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5-3

ー/ー



 後片付けを俺と近江で終わらせ、食後のコーヒーを嗜みながら二人に和泉から聞いたことを話した。音のズレについては近江も承知している。

「恐らくは今後もまだ、ピッチ(音の高さ)が下がる音は出てくるだろう。でもアイツ〝逃げずに頑張る〟って言いやがった」
「本当に? 君が言わせたんじゃないだろうね」

 即座に突っかかってきた安芸に「違ぇよ!」とツッコむ。

 俺たち三人も音の音階が何なのか分かるぐらいの絶対音感はあるが、いわゆる周波数レベルで分かる絶対音感の持ち主は稀の存在だ。だから俺たちにはその苦しみは分からない。
 ただ、和泉には引け目と思ってほしくなく、〝誇りに思え〟なんて偉そうなことを言っちまった。そんな言葉は気休めにもならねぇだろうに。

「本人が頑張るって言ってんなら、俺らが悩むことなくね? やるなら音が下がる原因を探る方だろ」

 現実主義の近江がそう言った。確かに、メストが関連していることに違いはないが、もっと詳細に調査すべきだろう。だが例え俺がその意見に同意しても、()()()が黙っちゃいない。

「それも必要だけど、和泉が苦しむのを黙って見てるだけなんて僕はゴメンだね」
「じゃあ、お前は何か良い案でもあるのかよ」

 近江の追求に、安芸は腕を組み目を閉じて考えていたが、急にハッと見開くと満面の笑みで俺たちを見上げた。



 翌日。
 俺たちは和泉が使っている防音ブースに押しかけた。正確には安芸が強引に連れてきたんだが、突然現れた男三人に和泉は驚いていた。

「カルテット?」
「そう。僕ら四人で組んでどこかで披露しようと思うんだけど、どう?」

 安芸が提案した案、それは俺たちで四重奏(カルテット)をやるというものだった。和泉の気が晴れるのはやはりヴァイオリンだろうし、俺たちの音に触れる時間を増やせば少しは元気になるのでは、という理由らしい。

 その案に異論はないが、俺は正直乗り気ではなかった。
 問題は奴の選曲にある。

「曲ももう決めたんだ」
「わぁっ、カノン! 私たちの編成で演奏したら、どうなるんだろうね」

 安芸が渡した楽譜を見るなり、和泉の表情は一気に明るくなった。反応は上々のようだ。

 ヨハン・パッヘルベル作『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ・ニ長調』。カノンはこの作品の前半に当たる部分だ。
 カノン(追走曲)とは演奏技法であり、旋律を複数で違う時点から重ねていく様式である。中でもパッヘルベルのカノンは超が付くほど有名といっても過言ではない。

 よく聴くのは弦楽器による重奏だが、安芸はこれを俺たちの楽器編成でやろうという。クラリネットは吹奏楽におけるヴァイオリンだし、ファゴットはヴィオラの代役を務めることもあるから、決して不可能ではない。

 不可能ではない、が。

「……俺はやっぱり反対だ」
「そう腐るなよ、日向。和泉も喜んでくれたんだしさ」

 俺の気が乗らないワケは担当する低音パートにあった。実はこのパート、8音からなる同じ旋律が頭から終わりまで()()()()()()()()続くだけなのだ。他は華々しい主旋律の追走なのに。

 つまり俺だけ極端に単調で、面白味がない。……安芸(コイツ)、絶対わざとだろ。

 だが俺の抵抗も空しく四重奏への挑戦が幕を開けた。ウォームアップを含め、個人練習の時間が1時間半設けられる。
 だが2小節分の旋律しかない俺には練習ってほどの時間は必要なく、松脂を塗るなどして楽器の手入れに費やした。

「高杉君、テンポはどれくらいでいく?」

 1時間半後。半円状に並び、右端に座る和泉がそう聞いてきた。この曲の出だしは俺の独奏から始まるため、基準となるテンポを決める重要な役割を担っているのだ。最も、主導権は第1パートである和泉にある。

「俺は遅めの方が好きだが、お前は?」
「高杉君に合わせるよ、私もなるべく走らないようにするね」

 相変わらず気を使う和泉に「そうか」と返事をすると、右隣に第2パートの安芸、左隣に第3パートの近江が着席した。……お前らはいいよな、仲良く主旋律なんだからよ。

「和泉は優しいなぁ、僕なら好きにテンポを変速させて苛めるのに」
「……お前、やっぱり選曲わざとだろ」

 そう言って安芸を睨めば、奴は素知らぬふりして楽器の最終調整をし始めた。テメ、まだ和泉のこと根に持ってるじゃねぇか。
 左では近江が必死に笑いを堪えてるし、後でシメてやるから覚えてろ。

