての救いになったから。
「……じゃあ、いま書いている小説のヒロインをあやめちゃんにする、って言っても、怒らないでいてくれるかな」
「えっ……? 私?」
「うん、書いてみたいんだ。この夏にあったことを、忘れないようにさ。あやめちゃんのことも、一生、忘れたくないから」
僕の問いに、彼女は少しだけ迷っているようだった。ふいと茜の射す空を見上げて、眩しそうに目を細める。
「私のことは、脚色しないで書いてほしいな。見た目も、性格も、お家の事情も……どういうふうに、生きてきたかも。彩織ちゃんが期待するほど、私、純真じゃなかったかもしれないけど──そこはしっかり、書いてほしい。彩織ちゃんから見た私がどんなだったのかっていうのも、好きなだけ書いてほしい」
淡々と、けれど確かに意志を持った声。それがあやめの頼みなら、きっとその通りに書こうと思った。正直、スランプを抜けたかなんて分からない。ただ漠然と、書かなきゃいけないという使命感に駆られている。どれだけかかるか、分からないけど。
「分かった。あやめちゃんとの約束は、絶対に守るから」
「えへへ……ワガママばっかでごめんね」
手に感じる温もりが、ひときわ増して強くなる。二人同時にラムネを飲んで、炭酸が滲みると目をつぶった。昔話といったけど、今さら話す内容なんて何もなくて、ただこうして一緒にいられるだけで幸せなのだと、やはりお互い、分かっていた。
「この一週間で、四年分、取り戻せたかな」
「もちろんっ。彩織ちゃんは、不満?」
「ううん。あやめちゃんが楽しめたなら」
「毎日、一緒に遊んで、お話して……。お泊まりもできたし、お風呂にも入れたし、小夜ちゃんとも会えた。好きなだけ寝て、起きて、彩織ちゃんと一緒で──すっごく楽しかったよ」
「うん、僕も楽しかった。これだけ楽しい夏休みは、久しぶり……いや、初めてかもしれないね。一週間だけだったのに」
心から楽しめて、心から悲しめる夏休みになった。四年越しの再会が、その現実を見せつけてくれた。色を分けた夏で、夏の落とし物をたくさん拾った。初恋の相手の、その境遇を深く知った。せめてもの罪滅ぼしに、最期まで一緒にいると決めた。
初恋が実った夏になった。幼馴染を失う夏になった。僕にとっての夏は、彼女の存在そのもので──あやめこそが、夏の落とし物なのだと、そう思わずにはいられないような気がした。今も、斜陽が沈むごとに、何かが離れていくみたいだった。
「彩織ちゃんは、なんでこの村に来たんだっけ?」
一週間前の記憶を思い返すように、あやめは呟く。横目でそっと見つめると、何か言いたげに、柔らかく笑っていた。
「──夏を探しに来たんだ。自分の思い描く、理想の夏をさ」
「……それは、どうだった? 見つけられた?」
あの時と変わらない彼女の面持ちは、どこか満足そうで、頬を緩ませたまま僕を見つめているのが、少しだけ可愛らしく思えた。純白のワンピースを涼風になびかせながら、あやめはまた、濃さを増した茜色の空に映える、あの入道雲を見上げている。爛々と降り注ぐ斜陽の眩しさを愛おしむように、目を細めた。
肩まで伸びた黒髪と、紅い曼珠沙華の髪飾り──それが今は、麦わら帽子に隠れることなく現れている。黒曜石のように玲瓏とした瞳の色で、あやめはまた、僕の方へ視線を戻した。その答えを期待しているかのように、何も言わず、ただ見つめてくる。
「僕にとっての夏は、あやめちゃんそのものだからね。あやめちゃんがいなかったら、意味がないんだよ。だから、本当に……最後の夏休みを、あやめちゃんと過ごせて良かったなって」
彼女に包まれた手が、痛いほどに握られる。俯いたように地面を見て、何かを隠すみたいに、僕と目を合わせなくなった。ただ、小さく首を縦に振っているのは、隣からでも分かった。
「彩織ちゃん、本当に……っ、私のこと、大好きだよねぇ……」
「だって、本当に大好きだから。そりゃあ言うよ」
えへへ、と、泣き笑いのような声がする。あやめはそのままラムネ瓶を口に付けると、三口、四口と一気に飲み干した。軽やかな炭酸が喉を通って、目蓋を固く閉じながら、軽く悶えていた。
「あーあ、やっぱりシュワシュワして辛いや……」
泣き顔を誤魔化そうと無理に笑う。眦から頬を伝う紅涙が地面に落ちて、丸い染みを作っていった。拭うわけでもなく、それ以上に零すわけでもなく、ただ、そのひとしずくのみだった。
「そろそろ、曼珠沙華の使い道、教えてあげるね」
「……そのラムネ瓶が使いたかったってこと?」
「まぁねっ。ちょっとお水だけ汲んでくる」
ワンピースの裾で雑に涙を拭ってから、あやめは影の伸びる夕暮れ時を走っていった。地面を踏むサンダルの音が遠くなる。手に持ったラムネ瓶と曼珠沙華も、斜陽に染まっていた。
「……最後までご機嫌だなぁ」
でも、それがありがたい。僕が今、それほど感傷的になっていないのも、彼女のおかげなのだから。あやめは、強い。僕よりも、小夜よりも、遥かに強い心を持っていると断言できる。どうしてこんなに強いのかと、たびたび疑問に思うほどには。
やはり、一度は自分の手で命を絶ったから、それが影響しているのだろう。どうしようもない生前を、過去と割り切れる力。現在を現在と疑わず、残りわずかな未来に最大限の期待を込めて、それを実現させようとする力。言うなれば、運命への抵抗。
一度は自分の意志で道を断ったからこそ、二度目の運命は、自分自身にとって最高になるように、舵を取り続けてきた。限りなく短い道のりのなかで、後悔のないように生き続けてきた。そして今はもう、この現実を、しっかりと受け止めている。
「……僕にできるかな、それが」
自分なりに整理はしているつもりだ。やり残したことなんて、今さらありはしない。ただ、少しでも長く一緒にいたい。そして、あやめとの約束を守りながら、生きていくのだと。過去から目を背けずに、未来を踏み外さずに──それが贖罪だから。
「えへへー……彩織ちゃん、どうかな、綺麗でしょ」
あやめの声がして、ふとそちらに視線を向ける。一瞬、ラムネ瓶に反射した斜陽の茜が瞳を射して、不意に目が眩んだ。目蓋の裏に残る残影を煩わしく思いながら、何度か瞬きする。
──それが見間違いだと思いたかったから。
「っ、あやめちゃん、それ……!」
「……あ、もうそんな時間になったんだ」
僕の声にも動揺せず、彼女は寂しそうに笑ったまま、水の入ったラムネ瓶に曼珠沙華をそっと生けている。背後から射し込む日射しが嫌に眩しくて、それは、あやめの背を突き抜けていた。宵の色を増していくなかに、融け込むようだった。
「ねぇ、綺麗でしょ」
僕の前に立つ半透明の姿が、逆光に掻き消される。それなのに陽線は透けて、僕の瞳を射してくる。柔らかく笑うその表情は、確かに綺麗だった。地面に揺らめきを落とすラムネ瓶も、瑞々しさを戻した曼珠沙華も、すべてが神秘的に見えた。
「……やっぱり、あやめちゃんは綺麗だ」
「えへへ……。夕暮れ時だから、余計にね」
