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進展、後退、現状維持

ー/ー



薄ぼけた月明かりが瞳を射す。どれくらい目蓋の裏を眺めていたか分からないけれど、この八畳間の様子は、夜目にもよく窺えた。蒸し暑さはほとんどなくて、涼風が、やや汗ばんだ肌の上を撫でていく。窓から覗く星は、さながら藍のインクに散らべた輝石のようだった。

 それが眩しくて、僕はまた目を閉じる。あやめに抱きしめられていた感触を、ふと思い出す。否応なしに沈んでいく意識には抗えなくて、でも、彼女がそこにいるんだなということは、しっかり感じていた。体温も、匂いも、実体も、確かにそこにある。だから、安心できる。

「ん……」

 ──二度目の寝落ちる寸前に、寝言のようなあやめの声が聞こえた。

 暑いのか、少しだけ身をよじって、僕から離れる。

「ごめんね」と、小さく聞こえたような気もした。

 ──鼓膜を微かに、遠く薄い金属音が、震わせていく。





「……ちゃん、彩織ちゃん、起きてって」

 あやめに揺さぶられて目が覚めた。別に、声に緊張感があるわけじゃない。いつも話すような、温和で、優しいあの声音だ。鋭く射し込む朝日を、彼女の身体が遮ってくれている──わけもなく、無慈悲に燦燦と降り注いでいる。小さく返事しながら、無理やり身体を起こした。

「……おはよ」

「おはようっ」

 盛夏の向日葵にも似た満面の笑みが、まだ重い目蓋越しにもよく分かった。可愛らしいなぁ、なんて漠然と思いながら、ようよう寝ぼけまなこを擦って、欠伸をして、あやめを見直す。

「今日は……起こしてくれるパターン?」

「彩織ちゃん、私に起こされることあったかなーって」

「いや、それは多分、ないと思う……。なんか新鮮だね」  

 意識を晴らすように、二人で笑う。何事もない、平和な朝だ。いや、ぶっちゃけ、いつも平和なんだけれど。あやめが一緒にいようがいまいが、僕の周りは、ずっと平和だった。

 ──そう思ったのも束の間、ほんの一瞬、心臓を鷲掴みにされたような、嫌な動悸がする。

「……そっか」

 それだけしか、言えなかった。どうしようもないと分かっていたから。

 昨夜よりも透明度が増した彼女のことを、どう言えばいいか分からなかったから。

 半透明の身体を透き通っていく朝日は、いつもよりも眩しくて、白かった。

 あやめも気づいていたのか、けれど、いつものような無邪気な笑みを洩らす。

「だんだん透明になるとさ、なんか、神秘的って感じするよねぇ」

「……あやめちゃんに初めて会った時は、透明感のある子だなって思ったよ」

「今は本当に透明になってるけどねっ」

 何も気にしていないように。或いは、そう振る舞っているように。

「神秘的で綺麗だね」なんて、そう言いながら、腕を広げている。

 なんて言えばいいのか分からないけれど、ひとまず、頷いた。

「……ところで、彩織ちゃんさ」

「うん?」

「私、駄菓子屋さん行きたいな」

「随分と脈絡のない話をするね……」

 でもまぁ、いいか。何かしら気分転換をしないと、やってもいられなさそうだ。

「じゃあ……ちょっと待っててね。着替えてくる。少ししたら降りてきて」

「えー、着替えるくらい一緒でもいいよね? お風呂に入った仲だもん」

「いやまぁ、いいんだけどさ……。あやめちゃん、なんかオープンになったね」

 無自覚なのか、よく分かっていなそうな彼女に苦笑しながら、僕は部屋を整理する。ひとまず窓を閉めて、布団は面倒なのでそのまま、あとは日記帳を持って……うん、大丈夫かな。

「じゃあ、降りよっか」

 頷くその笑顔に、柔らかな日射しが透ける。素直に綺麗だと思った。まだ、思えている。

 軽快な音を立てて階段を降りながら、脱衣所に向かった。着替えを見られるくらい別にいいか、と思い思い、部屋着を脱いで、服を着る。それをにやけ顔で見守っているあやめの姿が面白くて、吹き出してしまったのを怒られて、そんなことをしながら、居間に顔を出した。

