予想外の邪魔が入り、忌々しそうに舌打ちしたロベルトは、のそり、と身体を起こした。ベッドから離れ、気だるげにドアの近くへ向かう。
「……何だ。誰も来るなと言ったはずだろう」
苛立ちと少しの焦りを含みながら、扉の向こうの人物を脅すように凄んだ。
「お父上の公爵様から、御電話が参りました。至急、連絡を取りたいそうです」
変わらず、落ち着きの中に震えを混じる呼び主に向かい、面倒そうにロベルトはため息を吐く。
「……仕方ないな。今、行く」
恐らく、今夜の晩餐会の主催者である父親には、居場所を伝えていたのだろう。公爵の名前を出された途端、彼は狼狽えた。ドアロックを解除し、ノブに手をかける。
瞬間。バタン‼ と勢いよく扉が開き、ホテルマンの男を後ろから押し退けるように、別の黒い影が室内に飛び込んで来た。ブルネットの髪を振り乱し、全身から殺気を放つ青年。
荒々しく肩を揺らしながら呼吸している、ジェラルドだった。まだ三月という初春に入ったばかりの、冷え込む深夜にも拘らず、額に汗を滲ませ、コート無しの乱雑な出で立ちで、威嚇するように睨み付けている。
その姿を見た信じられない、と言った表情のロベルトを余所に、ぐるり、とランプの灯りしか無い、薄暗い室内を見回した彼の思考は、絶望的な闇に突き落とされた。
口元を布地のような物で縛られ、はだけた胸元をシーツで隠し、着崩れた胸当てとシュミーズ一枚でベッドから起き上がったアンジュが、視界に飛び込んできたのだ。幻でも見たような呆然とした面持ちで、暗い陰を落とした虚ろな瞳を、こちらに向けている。ずっと恐れていた、決して起こって欲しくなかった事態に中る、地獄の光景だった。
「…………‼」
ジェラルドの脳内で、バチン、と火花が凄まじく鳴り散った。一瞬、激しい眩暈が襲ったが、カッ、とペリドットの瞳孔が開き、ぎりぎりっ、と奥歯を噛みしめた。爪が食い込むほどの力が、右手に入る。
刹那、錯乱状態のロベルトが突風のように立ちふさがってきたが、その握り拳で彼の頬を全力で殴り飛ばした。ミシッ、という骨がきしむ音と共に、彼の身体は勢いよく跳ね飛び、ガタガタ、ガターン!!、という轟音と共に、床に転がる。
「……っ⁉ おっ前、何、でここに……⁉」
口元に滲んだ血を拭いながら、ロベルトが、驚愕と怒りの混ざった声色で、狂ったように叫ぶ。
シャープな眉が更に吊り上がり、歯を剥き出しにした、狼のように獰猛な様に変貌した、弟に襲いかかる。胸ぐらを掴み、殴り返そうと拳を振り上げた。
そんな兄に対し、ジェラルドはいつかと同じく、めらめら燃える黄緑の眼光を、アイスピックの如く彼に向かって突き刺す。近くに立て掛けてあった、アンジュが持参していた女性用の傘を素早く掴み取り、殴られる寸前で打ち止めた。
その流れで、ロベルトの胴体に棒術のように突きを入れ、仕上げに長い右脚で急所を蹴り上げる。貴族の人間が、暴漢に襲われた時の為に嗜んでいる、護身術を応用したのだった。
床に転がったまま、微かなうめき声を漏らし、動かない兄を射るように一瞥し、アンジュの元へ向かって、身体を翻す。
血の滲む傷ついた右手で、衣装掛けからカフェオレ色の女性用コートを素早く引き掴み、自分の黒いコートと、ベッドの側に落ちていたローズピンクのフォーマルドレスを左手で拾い上げた。そんな自分の様子を、壊れたマリオネットのように見つめる彼女を見やった。
二人きりの演奏会……初めて口付けを交わした夜以来の再会。ハア……ハアッ……と呼吸を荒げながら、ゆらり、と近づき、昂る感情をなるべく鎮め、問いかける。
「……立てるか? 怪我は……?」
恐怖と驚きで麻痺したアンジュの心に、痛い位に懐かしい、静かな低音の重い旋律が、切に響く。今、一番聞きたくて、聞きたくない音色。
信じられない、信じたくない思いで、自分を見つめてくる漆黒の長い影を仰いだ。夜更けの暗がりの中、外の灯りの逆光で表情はよく見えない。黒々とした影が放つ、荒い呼吸音と周りを斬りつけるような殺気。汗混じりの微かなウッディ調の香りに、二種のペリドットの鮮烈な瞬き……
