表示設定
表示設定
目次 目次




★似て非なる血

ー/ー




「やあ。久しぶりだな」

 単独依頼の仕事だと、小規模だが豪華なホテルのショールームに呼ばれ、依頼人と対峙したアンジュは驚愕した。ジェラルドの兄――ロベルトが、いつかも見たどこか裏のあるにこやかな笑みを浮かべ、自分を待っていたのだ。

「……何故、貴方が?」

 詰まる息を渇いた喉で飲み込み、真っ青な顔で尋ねる彼女を、ロベルトはにやつきながら、面白そうに眺めている。

「今日は、僕一人を楽しませて欲しくてね」
「……?」
「わざわざ、部屋を貸し切りにしたんだ。()()仕事、してくれよ」

 彼の意図が読めないアンジュは、怪訝な表情を隠せない。純粋な観賞の為に自分を呼んだとは、さすがに思えなかった。

「……私の歌を、聴きたいんですか?」
「そうだね。でも……()()()は、ここでじゃない。()()だ。来てくれるだろう?」

 明らかに不穏な企みを表している物言いと、にやり、といやらしく笑うシチュエーション。強烈な疑似感(デジャヴ)(よぎ)る。そんなアンジュの視界が、気持ちの悪い眩暈(めまい)で、更にぐらついた。


 一方、邸宅を飛び出したジェラルドは、門番からの不審な視線も構わず、急いで馬車に乗り込み、ロベルトが行きそうな場所に向かった。アンジュの居場所はクリスも知らなかったので、心当たりのある建物を必死に推測する。
 『団長は知っているはず』『出番が終わり次第、彼に問いて自分も向かう』と彼女も協力してくれたが、一刻の猶予は無いと思った。恐らく、自分への当て付けか嫌がらせで、アンジュに何かしらの危害を加えるのは間違いない――
 ぎりっ、と奥歯を噛みしめ、揺れる馬車の中で頭を抱える。とりあえず街に向かってはいるが、早く見つけなければ手遅れになると焦った。激しい罪悪感と兄への怒り、憎しみで破裂しそうな思考を、全神経を使って鎮めた。

 ――落ち着け。考えろ

 ロベルトは、由緒ある公爵家の跡取り息子である。いずれ、どこぞの名家の令嬢と婚約する身……外聞は気になるはずだ。歌い手の女を一人招いて連れ込んだ、なんて噂がおおっぴらに露呈するのは、いくら何でも避けたいに違いなかった。
 家名を利用して口止めが出来る、人目につかない場所は限られている。公爵家の行きつけの店かホテルを、手当たり次第に当たるしかなかった。しかし、従業員やオーナーが、すんなり口を割るはずも無いだろう……

 ――どうすれば……‼

 怒りと焦りで、胸の芯が焼けるように疼く。()き立てるように鳴り響く馬蹄の音が、今にも暴発しそうなジェラルドの思考を、更に崖っぷちに追い込んだ。
 ふと、アンジュの柔らかな微笑みが浮かぶ。ずっと、彼女を失う事、命が奪われてしまう事が怖かった。しかし、今、最も恐ろしいのは、()()()()を壊され、悪い方に変えられてしまう事だ……


「手っ取り早く言うけど、君は僕の『専属』になった。色んな意味でね」
「……⁉」

 一曲も歌わず、そのままロベルトに促され、ショールームを退出したアンジュは猜疑心を抱えながらも、ホテルの最上階にある、豪奢な装飾で溢れた一室に連れて来られた。それだけでも不安で堪らないのに、部屋に入るなり彼が口にした言葉は、アンジュにとって絶望的な展開だった。

「僕が好きな時に呼んで、僕の為に歌って、食事もする。あと……()()もてなしも」

 手にしたウイスキーを高価そうなグラスに注ぎながら、この男は、とんでもない事実を次々に告げる。アンジュの全身に、ぞわっ、と至極気持ちの悪い戦慄が走った。
 ここと同じような部屋が幾つか隣接し、巨大なガラス張りの窓の外には、広いテラスが備え付けられている、宿泊用に造られたにしては贅沢過ぎる部屋だ。強いアルコールの臭いが漂うに比例し、脳内に危険信号が鳴り始める。目の前を取り巻く全てに対し、畏怖(いふ)が占めた。