「おはよう。駄菓子屋さん行ってくるね」

 部屋にいた小夜と祖父母が適当に返事する。そのまま玄関に行こうとして、ふと気になった。

「あれ、小夜って高校は? もう夏休み明けたんじゃないの?」

「ウチは通信制やから大丈夫。全日制なんに行ってない彩織ちゃんのほうが問題やで?」

「あっ、通信なんだ。僕のことはほっといていいよ。それじゃあ」

「えっちょっ、意外になんも驚いてないな……!? リアクションうっす……!」

 毎日ゴロゴロしていて、宿題もせずにご気楽だな──とは思っていたけれど。

 でも、そういうのんびりした学生生活も悪くないのかな、とか考えながら、あやめの手を取って、履物を履いて、玄関を開けた。まだ夏らしい紺青の空が、入道雲をたたえていた。





「そういえばね、彩織ちゃん」

 駅の少し向こうに見える線路は、だんだんと昇ってきた炎陽の日射しに照らされて、鈍く光っていた。黄金色の稲と、或いは路傍に咲く曼珠沙華が、鮮やかに揺らめいている。

 駄菓子屋へと向かう道の途中で、麦わら帽子を持ち上げたあやめはふと、あの曼珠沙華を見つめながら言った。

「私、色が少しだけ見えるようになったんだ」

「えっ……色、色も?」

「うん、色。色がね、薄いけど、見えるようになった」

 はにかむように柔らかな笑みで、それが症状の進行を意味すると分かっているはずなのに、あやめはただ、ひたすら嬉しそうに、笑っている。数日前にカラーの夢を見たと話してくれた時も、ちょうど、こんな感じの笑顔だったなと、そんなことを思い出した。

「曼珠沙華って、もっと赤いはずなのになぁ」

 困ったように、不満げに頬を緩ませながら、あやめはいつの間にか解いていた手を結び直す。急かすようなそれが可愛らしくて、『早くアイス奢れ』と言われているような気がした。

 ショーケースから漏れた水が、焼けたアスファルトに道を作っている。それが排水口の金網から落ちて、小さく水音を立てていた。それに被さるような、エアコンの室外機が回る音。

「よし、入ろっか。あやめちゃん、静かにしててね」

「いっそのことポルターガイスト起こしちゃう?」

「それはまた変な噂になりそうで嫌なんだよ……」

 冗談冗談、と笑うあやめの髪が、顔を寄せてきた拍子に、僕の肌に触れる。けれど引き戸の窓硝子には一人しか映っていなくて、当たり前のはずなのに、少し寂しい気分になった。

 カランコロンと風鈴が鳴る。いつものおばあちゃんは……いない。その代わりに、カウンターに置き手紙がしてあった。『代金はこちらの箱にどうぞ』とのこと。無人販売だ。

「彩織ちゃん良かったね、おばあちゃんいなくて」

「普通に助かるね……。変な気とか遣わないし」

 手を繋いだまま、何を買おうかなぁと店内を物色する。

「ねぇねぇ彩織ちゃん、ラムネ飲む?」

「二本ちょうだい」

「……アイスは?」

「なんでも好きなの買っていいよ」

「いぇーいっ。優しいねぇ」

 あやめにメインのものを選ばせて、僕は適当な駄菓子をかごに入れていく。何気にカルパスがいちばん好きだ。あればあれだけ食べられるしね……と、二十個くらい掴んでみる。

 ふとあたりを見渡して、彼女の姿を探した。いない──ように見えたのは気のせいで、日射しが強く当たるところに立っていたから、透けていて分かりにくくなっていただけらしい。

「……彩織ちゃん、それ一人でみんな食べるの?」

「あ、いや、さすがに半分こするけど」

「おー……。あ、あとラムネも食べたいっ」

「食べるほうのラムネね……二本あればいっか」

 大量のカルパスと、プラスチックのラムネ瓶と、硝子のラムネ瓶、あとアイスが数種類。かごも少し重くなってきたところで、こんなものかな、と値段を計算してみる。あやめが律儀に数えてくれるのを隣で眺めながら、適当にお金を準備した。まぁ、千円札しかないけど。