一秒経つごとに、陽は沈んでいく。一秒経つごとに、辺りは宵に呑まれていく。早まりつつある心臓の音が、悠然としたこの情景には不釣り合いだった。焦燥すら、無駄だった。
「彩織ちゃんと過ごした夏休み、楽しかったねっ」
「……うん、本当に色々と遊べた。ありがとう」
「こちらこそ。彩織ちゃんがいなかったら、さ」
ぬるくなったあやめの手が、そっと僕の手を握る。火照ってはいない。ただ、冷たくはない。中途半端にぬるいだけ。それがなんだか遠い存在のような気がして、もっと強く握り返した。
「彩織ちゃんさ、私のことを、夏そのものだって言ったよね。夏の色は、あやめ色だって。……それと同じで、私にとっての夏は、彩織ちゃんだったんだよ。彩織ちゃんしか、いなかった」
──そう、そうだ。僕にとっての夏は、今も、昔も、あやめだった。それしか有り得なかった。彼女と過ごすことが日々の彩りで、見るものすべてが、まるで夏の落とし物のようだった。いま飲んでいるラムネ瓶に、それが、ぎゅっと詰まっている。
「……来年の夏は、私はいないけど。でも、楽しみにしてることはいっぱいあるんだよ? 彩織ちゃんが進級して、学校でお勉強してることとか。しっかり小説を書いて、それを読ませてくれることとか。また報告に来てくれるって、思ってるからね」
僕の手を握りながら、しゃがみ込んで目線を合わせてくる。半透明の瞳が、斜陽の茜に煌めいている。眩しいから目をつぶっただけなのに、眦のあたりを、涙が滲みるような気がした。
「眩しいから、目に滲みちゃった?」
「っ、違う……眩しく、ない」
「……誤魔化さないで、偉いね」
とびきり優しい声とともに、ぬるい感触が眦に触れる。今さら、気取りたくなんてない。せめて最後くらいは、等身大のままで終わらせたかった。背伸びをしてもお見通しだろうから、そして、少しくらい困らせても、構ってもらえるから──そんな、子供みたいな理由で、けれど本当に悔しくて、また指で拭う。
何が悔しいのかなんて分からない。分からないけれど、ただ、そう思った。自分の前からいなくなってしまうことが、悔しいのだろうか。そんな利己的な理由で、あやめだって同じはずなのに、本当は無理して笑っているはずなのに──僕だけがこれで、いいのだろうか。そう分かっていても、変われない。
「また、小夜ちゃんと三人で話そう。今度はきちんと、声が伝わるといいね。どうすればいいかは分かんないけど……。……でもね、私、ちゃんと二人のこと、見守ってあげるからねっ。何かあっても、頑張れって、応援するから。夢にだって出るからっ」
「……本当に? 出てこなかったら怒るよ」
「なんで彩織ちゃんがもう怒ってるの……。大丈夫だよ、私は嘘つかないよ。彩織ちゃんが私のことを忘れない限り、ずーっと一緒だから。ね? 安心していいんだよ。何も怖くないよ」
あやめがそう笑ううちにも、陽はどんどん傾いて、夜の底が見えていくのが分かった。同時に、彼女がそこに融けこんでしまいそうなほど、透明の色を増していくのも分かった。
抱きしめたいのに、何かが怖くて触れられない。手に伝う感触が、麻痺したように薄くなっていく。温度も、匂いも、あの柔らかさも、すべてが呑まれていくような気がした。けれど、いま手を伸ばさなければ、そのすべてを永遠に忘れてしまいそうだから、僕は咄嗟に言う。
「──っ、ねぇ、あやめちゃん」
「うん、なぁに」
「……もっと強く、抱きしめたい」
「えへへ、甘えんぼさんだなぁ」
彼女が立ち上がって腕を広げるよりも早く、僕はそこに飛び込んだ。華奢な身体。ぬるさすらなくしていく体温。よろめくように一歩引いて、ラムネ瓶のなかの水が揺れる。曼珠沙華の花びらが頬をくすぐって、その場違いさを嫌だと思った。
「……ごめん、最後まで我儘ばかりで。安心してもらいたいのに、こんなんじゃ──子供みたいで、ごめんね……」
「ううん、いいんだよ。最後の最後だから、思いっきり甘えていいよ。全部、忘れないでいてほしいから……私も、やる」
細い腕が、僕の身体を抱きしめている──はずなのに、その感触がもう、薄かった。自分の神経が麻痺してるんじゃないかとさえ思った。それほど、あやめの存在が、薄まっている。目蓋を開くのさえ怖くて、ずっと、仮初を網膜に映し出していた。
「……やっぱり、あったかいや」
昔から変わらない声がする。けれど、抱きしめた感触は、昔よりも違っていた。……この夏以外に、あやめを抱きしめたことなんて、あったろうか。そんなことは覚えていないのに、ただ、抱きしめたという感触だけは、身体のどこかで覚えていた。
「……あやめちゃん」
「なぁに?」
「……ううん、呼んだだけ」
「……そっか」
何を話せばいいのか分からなくて、このやるせなさを、何で紛らわせばいいのかも分からなくて、意味もなく名前を呼ぶ。それなのに不思議と、心の奥が、微かに満たされるようだった。
「ふぁあ……。えへ、ごめんね……急に眠くなっちゃって」
「うん……。じゃあ、あんまり無理させられないね」
「ううん、大丈夫、頑張るから。あとちょっと……くらい」
気の抜けた欠伸とともに、あやめは弱々しい瞬きをする。耳元で聞こえる声は吐息のように、涼風をはらんでいた。
「……何も言うことなんてないのに、なんで、これだけ一緒にいたいって、思うんだろうねぇ。いつ消えてもいいって、準備はできてるのに──なんか、すっごく、もどかしいんだ」
それはきっと、距離が近づきすぎたから。お互いに充実した、無駄な時間を過ごしてきたから。いちばん辛いのは、別れじゃなくて──それを待っている今の心境だと、そう思った。
「胸の奥が、ぎゅっと締め付けられて、少しだけ息が苦しくて、早く楽になりたいのに、でも、彩織ちゃんと一緒にいたい。ワガママだけど……でも、そろそろ本当に、踏ん切りつけなきゃね」
微かに残る感触が、身体から離れて手だけを繋ぐ。半歩だけ下がったサンダルと、地面を削った音。耳元で鳴る風のような深呼吸は、逆光に暗く、斜陽を透かしたそこから聞こえた。
──夜の帳がほとんど降りかけて、どこかで街灯の灯りが点く。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように玲瓏とした瞳の色も、そのすべてが、いよいよ藍に融けていく。微かに残った茜と紫金が、空いっぱいを、薄く、淡く、彩っていた。
「……彩織ちゃん。最後にさ、一回だけ見せたいものがあるんだ。行く時に思いついたの。綺麗な別れ方って、何かなって」
目を凝らさないと見えないほどに、あやめは透明の色を増していた。それでも今は、確かに笑っているのだと分かった。ラムネ瓶と曼珠沙華だけが、黄昏時のなかで、仄かに浮かんでいる。
「綺麗な、別れ方……?」
「うんっ。なんか、かっこよさそうなやつ」
「ふふっ、なにそれ」
僕の意識が遠のいているのか、或いはあやめの姿が、声が、だんだんと薄らいでいるのか──もはや、よく分からない。繋いでいるはずの手を確かめるように、何度も何度も握り直した。
それでも、最後に笑えたことが嬉しくて、こんな時でも、彼女はまったく変わらないんだと思えて、どこか安心した。薄れていく体温を、その温もりを、手のひらでしっかりと感じる。
