燃ゆる独唱
ー/ー
一方、そんな渦中のアンジュは、異次元のような客席に向かって丁寧にお辞儀をし、感覚の無い足で舞台から降りると、そっ、と会場を抜け出した。
隠れるように、人気の無い場所を必死に探す。ようやく、しん、と静まり返った薄暗い廊下に出た瞬間、冷たい壁に身体を気だるく預け、もたれた。泣きたいのに心は動かず、一滴も涙は出ない。視界が揺らぎ、意識は朦朧としている。
次の演目が始まったのか陽気なメロディと歌声が、扉の向こうから周囲の壁に反響し、ざわざわと耳障りに聴こえてくる。今のアンジュには、自分を嘲笑い、擦り切れた心を逆撫でされているようで、ひりひりした。
――私は、歌った。戦争讃歌を…… 戦争を盛り上げる為に、歌ったんだ……
ずっと、ずっとこれだけは……と大切に守ってきた、貴く綺麗な宝物を奪われただけでなく、自分自身で汚し、盛大に壊させられた気分だった。鮮やかな血の色をしたドレスが、更に思考を闇に追い詰める。虚ろな眼で、天井を見上げた。
「今日の歌は最悪だな。歌姫さん。感情が全然入って無い」
鼻にかかる低音に乗った辛辣な言葉が、周りに重く反響して聞こえた。引かれるように振り向くと、少し離れた所に、ブラックの礼装に身を包んだジェラルドがいた。不意を突かれ、アンジュは慌てて平静を装う。
「……すみません」
「嫌だったんだろう? 何故、歌った?」
「仕方ないじゃないですか…… 仕事だもの」
次から次に来る詰問に、いつもの調子を守ろうと、精一杯、虚勢を張る。
「……仕事なら、何でもするのか? 壊れた機械みたいに歌うのが、君の仕事?」
「……!! どうして、そんなこと……!!」
とうとう、アンジュは激した。長い間、胸の奥底に秘めていた種火が一気に熱く滾り、めらめら、と燃え上がる。
「歌は、命を奪い合う為じゃない。生きる為にあるんです。そんな歌を歌うのが仕事、歌姫なら、私はなりたくない……ならなくて、いいです……!!」
心の箍が外れ、マリンブルーの瞳から、抑えられていた涙が、どっ、と溢れ出す。ジェラルドの前にも拘らず、アンジュは幼児のように顔を歪め、うっ……ふ……と嗚咽した。
「時代って、何ですか……? どうして、諦めないと……いけないんですか……」
この数ヶ月、ずっと抑えて隠し続けていた疑問、憤り、悲しみ、そして、激しい怒りが融け、溢れる。それを全て、彼にぶつけた。
そんなアンジュを、ずっと冷静な面持ちでジェラルドは凝視していた。出会ってから今まで、彼女が自分に軽く怒ったり膨れっ面をする様子は、何度か見た。
しかし、今は、心から叫び、喘ぎ、訴えるように慟哭している。そんな人間らしいとも言える激しい姿が、彼の瞳には、非常に美しく映った。こんなにも澄んだ怒りを表した人間を見ただろうか……
憎しみ、憤り、恨み…… 目の前の少女を占めている感情を爆発させた人間を、ジェラルドは何度も幼い頃から見てきた。理性を失い、理不尽な言動で相手を罵倒し、金切り声を撒き散らす。そんな、時に見苦しくも見える様が、何故、今はこんなにも貴く感じるのだろう……
目映く鮮烈な閃光が、全身から迸り、淡くも力強く揺らめくフレアが見える。全てを焼き尽くし無にする業火ではない。邪や魔を浄めるように射し込む、陽の灯だ。
すっ……と惹き寄せられるようにジェラルドは近づき、自身の両腕で躊躇いがちに、アンジュの華奢な身体を包んだ。恐々と、柔らかな蜜蝋色の髪に触れ、長い指でぎこちなく撫でる。
他人に抱かれた経験の無い彼女は、彼の思いがけない行為に動揺し、びくっ、と身体を強張らせた。が、何故か抵抗したいという気は起こらなかった。人の温もりに慣れない身体を通して、彼の不器用な優しさが、少しずつ、少しずつ、沁み入って来る。
「……それでいいんだ。君は、それで……いい」
