この大恐慌で職を失った一部の者が、そのような体を売る仕事をしているらしいとも、何度か耳にしている。ロンドンに来るまで知らずにいたが、もしかしたら自身もその類いの道を歩んでいたかもしれない、と肌で感じていたのだ。
「卑しい血が騒ぐのかな。誰でも歓迎、みたいなさ。正統な血筋の俺には、|真似《まね》出来ないね」
ははっと不快な笑い声を上げるロベルトに、アンジュの身体の奥底から、煮え滾るような熱い塊がふつふつ、と沸騰し始めた。震える程の|怒《・》|り《・》のような思いを覚えることは、ロンドンに来てからは何度かあったが、今回は、違う。|誰《・》|か《・》の面影が、揺らめくように幾つも重なり、更に燃え上がるような衝動。
そんな未知の感情を、どう扱えば良いのかアンジュにはわからない。ただ、『これだけは許せない』という強い意思だけは、はっきりと自覚していた。気づけば相手が客だという事も忘れ、変換された|想《・》|い《・》が、喉から絞り出されるように――放たれた。
「ひ、どい……!!」
「え?」
「どうして、そんな風に言えるんですか? 家族……貴方の、たった一人の血の繋がった弟でしょう!? 親が誰だろうと、どんな人だろうと、ジェラルドさんはジェラルドさんじゃないの……!?」
叫ぶように問いながら、彼の笑顔とも言えない、歪んだ微笑が脳裏に浮かんでいた。
――あの人は、いつも一人だった。家族といても、ずっと、|独《・》|り《・》だったんだ……
自分でも知らないうちに、目から涙が零れていた。従順だと思っていたアンジュの意外な剣幕に、一瞬、ロベルトは怯んだ。しかし、すぐに元に戻って口を開く。
「へぇ、噂は本当みたいだね。だけど君もやるねぇ。楽団の連中に聞いたけど、君、孤児なんだって? 大人しそうな顔して……結構、したたかだね」
そう毒づきながら、獲物を見つけたハイエナのような目付きでじりじり、と壁際に追い詰める。怒りに恐怖が加わり、アンジュの膝がぶるっ、と震えた。
「俺はどう? あいつと違って正真正銘の公爵令息だよ? まぁ、愛人ならいいよ。最近、妙に垢抜けて売れてきたしねぇ」
口元がにやつき、いやらしく笑いながら彼女の肩を抱こうとした。
「!? や、めて下さい!!」
強烈な寒気と危険を感じ、その手を払いのける。相当な女好きで遊び人だと、彼が噂されていたことを思い出した。プライドを傷つけられたのか、にやついた笑顔から一転、悪魔のような形相に変わったロベルトは、アンジュの二の腕をきつく掴む。
「なめんじゃねぇよ。ただの歌い手のくせに……! 来いよ」
ドスのきいた声色で吐き捨てた瞬間、そのまま細い腕を引っ張り、強引に歩き出そうとした。
「!? は、放し、て……!!」
強烈な嫌悪感と恐怖に駆られ、アンジュが小さく悲鳴をあげた瞬間、ふっ、と掴まれた腕が軽くなった。不思議に思い前方を見上げると、ロベルトの腕を思い切り捻り上げ、真の悪魔のような恐ろしい形相のジェラルドがいた。シャープに伸びた眉は、これでもかという位に吊り上がり、ダークグリーンの|瞳《め》はペリドット色に変化し、今にも突き刺すような眼光で彼を睨み付けている。
――どうして……?
