雨季の合間の貴重な日差しが注ぐ、イルーニュの大通り沿い。
フルエットは、喫茶店のテラス席に積んだ数日分の新聞に目を通していた。新聞売りからまとめて購入したものだ。
ひとつふたつと読み進め、みっつ目の新聞に目を向けたところで、微かに顔をしかめる。十名ほどの狩人が、血狂いと思われる異類の手により皆殺しにあった――そんな内容の記事が、一面に大きく出ていたからだ。おまけに初報で言及のあった少女らしき、顔のない遺体も同じ現場から見つかったという。
幸いと言っていいものか、そこには赤黒く汚れた毛並みをした人狼の死体もあったそうだ。記事が推測する通りなら、狩人たちは命懸けで血狂いと刺し違えたということになるが……。
「……顔のない遺体があるというのが、少し引っかかるな。……っ」
凄惨な事件について考えていたら、気分が悪くなってきた。フルエットは新聞から視線を上げ、コーヒーカップに手を伸ばした。冷めてしまったコーヒーを飲み干す彼女の目の前を、軽快な音を立てて自転車が走り去っていく。
そういえば、今日もルイリの店を手伝いに行っているユリオのために、自転車を一台買ってもいいのかもしれない。このぶんなら彼はこれからも、しばしばルイリの店の手伝いをすることになるだろう。それなら、彼だけで街に行ける足があった方が、後々何かと都合が良さそうだ。フルエットとしては送り迎えもやぶさかではないのだが、彼は遠からず「悪いよ」と言いだすような気もしていることだし。 早速見繕いに行こうかと思ったが、ユリオが居ないと体格に合うかがわからない。また別の機会の方が良さそうだ。
ひとまず今日のところは、ユリオを待ちながら街を散策するとしよう。そう思ったところで、すっかり忘れていたことをひとつ思い出した。
「大火記念塔ってどうなっていたっけ?」
そういえば、ユリオを初めてイルーニュへ連れてきた時に入れなくて、以降それっきりである。前に入れなかった時は雨漏りの修理ということだったし、もうとっくに終わって開放されている気はするのだけど。
今のうちに確かめておこうと、フルエットは塔に向かうことを決めた。もう大丈夫そうだったら、また今度ユリオを連れていってあげよう。
――結論から言えば、復興塔の閉鎖は解かれていた。というか、つい昨日解かれたらしい。
久々の開放に詰めかけた人々が作る列から、フルエットは復興塔そのものへと視線を移した。手庇で陽の光を防ぎながら、そびえる塔を訝し気に見上げる。
「けど、ずい分かかったな」
雨漏りの修理ひとつに、ひと月はかかっていたことになる。そう古い建物でもないのに、そこまでかかるものなのだろうか。
「何か言ったか?」
独り言を呼びかけと勘違いしたのか、近くに居た門番が振り返る。「いえ」と首を振って、フルエットは門からそっと距離を取った。閉鎖が解かれたことがわかれば、今は十分だ。塔からの眺めが素晴らしいのは確かだが、今のフルエットはそれにも勝る景色を知っている。ユリオも一緒ならともかく、ひとりで見に行くほどのモチベーションはない。列もあることだし。
そのまま塔を後にしようとしたフルエットの目に、ぶかぶかのハンチング帽を被った、みすぼらしい出で立ちの幼い少女の姿が映る。塔の敷地と歩道を区切るレンガ塀のそばにぽつんと立ったその少女は、ひとりぼーっと塔を見上げている。
「君、どうしたんだい?」
フルエットが少女に声をかけたのは、ユリオが改造された経緯を思い出したからだ。彼を異類の身体にした者がもしまだ健在なら、こういう子にこそ魔手を伸ばすのだろう。
「ふぇ?」
舌ったらずな声で振り返った少女は、幼くあどけない顔立ちをしていた。蠱惑的な輝きを放つとろんとした紅い垂れ目だけが、少し大人びている。
少女がこてんと首を傾げる。サイズの合っていないハンチングがずり落ちて、ぼさぼさの琥珀の髪が顕わになった。こうして近づいてみると、彼女の服装はボロボロなだけではなくてちぐはぐだった。
