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★悪魔の挽歌

ー/ー



「戦歌しか歌えないような今の時代に、歌手になって何になる? 君の歌が、皆を戦争へ導く……それでいいのか? そいつの為なら、何でもするのか? よりによって、()()なんてモノの為に……馬鹿げてる」

 ようやく立ち直った彼女を、また追い詰めるような言葉が、次から次に放たれる。アンジュの顔からは完全に微笑が消え、代わりに悲しみと驚きが混ざった、戸惑いの表情に変わった。

「ジェ、ラルド……さん……?」

 不思議そうに悲しく問うアンジュの声に、はっ、とジェラルドは我に返った。途端に自責の念に襲われ、きまり悪そうに顔を歪める。彼女から目を反らし、立ち去ろうと後退りした。

「ま……待って下さい!」

 慌てて、彼を呼び止めようとした時、少し離れた部屋の扉から、何かが壁にぶつかったような鈍い音が聞こえた。

「ん……」

 続けて聞こえてくる、艶かしい女性の声と荒い息づかいに、二人は反射的に足を止める。何事かと思い、鍵が開いている扉からアンジュが中を覗くと、そこには壁にもたれた女性と同年代らしき中年の男が抱き合い、濃厚なキスを交わしていた。
 慌てて立ち去ろうとした時、女性の顔が隠れ見え、驚愕する。グラッドストーン公爵夫人――ジェラルドの母親だったのだ。
 思わず声を上げそうになったが、慌てて口元を手で抑える。隣にいたジェラルドが、無表情でありながらも激しい怒りと軽蔑の炎を秘めた、突き刺すような視線を彼らに向けていたからだ。
 掠れた吐息に紛れ、彼らの密やかに交わされる会話が聞こえて来る。

「良いのですか? 公爵夫人ともあろうお方が、このような真似を……」

 咎めた言葉に反し、男の眼差しと口元は卑しくにやつき、少しも悪いと思っていないのが明らかにわかった。

「あら…… 貴方だって、そのつもりで近づいて来たくせに……」

 媚びるようににんまりと口角を上げた夫人は、寄せ上げた胸元の谷間を擦り寄せ、男の襟元の隙間に指を(なまめ)かしく這わせる。

「愛してるわ」
「……悪い女ですねぇ」

 その言葉を口にすると同時に、男は再び夫人に深く口付ける。暫くすると、夫人のものらしい甘ったるい声と、ベッドが軋む音が聞こえて来た。

 ()ぐにでも逃げ出したいのに、アンジュは一歩も動けずにいた。生まれて初めて見た光景に、心も体も釘付けになっていたのだ。それは、物語の中だけで漠然と知っていた行為だった。
 いつの間にか熱くなっていた頬を抑え、気遣うようにそっ、とジェラルドの様子を伺う。彼は凍てついた眼差しで、射るように扉を一瞥(いちべつ)し、再び足早に歩き出した。アンジュは慌てて後を追いかける。
 グラッドストーン夫人……彼女には正式な夫である公爵が存在する。二人の息子までいる。格式高い貴族の奥方が行うにしては、あまりに軽率で、あるまじき行為だ。
 自分の母親があんな事をしているのを見て、さぞかし彼は傷ついているだろうと思った。さっきの言葉には驚いたが、内に秘めた痛みや叫びを、アンジュは理屈抜きに感じ取っていた。

 ――あれは、彼の……()()()言葉じゃないわ

 そんな確信を宿しつつ、必死に彼の背中を追っていると、突然、ジェラルドは足を止めた。

「追って来るな」

 背中を向けたまま放たれた、拒絶の言葉。その()ね付けるような重く哀しい響きに、びくっ、と身体が強張る。

「同情ならやめろ。(かえ)って不愉快だ」

 続けて辛辣な言葉が飛んで来たが、構わずアンジュは叫んでいた。

「同情じゃないわ! ただ、貴方が……心配なだけ、です……」

 包まれるような言葉に不意打ちされ、ジェラルドは、彼女の方に思わず向き直った。真っ直ぐ自分を見ながら、真摯な情をぶつけてくる様子に、強く心を揺さぶられる。ふうっ……と静かなため息をつき、ゆっくり渇いた口を開いた。