不意に零れた、ジェラルドの真心の欠片が溶け、アンジュの耳元で穏やかに流れ、低く響く。再び、熱い涙が溢れ出し、彼の腕の中で、いつまでも泣きじゃくっていた。
……出会ってから半年以上。二人の心が、初めて寄り添い、通い合った夜だった。
もうじき、また真冬がやって来る。ロンドンの冬は、容赦なく冷え、心身を痛めつける。しかし、もっと残酷な時代の暗雲が、世界中を覆い尽くそうとしている今、これは悲劇の始まりなのだろうと、どこかで共に予感していた。
年の暮れ。秋のソロデビューがきっかけで、幸か不幸か、アンジュは貴族の間で、少しずつ名前が知られるようになっていった。楽団への依頼はますます増え、単独での仕事も、僅かだがもらえるようになったのだ。とはいえ、歌うのは戦争讃歌や国歌、無難な詠唱ばかりだったので、複雑な思いで仕事をこなしている。
ジェラルドとは、彼に抱き寄せられた日以来、以前とは違う意味で、妙に気まずくなってしまっていた。いつの間にか仲直り(?)し、また話すようにはなったが、お互いどこか気恥ずかしく、今までよりぎこちない。
彼の方は以前のようにからかいづらくなり、アンジュの方も言い返せなくなっていて、互いの様子を伺いながら、沈黙と隣り合わせで接する状態だった。とはいえ、いくら複雑でも、彼のおかげで自分を見失わず、今の仕事をこなせていると思っていたのだが、あの彼を、意識している自分に動揺している。
それは、ジェラルドも同じだった。彼女を抱き締めた時の心境が自身でも解らず、困惑していた。それ以前に、何故、気になって後を追ったのかさえ、解らないでいる。
ただ、放っておけなかった。見過ごせなかった。死んだように歌う彼女が心配になった……それだけだ。
――何故、あんな事をしたのだろう……
かつて無い自身の変化を受け入れられず、戸惑っていた。
とある日の稽古の休憩中。アンジュはクリスから声をかけられた。あの晩餐会の日以来、彼女は傷心の後輩を案じてか、何かと気遣ってくれる。しかし、何故かジェラルドとの事だけは相談出来ずにいた。
「貴女に手紙が来てるわよ」
一通の白い封筒を差し出される。美しい装飾が施してあり、一般的な市販物ではなさそうだ。
「……誰からですか?」
「分からないわ。差出人の名前が書いてないの。ラブレターじゃない?」
「えっ……」
封筒を受け取った彼女を茶化し、ふふっ、と笑って、クリスは部屋を出て行った。残されたアンジュは、恐る恐る、シーリングされた封を解き、封筒とお揃いの花柄の、白い便箋を開く。瞬間、品のある良い香りが、ほのかに漂ってきた。紙面には、達筆の美しい文字が並んでいる。
『懐かしい蜂蜜色のコアラへ…… 覚えていてくれてるかな……? フィリップ・ベルモントです』
「フィリップ!?」
不意打ちに遭った声に合わせ、心臓が飛び出るかと思った。本当に、あのフィリップ……? 慌てて、続きを読む。
『いきなり、こんな手紙が届いて、きっと驚いてるだろうね。迷惑かもしれないと思ったけど、どうしても、君に伝えたいことがあって。
……まず、アンジュ。頑張ってるんだね。君の名前は、フランスまで届いてるよ。貴族の友達に、君の事を聞いた時は、本当に驚いた。歌の勉強を始めてくれて、本当に嬉しいよ。
それから、あの時は本当にごめん。あんな事をした理由は詳しく言えないけど、決して君を嫌いになった訳じゃなかった。あの時は、ああして君と離れるしかなかった…… だけど、君を深く傷つけた事は本当に悪かったと思ってる』
相変わらず、温かく優しい彼の言葉に、嬉しさと懐かしさが湧いた。未だ疼く傷痕に沁み、涙が出そうになる。
――ありがとう……
『辛い時代になってきたけど、負けないで頑張ってね。僕も、祖国の為に頑張るよ。実は、この間、フランスの陸軍に志願しました。この手紙が届く頃には、訓練所にいると思います』