「彩織ちゃん、駄菓子屋でお釣りなしの千円って使いすぎじゃない……?」

「まぁ、それはそうだけど……。いくらくらいになった?」

「だいたい千円っ! ギリギリだねぇ……。あっ、ほーれいざい入れなきゃ」

 保冷剤あるある。ほーれいざい、って伸ばして言っちゃうんだよね。

 お金をカウンターに置いて、諸々を袋に詰めて、アイスが溶けないように、保冷剤をたんまりと入れる。あやめはそれを大事そうに持って、どこかから吹く冷房の風に当たっていた。

「お家に戻ったら、私、午前中のおやつで食べたいな」

「いいよ、いつ食べたって。あやめちゃんの好きで来たんだし」

「えへへ、ありがとっ。幽霊だから太らないもんね」

 そう言って、服の上から自分のお腹を触っている。ぽんぽんと叩くたびに軽快な音がした。

「彩織ちゃんも触ってみる? ほらっ」

「ちょっ……」

 あやめは悪戯っぽく笑いながら、半透明のお腹に僕の手を当てさせる。少しだけへこんでいて、温かくて、柔らかい。それだけの話、なんだけど──当の本人は、なぜか嬉しそうだ。

「……できちゃったね、赤ちゃん」

「馬鹿なこと言わないでよ、もう……」

 変なことで顔を赤らめないでほしい。





 家に戻って、すぐに袋ごと冷蔵庫へしまった。ただ、特にやることもなくて、居間で適当にくつろいでいる。テレビに夢中な祖父母の横で課題をやっている小夜を、僕とあやめは後ろから眺めていた。当の本人は明らかに落ち着かなそうだ。シャーペンを持つ手が止まっている。

「通信制って全日制と変わらないの?」

「……そうやよ」

 座卓から視線を動かさないまま、小夜は小さく呟いた。

「『お勉強難しい?』って聞いてみて」

「勉強は? 難しいの?」

「別にー……普通やないん? 聞いてれば」

「ふぅん……」

「小夜ちゃんはさすがだねぇー……私とは違うや」

 畳の上に寝転がりながら、あやめは軽く笑う。どうせ誰にも見えていないから何をしてもいいよね、みたいな態度で、だいぶ我が家の雰囲気にも慣れているらしい。手を伸ばして扇風機の風を受けているのが、やはり子供らしいなぁと思っても、迂闊に笑えないのが大変だ。

 終わったのか、集中が切れたのか、小夜は大きく伸びをしてから寝転がる。

「んー……! こんなもんかな……。彩織ちゃんは勉強とか、どうなん?」

「ちょっ、ちょっ、小夜ちゃん待って……! 私の足っ、踏んでるって……!」

「あ、小夜、ちょっと一回だけ起き上がって。踏んじゃってるから」

「えっ……? あー……そっか、そやね。ほんとや。ありがと、ごめんな」

 あやめが、とは言わなかったけれど、きちんと伝わったらしい。「なんでそんなところにおるん……?」とは言われたけど。見えないとなかなか厳しいところってあるよね。

「冷蔵庫の袋のなかにカルパスいっぱいあるから、食べていいよ」

「おー……さんきゅ」

「んじゃあ彩織、ついでにじいちゃんとばあちゃんにもくれるか」

「ずっとテレビ見てたのになんで今だけ反応するの?」

「あっ、彩織ちゃん、私も食べたい!」

「……まぁ、みんなで食べよっか」

 僕にしか聞こえないはしゃぎ声を聞きながら、人数分だけ持ってくる。あやめにはバレないように、起き上がった小夜の背中に隠れて食べてもらうことにした。小さいからよく隠れる。

 可愛らしい顔に似合わず一口で飲み込む彼女を横目で見ながら、僕も封を開けて食べた。ただそれだけで、特にやることもないなぁと思いつつ、舌に広がる旨味を漠然と味わっている。

「僕、暇だから部屋でのんびりしてるね。小夜は課題とか頑張って」

「お気遣いどうもー。あーあ、やんなっちゃうな……めんどいめんどい」

「あれ、これって彩織ちゃんと二人っきり……ってこと? お誘いされてるっ」

 後ろでうるさいあやめを無視しながら、空気の籠もる二階に上がる。案の定、部屋も蒸し暑くて、すかさず窓を全開にしてから扇風機を回した。布団は敷きっぱなしのままだ。

「あやめちゃん、一緒に寝る?」

「……いいの?」

「うん。どうせ暇だしね」

 用のない掛け布団を軽く畳んで、扇風機の風が届く枕元に寝転がる。あやめもそこに飛び込むと、汗ばんで貼り付いた髪を直しながら、気持ちよさそうな笑みを洩らした。生ぬるい吐息が直にかかって、でも、それが気になるわけでもない。この距離感にも、少し慣れてきた。

