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★カナリアは何故鳴くか

ー/ー



 予想外の邪魔が入り、忌々しそうに舌打ちしたロベルトは、のそり、と身体を起こした。ベッドから離れ、気だるげにドアの近くへ向かう。

「……何だ。誰も来るなと言ったはずだろう」

 苛立ちと少しの焦りを含みながら、扉の向こうの人物を脅すように(すご)んだ。

「お父上の公爵様から、御電話が参りました。至急、連絡を取りたいそうです」

 変わらず、落ち着きの中に震えを混じる呼び主に向かい、面倒そうにロベルトはため息を吐く。

「……仕方ないな。今、行く」

 恐らく、今夜の晩餐会の主催者である父親には、居場所を伝えていたのだろう。公爵の名前を出された途端、彼は狼狽えた。ドアロックを解除し、ノブに手をかける。
 瞬間。バタン‼ と勢いよく扉が開き、ホテルマンの男を後ろから押し退()けるように、別の黒い影が室内に飛び込んで来た。ブルネットの髪を振り乱し、全身から殺気を放つ青年。
 荒々しく肩を揺らしながら呼吸している、ジェラルドだった。まだ三月という初春に入ったばかりの、冷え込む深夜にも拘らず、額に汗を滲ませ、コート無しの乱雑な出で立ちで、威嚇するように睨み付けている。
 その姿を見た信じられない、と言った表情のロベルトを余所に、ぐるり、とランプの灯りしか無い、薄暗い室内を見回した彼の思考は、絶望的な闇に突き落とされた。
 口元を布地のような物で縛られ、はだけた胸元をシーツで隠し、着崩れた胸当てとシュミーズ一枚でベッドから起き上がったアンジュが、視界に飛び込んできたのだ。幻でも見たような呆然とした面持ちで、暗い陰を落とした虚ろな瞳を、こちらに向けている。ずっと恐れていた、決して起こって欲しくなかった事態に(あた)る、地獄の光景だった。

「…………‼」

 ジェラルドの脳内で、バチン、と火花が凄まじく鳴り散った。一瞬、激しい眩暈が襲ったが、カッ、とペリドットの瞳孔が開き、ぎりぎりっ、と奥歯を噛みしめた。爪が食い込むほどの力が、右手に入る。
 刹那、錯乱状態のロベルトが突風のように立ちふさがってきたが、その握り拳で彼の頬を全力で殴り飛ばした。ミシッ、という骨がきしむ音と共に、彼の身体は勢いよく跳ね飛び、ガタガタ、ガターン!!、という轟音と共に、床に転がる。

「……っ⁉ おっ前、何、でここに……⁉」

 口元に滲んだ血を拭いながら、ロベルトが、驚愕と怒りの混ざった声色で、狂ったように叫ぶ。
 シャープな眉が更に吊り上がり、歯を剥き出しにした、狼のように獰猛(どうもう)(さま)に変貌した、弟に襲いかかる。胸ぐらを掴み、殴り返そうと拳を振り上げた。
 そんな兄に対し、ジェラルドはいつかと同じく、めらめら燃える黄緑の眼光を、アイスピックの(ごと)く彼に向かって突き刺す。近くに立て掛けてあった、アンジュが持参していた女性用の傘を素早く掴み取り、殴られる寸前で打ち止めた。
 その流れで、ロベルトの胴体に棒術のように突きを入れ、仕上げに長い右脚で急所を蹴り上げる。貴族の人間が、暴漢に襲われた時の為に(たしな)んでいる、護身術を応用したのだった。

 床に転がったまま、微かなうめき声を漏らし、動かない兄を射るように一瞥(いちべつ)し、アンジュの元へ向かって、身体を(ひるがえ)す。
 血の滲む傷ついた右手で、衣装掛けからカフェオレ色の女性用コートを素早く引き掴み、自分の黒いコートと、ベッドの側に落ちていたローズピンクのフォーマルドレスを左手で拾い上げた。そんな自分の様子を、壊れたマリオネットのように見つめる彼女を見やった。
 二人きりの演奏会……初めて口付けを交わした夜以来の再会。ハア……ハアッ……と呼吸を荒げながら、ゆらり、と近づき、(たかぶ)る感情をなるべく鎮め、問いかける。

