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ソレイン王国

ー/ー



 夕焼けの下、鐘の音が響き渡った。

 巨大な城門をくぐった勇斗たちは、ソレイン城下町の大通りを歩いていた。煉瓦の家が立ち並んでいた。まだ空は明るいが、軒先にはすでに明かりが灯され始め、オレンジ色の揺らめく光が石畳に長い影を落としている。

 大通りを行き交う人々は、黄金色に輝く鎧をまとった勇斗にふと目を向けるものの、すぐに視線を逸らしていった。

「こうやって勇者が町中を歩いてるっていうのに、どうして誰も声をかけてこないんだ?」

 ミュールが首を傾げる。

「十三歳の子供が世界の命運を背負って旅に出ていると知れ渡れば、民の不安を煽ることになる。だからこそ、勇者アルトの姿や年齢は公にされていないのです」

 トゥーレが小声で打ち明けた。

 屋台の近くを通ると、香ばしい焼き菓子の香りが漂ってきた。店先へと吸い寄せられたランパが、並べられた焼き菓子に手を伸ばそうとした。

「チビスケ?」

 ランパが羽織っている薄緑色のマントを、ミュールはぎゅっと掴んだ。

「わ、わかってるよ。勝手に食べちゃダメなんだろ?」

 ランパは苦笑しながら、ミュールの顔を見た。

 大通りをしばらく歩くと、大きな建物が目に入った。深い青灰色の石で作られた建物だ。壁には見慣れない文字が刻まれ、時折、淡い光が浮かんでは消えている。

「この妙な建物は何ですの?」

 ソーマが目を丸くした。

「ソレイン王国の魔法学校です。そうそう、チカップくんとは一年前にここで会ったことがありますね」

「チカップ、トゥーレとは知り合いだったのか?」

 勇斗は、声を低くし、チカップに尋ねた。

「あ、言ってなかったっスね。自分の親がここの臨時講師で、一度連れてこられたことがあったんスよ。そのとき、トゥーレさんとお会いしたんス」

「あのとき、きみの魔法を少しだけ見せてもらいましたが、実に素晴らしかった。的当ても百点、難しい合体魔法も軽々とこなしていましたね」

「へぇ、凄いんだな、お前」

 ミュールが白い歯を見せる。

「そんなに持ち上げないでほしいっス」

 唇をきつく噛んだチカップは、肩をすくめてうつむいた。

「いってー!」

 大きな声がしたので振り向くと、ランパが尻もちをついていた。その横で、小柄な男の子が倒れていた。周囲にはパンと果物が散らばっていた。

「なんだよ、急にぶつかってきやがって!」

「ご、ごめんなさい」

 男の子の瞳は、くすんでいた。髪の毛は伸び切っており、服装には汚れと穴が目立った。靴は履いていなかった。

「あぁ、早くしないと」

 男の子は慌てながら、散らばった食べ物を拾い集める。

「て、手伝うよ」

 勇斗は、地面に転がった赤い果実を拾い、男の子に手渡した。

「あんちゃん、ありがとう」

 ニッと笑った男の子は、両手いっぱいに食べ物を抱え、路地裏に消えていった。

「なによ、あの子」

 ソーマは、ネズミでも見たかのように、眉をひそめた。

「スラム街の子供でしょうね。城下町の端にある、隔離された場所です。野蛮な連中も多いと聞きます。あまり近づかない方が賢明ですよ」

 トゥーレが、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「それにしても、アルトくんが人助けとは。まるで別人みたいですね」