「そんな話‼ だ……団長は、ご存知なんですか⁉」
「成約済み。金も払った。結構渋ったけど、今後の()()との契約続行の有無をちらつかせたら、のんだよ。今や俺は親父と同等の立場だし、向こうも経営難だからねぇ。この世界にはこういう事もあるって、知らなかった? お嬢ちゃん」

 ぐい、と勢いよく、ロベルトはウイスキーを口にした。公爵令息の権力で、楽団を脅迫した事実を何でもない事のように答える彼に驚愕し、唖然とする。
 まるで異星人とでも会話しているようだと思った。彼を取り巻く世界では、これは何でもない当たり前の事なのだろうか。段々、自分の感覚の方が常識外れ、異端だと迫られているような錯覚を感じ出す。
 いずれにしろ、この人にモラルや倫理は、まるで通じないと思ったアンジュは、素朴な疑問をぶつけた。

「……どうして、そこまで、私を?」
「そうだねぇ。確かに、君はそんなに好みではないけど、他の女には無い、最高の切札(カード)を持ってるんだよ」

 口元に貼り付いたような微笑みを浮かべ、怒りに震えながら困惑するアンジュを尻目に、恐ろしい程の虚無感の漂う視線を向けた。

「『ジェラルド・グラッドストーンが、ご執心の女』」
「‼」

 既に滞留していた真っ黒な塊が、一気に沸騰し、ぐつぐつ、と煮え立つ。憎悪という名の激情が、生まれて初めてアンジュを襲った。

「アイツがどうしようと、今まではどうでも良かったんだけど、この間のはかなり腹に据えかねてね。大体、不貞の……悪魔のくせに妙にデキがいいのが、また癪に障る」

 突然、重く響く、ドスの効いた小声に変わり、独り言のように吐き捨てたロベルトは、完全に怨恨を剥き出しにしていた。

「一泡吹かせるだけじゃ、足りない。赦しを乞い、土下座するまでいたぶってやりたいんだなぁ」
「卑怯者‼ 悪魔は……貴方よ‼」

 容赦無く続けられる、残酷極まりない発言に耐え切れず、とうとう、アンジュの口から罵倒する言葉が飛び出た。

「……そんな口は利かない方がいいよ? 君次第で楽団の存続も危うくなるし、場合によってはアイツの()()も、世間に公表するつもり」
「……‼」

 どこまでも卑劣な発言に、非難する言葉すら失う。この人は、本当にジェラルドと血が繋がっているのだろうか。背格好と瞳の色以外に、彼の面影が全く感じられない。

 血縁の有無が、人間同士の良好度や信頼性を確定する訳ではない事を、アンジュはよく知っていた。まだ口もきけない頃、育児放棄の果てに見捨てたという両親。意識する度に無性に哀しくなり、自尊心を深く(えぐ)る。
 育った孤児院の院長である叔母とだって、決して仲睦まじいとは言えなかった。むしろ、親類という事実が、逆に遠慮という壁を壊し、(あだ)と化した。彼女にとっても不本意で迷惑な事だったろうが、養い主という切り札が、容赦ない仕打ちを増発させ、状況を悪化させているようにも思えた。
 戸籍という紙一枚の関係とも違う。扱い方を間違えば、知らぬ間に、一生付きまとう(かせ)、時には、自身の首をゆるやかに締め上げる凶器に変貌する。血の繋がりとは、そんな目に見えない鉄の鎖、又は真綿(まわた)の縄に成りかねない、諸刃(もろは)(つるぎ)だ。
 信頼どころか情すら通わない、形だけの血縁者というのは、もしかしたら、最も人の心を歪ませ、憎悪を招いてしまうモノなのかもしれない……
 そんな事を考えているうちに、いつの間にか、アルコールと香水の混じった臭いを纏うロベルトが、アンジュの目の前に立ちふさがっていた。

「でも、嫌がる女性を無理矢理……というのは、僕の趣味じゃないんだ。まぁ、あんまり怒らせたら……わからないけどね」

 遠回しに恐ろしい脅迫をしながら、じりっ、と詰め寄る。並みならぬ恐怖と怒りで俯き、全く身動き出来なくなったアンジュの顔を、被うように覗き込んだ。
 薄暗がりの中、ランプの仄かな灯りに透ける、癖のある薄茶の短髪に、甘く柔和な造りの顔立ち。目元だけ見たら、むしろジェラルドよりずっと優しそうだ。だが、同じダークグリーンの()の奥は笑っていない。光が無いのは同じだが、深緑(しんりょく)でもなかった。泥が潜むように漂い、濃灰に淀んでいる。
 自分には、もう逃げ場も突破口も無いのだという事実が、必死に抵抗していたアンジュの脳裏に、すきま風のように入り込み、ひやり、と乗っ取った。どうしようもない無力感、やるせなさ……諦めが、全身を侵食していく。
 こんな奴の言いなりになるなんて、絶対に嫌だった。しかし、自分が拒否したら、唯一の居場所である楽団、何よりも好いて慕う男に、危機が迫る。
 今からされることは、目の前の男でなく、もっと妖艶な()の、冷徹で意地悪で……繊細で優しい、()()()だと思えば、耐えられる……かも、しれ……ない……