大きすぎるハンチング帽子、主に男子が着るようなベージュのジャケットとくすんだシャツ、腰から下は濃いグレーのスカート。どれもよれよれでくたくたで、ところどころ穴も空いていた。ハンチングのみならず、ジャケットもシャツもオーバーサイズ気味。しかもジャケットの方が小さいのか、シャツの袖がはみ出している。そのうえ余り袖だ。着られるものをとりあえず着た、といった印象である。
「おねえちゃん?」
まじまじと服装を見つめていたフルエットは、少女の声で我に返った。
「じろじろとすまなかった。君は……」
「ファルカ! ファルでいいよ」
「そういう意味じゃなかったんだが……まあいいか。ファル、君ひとりかい? お父さんやお母さんは、どこかに居る?」
「ううん。ファル、ずっとひとりだよ」
「……そうか」
表情ひとつ変えずに答えるファルの様子に、フルエットはかえって胸を痛めた。膝立ちになって、ファルに目線の高さを合わせる。
「ねえ、ファル。このままひとりで居るのは危ないよ。おねえちゃんが、危なくないところへ連れていってあげるから」
これはこれで人さらいの言葉だなと、フルエットは苦笑を浮かべた。よくわかっていないのか、ファルはきょとんとしている。
とにかく教会へ連れて行って、ガスパール神父に引き渡そう。あとは神父が良きように取り計らって、孤児院なり救貧院なりへ、ファルを案内してくれるはずだ。
ファルに手を差し伸べると、彼女は勢いよく手を取ってきた。かと思うと、フルエットが歩き出すよりも先に、ファルの方からぐっと手を引かれた。意外なほど力が強かったこともあり、フルエットは少しよろめいてしまう。その拍子にファルの足を踏みそうになったフルエットは、細い体に力をこめ、なんとか踏みとどまった。
「ふぁ、ファル?」
「ねえねえ、おねえちゃん」
ファルが頭上を指差した。その先にある大火記念塔を、とろけるような紅い瞳が、食い入るように見つめている。
「ファル、あれのぼりたい」
「……ふむ」
フルエットは少し思案した末に、希望通りにしてあげることにした。教会へ預けた後は、いつその機会が訪れるかわからないからだ。
◆
その頃、ルイリの店。今日も今日とて薄暗い店内を、ユリオは慌ただしく駆け回っていた。
「ルイリ、この本はここでいいんだっけ?」
「あってるよー。……あ、待って。その本見して」
「え、えっと……これか?」
「そうそれ、三段目に抱えてるやつ。それはあっちの棚だねー」
「わかった!」
祭の日から数日。ユリオが受け取りを代行したものの他にも、その数日の間に買い取った本が店には溜まっていた。今日のユリオの仕事は、それらをルイリの指示通りに棚へ並べることだ。
「よし、じゃあ次は――」
「そんなに慌てなくてもいいよぉ? お客さんが待ってるわけでもないじゃん?」
次の本を取りに奥へ戻ると、机でのんびりしているルイリがそんなことを言う。ちなみに最初ルイリは棚入れの見本を見せようとしたのだが、初っ端から手を滑らせて顔面強打しかけたので、ユリオがお願いして座ってもらったのだった。
ルイリの言葉にユリオは、「それはそうかもしれないけど」と店内を振り返った。シェード付きのランプがほの暗く照らす店内には、ふたりの他に誰も居ない。もともと、そう客足の多い店ではないのだ。
「でもぼく、お願いしてやらせてもらってるんだしさ。あんまゆっくりやるのも、どうなんだろって」
「ユリくんは真面目だねぇ。あーしなんか、お客さん居ないからっ作業ほっぽらかして読書してばっかだったのに」
「それはちゃんと仕事しろよ」
ユリオが棚の向こうからじとっとした目を向けると、ルイリは「あっはっは」と頭をかいて大笑いした。そんな彼女をじとっと一瞥したユリオは、ふと思い立ったようにルイリへ問うた。
「そういえばさ、ここって花の本ってあるか?」
「お花? んーと、植物図鑑と野菜の栽培についての本はあったと思うけど、お花の本ってなると今はどうだったかなぁ。でもなんで?」
「あー……いや、さ。自分のお金で、フルエットに……」
