Serenade ~ 小夜曲
ー/ー
銀幕のエンドロールのように、伴奏の音色が名残惜しさを醸しながら消えてゆき、楽曲は終わった。まだ興奮が冷めないアンジュは、歌の世界の余韻と歓喜で、心が、全身が、かつてない程に打ち震えている。
披露するのを反対され、参戦中だからと口にする事さえ禁止され、ずっと封印していたこの歌を盛大に歌えた喜び、そして何より、ジェラルドへの感謝で、心の中が溢れ返りそうだった。
「ジェラルドさん……!! ありがとうございます……!!」
彼の方を向き、震える声で礼を述べ、嬉し涙を眼に混じながら、小さく拍手喝采した。音楽に触れて、こんなにも心が揺さぶられ、虹色の光が乱反射するような経験は、今までなかった。幾つもの情感が繊細に重なり合う、彼が奏でる旋律にも魅了されていたのだ。
ふわっ……と小花が開花した瞬間のような、満面のあどけない笑みが生まれた。急いでジェラルドの傍に駆け寄り、彼の骨張った右手を、両手で取る。両の蒼碧の瞳に射していた、憂いが霞んでいく。
「貴方のピアノは、とても繊細で、綺麗で……温かいわ」
「……」
興奮して珍しく熱の冷めない彼女に対し、ジェラルドは静かに沈黙していた。我に返ったアンジュが様子を伺うと、いつになく思い詰めたような、真剣な面持ちで自分を見つめている。
はしゃぎ過ぎたと思い、慌てて握った手を放し、詫びた。
「ごめんなさい。調子に乗って…… もう、頼みませんから」
それでも彼は無言のままだ。すっと通った鼻筋と秀麗な眉、僅かに揺らめくダークグリーンの妖艶な眼が、すぐ間近にある状況に、今更ながら、何故か緊張する。
「あの、そろそろ戻ります。皆が、探してるかもしれないので」
動揺を悟られないよう彼から少し離れ、アンジュは急いで立ち去ろうとした。が、腰からのドレープが、ゆるい螺旋状になっているロングスカートの裾につまづき、よろめいた。
焦ったジェラルドに後ろから腕を掴まれ、支えられた。安堵したのと同時に、そのまま、引き寄せられるように、両腕で包み込まれる。
何が起こったのか、一瞬、彼女には判らなかった。身体に回された二つの固い腕と、背中に感じるほのかな温もり、羽織ったままの燕尾服と絹のシャツの衣擦れの音。そして、少し癖のあるブルネットの髪が、自身の首元に触れていることで、今の状況をようやく理解した。
眼球を動かすと、すぐ隣に、彼の横顔がある。全身を廻る、自分のものではない慣れない感触。ウッディ調の香水のような香が混じった、彼の匂いが、鼻腔を擽った。
強烈な驚きと未知の高揚、恥じらいで、頬が一気に熱くなるのが判った。どくん、と鳴る心音。身体中の血が、一気に逆流する。
「……あ、あ……の」
「……本当に、何も……解ってないんだな」
上擦りながらも溢した、アンジュの問うような声を、喉奥から絞り出すような重く掠れた声で、ジェラルドは遮る。
「……さっき、どんな顔をしていたか知らない。が、ピアノを見て、考えていたのは……君の、事だ」
チェロの弦が、途切れ途切れに奏でられるような、次第に心を惹き寄せる音色。アンジュの胸奥の何かが、ぎゅうっ、と甘く、心臓を強く締め付ける。
「初めは、何かに憑かれたと思った。……気づいたら、探している。会いたくなる。構いたくなる。助けたくなる…… どうか、してしまった……」
珍しく素直に、熱っぽく独り言のように語る彼の言葉を、一字一句聞き逃さないよう、全神経を耳に集中させる。吐息混じりに細々と響く、湿度を帯びた艶やかな旋律に、くらり、と酔った。
「アンジュ」
後ろから抱きしめていた腕の力を、ジェラルドは、ぐっ、と更に強めた。チェロの音色が、更に深く、重く響くような艶のある声で、初めて自分の名を呼ばれ、身体の芯が揺れる。
