進展、後退、現状維持Ⅱ
ー/ー次にあやめが目を覚ましたのは、夜の八時を過ぎたあたりだった。お風呂上がりの蒸し暑さに、窓から吹き込む小夜風が涼しい。日記帳の上に滑らせていたペンを置いてから、僕は薄っすらと覗く、焦点のあっていない、あの澄み切った黒曜石のような瞳を見た。
「……彩織ちゃん、なにやってるの」
「日記帳。書いてた」
ふぅん、と、欠伸混じりの声が洩れる。あやめはゆっくり起き上がって、そのまま窓の外を見た。街灯の明かりなんて、踏切のところに一つだけだ。宵に咲く一番星みたいだと、ふと、そんなことを思う。蛍光灯の白さが彼女の身体を透き通って、それが一層、淡かった。
「涼しいし、夜のお散歩、行きたいな」
「……この時間に? いいけど、珍しいね」
「うん。行ったことないなって思ったから」
寝起きのためか、ぎこちなく笑う彼女の手を引きながら、「じゃあ、行こうか」と手短に言う。僕の指だけを掴むその感触が、まるで小さな子供のようで、ちょっと新鮮に感じられた。
部屋を出てすぐに、お風呂上がりの小夜と行き違う。手ぬぐいを首にかけて、いつも通りのだらしない格好だった。蒸すような暑さのなかに、少しだけシャンプーのいい匂いがする。
「あ、小夜、あやめちゃんとお散歩行ってくるね」
「おー、二人っきりで夜の散歩なんて初めてやない? いってらー」
手を振ってくる彼女に振り返して、そのまま階段を降りた。履物を履いて、玄関の扉に手をかける。動くたびにカラカラと鳴る。それをうるさいなぁと思い思い、後ろ手で閉めた。
道路に出ても、案の定、照明はない。街灯が数十メートルおきにあるくらいで──だから、こんなに暗いから、どれだけ目を凝らしても、あやめの姿が見えない。雲に陰った月のせいで、月明かりすらも当てにならなかった。まったく見えないのが少し怖くて、握る力を強める。
「私のお家のほう、行ってみていい?」
「うん。ここ何日か行ってなかったもんね」
歩を踏み出す。冷めたアスファルトの硬さが、足の裏に伝わっていく。どこからか、ひっきりなしに虫の鳴き声が聞こえていた。いよいよ夏が終わるんだな、と、そう思った。
手のひらに、温かいものが触れている。柔らかいものが触れている。ただそれだけで、姿は、よく見えない。近づいてきた街灯に照らされて、その光に降られながら、あやめは横目で僕を見上げていた。薄闇のなかに、半透明の少女。正真正銘の幽霊だ、なんて、ふと思う。
「……また暗くなっちゃった」
残念そうな彼女の声が、薄れていく明かりの余韻に照らされていった。いま暗がりで見えないだけで、これほど不安になるんだったら、本当に透明になってしまったら、僕はどうすればいいんだろう。声も温度も匂いも分からないまま、触れた感触もなくなって、真昼なら見えていたはずのものが、最初から存在しなかったかのように、返事すらしてくれなくなる。
……今はきっと、近い未来に訪れる苦痛を、そっと慣らすための時間でしかない。お互いに平静を気取っているけれど、心のどこかでは怖いはずだ。今朝のことだって、きっとそうだ。
「明かりは少ないけど、大丈夫? 怖くない?」
「ん……大丈夫。彩織ちゃんがいてくれるから」
かろうじて、顔の輪郭が分かる。虫の鳴き声を聞きながら、手のひらの温かさを確認する。
それからふと、言い方を間違えたな、と思った。せめて『僕がいるから大丈夫だよ』の一言くらい、言えればよかったのに。昔から、こういう気の利いたことは、言えずにいたままだ。
「足元──」
暗いから、転ばないでね。いつもの坂道に差しかかったところで、二人の声が重なる。
考えていることは同じなんだなと、姿は見えにくいけれど、少しだけ嬉しくなった。高まる脈拍を抑えながら、湿りかけてきた手を、更に強く握り直す。あやめは今、どんな表情をしているだろう。僕は、たぶん、笑っている。あやめにも、笑っていてほしかった。
「ちょっと歩いただけなのに、なんだかあっついね」
少しだけ踏ん張って、真っ暗な坂道を登る。雲間から射す月明かりに照らされて、白いガードレールの終わりが見えた。「縁側、座ろっか」と、含み笑いのように彼女は言う。
腕を伸ばしたその輪郭も、細やかな指のそれも、僕にはほとんど見えない。もう少しだけ月が出てくれれば、あやめの顔が見えるのにな、と、そんな祈りとともに、冷たい縁側に座った。
「夜にここに来るの、何気に初めてかも」
「彩織ちゃんはたぶん、そうだよね。私はよく、ここで涼んでたよ」
「ちょうどいいもんね。縁側があって、庭が開けてて」
「うん。さすがにちょっと、暗くて怖いかもしれないけど」
「僕がいるのに? そのうち月明かりも出てくるから、大丈夫だよ」
彼女の横顔、その輪郭が少し動いて、小さな笑い声を洩らす。それに呼応するように、晩夏の小夜風が、頬を優しく撫でていった。繋いだ手の温もりは変わらなくて、遥か頭上をゆっくりと揺蕩う雲も、いつの間にか、隠れがちだった月の姿を現して、仄かに辺りが明るくなる。
「……ほんとだ、明るくなった。これでやっと、顔が見れるね」
はっきりと、とは言えないけれど、これでも充分だ。まったく見えなかったさっきまでに比べれば、少し目を凝らせば、見えるんだから。形があって、色がある。確かに、そこにいる。そんな半透明のあやめが、目を細めて嬉しそうに笑ったのを、僕は今、この目で見た。
「お散歩に行こうって言ったのは、涼みたかったのもあるんだけど……本当は、彩織ちゃんに話したいことがあってね。みんなに変に思われないように、わざわざここまで来たんだ」
「……話したいことって? 相談事とかあるなら、聞くよ」
なんだろう、と疑問に思うよりも早く、心臓が跳ねた。咄嗟に嫌な予感がして、けれど、動揺していることを気取られたくなくて、僕は小さく深呼吸しながら、そのまま先を促す。
明らかに言い淀んでいた。何かを言おうとして、口を閉じる。僕に向けた視線が、ときおり右往左往と彷徨する。淡い月明かりが、瞳に揺らぐそれを反照させている、ような気がした。
「……彩織ちゃん、もう、実家に帰って」
「は……?」
崖から突き落とされたような、そんな衝撃だった。心地の悪い浮遊感。脳髄を思い切り殴られたあとの、夢とも現ともつかないような、あの余韻。むしろ夢であってほしいと、そう思う。
「実家にって、なんで……? 僕は最後まで、あやめちゃんと一緒にいるつもりで──」
「ううん、それももう、必要ないから。彩織ちゃんのため、だから。お願い。帰って」
「僕のためってなに? それが理由だって言うんなら、もっと説明してよ」
握る手の感触が少しずつ離れていって、それを食い止めるように、また強く掴んだ。
「──っ、やだ! だったら全部、彩織ちゃんのためなんかじゃないっ。みんな私のためだから……! こんなんだったら、好きになんかなるんじゃなかった! もう、彩織ちゃんなんか、大嫌いっ、だから……だから、さっさと、私のとこから離れてよ……! これじゃ、ずっと、彩織ちゃんのこと、好きになっちゃってるまま、だから……! ……もう、怖いんだよ」