「……立てるか? 怪我は……?」

 恐怖と驚きで麻痺したアンジュの心に、痛い位に懐かしい、静かな低音の重い旋律が、切に響く。今、一番聞きたくて、聞きたくない音色。
 信じられない、信じたくない思いで、自分を見つめてくる漆黒の長い影を仰いだ。夜更けの暗がりの中、外の灯りの逆光で表情はよく見えない。黒々とした影が放つ、荒い呼吸音と周りを斬りつけるような殺気。汗混じりの微かなウッディ調の香りに、二種のペリドットの鮮烈な瞬き……
 初めて会った夜。闇夜に光る、妖艶な悪魔の眼差しのようだと感じた()の色が、今のアンジュには、切ない位に……眩し過ぎた。尊い陽の光に透ける、新緑の若葉のように映ったのだ。

 ――どうして、こんなに必死で、一生懸命になってくれるんだろう……

 どこか他人事のように、ぼんやりしたアンジュの青白く浮かぶ首筋や胸元に、薄紅の小さな痣のようなものが、乱れた髪やシーツの隙間から、幾つか隠れ見える。それらが、ぐさぐさ、とジェラルドの心に飛び刺さり、激痛と共に、眩暈が再び彼を襲った。
 今にも狂う位の怒りと罪悪感で打ちのめされ、ペリドットとダークグリーンに代わる代わる煌めく()。そんな彼の姿が、アンジュにはひどく痛々しく、泣き出しそうに見えた。鋭くも儚い光に吸い寄せられるように、震えながらも躊躇いがちに、細い片腕を差し出す。
 その掌を握り、手にした女性用コートで、ジェラルドは微かにびくつくアンジュの身体を包む。不安そうに茫然と見つめてくる、宵の海の()閃光(ひかり)を注ぐように、しっかりとした口調で、言った。

「逃げるぞ」

 何も考えられなくなっていたアンジュには、その一言と若葉色の光が、天からの救いのように思えた。首部(こうべ)を上下に不器用に動かし、頷く。しかし、ずっと無抵抗のままだった身体には、力が全然入らない。立ち上がろうとしたが、ふらり、とよろめいた。
 そんな様子を見たジェラルドは、一瞬、つらそうに顔を歪めたが、コートごとくるむように、彼女の身体を両腕で抱き上げた。懐かしい顔が互いの間近に迫る。

 ――()()()、だわ

 ずっと動かなかったアンジュの心の泉が、ようやく二つの宵闇の海を波打たせ……動かした。汗で濡れた絹のワイシャツが貼り付く、彼の固い胸元に、そっ……と、額を預ける。
 そんな彼女と、衣類や傘をしっかりと抱き(かか)え、未だ困惑しているホテルマンを他所(よそ)にし、ジェラルドはその場から走り去った。


 一方。公爵家の邸宅では、自分の出番を終えたクリスが、客間に待機している団長の元に走っていた。珍しく血相を変えた彼女の様子に、アンジュの件だと彼が予測するのは容易(たやす)かった。
 今夜の彼女への依頼内容について問い詰め、勘づいたジェラルドが助けに向かった経緯を話すと、公爵令息との()()契約の話まで、全てを白状した恩師に、クリスは愕然とした。

「……()()()も、貴方と、当時の先輩方は助けて下さいませんでした。また同じ事を繰り返すのですか?」

 昔、まだ駆け出しの新人の頃に味わった、苦く忌まわしい体験を思い出しながら、怒りを努め抑え、続けて問い(ただ)す。

「仕方ないだろう。この大不況に、あの名高い公爵家に退()かれたら、楽団自体やっていけなくなる。……君だって危うくなるのだぞ」
「だから、彼女を犠牲に? ただでさえ追い込まれているのに? ……アンジェリークの歌の評判は、あの()の気質や精神状態が左右しているという事は、貴方も重々、ご存知のはずでしょう?」