「は、い……」
雛鳥が鳴くような、か細く掠れた声で、なんとか応えた。
「……すき、だ」
ざわり、と全身が粟立ち、芯から震えた。彼の渾身のメッセージが、初めて耳にする魔法の呪文のように、アンジュの耳から脳内に響き渡る。自分に向けられた慣れない台詞の連続に、『これは甘美な夢なのではないだろうか』と、意識が半ば乖離していた。
反面、この類いの想いを含んだ言葉を乞いていたのか、じわじわ、と心に沁み入るに従い、マリンブルーの両の瞳が温かい水の膜に被われ、一筋の滴をつたい流す。気づいたジェラルドは、彼女の肩を掴み抱いて反転させ、向き合わせた。濡れた頬の滴を長い指で、戸惑いながらも優しく拭った。そのまま掌を添え、もう片方の手の指先で、柔らかな蜜蝋色の髪を掬い撫でる。
彼のそんな一連の仕草は、不器用で拙く、一輪挿しの花を愛でる、それだった。しかし、他人に撫でられた事の無いアンジュの身体は、びくっ、と反射的に硬直した。瞳孔を見開き、恐々とジェラルドを見上げ、どこか揺らぐ深緑の瞳を仰ぎ、引き込まれるように、魅入る。
ようやく二人の視線は繋がったが、彼女の脳は未だに現状を把握出来ないでいる。
――こういう色の宝石を、前に本で見たわ……
そんな唐突な感想が過った。一方、彼女が身体を強張らせたので、ジェラルドは手の動きを止めた。後頭部を優しく撫で上げ、躊躇いながら包み込むように前屈み、露になっている白い額に、そっ、と自身の唇をあてた。
「ふ、ぁっ……」
思わず目を瞑り、アンジュは小さく驚きの声を漏らす。しかし、逃げ出したり抵抗したいという気は起きなかった。生まれて初めて感じる柔らかな感触が、触れられた箇所から、じわり、と染み渡る。肩をすくめてすがるように、彼の二の腕を掴んでいた。
そんな様子を伺いながらも、自身の奥底から湧き出て止まない、初めて覚える熱い衝動にジェラルドは抗えないでいた。惹き寄せられるように彼女の柔らかな頬や鼻先にも、再び愛でるように、順番にゆっくりと口付ける。
次第に固まっていたアンジュの身体は、強張った心と同時に、少しずつ融けていった。閉じていた瞼を開き、自分に優しいキスを贈り続ける彼を、熟れたピーチスキンの顔で、空高く仰ぐように見上げる。
ジェラルドも少しばかり頬を染め、『どうしたら良いかわからない』と言わんばかりの、困惑が交じる悩ましい表情で、真下の彼女を見つめた。いつもの冷淡な眼差しは消えていて、切なさを帯びた少しの情欲と、穏やかな慈しみに萌えた若葉の色が交えている。
そんな彼を凝視しているうち、アンジュの眼差しも、高鳴る心が蕩けていくのに比例し、熱っぽい潤いを含んだ、糖蜜のような甘い繋ぎに変わった。
全ての空間が無音になり、どこか艶のある神聖な静寂に包まれた。見つめ合う深緑と蒼碧の対の距離が、微かな瞬きに合わせ、少しずつ縮まる。
ずっと、彼らを隔たらせていた、迷いも、戸惑いも、消え失せた。高低差のある二つの鼻先が触れ合った瞬間、そうする事が必然的だったかのように、どちらからともなく、互いの眼に、二色の睫毛の幕が降りる。刹那、僅かに揺れながら開閉する唇が、そっ、と重なり合った。
互いの唇の感触と温もりを、何度か確かめ合うよう軽く啄むだけの、拙く、淡い、口付け……
剰りに昂る幸福感に包まれ、共に酔いしれていく。
『これは自分の身に起こった事ではなく、恋物語の戯曲か何かを観賞して、感情移入している最中なのではないか……』という、他人事のような思いでいたが、口元に感じる自分のものではない柔らかな温もり、熱い吐息、惹かれて止まない香りが、錯乱した思考に鮮烈に冴え、リアルに訴えかける。
「……ん、う……」
