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名も無き戦い

ー/ー



 晩餐会から一週間程が経った午後。ジェラルドは、日課でもある、自宅の庭園を訪れていた。刺すように凍てついた風が吹き抜ける今の時期、あの美しい花達の姿はほとんど無い。それでも、彼は、子供の頃から真冬にも来ていたのだ。
 発芽や開花はしていなくとも、花は土の中で確かに生きている。そんな彼らを世話する庭師にとって、季節は関係ない。多少、仕事は減るが、土や苗木の状態を見る事は欠かさなかった。そんな庭師(スコット)に会いに、ジェラルドは通っていたのだ。寂れた風景は、沈んだ心をますます闇に追い込む。今日は、特に、彼と話がしたかった。

「……先日、公爵様から、鮮やかな色、華やかな色の花は、全て撤去するよう言われました。国からの要請だそうです。開花の時期ではありませんが、植えた木々は抜かねばなりません。ポピーは勿論……薔薇も、でしょうな」

 淡々と他人事のように、理不尽な事柄を語るスコットに、ジェラルドの胸が痛んだ。長年、手塩にかけて育て上げてきたものを、自らの手で無に還す。彼にとっては、身を切られるような所業のはずだ。
 残酷な仕打ちを受け入れるしかない彼の姿に、苦い既視感(デジャヴ)に襲われた。皮肉にも自分で、自分の大切なものを壊さねばならない状況……
 大好きな歌で戦争を鼓舞したアンジュ。そして、名ばかりの肩書きで、そんな彼女を失う自分。ままならない世知辛い世界に、今まで以上の嫌悪と失望、無力感を覚えた。

「ア……彼女も、悲しみますね」

 ふ……と力なく微笑み、スコットは続ける。

「……仕方ありません。戦時中だからという名目だそうですが、恐らく空からの爆撃の標的になりやすいからでしょう。北欧も攻められたそうですし、我が国も空襲が始まるのは時間の問題でしょうな」

 過去に大戦を経験した彼の予想には、事の重大さと命の危機が迫っている現実が、ひしひし、と伝わってくる。

「ジェリー坊っちゃん」

 改まった声色で、スコットはジェラルドを呼んだ。

「……あの()と、何かあったんですか?」
「え……?」
「長い付き合いですからね」

 何でもお見通し、と言わんばかりの彼に、『この人には敵わないな』と、ジェラルドは自嘲半分、妙な嬉しさに満たされた。持って来ていた大きめの茶封筒を、彼に手渡す。

「アンジュ……彼女が、例のソロデビューする日に歌うはずだった楽曲の楽譜です。歌詞が反戦歌ということで、披露は無くなりましたが」
「そうですか。あの()が……」

 代わりに戦争讃歌を歌わされた事は、敢えて伏せた。わざわざ()()()に知らせる必要も無いし、彼女も決して望んでいないだろう。
 封筒を受け取ったスコットは、ポピー畑の中で嬉しそうにしていた彼女の姿を思い出し、何とも言えない切ない思いに駆られた。

「団長を説き伏せて、譜面だけ貰いました。……初めて、公爵家令息の権力を使いましたよ」
「坊っちゃん」

 複雑そうに苦笑するジェラルドを、スコットは驚きと共に、どこか嬉しそうに凝視した。

「歌詞は、さすがに流出させられないと言われたので、先日、彼女が密かに歌ったのを聞いて、覚えている限りですが書き移しました。どうか見てやって下さい」
「……今でも?」

 頷くジェラルドを確認し、中の譜面と共に書かれた歌詞を読んだ彼は、次第に熱くなる目頭を、思わず指で抑えた。ポピーをモチーフにしたという、戦場で失われた命への鎮魂歌(レクイエム)
 戦争を知らないはずの、あの成人し間もない娘は、自分の話を聞き、どんな思いでこれを書いて、歌う事を諦めたのだろうか。彼女の優しさといじらしさに、未だに疼く心の痛みが、幾分か和らいだ気がした。

「……坊っちゃんは、あの()が大切なんですね」
「え……」

 楽譜から自分に視線を移した彼の言葉に、ジェラルドは面食らった。寒空の下で冷え切った頬が、一気に熱くなる。

「彼女とは、一度しか会っていませんが、誰かといてあんなに楽しそうな貴方は、初めて見ました。……いい()ですね」

 幼い頃からの自分を、ある意味両親よりずっと知っている彼の言葉に、今のジェラルドに否定する気は湧かなかった。先日、初めて深く触れ合い、その直後に見た彼女の精一杯の儚い笑み、健気な想いが脳裏に(よぎ)る。