初めて会った夜。闇夜に光る、妖艶な悪魔の眼差しのようだと感じた瞳の色が、今のアンジュには、切ない位に……眩し過ぎた。尊い陽の光に透ける、新緑の若葉のように映ったのだ。
――どうして、こんなに必死で、一生懸命になってくれるんだろう……
どこか他人事のように、ぼんやりしたアンジュの青白く浮かぶ首筋や胸元に、薄紅の小さな痣のようなものが、乱れた髪やシーツの隙間から、幾つか隠れ見える。それらが、ぐさぐさ、とジェラルドの心に飛び刺さり、激痛と共に、眩暈が再び彼を襲った。
今にも狂う位の怒りと罪悪感で打ちのめされ、ペリドットとダークグリーンに代わる代わる煌めく瞳。そんな彼の姿が、アンジュにはひどく痛々しく、泣き出しそうに見えた。鋭くも儚い光に吸い寄せられるように、震えながらも躊躇いがちに、細い片腕を差し出す。
その掌を握り、手にした女性用コートで、ジェラルドは微かにびくつくアンジュの身体を包む。不安そうに茫然と見つめてくる、宵の海の瞳に閃光を注ぐように、しっかりとした口調で、言った。
「逃げるぞ」
何も考えられなくなっていたアンジュには、その一言と若葉色の光が、天からの救いのように思えた。首部を上下に不器用に動かし、頷く。しかし、ずっと無抵抗のままだった身体には、力が全然入らない。立ち上がろうとしたが、ふらり、とよろめいた。
そんな様子を見たジェラルドは、一瞬、つらそうに顔を歪めたが、コートごとくるむように、彼女の身体を両腕で抱き上げた。懐かしい顔が互いの間近に迫る。
――あの人、だわ
ずっと動かなかったアンジュの心の泉が、ようやく二つの宵闇の海を波打たせ……動かした。汗で濡れた絹のワイシャツが貼り付く、彼の固い胸元に、そっ……と、額を預ける。
そんな彼女と、衣類や傘をしっかりと抱き抱え、未だ困惑しているホテルマンを他所にし、ジェラルドはその場から走り去った。
一方。公爵家の邸宅では、自分の出番を終えたクリスが、客間に待機している団長の元に走っていた。珍しく血相を変えた彼女の様子に、アンジュの件だと彼が予測するのは容易かった。
今夜の彼女への依頼内容について問い詰め、勘づいたジェラルドが助けに向かった経緯を話すと、公爵令息との専属契約の話まで、全てを白状した恩師に、クリスは愕然とした。
「……私の時も、貴方と、当時の先輩方は助けて下さいませんでした。また同じ事を繰り返すのですか?」
昔、まだ駆け出しの新人の頃に味わった、苦く忌まわしい体験を思い出しながら、怒りを努め抑え、続けて問い質す。
「仕方ないだろう。この大不況に、あの名高い公爵家に退かれたら、楽団自体やっていけなくなる。……君だって危うくなるのだぞ」
「だから、彼女を犠牲に? ただでさえ追い込まれているのに? ……アンジェリークの歌の評判は、あの娘の気質や精神状態が左右しているという事は、貴方も重々、ご存知のはずでしょう?」
必死に訴えるクリスに、団長は冷ややかな視線を向けた。この手の苦情や詰問には慣れているのか、無知な子供に愚かだと言い聞かせるように、淡々と続ける。
「生易しい事を言っていたら、経営なんてやっていけない。仕事……ビジネスとは、基本的にそういうものだろう? 増してこの類いの業界は……歌えなくなったら、その時は切り捨てるしかあるまい。やむを得ず……というものだ」
クリスの悲しげな軽蔑の眼差しに気づいた彼は、ふう、と軽くため息をついた。
誰が決めたのか。いつから始まったのか。何がそうさせているのか。長い歴史の中で、遥か昔から世を占める、有無を言わさぬ印籠か、十字架のような理。そんな弱肉強食世界を称す常套句を、組織の長は呟く。
強さとは、弱さとは、一体何なのだろう。生きる糧……富は、そのように残虐で狡猾な手段でしか得られない物なのか。獰猛と言われる肉食動物でさえ、共食いはしない。異種族の血肉を得た後は、当たり前かのように自ら地に還り、やがて別の命の肥に成る。