「じゃあ──また、来年の夏休みに会おうねっ」
一瞬だけ、あやめの身体に茜が射したような気がした。半透明のそこを内側から照らすように、確かにそう見えた。一歩、二歩、と、軽やかに走るサンダル。涼風をはらんで、なびく純白のワンピース。首筋を撫でる髪と、透き通ったあの瞳も、すべて。
手のひらから指先を、撫でるように這わせていく。感触がいよいよ薄くなって、途切れて、その余韻だけを残していく。あやめは吹っ切れたような、昔から変わらない、あの屈託のない笑顔を浮かべると、僕のほうを見て、弾んだ声で告げた。
「──彩織ちゃん、見ててっ」
そう言うより早く、彼女は持っていたラムネ瓶を空いっぱいに放り投げた。揺らいだ水が口から漏れて、まるで、少女を彩る水滴のように、二人を隔てるように、視界をそっと覆っていく。
雨のように降るその向こうを、ずっと見つめた。一秒ごとに雰囲気が薄れていくのが、はっきりと分かった。それでも目を逸らすことはできなくて、存在の残滓を、見つめ続ける。
──彩織ちゃん、危ないよっ。
そう聞こえたような気がして、咄嗟に我に返る。あやめがいた場所に、ラムネ瓶の破片が舞い散る、ちょうどその時だった。傾いていった斜陽の名残に照らされて、硝子の煌めきが目に刺さる。地面に染みた水溜まりは、雨上がりのような埃臭さだ。
「……危ないよ、やることが」
泣きたいのか笑いたいのか分からなくて、もうなんでもいいやと苦笑しながら、ふと気づく。ラムネ瓶の他に何かが足りない──あの曼珠沙華はどこに行ったのかと、あたりを見回す。
土に吸われていく水を浴びて、花びらが一枚、残っていた。それ以外にはどこにも落ちていなくて、あぁ、と腑に落ちる。
「最初から持っていくって、言えばよかったのに……」
その花びらをつまんで、僕はしばらく、眺めていた。
「……なんか、時間が経つのも早いねぇ」
ゆっくりと身体を起こして、彼女は外の様子を眺める。紺青から藍白に変わりゆく空の色を見ると、まるで空も透明になっていくような気がして、夕暮れ時の静けさは、やはり寂しい。
癖のついた髪を手ぐしで梳かしてやりながら、そうだ、と思い出しざまに、傍らのビニール袋たちを手に取る。もう一度あやめに向き直ると、斜陽が放つ茜色が、瞳に眩しかった。
「あやめちゃん、ラムネ飲もう。あと、これも」
縁台へと向かいかけている背姿を呼び止めて、僕は小さな手にそれを持たせた。ぬるくなってしまったラムネ瓶と、少しだけ疲れたような、たった一つの曼珠沙華。無意識に脈が速くなっていることに気がついて、何を焦っているんだ、と思う。
「あっ、曼珠沙華……。そう、これはね、使うんだ」
「何に使うかは、まだ教えてくれない?」
「うん、もう少し待っててね。私の思いつきだけど」
無邪気に笑いながら、だんだんと涼しくなってきた軒先の縁台に座る。僕もその隣に腰掛けて、またいつもの横顔を見た。足元を彩る影が長い。今はいったい、何時になったろうか。
「やっぱり、夏はラムネが美味しいね」
瓶の口を塞ぐビー玉を落としながら、あやめは飲みもしないうちに、そう呟く。とぷん、と沈む音が聞こえて、炭酸の弾ける細やかな音も、瓶の内側で反響しているような気がした。
「えへへ……ぬるいや。あんまり美味しくないっ」
「もっと早く飲めば良かったね。忘れててごめん」
「ううん、これはこれで思い出になるんだから」
さほど冷たくないラムネ瓶越しに、庭先の景色を透かしてみる。炭酸水が背景を歪ませて、ピントの合わない写真みたいだった。ただ、斜陽の眩しさだけは、そこに溶け込んでいる。
「あ、彩織ちゃん、乾杯」
「あっ、うん、乾杯」
硝子がカランと音を立てた。中のビー玉が波に揺れる。
「……あやめちゃんとラムネを飲んでるとさ、いちばん最初に会った時のことを、やっぱり思い出すんだよね」
「昔話? 絶対に泣くからやめようって言ってたのにねぇ」
「ふふっ。この際、別に泣いたっていいよ。最後くらいは懐かしんで終わるのがいいんじゃない? どうせ幼馴染ならね」
「んー……まぁ、それもそうだねっ」
ラムネ瓶を傾けるたびに、とぷん、と波が立つ。炭酸が喉を洗っていく。胸の内にある靄をすべて流し去ってくれるみたいな、そんな爽快感だった。思わず溜息が漏れてしまう。
「……でも、そうだよねぇ。あの時、彩織ちゃんに、麦茶あげたもんね。なんなら、えっと……関節キス、だったし」
「子供同士だから、まぁ、ノーカンってことでさ。でも、今なら普通に関節キスできちゃうよね。キスくらいならするし」
「えへへ……。じゃあ、飲む?」
「ううん、いいよ。これあるもん」
「ねーえっ! 私の勇気……!」
恥ずかしそうに身体を仰け反らせながら、勢いそのまま叩かれる。大声を出して恥ずかしがるあやめは、ちょっと貴重だ。
笑い声が夕暮れ時に染みていく。蝉時雨も、ほとんど聞こえなくなっている。ラムネを飲むたびに、喉が鳴った。
「彩織ちゃんはさ、夏休みも終わったけど、どうするの?」
「……地元に戻るよ。学校はもう始まってるし、夏休みが終わったら、ここにいる理由もないから。それに──ほら、小説も書き上げなきゃいけないんだ。ずっと、スランプだったから」
「そういえば、言ってたね……。スランプは治った?」
「さぁ、どうだろう、書いてみなきゃ分からないね。ただ……今年の夏休みは色々と楽しめたから、いっぱい頑張るよ」
「うんっ。私は、彩織ちゃんのおかげで目が見えるようになったからね。そこは本当にありがとうって思ってる。きっとね、彩織ちゃんだからできたんだよ。彩織ちゃんは凄いよ」
僕の手の上に、そっと重ねてくる。寄せた肩が、軽く当たって離れない。自分の存在理由を本当に認めてもらえた気がして、この後も、きっとやっていけると思った。あの盲目に、色を分けてあげられたことが、あやめにとっての救いになったから。
「……じゃあ、いま書いている小説のヒロインをあやめちゃんにする、って言っても、怒らないでいてくれるかな」
「えっ……? 私?」
「うん、書いてみたいんだ。この夏にあったことを、忘れないようにさ。あやめちゃんのことも、一生、忘れたくないから」
僕の問いに、彼女は少しだけ迷っているようだった。ふいと茜の射す空を見上げて、眩しそうに目を細める。
「私のことは、脚色しないで書いてほしいな。見た目も、性格も、お家の事情も……どういうふうに、生きてきたかも。彩織ちゃんが期待するほど、私、純真じゃなかったかもしれないけど──そこはしっかり、書いてほしい。彩織ちゃんから見た私がどんなだったのかっていうのも、好きなだけ書いてほしい」
淡々と、けれど確かに意志を持った声。それがあやめの頼みなら、きっとその通りに書こうと思った。正直、スランプを抜けたかなんて分からない。ただ漠然と、書かなきゃいけないという使命感に駆られている。どれだけかかるか、分からないけど。
「分かった。あやめちゃんとの約束は、絶対に守るから」
「えへへ……ワガママばっかでごめんね」