「……今に始まったことじゃない。あれは日常茶飯事だ。もう慣れてる」
「でも……」

 『貴方は傷ついたでしょう?』とアンジュは言おうとしたが、彼の深緑の瞳に、更に暗い陰が落ちた気がして、言葉を飲み込む。

「そもそも俺が生まれたのも、あの女が公爵以外の男とああして寝たからだ」
「……!!」

 衝撃的な話に、意味が理解出来なかった。つまり、彼は……

所謂(いわゆる)、不貞の子ってやつ。俺と公爵に血の繋がりは無い。うちの家系は代々カトリックらしくてね。不貞は重罪。世間にバレたら公爵令息から一転、悪魔と同類にされる」

 他人事のように、当人の口から淡々と語られる真実。しかし、アンジュには彼が無理をしているようにしか見えなかった。暗がりで表情はよく見えないが、虚無感を帯びているのは分かる。

「貴方は、何も、悪くないわ……」

 今の精一杯の考え……気持ちを伝えた。何を言っても彼を傷つけてしまう気がして、必死に言葉を探したが、これしか見つからない自分が情けない。
 すると、ジェラルドは、いつもの皮肉な微笑を浮かべ、自棄(やけ)気味に返した。

「悪いも何も……事実だ。屋敷内の者は薄々気づいてる。噂も立ってるようだし、喋ったらいい」
「……!!」

 初めて受ける類いのショックで、アンジュの視界にひびが入った。一度入れてもらえた気がした彼の心の内側から、また閉め出されたような哀しみと失望に沈んでいく。

「喋らないわ!! そんな事、する訳……無いじゃないですか……」

 必死に訴えたが、最後の方は涙混じりになって声が震えた。そんな反応に驚いたのか、ジェラルドは瞳孔を少し見開いた。が、黙ったまま(きびす)を返し、背を向けて歩き出す。今度は、引き止める気力は湧かなかった。心が固まってしまったようだ。

 ――どうして……どうして、信じてくれないの……?

 悲しくて堪らない。容赦なく遠ざかっていく広い背中が、再び大きく開いた、二人の距離を表すように見えた。又、それが意外に激しく(こた)えたのが、アンジュの心を乱していた。穏やかな表情を見せたかと思えば、冷酷で辛辣な言動に変わる…… ジェラルドという人間の事が、また解らなくなってしまった。

 一方、自室に戻ったジェラルドは、自身の感情の不可解な動きに苛立っていた。彼女に見られたからとはいえ、何故、あんな話をしてしまったのだろう。今まで、誰にも言った事の無い、出生の秘密まで明かす必要はなかった。
 あの少女といると何故か調子が狂う。隠れていたもう一人の自分が現れ、たちまち脳、心全てを占領する……
 苛立(いらだ)ちまかせに辛辣な言葉を吐いた時の、驚いたような悲しげな顔。母親の不倫現場を見た時の、今にも泣き出しそうだった顔。アンジェリークという少女の様々な姿が、ぐるぐる、と脳内を駆け巡る。

 ――俺の事なのに、何故、そんなに悲しむ……? 関係無いだろう? 放っておいてくれ……
 ――あんな嫌な言い方をしたのに、何故、俺を庇う……?
 ――心配って何だ……? そんな事する訳無い……?
 ――やめろ! 世辞か嘘に決まってる。信じて堪るか……!!

 見知らぬ男の事を話した時の、嬉しそうな顔を描きたい見た瞬間――その微笑みを壊したい衝動に駆られ、無意識に彼女を傷つけようとしていた――

「……!!」

 そんな自分に苛立ち、呆れ、髪をぐしゃり、と掻きむしる。その拳でそのまま、側の大理石の机を思い切り叩いた。


 年が明けた1940年。世界が着々と大戦に向かっていく最中、アンジュ達の住む英国――ロンドンでも、対岸の霧が漂って来るかのように、少しずつ、ゆるやかに、(おもむき)が変化していった。
 たまに、兵隊による凱旋(がいせん)パレードが華やかに通り抜け、民間の成人男性が徴兵に駆り出されつつある。今の平穏な日々が、いつ豹変してもおかしく無い気配だ。自分の夫や恋人、息子が、明日には戦地へ行かされるのではと、女性は日々怯えていた。空襲は無いが、目に見えない何かが、自分達の周りを取り囲んでいく。
 そんな心許ない毎日だったが、アンジュの日常は、変わることなく続いていた。……ジェラルドの件を除いては。暮れの夜、出生の秘密を聞かされた日から、また気まずくなってしまっていた。彼は、あれからアンジュを避けるようになり、彼女の方も近づこうとしなかった。
 というより、近づきたくても、何と話しかけたらいいのか分からなかったのだ。しかし、いくら拒絶されても、何故か気になって仕方なかった。気づけば、目はジェラルドの姿を探している。だが、たまに目が合っても、すぐに視線を反らされる。そんな彼の態度が、心をひどく締め付けた。