安堵と疑問の混じった感情をアンジュが抱いていると、抑揚の無い、|尚且《なおか》つ|氷柱《つらら》のような口調で、兄に問いかかった。
「――何、してる」
虚無感の漂う言い方が、かえって彼の激しい怒りを感じさせた。ただならぬ雰囲気の弟を見て、ロベルトは柄にもなく|狼狽《ろうばい》したが、性懲りなく反論する。
「……っ!! お前と同じような事しただけだろうが。自分だけ格好つけるな……!!」
苦痛に歪んだ顔で罵ったが、直ぐ様、ジェラルドは掴んだ拳に、ぎりっ、と更に力を入れた。握った指が青白くなり|戦慄《わなな》いている。怒りと脅しを込めた、重厚ある口調で言い放った。
「離れろ。二度と近づくな。俺の事は何と言ってもいい。……が、この女を侮辱するのだけは、止めろ……!!」
「……っ!!」
ロベルトは悔しげに言い返そうとした。が、今すぐ焼き切られるのではと思われる鋭い光を放つ眼差しと、手首の激痛に圧倒された。忌々しげに舌打ちし、力任せに腕を振り払う。
「そんなに、この女が|イ《・》|イ《・》のか。まさか、お前が|絆《ほだ》されるなんてねぇ。物好きだな!!」
そう吐き捨て、勢いよく広間の扉を開け、中に入って行った。彼の突然な登場に、何事かと客人達がざわめく。
人目を気にしたのか、ジェラルドはノースリーブにロンググローブ姿のアンジュの肩に、自分が着ていた濃いネイビーの燕尾服を掛け、彼女の手を取り、静かに促した。
「おいで」
先程までの怒りに燃えた、恐ろしい彼の姿は消えている。|瞳《め》も、少し落ち着いた新緑のような色に変化していた。
一瞬、アンジュは躊躇したが、抵抗はしなかった。さっき、ロベルトに腕を掴まれた時は、身震いする程、嫌で堪らなく怖かった。しかし、むしろ今は、繋がれた手から温かさと安らぎまで感じる。次第に高鳴っていく心臓の音が伝わってしまわないか不安に思いながら、彼に手を引かれ、小走りに駆け出した。
壁に掛けられた幾つものランプの灯りが、流星のように横流れしていくのに比例して、不可思議な高揚と満たされていくような甘い苦しさが増していく。
刹那――見慣れた薄暗い廊下が、美しくキラキラと瞬く、星屑の集まった銀河に見えた気がした。
ジェラルドに誘われるがまま付いて行くと、やがて一つの部屋に辿り着いた。彼は慣れた手つきで重々しい扉を開け、アンジュの手を握ったまま、中へ入って行く。しん、とした誰もいない空間は、どこか寂しげだった。
中央の上質なカーペットの上に置かれた、黒々と艶めくグランドピアノが、厳かな重厚感を放っていた。色鮮やかなステンドグラスで型どられた聖母マリアや大天使ガブリエルが、ランプのオレンジ色の|灯《あか》りしか無い室内を、どこか神聖な空間に作り上げている。
ピアノの側まで来ると、ジェラルドは手をほどき、彼女の方に向き直る。燃え滾っていた|瞳《め》から黄緑の炎は消え、いつものダークグリーンに戻っていた。
そんな彼を、少し不安そうにアンジュは見上げた。対しジェラルドは、困惑を隠せない素振りで問う。
「……何故、言い返した?」
「え……?」
「あいつは、君の客だろう? 増して、ああいう人間だ。怒らせたら厄介だとか、思わなかったのか?」
「あ……」
今頃気づいたらしく、|狼狽《うろた》えて口ごもる彼女に、ふうっ……と静かにため息をついた。しかし、その眼差しは、今までにない位に穏やかで、柔らかい。
「ああいう時は、適当に流しておいたらいいし、まともに受け答えなくていい」
「でも……! あんな酷いこと……!!」
「言われ慣れてるから構わない。それに本当の事だ」
瞬間、アンジュの表情が少し固くなった。そんな変化を、ジェラルドは見逃さなかった。
「どうした?」
「……なら、|あ《・》|れ《・》も本当なんですか?」
「|あ《・》|れ《・》?」
また心を見透かされた事の驚き、そして、この不安を抱く自身に戸惑いを感じながら、恐々と切り出す。
「女なら誰でもいいっていう…… 気にかけてくれたり、優しくしてくれたのも、そういう事が目的だったんですか……?」
「違う!!」
出会ってから初めて、感情を|顕《あらわ》にして、声を荒げた彼に、アンジュは眼を目一杯丸くした。傾いた心が、真逆の方向に揺さぶられる。
「あ…… いや……」
ジェラルドの色白の頬が、心なしか少し赤い。決まり悪そうに俯き、前髪を掌でかき上げている。初めて見るそんな彼の様子に、甘酸っぱい嬉しさでアンジュも高揚したが、自分の顔も熱くなっているのが分かった。目を合わせるのが恥ずかしくなり、慌てて視線を反らす。
暫くの間、気まずい沈黙が続いていたが、やがて、ジェラルドの方が口を開いた。
「……この間は、悪かった」
「あ……」
「言い過ぎた」
珍しく素直に話す彼に戸惑うアンジュは、何と答えたらいいのか分からない。が、なんとか言葉を絞り出して、正直な気持ちを伝えた。