手に感じる温もりが、ひときわ増して強くなる。二人同時にラムネを飲んで、炭酸が滲みると目をつぶった。昔話といったけど、今さら話す内容なんて何もなくて、ただこうして一緒にいられるだけで幸せなのだと、やはりお互い、分かっていた。
「この一週間で、四年分、取り戻せたかな」
「もちろんっ。彩織ちゃんは、不満?」
「ううん。あやめちゃんが楽しめたなら」
「毎日、一緒に遊んで、お話して……。お泊まりもできたし、お風呂にも入れたし、小夜ちゃんとも会えた。好きなだけ寝て、起きて、彩織ちゃんと一緒で──すっごく楽しかったよ」
「うん、僕も楽しかった。これだけ楽しい夏休みは、久しぶり……いや、初めてかもしれないね。一週間だけだったのに」
心から楽しめて、心から悲しめる夏休みになった。四年越しの再会が、その現実を見せつけてくれた。色を分けた夏で、夏の落とし物をたくさん拾った。初恋の相手の、その境遇を深く知った。せめてもの罪滅ぼしに、最期まで一緒にいると決めた。
初恋が実った夏になった。幼馴染を失う夏になった。僕にとっての夏は、彼女の存在そのもので──あやめこそが、夏の落とし物なのだと、そう思わずにはいられないような気がした。今も、斜陽が沈むごとに、何かが離れていくみたいだった。
「彩織ちゃんは、なんでこの村に来たんだっけ?」
一週間前の記憶を思い返すように、あやめは呟く。横目でそっと見つめると、何か言いたげに、柔らかく笑っていた。
「──夏を探しに来たんだ。自分の思い描く、理想の夏をさ」
「……それは、どうだった? 見つけられた?」
あの時と変わらない彼女の面持ちは、どこか満足そうで、頬を緩ませたまま僕を見つめているのが、少しだけ可愛らしく思えた。純白のワンピースを涼風になびかせながら、あやめはまた、濃さを増した茜色の空に映える、あの入道雲を見上げている。爛々と降り注ぐ斜陽の眩しさを愛おしむように、目を細めた。
肩まで伸びた黒髪と、紅い曼珠沙華の髪飾り──それが今は、麦わら帽子に隠れることなく現れている。黒曜石のように玲瓏とした瞳の色で、あやめはまた、僕の方へ視線を戻した。その答えを期待しているかのように、何も言わず、ただ見つめてくる。
「僕にとっての夏は、あやめちゃんそのものだからね。あやめちゃんがいなかったら、意味がないんだよ。だから、本当に……最後の夏休みを、あやめちゃんと過ごせて良かったなって」
彼女に包まれた手が、痛いほどに握られる。俯いたように地面を見て、何かを隠すみたいに、僕と目を合わせなくなった。ただ、小さく首を縦に振っているのは、隣からでも分かった。
「彩織ちゃん、本当に……っ、私のこと、大好きだよねぇ……」
「だって、本当に大好きだから。そりゃあ言うよ」
えへへ、と、泣き笑いのような声がする。あやめはそのままラムネ瓶を口に付けると、三口、四口と一気に飲み干した。軽やかな炭酸が喉を通って、目蓋を固く閉じながら、軽く悶えていた。
「あーあ、やっぱりシュワシュワして辛いや……」
泣き顔を誤魔化そうと無理に笑う。眦から頬を伝う紅涙が地面に落ちて、丸い染みを作っていった。拭うわけでもなく、それ以上に零すわけでもなく、ただ、そのひとしずくのみだった。
「そろそろ、曼珠沙華の使い道、教えてあげるね」
「……そのラムネ瓶が使いたかったってこと?」
「まぁねっ。ちょっとお水だけ汲んでくる」
ワンピースの裾で雑に涙を拭ってから、あやめは影の伸びる夕暮れ時を走っていった。地面を踏むサンダルの音が遠くなる。手に持ったラムネ瓶と曼珠沙華も、斜陽に染まっていた。
「……最後までご機嫌だなぁ」
でも、それがありがたい。僕が今、それほど感傷的になっていないのも、彼女のおかげなのだから。あやめは、強い。僕よりも、小夜よりも、遥かに強い心を持っていると断言できる。どうしてこんなに強いのかと、たびたび疑問に思うほどには。
やはり、一度は自分の手で命を絶ったから、それが影響しているのだろう。どうしようもない生前を、過去と割り切れる力。現在を現在と疑わず、残りわずかな未来に最大限の期待を込めて、それを実現させようとする力。言うなれば、運命への抵抗。
一度は自分の意志で道を断ったからこそ、二度目の運命は、自分自身にとって最高になるように、舵を取り続けてきた。限りなく短い道のりのなかで、後悔のないように生き続けてきた。そして今はもう、この現実を、しっかりと受け止めている。
「……僕にできるかな、それが」
自分なりに整理はしているつもりだ。やり残したことなんて、今さらありはしない。ただ、少しでも長く一緒にいたい。そして、あやめとの約束を守りながら、生きていくのだと。過去から目を背けずに、未来を踏み外さずに──それが贖罪だから。
「えへへー……彩織ちゃん、どうかな、綺麗でしょ」
あやめの声がして、ふとそちらに視線を向ける。一瞬、ラムネ瓶に反射した斜陽の茜が瞳を射して、不意に目が眩んだ。目蓋の裏に残る残影を煩わしく思いながら、何度か瞬きする。
──それが見間違いだと思いたかったから。
「っ、あやめちゃん、それ……!」
「……あ、もうそんな時間になったんだ」
僕の声にも動揺せず、彼女は寂しそうに笑ったまま、水の入ったラムネ瓶に曼珠沙華をそっと生けている。背後から射し込む日射しが嫌に眩しくて、それは、あやめの背を突き抜けていた。宵の色を増していくなかに、融け込むようだった。
「ねぇ、綺麗でしょ」
僕の前に立つ半透明の姿が、逆光に掻き消される。それなのに陽線は透けて、僕の瞳を射してくる。柔らかく笑うその表情は、確かに綺麗だった。地面に揺らめきを落とすラムネ瓶も、瑞々しさを戻した曼珠沙華も、すべてが神秘的に見えた。
「……やっぱり、あやめちゃんは綺麗だ」
「えへへ……。夕暮れ時だから、余計にね」
一秒経つごとに、陽は沈んでいく。一秒経つごとに、辺りは宵に呑まれていく。早まりつつある心臓の音が、悠然としたこの情景には不釣り合いだった。焦燥すら、無駄だった。
「彩織ちゃんと過ごした夏休み、楽しかったねっ」
「……うん、本当に色々と遊べた。ありがとう」
「こちらこそ。彩織ちゃんがいなかったら、さ」
ぬるくなったあやめの手が、そっと僕の手を握る。火照ってはいない。ただ、冷たくはない。中途半端にぬるいだけ。それがなんだか遠い存在のような気がして、もっと強く握り返した。
「彩織ちゃんさ、私のことを、夏そのものだって言ったよね。夏の色は、あやめ色だって。……それと同じで、私にとっての夏は、彩織ちゃんだったんだよ。彩織ちゃんしか、いなかった」
──そう、そうだ。僕にとっての夏は、今も、昔も、あやめだった。それしか有り得なかった。彼女と過ごすことが日々の彩りで、見るものすべてが、まるで夏の落とし物のようだった。いま飲んでいるラムネ瓶に、それが、ぎゅっと詰まっている。
「……来年の夏は、私はいないけど。でも、楽しみにしてることはいっぱいあるんだよ? 彩織ちゃんが進級して、学校でお勉強してることとか。しっかり小説を書いて、それを読ませてくれることとか。また報告に来てくれるって、思ってるからね」