「……始めるぞ」

 号令をかけると、皆の顔つきが一気に演奏者へ変わった。
 まずは俺のチェロからだ。例の旋律を歩く速さよりも遅めで弾き、ゆったりとした空気が流れ始める。

 俺の旋律にハモるように、目の覚めるような音色で和泉のヴァイオリンが加わった。そして和泉がワンフレーズを弾き終わると、今度は安芸が柔らかくクラリネットで同じ旋律を奏で始め、和泉は次の旋律に入った。

 安芸がワンフレーズ終えたら、次は近江のファゴットが独特な音色で同じ旋律を辿る。そして安芸は和泉の次の旋律を吹き始めるのだ。
 こうして第1パートの旋律を次の奏者へ順に引き継いでいくのが、この曲の構成であり追走曲(カノン)の醍醐味だ。それを終わりまで続けるだけなのに音楽として成り立つのだから、時に神曲とも称される。

 四人の音が合わさった時、俺は室内が1トーン明るくなったように感じた。窓から入る陽射しすら、いつもより眩しく見える。普段より視野を広く持てるのは楽譜が単調だからこそか。
 三人の表情もとても楽しそうだった。俺はこんなに……あれ、でも思ったほど苦じゃねぇな。

 不思議に思っている間に、最後の音を丁寧に伸ばして演奏は終了した。

「……ねぇ、すっごく良くない!?」

 最初に口を開いたのは、少し興奮気味に目を爛々と輝かせた和泉だ。

「うん、予想以上だったよ! 全然悪くないね」
「俺は迫力にちょっと欠けると思うが……逆に丸みがあって聞きやすいかもな」

 俺の両隣も加わり三人で次々と感想を述べあう中、俺だけがまだ呆然としていた。
 あんなに嫌だったのに何だ、この達成感は。チェロを始めて10年以上は経つが、こんな気分は初めてだ。