「……そうです。本当に……俺とは違います」

 思いがけず突然出逢った、惹かれて止まない存在(ひと)。だが、自分の手には届かない。いや、守れないのだ。

「彼女といられるなら、公爵の身分など捨てても構わない。貴方は気づいておられるでしょうが、元々、俺にそんな肩書きは無かったんです」

 自嘲気味に、ふ、と力なく笑う。

「とはいえ、その名ばかりの身分と財産に守られ生きてきたのも事実です。そんな何者でも無い自分が、こんな情勢下(とき)に、人一人支えて生きていけるのか、彼女にも全てを捨てさせてまで、一緒にいて良いのか……判らない……」

 貴族にとって、醜聞(スキャンダル)は命取りにも成りかねない。家名も社交界も捨てた自分と生きるということは、アンジュにも楽団を辞めてもらい、噂も外聞も届かない、ロンドンから遠く離れた土地で、二人で暮らすということだ。
 今の過酷な状況は、彼女の精神衛生上、決して良いとは言えない。だが、折角入った歌を磨く場所、努力を重ねた名声まで、自分の為に捨てさせて良いのだろうか……

「……本気で好いていらっしゃるのですね」

 感慨深そうに呟くスコットの言葉が、どこか他人事のように耳に入り、茫然とした面持ちで、ジェラルドは彼を凝視した。
 寂しさ故にとはいえ無差別な色事と情事、自身の装飾と美容に(ふけ)り、息子二人の世話は乳母と使用人に任せ、目もくれない母。そんな妻に必要以上には接せず、世間体を気にして離縁しない父。
 それでも『愛してる』と、互いに顔を合わせては、当たり前のように告げている二人。虚栄心と歪なプライドの塊という面は、皮肉にも気が合ったのだろうか。物心がついて大人になり、やがて、そんな両親に違和感を感じ始めていたジェラルドには、それが日常的な挨拶とも社交辞令とも違う、何かの契約の儀式のようにも見えていた。
 それ故か、ずっと、男女の恋や真実の愛やらという類いの情を(あざけ)り、ずっと見下していた。そんな自身に芽生えたばかりのこの想いが、それに当て嵌まるのか分からないのだ。

(わし)は、前の大戦で息子夫婦を亡くしました。……孫も一緒でした。生きていたら、坊っちゃんと同じ年頃だったでしょう」

 今はその面影の無いポピー畑に、哀しく遠い眼差しを向け、突如、スコットは語り始めた。初めて聞く彼の過去に、ジェラルドは戸惑い、驚く。

「その後間もなく、病気がちだった妻も心労が祟って亡くなり、自分だけ何故生きているのだろう、と無気力になり、惰性的に花の世話をするだけの日々でした。……そんな中、儂が育てた薔薇を毎日のように見に来て下さる幼い貴方が、段々、本当の孫のように可愛く思えて……救われたのです」

 思いがけない彼の言葉に、深緑の瞳孔が開く。そんな事は全然知らなかった。

「反面、御家族に冷遇されているのが気の毒でならなかった。そんな貴方が、人を……()()()に惹かれ、恋をされた」

 (しわ)のある目元を細め、嬉しそうに微笑むスコット。途端に照れ臭くなり、ジェラルドは目を伏せた。

「命の存続すら危ぶまれる時世です。人並みに生きるのさえ、確かではありません。奴らは……戦争は、全てを壊し、奪いにかかって来ます。勿論、我が国も防御はします。が、攻撃を受け、応戦すると決めたのです。この庭園も、明日にはどうなるかわからない。儂も、貴方も、あの()も、です」

 はっ、と何かが醒めたように顔を上げ、スコットを凝視した。淡くも直向(ひたむ)きに生きるアンジュの姿が魅せられるように、混沌としていた彼の脳裏に浮かぶ。

「たとえ明日、この庭が無くなろうとも、今日、花達を育て、見守り、()でる。この()達の生き様が、誰かの記憶に残るように。それが、今の儂なりの……戦いです」

 彼の刹那的で清廉な想いに圧倒され、ジェラルドは言葉を失った。一度、全てを奪われ無くした人間の、多大な絶望と怒りから生まれたのであろう、狂気とも言える位に崇高で、強靭な意志と再生力。
 普段、温厚な彼から滲み出る覚悟の強さは、その穏やかな振る舞いに似つかわしくなく、並大抵のものではない。