「……楽団の皆さんとジェラルドさんに、本当に何もしないとお約束してくれるんですね? あと、この()()契約の件……彼には内密にして下さい。もし、破ったら…… 私も、貴方との事を社交界にばらします。それくらいは……します」

 全てを諦め、悟ったような様子の中にある、どこか毅然とした物言い。そんなアンジュの態度と覚悟を帯びた眼差しに、ロベルトは少し不意を突かれ、面食らった。
 以前も感じたが、この娘は、心身共に多少脆弱(ぜいじゃく)なようだが、追い込まれた時、突如、肝を据えた何物かに変貌するようだ。

「……いいよ。了解。俺だって、そこまでして、アイツに何かしたい訳じゃない」
「わかりました……後は、貴方の言う通りにします。ですが、一つだけ条件……お願いがあります」
「条件なんて言える立場じゃないんだけどなぁ…… まあ、いいよ。何?」
「……口、付けだけは、出来ません。後はご自由に……と、お約束します」

 あの二人だけの演奏会での事は、アンジュにとって唯一、貴い宝物である。

「は……? いいけど……? ああ、何かの思い出みたいな? ……って、あれ。まさか、君……経験、無い? え、()()()とは……!?」

 そこまで言った瞬間、ロベルトは、ふ……ふっ、ははは‼ と盛大に吹き出した。

「これはいい……‼ 大事で大事で仕方ない君に僕が手をつけたと知った時、あの男、どんな顔するだろうねぇ……」

 小気味よいと言わんばかりに、ぶはっ……はっ……という、下卑た笑い声を上げ続ける彼に、嫌悪感をますます募らせる。胸の奥がじわじわ焼け、苦しい……

 微かに震えるアンジュをベッドサイドに座らせ、ロベルトは手にしたサテン地のスカーフを折り、彼女の口に結わえつける。口枷(くちかせ)のつもりらしかったが、自身全てを無にした当人は、そんな状況にもされるがままだ。

「あまり手荒い事はしたくないけど、大声を出されるのも困るからね。君の希望も叶うし、いいだろ?」

 そう言うなり、にやり、と笑みを浮かべ、上質なレースカーテンに覆われた、柔らかなマットレスに押し倒した。激しい嫌悪で思わず目を反らしたアンジュの顔を、愉快そうに覗き込む。

「……へぇ。よく見たら、結構悪くないね」

 まじまじと、ロベルトは値踏みするように、横たえた身体を眺めた。透き通る白い肌に、蜜蝋色のゆるやかな巻き髪。華奢な胴体には小ぶりではあるが柔らかな丸みを持っているのが、シフォン素材のフォーマルドレスの上からでもわかった。スリット入りのスカートから覗く足は、すらり、と綺麗に伸びている。
 相変わらず、小柄で痩せ気味ではあるが、長い年月が彼女の身体つきを、大人(レディ)にしていたのだ。皮肉にも、こんな時……こんな男に、そんな言葉を言われた事が、アンジュは哀しくて堪らなかった。絹のシーツを、ぎゅっ、と片手で握りしめる。

 ――ああ……やっぱり、こうなるんだ……
 ――頑張ってみたけど、結局、誰かの言いなりになるしかなくて、何もできない。いつも、いつも、大切な人を、巻き込んで……
 ――何も無い。こんな、自分。もう、どうにでも……なれば……いい…………


 暫し経ち、コン……コン……と控えめなノック音が、吐息と衣擦れの音だけがする、静まった室内に響いた。

「お客様。お休み中のところ、大変申し訳ございません」

 ホテルマンらしき年配の男の、若干怯えの混じる声がした。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む ★カナリアは何故鳴くか


