同じ頃。アンジュは風邪を引き、屋根裏の自室で寝込んでしまっていた。熱を出してすっかり憔悴し、喉も痛めている。
心配したクリスが、稽古後、薬と差し入れを持って見舞いに訪れた。火の消えかけたストーブにも薪を追加してくれる。冷え切って寒々としていた部屋が、救われるように暖まっていった。
「クリスさ、ん……すみませ……」
「疲れが出たのね。急に環境も変わったし、色々大変だったもの。仕方ないわ」
美声で紡がれる、温かみのある優しい言葉が弱った心に沁み、目頭が次第に熱くなる。彼女に伝染る事も懸念し、毛布で顔半分を隠した。
「……団長には、少し、叱られました。体調管理も……仕事の、うちだって。情けないです……私」
弱々しく掠れた声で、自嘲気味に微笑むアンジュが、痛々しく目に映る。
「……水飴とジンジャーをお湯で溶かしたの。飲んで」
クリスは複雑そうに微笑み、温かいコップを手渡した。かじかんだ指先の感覚が、じんわりと戻ってくる。
「本当は蜂蜜が良いんだけど、最近、物が不足していてね。高くなったの。ごめんなさいね」
熱くとろけるような甘さの中に、時折、ピリッ、とした辛味が混じる、切ない味。今の自身の心境と、どこか重なる気がした。
そんな感情全てを鎮め、押し込むように中身を飲み切ると、喉は少し楽になった。いつも気にかけて心配してくれるクリスに、今までの事を打ち明けよう……とアンジュは決意する。故郷で出会ったフィリップ、歌手を目指した経緯、ジェラルドとの出来事を、少しずつ、簡潔に話し始めた――
……全てを聞いたクリスは、案の定、心から驚いたと言わんばかり、と同時に感慨深い表情をした。
「……意外ね。あの人は、そんな風に他人と深く関わるようには見えなかったわ。非情で気難しいって、皆に言われてたもの……」
女の先輩として、続けて気の利いた助言をしてあげたいと思ったが、アンジュが抱えている悩みが、切実で疑似感ある内容だった為、茫然としてしまい言葉が出なかった。
「暫くは、何も考えないで休みなさい。彼の事も……」
「……いいんです」
言い澱みながら労るクリスの言葉を、口元に僅かな笑みを作って、アンジュは遮った。
「私の為にも、これで良かったんです。楽団を止めて、公爵家……上流階級の方と関わるなんて無理ですし…… 有名な歌手になって、フィリップ……夢をくれた人にステージで聴いてもらう事が目標でしたけど…… 戦争讃歌しか歌えない今、そんなのは、嫌で……」
胸奥が詰まって感極まり、アンジュは毛布に顔を埋めた。矛盾した想いと様々な考えが、彼女の頭の中で響いては反発し、大きな不協和音を鳴らす。
「……私は、歌姫失格です。彼……ジェラルドさんの事ばかり考えてしまうんです。自分でも怖いぐらい……可笑しいですよね……」
自嘲気味に呟き、振り絞るように言葉を紡ぐ。こんな状態になるのは初めてで、自身をコントロールできない。
「本当は、今すぐ会いたくて……仕方ないんです」
切々とした熱を含んだ、情念ある台詞を吐き、俯いてしまった彼女の姿にクリスは心打たれ、ほうっ……と感嘆の息を漏らした。
「……愛ね。素敵だわ」
「あ、い……?」
耳慣れない、そして、自分には手の届かない、雲の上にしか存在しないような言葉。
「そうよ。そんなに好きなのに、彼の立場を考えているんでしょう?」
「そんな。違…… 前みたいに負担になって、迷惑がられたくない…… 嫌われたくない、だけです……」
フィリップとの一件で、アンジュは自分の負い目を痛い程、身に刻んでいた。昔、彼は『頼られるのは迷惑じゃない。嬉しい』と言ってくれたけど、結局、自分のせいで苦しめてしまった。ただ、好きで好きで、少しでも一緒にいたくて、彼の姿を必死に追っていたあの頃……
『ポピーの涙』の歌詞で『愛した』『愛してくれた』という言葉を使ったが、それは、孤児院に居た頃に見た、幸せそうな家族の様子やスコットさんの話を思い出しながら、憧れ混じりに書いたものだ。