「……覚えておられますか? 薔薇を見に来て下さるようになって暫く経った頃、(とげ)で指を怪我された時、貴方は尋ねられました。『どうして、こんなに刺があるの?』と」
「はい。覚えています」

 ジェラルドにとって、印象深いやり取りだった為、朧気にだが記憶に残っていた。
『虫や小動物に食べられないよう、こうして自分を守っているのですよ』と丁寧に返したスコットに、物心ついた彼は言ったのだ――

『……かわいそうだね』
『え?』
『こんなにきれいなのに、誰にもなでてもらえない。……僕にも刺があるから、みんな近寄らないのかな』

 年端いかない公爵令息が、何故か腫れ物扱いされている状態を、当時のスコットは漠然と不審に感じていた。グラッドストーン公爵から、息子に余計な事を吹き込まないよう忠告されていた彼は、少し考え、言った。

『……違いますよ。貴方の心が薔薇のように美しく、気高く、魅力的だから、刺の方が貴方自身を守っておられるのです』

 驚いたように、ぽかん、とした表情をする幼い少年に、スコットは続ける。

『坊っちゃんのお名前には、刺と似た意味があるのですよ。『(やり)』、そして『戦士』です。解りますか?』

 呆然としたまま、こくん、と素直に頷くジェラルドに、彼は(さと)した。

『いつか、貴方に大切な方が出来たら、今度は、その人を守ってあげて下さい』

 ――…………

 記憶が少しずつ甦ってくると共に、ジェラルドの脳裏に、幾つもの(まばゆ)い光が弾けては、咲いた。

「俺、は……」

 そんな彼を確認したスコットは、一枚のメモ用紙を手渡した。そこには、ロンドンから西に遠く離れたウェールズ地方にある町と、スコットランドのとある地方の住所が書かれていた。

「親友と従兄弟が、其々(それぞれ)住んでいます。情勢が不穏になった今、困った時は頼って良い、と言ってもらっていました。貴方の事も知っております」
「スコットさん……!?」
「大変厳しい道のりだと思います。育ちの違いや苦労故に、壁にぶつかる事もあるでしょう」

 彼が自分に言わんとしていることを、ジェラルドは察し、言い様のない熱い激情が押し寄せ、胸が詰まった。

「ですが、こんな残酷な世界だからこそ……折角出逢えた大切な方と()を育み、命ある限り、精一杯生きて下さい」

「なら、貴方も一緒に……!!」
「……儂は、この庭園を離れることは出来ません。この()達は、今や我が子同然ですので。大丈夫。なるべく、自分の身は自分で守りますよ」

 スコットの皺に囲まれた穏やかな瞳の奥に、全てを悟ったような、固く揺るぎない覚悟の色が見えた。いざという時、彼はこの庭園と共に、心中する気ではないだろうか。
 そう思った途端、全力で引き留めたい衝動に駆られた。が、そんなジェラルドの思い全てを見透かし、優しく諭すように包み込む、切なる眼差しが言葉を止めた。
 彼が、長い年月の中で背負ってきた経験の重みも痛みも、理解したと言うのはおこがましく思えた。ぎりっ、と奥歯を噛むと同時に、目の前が水の膜に揺れ、(かす)む。
 本来なら、最も()してくれるはずの両親に、厄介者、存在しない者として扱われている事に気づいた時の絶望と、堕落感。そんなものは幻想、少なくとも、自分には縁の無い、危うい遊戯(ゲーム)だと思った。
 だが、違った。そんな風に思っていた日々の中、すぐ近くで、異なる形の()が、確かに存在していたのだ。

「どうか、お幸せに。――ジェラルド様」

 穏やかな笑顔と礼儀ある態度で、(うやうや)しく頭を下げたスコットに感極まったジェラルドは、涙で滲んだ眼をきつく(つむ)る。いつの間にか、背丈も身幅も彼よりずっと大きくなっていた身体で、敬意あるハグを、力強く返した。