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「やあ。久しぶりだな」
 単独依頼の仕事だと、小規模だが豪華なホテルのショールームに呼ばれ、依頼人と対峙したアンジュは驚愕した。ジェラルドの兄――ロベルトが、いつかも見たどこか裏のあるにこやかな笑みを浮かべ、自分を待っていたのだ。
「……何故、貴方が?」
 詰まる息を渇いた喉で飲み込み、真っ青な顔で尋ねる彼女を、ロベルトはにやつきながら、面白そうに眺めている。
「今日は、僕一人を楽しませて欲しくてね」
「……?」
「わざわざ、部屋を貸し切りにしたんだ。|い《・》|い《・》仕事、してくれよ」
 彼の意図が読めないアンジュは、怪訝な表情を隠せない。純粋な観賞の為に自分を呼んだとは、さすがに思えなかった。
「……私の歌を、聴きたいんですか?」
「そうだね。でも……|メ《・》|イ《・》|ン《・》は、ここでじゃない。|別《・》|室《・》だ。来てくれるだろう?」
 明らかに不穏な企みを表している物言いと、にやり、といやらしく笑うシチュエーション。強烈な|疑似感《デジャヴ》が|過《よぎ》る。そんなアンジュの視界が、気持ちの悪い|眩暈《めまい》で、更にぐらついた。
 一方、邸宅を飛び出したジェラルドは、門番からの不審な視線も構わず、急いで馬車に乗り込み、ロベルトが行きそうな場所に向かった。アンジュの居場所はクリスも知らなかったので、心当たりのある建物を必死に推測する。
 『団長は知っているはず』『出番が終わり次第、彼に問いて自分も向かう』と彼女も協力してくれたが、一刻の猶予は無いと思った。恐らく、自分への当て付けか嫌がらせで、アンジュに何かしらの危害を加えるのは間違いない――
 ぎりっ、と奥歯を噛みしめ、揺れる馬車の中で頭を抱える。とりあえず街に向かってはいるが、早く見つけなければ手遅れになると焦った。激しい罪悪感と兄への怒り、憎しみで破裂しそうな思考を、全神経を使って鎮めた。
 ――落ち着け。考えろ
 ロベルトは、由緒ある公爵家の跡取り息子である。いずれ、どこぞの名家の令嬢と婚約する身……外聞は気になるはずだ。歌い手の女を一人招いて連れ込んだ、なんて噂がおおっぴらに露呈するのは、いくら何でも避けたいに違いなかった。
 家名を利用して口止めが出来る、人目につかない場所は限られている。公爵家の行きつけの店かホテルを、手当たり次第に当たるしかなかった。しかし、従業員やオーナーが、すんなり口を割るはずも無いだろう……
 ――どうすれば……‼
 怒りと焦りで、胸の芯が焼けるように疼く。|急《せ》き立てるように鳴り響く馬蹄の音が、今にも暴発しそうなジェラルドの思考を、更に崖っぷちに追い込んだ。
 ふと、アンジュの柔らかな微笑みが浮かぶ。ずっと、彼女を失う事、命が奪われてしまう事が怖かった。しかし、今、最も恐ろしいのは、|彼《・》|女《・》|自《・》|身《・》を壊され、悪い方に変えられてしまう事だ……
「手っ取り早く言うけど、君は僕の『専属』になった。色んな意味でね」
「……⁉」
 一曲も歌わず、そのままロベルトに促され、ショールームを退出したアンジュは猜疑心を抱えながらも、ホテルの最上階にある、豪奢な装飾で溢れた一室に連れて来られた。それだけでも不安で堪らないのに、部屋に入るなり彼が口にした言葉は、アンジュにとって絶望的な展開だった。
「僕が好きな時に呼んで、僕の為に歌って、食事もする。あと……|夜《・》|の《・》もてなしも」
 手にしたウイスキーを高価そうなグラスに注ぎながら、この男は、とんでもない事実を次々に告げる。アンジュの全身に、ぞわっ、と至極気持ちの悪い戦慄が走った。
 ここと同じような部屋が幾つか隣接し、巨大なガラス張りの窓の外には、広いテラスが備え付けられている、宿泊用に造られたにしては贅沢過ぎる部屋だ。強いアルコールの臭いが漂うに比例し、脳内に危険信号が鳴り始める。目の前を取り巻く全てに対し、|畏怖《いふ》が占めた。
「そんな話‼ だ……団長は、ご存知なんですか⁉」