僕にしか聞こえない嗚咽混じりの声は、悲痛の色を帯びていた。咄嗟に立ち上がったその拍子に、あやめの手が僕の手を振りほどく。こんなの絶対に、彼女の本心じゃない、そう分かりきっていながらも、どう声をかけたらいいのかは、今の僕には分からないでいた。さっきまで笑っていたのも、寝る前に少しだけとったスキンシップも、全て嘘だったとは、思えないから。
「……僕のことが嫌いなんて、嘘でしょ。そうやってなにか一人で考えてさ、勝手にやろうとするの、よくないよ。嘘をついてまで、わざと辛い思いをしてまで、やりたいことなの?」
「こうでもしなきゃ、私も彩織ちゃんも、いちばん辛くなるんだよ? 本当に、明後日、最後の日にさ──笑って終われると思ってるの? そんなの無理だよっ。だから、せめて……!」
月明かりに照る紅涙が、玲瓏たる珠のように煌めいて、こんな状況なのに、綺麗だと思うくらいの余裕は残っていた。あやめが手の甲で拭ったそれが、地面に落ちて、土に染みていく。
だからといって、聞き漏らすはずもなかった。明後日が最後の日だと、そう、言ったのを。
「……なんで分かるの? 明後日が最後だって」
「症状の進み方……だけじゃないよ。だって、九月四日が、私の命日だから」
諦観のような笑みを貼り付けて、あやめは乾いた声を洩らす。それは同時に、自嘲で、皮肉だとも思った。九が苦しみなら、四は死そのものだ。きっと、狙ったわけではない、と思う。でも、きっとその日が最後なのだと、疑いようのない確信を、僕もたった今、抱いてしまった。
純白の布を固く握りしめながら、彼女は滔々と、思いの丈を吐き出すかのように続ける。
「……四年ぶりに、彩織ちゃんに会ってさ、やっと成仏できるんだって思った。最後に好きな人に会えて、好きだって言えたら、それでもう充分だから、って。それで、彩織ちゃんが色を分けてくれたおかげで、私は目が見えるようになった。嬉しかったけど、でも、怖くなった」
彼女のサンダルが土を踏む。蒸したような匂いが、鼻腔を仄かに香っていく。
「覚悟はしてたはずなのに、やりたいことは終わったはずなのに、好きな人と離れるのが怖くて……ただ、それだけなんだけど、でもね、私、気付いちゃったんだ。本当のこと」
「……本当のこと?」
「うん。目が見えるようになったのも、身体が透明になっていくのも、みんな、私のせい。彩織ちゃんのことを好きだって思う気持ちと比例するみたいに、どんどん進んでいくんだよ」
だからね、と、泣き笑いのような表情で、それを月明かりが薄く照らす。
「だから、彩織ちゃんと離れて、本気で嫌いになれば、また、成仏できないままになるのかなって。目が見えなくなっても、夢のなかに逃げればいいかなって。会えないけど、私はまだこの世界にいるんだって、そう思ってもらいたかった。彩織ちゃんのなかでは、生きてるって」
「……そんなの、納得するはずないじゃん。自分で言ったんだよ? 幽霊がこの世界にいるのはおかしいんだって。いま会えてるのは、お互いの目的を果たすため。それできっちりと清算して、綺麗に別れるため。僕だって辛いけど、それくらい分かってるよ。いちばん逃げちゃ駄目なのは、あやめちゃんのほうでしょ? その代わり、最後まで一緒にいるんだよ」
好きになるんじゃなかった、なんて、そんなの言わないでほしい。勝手に帰れとか、そんなの言われたくもない。嘘塗れの大嫌い、なんて、そんなのが響くはずもない。僕は──見ないだけで、言わないだけで、覚悟は決めているのに。怖いのも、辛いのも、お互い様のはずなのに。自分だけが逃げようとするなんて、あやめはそんな子じゃないと、思いたかった。
「……そう、だよね。ごめんね。大嫌いとか言ったのも、みんな嘘。もしかしたら、言い負かせるかなって思ったけど、無理だった。……でも、それ以外のことは、本当だから。やっぱり、一緒にいられないのは寂しいんだよ。一回は死んだはずなのに、また死ぬのは、怖い」
縁側に座り直しながら、僕に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、あやめは語る。視界の端に、半透明の彼女の手が見えて、触れてみたその感触は、さっきと何も変わらなかった。
「駄目だよ、現実から逃げちゃ。最後まで僕が一緒にいるから、せめて、悔いのないようにしよう。最後にはきっと、笑えるようにさ。少しでも怖くなくなるように、僕がするから」
どうやって、なんて、そんなの分からない。分からないけど、せめて今は、この夏が終わるまでは、あやめと別れるまでは──一緒にいなければいけないのだと、そう思っている。それが僕の使命だ。僕にだけ彼女が見えることも、話せることも、全てはきっと、そこなのだろう。
「──どんなになっても、彩織ちゃんは、私のそばにいてくれる?」
「いるよ、絶対に。最後の最後までね」
月明かりに照らされた薄い笑みが、それでもどこか、純粋な安堵のような気がした。
◇
目覚めてすぐに、それは昨夜の答え合わせだと思った。正直、あまり思い返したくない話、ではあるのだけれど、でも、そう感じた。『好きになる気持ちと比例していくみたいに』、症状が進んでいく。あやめが聞かせてくれた本音が、あの安堵の笑みが本物だったのだと確信できて、少しだけ嬉しくなる。いま、僕に抱きついて離れない彼女の姿が、そう語っていた。
薄い曙光の眩しさが、いつも通りの、あの開きっぱなしの窓から射し込んでくる。それが瞳を焼いてきて、普段なら遮ってくれるはずのあやめの姿は、一瞬、いるかも分からないほどに淡く、透けていた。今にも消えてしまいそうな儚さが、それでもやはり、綺麗だった。
お互いの吐息がかかるほどに距離が近くて、重さで痺れた腕をゆっくりと持ち上げながら、その黒い髪を優しく撫でる。暑苦しいのか、少しだけ汗で貼り付いていた。でも、手触りの良さは変わらない。わずかに早まる鼓動を感じつつ、僕は一人で笑みを洩らす。
……どうすれば、あやめのことを安心させてやれるだろう。今までと同じように、では、たぶん駄目だ。恋人としての付き合い方。それが彼女の唯一の願いだったのだから、それを叶えてやれるのは、やはり、僕しかいない。この数日、なんとか一緒に暮らしているけれど──せめて今日くらいは、何も恥ずかしがらずに、純粋に楽しんでいたいなと、そんなことを思った。
「早く起きてほしいなぁ……。そうしたら長い時間、一緒にいられるのにな……なんてね」
耳元で囁いて、でも恥ずかしくなって、すぐに顔を離す。直前の決意、既に崩壊らしい。
……あやめが起きるまで、もう少しだけ、一緒に寝ていようかな。
目を閉じる。
吐息が聞こえる。
だんだんと離れていく意識に従いながら、僕はまた、眠りに落ちた──。