初めての慣れないキスで、呼吸を忘れていたアンジュの少し苦しそうな声で、ジェラルドは我に返り、慌てて顔と身体を離した。けほっ、と軽く咳き込む音がする。
「大丈夫か……?」
途端に罪悪感がジェラルドを襲う。彼女が受け入れてくれた、抵抗されないのをいい事に、性急に想いをぶつけてしまったと焦り、猛省した。
「……は、い。大丈夫です。初めてで……」
こくん、とピーチスキンのままの顔で頷く。暫しの沈黙の間、ジェラルドは、そんな彼女を可愛らしく思いながら、言い様のない至福の想いで眺めていた。
「……そうか。いきなり……悪かった」
「いえ……! その、嫌じゃ、なかった……ですから……」
誤解して欲しくないと思ったアンジュは、慌ててジェラルドを見上げた。少しばつの悪そうな表情を浮かべている彼と、また視線がぶつかる。
薄化粧ではあったが、付けていたルージュの色が移り、微かに同じ薔薇色に染まった彼の唇が目に入り、途端、強烈なこそばゆい羞恥で俯いた。
「……あの、口紅が、少し……付きました……」
「!? あ、ああ……」
同じく赤らんだ顔で慌てて口元を拭いながら、そんな彼女をいとおしく見ていたが、部屋の外が騒がしくなってきた事に気づいた。いつの間にか晩餐会は終わっていたようだ。
「……戻った方がいいな」
「あ……」
慌てたアンジュは、羽織っていた燕尾服を脱ぎ、彼に返そうとする。その時、服の胸元に煌めく純金製のバッジに気づいた。グラッドストーン公爵家の紋章を型どった物だ。ジェラルドが公爵家の人間だという事実を、改めて実感した。一気に頭が冷え、先程までの幸福感が、すうっ……と醒めてゆく。
「……ジェラルドさん」
改まった素振りで丁寧に彼の名前を呼び、向き合う。
「もう、こんな風に二人きりで会わない方が良いと思います」
突然の彼女の変化に驚愕し、深緑の瞳孔を見開いた彼に反し、アンジュのマリンブルーの瞳には憂いが戻っていた。……いや、幸福な甘い夢から覚めた直後の、失望、虚無、哀愁という表現の方が相応しいだろう。
「……アンジュ?」
「私は、孤児です。身分や肩書きどころか、姓も財産もありません。恩はありますが、楽団に買われたも同然の身です。そして、どんな事情があっても、貴方は公爵家の令息様です」
アンジュは、フィリップとの事を思い出していた。自分の出自のせいで、彼には辛い思いをさせてしまった。また大切な人の負担になるのは、絶対に嫌だった。次第に、喉奥が重い塊で詰まっていく。泣きそうになるのを、必死に堪えた。
「私達の事、噂されてます。以前と同じ……依頼主様のご令息と雇われ人の関係で、いましょう」
他人行儀な態度で、自分と距離を置こうとする彼女に、強烈な焦燥、渇望と同時に激しい自責を、ジェラルドは感じた。
「アンジュ!! 俺は……!!」
「貴方は、私と住む世界が違う……違い過ぎる方です」
いつか誰かに言われた台詞が、改めて、アンジュの傷口にきつく沁みた。いつになく沈痛な面持ちで、そんな身も蓋もない常套句を吐く彼女に、ジェラルドも返す言葉が見つからず、ぐっ、と詰まり、呑み込む。
「貴方には、何度も救われました。とても感謝しています。今日の事も……本当に嬉しかった。今のままで十分です。ありがとうございました」
本心だが、本心では無い。本当は彼と、このまま…… 心を裂かれるような苦しみに耐え、アンジュは口元に微笑を作った。
「……貴方の幸せを、祈っています」
丁寧にお辞儀をして、アンジュは足早に扉に向かい、飛び出すように部屋を後にする。
残されたジェラルドは、茫然自失状態だった。脱け殻のように愕然とした面持ちで、彼女が出て行った扉を、ずっと見つめている。ようやく見つけた大切な存在。こんなにも呆気なく、自分の手からすり抜けてしまうものなのか……?
