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第39話 風と一緒に

ー/ー



 それは、島長夫妻がほむら喫茶へ来店する数時間前の話。店内ではロースターで焙煎中のコーヒー豆が踊り、独特の香薫が漂う。マスターは大量のコーヒー豆が入ったロースターを懸命に手回ししている。
「......邪魔するぞ、恭治郎」
 店内にスーツ姿の中年女性が来店した。建付けの悪い扉を慣れた手つきで開けた様子から、おそらく常連客なのかも知れない。
「誰かと思えばあなたですか。ここへ来るのは久しいですね?」
 マスターもとい恭治郎とも旧知の仲らしい。彼女は無遠慮にカウンターへ腰掛ける。
「恭治郎、いい加減あの扉直したらどうだ? 毎回開けにくくてかなわん」
 建付けの悪い扉に彼女は苛立っている。しかし、恭治郎は涼しい顔をしている。
「扉はあのままでいいんです。彼がここへ戻るまで、私はこの先何年でも待ちます」
 そう呟いて、恭治郎は遥か遠くを見つめる。その瞳の先に、彼の待ち人がいるのだろうか。
「ロースターだってそうだ。今時、炭火焙煎とは時代錯誤にも程があるだろう」
 コーヒー豆の焙煎は直火式・半熱風式・熱風式が主なものであるが、その中でも直火式はコーヒー豆と熱源が近く焙煎の調整が非常に難しい。裏を返せば、恭治郎の焙煎技術が洗練されているともいえる。
「直火焙煎こそ至高。もし彼がここへ戻って来た時に、至高の一杯がなければ失望してしまうでしょう?」
 恭治郎の胸元には、黄金のコーヒーマイスターバッジが輝いている。そんな彼の入れる一杯が至高であることは想像に難くない。
「あいつは本島で指折りの不動産会社の社長だぞ? そんなヤツが、ここへ帰郷するとは到底思えない」
 女性は恭治郎の言葉をバッサリと切り捨てる。恭治郎の言う彼は、女性とも共通の知人である口ぶりだ。
「そういうあなたはどうなんです? あなたは本島どころか、世界的大企業の役員ではないですか」
 恭治郎の返しもなかなかに鋭い。彼女は痛いところを突かれたのか、戸惑いを隠せない。
「お前も厳しいところを突くな。だが、アイツとは違う。私は......帰郷するタイミグを見失ってしまったんだ」
 女性の弁明には、苦しい胸の内が見え隠れする。恭治郎は、彼女の胸の内を見透かしているかのようだ。
「あの当時、私の会社が経営破綻に追い込まれたことは知っているだろう?」
 彼女は胸の内を明かしていく。その表情は苦悶に満ちている。
「日本が誇る電機メーカーの経営破綻......あれは、まさに寝耳に水でした」
 当時を懐古し、恭治郎は困惑を隠せない。ダイナマイトの爆破に耐えるテレビ、そんな代物を開発する技術を持つ大企業の経営破綻は誰が想像しただろうか?
「そして、間髪入れず通信企業ビッグバンによる買収騒動。今となっては、ベンチャー企業だったことが信じられないですね」
 恭治郎の言葉に女性はただ頷く。騒動の渦中にいた彼女の心境は穏やかでなかっただろう。
「経営破綻は数年前から予見されていた。しかし、次期役員を約束されていた私は引くに引けなくなってしまった。そこで手を引くことは、換言するなら伯父さんの顔に泥を塗ることになるからだ」
 信頼関係を構築することは一朝一夕といかない。その言葉は、会社役員となった彼女の経験によって裏打ちされている。
新星(にいぼし)会長のヘッドハンティングを受けたから良かったものの、そうでなければ私は今頃無職だ」
 経営破綻の情報がリークされたサンイン電器からは、秘密裏にヘッドハンティングが進められていた。奇しくも、彼女はその一人として抜擢されビッグバンの役員となったのである。
「そんな私は運命に翻弄され、何年も里帰りが出来なかった。おかげで、父の死に目に会う事さえ叶わなかったのだから。実家の家業は、あろうことか水商売をしていた秋子が後継していたんだ。それが信じられるか!?」
 女性は、自身が家督として家業を後継するつもりでいたらしい。しかし、それが他の姉妹に後継されたことは彼女にとって痛恨であったと見える。
「いいじゃないですか。親孝行な娘たちに愛されて、きっとお母様も幸せですよ?」
 彼女の恨み節など気にも留めず、恭治郎は静かに微笑む。いつもの眼光鋭い彼はどこへ行ってしまったのか。
「まあいい。私の終の棲家は羽馴島だ」
 彼女はあくまで、ここ羽馴島へ帰郷する意向のようだ。母を思うその気持ちは今でも変わらない。
「......そういえば、は宝の地図をどこへやったんだろうなぁ?」
 女性は、ふと思い出したように恭治郎へ問いかける。それを聞いて、彼はしばらく回想に耽る。
「そうですねぇ......。私も皆目見当が付きません」
 記憶の深層を辿るも、恭治郎は途中で断念した様子。そこまで古い記憶となると、おそらく少年時代の話になるのだろうか?
「しかし、あれが本当に宝だったのか。今となってはそれさえも曖昧ですね?」
 恭治郎の頬が緩む。彼の胸の奥底から、思い出し笑いが込み上げてくる。
「子供は、見つけたら何だって宝物さ!」
 いつしか女性も彼に釣られて笑ってしまう。彼らにとって、少年時代は輝かしい日々であったに違いない。