本人に言うわけでもないの、ユリオはもごもごと言いよどむ。するとルイリが代わり続きを口にした。ちょうど棚の影で顔は見えないが、笑っているような気がする。
「プレゼントが買いたいな、って?」
ユリオは、頬がほんのりと熱を持つのを感じていた。自分で考えていたことなのに、他人の口から言われると何故か妙に気恥ずかしい。本を棚の空きスペースに置いて、にわかにかいてしまった手汗を拭う。
「……な、なんでわかるんだ?」
「フルエットちゃん、お花好きだし。本見て選ぶつもりなのかなぁって?」
「……そっか」
そう言われると、わからない方がおかしい気がしてきた。気恥ずかしさでそわそわするのを紛らわせるように、ユリオは棚入れを再開する。どのみち参考にするものがないのだ、今はこれ以上考えたって仕方がない。
◆
楽しかったかいと問うフルエットに、ファルは元気よく頷いてみせた。
「たのしかった!」
八重歯を見せて笑う彼女の頭には、もうハンチングは乗っていない。ジャケットも、すっぽりと身体を覆う薄手のコートに変わっている。ボロボロの恰好のまま連れて行くのはさすがにはばかられたから、待ってもらっている間に急いでランバーの店へ行って買ってきたのだった。ハンチングとジャケットは、ついでにそのまま捨てさせてもらった。幸い、ファルも特別思い入れはなさそうだったから。
繋いだ手を元気よく振るファルの様子に、フルエットは小さくほほ笑む。
「楽しめたのなら良かったよ。それじゃあ――」
今度こそ教会へと歩き出した途端、ファルのお腹がくぅと可愛らしい音を立てた。ファルは自分のお腹のあたりを見つめ、それからフルエットを見上げる。
「おなかすいた」
「みたいだね。どうするかな……」
預けさえすれば、教会の方で食事を用意してくれるだろう。しかし小さな子にお腹を空かせたまま歩かせる、というのもいささか気が引ける。
そういえば、近くにちょうどいい持ち帰りの店があった気がする。しばらく行く機会はなかったが、まだやっていればいいのだけれど。
「よし、わかった。先に軽くご飯にしようか。はぐれるといけないから、手を離すんじゃないよ」
そうしてファルを連れて向かった先は、記念塔からほど近い脇道にある小さな飲食店だ。くたびれた印象の看板が年季を感じさせるその店は、通りに持ち帰り用の屋台も出していた。イルーニュにまだ不慣れで、店にも入りづらさを感じていた頃のフルエットは、しばしばこの屋台にお世話になったものだった。
多少の懐かしさを感じつつ、フルエットは屋台を任されている青年へ声をかけた。
「失礼、ジャケット・ポテトをひとつ。……っと、ポテトに挟むものは何が良い?」
屋台の前面にある絵入りの表を示す間もなく、ファルがほぼノータイムで叫ぶ。
「ファル、ベーコンとハムがいい!」
「そんなに大きな声で言わなくても、大丈夫だよ。……ということで、そのふたつをお願いするよ」
「いっぱい入れてね! いーっぱいよ!」
そう言って目を輝かせるファルを、微笑ましく見つめながら待つこと少々。持ち帰り用のジャケット・ポテトが提供された。焼けた皮の香ばしさやベーコンの脂の香りに、フルエットも思わず口元が緩んでしまう。
フルエットは膝立ちになって目線を合わせると、ジャケット・ポテトの包みをファルに差し出した。赤い目は包みに釘付けになっていて、待ちきれないとばかりに鼻がひくひく動いている。
「熱いから気を付けるんだよ。手を離すから、しっかり両手で持つんだ。いいね?」
「うん!」
包みを手にすると、ファルは満面の笑みでジャケット・ポテトにかじりついた。ポテトからはみだすベーコンを引きずり出して飲み込むと、ファルの口から満足そうなため息がこぼれる。
そんな美味しそうに頬張る姿を見ていたら、フルエットも少しお腹が空いてきてしまった。ユリオを送る前に昼は済ませたから、実際そんなに入らないはずなのだけど。ついついメニューを眺めていると、
「ごちそうさま!」
「えっ、もうかい?」
ファルの手の中の包みは、もう空っぽになっていた。