 勇斗の全身が固まった。動悸が激しくなった。

「あのガキ、どこ行きやがった!」

 エプロン姿の男が、血相を変えながら走ってきた。

「おい、アンタら。この辺でボロっちい服のガキ見なかったか? あいつ、オレの店のもん盗んでいきやがったんだ」

「あっちに逃げていったっスよ!」

 チカップは、男の子が消えた先とは反対側にある路地を指差した。

「そうか、すまんな。あのガキ、見つけたら殴って、城に突き出して、牢屋にぶち込んでやる」

 男は、鼻息を荒くしながら走っていった。

「チカップ、お前」

 ミュールが、チカップの肩に手を置いた。

「これでいいんス」

 深い堀に架けられた跳ね橋を渡ると、巨大で荘厳な城が目の前にそびえ立っていた。夕陽を背にした塔が、長い影を地面に落としていた。

 兵士の一人が、表情も変えずに近づいてきた。

「ここはソレイン城だ。子供たちが、何の用だね?」

「えっと、僕たちは……」

 勇斗が言葉を選んでいる間に、トゥーレが兵士の肩を叩いた。

「お疲れ様です」

「トゥーレ様。お戻りになられたのですね。それで、この者たちは?」

「あぁ、あなたは確か新入りでしたね」

 トゥーレが兵士に耳打ちをする。瞬間、兵士の目は点になり、口があんぐりと開いた。

「王に伝えて下さい。それと、皆さんの客室も用意して下さい」

「はっ!」

 兵士は慌てながら城の中へと消えていった。

「さて、行きましょう」

 振り向いたトゥーレは、爽やかな笑顔を浮かべた。
 

 無口な侍女に案内され、勇斗は王宮の廊下を歩いていた。

 廊下の突き当たりにぽつんとある扉の前で、侍女の足が止まった。

「アルト様がお留守の間、清掃係以外の立ち入りは禁じられております」

 侍女は一礼したあと、静かに去っていった。

「ここが、アルトの部屋」

 勇斗は扉を開いた。

 無機質な灰色で囲まれた室内は、薄暗かった。天井近くの小さな窓から、オレンジの光が細く差し込んでいる。

 鎧を脱いだ勇斗は、椅子に腰掛けた。静かな場所は好きだが、ここはどうも落ち着かない。孤独と寂しさが、一気に襲いかかってきた。ここで、アルトは一人で生きてきたのだ。

「アルト様」

 扉がノックされ、抑揚のない声が外から聞こえてきた。

「入浴の準備が整いました。大浴場までお越しください」

 湯気が立ち込める広い浴場に、一人、勇斗は立っていた。

 大理石の床は湯の熱でしっとりと湿り、広々とした湯船からは、かすかに硫黄の匂いが漂っている。壁には美しいモザイク模様が施され、豪奢な装飾が施された柱が整然と並んでいた。

 鏡の前に立ち、湯気を拭った。ぼんやりと映るのは、身体中に刻まれた傷跡だった。

 傷跡に指を這わせた。ざらりとした感触。滑らかだった肌は、もはや過去のものだった。

 左手首を見た。四芒星の痣がある。思えば、この痣がすべての始まりだった。神社の蔵での出来事が、はるか昔のように感じる。

 お母さん、大丈夫かな。アルトはちゃんとやっているのかな。そういえば、真弘くんはどうなったのだろう。

 いろいろな心配事が、頭を駆け巡った。ため息をついた勇斗は、浴槽に身を沈めた。

 しばらく浸かっていると、ガララ、と戸が開く音がした。

「失礼」

 立派な顎鬚を生やした大柄の男が、勇斗の隣に座り込んだ。湯が浴槽からあふれ出る。

「アルト、久しぶりだな」

「えっと、あなたは」

「おいおい、忘れてしまったのか? 騎士団長ダンガスだよ。まぁ、あのときは副団長だったけどな」

 豪快な笑い声が、浴室内に響き渡った。

「大体の話はトゥーレの野郎から聞いている。まさか、生きていたとはな」

 ダンガスは、勇斗の体をじっくり眺めた。

「傷だらけだな。うん、これこそ男の勲章ってやつだ」

 ガハハ、と笑ったあと、ダンガスの表情にかげりが生まれた。

「ん? これはどういう……」

「ダンガス様、大臣がお呼びです」

 外から、男の声が聞こえてきた。

「もっと浸かっていたかったのだがな。じゃあな、また会おうぜ」
 

 アルトの部屋に戻った勇斗は、オイルランプの灯りを頼りに、本棚を調べていた。

 明日はいよいよ王様と謁見する。礼儀作法なんて、まったくわからない。少しでもまともな振る舞いができるように、それらしい本を探している最中だった。

 背表紙を端から端まで眺める。剣術書、戦術論、魔法理論、歴史書――硬派な文字が並んでいた。

 ふと、一冊だけ妙に奥に押し込まれた本に気づいた。表紙には、『ソレイン王国 宮廷騎士の心得』と書かれている。

「これなら使えそうだ」

 勇斗は、本を引っ張り出した。その瞬間、パサッ、と足元に小さな本が落ちた。黒い無地の背表紙が固い床にぶつかり、ページが開かれた。

「何、この本? どこから出てきたの?」

 勇斗は小さな本を拾い上げ、最初のページに目を通してみた。

「これは、アルトの日記?」

 他人の日記を勝手に読むのは良心が痛むが、なぜか読まなくてはいけない気がした。

『きょう、おうこくにきた! おしろはすっごくおおきい! こじいんとはぜんぜんちがう! べつのせかいみたいだ』

『ボクのへやはちょっとくらい。でも、でんせつのぶぐをそうびできた! これってすごいことだよね? ボク、ぜったいすごいゆうしゃになれる! みんながボクにきたいしてるんだ。がんばるぞ!』