 必死に訴えるクリスに、団長は冷ややかな視線を向けた。この手の苦情や詰問には慣れているのか、無知な子供に愚かだと言い聞かせるように、淡々と続ける。

生易(なまやさ)しい事を言っていたら、経営なんてやっていけない。仕事……ビジネスとは、基本的にそういうものだろう? 増してこの類いの業界は……歌えなくなったら、その時は切り捨てるしかあるまい。やむを得ず……というものだ」

 クリスの悲しげな軽蔑の眼差しに気づいた彼は、ふう、と軽くため息をついた。

 誰が決めたのか。いつから始まったのか。何がそうさせているのか。長い歴史の中で、遥か昔から世を占める、有無を言わさぬ印籠か、十字架のような(ことわり)。そんな弱肉強食世界を称す常套句を、組織の(リーダー)は呟く。
 強さとは、弱さとは、一体何なのだろう。生きる(かて)……富は、そのように残虐で狡猾な手段でしか得られない物なのか。獰猛と言われる肉食動物でさえ、共食いはしない。異種族の血肉を得た後は、当たり前かのように自ら地に還り、やがて別の命の肥に成る。
 引き換え、人間(ヒト)という生物の中には、他の持つ土地や財産を根こそぎ奪い、乗っ取った挙げ句、地球という命の土台そのものを破壊したがる者達がいる。現に、そんな殺伐とした残酷な時代の渦中に、自分達は生きているのだ。
 生命体を豊かに循環させ、虐げられ飢える者がいなくなる為に、人間(ヒト)の知恵というものは使うべきではないのか。食物連鎖の下層にいる生物を見下す一方、同じ層の便利なもの、美しいモノは欲望のまま(むさぼ)り、己の空洞を埋める為にすがり付き、我が物にしようと血眼になる。散々食い尽くし飽きれば、代わりになる次の獲物(ターゲット)を探す…… それは、どの階層も変わらない。

 華やかなショービジネスという世界で生きる反面、そんな現状を山程見てきたクリスには痛い程、身に沁みていた。

「仰る事は、よく……解ります。その事実は承知で、貴方が拾って下さるまで、私も()()()仕事をしてきましたから」

 今までの自分。目の前の恩師。互いに手段は選んでいられなかった。夢と野心の利害一致故だが、時世を生き抜くためでもあった。だが……

「目先の利益や保身にばかり囚われ、貴重な人材を利己的に使い捨てるやり方ばかりしていると、そんなリーダーには誰も付いて来なくなります。いつか敵に足元を(すく)われ……組織自体が、破綻するのではないですか?」

 糧の底が尽くまで、流れ行くまま続くであろう、終わりの無い不毛な輪廻。そんな事ばかりでしか満たされない生き様は、(あま)りに浅ましく、哀しく……滑稽だ。
 生産の源や活力だという名文で(まか)り通ってきた行いが、最終的に非生産的な結果に成り代わっている。そんな愚かな実態に気づき、改善策を事業にして心血を注ぐ者達だって存在することを、名声を得て様々な人間と関わったクリスは知った。
 人類にだけ与えられた、()()()富こそが、最も尊び、更に発展させるべきではないのか…… 大都会、ロンドンの歌姫(ミューズ)の一人として崇められ、多くの人間(ヒト)を楽しませて来た彼女は、充実感に満たされる一方、そんなやり場の無い思いを抱えていた。
 が、アンジェリークという少女――人間に出会い、何故か、少しだけ救われた気がしたのだ。彼女には何か違う力がある。だからこそ……餌食(えじき)にはして欲しくなかった。

