欠け始めた月の光が、イルーニュにほど近い小さな村へと注いでいた。
石造りの平屋が立ち並ぶ一帯を煌々と照らすのは、しかし月影ではない。家々の間に、あるいは長い暮らしの中で踏み固められた道の両脇に、等間隔に焚かれた純白のかがり火――聖火だ。夜を塗りつぶそうとするかのようなその白い炎の下には、ニガヨモギの香りを漂わせる香炉が置かれている。ひとつの聖火につき、必ずひとつの香炉。並みの異類であれば、この時点で村へと近寄ることを諦めるほどの厳重な備えだ。
くわえて村の中央に位置する広場には、ひときわ大きな真白の聖火と、それを背にして並び立つ武装した白い祭服の男たちが十名ほど。彼らは村を囲う背の高い石の壁を、その向こうに広がる夜を監視していた。羽虫一匹の侵入すらも見逃さぬほどに、その羽音をすら聞き逃さぬほどに、五感を研ぎ澄ませて。
その中の一人、固く閉ざされた樫製の門を注視していた中年の男が、乾いた唇を舐める。巌のような気配をまとったその男が携えているのは、奇妙な形状をした銃だった。大型のトリガーガードに、一般的な銃とは上下逆の垂直グリップ。そして、白い光を投げかけるランタンが固定されている。
それは狩人だけが扱うことを許された、特殊な銃の一種だった。
そう、男は狩人だ。彼だけではない。広場に集った祭服の男たちは、一人残らず狩人だった。血狂いの――より正確には、血狂いと目される人相書きの男の――目撃情報を受け、村の警護と血狂いの狩猟のために急遽かき集められた狩人たちだ。
村人たちは全員、広場を抜けた先の教会に集められている。香と聖火の結界の中で朝を待つ彼らを護り抜くこと、そして可能ならば血狂いを狩ること。それが彼らの今夜の使命だった。
「……血狂いのヤツ、来ますかね」
かさついた声でつぶやく間も、ランタン銃の狩人の視線は門から逸れることはない。
縮れた白髪を厚手の帽子の下へ押し込んだ老狩人が、聖火ライターの具合を確かめながら唸った。肩に担いだくすんだ白の散弾銃と、腰に提げた銃剣が、聖火を受けて鈍い輝きを放っている。
「来るなら来い……と、言いてぇところだが。正直なことを言やぁ、もう少し手練れが欲しかったところだ」
「……そう思いますか、やはり」
「でも、相手は一匹なんでしょう? いくら人狼と言ったって……」
ランタンが装着された連射式クロスボウを手にした、まだ若い狩人が言った。微かに強張りを感じる声や目つきからして、油断や慢心よりはむしろ虚勢を張っているのだろう。
白髪の狩人の手の中で、ライターがカチンと音を立てた。
「一匹だからだよ」
「……と、言うと?」
「人狼もオオカミと同じで、基本は群れの生き物だ。はぐれになんのは、群れに居られねぇ異常な個体だけだ。……しかもそういうヤツほど、凶暴で強力で、人に化けるのが異様に上手ぇ。そもそも擬態する異類を見抜くってのは難しいもんだが、はぐれの人狼のは別格だ」
ごくりと喉を鳴らした若い狩人へ、ランタン銃の狩人が語りかける。
「……何年か前、昔馴染のところではぐれが一匹出たことがあった。狩人も含めて、何住人も喰われたという話だ」
若い狩人の顔が音を立てて青ざめる。小さく呻いて口元を覆った彼は、あわてて水筒に口をつけた。こみ上げたものを水と一緒に飲み干し、恐る恐るといった様子で問いかける。
「そのはぐれは……どうなったんですか?」
「ある日、ぱったりと現れなくなった」
「逃げたんですか?」
「かもしれない。……最後に目撃されたのは、お抱えの狩人が居るという噂の貴族の家だったそうだ。そこで狩られたという噂もあったが」
言いながら、自分でも眉唾物だと感じているのだろう。ランタン銃の狩人は、白けた顔をしていた。若い狩人も、さすがに冷めた顔をしている。
「お抱えって……一人や二人お抱えが居るくらいで、そんな凶暴なヤツ狩れるわけ」