◇
次に目が覚めたのは、あやめの寝起きの声が聞こえた時だった。子供が洩らすような、そんな声。自分が思うよりもすんなりと意識が覚醒して、焦点の合わない目を彼女のほうに向けた。
「……彩織ちゃん、起きた?」
「うん。あやめちゃんの声で起きた」
「私、そんなにうるさくない……」
不満げに言いながら、いつの間にか抱きついていた僕の腕に顔を寄せてくる。少しだけドキリとしたけれど、恥ずかしがるな、恥ずかしがるな、と、心のなかで何度も繰り返した。
「ぐずってるあやめちゃん、子供みたいで可愛いね」
「……子供じゃなくて、おねーさんだもん」
あやめがお姉さんって、あまり想像できないな。でも無邪気な性格だから、どうせ年下とも一緒になって遊ぶ子だと思う。寝起きはこうやってぐずってるけど、まぁ、ご愛嬌かな。
数分して目が覚めてきたのか、組んでいた僕の腕から手を離しつつ、そっと起き上がる。
それから一通り自分の身体を眺め回すと、一瞬だけ顔が曇って、でもすぐに笑い出した。
「私、彩織ちゃんのこと、好きすぎかも」
「……うん、思った。昨夜言ってたこと、分かった気がする」
「今までも我慢してなかったけど、今日はもっと我慢しないから」
「いいよ、あやめちゃんの言うことならなんでも聞く」
「……キスしてって言ったら、してくれるの?」
「……いい、よ」
起き上がりながら告げた、たどたどしい僕の答えに、あやめはその透明感でも分かるほど、頬に紅潮の色を差していった。自分が言ったんでしょ、と追撃してみると、本気で恥ずかしかったのか、僕と目を合わせてくれなくなった。冗談なら冗談だけにしてほしいよ。
「……されるのは嫌だけど、するのはいいよ。じゃなきゃ私、今にでも消えちゃうよ」
それは困るなぁ、と照れ隠しに笑いながら、どうしたものかと思案する。ここは僕から踏み込むべきだと思ったのに、まさか自分が待ちの立場になるとは。これも逆に恥ずかしい。
あやめはじっと僕の目を見つめると、無言のまま、布団に手をついて押し黙っていた。その気まずさ、というよりも、張り裂けそうなほどうるさい心臓の鼓動を許しているのが、なんだか気恥ずかしくて、ときおり目を逸らさずにはいられないほど、羞恥心に襲われていた。
「……目だけつぶっててほしい」
言われた通りに目をつぶる。いちいち段階を踏んでこんなことをするから、余計に恥ずかしくなるんだ。そう文句も言いたくなったけれど、喉の奥に堪えて我慢する。視覚がなくなったからだろうか、耳に届く音がやけに鋭敏に聞こえるような気がして──あやめの少し浅い呼吸とか、服と布団の衣擦れとか──そういうものがどこか蠱惑的な雰囲気を生み出していた。
窓から射し込む、朝の柔らかな陽だまりに包まれて、けれどどこか暑苦しくて、焦らされているような、急かしたいような、そんな気持ち。うるさい心臓をかなぐり捨てることができれば、まだこの刹那的な瞬間も、耐えきれるのだろうと、そんなことを密かに思った。
「……いくよ?」
「……うん」
掻き消えそうな声。何度目かの深呼吸と、衣擦れの音と、微かに聞こえてきそうな鼓動。目をつぶっていても気配は分かる。息は止めているのか、ときおり小さく喉が鳴っていた。
「──っ、ん……」
少しだけ漏れた声が、至近距離で聞こえる。どこか淡くて温かい、けれど、すぐに消えてしまうもの。唇にほんの少し触れた、その柔らかい感触は、一瞬だけじゃなくて、しばらくそこに留まっていた。やがて離れても、余韻がまだ、触れた指に熱を帯びて残っている。
「えへへ……」
離れていく顔にピントを合わせながら、はにかむ彼女の面持ちを呆然と眺めていた。日射しが射し込んで、それがあやめの身体を照らしていって、ただでさえ見えなくなりそうなものが、余計に、まるで空気そのものに融け消えてしまったような──。そのたびに心臓がひときわ強く鼓動する。すぐに安堵しても、拭えない心地の悪さ。温もりを感じたいはずなのに、どこか背筋が寒くて、わけも分からず泣いてしまいそうな気がした。それを隠そうと彼女に抱きつく。
「彩織ちゃん、甘えんぼさんだねぇ」
「……ん」
一言くらい言いたかったのに、喉が締まって何も言えなかった。何を言おうとしたのかも、次の瞬間には、忘れてしまった。無言のまま抱き返してくれるその温もりは、ずっと変わらない。だからこそ、ふと見ても、目を凝らしても、はっきりと捉えられないことが辛くて、ほんの数日前までのあの記憶が、実体とともに陽炎のように消えてしまいそうな、そんな気がした。
「……今日くらい、彩織ちゃんと甘えたって、許されるもんね」
水底で揺らめく、そんな静けさのような声だった。
「……彩織ちゃん、なにやってるの」
「日記帳。書いてた」
ふぅん、と、欠伸混じりの声が洩れる。あやめはゆっくり起き上がって、そのまま窓の外を見た。街灯の明かりなんて、踏切のところに一つだけだ。宵に咲く一番星みたいだと、ふと、そんなことを思う。蛍光灯の白さが彼女の身体を透き通って、それが一層、淡かった。
「涼しいし、夜のお散歩、行きたいな」
「……この時間に? いいけど、珍しいね」
「うん。行ったことないなって思ったから」
寝起きのためか、ぎこちなく笑う彼女の手を引きながら、「じゃあ、行こうか」と手短に言う。僕の指だけを掴むその感触が、まるで小さな子供のようで、ちょっと新鮮に感じられた。
部屋を出てすぐに、お風呂上がりの小夜と行き違う。手ぬぐいを首にかけて、いつも通りのだらしない格好だった。蒸すような暑さのなかに、少しだけシャンプーのいい匂いがする。
「あ、小夜、あやめちゃんとお散歩行ってくるね」
「おー、二人っきりで夜の散歩なんて初めてやない? いってらー」
手を振ってくる彼女に振り返して、そのまま階段を降りた。履物を履いて、玄関の扉に手をかける。動くたびにカラカラと鳴る。それをうるさいなぁと思い思い、後ろ手で閉めた。
道路に出ても、案の定、照明はない。街灯が数十メートルおきにあるくらいで──だから、こんなに暗いから、どれだけ目を凝らしても、あやめの姿が見えない。雲に陰った月のせいで、月明かりすらも当てにならなかった。まったく見えないのが少し怖くて、握る力を強める。
「私のお家のほう、行ってみていい?」
「うん。ここ何日か行ってなかったもんね」
歩を踏み出す。冷めたアスファルトの硬さが、足の裏に伝わっていく。どこからか、ひっきりなしに虫の鳴き声が聞こえていた。いよいよ夏が終わるんだな、と、そう思った。
手のひらに、温かいものが触れている。柔らかいものが触れている。ただそれだけで、姿は、よく見えない。近づいてきた街灯に照らされて、その光に降られながら、あやめは横目で僕を見上げていた。薄闇のなかに、半透明の少女。正真正銘の幽霊だ、なんて、ふと思う。
「……また暗くなっちゃった」