広間の扉から出て来て、ぞろぞろ帰路についていく客人達に紛れて会場に戻って来たアンジュを、クリスは見つけた。急いで駆け寄り、心配そうに声をかける。
「アンジュ! どこにいたの? 公演は終わったけど、何だか変な噂されてるし……」
事情を尋ねようとした彼女は絶句し、言葉を止めた。生気の無い、悲痛な面持ちのアンジュの眼から、静かに涙が溢れていたからだ。
「……クリスさん。何かを得る為には、何かを犠牲にしないと……いけないんですよね?」
いつか彼女から聞いた、厳しくも温かい激励の言葉だ。
「えっ……?」
「自分じゃない……大切なものの為に、自分の何かを……諦める事も、あるんでしょうか……?」
掠れた声で、淡々と問いかけるアンジュの姿は、今にも倒れてしまいそうな位に、弱々しかった。しかし、その瞳にいつもの憂いは消えている。代わりに、揺らめく鮮烈な光が熱く、宿っていた。
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披露するのを反対され、参戦中だからと口にする事さえ禁止され、ずっと封印していたこの歌を盛大に歌えた喜び、そして何より、ジェラルドへの感謝で、心の中が溢れ返りそうだった。
「ジェラルドさん……!! ありがとうございます……!!」
彼の方を向き、震える声で礼を述べ、嬉し涙を眼に混じながら、小さく拍手喝采した。音楽に触れて、こんなにも心が揺さぶられ、虹色の光が乱反射するような経験は、今までなかった。幾つもの情感が繊細に重なり合う、彼が奏でる旋律にも魅了されていたのだ。
ふわっ……と小花が開花した瞬間のような、満面のあどけない笑みが生まれた。急いでジェラルドの傍に駆け寄り、彼の骨張った右手を、両手で取る。両の|蒼碧《マリンブルー》の瞳に射していた、憂いが霞んでいく。
「貴方のピアノは、とても繊細で、綺麗で……温かいわ」
「……」
興奮して珍しく熱の冷めない彼女に対し、ジェラルドは静かに沈黙していた。我に返ったアンジュが様子を伺うと、いつになく思い詰めたような、真剣な面持ちで自分を見つめている。
はしゃぎ過ぎたと思い、慌てて握った手を放し、詫びた。
「ごめんなさい。調子に乗って…… もう、頼みませんから」
それでも彼は無言のままだ。すっと通った鼻筋と秀麗な眉、僅かに揺らめくダークグリーンの妖艶な|眼《め》が、すぐ間近にある状況に、今更ながら、何故か緊張する。
「あの、そろそろ戻ります。皆が、探してるかもしれないので」
動揺を悟られないよう彼から少し離れ、アンジュは急いで立ち去ろうとした。が、腰からのドレープが、ゆるい|螺旋《らせん》状になっているロングスカートの裾につまづき、よろめいた。
焦ったジェラルドに後ろから腕を掴まれ、支えられた。安堵したのと同時に、そのまま、引き寄せられるように、両腕で包み込まれる。
何が起こったのか、一瞬、彼女には判らなかった。身体に回された二つの固い腕と、背中に感じるほのかな温もり、羽織ったままの燕尾服と絹のシャツの衣擦れの音。そして、少し癖のあるブルネットの髪が、自身の首元に触れていることで、今の状況をようやく理解した。
眼球を動かすと、すぐ隣に、彼の横顔がある。全身を|廻《めぐ》る、自分のものではない慣れない感触。ウッディ調の|香水《トワレ》のような|香《こう》が混じった、|彼《・》の匂いが、鼻腔を|擽《くすぐ》った。
強烈な驚きと未知の高揚、恥じらいで、頬が一気に熱くなるのが判った。どくん、と鳴る心音。身体中の血が、一気に逆流する。
「……あ、あ……の」
「……本当に、何も……解ってないんだな」
上擦りながらも溢した、アンジュの問うような声を、喉奥から絞り出すような重く掠れた声で、ジェラルドは遮る。
「……さっき、どんな顔をしていたか知らない。が、ピアノを見て、考えていたのは……君の、事だ」
チェロの弦が、途切れ途切れに奏でられるような、次第に心を惹き寄せる音色。アンジュの胸奥の何かが、ぎゅうっ、と甘く、心臓を強く締め付ける。
「初めは、何かに憑かれたと思った。……気づいたら、探している。会いたくなる。構いたくなる。助けたくなる…… どうか、してしまった……」
珍しく素直に、熱っぽく独り言のように語る彼の言葉を、一字一句聞き逃さないよう、全神経を耳に集中させる。吐息混じりに細々と響く、湿度を帯びた|艶《つや》やかな旋律に、くらり、と酔った。
「アンジュ」