 だが仕事の日は、以前と同じく屋敷に行かないわけにはいかない。憂鬱な気持ちを抱えながら、アンジュは今日もグラッドストーン家への道を歩いていた。
 ただでさえ、戦争が始まって気が重いのに……と軽くため息をつく。ふと、隣のクリスの方を見ると、彼女も青い顔をしている。こんな時でも明るく振る舞っていた彼女が珍しい……と気になったアンジュは声をかけた。

「クリスさん……? 何かあったんですか……?」

 すると、クリスは虚ろな眼差しを向けた。ワインレッドのルージュが塗られた唇が震えている。一呼吸してから、告げた。

「……叔父が、徴兵されたらしいの」

 ガン、と頭を殴られたような衝撃を受けた。突然、()()という現実が、自分のすぐ隣まで近づいて来た気がする。

「クリスさん……」
「今まで実感が湧かなかったけど、本当に戦争が始まったのね」
「……」
「『良心的兵役拒否権』っていうのがあってね。申請したら拒否出来るかもしれないけど……無理だわ。叔父の居る環境だと多分、周りから白い目で見られて居づらくなるもの」

 強張るクリスの言葉に、ジェラルドの姿をアンジュは思い出した。彼は軍人の家系ではない貴族だが、いつかは戦地へ行くのだろうか……という、激しい恐怖が襲ってくる。

 ――嫌。そんなの嫌。あの人まで……

 頭に浮かんだ恐ろしい考えを、必死に打ち消す。同時に、彼の存在が自身の中でいつの間にか大きくなっていた事に気づいた。何と返答したらいいのか判らず、この不穏な事態が早く終わる事を、ただ、神に祈るしか出来ないでいた。


 グラッドストーン邸宅に到着し、普段通りの催しが進む。今夜は晩餐会だったが、皆、控えめでシックな装いだ。団員達が華麗に奏でるワルツやメヌエットに合わせ、今の不安をまぎらわすかのように、ダンスを楽しんでいる。
 楽器の担当でないアンジュは、隅の方で、目の前の人々をぼんやりと眺めていたが、周りの様子が何かおかしい事に気づいた。他の客人達が、やたら自分、そしてジェラルドの方をちらちら、と交互に見ながら内緒話をしている。不審に思っていると、大きな黒い影が彼女を被うように現れた。

「ねぇ、君」

 呼び掛けられた方に視線を向けると、ジェラルドの兄、ロベルトが、にっこりとした笑みを浮かべ、アンジュを見下ろしていた。彼に声をかけられたのは初めてだった為、内心戸惑う。

「……いいかな?」

 柔らかに(うなが)し、彼は広間の扉に視線を向ける。少し不安だったが、依頼主である公爵家令息には逆らえない……  仕方なく、恐々と付いて行った。


「君、うちの弟と……どういう関係なの?」

 廊下に出た途端、ロベルトは問いかけた。口元は相変わらずにこやかだが、どこか怪しげだ。いつもの好青年の顔が剥がれている。

「どうって…… 貴方と同じ依頼主様のご令息様でございますよ」

 突然の彼の変貌と、ジェラルドのことを聞かれ狼狽(うろた)えたが、なるべく努め抑えながら、答える。

「『ご令息様』ね……」

 くくっ、と嘲笑する彼にむっ、としたが、なるべく冷静に尋ねた。

「……何かおかしいですか?」
「客の噂になってるんだよ。知らない? 君と弟がデキてるんじゃないかって」

 何故、そんな噂が出たのだろうかと驚く。そんなアンジュの心中を察したのか、今度はにやつきながらロベルトは続けた。

「暮れの夜に、君と弟が二人きりでいるのを見た奴がいるらしくてね」
「……!!」
「まぁ、俺にはどうでもいい事なんだけど、さすがっていうかさ」
「……さすが?」

 事態を把握し、内心動揺したが、彼の不可解な言葉に反応する。

「よりによって、こんな身分の低い女に御執心だなんて。血は争えないってことだよ。知ってる? あいつの父親は男娼(だんしょう)だって」
「……!?」

 更に続けられる真実の衝撃で、アンジュの意識が彼方に飛んだ。男娼――売春を男性が行う職業。何をするのかという具体的な事は知らない。だが、もうすぐ十七歳になる今、その意味は漠然とだったが……理解していた。