引き換え、人間という生物の中には、他の持つ土地や財産を根こそぎ奪い、乗っ取った挙げ句、地球という命の土台そのものを破壊したがる者達がいる。現に、そんな殺伐とした残酷な時代の渦中に、自分達は生きているのだ。
生命体を豊かに循環させ、虐げられ飢える者がいなくなる為に、人間の知恵というものは使うべきではないのか。食物連鎖の下層にいる生物を見下す一方、同じ層の便利なもの、美しいモノは欲望のまま貪り、己の空洞を埋める為にすがり付き、我が物にしようと血眼になる。散々食い尽くし飽きれば、代わりになる次の獲物を探す…… それは、どの階層も変わらない。
華やかなショービジネスという世界で生きる反面、そんな現状を山程見てきたクリスには痛い程、身に沁みていた。
「仰る事は、よく……解ります。その事実は承知で、貴方が拾って下さるまで、私も様々な仕事をしてきましたから」
今までの自分。目の前の恩師。互いに手段は選んでいられなかった。夢と野心の利害一致故だが、時世を生き抜くためでもあった。だが……
「目先の利益や保身にばかり囚われ、貴重な人材を利己的に使い捨てるやり方ばかりしていると、そんなリーダーには誰も付いて来なくなります。いつか敵に足元を掬われ……組織自体が、破綻するのではないですか?」
糧の底が尽くまで、流れ行くまま続くであろう、終わりの無い不毛な輪廻。そんな事ばかりでしか満たされない生き様は、剰りに浅ましく、哀しく……滑稽だ。
生産の源や活力だという名文で罷り通ってきた行いが、最終的に非生産的な結果に成り代わっている。そんな愚かな実態に気づき、改善策を事業にして心血を注ぐ者達だって存在することを、名声を得て様々な人間と関わったクリスは知った。
人類にだけ与えられた、特別な富こそが、最も尊び、更に発展させるべきではないのか…… 大都会、ロンドンの歌姫の一人として崇められ、多くの人間を楽しませて来た彼女は、充実感に満たされる一方、そんなやり場の無い思いを抱えていた。
が、アンジェリークという少女――人間に出会い、何故か、少しだけ救われた気がしたのだ。彼女には何か違う力がある。だからこそ……餌食にはして欲しくなかった。
「君も、そんな大口を叩けるようになったのだな。……誰のおかげで、ここまでの名声を得られたか、忘れたのか?」
クリスの言葉が少し逆鱗に触れ、声を荒げた団長に対し、冷静な態度を崩さず、歌姫は続ける。
「鳴かなくなったカナリアを、無理矢理鳴くように仕向けたら…… その隊は、やがて……自滅します」
石炭という貴重な財源を求め、イギリスの炭鉱夫の部隊は、煙と煤にまみれた鉱山に似つかわしいとは言えない、カナリアという美しい小鳥を、必ず共に連れて行く。
狭い洞窟に有害な毒ガス……一酸化炭素が充満する直前、瞬時に危険を察知して鳴き出す、という人間よりも機敏な呼吸器官を持つ彼らを利用する為だ。鳴き声を無視したり、正確に鳴かなくなった時は、その隊全体の死を意味する。
カナリアとアンジュを重ね合わせ、その話を持ち出したクリスの、どこか憐れみめいた口調。ふと、別の理由で同じように権力を使ってきた、一人の青年の姿が、団長の脳裏に過る。
「人嫌いと評判の次男坊まで、以前、詰め寄ってきた。何故、皆、あの娘にそんなに肩入れする? 楽団が潰れたら、君だって……」
そこまで言った後、ははっ、と自棄気味に乾いた笑いを上げた。
「そうか、そうだな。君は、もう独りでも……」
ワグネル団長は、クリスにとっても恩人であり、共に歩んできたビジネスパートナーでもあった。しかし、かつて尊敬し止まなかった師への、恩義や信頼という感情は、今や別のモノに移り変わっている。
「……私は、カナリアではありません。が、ずっと不当に飼われ続ける、籠の鳥にもなりませんよ」
哀しくも毅然とした面持ちで、クリスは、艶やかな美声で、きっぱりと言い放った。己の夢のためとはいえ、様々な理不尽な辛酸も舐めてきた、今までの苦楽を振り返り、誇るように。