 いつもなら淡々と演奏をこなすだけなのに。

「じゃあ、もう1回やろうよ!」

 和泉がそう言うと、他の二人もすぐに合意した。どいつも生き生きとした表情しやがって。なんだか無性に腹が立ったが、同時に嬉しくもあった。それが俺を1つの答えに導く。

 簡単なことじゃねぇか。

「……高杉君、嫌?」
「別に。ほら、やるぞ」

 ――俺も楽しんでるんだ、古い親友(コイツら)とのカルテットを。


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「恐らくは今後もまだ、ピッチ(音の高さ)が下がる音は出てくるだろう。でもアイツ〝逃げずに頑張る〟って言いやがった」
「本当に? 君が言わせたんじゃないだろうね」
 即座に突っかかってきた安芸に「違ぇよ!」とツッコむ。
 俺たち三人も音の音階が何なのか分かるぐらいの絶対音感はあるが、いわゆる周波数レベルで分かる絶対音感の持ち主は稀の存在だ。だから俺たちにはその苦しみは分からない。
 ただ、和泉には引け目と思ってほしくなく、〝誇りに思え〟なんて偉そうなことを言っちまった。そんな言葉は気休めにもならねぇだろうに。
「本人が頑張るって言ってんなら、俺らが悩むことなくね? やるなら音が下がる原因を探る方だろ」
 現実主義の近江がそう言った。確かに、メストが関連していることに違いはないが、もっと詳細に調査すべきだろう。だが例え俺がその意見に同意しても、|こ《・》|の《・》|男《・》が黙っちゃいない。
「それも必要だけど、和泉が苦しむのを黙って見てるだけなんて僕はゴメンだね」
「じゃあ、お前は何か良い案でもあるのかよ」
 近江の追求に、安芸は腕を組み目を閉じて考えていたが、急にハッと見開くと満面の笑みで俺たちを見上げた。
 翌日。
 俺たちは和泉が使っている防音ブースに押しかけた。正確には安芸が強引に連れてきたんだが、突然現れた男三人に和泉は驚いていた。
「カルテット?」
「そう。僕ら四人で組んでどこかで披露しようと思うんだけど、どう?」
 安芸が提案した案、それは俺たちで|四重奏《カルテット》をやるというものだった。和泉の気が晴れるのはやはりヴァイオリンだろうし、俺たちの音に触れる時間を増やせば少しは元気になるのでは、という理由らしい。
 その案に異論はないが、俺は正直乗り気ではなかった。
 問題は奴の選曲にある。
「曲ももう決めたんだ」
「わぁっ、カノン! 私たちの編成で演奏したら、どうなるんだろうね」
 安芸が渡した楽譜を見るなり、和泉の表情は一気に明るくなった。反応は上々のようだ。
 ヨハン・パッヘルベル作『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ・ニ長調』。カノンはこの作品の前半に当たる部分だ。
 カノン(追走曲)とは演奏技法であり、旋律を複数で違う時点から重ねていく様式である。中でもパッヘルベルのカノンは超が付くほど有名といっても過言ではない。
 よく聴くのは弦楽器による重奏だが、安芸はこれを俺たちの楽器編成でやろうという。クラリネットは吹奏楽におけるヴァイオリンだし、ファゴットはヴィオラの代役を務めることもあるから、決して不可能ではない。
 不可能ではない、が。
「……俺はやっぱり反対だ」
「そう腐るなよ、日向。和泉も喜んでくれたんだしさ」
 俺の気が乗らないワケは担当する低音パートにあった。実はこのパート、8音からなる同じ旋律が頭から終わりまで|1《・》|音《・》|の《・》|変《・》|化《・》|も《・》|な《・》|く《・》続くだけなのだ。他は華々しい主旋律の追走なのに。
 つまり俺だけ極端に単調で、面白味がない。……|安芸《コイツ》、絶対わざとだろ。
 だが俺の抵抗も空しく四重奏への挑戦が幕を開けた。ウォームアップを含め、個人練習の時間が1時間半設けられる。
 だが2小節分の旋律しかない俺には練習ってほどの時間は必要なく、松脂を塗るなどして楽器の手入れに費やした。
「高杉君、テンポはどれくらいでいく?」
 1時間半後。半円状に並び、右端に座る和泉がそう聞いてきた。この曲の出だしは俺の独奏から始まるため、基準となるテンポを決める重要な役割を担っているのだ。最も、主導権は第1パートである和泉にある。
「俺は遅めの方が好きだが、お前は?」
「高杉君に合わせるよ、私もなるべく走らないようにするね」
 相変わらず気を使う和泉に「そうか」と返事をすると、右隣に第2パートの安芸、左隣に第3パートの近江が着席した。……お前らはいいよな、仲良く主旋律なんだからよ。
「和泉は優しいなぁ、僕なら好きにテンポを変速させて苛めるのに」
「……お前、やっぱり選曲わざとだろ」
 そう言って安芸を睨めば、奴は素知らぬふりして楽器の最終調整をし始めた。テメ、まだ和泉のこと根に持ってるじゃねぇか。
 左では近江が必死に笑いを堪えてるし、後でシメてやるから覚えてろ。
「……始めるぞ」
 号令をかけると、皆の顔つきが一気に演奏者へ変わった。
 まずは俺のチェロからだ。例の旋律を歩く速さよりも遅めで弾き、ゆったりとした空気が流れ始める。
 俺の旋律にハモるように、目の覚めるような音色で和泉のヴァイオリンが加わった。そして和泉がワンフレーズを弾き終わると、今度は安芸が柔らかくクラリネットで同じ旋律を奏で始め、和泉は次の旋律に入った。
 安芸がワンフレーズ終えたら、次は近江のファゴットが独特な音色で同じ旋律を辿る。そして安芸は和泉の次の旋律を吹き始めるのだ。
 こうして第1パートの旋律を次の奏者へ順に引き継いでいくのが、この曲の構成であり|追走曲《カノン》の醍醐味だ。それを終わりまで続けるだけなのに音楽として成り立つのだから、時に神曲とも称される。
 四人の音が合わさった時、俺は室内が1トーン明るくなったように感じた。窓から入る陽射しすら、いつもより眩しく見える。普段より視野を広く持てるのは楽譜が単調だからこそか。
 三人の表情もとても楽しそうだった。俺はこんなに……あれ、でも思ったほど苦じゃねぇな。
 不思議に思っている間に、最後の音を丁寧に伸ばして演奏は終了した。
「……ねぇ、すっごく良くない!?」
 最初に口を開いたのは、少し興奮気味に目を爛々と輝かせた和泉だ。
「うん、予想以上だったよ! 全然悪くないね」
「俺は迫力にちょっと欠けると思うが……逆に丸みがあって聞きやすいかもな」
 俺の両隣も加わり三人で次々と感想を述べあう中、俺だけがまだ呆然としていた。
 あんなに嫌だったのに何だ、この達成感は。チェロを始めて10年以上は経つが、こんな気分は初めてだ。
 いつもなら淡々と演奏をこなすだけなのに。
「じゃあ、もう1回やろうよ!」
 和泉がそう言うと、他の二人もすぐに合意した。どいつも生き生きとした表情しやがって。なんだか無性に腹が立ったが、同時に嬉しくもあった。それが俺を1つの答えに導く。
 簡単なことじゃねぇか。
「……高杉君、嫌?」
「別に。ほら、やるぞ」
 ――俺も楽しんでるんだ、|古い親友《コイツら》とのカルテットを。