『くんれんがはじまった。たくさんおこられた。たたかれた。でも、これもつよくなるため。ボクはがんばる! はやくつよくなりたい!』

『ずーっとくんれん。どんどんきびしくなる。ちょっとだけそとであそびたいっていったら、ダメっていわれた。「ゆうしゃにはひつようない」って。なんで? よくわかんない』

『にげようとした。でも、すぐにつかまった。なぐられた。いたい。もういやだ』

『だれかたすけて。どこか、ちがうせかいにいきたい』

 ページをめくる。

『朝から晩まで剣をふるう日々が続く。体じゅうが痛い。手には血豆がいっぱいできて、それがつぶれるともっと痛い。でも、そのたびに「もっと強くなれ」って自分に言い聞かせた。まだボクは弱い。こんなことでへこたれてはいけない。勇者としての責任を果たすために、もっと頑張らないと』

『今日、訓練中に涙が出た。自分でも理由がわからない。でも、急にこみ上げてきたんだ。すぐに隠したから、誰にも気づかれなかった。でも、なんだか情けなかった。ボクは勇者なのに、泣いてる暇なんてないのに。感情をコントロールできない自分がいやだ。明日から魔法の訓練も始まる。もっと強く、冷静にならなきゃ』

『騎士たちが、楽しそうにお酒と葉巻をたしなんでいた。ボクも気になって、試してみたくなった。お願いすると、あっさりもらえた。怒られるかなと思ったけど、意外だった。お酒を飲んで、葉巻を吸うと、気持ちがふわっとした。嫌なことを少しだけ忘れられる気がした。今のボクには、こういうものが必要なのかもしれない』

『訓練がすべてになった。ただ、言われたことをこなすだけの毎日。なにも考えない。喜びも、悲しみも、どんどん遠くなっていく』

 さらにページをめくる。

『今日も、何も感じなかった。訓練でどれだけ疲労しても、酒を飲んでも、葉巻を吸っても、何も変わらない。ただ淡々と、時間が過ぎていく。ボクは壊れているのだろうか』

『最近、シグネリア王女がボクの部屋に来るようになった。ローズピンクの髪をした、綺麗な人。夜な夜な現れては、いろんな話をしてくれる。彼女は優しい人だ。いつもボクのことを気にかけてくれている。でも、どう受け取っていいのかわからない。彼女と話すたびに、胸が苦しくなる』

『今日、王国に賊が侵入した。シグネリアが人質に取られたとき、頭の中が真っ白になった。彼女の悲鳴が聞こえて、何かがボクの中で切れた。無意識のうちに賊を斬りつけた。気づいたときには、彼らの命はボクの手で絶たれていた。初めて人を殺した。何も感じなかった。でも、王女が無事だったことに、少しだけ安堵を覚えた』

『明日、ついに魔神退治に旅立つ。魔法の師匠であるトゥーレと、光の精霊ペックがついてくるらしい。見張りだろうか。シグネリアはかなり心配している様子だった。ボクは彼女に言葉をかけることができなかった。彼女に何かを感じる自分が怖い。旅立ち前に、すべてが変わってしまうかもしれない。変わってしまうことは、期待をしている者たちを裏切る行為だ。それだけは絶対に避けなければならない』

『明日からは、魔神討伐に全てを捧げる。シグネリアへの想いも、この日記とともに封印する。ボクは勇者であり、感情に流されることは許されない。必要なのは、己の力だけだ』