僕の手を握りながら、しゃがみ込んで目線を合わせてくる。半透明の瞳が、斜陽の茜に煌めいている。眩しいから目をつぶっただけなのに、眦のあたりを、涙が滲みるような気がした。
「眩しいから、目に滲みちゃった?」
「っ、違う……眩しく、ない」
「……誤魔化さないで、偉いね」
とびきり優しい声とともに、ぬるい感触が眦に触れる。今さら、気取りたくなんてない。せめて最後くらいは、等身大のままで終わらせたかった。背伸びをしてもお見通しだろうから、そして、少しくらい困らせても、構ってもらえるから──そんな、子供みたいな理由で、けれど本当に悔しくて、また指で拭う。
何が悔しいのかなんて分からない。分からないけれど、ただ、そう思った。自分の前からいなくなってしまうことが、悔しいのだろうか。そんな利己的な理由で、あやめだって同じはずなのに、本当は無理して笑っているはずなのに──僕だけがこれで、いいのだろうか。そう分かっていても、変われない。
「また、小夜ちゃんと三人で話そう。今度はきちんと、声が伝わるといいね。どうすればいいかは分かんないけど……。……でもね、私、ちゃんと二人のこと、見守ってあげるからねっ。何かあっても、頑張れって、応援するから。夢にだって出るからっ」
「……本当に? 出てこなかったら怒るよ」
「なんで彩織ちゃんがもう怒ってるの……。大丈夫だよ、私は嘘つかないよ。彩織ちゃんが私のことを忘れない限り、ずーっと一緒だから。ね? 安心していいんだよ。何も怖くないよ」
あやめがそう笑ううちにも、陽はどんどん傾いて、夜の底が見えていくのが分かった。同時に、彼女がそこに融けこんでしまいそうなほど、透明の色を増していくのも分かった。
抱きしめたいのに、何かが怖くて触れられない。手に伝う感触が、麻痺したように薄くなっていく。温度も、匂いも、あの柔らかさも、すべてが呑まれていくような気がした。けれど、いま手を伸ばさなければ、そのすべてを永遠に忘れてしまいそうだから、僕は咄嗟に言う。
「──っ、ねぇ、あやめちゃん」
「うん、なぁに」
「……もっと強く、抱きしめたい」
「えへへ、甘えんぼさんだなぁ」
彼女が立ち上がって腕を広げるよりも早く、僕はそこに飛び込んだ。華奢な身体。ぬるさすらなくしていく体温。よろめくように一歩引いて、ラムネ瓶のなかの水が揺れる。曼珠沙華の花びらが頬をくすぐって、その場違いさを嫌だと思った。
「……ごめん、最後まで我儘ばかりで。安心してもらいたいのに、こんなんじゃ──子供みたいで、ごめんね……」
「ううん、いいんだよ。最後の最後だから、思いっきり甘えていいよ。全部、忘れないでいてほしいから……私も、やる」
細い腕が、僕の身体を抱きしめている──はずなのに、その感触がもう、薄かった。自分の神経が麻痺してるんじゃないかとさえ思った。それほど、あやめの存在が、薄まっている。目蓋を開くのさえ怖くて、ずっと、仮初を網膜に映し出していた。
「……やっぱり、あったかいや」
昔から変わらない声がする。けれど、抱きしめた感触は、昔よりも違っていた。……この夏以外に、あやめを抱きしめたことなんて、あったろうか。そんなことは覚えていないのに、ただ、抱きしめたという感触だけは、身体のどこかで覚えていた。
「……あやめちゃん」
「なぁに?」
「……ううん、呼んだだけ」
「……そっか」
何を話せばいいのか分からなくて、このやるせなさを、何で紛らわせばいいのかも分からなくて、意味もなく名前を呼ぶ。それなのに不思議と、心の奥が、微かに満たされるようだった。
「ふぁあ……。えへ、ごめんね……急に眠くなっちゃって」
「うん……。じゃあ、あんまり無理させられないね」
「ううん、大丈夫、頑張るから。あとちょっと……くらい」
気の抜けた欠伸とともに、あやめは弱々しい瞬きをする。耳元で聞こえる声は吐息のように、涼風をはらんでいた。
「……何も言うことなんてないのに、なんで、これだけ一緒にいたいって、思うんだろうねぇ。いつ消えてもいいって、準備はできてるのに──なんか、すっごく、もどかしいんだ」
それはきっと、距離が近づきすぎたから。お互いに充実した、無駄な時間を過ごしてきたから。いちばん辛いのは、別れじゃなくて──それを待っている今の心境だと、そう思った。
「胸の奥が、ぎゅっと締め付けられて、少しだけ息が苦しくて、早く楽になりたいのに、でも、彩織ちゃんと一緒にいたい。ワガママだけど……でも、そろそろ本当に、踏ん切りつけなきゃね」
微かに残る感触が、身体から離れて手だけを繋ぐ。半歩だけ下がったサンダルと、地面を削った音。耳元で鳴る風のような深呼吸は、逆光に暗く、斜陽を透かしたそこから聞こえた。
──夜の帳がほとんど降りかけて、どこかで街灯の灯りが点く。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように玲瓏とした瞳の色も、そのすべてが、いよいよ藍に融けていく。微かに残った茜と紫金が、空いっぱいを、薄く、淡く、彩っていた。
「……彩織ちゃん。最後にさ、一回だけ見せたいものがあるんだ。行く時に思いついたの。綺麗な別れ方って、何かなって」
目を凝らさないと見えないほどに、あやめは透明の色を増していた。それでも今は、確かに笑っているのだと分かった。ラムネ瓶と曼珠沙華だけが、黄昏時のなかで、仄かに浮かんでいる。
「綺麗な、別れ方……?」
「うんっ。なんか、かっこよさそうなやつ」
「ふふっ、なにそれ」
僕の意識が遠のいているのか、或いはあやめの姿が、声が、だんだんと薄らいでいるのか──もはや、よく分からない。繋いでいるはずの手を確かめるように、何度も何度も握り直した。
それでも、最後に笑えたことが嬉しくて、こんな時でも、彼女はまったく変わらないんだと思えて、どこか安心した。薄れていく体温を、その温もりを、手のひらでしっかりと感じる。
「じゃあ──また、来年の夏休みに会おうねっ」
一瞬だけ、あやめの身体に茜が射したような気がした。半透明のそこを内側から照らすように、確かにそう見えた。一歩、二歩、と、軽やかに走るサンダル。涼風をはらんで、なびく純白のワンピース。首筋を撫でる髪と、透き通ったあの瞳も、すべて。
手のひらから指先を、撫でるように這わせていく。感触がいよいよ薄くなって、途切れて、その余韻だけを残していく。あやめは吹っ切れたような、昔から変わらない、あの屈託のない笑顔を浮かべると、僕のほうを見て、弾んだ声で告げた。
「──彩織ちゃん、見ててっ」
そう言うより早く、彼女は持っていたラムネ瓶を空いっぱいに放り投げた。揺らいだ水が口から漏れて、まるで、少女を彩る水滴のように、二人を隔てるように、視界をそっと覆っていく。
雨のように降るその向こうを、ずっと見つめた。一秒ごとに雰囲気が薄れていくのが、はっきりと分かった。それでも目を逸らすことはできなくて、存在の残滓を、見つめ続ける。
──彩織ちゃん、危ないよっ。