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「戦歌しか歌えないような今の時代に、歌手になって何になる? 君の歌が、皆を戦争へ導く……それでいいのか? そいつの為なら、何でもするのか? よりによって、|約《・》|束《・》なんてモノの為に……馬鹿げてる」
 ようやく立ち直った彼女を、また追い詰めるような言葉が、次から次に放たれる。アンジュの顔からは完全に微笑が消え、代わりに悲しみと驚きが混ざった、戸惑いの表情に変わった。
「ジェ、ラルド……さん……?」
 不思議そうに悲しく問うアンジュの声に、はっ、とジェラルドは我に返った。途端に自責の念に襲われ、きまり悪そうに顔を歪める。彼女から目を反らし、立ち去ろうと後退りした。
「ま……待って下さい!」
 慌てて、彼を呼び止めようとした時、少し離れた部屋の扉から、何かが壁にぶつかったような鈍い音が聞こえた。
「ん……」
 続けて聞こえてくる、艶かしい女性の声と荒い息づかいに、二人は反射的に足を止める。何事かと思い、鍵が開いている扉からアンジュが中を覗くと、そこには壁にもたれた女性と同年代らしき中年の男が抱き合い、濃厚なキスを交わしていた。
 慌てて立ち去ろうとした時、女性の顔が隠れ見え、驚愕する。グラッドストーン公爵夫人――ジェラルドの母親だったのだ。
 思わず声を上げそうになったが、慌てて口元を手で抑える。隣にいたジェラルドが、無表情でありながらも激しい怒りと軽蔑の炎を秘めた、突き刺すような視線を彼らに向けていたからだ。
 掠れた吐息に紛れ、彼らの密やかに交わされる会話が聞こえて来る。
「良いのですか? 公爵夫人ともあろうお方が、このような真似を……」
 咎めた言葉に反し、男の眼差しと口元は卑しくにやつき、少しも悪いと思っていないのが明らかにわかった。
「あら…… 貴方だって、そのつもりで近づいて来たくせに……」
 媚びるようににんまりと口角を上げた夫人は、寄せ上げた胸元の谷間を擦り寄せ、男の襟元の隙間に指を|艶《なまめ》かしく這わせる。
「愛してるわ」
「……悪い女ですねぇ」
 その言葉を口にすると同時に、男は再び夫人に深く口付ける。暫くすると、夫人のものらしい甘ったるい声と、ベッドが軋む音が聞こえて来た。
 |直《す》ぐにでも逃げ出したいのに、アンジュは一歩も動けずにいた。生まれて初めて見た光景に、心も体も釘付けになっていたのだ。それは、物語の中だけで漠然と知っていた行為だった。
 いつの間にか熱くなっていた頬を抑え、気遣うようにそっ、とジェラルドの様子を伺う。彼は凍てついた眼差しで、射るように扉を|一瞥《いちべつ》し、再び足早に歩き出した。アンジュは慌てて後を追いかける。
 グラッドストーン夫人……彼女には正式な夫である公爵が存在する。二人の息子までいる。格式高い貴族の奥方が行うにしては、あまりに軽率で、あるまじき行為だ。
 自分の母親があんな事をしているのを見て、さぞかし彼は傷ついているだろうと思った。さっきの言葉には驚いたが、内に秘めた痛みや叫びを、アンジュは理屈抜きに感じ取っていた。
 ――あれは、彼の……|本《・》|当《・》|の《・》言葉じゃないわ
 そんな確信を宿しつつ、必死に彼の背中を追っていると、突然、ジェラルドは足を止めた。
「追って来るな」
 背中を向けたまま放たれた、拒絶の言葉。その|撥《は》ね付けるような重く哀しい響きに、びくっ、と身体が強張る。
「同情ならやめろ。|反《かえ》って不愉快だ」
 続けて辛辣な言葉が飛んで来たが、構わずアンジュは叫んでいた。
「同情じゃないわ! ただ、貴方が……心配なだけ、です……」
 包まれるような言葉に不意打ちされ、ジェラルドは、彼女の方に思わず向き直った。真っ直ぐ自分を見ながら、真摯な情をぶつけてくる様子に、強く心を揺さぶられる。ふうっ……と静かなため息をつき、ゆっくり渇いた口を開いた。
「……今に始まったことじゃない。あれは日常茶飯事だ。もう慣れてる」
「でも……」
 『貴方は傷ついたでしょう?』とアンジュは言おうとしたが、彼の深緑の瞳に、更に暗い陰が落ちた気がして、言葉を飲み込む。