「成約済み。金も払った。結構渋ったけど、今後の|ウ《・》|チ《・》との契約続行の有無をちらつかせたら、のんだよ。今や俺は親父と同等の立場だし、向こうも経営難だからねぇ。この世界にはこういう事もあるって、知らなかった? お嬢ちゃん」
 ぐい、と勢いよく、ロベルトはウイスキーを口にした。公爵令息の権力で、楽団を脅迫した事実を何でもない事のように答える彼に驚愕し、唖然とする。
 まるで異星人とでも会話しているようだと思った。彼を取り巻く世界では、これは何でもない当たり前の事なのだろうか。段々、自分の感覚の方が常識外れ、異端だと迫られているような錯覚を感じ出す。
 いずれにしろ、この人にモラルや倫理は、まるで通じないと思ったアンジュは、素朴な疑問をぶつけた。
「……どうして、そこまで、私を?」
「そうだねぇ。確かに、君はそんなに好みではないけど、他の女には無い、最高の|切札《カード》を持ってるんだよ」
 口元に貼り付いたような微笑みを浮かべ、怒りに震えながら困惑するアンジュを尻目に、恐ろしい程の虚無感の漂う視線を向けた。
「『ジェラルド・グラッドストーンが、ご執心の女』」
「‼」
 既に滞留していた真っ黒な塊が、一気に沸騰し、ぐつぐつ、と煮え立つ。憎悪という名の激情が、生まれて初めてアンジュを襲った。
「アイツがどうしようと、今まではどうでも良かったんだけど、この間のはかなり腹に据えかねてね。大体、不貞の……悪魔のくせに妙にデキがいいのが、また癪に障る」
 突然、重く響く、ドスの効いた小声に変わり、独り言のように吐き捨てたロベルトは、完全に怨恨を剥き出しにしていた。
「一泡吹かせるだけじゃ、足りない。赦しを乞い、土下座するまでいたぶってやりたいんだなぁ」
「卑怯者‼ 悪魔は……貴方よ‼」
 容赦無く続けられる、残酷極まりない発言に耐え切れず、とうとう、アンジュの口から罵倒する言葉が飛び出た。
「……そんな口は利かない方がいいよ? 君次第で楽団の存続も危うくなるし、場合によってはアイツの|秘《・》|密《・》も、世間に公表するつもり」
「……‼」
 どこまでも卑劣な発言に、非難する言葉すら失う。この人は、本当にジェラルドと血が繋がっているのだろうか。背格好と瞳の色以外に、彼の面影が全く感じられない。
 血縁の有無が、人間同士の良好度や信頼性を確定する訳ではない事を、アンジュはよく知っていた。まだ口もきけない頃、育児放棄の果てに見捨てたという両親。意識する度に無性に哀しくなり、自尊心を深く|抉《えぐ》る。
 育った孤児院の院長である叔母とだって、決して仲睦まじいとは言えなかった。むしろ、親類という事実が、逆に遠慮という壁を壊し、|仇《あだ》と化した。彼女にとっても不本意で迷惑な事だったろうが、養い主という切り札が、容赦ない仕打ちを増発させ、状況を悪化させているようにも思えた。
 戸籍という紙一枚の関係とも違う。扱い方を間違えば、知らぬ間に、一生付きまとう|枷《かせ》、時には、自身の首をゆるやかに締め上げる凶器に変貌する。血の繋がりとは、そんな目に見えない鉄の鎖、又は|真綿《まわた》の縄に成りかねない、|諸刃《もろは》の|剣《つるぎ》だ。
 信頼どころか情すら通わない、形だけの血縁者というのは、もしかしたら、最も人の心を歪ませ、憎悪を招いてしまうモノなのかもしれない……
 そんな事を考えているうちに、いつの間にか、アルコールと香水の混じった臭いを纏うロベルトが、アンジュの目の前に立ちふさがっていた。
「でも、嫌がる女性を無理矢理……というのは、僕の趣味じゃないんだ。まぁ、あんまり怒らせたら……わからないけどね」
 遠回しに恐ろしい脅迫をしながら、じりっ、と詰め寄る。並みならぬ恐怖と怒りで俯き、全く身動き出来なくなったアンジュの顔を、被うように覗き込んだ。
 薄暗がりの中、ランプの仄かな灯りに透ける、癖のある薄茶の短髪に、甘く柔和な造りの顔立ち。目元だけ見たら、むしろジェラルドよりずっと優しそうだ。だが、同じダークグリーンの|瞳《め》の奥は笑っていない。光が無いのは同じだが、|深緑《しんりょく》でもなかった。泥が潜むように漂い、濃灰に淀んでいる。