後ろから抱きしめていた腕の力を、ジェラルドは、ぐっ、と更に強めた。チェロの音色が、更に深く、重く響くような|艶《つや》のある声で、初めて自分の名を呼ばれ、身体の芯が揺れる。
「は、い……」
雛鳥が鳴くような、か細く掠れた声で、なんとか応えた。
「……すき、だ」
ざわり、と全身が粟立ち、芯から震えた。彼の渾身のメッセージが、初めて耳にする魔法の呪文のように、アンジュの耳から脳内に響き渡る。自分に向けられた慣れない台詞の連続に、『これは甘美な夢なのではないだろうか』と、意識が半ば|乖離《かいり》していた。
反面、この類いの想いを含んだ言葉を乞いていたのか、じわじわ、と心に沁み入るに従い、マリンブルーの両の瞳が温かい水の膜に被われ、一筋の滴をつたい流す。気づいたジェラルドは、彼女の肩を掴み抱いて反転させ、向き合わせた。濡れた頬の|滴《しずく》を長い指で、戸惑いながらも優しく拭った。そのまま掌を添え、もう片方の手の指先で、柔らかな蜜蝋色の髪を|掬《すく》い撫でる。
彼のそんな一連の仕草は、不器用で拙く、一輪挿しの花を|愛《め》でる、それだった。しかし、他人に撫でられた事の無いアンジュの身体は、びくっ、と反射的に硬直した。瞳孔を見開き、恐々とジェラルドを見上げ、どこか揺らぐ深緑の瞳を仰ぎ、引き込まれるように、魅入る。
ようやく二人の視線は繋がったが、彼女の脳は未だに現状を把握出来ないでいる。
――こういう色の宝石を、前に本で見たわ……
そんな唐突な感想が|過《よぎ》った。一方、彼女が身体を強張らせたので、ジェラルドは手の動きを止めた。後頭部を優しく撫で上げ、躊躇いながら包み込むように前屈み、|露《あらわ》になっている白い額に、そっ、と自身の唇をあてた。
「ふ、ぁっ……」
思わず目を|瞑《つむ》り、アンジュは小さく驚きの声を漏らす。しかし、逃げ出したり抵抗したいという気は起きなかった。生まれて初めて感じる柔らかな感触が、触れられた箇所から、じわり、と染み渡る。肩をすくめてすがるように、彼の二の腕を掴んでいた。
そんな様子を伺いながらも、自身の奥底から湧き出て止まない、初めて覚える熱い衝動にジェラルドは抗えないでいた。惹き寄せられるように彼女の柔らかな頬や鼻先にも、再び|愛《め》でるように、順番にゆっくりと口付ける。
次第に固まっていたアンジュの身体は、強張った心と同時に、少しずつ融けていった。閉じていた|瞼《まぶた》を開き、自分に優しいキスを贈り続ける彼を、熟れたピーチスキンの顔で、空高く仰ぐように見上げる。
ジェラルドも少しばかり頬を染め、『どうしたら良いかわからない』と言わんばかりの、困惑が交じる悩ましい表情で、真下の彼女を見つめた。いつもの冷淡な眼差しは消えていて、切なさを帯びた少しの情欲と、穏やかな慈しみに萌えた若葉の色が交えている。
そんな彼を凝視しているうち、アンジュの眼差しも、高鳴る心が|蕩《とろ》けていくのに比例し、熱っぽい潤いを含んだ、糖蜜のような甘い繋ぎに変わった。
全ての空間が無音になり、どこか艶のある神聖な静寂に包まれた。見つめ合う|深緑《ダークグリーン》と|蒼碧《マリンブルー》の対の距離が、微かな瞬きに合わせ、少しずつ縮まる。
ずっと、彼らを|隔《へだ》たらせていた、迷いも、戸惑いも、消え失せた。高低差のある二つの鼻先が触れ合った瞬間、そうする事が必然的だったかのように、どちらからともなく、互いの|眼《め》に、二色の|睫毛《まつげ》の幕が降りる。刹那、僅かに揺れながら開閉する唇が、そっ、と重なり合った。
互いの唇の感触と温もりを、何度か確かめ合うよう軽く|啄《ついば》むだけの、|拙《つたな》く、淡い、口付け……
|剰《あま》りに|昂《たかぶ》る幸福感に包まれ、共に酔いしれていく。
『これは自分の身に起こった事ではなく、恋物語の戯曲か何かを観賞して、感情移入している最中なのではないか……』という、他人事のような思いでいたが、口元に感じる自分のものではない柔らかな温もり、熱い吐息、惹かれて止まない香りが、錯乱した思考に鮮烈に冴え、リアルに訴えかける。
「……ん、う……」
初めての慣れないキスで、呼吸を忘れていたアンジュの少し苦しそうな声で、ジェラルドは我に返り、慌てて顔と身体を離した。けほっ、と軽く咳き込む音がする。
「大丈夫か……?」
途端に罪悪感がジェラルドを襲う。彼女が受け入れてくれた、抵抗されないのをいい事に、性急に想いをぶつけてしまったと焦り、猛省した。