「君も、そんな大口を叩けるようになったのだな。……誰のおかげで、ここまでの名声を得られたか、忘れたのか?」

 クリスの言葉が少し逆鱗に触れ、声を荒げた団長に対し、冷静な態度を崩さず、歌姫(ミューズ)は続ける。

「鳴かなくなったカナリアを、無理矢理鳴くように仕向けたら…… その隊は、やがて……自滅します」

 石炭という貴重な財源を求め、イギリスの炭鉱夫の部隊は、煙と(すす)にまみれた鉱山に似つかわしいとは言えない、カナリアという美しい小鳥を、必ず共に連れて行く。
 狭い洞窟(どうくつ)に有害な毒ガス……一酸化炭素が充満する直前、瞬時に危険を察知して鳴き出す、という人間(ヒト)よりも機敏な呼吸器官を持つ彼らを利用する為だ。鳴き声を無視したり、正確に鳴かなくなった時は、その隊全体の死を意味する。
 カナリアとアンジュを重ね合わせ、その話を持ち出したクリスの、どこか憐れみめいた口調。ふと、別の理由で同じように権力を使ってきた、一人の青年の姿が、団長の脳裏に(よぎ)る。

「人嫌いと評判の次男坊まで、以前、詰め寄ってきた。何故、皆、あの娘にそんなに肩入れする? 楽団が潰れたら、君だって……」

 そこまで言った後、ははっ、と自棄(やけ)気味に乾いた笑いを上げた。

「そうか、そうだな。君は、もう独りでも……」

 ワグネル団長は、クリスにとっても恩人であり、共に歩んできたビジネスパートナーでもあった。しかし、かつて尊敬し止まなかった師への、恩義や信頼という感情は、今や別のモノに移り変わっている。

「……私は、カナリアではありません。が、ずっと不当に飼われ続ける、籠の鳥にもなりませんよ」

 哀しくも毅然とした面持ちで、クリスは、艶やかな美声で、きっぱりと言い放った。己の夢のためとはいえ、様々な理不尽な辛酸も舐めてきた、今までの苦楽を振り返り、誇るように。