「あー、涼しい……。私、昨夜はあんまり寝れなかったから、ガチ寝しちゃうかもね」

「あれ、そうなの? ……もしかして、夜中に一回、起きてたっけ?」

 そういえば、目が覚めて、また寝落ちしかけた瞬間に、あやめが部屋を出てどこかに行った気もする。別に気にはしていなかったけれど、夜中に動くのも珍しいな、とふと思った。

「どっかに行ってたよね。なにしてたの?」

「あー……彩織ちゃん、あの時、起きてたんだ?」

 あやめは目を丸くして僕を見る。それから視線を彷徨させると、「いや、特に、なんでもないんだけどね」と、歯切れ悪く切り出した。指で頬を掻きながら、曖昧に笑っている。

「ほら、ちょっと暑くて……。涼みに出てこようかなって、思っただけ、だから」

「あ、そっか。さすがにくっついて寝るのは暑かった?」

「ううん、それは平気だよ。ただ、やっぱりその、ドキドキしちゃう……かな」

 手を縮めるその姿がいじらしくて、はにかむ彼女と一緒に、つられて笑う。慣れてきたはずなのに、中途半端に自信がついていたのだろうか。羞恥心で目を逸らしながら、そう思った。

「じゃあ、あやめちゃんのこと、抱きしめて寝れないね」

「んー……。じゃあ、こうするくらいなら……いいよね」

 そうとだけ言って、僕の服をちょこんと掴む。目もしっかり閉じて、何度か呼びかけても、小さく笑うだけだった。まるで彼女が、自分自身に言い聞かせたかのような言葉に聞こえた。