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 晩餐会から一週間程が経った午後。ジェラルドは、日課でもある、自宅の庭園を訪れていた。刺すように凍てついた風が吹き抜ける今の時期、あの美しい花達の姿はほとんど無い。それでも、彼は、子供の頃から真冬にも来ていたのだ。 発芽や開花はしていなくとも、花は土の中で確かに生きている。そんな彼らを世話する庭師にとって、季節は関係ない。多少、仕事は減るが、土や苗木の状態を見る事は欠かさなかった。そんな|庭師《スコット》に会いに、ジェラルドは通っていたのだ。寂れた風景は、沈んだ心をますます闇に追い込む。今日は、特に、彼と話がしたかった。
「……先日、公爵様から、鮮やかな色、華やかな色の花は、全て撤去するよう言われました。国からの要請だそうです。開花の時期ではありませんが、植えた木々は抜かねばなりません。ポピーは勿論……薔薇も、でしょうな」
 淡々と他人事のように、理不尽な事柄を語るスコットに、ジェラルドの胸が痛んだ。長年、手塩にかけて育て上げてきたものを、自らの手で無に還す。彼にとっては、身を切られるような所業のはずだ。
 残酷な仕打ちを受け入れるしかない彼の姿に、苦い|既視感《デジャヴ》に襲われた。皮肉にも自分で、自分の大切なものを壊さねばならない状況……
 大好きな歌で戦争を鼓舞したアンジュ。そして、名ばかりの肩書きで、そんな彼女を失う自分。ままならない世知辛い世界に、今まで以上の嫌悪と失望、無力感を覚えた。
「ア……彼女も、悲しみますね」
 ふ……と力なく微笑み、スコットは続ける。
「……仕方ありません。戦時中だからという名目だそうですが、恐らく空からの爆撃の標的になりやすいからでしょう。北欧も攻められたそうですし、我が国も空襲が始まるのは時間の問題でしょうな」
 過去に大戦を経験した彼の予想には、事の重大さと命の危機が迫っている現実が、ひしひし、と伝わってくる。
「ジェリー坊っちゃん」
 改まった声色で、スコットはジェラルドを呼んだ。
「……あの|娘《こ》と、何かあったんですか?」
「え……?」
「長い付き合いですからね」
 何でもお見通し、と言わんばかりの彼に、『この人には敵わないな』と、ジェラルドは自嘲半分、妙な嬉しさに満たされた。持って来ていた大きめの茶封筒を、彼に手渡す。
「アンジュ……彼女が、例のソロデビューする日に歌うはずだった楽曲の楽譜です。歌詞が反戦歌ということで、披露は無くなりましたが」
「そうですか。あの|娘《こ》が……」
 代わりに戦争讃歌を歌わされた事は、敢えて伏せた。わざわざ|こ《・》|の《・》|人《・》に知らせる必要も無いし、彼女も決して望んでいないだろう。
 封筒を受け取ったスコットは、ポピー畑の中で嬉しそうにしていた彼女の姿を思い出し、何とも言えない切ない思いに駆られた。
「団長を説き伏せて、譜面だけ貰いました。……初めて、公爵家令息の権力を使いましたよ」
「坊っちゃん」
 複雑そうに苦笑するジェラルドを、スコットは驚きと共に、どこか嬉しそうに凝視した。
「歌詞は、さすがに流出させられないと言われたので、先日、彼女が密かに歌ったのを聞いて、覚えている限りですが書き移しました。どうか見てやって下さい」
「……今でも?」
 頷くジェラルドを確認し、中の譜面と共に書かれた歌詞を読んだ彼は、次第に熱くなる目頭を、思わず指で抑えた。ポピーをモチーフにしたという、戦場で失われた命への|鎮魂歌《レクイエム》。
 戦争を知らないはずの、あの成人し間もない娘は、自分の話を聞き、どんな思いでこれを書いて、歌う事を諦めたのだろうか。彼女の優しさといじらしさに、未だに疼く心の痛みが、幾分か和らいだ気がした。
「……坊っちゃんは、あの|娘《こ》が大切なんですね」
「え……」
 楽譜から自分に視線を移した彼の言葉に、ジェラルドは面食らった。寒空の下で冷え切った頬が、一気に熱くなる。
「彼女とは、一度しか会っていませんが、誰かといてあんなに楽しそうな貴方は、初めて見ました。……いい|娘《こ》ですね」