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 予想外の邪魔が入り、忌々しそうに舌打ちしたロベルトは、のそり、と身体を起こした。ベッドから離れ、気だるげにドアの近くへ向かう。
「……何だ。誰も来るなと言ったはずだろう」
 苛立ちと少しの焦りを含みながら、扉の向こうの人物を脅すように|凄《すご》んだ。
「お父上の公爵様から、御電話が参りました。至急、連絡を取りたいそうです」
 変わらず、落ち着きの中に震えを混じる呼び主に向かい、面倒そうにロベルトはため息を吐く。
「……仕方ないな。今、行く」
 恐らく、今夜の晩餐会の主催者である父親には、居場所を伝えていたのだろう。公爵の名前を出された途端、彼は狼狽えた。ドアロックを解除し、ノブに手をかける。
 瞬間。バタン‼ と勢いよく扉が開き、ホテルマンの男を後ろから押し|退《の》けるように、別の黒い影が室内に飛び込んで来た。ブルネットの髪を振り乱し、全身から殺気を放つ青年。
 荒々しく肩を揺らしながら呼吸している、ジェラルドだった。まだ三月という初春に入ったばかりの、冷え込む深夜にも拘らず、額に汗を滲ませ、コート無しの乱雑な出で立ちで、威嚇するように睨み付けている。
 その姿を見た信じられない、と言った表情のロベルトを余所に、ぐるり、とランプの灯りしか無い、薄暗い室内を見回した彼の思考は、絶望的な闇に突き落とされた。
 口元を布地のような物で縛られ、はだけた胸元をシーツで隠し、着崩れた胸当てとシュミーズ一枚でベッドから起き上がったアンジュが、視界に飛び込んできたのだ。幻でも見たような呆然とした面持ちで、暗い陰を落とした虚ろな瞳を、こちらに向けている。ずっと恐れていた、決して起こって欲しくなかった事態に|中《あた》る、地獄の光景だった。
「…………‼」
 ジェラルドの脳内で、バチン、と火花が凄まじく鳴り散った。一瞬、激しい眩暈が襲ったが、カッ、とペリドットの瞳孔が開き、ぎりぎりっ、と奥歯を噛みしめた。爪が食い込むほどの力が、右手に入る。
 刹那、錯乱状態のロベルトが突風のように立ちふさがってきたが、その握り拳で彼の頬を全力で殴り飛ばした。ミシッ、という骨がきしむ音と共に、彼の身体は勢いよく跳ね飛び、ガタガタ、ガターン!!、という轟音と共に、床に転がる。
「……っ⁉ おっ前、何、でここに……⁉」
 口元に滲んだ血を拭いながら、ロベルトが、驚愕と怒りの混ざった声色で、狂ったように叫ぶ。
 シャープな眉が更に吊り上がり、歯を剥き出しにした、狼のように|獰猛《どうもう》な|様《さま》に変貌した、弟に襲いかかる。胸ぐらを掴み、殴り返そうと拳を振り上げた。
 そんな兄に対し、ジェラルドはいつかと同じく、めらめら燃える黄緑の眼光を、アイスピックの|如《ごと》く彼に向かって突き刺す。近くに立て掛けてあった、アンジュが持参していた女性用の傘を素早く掴み取り、殴られる寸前で打ち止めた。
 その流れで、ロベルトの胴体に棒術のように突きを入れ、仕上げに長い右脚で急所を蹴り上げる。貴族の人間が、暴漢に襲われた時の為に|嗜《たしな》んでいる、護身術を応用したのだった。
 床に転がったまま、微かなうめき声を漏らし、動かない兄を射るように|一瞥《いちべつ》し、アンジュの元へ向かって、身体を|翻《ひるがえ》す。
 血の滲む傷ついた右手で、衣装掛けからカフェオレ色の女性用コートを素早く引き掴み、自分の黒いコートと、ベッドの側に落ちていたローズピンクのフォーマルドレスを左手で拾い上げた。そんな自分の様子を、壊れたマリオネットのように見つめる彼女を見やった。
 二人きりの演奏会……初めて口付けを交わした夜以来の再会。ハア……ハアッ……と呼吸を荒げながら、ゆらり、と近づき、|昂《たかぶ》る感情をなるべく鎮め、問いかける。
「……立てるか? 怪我は……?」
 恐怖と驚きで麻痺したアンジュの心に、痛い位に懐かしい、静かな低音の重い旋律が、切に響く。今、一番聞きたくて、聞きたくない音色。
 信じられない、信じたくない思いで、自分を見つめてくる漆黒の長い影を仰いだ。夜更けの暗がりの中、外の灯りの逆光で表情はよく見えない。黒々とした影が放つ、荒い呼吸音と周りを斬りつけるような殺気。汗混じりの微かなウッディ調の香りに、二種のペリドットの鮮烈な瞬き……