「……可愛いから仕方ないか」

 僕も諦めて、目をつぶる。純白のワンピースの、薄く透けたその生地を、軽くつまんだ。


次のエピソードへ進む 進展、後退、現状維持Ⅱ


みんなのリアクション

薄ぼけた月明かりが瞳を射す。どれくらい目蓋の裏を眺めていたか分からないけれど、この八畳間の様子は、夜目にもよく窺えた。蒸し暑さはほとんどなくて、涼風が、やや汗ばんだ肌の上を撫でていく。窓から覗く星は、さながら藍のインクに散らべた輝石のようだった。
 それが眩しくて、僕はまた目を閉じる。あやめに抱きしめられていた感触を、ふと思い出す。否応なしに沈んでいく意識には抗えなくて、でも、彼女がそこにいるんだなということは、しっかり感じていた。体温も、匂いも、実体も、確かにそこにある。だから、安心できる。
「ん……」
 ──二度目の寝落ちる寸前に、寝言のようなあやめの声が聞こえた。
 暑いのか、少しだけ身をよじって、僕から離れる。
「ごめんね」と、小さく聞こえたような気もした。
 ──鼓膜を微かに、遠く薄い金属音が、震わせていく。
「……ちゃん、彩織ちゃん、起きてって」
 あやめに揺さぶられて目が覚めた。別に、声に緊張感があるわけじゃない。いつも話すような、温和で、優しいあの声音だ。鋭く射し込む朝日を、彼女の身体が遮ってくれている──わけもなく、無慈悲に燦燦と降り注いでいる。小さく返事しながら、無理やり身体を起こした。
「……おはよ」
「おはようっ」
 盛夏の向日葵にも似た満面の笑みが、まだ重い目蓋越しにもよく分かった。可愛らしいなぁ、なんて漠然と思いながら、ようよう寝ぼけまなこを擦って、欠伸をして、あやめを見直す。
「今日は……起こしてくれるパターン?」
「彩織ちゃん、私に起こされることあったかなーって」
「いや、それは多分、ないと思う……。なんか新鮮だね」  
 意識を晴らすように、二人で笑う。何事もない、平和な朝だ。いや、ぶっちゃけ、いつも平和なんだけれど。あやめが一緒にいようがいまいが、僕の周りは、ずっと平和だった。
 ──そう思ったのも束の間、ほんの一瞬、心臓を鷲掴みにされたような、嫌な動悸がする。
「……そっか」
 それだけしか、言えなかった。どうしようもないと分かっていたから。
 昨夜よりも透明度が増した彼女のことを、どう言えばいいか分からなかったから。
 半透明の身体を透き通っていく朝日は、いつもよりも眩しくて、白かった。
 あやめも気づいていたのか、けれど、いつものような無邪気な笑みを洩らす。
「だんだん透明になるとさ、なんか、神秘的って感じするよねぇ」
「……あやめちゃんに初めて会った時は、透明感のある子だなって思ったよ」
「今は本当に透明になってるけどねっ」
 何も気にしていないように。或いは、そう振る舞っているように。
「神秘的で綺麗だね」なんて、そう言いながら、腕を広げている。
 なんて言えばいいのか分からないけれど、ひとまず、頷いた。
「……ところで、彩織ちゃんさ」
「うん?」
「私、駄菓子屋さん行きたいな」
「随分と脈絡のない話をするね……」
 でもまぁ、いいか。何かしら気分転換をしないと、やってもいられなさそうだ。
「じゃあ……ちょっと待っててね。着替えてくる。少ししたら降りてきて」
「えー、着替えるくらい一緒でもいいよね? お風呂に入った仲だもん」
「いやまぁ、いいんだけどさ……。あやめちゃん、なんかオープンになったね」
 無自覚なのか、よく分かっていなそうな彼女に苦笑しながら、僕は部屋を整理する。ひとまず窓を閉めて、布団は面倒なのでそのまま、あとは日記帳を持って……うん、大丈夫かな。
「じゃあ、降りよっか」
 頷くその笑顔に、柔らかな日射しが透ける。素直に綺麗だと思った。まだ、思えている。
 軽快な音を立てて階段を降りながら、脱衣所に向かった。着替えを見られるくらい別にいいか、と思い思い、部屋着を脱いで、服を着る。それをにやけ顔で見守っているあやめの姿が面白くて、吹き出してしまったのを怒られて、そんなことをしながら、居間に顔を出した。
「おはよう。駄菓子屋さん行ってくるね」
 部屋にいた小夜と祖父母が適当に返事する。そのまま玄関に行こうとして、ふと気になった。
「あれ、小夜って高校は? もう夏休み明けたんじゃないの?」
「ウチは通信制やから大丈夫。全日制なんに行ってない彩織ちゃんのほうが問題やで?」
「あっ、通信なんだ。僕のことはほっといていいよ。それじゃあ」
「えっちょっ、意外になんも驚いてないな……!? リアクションうっす……!」