 以降のページは真っ白だった。日記を静かに閉じた。

 勇斗は大きく息を吐き、肩を落とした。

「アルト」

 突然、真後ろから声が聞こえた。

「うわあああああっ!」

 肩がビクッと跳ねた勇斗は、勢いよく椅子から転がり落ちた。

「だ、大丈夫?」

 顔を上げると、ローズピンクの長い髪をした少女が、きょとんとした表情をして立っていた。


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 夕焼けの下、鐘の音が響き渡った。
 巨大な城門をくぐった勇斗たちは、ソレイン城下町の大通りを歩いていた。煉瓦の家が立ち並んでいた。まだ空は明るいが、軒先にはすでに明かりが灯され始め、オレンジ色の揺らめく光が石畳に長い影を落としている。
 大通りを行き交う人々は、黄金色に輝く鎧をまとった勇斗にふと目を向けるものの、すぐに視線を逸らしていった。
「こうやって勇者が町中を歩いてるっていうのに、どうして誰も声をかけてこないんだ?」
 ミュールが首を傾げる。
「十三歳の子供が世界の命運を背負って旅に出ていると知れ渡れば、民の不安を煽ることになる。だからこそ、勇者アルトの姿や年齢は公にされていないのです」
 トゥーレが小声で打ち明けた。
 屋台の近くを通ると、香ばしい焼き菓子の香りが漂ってきた。店先へと吸い寄せられたランパが、並べられた焼き菓子に手を伸ばそうとした。
「チビスケ?」
 ランパが羽織っている薄緑色のマントを、ミュールはぎゅっと掴んだ。
「わ、わかってるよ。勝手に食べちゃダメなんだろ?」
 ランパは苦笑しながら、ミュールの顔を見た。
 大通りをしばらく歩くと、大きな建物が目に入った。深い青灰色の石で作られた建物だ。壁には見慣れない文字が刻まれ、時折、淡い光が浮かんでは消えている。
「この妙な建物は何ですの?」
 ソーマが目を丸くした。
「ソレイン王国の魔法学校です。そうそう、チカップくんとは一年前にここで会ったことがありますね」
「チカップ、トゥーレとは知り合いだったのか?」
 勇斗は、声を低くし、チカップに尋ねた。
「あ、言ってなかったっスね。自分の親がここの臨時講師で、一度連れてこられたことがあったんスよ。そのとき、トゥーレさんとお会いしたんス」
「あのとき、きみの魔法を少しだけ見せてもらいましたが、実に素晴らしかった。的当ても百点、難しい合体魔法も軽々とこなしていましたね」
「へぇ、凄いんだな、お前」
 ミュールが白い歯を見せる。
「そんなに持ち上げないでほしいっス」
 唇をきつく噛んだチカップは、肩をすくめてうつむいた。
「いってー!」
 大きな声がしたので振り向くと、ランパが尻もちをついていた。その横で、小柄な男の子が倒れていた。周囲にはパンと果物が散らばっていた。
「なんだよ、急にぶつかってきやがって!」
「ご、ごめんなさい」
 男の子の瞳は、くすんでいた。髪の毛は伸び切っており、服装には汚れと穴が目立った。靴は履いていなかった。
「あぁ、早くしないと」
 男の子は慌てながら、散らばった食べ物を拾い集める。
「て、手伝うよ」
 勇斗は、地面に転がった赤い果実を拾い、男の子に手渡した。
「あんちゃん、ありがとう」
 ニッと笑った男の子は、両手いっぱいに食べ物を抱え、路地裏に消えていった。
「なによ、あの子」
 ソーマは、ネズミでも見たかのように、眉をひそめた。
「スラム街の子供でしょうね。城下町の端にある、隔離された場所です。野蛮な連中も多いと聞きます。あまり近づかない方が賢明ですよ」
 トゥーレが、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それにしても、アルトくんが人助けとは。まるで別人みたいですね」
 勇斗の全身が固まった。動悸が激しくなった。
「あのガキ、どこ行きやがった!」
 エプロン姿の男が、血相を変えながら走ってきた。
「おい、アンタら。この辺でボロっちい服のガキ見なかったか? あいつ、オレの店のもん盗んでいきやがったんだ」
「あっちに逃げていったっスよ!」
 チカップは、男の子が消えた先とは反対側にある路地を指差した。
