「わぁ、茶色い牛さんがいっぱいいる!」
島長一家は羽馴牧場に来ている。遠方に見える牛たちに、のりこは興奮している。
その牛たちは、体色からするとおそらくジャージー牛であろうか。
「りょうた、あの牛さんに向かって競走しよっ!?」
のりこは遥か遠くの牛を指差すと、勢いよく走り出す。そんな彼女の表情は嬉々としている。
「おねえちゃん、待ってよ!」
りょうたは仕方なくのりこの後を追う。彼としては、ゆったりと牧場を眺めていたかったが、姉に振り回されるのがお約束。二人は柵に沿って道を駆け抜けていく。
「二人とも、あんまりはしゃぐと危ないぞ!」
良行は二人へ注意を呼びかけるが、それより先に駆け出した二人が聞く耳を持つはずもない。
「しかし、羽馴島に牧場があったなんて知らなかったなぁ?」
この牧場の存在は、ほむら喫茶のマスターである恭治郎に教えてもらった。彼曰く、この牧場にはある名物が存在しているという。
「この島で、日本有数の国産コーヒー豆が生産されているって本当なのかしら? 聞いたことないわね」
恭治郎の話によると、この牧場では希少な国産コーヒー豆が生産されているという。生産地からも分かる通り、コーヒー豆の生産地はブラジルやエチオピアなどの南半球の国々に多い。
アジア圏でさえ、インドネシアやタイなどの東南アジアに生産国が集中している。日頃からコーヒーを嗜む京子たちでさえ、その存在を知らないほど国産コーヒー豆は希少価値が高い。
「俺も、東アジア地域でコーヒー豆が生産されているなんて聞いたことなかったしな?」
良行は当然のように言っているが、東アジア地域でも僅かながらコーヒー豆は生産されている。中国の雲南省、日本国内では沖縄や小笠原諸島などの温暖な地域が主な生産地である。しかし、いずれも生産者が少ないため希少なものとなっている。
「確か、マスターの話によると『羽馴ブルボン』って品種らしいな。でも、こんなの聞いたことないぞ?」
良行は国産コーヒー豆の存在に懐疑的だ。しかし、現物を知らない以上それも仕方ないのかもしれない。
「羽馴ブルボン......きっとお高いんでしょうね?」
ジャマイカのブルーマウンテンやハワイのコナなどの高級豆は高額で取引されており、豆の格付けによっては1杯5,000円となることもあるらしい。なお、ほむら喫茶では羽馴ブルボンをベースにコーヒー豆をブレンドしているが、二人は知る由もない。
「りょうた、遅いっ!!」
坂道の頂上付近で、のりこは腕を組みながらりょうたを待っていた。
「おねえちゃん、もう疲れた......」
傾斜が急で険しい道を全力疾走したりょうたは、早くも息を切らしている。しかし、のりこはそんな彼の様子など顧みる様子もない。
「しっかりしなさい! 困難は越えていくためにあるのよ!!」
いくら運動会の前に特訓したからと言って、牧場の急な傾斜とは比べ物にならない。加えて、足場は土であるため足元を掬われやすい。
「見てみなさい! ここにはサクランボがたくさん実っているの!」
のりこが指差す先に、果実を実らせた木々が群生している。しかし、りょうたはそれに違和感を持った。
「おねえちゃん......これ、サクランボじゃないよ??」
それは一見するとサクランボのような色合いをしているが、何だかブドウのように房になっている。りょうたは、そのことに違和感を抱いたのである。
「そんなわけないじゃない! きっとこれはサクランボよ!!」
のりこは、おもむろにその果実の1粒をもぎ取る。そして、勢いよくそれを口へ放り込む。
「......何これ!? 酸っぱいっ!!」
果実のあまりの酸っぱさに、のりこは堪えかねてそれを思い切り吐き出してしまった。苦悶の表情に満ちたのりこを無視して、りょうたは冷静にその身を口にする。
「確かに酸っぱい。しかも実が全然ない......」
果実を口にしたりょうたの顔も同様に引きつる。二人が口にしたのは、サクランボではなくコーヒーチェリーと呼ばれる果実である。
それは果肉がほぼないに等しく、果実の大半が種子である。コーヒー豆を味わうことはあっても、コーヒーの果実を食することがないのはこのためである。
「けれど、どことなく甘い香りがするんだよなぁ」
普段の私達が目にすることはないが、コーヒーチェリーの下処理にはウォッシュト製法とナチュラル製法の2つの製法がある。ウォッシュト製法は、洗浄することによってコーヒーチェリーから果肉を除去する製法である。
一方、ナチュラル製法は梅の如く果実を天日干しにしてから果肉を除去する製法である。りょうたのいう甘い香りは、このナチュラル製法によって引き出すことができる。そしてそれは、梅のような甘い香りを放つようになる。
「メェェェェェッ!!」
そんな二人の正面から、真っ白な何かが地面を踏み鳴らしながらやってきた。