 毎日ゴロゴロしていて、宿題もせずにご気楽だな──とは思っていたけれど。
 でも、そういうのんびりした学生生活も悪くないのかな、とか考えながら、あやめの手を取って、履物を履いて、玄関を開けた。まだ夏らしい紺青の空が、入道雲をたたえていた。
「そういえばね、彩織ちゃん」
 駅の少し向こうに見える線路は、だんだんと昇ってきた炎陽の日射しに照らされて、鈍く光っていた。黄金色の稲と、或いは路傍に咲く曼珠沙華が、鮮やかに揺らめいている。
 駄菓子屋へと向かう道の途中で、麦わら帽子を持ち上げたあやめはふと、あの曼珠沙華を見つめながら言った。
「私、色が少しだけ見えるようになったんだ」
「えっ……色、色も?」
「うん、色。色がね、薄いけど、見えるようになった」
 はにかむように柔らかな笑みで、それが症状の進行を意味すると分かっているはずなのに、あやめはただ、ひたすら嬉しそうに、笑っている。数日前にカラーの夢を見たと話してくれた時も、ちょうど、こんな感じの笑顔だったなと、そんなことを思い出した。
「曼珠沙華って、もっと赤いはずなのになぁ」
 困ったように、不満げに頬を緩ませながら、あやめはいつの間にか解いていた手を結び直す。急かすようなそれが可愛らしくて、『早くアイス奢れ』と言われているような気がした。
 ショーケースから漏れた水が、焼けたアスファルトに道を作っている。それが排水口の金網から落ちて、小さく水音を立てていた。それに被さるような、エアコンの室外機が回る音。
「よし、入ろっか。あやめちゃん、静かにしててね」
「いっそのことポルターガイスト起こしちゃう?」
「それはまた変な噂になりそうで嫌なんだよ……」
 冗談冗談、と笑うあやめの髪が、顔を寄せてきた拍子に、僕の肌に触れる。けれど引き戸の窓硝子には一人しか映っていなくて、当たり前のはずなのに、少し寂しい気分になった。
 カランコロンと風鈴が鳴る。いつものおばあちゃんは……いない。その代わりに、カウンターに置き手紙がしてあった。『代金はこちらの箱にどうぞ』とのこと。無人販売だ。
「彩織ちゃん良かったね、おばあちゃんいなくて」
「普通に助かるね……。変な気とか遣わないし」
 手を繋いだまま、何を買おうかなぁと店内を物色する。
「ねぇねぇ彩織ちゃん、ラムネ飲む?」
「二本ちょうだい」
「……アイスは?」
「なんでも好きなの買っていいよ」
「いぇーいっ。優しいねぇ」
 あやめにメインのものを選ばせて、僕は適当な駄菓子をかごに入れていく。何気にカルパスがいちばん好きだ。あればあれだけ食べられるしね……と、二十個くらい掴んでみる。
 ふとあたりを見渡して、彼女の姿を探した。いない──ように見えたのは気のせいで、日射しが強く当たるところに立っていたから、透けていて分かりにくくなっていただけらしい。
「……彩織ちゃん、それ一人でみんな食べるの?」
「あ、いや、さすがに半分こするけど」
「おー……。あ、あとラムネも食べたいっ」
「食べるほうのラムネね……二本あればいっか」
 大量のカルパスと、プラスチックのラムネ瓶と、硝子のラムネ瓶、あとアイスが数種類。かごも少し重くなってきたところで、こんなものかな、と値段を計算してみる。あやめが律儀に数えてくれるのを隣で眺めながら、適当にお金を準備した。まぁ、千円札しかないけど。
「彩織ちゃん、駄菓子屋でお釣りなしの千円って使いすぎじゃない……?」
「まぁ、それはそうだけど……。いくらくらいになった?」
「だいたい千円っ! ギリギリだねぇ……。あっ、ほーれいざい入れなきゃ」
 保冷剤あるある。ほーれいざい、って伸ばして言っちゃうんだよね。
 お金をカウンターに置いて、諸々を袋に詰めて、アイスが溶けないように、保冷剤をたんまりと入れる。あやめはそれを大事そうに持って、どこかから吹く冷房の風に当たっていた。
「お家に戻ったら、私、午前中のおやつで食べたいな」
「いいよ、いつ食べたって。あやめちゃんの好きで来たんだし」
「えへへ、ありがとっ。幽霊だから太らないもんね」
 そう言って、服の上から自分のお腹を触っている。ぽんぽんと叩くたびに軽快な音がした。
「彩織ちゃんも触ってみる? ほらっ」
「ちょっ……」
 あやめは悪戯っぽく笑いながら、半透明のお腹に僕の手を当てさせる。少しだけへこんでいて、温かくて、柔らかい。それだけの話、なんだけど──当の本人は、なぜか嬉しそうだ。
「……できちゃったね、赤ちゃん」
「馬鹿なこと言わないでよ、もう……」
 変なことで顔を赤らめないでほしい。