「……信じて、もらえてなかったんだって……悲しかったです」
すると、ジェラルドは、またきまり悪そうに、傍らのピアノに視線を向ける。
「……信じてるよ」
手元の鍵盤に触れ、ポーン、と軽く鳴らす。同時にアンジュの心にも、高らかな歓喜の音が響いた。
「良かった……」
思わず、柔らかな微笑が零れる。その小さな花が綻ぶような表情を見て、そっ、と鍵盤をまた撫でた。そのいとおしげな仕草から、ふとアンジュは察する。
「ピアノ……好きなんですか?」
驚いたジェラルドは、彼女を凝視した。深緑の瞳孔が見開く。
「――何故、そう思う?」
「今ので分かります。薔薇を見てる時と同じ顔だもの。嬉しそう」
儚くも、屈託のない微笑みと言葉に、ジェラルドは観念した。
「……当たり」
「やっぱり」
ふふっ、と喜ぶアンジュに対し、少し複雑な気持ちになり、ぼそっ、と小声で続ける。
「半分だけ……」
「え……?」
「いや……何でもない……」
「?」
不思議そうに小首を傾げる彼女を他所に、今度は長めにゆっくりと、ジェラルドはピアノを鳴らした。どこか重みのある、ゆるやかで優しい旋律が奏でられ、室内に響く。
「……これと、薔薇だけだった。心を救ってくれたのは」
「……」
「人……人間には、期待しなかった」
彼の心の内が、次から次に明かされていく、今の状況に戸惑う反面、どこか嬉しさも感じている自身が、アンジュは不思議だった。
「……本当は解ってる。あの女……母と公爵は、愛も情も無い結婚……政略結婚だった。寂しさから色んな男にすがるんだろう。俺の存在はずっと見て見ぬふりだった。母にとって、俺は自分の負の象徴だ。公爵も不貞の子だって薄々気づいてるから、愛せなくても仕方ない」
吐き出すような独白後、一呼吸し、改めてアンジュに向き直ったジェラルドは、ずっと秘めていた自身の欠片を取り出し、目の前の少女に見せた。
「……両親がいて愛されないのと、両親がいなくて愛されないのとでは、どっちが辛いんだろうな」
「ジェラルドさん……」
「君も、色々あったんだな」
少し申し訳なさそうに、見つめる。
「悪い。さっきの……聞こえた」
『いえ』と軽く左右に、アンジュは首を振る。
「……私も、音楽……歌だけが支えでした。自分で自分を、ずっと励ましてた……」
「俺もだ。これでも名高い教官を家庭教師につけて学んだ」
「そうなんですか!?」
遠くからは、楽団の演奏がまだ聴こえて来る。瞬間、アンジュの脳に名案が浮かんだ。
「あの、ピアノ……弾いてくれませんか!? 貴方の演奏で歌ってみたい!!」
宝物を見つけた子供のような彼女の顔に、ジェラルドは、一瞬、驚いて沈黙した後、ふはっ……と吹き出した。いつもの歪んだものではない。とても|目映《まばゆ》く……素敵な笑顔だった。
何故、笑われたのかアンジュには解らなかったが、思わず|見惚《みほ》れていた。必死に笑い声を抑えながら、彼は答える。
「本当、面白いな……君は。突拍子もない」
「駄目……ですか?」
残念と言わんばかりに、しゅん、となる。
「……良いけど、一回だけ。普段は人前で弾かない」
「ええ……」
「その代わり、君が好きな曲にするから」
「……? 教えました?」
すると、ジェラルドは鍵盤の前に立ち、ある曲を弾き始めた。アンジュの耳から胸にかけて、電流のような衝撃が走る。このメロディは――
「!!」
「君なら、この曲に合わせて歌えるだろう?」
「ジェラルドさん……!!」
「作詞、アンジェリーク。作曲、リチャード・マドラス・ワグネル。題名『ポピーの涙』。今日が初披露。客はいないけどね」
「……!!」
言いようのない歓喜で|瞳《め》に涙を滲ませたアンジュを流し見た後、そのままピアノの椅子に座ったジェラルドは、彼女が何より歌いたかった曲を、もう一度始めから、丁寧に弾き始めた。
『炎の中で 散る花よ
真っ赤な涙を 頭上に舞わせ
最期の|瞬間《とき》に 君は何を想う?
さようなら 育った|故郷《ふるさと》
さようなら 愛した人
さようなら 愛してくれた人
遺されたはずの|亡骸《なきがら》さえ
涙と共に消えていった
誰のために 君は泣く?
誰のために 君は|逝《ゆ》く?』
彼の奏でる哀愁漂う切ないメロディに合わせ、アンジュは歌った。あの美しい庭園で見た満開のポピー畑、スコットさん、クリスの悲しげな様子、激戦地へ旅立ったフィリップのことを思い出す。
これは、これから失われるであろう全ての命と、傷つけられる心への|鎮魂歌《レクイエム》だ。遠くから聞こえて来る、勇ましい戦争讃歌に負けないかのように、儚くも慈しみ溢れる歌声が、部屋中に優しく満ちていく。
誰もいない二人だけの演奏会で熱唱する中、部屋に置かれた女神の銅像や、ステンドグラスで型どられた天使達が見守っていた。――神が寄越した、客人のように。