「そうか、すまんな。あのガキ、見つけたら殴って、城に突き出して、牢屋にぶち込んでやる」
 男は、鼻息を荒くしながら走っていった。
「チカップ、お前」
 ミュールが、チカップの肩に手を置いた。
「これでいいんス」
 深い堀に架けられた跳ね橋を渡ると、巨大で荘厳な城が目の前にそびえ立っていた。夕陽を背にした塔が、長い影を地面に落としていた。
 兵士の一人が、表情も変えずに近づいてきた。
「ここはソレイン城だ。子供たちが、何の用だね?」
「えっと、僕たちは……」
 勇斗が言葉を選んでいる間に、トゥーレが兵士の肩を叩いた。
「お疲れ様です」
「トゥーレ様。お戻りになられたのですね。それで、この者たちは?」
「あぁ、あなたは確か新入りでしたね」
 トゥーレが兵士に耳打ちをする。瞬間、兵士の目は点になり、口があんぐりと開いた。
「王に伝えて下さい。それと、皆さんの客室も用意して下さい」
「はっ!」
 兵士は慌てながら城の中へと消えていった。
「さて、行きましょう」
 振り向いたトゥーレは、爽やかな笑顔を浮かべた。
 無口な侍女に案内され、勇斗は王宮の廊下を歩いていた。
 廊下の突き当たりにぽつんとある扉の前で、侍女の足が止まった。
「アルト様がお留守の間、清掃係以外の立ち入りは禁じられております」
 侍女は一礼したあと、静かに去っていった。
「ここが、アルトの部屋」
 勇斗は扉を開いた。
 無機質な灰色で囲まれた室内は、薄暗かった。天井近くの小さな窓から、オレンジの光が細く差し込んでいる。
 鎧を脱いだ勇斗は、椅子に腰掛けた。静かな場所は好きだが、ここはどうも落ち着かない。孤独と寂しさが、一気に襲いかかってきた。ここで、アルトは一人で生きてきたのだ。
「アルト様」
 扉がノックされ、抑揚のない声が外から聞こえてきた。
「入浴の準備が整いました。大浴場までお越しください」
 湯気が立ち込める広い浴場に、一人、勇斗は立っていた。
 大理石の床は湯の熱でしっとりと湿り、広々とした湯船からは、かすかに硫黄の匂いが漂っている。壁には美しいモザイク模様が施され、豪奢な装飾が施された柱が整然と並んでいた。
 鏡の前に立ち、湯気を拭った。ぼんやりと映るのは、身体中に刻まれた傷跡だった。
 傷跡に指を這わせた。ざらりとした感触。滑らかだった肌は、もはや過去のものだった。
 左手首を見た。四芒星の痣がある。思えば、この痣がすべての始まりだった。神社の蔵での出来事が、はるか昔のように感じる。
 お母さん、大丈夫かな。アルトはちゃんとやっているのかな。そういえば、真弘くんはどうなったのだろう。
 いろいろな心配事が、頭を駆け巡った。ため息をついた勇斗は、浴槽に身を沈めた。
 しばらく浸かっていると、ガララ、と戸が開く音がした。
「失礼」
 立派な顎鬚を生やした大柄の男が、勇斗の隣に座り込んだ。湯が浴槽からあふれ出る。
「アルト、久しぶりだな」
「えっと、あなたは」
「おいおい、忘れてしまったのか? 騎士団長ダンガスだよ。まぁ、あのときは副団長だったけどな」
 豪快な笑い声が、浴室内に響き渡った。
「大体の話はトゥーレの野郎から聞いている。まさか、生きていたとはな」
 ダンガスは、勇斗の体をじっくり眺めた。
「傷だらけだな。うん、これこそ男の勲章ってやつだ」
 ガハハ、と笑ったあと、ダンガスの表情にかげりが生まれた。
「ん? これはどういう……」
「ダンガス様、大臣がお呼びです」
 外から、男の声が聞こえてきた。
「もっと浸かっていたかったのだがな。じゃあな、また会おうぜ」
 アルトの部屋に戻った勇斗は、オイルランプの灯りを頼りに、本棚を調べていた。
 明日はいよいよ王様と謁見する。礼儀作法なんて、まったくわからない。少しでもまともな振る舞いができるように、それらしい本を探している最中だった。
 背表紙を端から端まで眺める。剣術書、戦術論、魔法理論、歴史書――硬派な文字が並んでいた。
 ふと、一冊だけ妙に奥に押し込まれた本に気づいた。表紙には、『ソレイン王国 宮廷騎士の心得』と書かれている。
「これなら使えそうだ」
 勇斗は、本を引っ張り出した。その瞬間、パサッ、と足元に小さな本が落ちた。黒い無地の背表紙が固い床にぶつかり、ページが開かれた。