「ああ。あまりにも突然だったから、そういう噂が流れたというだけだ。……まあコイツは極めつけの例だが、とにかくはぐれの人狼というのは、一匹だからこそ危険なんだ。お前もわかったら――」
ドンッ。
狩人たちの間を、稲妻のような緊張が走った。得物が、意識が、五感のすべてが、たった今音のした方へ――閉ざされた門の方へと向けられる。
ドンッ、ドンッ。
狩人たちが注視する中、門の向こうから再び音が響いた。外から誰かが門を叩いている。人狼が門を破ろうとしているにしては、いささか弱弱しい音だった。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
三度門が叩かれる。今度は呻き声のおまけつきだった。分厚い門越しに聞こえたその声は、助けを求めているかのような、どこか哀れっぽい響きを伴うものだ。
「……っ、自分が見てきます」
もしもこれが、異類に追われた哀れな旅人の類だったら。その考えを捨てきれなくなったのか、若い狩人が門へ向かって歩き出す。他の狩人が二人ほど、銃を構えながらその後をついていった。
門扉の下部に取り付けられた覗き穴から、若い狩人はランタンをかざした光を頼りに目を凝らす。
傷だらけの男の顔が、覗き穴にへばりついていた。
「うおっ……!?」
そしてまた、ドンッと扉を叩く音。ずるずると力なく、男の顔は覗き穴の向こうを滑り落ちていく。若い狩人は飛び退くように門扉から距離を取ると、クロスボウを構えながら仲間たちへと呼びかけた。
「け、怪我人です! まだ生きてる!」
「入れてやれ! 急げ!」
白髪の狩人の号令で、大人一人がやっと通れる程度に細く門が開く。すると先ほどの男が、声もなく倒れ込んできた。
若い狩人とついてきた狩人の片方が、両腕をつかんでそいつを中へと引っ張り込む。思いきり地面に引きずる形になったが、悠長に抱えている余裕などないのだから仕方ない。この間も、残りの狩人たちは油断なく周囲を伺っている。
男を回収するなり、門はすぐさま再び閉じられた。
男をひっくり返して仰向けにしてやった途端、若い狩人は「うっ」と呻いて顔をしかめる。それほどまでに、男はひどい有様だった。
覗き穴から見えた顔のみならず、全身の至る所を爪や牙で引き裂かれていた。土に塗れ草木のひっかかった衣服の上から、タトゥーでも刻むかの如く全身に痛々しい傷が刻み込まれている。
あるいは既にと思う心を抑えて、若い狩人は男に呼びかけようとした。そうして男の顔をはっきりと目にした時、傷だらけの顔にふと既視感を抱く。
その正体に気づいた瞬間、若い狩人はクロスボウを構えて飛び退った。男に向けて照準しながら、周囲の狩人へ向けて叫ぶ。
「――こいつ、人相書きと!」
同じだった。顔面を覆う傷と血の跡のせいで気づくのが遅れたが、男は確かに同じ顔をしていた。血狂いと目される人相書きと。
若い狩人の放ったクロスボウが、まずは一本、男の肩に突き刺さる。しかし二本目から先は、無造作に振り抜かれた毛むくじゃらの腕によって薙ぎ払われていた。
次の瞬間、傷だらけの男が変容する。こびりついた血で赤黒く染まった一匹の人狼へと姿を変え、若い狩人を目がけて疾走。しかし辺り一帯を包み込むように焚かれた香のせいか、その動きは今ひとつ遅い。
若い狩人はとっさに身をかわし、繰り出される爪の直撃を避けた。服ごと脇腹を切り裂かれるが、人狼相手であれば、まだかすり傷と呼べる程度だ。
そして人狼が次の動きを見せるよりも速く、周囲の狩人たちが動いていた。
投げ分銅が人狼の足に絡みつき、たまらず人狼がバランスを崩す。倒れ伏した人狼が強靭極まる筋肉を脈動させ、力任せにボーラの縄を引きちぎる。