そう聞こえたような気がして、咄嗟に我に返る。あやめがいた場所に、ラムネ瓶の破片が舞い散る、ちょうどその時だった。傾いていった斜陽の名残に照らされて、硝子の煌めきが目に刺さる。地面に染みた水溜まりは、雨上がりのような埃臭さだ。
「……危ないよ、やることが」
泣きたいのか笑いたいのか分からなくて、もうなんでもいいやと苦笑しながら、ふと気づく。ラムネ瓶の他に何かが足りない──あの曼珠沙華はどこに行ったのかと、あたりを見回す。
土に吸われていく水を浴びて、花びらが一枚、残っていた。それ以外にはどこにも落ちていなくて、あぁ、と腑に落ちる。
「最初から持っていくって、言えばよかったのに……」
その花びらをつまんで、僕はしばらく、眺めていた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
気付いた時には、すぐに分かるくらい陽が傾いていた。汗ばんだ服が肌に張り付いて、少し気持ち悪い。腕のなかで穏やかな呼吸をしながら、あやめは僕の顔を覗き込んでいる。結局、面倒だからと脱がなかったワンピースは、ほとんど透けていた。
「……なんか、時間が経つのも早いねぇ」
ゆっくりと身体を起こして、彼女は外の様子を眺める。紺青から藍白に変わりゆく空の色を見ると、まるで空も透明になっていくような気がして、夕暮れ時の静けさは、やはり寂しい。
癖のついた髪を手ぐしで梳かしてやりながら、そうだ、と思い出しざまに、傍らのビニール袋たちを手に取る。もう一度あやめに向き直ると、斜陽が放つ茜色が、瞳に眩しかった。
「あやめちゃん、ラムネ飲もう。あと、これも」
縁台へと向かいかけている背姿を呼び止めて、僕は小さな手にそれを持たせた。ぬるくなってしまったラムネ瓶と、少しだけ疲れたような、たった一つの曼珠沙華。無意識に脈が速くなっていることに気がついて、何を焦っているんだ、と思う。
「あっ、曼珠沙華……。そう、これはね、使うんだ」
「何に使うかは、まだ教えてくれない?」
「うん、もう少し待っててね。私の思いつきだけど」
無邪気に笑いながら、だんだんと涼しくなってきた軒先の縁台に座る。僕もその隣に腰掛けて、またいつもの横顔を見た。足元を彩る影が長い。今はいったい、何時になったろうか。
「やっぱり、夏はラムネが美味しいね」
瓶の口を塞ぐビー玉を落としながら、あやめは飲みもしないうちに、そう呟く。とぷん、と沈む音が聞こえて、炭酸の弾ける細やかな音も、瓶の内側で反響しているような気がした。
「えへへ……ぬるいや。あんまり美味しくないっ」
「もっと早く飲めば良かったね。忘れててごめん」
「ううん、これはこれで思い出になるんだから」
さほど冷たくないラムネ瓶越しに、庭先の景色を透かしてみる。炭酸水が背景を歪ませて、ピントの合わない写真みたいだった。ただ、斜陽の眩しさだけは、そこに溶け込んでいる。
「あ、彩織ちゃん、乾杯」
「あっ、うん、乾杯」
硝子がカランと音を立てた。中のビー玉が波に揺れる。
「……あやめちゃんとラムネを飲んでるとさ、いちばん最初に会った時のことを、やっぱり思い出すんだよね」
「昔話? 絶対に泣くからやめようって言ってたのにねぇ」
「ふふっ。この際、別に泣いたっていいよ。最後くらいは懐かしんで終わるのがいいんじゃない? どうせ幼馴染ならね」
「んー……まぁ、それもそうだねっ」
ラムネ瓶を傾けるたびに、とぷん、と波が立つ。炭酸が喉を洗っていく。胸の内にある靄をすべて流し去ってくれるみたいな、そんな爽快感だった。思わず溜息が漏れてしまう。
「……でも、そうだよねぇ。あの時、彩織ちゃんに、麦茶あげたもんね。なんなら、えっと……関節キス、だったし」
「子供同士だから、まぁ、ノーカンってことでさ。でも、今なら普通に関節キスできちゃうよね。キスくらいならするし」
「えへへ……。じゃあ、飲む?」
「ううん、いいよ。これあるもん」
「ねーえっ! 私の勇気……!」
恥ずかしそうに身体を仰け反らせながら、勢いそのまま叩かれる。大声を出して恥ずかしがるあやめは、ちょっと貴重だ。
笑い声が夕暮れ時に染みていく。蝉時雨も、ほとんど聞こえなくなっている。ラムネを飲むたびに、喉が鳴った。
「彩織ちゃんはさ、夏休みも終わったけど、どうするの?」
「……地元に戻るよ。学校はもう始まってるし、夏休みが終わったら、ここにいる理由もないから。それに──ほら、小説も書き上げなきゃいけないんだ。ずっと、スランプだったから」
「そういえば、言ってたね……。スランプは治った?」
「さぁ、どうだろう、書いてみなきゃ分からないね。ただ……今年の夏休みは色々と楽しめたから、いっぱい頑張るよ」
「うんっ。私は、彩織ちゃんのおかげで目が見えるようになったからね。そこは本当にありがとうって思ってる。きっとね、彩織ちゃんだからできたんだよ。彩織ちゃんは凄いよ」
僕の手の上に、そっと重ねてくる。寄せた肩が、軽く当たって離れない。自分の存在理由を本当に認めてもらえた気がして、この後も、きっとやっていけると思った。あの盲目に、色を分けてあげられたことが、あやめにとっての救いになったから。
「……じゃあ、いま書いている小説のヒロインをあやめちゃんにする、って言っても、怒らないでいてくれるかな」
「えっ……? 私?」
「うん、書いてみたいんだ。この夏にあったことを、忘れないようにさ。あやめちゃんのことも、一生、忘れたくないから」
僕の問いに、彼女は少しだけ迷っているようだった。ふいと茜の射す空を見上げて、眩しそうに目を細める。
「私のことは、脚色しないで書いてほしいな。見た目も、性格も、お家の事情も……どういうふうに、生きてきたかも。彩織ちゃんが期待するほど、私、純真じゃなかったかもしれないけど──そこはしっかり、書いてほしい。彩織ちゃんから見た私がどんなだったのかっていうのも、好きなだけ書いてほしい」
淡々と、けれど確かに意志を持った声。それがあやめの頼みなら、きっとその通りに書こうと思った。正直、スランプを抜けたかなんて分からない。ただ漠然と、書かなきゃいけないという使命感に駆られている。どれだけかかるか、分からないけど。
「分かった。あやめちゃんとの約束は、絶対に守るから」
「えへへ……ワガママばっかでごめんね」
手に感じる温もりが、ひときわ増して強くなる。二人同時にラムネを飲んで、炭酸が滲みると目をつぶった。昔話といったけど、今さら話す内容なんて何もなくて、ただこうして一緒にいられるだけで幸せなのだと、やはりお互い、分かっていた。
「この一週間で、四年分、取り戻せたかな」
「もちろんっ。彩織ちゃんは、不満?」
「ううん。あやめちゃんが楽しめたなら」
「毎日、一緒に遊んで、お話して……。お泊まりもできたし、お風呂にも入れたし、小夜ちゃんとも会えた。好きなだけ寝て、起きて、彩織ちゃんと一緒で──すっごく楽しかったよ」
「うん、僕も楽しかった。これだけ楽しい夏休みは、久しぶり……いや、初めてかもしれないね。一週間だけだったのに」