 幼い頃からの自分を、ある意味両親よりずっと知っている彼の言葉に、今のジェラルドに否定する気は湧かなかった。先日、初めて深く触れ合い、その直後に見た彼女の精一杯の儚い笑み、健気な想いが脳裏に|過《よぎ》る。
「……そうです。本当に……俺とは違います」
 思いがけず突然出逢った、惹かれて止まない|存在《ひと》。だが、自分の手には届かない。いや、守れないのだ。
「彼女といられるなら、公爵の身分など捨てても構わない。貴方は気づいておられるでしょうが、元々、俺にそんな肩書きは無かったんです」
 自嘲気味に、ふ、と力なく笑う。
「とはいえ、その名ばかりの身分と財産に守られ生きてきたのも事実です。そんな何者でも無い自分が、こんな|情勢下《とき》に、人一人支えて生きていけるのか、彼女にも全てを捨てさせてまで、一緒にいて良いのか……判らない……」
 貴族にとって、|醜聞《スキャンダル》は命取りにも成りかねない。家名も社交界も捨てた自分と生きるということは、アンジュにも楽団を辞めてもらい、噂も外聞も届かない、ロンドンから遠く離れた土地で、二人で暮らすということだ。
 今の過酷な状況は、彼女の精神衛生上、決して良いとは言えない。だが、折角入った歌を磨く場所、努力を重ねた名声まで、自分の為に捨てさせて良いのだろうか……
「……本気で好いていらっしゃるのですね」
 感慨深そうに呟くスコットの言葉が、どこか他人事のように耳に入り、茫然とした面持ちで、ジェラルドは彼を凝視した。
 寂しさ故にとはいえ無差別な色事と情事、自身の装飾と美容に|耽《ふけ》り、息子二人の世話は乳母と使用人に任せ、目もくれない母。そんな妻に必要以上には接せず、世間体を気にして離縁しない父。
 それでも『愛してる』と、互いに顔を合わせては、当たり前のように告げている二人。虚栄心と歪なプライドの塊という面は、皮肉にも気が合ったのだろうか。物心がついて大人になり、やがて、そんな両親に違和感を感じ始めていたジェラルドには、それが日常的な挨拶とも社交辞令とも違う、何かの契約の儀式のようにも見えていた。
 それ故か、ずっと、男女の恋や真実の愛やらという類いの情を|嘲《あざけ》り、ずっと見下していた。そんな自身に芽生えたばかりのこの想いが、それに当て嵌まるのか分からないのだ。
「|儂《わし》は、前の大戦で息子夫婦を亡くしました。……孫も一緒でした。生きていたら、坊っちゃんと同じ年頃だったでしょう」
 今はその面影の無いポピー畑に、哀しく遠い眼差しを向け、突如、スコットは語り始めた。初めて聞く彼の過去に、ジェラルドは戸惑い、驚く。
「その後間もなく、病気がちだった妻も心労が祟って亡くなり、自分だけ何故生きているのだろう、と無気力になり、惰性的に花の世話をするだけの日々でした。……そんな中、儂が育てた薔薇を毎日のように見に来て下さる幼い貴方が、段々、本当の孫のように可愛く思えて……救われたのです」
 思いがけない彼の言葉に、深緑の瞳孔が開く。そんな事は全然知らなかった。
「反面、御家族に冷遇されているのが気の毒でならなかった。そんな貴方が、人を……|あ《・》|の《・》|娘《こ》に惹かれ、恋をされた」
 |皺《しわ》のある目元を細め、嬉しそうに微笑むスコット。途端に照れ臭くなり、ジェラルドは目を伏せた。
「命の存続すら危ぶまれる時世です。人並みに生きるのさえ、確かではありません。奴らは……戦争は、全てを壊し、奪いにかかって来ます。勿論、我が国も防御はします。が、攻撃を受け、応戦すると決めたのです。この庭園も、明日にはどうなるかわからない。儂も、貴方も、あの|娘《こ》も、です」
 はっ、と何かが醒めたように顔を上げ、スコットを凝視した。淡くも|直向《ひたむ》きに生きるアンジュの姿が魅せられるように、混沌としていた彼の脳裏に浮かぶ。
「たとえ明日、この庭が無くなろうとも、今日、花達を育て、見守り、|愛《め》でる。この|花《こ》達の生き様が、誰かの記憶に残るように。それが、今の儂なりの……戦いです」