「志願兵……!?」
ショックで頭が真っ白になり、軽い眩暈で視界が揺らぐのを感じた。更に衝撃的な文面が、アンジュを襲う。
『もうすぐ、ドイツ軍との戦いに向け、出征します。妻のエレン(彼女と結婚しました)の居る祖国と、君の居るイギリスを守る為に、精一杯戦うつもり。
いつか大勢の人の前で歌う君の姿を、生で見られる日を楽しみにしているよ。その為にもきっと生きて帰って来る。それまで、どうか元気で』
書かれた内容が信じられず、暫くの間、呆然と立ち尽くした。
――フィリップが、出征……? しかも激戦地……!
そんな所に行ったら、生きて帰れる保証など無い事は、彼も解っているはずだ。いくら祖国の為とはいえ、どうして、わざわざそんな命の賭けに身を投じたのだろう……
戦争が始まったとはいえ、英国……ロンドンの暮らしは、以前とあまり変わらなかった。不況は続き、職を失った浮浪者や物乞いが増えていたが、街自体を攻撃される事はなかった。
その為か、開戦したという実感があまりなかったが、今、改めて、自分が戦争という非常事態の渦中にいるのだということを認識する。
――お願い…… どうか、どうか……無事に帰って来て……
アンジュは、遠く離れた彼の無事と武運を祈ると同時に、まだ仄かに彼への想いが残っている自身を実感する。しかし、今のフィリップは一人の女性の夫で、戦地に赴いている。どうしようもない距離が出来てしまったが、友人として、こうして大切に想ってくれている事に感謝しようと決めた。
その年の最後の夜。グラッドストーン公爵家では、新年を迎えるパーティーが催された。フィリップの手紙を読んでから、アンジュの精神はだいぶ落ち着きを取り戻していた。演奏会では変わらず戦歌を歌う日々で、その度に心を擦り減らしてはいるが、彼も激戦地で頑張っているのだから、と気を強く持てるようになったのだ。
そんな彼女の変化に気づいたジェラルドは、公演が終わった後、アンジュの肩を叩き、声をかけた。
「……ちょっと、いいか?」
改まった様子に少し動揺したが、彼に対し信頼に近いものを感じ始めていたアンジュは、後について行った。
暗い廊下を通り過ぎ、螺旋状の大階段の陰に来た時、ジェラルドは、足を止めて振り向いた。遠くからは、賑やかな宴の声が聞こえて来る。とはいえ、戦争中ということで、以前よりも控えめな感じではあったが。
「……何かあったのか?」
ずっと、よそよそしかった彼が、真剣な瞳で尋ねるので、アンジュは戸惑った。心を読まれているみたいで、少し怖くなる。
「え…… どうしてです、か……」
「最近……吹っ切れたように見えるから」
なんだかんだ言いながらも、自分を気遣ってくれている様子の彼に、フィリップの事を話そうと決めた。
「……ありがとうございます。実は、フィリップから手紙が来たんです。」
「フィリップ?」
初めて聞く名前に、すっ、と秀麗に伸びたジェラルドの眉が、ぴくり、と動く。
「オーストラリアにいた時に出来た友達で…… 今は結婚して、フランスにいるんですけど、この間、陸軍に志願したって知らせが来て……」
嬉しそうに、尚且つ、切なそうに話すアンジュを見て、自身の胸奥にちりつくような痛みが走るのを、ジェラルドは感じた。
「彼は激戦地で頑張ってるんだから、私も泣き言ばかり言わずに働こうと思ったんです」
「……そう」
理由が分からない、不穏なざわめきと動揺を努め隠しながら、なんとか冷静さを保つ。一方、話しているうちに嬉しくなったアンジュは、少し明るい口調に変わり、続けた。
「約束したんです。夢を忘れないで生きるって。だから、一人前の歌手になれるように、いつか彼に見てもらえるように歌ってるんです」
妙な苛立ちまでを覚え始めたジェラルドの中で、奥底に蠢く不可思議な塊が、ついに暴発した。あっという間に彼全体を乗っ取る。気づけば、至極冷たく、シビアな言葉が、口から飛び出していた。