手にしたことの無い貴い宝のような、他人事のように認識していた『愛』が、自身に関わるモノとしては考えていなかった。
「……『愛』ってどんなものか……わからないんです。好かれたくても……迷惑がられたり、困らせてばかりだった…… 最近、好きにすらなったらいけないんじゃないか、と思ってて」
思わず『そんなことないわ』と言いかけたが、クリスは言葉を飲み込んだ。彼女の記憶の扉が開き、苦い何かが過ったのだ。一息つき、代わりに違う考えを伝える。
「……今回は違うんじゃない? 今頃、彼も貴女と同じような気持ちで……苦しんでると思うわ」
はっ、と不意を突かれ、何かから少し醒めた表情で自分を見つめたアンジュに、クリスは語り始めた。
「……私の家は母子家庭でね。家計の為に、貴女位の年に働き始めて、楽団に入ったの。女手一つで育ててくれた母は、私の事も大切にしてくれたけど、無理が祟って、体を壊してしまったから」
いつも明るく華やかな彼女から想像出来ない、重く深刻な話だった。少し懐かしそうな、それでいて複雑そうな面持ちで、クリスは続ける。
「遠い国から来て、独りで頑張ってる貴女が孤児だって聞いて、何だか昔の自分を見ているみたいで……放っておけなかったの」
「クリスさん……」
『まさか、あの彼女が自分なんかと』という思いを込め、アンジュは憧れの人を呼ぶ。
「昔……楽団に入る前、歌手を夢見てバーで歌ってたんだけど…… 私もその時、好きな人が出来たの。その人は店の常連さんで、実家の大病院に勤める医者だった。彼も私を愛してくれて、結婚まで考えたけど、彼の両親に猛反対されたの。息子は優秀な後継ぎだから、そんな女とは結婚させられないって言われて」
初めて知った、彼女が抱える事情。当時のクリスの気持ちが、今のアンジュには痛い程、わかる気がした。
「同じ頃、ワグネル団長にスカウトされたの。結局、彼と別れて、楽団に入って歌姫になる道を選んだ。ずっと夢だったから、これで良かったと思ってるわ。けど……」
艶やかな美声が少し憂い、重く影射した。
「たまに思うの。あの時、全てを捨ててあの人と生きていたら、今頃どうなっていたんだろうって」
当時の自身に思いを馳せているのか、そこにいない誰かを見つめるような、哀しく遠い眼差しになった。そんな姿さえも、アンジュには美しく映り、魅せられる。
「歌は、声と実力さえあれば、どこでも歌えるわ。場所や仕事は限られてしまうけど……」
切なげな雰囲気を振り切るように改まり、クリスは、しっかりとした口調で、一言、一言をアンジュに語り、送る。昔の自分の面影に重ね、説いているのだろうか。
「心の声を、よく聞いて。自分が、本当に一番望んでいるものは何か。何故、歌いたいのか。心の奥底まで、よく耳を傾けて。後悔だけはしないように」
彼女の誠意に溢れた心のこもった助言が、今のアンジュには有難く、嬉しく思った。しかし、ずっと自分と向き合う事をしていなかった自身にとって、心の声というのは、あまりに頼りなく、か細く、不明確な存在だ。
ただ、昔から、自身の奥底の何かが、乞うように叫んでいる事だけは、痛い程に、判っていた。
一方、スコットの想いに背中を押されたジェラルドは、自室のデスクで万年筆をとり、戸籍上の父親に向け、一人で手紙を書いていた。
出来るならアンジュと話をしてからにしたかったが、今の時世、いつ何が、自分の身に降り掛かるかわからない。これは、現在の自身の決意表明であり……嘆願書だ。慣れ親しんだはずの自室の空間が、不気味な位の静寂に包まれる。
『拝啓 父上様。もといグラッドストーン公爵様方。
急な申し出ではございますが、単刀直入に申し上げます。私を排嫡して下さい。
私は、次男でございますし、家督や爵位の継承権はありませんので、昨今の時世から見るに、いつ徴兵されるかわからない身でございます。世間には『息子は、国の為に志願兵になった』とでも言えばよろしいでしょう。