残念そうな彼女の声が、薄れていく明かりの余韻に照らされていった。いま暗がりで見えないだけで、これほど不安になるんだったら、本当に透明になってしまったら、僕はどうすればいいんだろう。声も温度も匂いも分からないまま、触れた感触もなくなって、真昼なら見えていたはずのものが、最初から存在しなかったかのように、返事すらしてくれなくなる。
……今はきっと、近い未来に訪れる苦痛を、そっと慣らすための時間でしかない。お互いに平静を気取っているけれど、心のどこかでは怖いはずだ。今朝のことだって、きっとそうだ。
「明かりは少ないけど、大丈夫? 怖くない?」
「ん……大丈夫。彩織ちゃんがいてくれるから」
かろうじて、顔の輪郭が分かる。虫の鳴き声を聞きながら、手のひらの温かさを確認する。
それからふと、言い方を間違えたな、と思った。せめて『僕がいるから大丈夫だよ』の一言くらい、言えればよかったのに。昔から、こういう気の利いたことは、言えずにいたままだ。
「足元──」
暗いから、転ばないでね。いつもの坂道に差しかかったところで、二人の声が重なる。
考えていることは同じなんだなと、姿は見えにくいけれど、少しだけ嬉しくなった。高まる脈拍を抑えながら、湿りかけてきた手を、更に強く握り直す。あやめは今、どんな表情をしているだろう。僕は、たぶん、笑っている。あやめにも、笑っていてほしかった。
「ちょっと歩いただけなのに、なんだかあっついね」
少しだけ踏ん張って、真っ暗な坂道を登る。雲間から射す月明かりに照らされて、白いガードレールの終わりが見えた。「縁側、座ろっか」と、含み笑いのように彼女は言う。
腕を伸ばしたその輪郭も、細やかな指のそれも、僕にはほとんど見えない。もう少しだけ月が出てくれれば、あやめの顔が見えるのにな、と、そんな祈りとともに、冷たい縁側に座った。
「夜にここに来るの、何気に初めてかも」
「彩織ちゃんはたぶん、そうだよね。私はよく、ここで涼んでたよ」
「ちょうどいいもんね。縁側があって、庭が開けてて」
「うん。さすがにちょっと、暗くて怖いかもしれないけど」
「僕がいるのに? そのうち月明かりも出てくるから、大丈夫だよ」
彼女の横顔、その輪郭が少し動いて、小さな笑い声を洩らす。それに呼応するように、晩夏の小夜風が、頬を優しく撫でていった。繋いだ手の温もりは変わらなくて、遥か頭上をゆっくりと揺蕩う雲も、いつの間にか、隠れがちだった月の姿を現して、仄かに辺りが明るくなる。
「……ほんとだ、明るくなった。これでやっと、顔が見れるね」
はっきりと、とは言えないけれど、これでも充分だ。まったく見えなかったさっきまでに比べれば、少し目を凝らせば、見えるんだから。形があって、色がある。確かに、そこにいる。そんな半透明のあやめが、目を細めて嬉しそうに笑ったのを、僕は今、この目で見た。
「お散歩に行こうって言ったのは、涼みたかったのもあるんだけど……本当は、彩織ちゃんに話したいことがあってね。みんなに変に思われないように、わざわざここまで来たんだ」
「……話したいことって? 相談事とかあるなら、聞くよ」
なんだろう、と疑問に思うよりも早く、心臓が跳ねた。咄嗟に嫌な予感がして、けれど、動揺していることを気取られたくなくて、僕は小さく深呼吸しながら、そのまま先を促す。
明らかに言い淀んでいた。何かを言おうとして、口を閉じる。僕に向けた視線が、ときおり右往左往と彷徨する。淡い月明かりが、瞳に揺らぐそれを反照させている、ような気がした。
「……彩織ちゃん、もう、実家に帰って」
「は……?」
崖から突き落とされたような、そんな衝撃だった。心地の悪い浮遊感。脳髄を思い切り殴られたあとの、夢とも現ともつかないような、あの余韻。むしろ夢であってほしいと、そう思う。
「実家にって、なんで……? 僕は最後まで、あやめちゃんと一緒にいるつもりで──」
「ううん、それももう、必要ないから。彩織ちゃんのため、だから。お願い。帰って」
「僕のためってなに? それが理由だって言うんなら、もっと説明してよ」
握る手の感触が少しずつ離れていって、それを食い止めるように、また強く掴んだ。
「──っ、やだ! だったら全部、彩織ちゃんのためなんかじゃないっ。みんな私のためだから……! こんなんだったら、好きになんかなるんじゃなかった! もう、彩織ちゃんなんか、大嫌いっ、だから……だから、さっさと、私のとこから離れてよ……! これじゃ、ずっと、彩織ちゃんのこと、好きになっちゃってるまま、だから……! ……もう、怖いんだよ」
僕にしか聞こえない嗚咽混じりの声は、悲痛の色を帯びていた。咄嗟に立ち上がったその拍子に、あやめの手が僕の手を振りほどく。こんなの絶対に、彼女の本心じゃない、そう分かりきっていながらも、どう声をかけたらいいのかは、今の僕には分からないでいた。さっきまで笑っていたのも、寝る前に少しだけとったスキンシップも、全て嘘だったとは、思えないから。
「……僕のことが嫌いなんて、嘘でしょ。そうやってなにか一人で考えてさ、勝手にやろうとするの、よくないよ。嘘をついてまで、わざと辛い思いをしてまで、やりたいことなの?」
「こうでもしなきゃ、私も彩織ちゃんも、いちばん辛くなるんだよ? 本当に、明後日、最後の日にさ──笑って終われると思ってるの? そんなの無理だよっ。だから、せめて……!」
月明かりに照る紅涙が、玲瓏たる珠のように煌めいて、こんな状況なのに、綺麗だと思うくらいの余裕は残っていた。あやめが手の甲で拭ったそれが、地面に落ちて、土に染みていく。
だからといって、聞き漏らすはずもなかった。明後日が最後の日だと、そう、言ったのを。
「……なんで分かるの? 明後日が最後だって」
「症状の進み方……だけじゃないよ。だって、九月四日が、私の命日だから」
諦観のような笑みを貼り付けて、あやめは乾いた声を洩らす。それは同時に、自嘲で、皮肉だとも思った。九が苦しみなら、四は死そのものだ。きっと、狙ったわけではない、と思う。でも、きっとその日が最後なのだと、疑いようのない確信を、僕もたった今、抱いてしまった。
純白の布を固く握りしめながら、彼女は滔々と、思いの丈を吐き出すかのように続ける。
「……四年ぶりに、彩織ちゃんに会ってさ、やっと成仏できるんだって思った。最後に好きな人に会えて、好きだって言えたら、それでもう充分だから、って。それで、彩織ちゃんが色を分けてくれたおかげで、私は目が見えるようになった。嬉しかったけど、でも、怖くなった」
彼女のサンダルが土を踏む。蒸したような匂いが、鼻腔を仄かに香っていく。
「覚悟はしてたはずなのに、やりたいことは終わったはずなのに、好きな人と離れるのが怖くて……ただ、それだけなんだけど、でもね、私、気付いちゃったんだ。本当のこと」
「……本当のこと?」