だがその時にはもう、散弾が人狼の足を砕いていた。哀れっぽい悲鳴をあげた人狼の右手を、若い狩人の放ったクロスボウが地面に縫い留める。矢を引き抜こうとした左手は、ランタン銃の一斉射で撃ち抜かれ、だらりと力なく垂れ下がった。
四肢の自由を奪われた人狼の頭を狙い、聖火を仕込んだ特殊弾頭が貫く。頭蓋を砕く音が広場に響き渡った次の瞬間、人狼の頭部は白い炎に包まれていた。固唾を飲んでその様を見守る狩人たちだが、当然と言うべきか、人狼がなおも立ち上がったりするようなことはない。
「血狂いを……」
やったのか、と言おうとして。若い狩人は、脇腹の痛みに今さらのように呻いた。そんな彼のもとに駆け寄ったハンチング帽子の狩人が、腰に提げたポーチから応急処置用の道具を取り出そうと――
――どちゃり。
湿った重たい音を立てて、人狼の死体のそばに何かが落ちた。若い狩人は痛みを忘れ、ハンチング帽子の狩人は応急処置を忘れ、あるいは周囲の狩人たちも周囲への警戒を忘れてソレに目を奪われる。
それは赤黒い何かだった。赤黒く染まった衣服にくるまれた、小さな子供だった。おそらくは、子供だったものだ。ぐちゃぐちゃに食い散らかされた顔からは、年齢をうかがい知ることはできない。
その場の全員の視線が、まずは門を見た。門扉はぴったりと閉ざされたままで、穴どころか隙間すら空いていない。続けて、石壁の上をぼきり。
白髪の狩人は見た。若い狩人の首から上が、鈍くあっけない音を立てて落ちるのを。
赤い尾を引きながら転がっていったソレは、頭がすっかり焼けた人狼の死体にぶつかってようやく止まった。無関係な2つの亡骸が、悪趣味なパッチワークのように寄り添い合う。
そして残された首から下の方は、赤黒い毛むくじゃらの足に踏みつけにされている。
そいつの毛並みは、暗い赤だった。こびりついた血で染まった、先ほどの人狼の薄汚れた毛並みとはまったく違う。おぞましいほどに美しい、まさに血のような色合いの毛並みをした人狼だった。
凄まじい怖気が、白髪の狩人の背筋を走る。こいつが、こいつこそが血狂いなのだと、頭ではなく総毛立つ全身を以て理解する。こちらを睥睨する、とろけるような紅い瞳もまた、その呼び名に相応しい。
他の狩人たちが銃とクロスボウで包み込むような射撃を浴びせるのと同時に、彼は携帯式の香炉を投げつけていた。血狂いの回避軌道を読み切って投擲されたソレは、血狂いの足元に着弾。直後に撃ち込まれた銃弾が香炉を破壊し、香りの爆弾がさく裂する。
濃密な香の匂いに血狂いがたじろぎ、子犬みたいな鳴き声を漏らしてその場に膝を突いた。
すかさずクロスボウ組は矢に着火。聖なる白炎を灯した矢が、白い軌跡を描いて血狂い目がけ降り注ぐ。
瞬間、血狂いが疾走する。
「こいつ、香が……!?」
行く手を阻むべく放たれた矢は、血狂いの影を地面に縫い留めるばかり。ならばと放たれた銃弾も、血狂いを捉えることはかなわない。
しかし狩人たちも、ただかわされるばかりではなかった。後を追う矢と行く手を阻む銃弾で、血狂いの行く先を巧みに誘導していた。
血狂いが、足元の地面を踏み抜く。というより、そこにはそもそも踏みしめるべき地面が既になかった。落とし穴だ。偏執的なほどの剣の山が築かれた穴の底は、ぬらぬらと粘つく輝きを帯びている。
しかし血狂いは空中で身体を反転、子供の胴体ほども太い腕を豪速で振り抜く。甲高い音を轟かせて剣山を薙ぎ払い、着地。その衝撃を殺すべく低く屈んだところから、次の瞬間には既に壁目がけて跳躍。三角飛びの要領でそのまま壁を駆け上がり、瞬きほどの間に落とし穴から飛び出している。
血狂いが地上に舞い戻った直後、落とし穴の中で聖火瓶の割れる音が、今さらのように響き渡った。
それが合図となったかのように、四足よりもなお低い、這うような低姿勢で血狂いは疾走を開始する。