 家に戻って、すぐに袋ごと冷蔵庫へしまった。ただ、特にやることもなくて、居間で適当にくつろいでいる。テレビに夢中な祖父母の横で課題をやっている小夜を、僕とあやめは後ろから眺めていた。当の本人は明らかに落ち着かなそうだ。シャーペンを持つ手が止まっている。
「通信制って全日制と変わらないの?」
「……そうやよ」
 座卓から視線を動かさないまま、小夜は小さく呟いた。
「『お勉強難しい?』って聞いてみて」
「勉強は? 難しいの?」
「別にー……普通やないん? 聞いてれば」
「ふぅん……」
「小夜ちゃんはさすがだねぇー……私とは違うや」
 畳の上に寝転がりながら、あやめは軽く笑う。どうせ誰にも見えていないから何をしてもいいよね、みたいな態度で、だいぶ我が家の雰囲気にも慣れているらしい。手を伸ばして扇風機の風を受けているのが、やはり子供らしいなぁと思っても、迂闊に笑えないのが大変だ。
 終わったのか、集中が切れたのか、小夜は大きく伸びをしてから寝転がる。
「んー……! こんなもんかな……。彩織ちゃんは勉強とか、どうなん?」
「ちょっ、ちょっ、小夜ちゃん待って……! 私の足っ、踏んでるって……!」
「あ、小夜、ちょっと一回だけ起き上がって。踏んじゃってるから」
「えっ……? あー……そっか、そやね。ほんとや。ありがと、ごめんな」
 あやめが、とは言わなかったけれど、きちんと伝わったらしい。「なんでそんなところにおるん……?」とは言われたけど。見えないとなかなか厳しいところってあるよね。
「冷蔵庫の袋のなかにカルパスいっぱいあるから、食べていいよ」
「おー……さんきゅ」
「んじゃあ彩織、ついでにじいちゃんとばあちゃんにもくれるか」
「ずっとテレビ見てたのになんで今だけ反応するの?」
「あっ、彩織ちゃん、私も食べたい!」
「……まぁ、みんなで食べよっか」
 僕にしか聞こえないはしゃぎ声を聞きながら、人数分だけ持ってくる。あやめにはバレないように、起き上がった小夜の背中に隠れて食べてもらうことにした。小さいからよく隠れる。
 可愛らしい顔に似合わず一口で飲み込む彼女を横目で見ながら、僕も封を開けて食べた。ただそれだけで、特にやることもないなぁと思いつつ、舌に広がる旨味を漠然と味わっている。
「僕、暇だから部屋でのんびりしてるね。小夜は課題とか頑張って」
「お気遣いどうもー。あーあ、やんなっちゃうな……めんどいめんどい」
「あれ、これって彩織ちゃんと二人っきり……ってこと? お誘いされてるっ」
 後ろでうるさいあやめを無視しながら、空気の籠もる二階に上がる。案の定、部屋も蒸し暑くて、すかさず窓を全開にしてから扇風機を回した。布団は敷きっぱなしのままだ。
「あやめちゃん、一緒に寝る?」
「……いいの?」
「うん。どうせ暇だしね」
 用のない掛け布団を軽く畳んで、扇風機の風が届く枕元に寝転がる。あやめもそこに飛び込むと、汗ばんで貼り付いた髪を直しながら、気持ちよさそうな笑みを洩らした。生ぬるい吐息が直にかかって、でも、それが気になるわけでもない。この距離感にも、少し慣れてきた。
「あー、涼しい……。私、昨夜はあんまり寝れなかったから、ガチ寝しちゃうかもね」
「あれ、そうなの? ……もしかして、夜中に一回、起きてたっけ?」
 そういえば、目が覚めて、また寝落ちしかけた瞬間に、あやめが部屋を出てどこかに行った気もする。別に気にはしていなかったけれど、夜中に動くのも珍しいな、とふと思った。
「どっかに行ってたよね。なにしてたの?」
「あー……彩織ちゃん、あの時、起きてたんだ?」
 あやめは目を丸くして僕を見る。それから視線を彷徨させると、「いや、特に、なんでもないんだけどね」と、歯切れ悪く切り出した。指で頬を掻きながら、曖昧に笑っている。
「ほら、ちょっと暑くて……。涼みに出てこようかなって、思っただけ、だから」
「あ、そっか。さすがにくっついて寝るのは暑かった?」
「ううん、それは平気だよ。ただ、やっぱりその、ドキドキしちゃう……かな」
 手を縮めるその姿がいじらしくて、はにかむ彼女と一緒に、つられて笑う。慣れてきたはずなのに、中途半端に自信がついていたのだろうか。羞恥心で目を逸らしながら、そう思った。
「じゃあ、あやめちゃんのこと、抱きしめて寝れないね」
「んー……。じゃあ、こうするくらいなら……いいよね」
 そうとだけ言って、僕の服をちょこんと掴む。目もしっかり閉じて、何度か呼びかけても、小さく笑うだけだった。まるで彼女が、自分自身に言い聞かせたかのような言葉に聞こえた。
「……可愛いから仕方ないか」
 僕も諦めて、目をつぶる。純白のワンピースの、薄く透けたその生地を、軽くつまんだ。