「うん。目が見えるようになったのも、身体が透明になっていくのも、みんな、私のせい。彩織ちゃんのことを好きだって思う気持ちと比例するみたいに、どんどん進んでいくんだよ」
だからね、と、泣き笑いのような表情で、それを月明かりが薄く照らす。
「だから、彩織ちゃんと離れて、本気で嫌いになれば、また、成仏できないままになるのかなって。目が見えなくなっても、夢のなかに逃げればいいかなって。会えないけど、私はまだこの世界にいるんだって、そう思ってもらいたかった。彩織ちゃんのなかでは、生きてるって」
「……そんなの、納得するはずないじゃん。自分で言ったんだよ? 幽霊がこの世界にいるのはおかしいんだって。いま会えてるのは、お互いの目的を果たすため。それできっちりと清算して、綺麗に別れるため。僕だって辛いけど、それくらい分かってるよ。いちばん逃げちゃ駄目なのは、あやめちゃんのほうでしょ? その代わり、最後まで一緒にいるんだよ」
好きになるんじゃなかった、なんて、そんなの言わないでほしい。勝手に帰れとか、そんなの言われたくもない。嘘塗れの大嫌い、なんて、そんなのが響くはずもない。僕は──見ないだけで、言わないだけで、覚悟は決めているのに。怖いのも、辛いのも、お互い様のはずなのに。自分だけが逃げようとするなんて、あやめはそんな子じゃないと、思いたかった。
「……そう、だよね。ごめんね。大嫌いとか言ったのも、みんな嘘。もしかしたら、言い負かせるかなって思ったけど、無理だった。……でも、それ以外のことは、本当だから。やっぱり、一緒にいられないのは寂しいんだよ。一回は死んだはずなのに、また死ぬのは、怖い」
縁側に座り直しながら、僕に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、あやめは語る。視界の端に、半透明の彼女の手が見えて、触れてみたその感触は、さっきと何も変わらなかった。
「駄目だよ、現実から逃げちゃ。最後まで僕が一緒にいるから、せめて、悔いのないようにしよう。最後にはきっと、笑えるようにさ。少しでも怖くなくなるように、僕がするから」
どうやって、なんて、そんなの分からない。分からないけど、せめて今は、この夏が終わるまでは、あやめと別れるまでは──一緒にいなければいけないのだと、そう思っている。それが僕の使命だ。僕にだけ彼女が見えることも、話せることも、全てはきっと、そこなのだろう。
「──どんなになっても、彩織ちゃんは、私のそばにいてくれる?」
「いるよ、絶対に。最後の最後までね」
月明かりに照らされた薄い笑みが、それでもどこか、純粋な安堵のような気がした。
◇
目覚めてすぐに、それは昨夜の答え合わせだと思った。正直、あまり思い返したくない話、ではあるのだけれど、でも、そう感じた。『好きになる気持ちと比例していくみたいに』、症状が進んでいく。あやめが聞かせてくれた本音が、あの安堵の笑みが本物だったのだと確信できて、少しだけ嬉しくなる。いま、僕に抱きついて離れない彼女の姿が、そう語っていた。
薄い曙光の眩しさが、いつも通りの、あの開きっぱなしの窓から射し込んでくる。それが瞳を焼いてきて、普段なら遮ってくれるはずのあやめの姿は、一瞬、いるかも分からないほどに淡く、透けていた。今にも消えてしまいそうな儚さが、それでもやはり、綺麗だった。
お互いの吐息がかかるほどに距離が近くて、重さで痺れた腕をゆっくりと持ち上げながら、その黒い髪を優しく撫でる。暑苦しいのか、少しだけ汗で貼り付いていた。でも、手触りの良さは変わらない。わずかに早まる鼓動を感じつつ、僕は一人で笑みを洩らす。
……どうすれば、あやめのことを安心させてやれるだろう。今までと同じように、では、たぶん駄目だ。恋人としての付き合い方。それが彼女の唯一の願いだったのだから、それを叶えてやれるのは、やはり、僕しかいない。この数日、なんとか一緒に暮らしているけれど──せめて今日くらいは、何も恥ずかしがらずに、純粋に楽しんでいたいなと、そんなことを思った。
「早く起きてほしいなぁ……。そうしたら長い時間、一緒にいられるのにな……なんてね」
耳元で囁いて、でも恥ずかしくなって、すぐに顔を離す。直前の決意、既に崩壊らしい。
……あやめが起きるまで、もう少しだけ、一緒に寝ていようかな。
目を閉じる。
吐息が聞こえる。
だんだんと離れていく意識に従いながら、僕はまた、眠りに落ちた──。
◇
次に目が覚めたのは、あやめの寝起きの声が聞こえた時だった。子供が洩らすような、そんな声。自分が思うよりもすんなりと意識が覚醒して、焦点の合わない目を彼女のほうに向けた。
「……彩織ちゃん、起きた?」
「うん。あやめちゃんの声で起きた」
「私、そんなにうるさくない……」
不満げに言いながら、いつの間にか抱きついていた僕の腕に顔を寄せてくる。少しだけドキリとしたけれど、恥ずかしがるな、恥ずかしがるな、と、心のなかで何度も繰り返した。
「ぐずってるあやめちゃん、子供みたいで可愛いね」
「……子供じゃなくて、おねーさんだもん」
あやめがお姉さんって、あまり想像できないな。でも無邪気な性格だから、どうせ年下とも一緒になって遊ぶ子だと思う。寝起きはこうやってぐずってるけど、まぁ、ご愛嬌かな。
数分して目が覚めてきたのか、組んでいた僕の腕から手を離しつつ、そっと起き上がる。
それから一通り自分の身体を眺め回すと、一瞬だけ顔が曇って、でもすぐに笑い出した。
「私、彩織ちゃんのこと、好きすぎかも」
「……うん、思った。昨夜言ってたこと、分かった気がする」
「今までも我慢してなかったけど、今日はもっと我慢しないから」
「いいよ、あやめちゃんの言うことならなんでも聞く」
「……キスしてって言ったら、してくれるの?」
「……いい、よ」
起き上がりながら告げた、たどたどしい僕の答えに、あやめはその透明感でも分かるほど、頬に紅潮の色を差していった。自分が言ったんでしょ、と追撃してみると、本気で恥ずかしかったのか、僕と目を合わせてくれなくなった。冗談なら冗談だけにしてほしいよ。
「……されるのは嫌だけど、するのはいいよ。じゃなきゃ私、今にでも消えちゃうよ」
それは困るなぁ、と照れ隠しに笑いながら、どうしたものかと思案する。ここは僕から踏み込むべきだと思ったのに、まさか自分が待ちの立場になるとは。これも逆に恥ずかしい。
あやめはじっと僕の目を見つめると、無言のまま、布団に手をついて押し黙っていた。その気まずさ、というよりも、張り裂けそうなほどうるさい心臓の鼓動を許しているのが、なんだか気恥ずかしくて、ときおり目を逸らさずにはいられないほど、羞恥心に襲われていた。
「……目だけつぶっててほしい」
言われた通りに目をつぶる。いちいち段階を踏んでこんなことをするから、余計に恥ずかしくなるんだ。そう文句も言いたくなったけれど、喉の奥に堪えて我慢する。視覚がなくなったからだろうか、耳に届く音がやけに鋭敏に聞こえるような気がして──あやめの少し浅い呼吸とか、服と布団の衣擦れとか──そういうものがどこか蠱惑的な雰囲気を生み出していた。