「……は、い。大丈夫です。初めてで……」
こくん、とピーチスキンのままの顔で頷く。暫しの沈黙の間、ジェラルドは、そんな彼女を可愛らしく思いながら、言い様のない至福の想いで眺めていた。
「……そうか。いきなり……悪かった」
「いえ……! その、嫌じゃ、なかった……ですから……」
誤解して欲しくないと思ったアンジュは、慌ててジェラルドを見上げた。少しばつの悪そうな表情を浮かべている彼と、また視線がぶつかる。
薄化粧ではあったが、付けていたルージュの色が移り、微かに同じ薔薇色に染まった彼の唇が目に入り、途端、強烈なこそばゆい羞恥で俯いた。
「……あの、口紅が、少し……付きました……」
「!? あ、ああ……」
同じく赤らんだ顔で慌てて口元を拭いながら、そんな彼女をいとおしく見ていたが、部屋の外が騒がしくなってきた事に気づいた。いつの間にか|晩餐会《パーティー》は終わっていたようだ。
「……戻った方がいいな」
「あ……」
慌てたアンジュは、羽織っていた燕尾服を脱ぎ、彼に返そうとする。その時、服の胸元に煌めく純金製のバッジに気づいた。グラッドストーン公爵家の紋章を型どった物だ。ジェラルドが公爵家の人間だという事実を、改めて実感した。一気に頭が冷え、先程までの幸福感が、すうっ……と醒めてゆく。
「……ジェラルドさん」
改まった素振りで丁寧に彼の名前を呼び、向き合う。
「もう、こんな風に二人きりで会わない方が良いと思います」
突然の彼女の変化に驚愕し、深緑の瞳孔を見開いた彼に反し、アンジュのマリンブルーの瞳には憂いが戻っていた。……いや、幸福な甘い夢から覚めた直後の、失望、虚無、哀愁という表現の方が相応しいだろう。
「……アンジュ?」
「私は、孤児です。身分や肩書きどころか、姓も財産もありません。恩はありますが、楽団に買われたも同然の身です。そして、どんな事情があっても、貴方は公爵家の令息様です」
アンジュは、フィリップとの事を思い出していた。自分の出自のせいで、彼には辛い思いをさせてしまった。|ま《・》|た《・》大切な人の負担になるのは、絶対に嫌だった。次第に、喉奥が重い塊で詰まっていく。泣きそうになるのを、必死に堪えた。
「私達の事、噂されてます。以前と同じ……依頼主様のご令息と雇われ人の関係で、いましょう」
他人行儀な態度で、自分と距離を置こうとする彼女に、強烈な焦燥、渇望と同時に激しい自責を、ジェラルドは感じた。
「アンジュ!! 俺は……!!」
「貴方は、私と住む世界が違う……違い過ぎる方です」
いつか誰かに言われた|台詞《セリフ》が、改めて、アンジュの傷口にきつく沁みた。いつになく沈痛な面持ちで、そんな身も蓋もない常套句を吐く彼女に、ジェラルドも返す言葉が見つからず、ぐっ、と詰まり、呑み込む。
「貴方には、何度も救われました。とても感謝しています。今日の事も……本当に嬉しかった。今のままで十分です。ありがとうございました」
本心だが、本心では無い。本当は彼と、このまま…… 心を裂かれるような苦しみに耐え、アンジュは口元に微笑を作った。
「……貴方の幸せを、祈っています」
丁寧にお辞儀をして、アンジュは足早に扉に向かい、飛び出すように部屋を後にする。
残されたジェラルドは、茫然自失状態だった。脱け殻のように愕然とした面持ちで、彼女が出て行った扉を、ずっと見つめている。ようやく見つけた大切な|存在《もの》。こんなにも呆気なく、自分の手からすり抜けてしまうものなのか……?
広間の扉から出て来て、ぞろぞろ帰路についていく客人達に紛れて会場に戻って来たアンジュを、クリスは見つけた。急いで駆け寄り、心配そうに声をかける。
「アンジュ! どこにいたの? 公演は終わったけど、何だか変な噂されてるし……」
事情を尋ねようとした彼女は絶句し、言葉を止めた。生気の無い、悲痛な面持ちのアンジュの|眼《め》から、静かに涙が溢れていたからだ。
「……クリスさん。何かを得る為には、何かを犠牲にしないと……いけないんですよね?」
いつか彼女から聞いた、厳しくも温かい激励の言葉だ。
「えっ……?」
「自分じゃない……大切なものの為に、自分の何かを……諦める事も、あるんでしょうか……?」
掠れた声で、淡々と問いかけるアンジュの姿は、今にも倒れてしまいそうな位に、弱々しかった。しかし、その瞳にいつもの憂いは消えている。代わりに、揺らめく鮮烈な光が熱く、宿っていた。