心から楽しめて、心から悲しめる夏休みになった。四年越しの再会が、その現実を見せつけてくれた。色を分けた夏で、夏の落とし物をたくさん拾った。初恋の相手の、その境遇を深く知った。せめてもの罪滅ぼしに、最期まで一緒にいると決めた。
初恋が実った夏になった。幼馴染を失う夏になった。僕にとっての夏は、彼女の存在そのもので──あやめこそが、夏の落とし物なのだと、そう思わずにはいられないような気がした。今も、斜陽が沈むごとに、何かが離れていくみたいだった。
「彩織ちゃんは、なんでこの村に来たんだっけ?」
一週間前の記憶を思い返すように、あやめは呟く。横目でそっと見つめると、何か言いたげに、柔らかく笑っていた。
「──夏を探しに来たんだ。自分の思い描く、理想の夏をさ」
「……それは、どうだった? 見つけられた?」
あの時と変わらない彼女の面持ちは、どこか満足そうで、頬を緩ませたまま僕を見つめているのが、少しだけ可愛らしく思えた。純白のワンピースを涼風になびかせながら、あやめはまた、濃さを増した茜色の空に映える、あの入道雲を見上げている。爛々と降り注ぐ斜陽の眩しさを愛おしむように、目を細めた。
肩まで伸びた黒髪と、紅い曼珠沙華の髪飾り──それが今は、麦わら帽子に隠れることなく現れている。黒曜石のように玲瓏とした瞳の色で、あやめはまた、僕の方へ視線を戻した。その答えを期待しているかのように、何も言わず、ただ見つめてくる。
「僕にとっての夏は、あやめちゃんそのものだからね。あやめちゃんがいなかったら、意味がないんだよ。だから、本当に……最後の夏休みを、あやめちゃんと過ごせて良かったなって」
彼女に包まれた手が、痛いほどに握られる。俯いたように地面を見て、何かを隠すみたいに、僕と目を合わせなくなった。ただ、小さく首を縦に振っているのは、隣からでも分かった。
「彩織ちゃん、本当に……っ、私のこと、大好きだよねぇ……」
「だって、本当に大好きだから。そりゃあ言うよ」
えへへ、と、泣き笑いのような声がする。あやめはそのままラムネ瓶を口に付けると、三口、四口と一気に飲み干した。軽やかな炭酸が喉を通って、目蓋を固く閉じながら、軽く悶えていた。
「あーあ、やっぱりシュワシュワして辛いや……」
泣き顔を誤魔化そうと無理に笑う。眦から頬を伝う紅涙が地面に落ちて、丸い染みを作っていった。拭うわけでもなく、それ以上に零すわけでもなく、ただ、そのひとしずくのみだった。
「そろそろ、曼珠沙華の使い道、教えてあげるね」
「……そのラムネ瓶が使いたかったってこと?」
「まぁねっ。ちょっとお水だけ汲んでくる」
ワンピースの裾で雑に涙を拭ってから、あやめは影の伸びる夕暮れ時を走っていった。地面を踏むサンダルの音が遠くなる。手に持ったラムネ瓶と曼珠沙華も、斜陽に染まっていた。
「……最後までご機嫌だなぁ」
でも、それがありがたい。僕が今、それほど感傷的になっていないのも、彼女のおかげなのだから。あやめは、強い。僕よりも、小夜よりも、遥かに強い心を持っていると断言できる。どうしてこんなに強いのかと、たびたび疑問に思うほどには。
やはり、一度は自分の手で命を絶ったから、それが影響しているのだろう。どうしようもない生前を、過去と割り切れる力。現在を現在と疑わず、残りわずかな未来に最大限の期待を込めて、それを実現させようとする力。言うなれば、運命への抵抗。
一度は自分の意志で道を断ったからこそ、二度目の運命は、自分自身にとって最高になるように、舵を取り続けてきた。限りなく短い道のりのなかで、後悔のないように生き続けてきた。そして今はもう、この現実を、しっかりと受け止めている。
「……僕にできるかな、それが」
自分なりに整理はしているつもりだ。やり残したことなんて、今さらありはしない。ただ、少しでも長く一緒にいたい。そして、あやめとの約束を守りながら、生きていくのだと。過去から目を背けずに、未来を踏み外さずに──それが贖罪だから。
「えへへー……彩織ちゃん、どうかな、綺麗でしょ」
あやめの声がして、ふとそちらに視線を向ける。一瞬、ラムネ瓶に反射した斜陽の茜が瞳を射して、不意に目が眩んだ。目蓋の裏に残る残影を煩わしく思いながら、何度か瞬きする。
──それが見間違いだと思いたかったから。
「っ、あやめちゃん、それ……!」
「……あ、もうそんな時間になったんだ」
僕の声にも動揺せず、彼女は寂しそうに笑ったまま、水の入ったラムネ瓶に曼珠沙華をそっと生けている。背後から射し込む日射しが嫌に眩しくて、それは、あやめの背を突き抜けていた。宵の色を増していくなかに、融け込むようだった。
「ねぇ、綺麗でしょ」
僕の前に立つ半透明の姿が、逆光に掻き消される。それなのに陽線は透けて、僕の瞳を射してくる。柔らかく笑うその表情は、確かに綺麗だった。地面に揺らめきを落とすラムネ瓶も、瑞々しさを戻した曼珠沙華も、すべてが神秘的に見えた。
「……やっぱり、あやめちゃんは綺麗だ」
「えへへ……。夕暮れ時だから、余計にね」
一秒経つごとに、陽は沈んでいく。一秒経つごとに、辺りは宵に呑まれていく。早まりつつある心臓の音が、悠然としたこの情景には不釣り合いだった。焦燥すら、無駄だった。
「彩織ちゃんと過ごした夏休み、楽しかったねっ」
「……うん、本当に色々と遊べた。ありがとう」
「こちらこそ。彩織ちゃんがいなかったら、さ」
ぬるくなったあやめの手が、そっと僕の手を握る。火照ってはいない。ただ、冷たくはない。中途半端にぬるいだけ。それがなんだか遠い存在のような気がして、もっと強く握り返した。
「彩織ちゃんさ、私のことを、夏そのものだって言ったよね。夏の色は、あやめ色だって。……それと同じで、私にとっての夏は、彩織ちゃんだったんだよ。彩織ちゃんしか、いなかった」
──そう、そうだ。僕にとっての夏は、今も、昔も、あやめだった。それしか有り得なかった。彼女と過ごすことが日々の彩りで、見るものすべてが、まるで夏の落とし物のようだった。いま飲んでいるラムネ瓶に、それが、ぎゅっと詰まっている。
「……来年の夏は、私はいないけど。でも、楽しみにしてることはいっぱいあるんだよ? 彩織ちゃんが進級して、学校でお勉強してることとか。しっかり小説を書いて、それを読ませてくれることとか。また報告に来てくれるって、思ってるからね」
僕の手を握りながら、しゃがみ込んで目線を合わせてくる。半透明の瞳が、斜陽の茜に煌めいている。眩しいから目をつぶっただけなのに、眦のあたりを、涙が滲みるような気がした。
「眩しいから、目に滲みちゃった?」
「っ、違う……眩しく、ない」
「……誤魔化さないで、偉いね」
とびきり優しい声とともに、ぬるい感触が眦に触れる。今さら、気取りたくなんてない。せめて最後くらいは、等身大のままで終わらせたかった。背伸びをしてもお見通しだろうから、そして、少しくらい困らせても、構ってもらえるから──そんな、子供みたいな理由で、けれど本当に悔しくて、また指で拭う。