「相変わらず甘いな。君は」
「え……?」
急に冷徹な物言いに変わったジェラルドに、アンジュは戸惑った。明かりを灯さない彼のダークグリーンの瞳が、暗闇の中で、いつになく鋭利な光線を放っていた。
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一方、そんな渦中のアンジュは、異次元のような客席に向かって丁寧にお辞儀をし、感覚の無い足で舞台から降りると、そっ、と会場を抜け出した。
隠れるように、人気の無い場所を必死に探す。ようやく、しん、と静まり返った薄暗い廊下に出た瞬間、冷たい壁に身体を気だるく預け、もたれた。泣きたいのに心は動かず、一滴も涙は出ない。視界が揺らぎ、意識は|朦朧《もうろう》としている。
次の演目が始まったのか陽気なメロディと歌声が、扉の向こうから周囲の壁に反響し、ざわざわと耳障りに聴こえてくる。今のアンジュには、自分を|嘲笑《あざわら》い、擦り切れた心を逆撫でされているようで、ひりひりした。
――私は、歌った。戦争讃歌を…… 戦争を盛り上げる為に、歌ったんだ……
ずっと、ずっとこれだけは……と大切に守ってきた、貴く綺麗な宝物を奪われただけでなく、自分自身で|汚《けが》し、盛大に壊させられた気分だった。鮮やかな血の色をしたドレスが、更に思考を闇に追い詰める。虚ろな|眼《め》で、天井を見上げた。
「今日の歌は最悪だな。歌姫さん。感情が全然入って無い」
鼻にかかる低音に乗った辛辣な言葉が、周りに重く反響して聞こえた。引かれるように振り向くと、少し離れた所に、ブラックの礼装に身を包んだジェラルドがいた。不意を突かれ、アンジュは慌てて平静を装う。
「……すみません」
「嫌だったんだろう? 何故、歌った?」
「仕方ないじゃないですか…… 仕事だもの」
次から次に来る詰問に、いつもの調子を守ろうと、精一杯、虚勢を張る。
「……仕事なら、何でもするのか? 壊れた機械みたいに歌うのが、君の仕事?」
「……!! どうして、そんなこと……!!」
とうとう、アンジュは激した。長い間、胸の奥底に秘めていた種火が一気に熱く滾り、めらめら、と燃え上がる。
「歌は、命を奪い合う為じゃない。生きる為にあるんです。そんな歌を歌うのが仕事、|歌姫《プロ》なら、私はなりたくない……ならなくて、いいです……!!」
心の|箍《たが》が外れ、マリンブルーの瞳から、抑えられていた涙が、どっ、と溢れ出す。ジェラルドの前にも拘らず、アンジュは幼児のように顔を歪め、うっ……ふ……と|嗚咽《おえつ》した。
「|時《・》|代《・》って、何ですか……? どうして、諦めないと……いけないんですか……」
この数ヶ月、ずっと抑えて隠し続けていた疑問、憤り、悲しみ、そして、激しい怒りが|融《と》け、溢れる。それを全て、彼にぶつけた。
そんなアンジュを、ずっと冷静な面持ちでジェラルドは凝視していた。出会ってから今まで、彼女が自分に軽く怒ったり膨れっ面をする様子は、何度か見た。
しかし、今は、心から叫び、喘ぎ、訴えるように慟哭している。そんな人間らしいとも言える激しい姿が、彼の|瞳《め》には、非常に美しく映った。こんなにも澄んだ|怒《・》|り《・》を表した人間を見ただろうか……
憎しみ、憤り、恨み…… 目の前の少女を占めている感情を爆発させた人間を、ジェラルドは何度も幼い頃から見てきた。理性を失い、理不尽な言動で相手を罵倒し、金切り声を撒き散らす。そんな、時に見苦しくも見える様が、何故、今はこんなにも貴く感じるのだろう……
|目映《まばゆ》く鮮烈な|閃光《ひかり》が、全身から|迸《ほとばし》り、淡くも力強く揺らめくフレアが見える。全てを焼き尽くし無にする業火ではない。|邪《じゃ》や魔を|浄《きよ》めるように射し込む、陽の|灯《あかり》だ。