「何、この本? どこから出てきたの?」
 勇斗は小さな本を拾い上げ、最初のページに目を通してみた。
「これは、アルトの日記?」
 他人の日記を勝手に読むのは良心が痛むが、なぜか読まなくてはいけない気がした。
『きょう、おうこくにきた! おしろはすっごくおおきい! こじいんとはぜんぜんちがう! べつのせかいみたいだ』
『ボクのへやはちょっとくらい。でも、でんせつのぶぐをそうびできた! これってすごいことだよね? ボク、ぜったいすごいゆうしゃになれる! みんながボクにきたいしてるんだ。がんばるぞ!』
『くんれんがはじまった。たくさんおこられた。たたかれた。でも、これもつよくなるため。ボクはがんばる! はやくつよくなりたい!』
『ずーっとくんれん。どんどんきびしくなる。ちょっとだけそとであそびたいっていったら、ダメっていわれた。「ゆうしゃにはひつようない」って。なんで? よくわかんない』
『にげようとした。でも、すぐにつかまった。なぐられた。いたい。もういやだ』
『だれかたすけて。どこか、ちがうせかいにいきたい』
 ページをめくる。
『朝から晩まで剣をふるう日々が続く。体じゅうが痛い。手には血豆がいっぱいできて、それがつぶれるともっと痛い。でも、そのたびに「もっと強くなれ」って自分に言い聞かせた。まだボクは弱い。こんなことでへこたれてはいけない。勇者としての責任を果たすために、もっと頑張らないと』
『今日、訓練中に涙が出た。自分でも理由がわからない。でも、急にこみ上げてきたんだ。すぐに隠したから、誰にも気づかれなかった。でも、なんだか情けなかった。ボクは勇者なのに、泣いてる暇なんてないのに。感情をコントロールできない自分がいやだ。明日から魔法の訓練も始まる。もっと強く、冷静にならなきゃ』
『騎士たちが、楽しそうにお酒と葉巻をたしなんでいた。ボクも気になって、試してみたくなった。お願いすると、あっさりもらえた。怒られるかなと思ったけど、意外だった。お酒を飲んで、葉巻を吸うと、気持ちがふわっとした。嫌なことを少しだけ忘れられる気がした。今のボクには、こういうものが必要なのかもしれない』
『訓練がすべてになった。ただ、言われたことをこなすだけの毎日。なにも考えない。喜びも、悲しみも、どんどん遠くなっていく』
 さらにページをめくる。
『今日も、何も感じなかった。訓練でどれだけ疲労しても、酒を飲んでも、葉巻を吸っても、何も変わらない。ただ淡々と、時間が過ぎていく。ボクは壊れているのだろうか』
『最近、シグネリア王女がボクの部屋に来るようになった。ローズピンクの髪をした、綺麗な人。夜な夜な現れては、いろんな話をしてくれる。彼女は優しい人だ。いつもボクのことを気にかけてくれている。でも、どう受け取っていいのかわからない。彼女と話すたびに、胸が苦しくなる』
『今日、王国に賊が侵入した。シグネリアが人質に取られたとき、頭の中が真っ白になった。彼女の悲鳴が聞こえて、何かがボクの中で切れた。無意識のうちに賊を斬りつけた。気づいたときには、彼らの命はボクの手で絶たれていた。初めて人を殺した。何も感じなかった。でも、王女が無事だったことに、少しだけ安堵を覚えた』
『明日、ついに魔神退治に旅立つ。魔法の師匠であるトゥーレと、光の精霊ペックがついてくるらしい。見張りだろうか。シグネリアはかなり心配している様子だった。ボクは彼女に言葉をかけることができなかった。彼女に何かを感じる自分が怖い。旅立ち前に、すべてが変わってしまうかもしれない。変わってしまうことは、期待をしている者たちを裏切る行為だ。それだけは絶対に避けなければならない』
『明日からは、魔神討伐に全てを捧げる。シグネリアへの想いも、この日記とともに封印する。ボクは勇者であり、感情に流されることは許されない。必要なのは、己の力だけだ』
 以降のページは真っ白だった。日記を静かに閉じた。
 勇斗は大きく息を吐き、肩を落とした。
「アルト」
 突然、真後ろから声が聞こえた。
「うわあああああっ!」
 肩がビクッと跳ねた勇斗は、勢いよく椅子から転がり落ちた。
「だ、大丈夫?」
 顔を上げると、ローズピンクの長い髪をした少女が、きょとんとした表情をして立っていた。