 初めて会った夜。闇夜に光る、妖艶な悪魔の眼差しのようだと感じた|瞳《め》の色が、今のアンジュには、切ない位に……眩し過ぎた。尊い陽の光に透ける、新緑の若葉のように映ったのだ。
 ――どうして、こんなに必死で、一生懸命になってくれるんだろう……
 どこか他人事のように、ぼんやりしたアンジュの青白く浮かぶ首筋や胸元に、薄紅の小さな痣のようなものが、乱れた髪やシーツの隙間から、幾つか隠れ見える。それらが、ぐさぐさ、とジェラルドの心に飛び刺さり、激痛と共に、眩暈が再び彼を襲った。
 今にも狂う位の怒りと罪悪感で打ちのめされ、ペリドットとダークグリーンに代わる代わる煌めく|瞳《め》。そんな彼の姿が、アンジュにはひどく痛々しく、泣き出しそうに見えた。鋭くも儚い光に吸い寄せられるように、震えながらも躊躇いがちに、細い片腕を差し出す。
 その掌を握り、手にした女性用コートで、ジェラルドは微かにびくつくアンジュの身体を包む。不安そうに茫然と見つめてくる、宵の海の|瞳《め》に|閃光《ひかり》を注ぐように、しっかりとした口調で、言った。
「逃げるぞ」
 何も考えられなくなっていたアンジュには、その一言と若葉色の光が、天からの救いのように思えた。|首部《こうべ》を上下に不器用に動かし、頷く。しかし、ずっと無抵抗のままだった身体には、力が全然入らない。立ち上がろうとしたが、ふらり、とよろめいた。
 そんな様子を見たジェラルドは、一瞬、つらそうに顔を歪めたが、コートごとくるむように、彼女の身体を両腕で抱き上げた。懐かしい顔が互いの間近に迫る。
 ――|あ《・》|の《・》|人《・》、だわ
 ずっと動かなかったアンジュの心の泉が、ようやく二つの宵闇の海を波打たせ……動かした。汗で濡れた絹のワイシャツが貼り付く、彼の固い胸元に、そっ……と、額を預ける。
 そんな彼女と、衣類や傘をしっかりと抱き|抱《かか》え、未だ困惑しているホテルマンを|他所《よそ》にし、ジェラルドはその場から走り去った。
 一方。公爵家の邸宅では、自分の出番を終えたクリスが、客間に待機している団長の元に走っていた。珍しく血相を変えた彼女の様子に、アンジュの件だと彼が予測するのは|容易《たやす》かった。
 今夜の彼女への依頼内容について問い詰め、勘づいたジェラルドが助けに向かった経緯を話すと、公爵令息との|専《・》|属《・》契約の話まで、全てを白状した恩師に、クリスは愕然とした。
「……|私《・》|の《・》|時《・》も、貴方と、当時の先輩方は助けて下さいませんでした。また同じ事を繰り返すのですか?」
 昔、まだ駆け出しの新人の頃に味わった、苦く忌まわしい体験を思い出しながら、怒りを努め抑え、続けて問い|質《ただ》す。
「仕方ないだろう。この大不況に、あの名高い公爵家に|退《ひ》かれたら、楽団自体やっていけなくなる。……君だって危うくなるのだぞ」
「だから、彼女を犠牲に? ただでさえ追い込まれているのに? ……アンジェリークの歌の評判は、あの|娘《こ》の気質や精神状態が左右しているという事は、貴方も重々、ご存知のはずでしょう?」
 必死に訴えるクリスに、団長は冷ややかな視線を向けた。この手の苦情や詰問には慣れているのか、無知な子供に愚かだと言い聞かせるように、淡々と続ける。
「|生易《なまやさ》しい事を言っていたら、経営なんてやっていけない。仕事……ビジネスとは、基本的にそういうものだろう? 増してこの類いの業界は……歌えなくなったら、その時は切り捨てるしかあるまい。やむを得ず……というものだ」
 クリスの悲しげな軽蔑の眼差しに気づいた彼は、ふう、と軽くため息をついた。
 誰が決めたのか。いつから始まったのか。何がそうさせているのか。長い歴史の中で、遥か昔から世を占める、有無を言わさぬ印籠か、十字架のような|理《ことわり》。そんな弱肉強食世界を称す常套句を、組織の|長《リーダー》は呟く。
 強さとは、弱さとは、一体何なのだろう。生きる|糧《かて》……富は、そのように残虐で狡猾な手段でしか得られない物なのか。獰猛と言われる肉食動物でさえ、共食いはしない。異種族の血肉を得た後は、当たり前かのように自ら地に還り、やがて別の命の肥に成る。