すっ……と惹き寄せられるようにジェラルドは近づき、自身の両腕で躊躇いがちに、アンジュの華奢な身体を包んだ。恐々と、柔らかな蜜蝋色の髪に触れ、長い指でぎこちなく撫でる。
他人に抱かれた経験の無い彼女は、彼の思いがけない行為に動揺し、びくっ、と身体を強張らせた。が、何故か抵抗したいという気は起こらなかった。人の温もりに慣れない身体を通して、彼の不器用な優しさが、少しずつ、少しずつ、沁み入って来る。
「……それでいいんだ。君は、それで……いい」
不意に零れた、ジェラルドの真心の欠片が溶け、アンジュの耳元で穏やかに流れ、低く響く。再び、熱い涙が溢れ出し、彼の腕の中で、いつまでも泣きじゃくっていた。
……出会ってから半年以上。二人の心が、初めて寄り添い、通い合った夜だった。
もうじき、また真冬がやって来る。ロンドンの冬は、容赦なく冷え、心身を痛めつける。しかし、もっと残酷な時代の暗雲が、世界中を覆い尽くそうとしている今、これは悲劇の始まりなのだろうと、どこかで共に予感していた。
年の暮れ。秋のソロデビューがきっかけで、幸か不幸か、アンジュは貴族の間で、少しずつ名前が知られるようになっていった。楽団への依頼はますます増え、単独での仕事も、僅かだがもらえるようになったのだ。とはいえ、歌うのは戦争讃歌や国歌、無難な詠唱ばかりだったので、複雑な思いで仕事をこなしている。
ジェラルドとは、彼に抱き寄せられた日以来、以前とは違う意味で、妙に気まずくなってしまっていた。いつの間にか仲直り(?)し、また話すようにはなったが、お互いどこか気恥ずかしく、今までよりぎこちない。
彼の方は以前のようにからかいづらくなり、アンジュの方も言い返せなくなっていて、互いの様子を伺いながら、沈黙と隣り合わせで接する状態だった。とはいえ、いくら複雑でも、彼のおかげで自分を見失わず、今の仕事をこなせていると思っていたのだが、|あ《・》|の《・》|彼《・》を、意識している自分に動揺している。
それは、ジェラルドも同じだった。彼女を抱き締めた時の心境が自身でも解らず、困惑していた。それ以前に、何故、気になって後を追ったのかさえ、解らないでいる。
ただ、放っておけなかった。見過ごせなかった。死んだように歌う彼女が心配になった……それだけだ。
――何故、あんな事をしたのだろう……
かつて無い自身の変化を受け入れられず、戸惑っていた。
とある日の稽古の休憩中。アンジュはクリスから声をかけられた。あの晩餐会の日以来、彼女は傷心の後輩を案じてか、何かと気遣ってくれる。しかし、何故かジェラルドとの事だけは相談出来ずにいた。
「貴女に手紙が来てるわよ」
一通の白い封筒を差し出される。美しい装飾が施してあり、一般的な市販物ではなさそうだ。
「……誰からですか?」
「分からないわ。差出人の名前が書いてないの。ラブレターじゃない?」
「えっ……」
封筒を受け取った彼女を茶化し、ふふっ、と笑って、クリスは部屋を出て行った。残されたアンジュは、恐る恐る、シーリングされた封を解き、封筒とお揃いの花柄の、白い便箋を開く。瞬間、品のある良い香りが、ほのかに漂ってきた。紙面には、達筆の美しい文字が並んでいる。
『懐かしい蜂蜜色のコアラへ…… 覚えていてくれてるかな……? フィリップ・ベルモントです』
「フィリップ!?」
不意打ちに遭った声に合わせ、心臓が飛び出るかと思った。本当に、|あ《・》|の《・》フィリップ……? 慌てて、続きを読む。
『いきなり、こんな手紙が届いて、きっと驚いてるだろうね。迷惑かもしれないと思ったけど、どうしても、君に伝えたいことがあって。