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 それは、島長夫妻がほむら喫茶へ来店する数時間前の話。店内ではロースターで焙煎中のコーヒー豆が踊り、独特の香薫が漂う。マスターは大量のコーヒー豆が入ったロースターを懸命に手回ししている。
「......邪魔するぞ、恭治郎」
 店内にスーツ姿の中年女性が来店した。建付けの悪い扉を慣れた手つきで開けた様子から、おそらく常連客なのかも知れない。
「誰かと思えばあなたですか。ここへ来るのは久しいですね?」
 マスターもとい恭治郎とも旧知の仲らしい。彼女は無遠慮にカウンターへ腰掛ける。
「恭治郎、いい加減あの扉直したらどうだ? 毎回開けにくくてかなわん」
 建付けの悪い扉に彼女は苛立っている。しかし、恭治郎は涼しい顔をしている。
「扉はあのままでいいんです。彼がここへ戻るまで、私はこの先何年でも待ちます」
 そう呟いて、恭治郎は遥か遠くを見つめる。その瞳の先に、彼の待ち人がいるのだろうか。
「ロースターだってそうだ。今時、炭火焙煎とは時代錯誤にも程があるだろう」
 コーヒー豆の焙煎は直火式・半熱風式・熱風式が主なものであるが、その中でも直火式はコーヒー豆と熱源が近く焙煎の調整が非常に難しい。裏を返せば、恭治郎の焙煎技術が洗練されているともいえる。
「直火焙煎こそ至高。もし彼がここへ戻って来た時に、至高の一杯がなければ失望してしまうでしょう?」
 恭治郎の胸元には、黄金のコーヒーマイスターバッジが輝いている。そんな彼の入れる一杯が至高であることは想像に難くない。
「あいつは本島で指折りの不動産会社の社長だぞ? そんなヤツが、ここへ帰郷するとは到底思えない」
 女性は恭治郎の言葉をバッサリと切り捨てる。恭治郎の言う彼は、女性とも共通の知人である口ぶりだ。
「そういうあなたはどうなんです? あなたは本島どころか、世界的大企業の役員ではないですか」
 恭治郎の返しもなかなかに鋭い。彼女は痛いところを突かれたのか、戸惑いを隠せない。
「お前も厳しいところを突くな。だが、アイツとは違う。私は......帰郷するタイミグを見失ってしまったんだ」
 女性の弁明には、苦しい胸の内が見え隠れする。恭治郎は、彼女の胸の内を見透かしているかのようだ。
「あの当時、私の会社が経営破綻に追い込まれたことは知っているだろう?」
 彼女は胸の内を明かしていく。その表情は苦悶に満ちている。
「日本が誇る電機メーカーの経営破綻......あれは、まさに寝耳に水でした」
 当時を懐古し、恭治郎は困惑を隠せない。ダイナマイトの爆破に耐えるテレビ、そんな代物を開発する技術を持つ大企業の経営破綻は誰が想像しただろうか?
「そして、間髪入れず通信企業ビッグバンによる買収騒動。今となっては、ベンチャー企業だったことが信じられないですね」
 恭治郎の言葉に女性はただ頷く。騒動の渦中にいた彼女の心境は穏やかでなかっただろう。
「経営破綻は数年前から予見されていた。しかし、次期役員を約束されていた私は引くに引けなくなってしまった。そこで手を引くことは、換言するなら伯父さんの顔に泥を塗ることになるからだ」
 信頼関係を構築することは一朝一夕といかない。その言葉は、会社役員となった彼女の経験によって裏打ちされている。
「|新星《にいぼし》会長のヘッドハンティングを受けたから良かったものの、そうでなければ私は今頃無職だ」
 経営破綻の情報がリークされたサンイン電器からは、秘密裏にヘッドハンティングが進められていた。奇しくも、彼女はその一人として抜擢されビッグバンの役員となったのである。
「そんな私は運命に翻弄され、何年も里帰りが出来なかった。おかげで、父の死に目に会う事さえ叶わなかったのだから。実家の家業は、あろうことか水商売をしていた秋子が後継していたんだ。それが信じられるか!?」
 女性は、自身が家督として家業を後継するつもりでいたらしい。しかし、それが他の姉妹に後継されたことは彼女にとって痛恨であったと見える。
「いいじゃないですか。親孝行な娘たちに愛されて、きっとお母様も幸せですよ?」
 彼女の恨み節など気にも留めず、恭治郎は静かに微笑む。いつもの眼光鋭い彼はどこへ行ってしまったのか。
「まあいい。私の終の棲家は羽馴島だ」
 彼女はあくまで、ここ羽馴島へ帰郷する意向のようだ。母を思うその気持ちは今でも変わらない。
「......そういえば、《《よしゆき》》は宝の地図をどこへやったんだろうなぁ?」
 女性は、ふと思い出したように恭治郎へ問いかける。それを聞いて、彼はしばらく回想に耽る。
「そうですねぇ......。私も皆目見当が付きません」
 記憶の深層を辿るも、恭治郎は途中で断念した様子。そこまで古い記憶となると、おそらく少年時代の話になるのだろうか?
「しかし、あれが本当に宝だったのか。今となってはそれさえも曖昧ですね?」
 恭治郎の頬が緩む。彼の胸の奥底から、思い出し笑いが込み上げてくる。
「子供は、見つけたら何だって宝物さ!」
 いつしか女性も彼に釣られて笑ってしまう。彼らにとって、少年時代は輝かしい日々であったに違いない。