 引き換え、|人間《ヒト》という生物の中には、他の持つ土地や財産を根こそぎ奪い、乗っ取った挙げ句、地球という命の土台そのものを破壊したがる者達がいる。現に、そんな殺伐とした残酷な時代の渦中に、自分達は生きているのだ。
 生命体を豊かに循環させ、虐げられ飢える者がいなくなる為に、|人間《ヒト》の知恵というものは使うべきではないのか。食物連鎖の下層にいる生物を見下す一方、同じ層の便利なもの、美しいモノは欲望のまま|貪《むさぼ》り、己の空洞を埋める為にすがり付き、我が物にしようと血眼になる。散々食い尽くし飽きれば、代わりになる次の|獲物《ターゲット》を探す…… それは、どの階層も変わらない。
 華やかなショービジネスという世界で生きる反面、そんな現状を山程見てきたクリスには痛い程、身に沁みていた。
「仰る事は、よく……解ります。その事実は承知で、貴方が拾って下さるまで、私も|様《・》|々《・》|な《・》仕事をしてきましたから」
 今までの自分。目の前の恩師。互いに手段は選んでいられなかった。夢と野心の利害一致故だが、時世を生き抜くためでもあった。だが……
「目先の利益や保身にばかり囚われ、貴重な人材を利己的に使い捨てるやり方ばかりしていると、そんなリーダーには誰も付いて来なくなります。いつか敵に足元を|掬《すく》われ……組織自体が、破綻するのではないですか?」
 糧の底が尽くまで、流れ行くまま続くであろう、終わりの無い不毛な輪廻。そんな事ばかりでしか満たされない生き様は、|剰《あま》りに浅ましく、哀しく……滑稽だ。
 生産の源や活力だという名文で|罷《まか》り通ってきた行いが、最終的に非生産的な結果に成り代わっている。そんな愚かな実態に気づき、改善策を事業にして心血を注ぐ者達だって存在することを、名声を得て様々な人間と関わったクリスは知った。
 人類にだけ与えられた、|特《・》|別《・》|な《・》富こそが、最も尊び、更に発展させるべきではないのか…… 大都会、ロンドンの|歌姫《ミューズ》の一人として崇められ、多くの|人間《ヒト》を楽しませて来た彼女は、充実感に満たされる一方、そんなやり場の無い思いを抱えていた。
 が、アンジェリークという少女――人間に出会い、何故か、少しだけ救われた気がしたのだ。彼女には何か違う力がある。だからこそ……|餌食《えじき》にはして欲しくなかった。
「君も、そんな大口を叩けるようになったのだな。……誰のおかげで、ここまでの名声を得られたか、忘れたのか?」
 クリスの言葉が少し逆鱗に触れ、声を荒げた団長に対し、冷静な態度を崩さず、|歌姫《ミューズ》は続ける。
「鳴かなくなったカナリアを、無理矢理鳴くように仕向けたら…… その隊は、やがて……自滅します」
 石炭という貴重な財源を求め、イギリスの炭鉱夫の部隊は、煙と|煤《すす》にまみれた鉱山に似つかわしいとは言えない、カナリアという美しい小鳥を、必ず共に連れて行く。
 狭い|洞窟《どうくつ》に有害な毒ガス……一酸化炭素が充満する直前、瞬時に危険を察知して鳴き出す、という|人間《ヒト》よりも機敏な呼吸器官を持つ彼らを利用する為だ。鳴き声を無視したり、正確に鳴かなくなった時は、その隊全体の死を意味する。
 カナリアとアンジュを重ね合わせ、その話を持ち出したクリスの、どこか憐れみめいた口調。ふと、別の理由で同じように権力を使ってきた、一人の青年の姿が、団長の脳裏に|過《よぎ》る。
「人嫌いと評判の次男坊まで、以前、詰め寄ってきた。何故、皆、あの娘にそんなに肩入れする? 楽団が潰れたら、君だって……」
 そこまで言った後、ははっ、と|自棄《やけ》気味に乾いた笑いを上げた。
「そうか、そうだな。君は、もう独りでも……」
 ワグネル団長は、クリスにとっても恩人であり、共に歩んできたビジネスパートナーでもあった。しかし、かつて尊敬し止まなかった師への、恩義や信頼という感情は、今や別のモノに移り変わっている。
「……私は、カナリアではありません。が、ずっと不当に飼われ続ける、籠の鳥にもなりませんよ」
 哀しくも毅然とした面持ちで、クリスは、艶やかな美声で、きっぱりと言い放った。己の夢のためとはいえ、様々な理不尽な辛酸も舐めてきた、今までの苦楽を振り返り、誇るように。