……まず、アンジュ。頑張ってるんだね。君の名前は、フランスまで届いてるよ。貴族の友達に、君の事を聞いた時は、本当に驚いた。歌の勉強を始めてくれて、本当に嬉しいよ。
それから、あの時は本当にごめん。あんな事をした理由は詳しく言えないけど、決して君を嫌いになった訳じゃなかった。あの時は、ああして君と離れるしかなかった…… だけど、君を深く傷つけた事は本当に悪かったと思ってる』
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――ありがとう……
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ショックで頭が真っ白になり、軽い眩暈で視界が揺らぐのを感じた。更に衝撃的な文面が、アンジュを襲う。
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書かれた内容が信じられず、暫くの間、呆然と立ち尽くした。
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戦争が始まったとはいえ、英国……ロンドンの暮らしは、以前とあまり変わらなかった。不況は続き、職を失った浮浪者や物乞いが増えていたが、街自体を攻撃される事はなかった。
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その年の最後の夜。グラッドストーン公爵家では、新年を迎えるパーティーが催された。フィリップの手紙を読んでから、アンジュの精神はだいぶ落ち着きを取り戻していた。演奏会では変わらず戦歌を歌う日々で、その度に心を擦り減らしてはいるが、彼も激戦地で頑張っているのだから、と気を強く持てるようになったのだ。
そんな彼女の変化に気づいたジェラルドは、公演が終わった後、アンジュの肩を叩き、声をかけた。
「……ちょっと、いいか?」
改まった様子に少し動揺したが、彼に対し信頼に近いものを感じ始めていたアンジュは、後について行った。
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「……何かあったのか?」
ずっと、よそよそしかった彼が、真剣な|瞳《め》で尋ねるので、アンジュは戸惑った。心を読まれているみたいで、少し怖くなる。
「え…… どうしてです、か……」
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「フィリップ?」
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「オーストラリアにいた時に出来た友達で…… 今は結婚して、フランスにいるんですけど、この間、陸軍に志願したって知らせが来て……」
嬉しそうに、|尚且《なおか》つ、切なそうに話すアンジュを見て、自身の胸奥にちりつくような痛みが走るのを、ジェラルドは感じた。
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「……そう」
理由が分からない、不穏なざわめきと動揺を努め隠しながら、なんとか冷静さを保つ。一方、話しているうちに嬉しくなったアンジュは、少し明るい口調に変わり、続けた。
「約束したんです。夢を忘れないで生きるって。だから、一人前の歌手になれるように、いつか彼に見てもらえるように歌ってるんです」
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「相変わらず甘いな。君は」
「え……?」
急に冷徹な物言いに変わったジェラルドに、アンジュは戸惑った。明かりを灯さない彼のダークグリーンの|瞳《め》が、暗闇の中で、いつになく鋭利な光線を放っていた。