口元を油でべたべたにしたファルは、食べ足りないのかお腹をさする。フルエットはまた目線を合わせると、ハンカチで口を拭ってあげながらぴっと指を立てた。
「食べ過ぎは身体に良くないからね。今はそれで我慢してくれるかい? あと、あまり急いで食べるのも身体に良くないからね」
「はーい」
わかっているのか、いないのか。元気だけは充分に答えたファルは次の瞬間、フルエットの手を引いて走り出している。
膝立ちだったせいで危うく転びそうになりながら、フルエットは辛うじて持ちこたえた。しかしファルの力は見た目の幼さからは想像できないほど強く、まったく踏ん張れない。転んでしまう前になんとか立ち上がり、半ば引きずられる恰好でファルの後に続く。
「ファル、どうしたんだい!?」
「もっとあそびたい!」
振り返ったファルが、牙の八重歯を見せて笑う。どこまでも無邪気な笑みの眩しさに、フルエットはそのまま引きずられてしまうのだった。
――そしてフルエットが気付いた頃には、時刻はもう夕方近くになっていた。空は既に、朱色に染まり始めている。
ユリオの仕事ももう終わっているはずだから、ファルを教会に預けて迎えに行かなければ。しかし当のファルはと言えば、フルエットのことなどお構いなしな様子だった
「あれ見たい!」
フルエットの手をぐいぐい引いて、ファルは通りに停まった人形芝居の車へと彼女を引きずっていく。からくり仕掛けのソレは確か、人形の早変わりで人気なんだとか。なるほど、ファルくらいの子には楽しくて仕方のないものだろう。
だがフルエットも、いつまでも彼女の相手をしてあげているわけにはいかなかった。
「ごめんよ、ファル。そろそろ行かないといけないんだ」
フルエットが足を踏ん張ると、抵抗を感じたのか、ファルは立ち止まって振り返った。
「どこに?」
「君は教会へ。それから私は、居候を拾って家に帰らないといけないんだ」
幸い、今居る通りはナテール通りのひとつ向こうだ。教会は比較的近い。さあ行こうとフルエットが手を引くと、今度はファルが足を踏ん張った。やはり幼い身体からは想像もつかないほどに力が強く、フルエットの細腕ではびくともしない。
「やだ」
唇をとがらせたファルが、いやいやと首を振る。
なんとか言い聞かせなければと、フルエットはいったん手を引くのを諦めた。ファルに向き直り、その場にしゃがみこむ。
その時だった。大通り側から、ちょうどファルの身体を覆うような格好で影が差したのだ。
「こんなとこに居たのか?」
影の主の聞き慣れた声に顔を上げると、そこに立っていたのはユリオだった。先に仕事を終え、迎えに来ないフルエットを探していたのだろうか。何してるんだと言いたげな顔をしている一方で、少し安堵しているようにも見えた。
しゃがんだまま、フルエットはユリオへ向けて苦笑をひとつ。
「すまない。この子の面倒を見ていたら、こんな時間になってしまってね」
「だぁれ?」
ファルがユリオの方を振り返った、その次の瞬間だった。
突風じみた勢いで駆け寄ってきたユリオが、ひったくるようにフルエットの手をファルから引きはがしていた。それどころか駆け寄ってきた勢いのまま、フルエットを抱えて後ろに下がらせさえする。彼が手を掴む力はやけに強くて、フルエットは痛みに小さな悲鳴をあげた。
そして、ユリオのあまりの勢いのせいだろう。ファルの小さな身体が地面の上を転がるのが、フルエットの目に入った。
「ユリオくん、酷いじゃないか。ファルが何をしたって…………」
咎める声が萎んでいく。
フルエットを抱えるユリオの横顔は、ひどく青ざめていた。頬に一筋冷や汗を伝わせ、藍の瞳を震わせ見開いて、転びっぱなしのファルを凝視している。
「ユリオくん?」
呟いて、フルエットはファルの方へ向き直る。確かにさっきそこに転んでいたはずの幼い姿は、しかしもう影も形もなくなっていた。
「……ファル?」
返事はない。はじめから誰もそこに居なかったみたいな空白だけがそこにあって、ユリオの眼差しだけがそこに誰かが居たことを証明していた。