「そもそも俺が生まれたのも、あの女が公爵以外の男とああして寝たからだ」
「……!!」
 衝撃的な話に、意味が理解出来なかった。つまり、彼は……
「|所謂《いわゆる》、不貞の子ってやつ。俺と公爵に血の繋がりは無い。うちの家系は代々カトリックらしくてね。不貞は重罪。世間にバレたら公爵令息から一転、悪魔と同類にされる」
 他人事のように、当人の口から淡々と語られる真実。しかし、アンジュには彼が無理をしているようにしか見えなかった。暗がりで表情はよく見えないが、虚無感を帯びているのは分かる。
「貴方は、何も、悪くないわ……」
 今の精一杯の考え……気持ちを伝えた。何を言っても彼を傷つけてしまう気がして、必死に言葉を探したが、これしか見つからない自分が情けない。
 すると、ジェラルドは、いつもの皮肉な微笑を浮かべ、|自棄《やけ》気味に返した。
「悪いも何も……事実だ。屋敷内の者は薄々気づいてる。噂も立ってるようだし、喋ったらいい」
「……!!」
 初めて受ける類いのショックで、アンジュの視界にひびが入った。一度入れてもらえた気がした彼の心の内側から、また閉め出されたような哀しみと失望に沈んでいく。
「喋らないわ!! そんな事、する訳……無いじゃないですか……」
 必死に訴えたが、最後の方は涙混じりになって声が震えた。そんな反応に驚いたのか、ジェラルドは瞳孔を少し見開いた。が、黙ったまま|踵《きびす》を返し、背を向けて歩き出す。今度は、引き止める気力は湧かなかった。心が固まってしまったようだ。
 ――どうして……どうして、信じてくれないの……?
 悲しくて堪らない。容赦なく遠ざかっていく広い背中が、再び大きく開いた、二人の距離を表すように見えた。又、それが意外に激しく|堪《こた》えたのが、アンジュの心を乱していた。穏やかな表情を見せたかと思えば、冷酷で辛辣な言動に変わる…… ジェラルドという人間の事が、また解らなくなってしまった。
 一方、自室に戻ったジェラルドは、自身の感情の不可解な動きに苛立っていた。彼女に見られたからとはいえ、何故、あんな話をしてしまったのだろう。今まで、誰にも言った事の無い、出生の秘密まで明かす必要はなかった。
 あの少女といると何故か調子が狂う。隠れていたもう一人の自分が現れ、たちまち脳、心全てを占領する……
 |苛立《いらだ》ちまかせに辛辣な言葉を吐いた時の、驚いたような悲しげな顔。母親の不倫現場を見た時の、今にも泣き出しそうだった顔。アンジェリークという少女の様々な姿が、ぐるぐる、と脳内を駆け巡る。
 ――俺の事なのに、何故、そんなに悲しむ……? 関係無いだろう? 放っておいてくれ……
 ――あんな嫌な言い方をしたのに、何故、俺を庇う……?
 ――心配って何だ……? そんな事する訳無い……?
 ――やめろ! 世辞か嘘に決まってる。信じて堪るか……!!
 見知らぬ男の事を話した時の、嬉しそうな顔を描きたい見た瞬間――その微笑みを壊したい衝動に駆られ、無意識に彼女を傷つけようとしていた――
「……!!」
 そんな自分に苛立ち、呆れ、髪をぐしゃり、と掻きむしる。その拳でそのまま、側の大理石の机を思い切り叩いた。
 年が明けた1940年。世界が着々と大戦に向かっていく最中、アンジュ達の住む英国――ロンドンでも、対岸の霧が漂って来るかのように、少しずつ、ゆるやかに、|趣《おもむき》が変化していった。
 たまに、兵隊による|凱旋《がいせん》パレードが華やかに通り抜け、民間の成人男性が徴兵に駆り出されつつある。今の平穏な日々が、いつ豹変してもおかしく無い気配だ。自分の夫や恋人、息子が、明日には戦地へ行かされるのではと、女性は日々怯えていた。空襲は無いが、目に見えない何かが、自分達の周りを取り囲んでいく。
 そんな心許ない毎日だったが、アンジュの日常は、変わることなく続いていた。……ジェラルドの件を除いては。暮れの夜、出生の秘密を聞かされた日から、また気まずくなってしまっていた。彼は、あれからアンジュを避けるようになり、彼女の方も近づこうとしなかった。