窓から射し込む、朝の柔らかな陽だまりに包まれて、けれどどこか暑苦しくて、焦らされているような、急かしたいような、そんな気持ち。うるさい心臓をかなぐり捨てることができれば、まだこの刹那的な瞬間も、耐えきれるのだろうと、そんなことを密かに思った。
「……いくよ?」
「……うん」
掻き消えそうな声。何度目かの深呼吸と、衣擦れの音と、微かに聞こえてきそうな鼓動。目をつぶっていても気配は分かる。息は止めているのか、ときおり小さく喉が鳴っていた。
「──っ、ん……」
少しだけ漏れた声が、至近距離で聞こえる。どこか淡くて温かい、けれど、すぐに消えてしまうもの。唇にほんの少し触れた、その柔らかい感触は、一瞬だけじゃなくて、しばらくそこに留まっていた。やがて離れても、余韻がまだ、触れた指に熱を帯びて残っている。
「えへへ……」
離れていく顔にピントを合わせながら、はにかむ彼女の面持ちを呆然と眺めていた。日射しが射し込んで、それがあやめの身体を照らしていって、ただでさえ見えなくなりそうなものが、余計に、まるで空気そのものに融け消えてしまったような──。そのたびに心臓がひときわ強く鼓動する。すぐに安堵しても、拭えない心地の悪さ。温もりを感じたいはずなのに、どこか背筋が寒くて、わけも分からず泣いてしまいそうな気がした。それを隠そうと彼女に抱きつく。
「彩織ちゃん、甘えんぼさんだねぇ」
「……ん」
一言くらい言いたかったのに、喉が締まって何も言えなかった。何を言おうとしたのかも、次の瞬間には、忘れてしまった。無言のまま抱き返してくれるその温もりは、ずっと変わらない。だからこそ、ふと見ても、目を凝らしても、はっきりと捉えられないことが辛くて、ほんの数日前までのあの記憶が、実体とともに陽炎のように消えてしまいそうな、そんな気がした。
「……今日くらい、彩織ちゃんと甘えたって、許されるもんね」
水底で揺らめく、そんな静けさのような声だった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
次にあやめが目を覚ましたのは、夜の八時を過ぎたあたりだった。お風呂上がりの蒸し暑さに、窓から吹き込む小夜風が涼しい。日記帳の上に滑らせていたペンを置いてから、僕は薄っすらと覗く、焦点のあっていない、あの澄み切った黒曜石のような瞳を見た。
「……彩織ちゃん、なにやってるの」
「日記帳。書いてた」
ふぅん、と、欠伸混じりの声が洩れる。あやめはゆっくり起き上がって、そのまま窓の外を見た。街灯の明かりなんて、踏切のところに一つだけだ。宵に咲く一番星みたいだと、ふと、そんなことを思う。蛍光灯の白さが彼女の身体を透き通って、それが一層、淡かった。
「涼しいし、夜のお散歩、行きたいな」
「……この時間に? いいけど、珍しいね」
「うん。行ったことないなって思ったから」
寝起きのためか、ぎこちなく笑う彼女の手を引きながら、「じゃあ、行こうか」と手短に言う。僕の指だけを掴むその感触が、まるで小さな子供のようで、ちょっと新鮮に感じられた。
部屋を出てすぐに、お風呂上がりの小夜と行き違う。手ぬぐいを首にかけて、いつも通りのだらしない格好だった。蒸すような暑さのなかに、少しだけシャンプーのいい匂いがする。
「あ、小夜、あやめちゃんとお散歩行ってくるね」
「おー、二人っきりで夜の散歩なんて初めてやない? いってらー」
手を振ってくる彼女に振り返して、そのまま階段を降りた。履物を履いて、玄関の扉に手をかける。動くたびにカラカラと鳴る。それをうるさいなぁと思い思い、後ろ手で閉めた。
道路に出ても、案の定、照明はない。街灯が数十メートルおきにあるくらいで──だから、こんなに暗いから、どれだけ目を凝らしても、あやめの姿が見えない。雲に陰った月のせいで、月明かりすらも当てにならなかった。まったく見えないのが少し怖くて、握る力を強める。
「私のお家のほう、行ってみていい?」
「うん。ここ何日か行ってなかったもんね」
歩を踏み出す。冷めたアスファルトの硬さが、足の裏に伝わっていく。どこからか、ひっきりなしに虫の鳴き声が聞こえていた。いよいよ夏が終わるんだな、と、そう思った。
手のひらに、温かいものが触れている。柔らかいものが触れている。ただそれだけで、姿は、よく見えない。近づいてきた街灯に照らされて、その光に降られながら、あやめは横目で僕を見上げていた。薄闇のなかに、半透明の少女。正真正銘の幽霊だ、なんて、ふと思う。
「……また暗くなっちゃった」
残念そうな彼女の声が、薄れていく明かりの余韻に照らされていった。いま暗がりで見えないだけで、これほど不安になるんだったら、本当に透明になってしまったら、僕はどうすればいいんだろう。声も温度も匂いも分からないまま、触れた感触もなくなって、真昼なら見えていたはずのものが、最初から存在しなかったかのように、返事すらしてくれなくなる。
……今はきっと、近い未来に訪れる苦痛を、そっと慣らすための時間でしかない。お互いに平静を気取っているけれど、心のどこかでは怖いはずだ。今朝のことだって、きっとそうだ。
「明かりは少ないけど、大丈夫? 怖くない?」
「ん……大丈夫。彩織ちゃんがいてくれるから」
かろうじて、顔の輪郭が分かる。虫の鳴き声を聞きながら、手のひらの温かさを確認する。
それからふと、言い方を間違えたな、と思った。せめて『僕がいるから大丈夫だよ』の一言くらい、言えればよかったのに。昔から、こういう気の利いたことは、言えずにいたままだ。
「足元──」
暗いから、転ばないでね。いつもの坂道に差しかかったところで、二人の声が重なる。
考えていることは同じなんだなと、姿は見えにくいけれど、少しだけ嬉しくなった。高まる脈拍を抑えながら、湿りかけてきた手を、更に強く握り直す。あやめは今、どんな表情をしているだろう。僕は、たぶん、笑っている。あやめにも、笑っていてほしかった。
「ちょっと歩いただけなのに、なんだかあっついね」
少しだけ踏ん張って、真っ暗な坂道を登る。雲間から射す月明かりに照らされて、白いガードレールの終わりが見えた。「縁側、座ろっか」と、含み笑いのように彼女は言う。
腕を伸ばしたその輪郭も、細やかな指のそれも、僕にはほとんど見えない。もう少しだけ月が出てくれれば、あやめの顔が見えるのにな、と、そんな祈りとともに、冷たい縁側に座った。
「夜にここに来るの、何気に初めてかも」
「彩織ちゃんはたぶん、そうだよね。私はよく、ここで涼んでたよ」
「ちょうどいいもんね。縁側があって、庭が開けてて」
「うん。さすがにちょっと、暗くて怖いかもしれないけど」
「僕がいるのに? そのうち月明かりも出てくるから、大丈夫だよ」