 彼の刹那的で清廉な想いに圧倒され、ジェラルドは言葉を失った。一度、全てを奪われ無くした人間の、多大な絶望と怒りから生まれたのであろう、狂気とも言える位に崇高で、強靭な意志と再生力。
 普段、温厚な彼から滲み出る覚悟の強さは、その穏やかな振る舞いに似つかわしくなく、並大抵のものではない。
「……覚えておられますか? 薔薇を見に来て下さるようになって暫く経った頃、|刺《とげ》で指を怪我された時、貴方は尋ねられました。『どうして、こんなに刺があるの?』と」
「はい。覚えています」
 ジェラルドにとって、印象深いやり取りだった為、朧気にだが記憶に残っていた。
『虫や小動物に食べられないよう、こうして自分を守っているのですよ』と丁寧に返したスコットに、物心ついた彼は言ったのだ――
『……かわいそうだね』
『え?』
『こんなにきれいなのに、誰にもなでてもらえない。……僕にも刺があるから、みんな近寄らないのかな』
 年端いかない公爵令息が、何故か腫れ物扱いされている状態を、当時のスコットは漠然と不審に感じていた。グラッドストーン公爵から、息子に余計な事を吹き込まないよう忠告されていた彼は、少し考え、言った。
『……違いますよ。貴方の心が薔薇のように美しく、気高く、魅力的だから、刺の方が貴方自身を守っておられるのです』
 驚いたように、ぽかん、とした表情をする幼い少年に、スコットは続ける。
『坊っちゃんのお名前には、刺と似た意味があるのですよ。『|槍《やり》』、そして『戦士』です。解りますか?』
 呆然としたまま、こくん、と素直に頷くジェラルドに、彼は|諭《さと》した。
『いつか、貴方に大切な方が出来たら、今度は、その人を守ってあげて下さい』
 ――…………
 記憶が少しずつ甦ってくると共に、ジェラルドの脳裏に、幾つもの|眩《まばゆ》い光が弾けては、咲いた。
「俺、は……」
 そんな彼を確認したスコットは、一枚のメモ用紙を手渡した。そこには、ロンドンから西に遠く離れたウェールズ地方にある町と、スコットランドのとある地方の住所が書かれていた。
「親友と従兄弟が、|其々《それぞれ》住んでいます。情勢が不穏になった今、困った時は頼って良い、と言ってもらっていました。貴方の事も知っております」
「スコットさん……!?」
「大変厳しい道のりだと思います。育ちの違いや苦労故に、壁にぶつかる事もあるでしょう」
 彼が自分に言わんとしていることを、ジェラルドは察し、言い様のない熱い激情が押し寄せ、胸が詰まった。
「ですが、こんな残酷な世界だからこそ……折角出逢えた大切な方と|愛《・》を育み、命ある限り、精一杯生きて下さい」
「なら、貴方も一緒に……!!」
「……儂は、この庭園を離れることは出来ません。この|花《こ》達は、今や我が子同然ですので。大丈夫。なるべく、自分の身は自分で守りますよ」
 スコットの皺に囲まれた穏やかな瞳の奥に、全てを悟ったような、固く揺るぎない覚悟の色が見えた。いざという時、彼はこの庭園と共に、心中する気ではないだろうか。
 そう思った途端、全力で引き留めたい衝動に駆られた。が、そんなジェラルドの思い全てを見透かし、優しく諭すように包み込む、切なる眼差しが言葉を止めた。
 彼が、長い年月の中で背負ってきた経験の重みも痛みも、理解したと言うのはおこがましく思えた。ぎりっ、と奥歯を噛むと同時に、目の前が水の膜に揺れ、|霞《かす》む。
 本来なら、最も|愛《・》してくれるはずの両親に、厄介者、存在しない者として扱われている事に気づいた時の絶望と、堕落感。そんなものは幻想、少なくとも、自分には縁の無い、危うい|遊戯《ゲーム》だと思った。
 だが、違った。そんな風に思っていた日々の中、すぐ近くで、異なる形の|愛《・》が、確かに存在していたのだ。
「どうか、お幸せに。――ジェラルド様」
 穏やかな笑顔と礼儀ある態度で、|恭《うやうや》しく頭を下げたスコットに感極まったジェラルドは、涙で滲んだ眼をきつく|瞑《つむ》る。いつの間にか、背丈も身幅も彼よりずっと大きくなっていた身体で、敬意あるハグを、力強く返した。