 というより、近づきたくても、何と話しかけたらいいのか分からなかったのだ。しかし、いくら拒絶されても、何故か気になって仕方なかった。気づけば、目はジェラルドの姿を探している。だが、たまに目が合っても、すぐに視線を反らされる。そんな彼の態度が、心をひどく締め付けた。
 だが仕事の日は、以前と同じく屋敷に行かないわけにはいかない。憂鬱な気持ちを抱えながら、アンジュは今日もグラッドストーン家への道を歩いていた。
 ただでさえ、戦争が始まって気が重いのに……と軽くため息をつく。ふと、隣のクリスの方を見ると、彼女も青い顔をしている。こんな時でも明るく振る舞っていた彼女が珍しい……と気になったアンジュは声をかけた。
「クリスさん……? 何かあったんですか……?」
 すると、クリスは虚ろな眼差しを向けた。ワインレッドのルージュが塗られた唇が震えている。一呼吸してから、告げた。
「……叔父が、徴兵されたらしいの」
 ガン、と頭を殴られたような衝撃を受けた。突然、|戦《・》|争《・》という現実が、自分のすぐ隣まで近づいて来た気がする。
「クリスさん……」
「今まで実感が湧かなかったけど、本当に戦争が始まったのね」
「……」
「『良心的兵役拒否権』っていうのがあってね。申請したら拒否出来るかもしれないけど……無理だわ。叔父の居る環境だと多分、周りから白い目で見られて居づらくなるもの」
 強張るクリスの言葉に、ジェラルドの姿をアンジュは思い出した。彼は軍人の家系ではない貴族だが、いつかは戦地へ行くのだろうか……という、激しい恐怖が襲ってくる。
 ――嫌。そんなの嫌。あの人まで……
 頭に浮かんだ恐ろしい考えを、必死に打ち消す。同時に、彼の存在が自身の中でいつの間にか大きくなっていた事に気づいた。何と返答したらいいのか判らず、この不穏な事態が早く終わる事を、ただ、神に祈るしか出来ないでいた。
 グラッドストーン邸宅に到着し、普段通りの催しが進む。今夜は晩餐会だったが、皆、控えめでシックな装いだ。団員達が華麗に奏でるワルツやメヌエットに合わせ、今の不安をまぎらわすかのように、ダンスを楽しんでいる。
 楽器の担当でないアンジュは、隅の方で、目の前の人々をぼんやりと眺めていたが、周りの様子が何かおかしい事に気づいた。他の客人達が、やたら自分、そしてジェラルドの方をちらちら、と交互に見ながら内緒話をしている。不審に思っていると、大きな黒い影が彼女を被うように現れた。
「ねぇ、君」
 呼び掛けられた方に視線を向けると、ジェラルドの兄、ロベルトが、にっこりとした笑みを浮かべ、アンジュを見下ろしていた。彼に声をかけられたのは初めてだった為、内心戸惑う。
「……いいかな?」
 柔らかに|促《うなが》し、彼は広間の扉に視線を向ける。少し不安だったが、依頼主である公爵家令息には逆らえない……  仕方なく、恐々と付いて行った。
「君、うちの弟と……どういう関係なの?」
 廊下に出た途端、ロベルトは問いかけた。口元は相変わらずにこやかだが、どこか怪しげだ。いつもの好青年の顔が剥がれている。
「どうって…… 貴方と同じ依頼主様のご令息様でございますよ」
 突然の彼の変貌と、ジェラルドのことを聞かれ|狼狽《うろた》えたが、なるべく努め抑えながら、答える。
「『ご令息様』ね……」
 くくっ、と嘲笑する彼にむっ、としたが、なるべく冷静に尋ねた。
「……何かおかしいですか?」
「客の噂になってるんだよ。知らない? 君と弟がデキてるんじゃないかって」
 何故、そんな噂が出たのだろうかと驚く。そんなアンジュの心中を察したのか、今度はにやつきながらロベルトは続けた。
「暮れの夜に、君と弟が二人きりでいるのを見た奴がいるらしくてね」
「……!!」
「まぁ、俺にはどうでもいい事なんだけど、さすがっていうかさ」
「……さすが?」
 事態を把握し、内心動揺したが、彼の不可解な言葉に反応する。
「よりによって、こんな身分の低い女に御執心だなんて。血は争えないってことだよ。知ってる? あいつの父親は|男娼《だんしょう》だって」
「……!?」
 更に続けられる真実の衝撃で、アンジュの意識が彼方に飛んだ。男娼――売春を男性が行う職業。何をするのかという具体的な事は知らない。だが、もうすぐ十七歳になる今、その意味は漠然とだったが……理解していた。