彼女の横顔、その輪郭が少し動いて、小さな笑い声を洩らす。それに呼応するように、晩夏の小夜風が、頬を優しく撫でていった。繋いだ手の温もりは変わらなくて、遥か頭上をゆっくりと揺蕩う雲も、いつの間にか、隠れがちだった月の姿を現して、仄かに辺りが明るくなる。
「……ほんとだ、明るくなった。これでやっと、顔が見れるね」
はっきりと、とは言えないけれど、これでも充分だ。まったく見えなかったさっきまでに比べれば、少し目を凝らせば、見えるんだから。形があって、色がある。確かに、そこにいる。そんな半透明のあやめが、目を細めて嬉しそうに笑ったのを、僕は今、この目で見た。
「お散歩に行こうって言ったのは、涼みたかったのもあるんだけど……本当は、彩織ちゃんに話したいことがあってね。みんなに変に思われないように、わざわざここまで来たんだ」
「……話したいことって? 相談事とかあるなら、聞くよ」
なんだろう、と疑問に思うよりも早く、心臓が跳ねた。咄嗟に嫌な予感がして、けれど、動揺していることを気取られたくなくて、僕は小さく深呼吸しながら、そのまま先を促す。
明らかに言い淀んでいた。何かを言おうとして、口を閉じる。僕に向けた視線が、ときおり右往左往と彷徨する。淡い月明かりが、瞳に揺らぐそれを反照させている、ような気がした。
「……彩織ちゃん、もう、実家に帰って」
「は……?」
崖から突き落とされたような、そんな衝撃だった。心地の悪い浮遊感。脳髄を思い切り殴られたあとの、夢とも現ともつかないような、あの余韻。むしろ夢であってほしいと、そう思う。
「実家にって、なんで……? 僕は最後まで、あやめちゃんと一緒にいるつもりで──」
「ううん、それももう、必要ないから。彩織ちゃんのため、だから。お願い。帰って」
「僕のためってなに? それが理由だって言うんなら、もっと説明してよ」
握る手の感触が少しずつ離れていって、それを食い止めるように、また強く掴んだ。
「──っ、やだ! だったら全部、彩織ちゃんのためなんかじゃないっ。みんな私のためだから……! こんなんだったら、好きになんかなるんじゃなかった! もう、彩織ちゃんなんか、大嫌いっ、だから……だから、さっさと、私のとこから離れてよ……! これじゃ、ずっと、彩織ちゃんのこと、好きになっちゃってるまま、だから……! ……もう、怖いんだよ」
僕にしか聞こえない嗚咽混じりの声は、悲痛の色を帯びていた。咄嗟に立ち上がったその拍子に、あやめの手が僕の手を振りほどく。こんなの絶対に、彼女の本心じゃない、そう分かりきっていながらも、どう声をかけたらいいのかは、今の僕には分からないでいた。さっきまで笑っていたのも、寝る前に少しだけとったスキンシップも、全て嘘だったとは、思えないから。
「……僕のことが嫌いなんて、嘘でしょ。そうやってなにか一人で考えてさ、勝手にやろうとするの、よくないよ。嘘をついてまで、わざと辛い思いをしてまで、やりたいことなの?」
「こうでもしなきゃ、私も彩織ちゃんも、いちばん辛くなるんだよ? 本当に、明後日、最後の日にさ──笑って終われると思ってるの? そんなの無理だよっ。だから、せめて……!」
月明かりに照る紅涙が、玲瓏たる珠のように煌めいて、こんな状況なのに、綺麗だと思うくらいの余裕は残っていた。あやめが手の甲で拭ったそれが、地面に落ちて、土に染みていく。
だからといって、聞き漏らすはずもなかった。明後日が最後の日だと、そう、言ったのを。
「……なんで分かるの? 明後日が最後だって」
「症状の進み方……だけじゃないよ。だって、九月四日が、私の命日だから」
諦観のような笑みを貼り付けて、あやめは乾いた声を洩らす。それは同時に、自嘲で、皮肉だとも思った。九が苦しみなら、四は死そのものだ。きっと、狙ったわけではない、と思う。でも、きっとその日が最後なのだと、疑いようのない確信を、僕もたった今、抱いてしまった。
純白の布を固く握りしめながら、彼女は滔々と、思いの丈を吐き出すかのように続ける。
「……四年ぶりに、彩織ちゃんに会ってさ、やっと成仏できるんだって思った。最後に好きな人に会えて、好きだって言えたら、それでもう充分だから、って。それで、彩織ちゃんが色を分けてくれたおかげで、私は目が見えるようになった。嬉しかったけど、でも、怖くなった」
彼女のサンダルが土を踏む。蒸したような匂いが、鼻腔を仄かに香っていく。
「覚悟はしてたはずなのに、やりたいことは終わったはずなのに、好きな人と離れるのが怖くて……ただ、それだけなんだけど、でもね、私、気付いちゃったんだ。本当のこと」
「……本当のこと?」
「うん。目が見えるようになったのも、身体が透明になっていくのも、みんな、私のせい。彩織ちゃんのことを好きだって思う気持ちと比例するみたいに、どんどん進んでいくんだよ」
だからね、と、泣き笑いのような表情で、それを月明かりが薄く照らす。
「だから、彩織ちゃんと離れて、本気で嫌いになれば、また、成仏できないままになるのかなって。目が見えなくなっても、夢のなかに逃げればいいかなって。会えないけど、私はまだこの世界にいるんだって、そう思ってもらいたかった。彩織ちゃんのなかでは、生きてるって」
「……そんなの、納得するはずないじゃん。自分で言ったんだよ? 幽霊がこの世界にいるのはおかしいんだって。いま会えてるのは、お互いの目的を果たすため。それできっちりと清算して、綺麗に別れるため。僕だって辛いけど、それくらい分かってるよ。いちばん逃げちゃ駄目なのは、あやめちゃんのほうでしょ? その代わり、最後まで一緒にいるんだよ」
好きになるんじゃなかった、なんて、そんなの言わないでほしい。勝手に帰れとか、そんなの言われたくもない。嘘塗れの大嫌い、なんて、そんなのが響くはずもない。僕は──見ないだけで、言わないだけで、覚悟は決めているのに。怖いのも、辛いのも、お互い様のはずなのに。自分だけが逃げようとするなんて、あやめはそんな子じゃないと、思いたかった。
「……そう、だよね。ごめんね。大嫌いとか言ったのも、みんな嘘。もしかしたら、言い負かせるかなって思ったけど、無理だった。……でも、それ以外のことは、本当だから。やっぱり、一緒にいられないのは寂しいんだよ。一回は死んだはずなのに、また死ぬのは、怖い」
縁側に座り直しながら、僕に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、あやめは語る。視界の端に、半透明の彼女の手が見えて、触れてみたその感触は、さっきと何も変わらなかった。
「駄目だよ、現実から逃げちゃ。最後まで僕が一緒にいるから、せめて、悔いのないようにしよう。最後にはきっと、笑えるようにさ。少しでも怖くなくなるように、僕がするから」