 自分には、もう逃げ場も突破口も無いのだという事実が、必死に抵抗していたアンジュの脳裏に、すきま風のように入り込み、ひやり、と乗っ取った。どうしようもない無力感、やるせなさ……諦めが、全身を侵食していく。
 こんな奴の言いなりになるなんて、絶対に嫌だった。しかし、自分が拒否したら、唯一の居場所である楽団、何よりも好いて慕う男に、危機が迫る。
 今からされることは、目の前の男でなく、もっと妖艶な|眼《め》の、冷徹で意地悪で……繊細で優しい、|あ《・》|の《・》|人《・》だと思えば、耐えられる……かも、しれ……ない……
「……楽団の皆さんとジェラルドさんに、本当に何もしないとお約束してくれるんですね? あと、この|専《・》|属《・》契約の件……彼には内密にして下さい。もし、破ったら…… 私も、貴方との事を社交界にばらします。それくらいは……します」
 全てを諦め、悟ったような様子の中にある、どこか毅然とした物言い。そんなアンジュの態度と覚悟を帯びた眼差しに、ロベルトは少し不意を突かれ、面食らった。
 以前も感じたが、この娘は、心身共に多少|脆弱《ぜいじゃく》なようだが、追い込まれた時、突如、肝を据えた何物かに変貌するようだ。
「……いいよ。了解。俺だって、そこまでして、アイツに何かしたい訳じゃない」
「わかりました……後は、貴方の言う通りにします。ですが、一つだけ条件……お願いがあります」
「条件なんて言える立場じゃないんだけどなぁ…… まあ、いいよ。何?」
「……口、付けだけは、出来ません。後はご自由に……と、お約束します」
 あの二人だけの演奏会での事は、アンジュにとって唯一、貴い宝物である。
「は……? いいけど……? ああ、何かの思い出みたいな? ……って、あれ。まさか、君……経験、無い? え、|ア《・》|イ《・》|ツ《・》とは……!?」
 そこまで言った瞬間、ロベルトは、ふ……ふっ、ははは‼ と盛大に吹き出した。
「これはいい……‼ 大事で大事で仕方ない君に僕が手をつけたと知った時、あの男、どんな顔するだろうねぇ……」
 小気味よいと言わんばかりに、ぶはっ……はっ……という、下卑た笑い声を上げ続ける彼に、嫌悪感をますます募らせる。胸の奥がじわじわ焼け、苦しい……
 微かに震えるアンジュをベッドサイドに座らせ、ロベルトは手にしたサテン地のスカーフを折り、彼女の口に結わえつける。|口枷《くちかせ》のつもりらしかったが、自身全てを無にした当人は、そんな状況にもされるがままだ。
「あまり手荒い事はしたくないけど、大声を出されるのも困るからね。君の希望も叶うし、いいだろ?」
 そう言うなり、にやり、と笑みを浮かべ、上質なレースカーテンに覆われた、柔らかなマットレスに押し倒した。激しい嫌悪で思わず目を反らしたアンジュの顔を、愉快そうに覗き込む。
「……へぇ。よく見たら、結構悪くないね」
 まじまじと、ロベルトは値踏みするように、横たえた身体を眺めた。透き通る白い肌に、蜜蝋色のゆるやかな巻き髪。華奢な胴体には小ぶりではあるが柔らかな丸みを持っているのが、シフォン素材のフォーマルドレスの上からでもわかった。スリット入りのスカートから覗く足は、すらり、と綺麗に伸びている。
 相変わらず、小柄で痩せ気味ではあるが、長い年月が彼女の身体つきを、|大人《レディ》にしていたのだ。皮肉にも、こんな時……こんな男に、そんな言葉を言われた事が、アンジュは哀しくて堪らなかった。絹のシーツを、ぎゅっ、と片手で握りしめる。
 ――ああ……やっぱり、こうなるんだ……
 ――頑張ってみたけど、結局、誰かの言いなりになるしかなくて、何もできない。いつも、いつも、大切な人を、巻き込んで……
 ――何も無い。こんな、自分。もう、どうにでも……なれば……いい…………
 暫し経ち、コン……コン……と控えめなノック音が、吐息と衣擦れの音だけがする、静まった室内に響いた。
「お客様。お休み中のところ、大変申し訳ございません」
 ホテルマンらしき年配の男の、若干怯えの混じる声がした。