何が悔しいのかなんて分からない。分からないけれど、ただ、そう思った。自分の前からいなくなってしまうことが、悔しいのだろうか。そんな利己的な理由で、あやめだって同じはずなのに、本当は無理して笑っているはずなのに──僕だけがこれで、いいのだろうか。そう分かっていても、変われない。
「また、小夜ちゃんと三人で話そう。今度はきちんと、声が伝わるといいね。どうすればいいかは分かんないけど……。……でもね、私、ちゃんと二人のこと、見守ってあげるからねっ。何かあっても、頑張れって、応援するから。夢にだって出るからっ」
「……本当に? 出てこなかったら怒るよ」
「なんで彩織ちゃんがもう怒ってるの……。大丈夫だよ、私は嘘つかないよ。彩織ちゃんが私のことを忘れない限り、ずーっと一緒だから。ね? 安心していいんだよ。何も怖くないよ」
あやめがそう笑ううちにも、陽はどんどん傾いて、夜の底が見えていくのが分かった。同時に、彼女がそこに融けこんでしまいそうなほど、透明の色を増していくのも分かった。
抱きしめたいのに、何かが怖くて触れられない。手に伝う感触が、麻痺したように薄くなっていく。温度も、匂いも、あの柔らかさも、すべてが呑まれていくような気がした。けれど、いま手を伸ばさなければ、そのすべてを永遠に忘れてしまいそうだから、僕は咄嗟に言う。
「──っ、ねぇ、あやめちゃん」
「うん、なぁに」
「……もっと強く、抱きしめたい」
「えへへ、甘えんぼさんだなぁ」
彼女が立ち上がって腕を広げるよりも早く、僕はそこに飛び込んだ。華奢な身体。ぬるさすらなくしていく体温。よろめくように一歩引いて、ラムネ瓶のなかの水が揺れる。曼珠沙華の花びらが頬をくすぐって、その場違いさを嫌だと思った。
「……ごめん、最後まで我儘ばかりで。安心してもらいたいのに、こんなんじゃ──子供みたいで、ごめんね……」
「ううん、いいんだよ。最後の最後だから、思いっきり甘えていいよ。全部、忘れないでいてほしいから……私も、やる」
細い腕が、僕の身体を抱きしめている──はずなのに、その感触がもう、薄かった。自分の神経が麻痺してるんじゃないかとさえ思った。それほど、あやめの存在が、薄まっている。目蓋を開くのさえ怖くて、ずっと、仮初を網膜に映し出していた。
「……やっぱり、あったかいや」
昔から変わらない声がする。けれど、抱きしめた感触は、昔よりも違っていた。……この夏以外に、あやめを抱きしめたことなんて、あったろうか。そんなことは覚えていないのに、ただ、抱きしめたという感触だけは、身体のどこかで覚えていた。
「……あやめちゃん」
「なぁに?」
「……ううん、呼んだだけ」
「……そっか」
何を話せばいいのか分からなくて、このやるせなさを、何で紛らわせばいいのかも分からなくて、意味もなく名前を呼ぶ。それなのに不思議と、心の奥が、微かに満たされるようだった。
「ふぁあ……。えへ、ごめんね……急に眠くなっちゃって」
「うん……。じゃあ、あんまり無理させられないね」
「ううん、大丈夫、頑張るから。あとちょっと……くらい」
気の抜けた欠伸とともに、あやめは弱々しい瞬きをする。耳元で聞こえる声は吐息のように、涼風をはらんでいた。
「……何も言うことなんてないのに、なんで、これだけ一緒にいたいって、思うんだろうねぇ。いつ消えてもいいって、準備はできてるのに──なんか、すっごく、もどかしいんだ」
それはきっと、距離が近づきすぎたから。お互いに充実した、無駄な時間を過ごしてきたから。いちばん辛いのは、別れじゃなくて──それを待っている今の心境だと、そう思った。
「胸の奥が、ぎゅっと締め付けられて、少しだけ息が苦しくて、早く楽になりたいのに、でも、彩織ちゃんと一緒にいたい。ワガママだけど……でも、そろそろ本当に、踏ん切りつけなきゃね」
微かに残る感触が、身体から離れて手だけを繋ぐ。半歩だけ下がったサンダルと、地面を削った音。耳元で鳴る風のような深呼吸は、逆光に暗く、斜陽を透かしたそこから聞こえた。
──夜の帳がほとんど降りかけて、どこかで街灯の灯りが点く。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように玲瓏とした瞳の色も、そのすべてが、いよいよ藍に融けていく。微かに残った茜と紫金が、空いっぱいを、薄く、淡く、彩っていた。
「……彩織ちゃん。最後にさ、一回だけ見せたいものがあるんだ。行く時に思いついたの。綺麗な別れ方って、何かなって」
目を凝らさないと見えないほどに、あやめは透明の色を増していた。それでも今は、確かに笑っているのだと分かった。ラムネ瓶と曼珠沙華だけが、黄昏時のなかで、仄かに浮かんでいる。
「綺麗な、別れ方……?」
「うんっ。なんか、かっこよさそうなやつ」
「ふふっ、なにそれ」
僕の意識が遠のいているのか、或いはあやめの姿が、声が、だんだんと薄らいでいるのか──もはや、よく分からない。繋いでいるはずの手を確かめるように、何度も何度も握り直した。
それでも、最後に笑えたことが嬉しくて、こんな時でも、彼女はまったく変わらないんだと思えて、どこか安心した。薄れていく体温を、その温もりを、手のひらでしっかりと感じる。
「じゃあ──また、来年の夏休みに会おうねっ」
一瞬だけ、あやめの身体に茜が射したような気がした。半透明のそこを内側から照らすように、確かにそう見えた。一歩、二歩、と、軽やかに走るサンダル。涼風をはらんで、なびく純白のワンピース。首筋を撫でる髪と、透き通ったあの瞳も、すべて。
手のひらから指先を、撫でるように這わせていく。感触がいよいよ薄くなって、途切れて、その余韻だけを残していく。あやめは吹っ切れたような、昔から変わらない、あの屈託のない笑顔を浮かべると、僕のほうを見て、弾んだ声で告げた。
「──彩織ちゃん、見ててっ」
そう言うより早く、彼女は持っていたラムネ瓶を空いっぱいに放り投げた。揺らいだ水が口から漏れて、まるで、少女を彩る水滴のように、二人を隔てるように、視界をそっと覆っていく。
雨のように降るその向こうを、ずっと見つめた。一秒ごとに雰囲気が薄れていくのが、はっきりと分かった。それでも目を逸らすことはできなくて、存在の残滓を、見つめ続ける。
──彩織ちゃん、危ないよっ。
そう聞こえたような気がして、咄嗟に我に返る。あやめがいた場所に、ラムネ瓶の破片が舞い散る、ちょうどその時だった。傾いていった斜陽の名残に照らされて、硝子の煌めきが目に刺さる。地面に染みた水溜まりは、雨上がりのような埃臭さだ。
「……危ないよ、やることが」
泣きたいのか笑いたいのか分からなくて、もうなんでもいいやと苦笑しながら、ふと気づく。ラムネ瓶の他に何かが足りない──あの曼珠沙華はどこに行ったのかと、あたりを見回す。
土に吸われていく水を浴びて、花びらが一枚、残っていた。それ以外にはどこにも落ちていなくて、あぁ、と腑に落ちる。
「最初から持っていくって、言えばよかったのに……」
その花びらをつまんで、僕はしばらく、眺めていた。