どうやって、なんて、そんなの分からない。分からないけど、せめて今は、この夏が終わるまでは、あやめと別れるまでは──一緒にいなければいけないのだと、そう思っている。それが僕の使命だ。僕にだけ彼女が見えることも、話せることも、全てはきっと、そこなのだろう。
「──どんなになっても、彩織ちゃんは、私のそばにいてくれる?」
「いるよ、絶対に。最後の最後までね」
月明かりに照らされた薄い笑みが、それでもどこか、純粋な安堵のような気がした。
◇
目覚めてすぐに、それは昨夜の答え合わせだと思った。正直、あまり思い返したくない話、ではあるのだけれど、でも、そう感じた。『好きになる気持ちと比例していくみたいに』、症状が進んでいく。あやめが聞かせてくれた本音が、あの安堵の笑みが本物だったのだと確信できて、少しだけ嬉しくなる。いま、僕に抱きついて離れない彼女の姿が、そう語っていた。
薄い曙光の眩しさが、いつも通りの、あの開きっぱなしの窓から射し込んでくる。それが瞳を焼いてきて、普段なら遮ってくれるはずのあやめの姿は、一瞬、いるかも分からないほどに淡く、透けていた。今にも消えてしまいそうな儚さが、それでもやはり、綺麗だった。
お互いの吐息がかかるほどに距離が近くて、重さで痺れた腕をゆっくりと持ち上げながら、その黒い髪を優しく撫でる。暑苦しいのか、少しだけ汗で貼り付いていた。でも、手触りの良さは変わらない。わずかに早まる鼓動を感じつつ、僕は一人で笑みを洩らす。
……どうすれば、あやめのことを安心させてやれるだろう。今までと同じように、では、たぶん駄目だ。恋人としての付き合い方。それが彼女の唯一の願いだったのだから、それを叶えてやれるのは、やはり、僕しかいない。この数日、なんとか一緒に暮らしているけれど──せめて今日くらいは、何も恥ずかしがらずに、純粋に楽しんでいたいなと、そんなことを思った。
「早く起きてほしいなぁ……。そうしたら長い時間、一緒にいられるのにな……なんてね」
耳元で囁いて、でも恥ずかしくなって、すぐに顔を離す。直前の決意、既に崩壊らしい。
……あやめが起きるまで、もう少しだけ、一緒に寝ていようかな。
目を閉じる。
吐息が聞こえる。
だんだんと離れていく意識に従いながら、僕はまた、眠りに落ちた──。
◇
次に目が覚めたのは、あやめの寝起きの声が聞こえた時だった。子供が洩らすような、そんな声。自分が思うよりもすんなりと意識が覚醒して、焦点の合わない目を彼女のほうに向けた。
「……彩織ちゃん、起きた?」
「うん。あやめちゃんの声で起きた」
「私、そんなにうるさくない……」
不満げに言いながら、いつの間にか抱きついていた僕の腕に顔を寄せてくる。少しだけドキリとしたけれど、恥ずかしがるな、恥ずかしがるな、と、心のなかで何度も繰り返した。
「ぐずってるあやめちゃん、子供みたいで可愛いね」
「……子供じゃなくて、おねーさんだもん」
あやめがお姉さんって、あまり想像できないな。でも無邪気な性格だから、どうせ年下とも一緒になって遊ぶ子だと思う。寝起きはこうやってぐずってるけど、まぁ、ご愛嬌かな。
数分して目が覚めてきたのか、組んでいた僕の腕から手を離しつつ、そっと起き上がる。
それから一通り自分の身体を眺め回すと、一瞬だけ顔が曇って、でもすぐに笑い出した。
「私、彩織ちゃんのこと、好きすぎかも」
「……うん、思った。昨夜言ってたこと、分かった気がする」
「今までも我慢してなかったけど、今日はもっと我慢しないから」
「いいよ、あやめちゃんの言うことならなんでも聞く」
「……キスしてって言ったら、してくれるの?」
「……いい、よ」
起き上がりながら告げた、たどたどしい僕の答えに、あやめはその透明感でも分かるほど、頬に紅潮の色を差していった。自分が言ったんでしょ、と追撃してみると、本気で恥ずかしかったのか、僕と目を合わせてくれなくなった。冗談なら冗談だけにしてほしいよ。
「……されるのは嫌だけど、するのはいいよ。じゃなきゃ私、今にでも消えちゃうよ」
それは困るなぁ、と照れ隠しに笑いながら、どうしたものかと思案する。ここは僕から踏み込むべきだと思ったのに、まさか自分が待ちの立場になるとは。これも逆に恥ずかしい。
あやめはじっと僕の目を見つめると、無言のまま、布団に手をついて押し黙っていた。その気まずさ、というよりも、張り裂けそうなほどうるさい心臓の鼓動を許しているのが、なんだか気恥ずかしくて、ときおり目を逸らさずにはいられないほど、羞恥心に襲われていた。
「……目だけつぶっててほしい」
言われた通りに目をつぶる。いちいち段階を踏んでこんなことをするから、余計に恥ずかしくなるんだ。そう文句も言いたくなったけれど、喉の奥に堪えて我慢する。視覚がなくなったからだろうか、耳に届く音がやけに鋭敏に聞こえるような気がして──あやめの少し浅い呼吸とか、服と布団の衣擦れとか──そういうものがどこか蠱惑的な雰囲気を生み出していた。
窓から射し込む、朝の柔らかな陽だまりに包まれて、けれどどこか暑苦しくて、焦らされているような、急かしたいような、そんな気持ち。うるさい心臓をかなぐり捨てることができれば、まだこの刹那的な瞬間も、耐えきれるのだろうと、そんなことを密かに思った。
「……いくよ?」
「……うん」
掻き消えそうな声。何度目かの深呼吸と、衣擦れの音と、微かに聞こえてきそうな鼓動。目をつぶっていても気配は分かる。息は止めているのか、ときおり小さく喉が鳴っていた。
「──っ、ん……」
少しだけ漏れた声が、至近距離で聞こえる。どこか淡くて温かい、けれど、すぐに消えてしまうもの。唇にほんの少し触れた、その柔らかい感触は、一瞬だけじゃなくて、しばらくそこに留まっていた。やがて離れても、余韻がまだ、触れた指に熱を帯びて残っている。
「えへへ……」
離れていく顔にピントを合わせながら、はにかむ彼女の面持ちを呆然と眺めていた。日射しが射し込んで、それがあやめの身体を照らしていって、ただでさえ見えなくなりそうなものが、余計に、まるで空気そのものに融け消えてしまったような──。そのたびに心臓がひときわ強く鼓動する。すぐに安堵しても、拭えない心地の悪さ。温もりを感じたいはずなのに、どこか背筋が寒くて、わけも分からず泣いてしまいそうな気がした。それを隠そうと彼女に抱きつく。
「彩織ちゃん、甘えんぼさんだねぇ」
「……ん」
一言くらい言いたかったのに、喉が締まって何も言えなかった。何を言おうとしたのかも、次の瞬間には、忘れてしまった。無言のまま抱き返してくれるその温もりは、ずっと変わらない。だからこそ、ふと見ても、目を凝らしても、はっきりと捉えられないことが辛くて、ほんの数日前までのあの記憶が、実体とともに陽炎のように消えてしまいそうな、そんな気がした。
「……今日くらい、彩織ちゃんと甘えたって、許されるもんね」
水底で揺らめく、そんな静けさのような声だった。