私は、元々、我が家にとって足枷である身でした。いつ世間から『災いをもたらした悪魔』と呼ばれるかわからない存在がいなくなれば、貴殿方にも好都合でございましょう。
思ってみれば、私は、とうに成人している身です。荊の道のりなのは、重々承知ですが、こちらに居ても、私にとっては地獄なのに変わりはございません。
私の分の財産は、恐らく催促があるワグネル楽団への寄付金、歌い手であるアンジェリークとの手切れ金にして下さい。悪しからず。
ジェラルド・グラッドストーンより』
彼らしい皮肉を盛大に込めた、別離の手紙だった。
「生まれて初めて親に書いた手紙が、これとはな……」
口元を僅かに歪め、ジェラルドは苦笑した。そんな運命を再び呪い、囚われるのは簡単だが、今の自分にはうんざりに思えた。今まで散々、恨み、嘆き、捨て鉢に生きてきたのだ。
椅子に背もたれ、上を向き、刹那的な鋭い光を帯びた瞳で、天井を見つめる。もし、我が人生に、過去を振り切る時が与えられるのなら、それは今だろう。
きっかけをくれたのが……彼女だ。あの娘のように、僅かでも……希望がある限り、恐れても必死に追いかけ、未来を見据えながら生きたい。もしも明日、この地に終焉が訪れるのなら、その時まで、彼女といたい。それが叶わぬなら、せめて彼女の為に生きたい。
どうせ地獄の道を歩くなら、彼女がくれた光の種火を燃やし、ずっと纏っていた鎧諸とも、その陽のフレアで魔も邪も、全て払いのけ、我が身尽くしてでも進んでやる――
その月の最後の晩餐会。年を越してから、公爵家は、パーティーの回数を必要最低限に減らしていた。時世的な自粛という名目だが、貴族が財産の倹約という選択をせざるを得ないくらい、情勢は不穏だったのだ。
同時に、ジェラルドが楽団の者と顔を合わせられる回数も減り、この機会を逃してはならないと、必死にアンジュを探す。しかし、いつも大勢の中でもすぐに見つけられる、彼女の姿が見当たらない。不審に思い、楽団の誰かに尋ねようしたが、自分が噂されていることを思い出し、忌々しげに躊躇する。
「すみません。いきなりの無礼をお許し願いたい。ミス・コーラル殿」
アンジュと何度か一緒にいるのを見かけたクリスに、周囲に配慮しながら、ジェラルドは恭しくお辞儀をしながら、礼儀正しく声をかけた。
「まあ…… 何でしょうか? マイ・ロード。(貴族の令息に対する下流層からの呼び掛け)ジェラルド・グラッドストーン様」
先日、相談を受けたアンジュの意中の相手から、初めて声を掛けられ、クリスは動揺した。しかし、努め抑え、にこやかに返す。この人は、こんな紳士的な振る舞いが出来る人間だったのか……
「アンジュ……アンジェリークは? 今夜は、出演は無いのでしょうか?」
「彼女は、単独の仕事に呼ばれていて、今夜は来ませんが……?」
歌手として、名がそこそこ知れた彼女には、今や珍しい事ではなかったが、至極肌触りの悪い勘が、ジェラルドの脳裏に鋭く走る。
「そうですか。どんな用件で?」
「……? 別の貴族の方にご指名頂いていて、その方に歌を披露するらしいです」
冷静なまま礼儀ある態度を崩さずにいるが、どこか焦りを含んだ声色で問う彼を、クリスは不審に思った。
「一対一の、対面式なのですか?」
「そのようなケースもたまにありますが、大抵は歌い手が一人で招かれ、このような会場でショーのように披露します。あの、何か……?」
異様な寒気を感じたジェラルドは、思わず会場をぐるりと見渡した。そう言えば、兄のロベルトも、珍しく今夜は来ていない。思えば、朝から妙な目付きで、自分を見て来る彼が気味悪く、不審だった。
「……!!」
何かを覚った。頭の中で危険信号が鳴り響く。一気に血の気が引き、唇が乾き、冷や汗が吹き出した。
「場所は⁉ わかりますか!?」
激しい動揺を顕にし、どこか怒りを含む意を隠さず、切迫して詰め寄る彼に、クリスは緊急事態が起こったことを察する。
非情とまで言われていたこの人が、今、誰の為にここまで取り乱しているのか。それは、自身にとっても特別な人物なのは、明らかだった。