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迫り来る狂想

ー/ー




「庭の方で声がしたから、少し気になってね。スコットさん、薔薇の調子はいかがです?」
「ああ、大丈夫ですよ。今年は、気候が良いからね」

 親しげに話す二人は、まるで昔ながらの友人のようである。ジェラルドの服装も、綿のシャツにサスペンダー付きの黒のトラウザーズパンツという、いつもよりラフな恰好だ。初めて見る穏やかな表情で、傍の薔薇を眺めている。

「あの……お二人は……」

 戸惑いながら尋ねるアンジュに、スコットと呼ばれた老人が説明した。

「ジェリー坊っちゃんは、昔から薔薇目当てで来て下さってるんですよ。他のご家族は見向きもされないんだがね」

 意外だった。いつも人を皮肉って拒絶している彼が、この美しい庭園を気にかけていたなんて。

「すごい…… この庭は、こんな人まで惹き付けるのね」

 思わず本音が漏れてしまったアンジュに、ジェラルドはまた苦笑した。

「随分だな。俺が花を好きじゃいけないのか?」
「いけなくないですけど……不自然です」

 不服そうに問う彼に、いつものお返し、とばかりに強気に返す。

(わし)は戻りますから、二人でゆっくりして下さい」

 そんなやり取りをする二人を見ていたスコットさんは、妙な気を利かせたのか、にこにこしながらそう告げ、屋敷に戻ってしまった。急に二人きりにされてしまい、アンジュは焦った。変な沈黙を避けようと、慌てて口を開く。

「あの、『ジェリー』って……?」
「俺の子供の頃の愛称。そう呼ぶのは、今ではスコットさんだけだけど。……それより、本当に反戦歌を歌うのか?」
「はい。作曲は団長で」

 意気込んで答える彼女に対し、ジェラルドは眉間を寄せた険しい表情に変わった。

「……何の為に?」
「え……?」

 唐突な予想外の問いに、アンジュは戸惑い、たじろぐ。

「もう、世界は大戦へと動き出してる。我が国も軍が防衛に備え始めてるらしい。今更、君が反戦歌を歌ったところで止まらない。無意味だと思わないか」

 彼のシビアな意見に息が止まり、言葉に詰まった。確かにそうかもしれない。自分一人の力で戦争は止められない。ただの自己満足に過ぎないのかもしれない。
 ……だけど、このままではいけない、という熱い思いが身体中を巡り、躍動していた。

「……それでもいい、です。一人でも沢山の人に、このポピーの話を知ってもらえたら……十分です」

 彼のダークグリーンの()を捉え、アンジュはきっぱりと答える。

「君の自由だけど……無駄な労力だな」

 冷ややかな視線を投げ、ジェラルドは屋敷の方へ帰って行った。唖然とした表情(かお)で立ち尽くすアンジュの胸の奥には、驚きと憤りがぐるぐる渦巻いている。

 ――無駄とか無駄じゃないとか……そういう問題じゃないでしょ……?
 ――さっきは、あんなに穏やかな表情(かお)をして薔薇を見てたのに、急に冷たい目になって……

 アンジュには、彼の事がよくわからなかった。しかし、これだけは改めて確信した。

 ――やっぱり…… あの人、苦手……!!

 屋敷に戻って行く彼の後ろ姿に向けて、珍しく顔を思い切りしかめた。
 一方、ジェラルドは、何故、あんな必死に反論したのか、自分でも分からず困惑していた。いつものように、少しからかうだけのつもりだった。軽く受け流して良かったのに。

「どうかしてるな……」

 ぎゅっ、と目を(つむ)り、戒めるように呟く。複雑な思いを振り切るかのように、足を急がせた。


 瞬く間に時は過ぎ、季節は九月初頭……待ち望んだ秋に入った。とはいえ、赤道から遥か遠いイギリスに吹いてくる風は、既にひんやりとしている。春から夏の間、国内の空気は、ジェラルドが言った通り、少しずつ重々しく、物騒になっていった。
 『空襲監視員』という国公認の団体が、ドイツ軍からの襲撃に備え、街中で様々な準備をし始めたのだ。警笛やサイレンに合わせての避難訓練が行われ、地下シェルターの建設が始まり、ガスマスクまでが配られ出した。毒ガスによるテロ攻撃に備える為だ。
 アンジュ達の居る街も例外ではなかった。楽団のある建物にも、訓練の案内やガスマスクの使い方を教えに来る人間がやって来る。とりあえず従ってはいたが、グラッドストーン家での公演が評判となり、ますます忙しくなったワグネル楽団は、正直な話、それどころではなかった。断らなかったら、毎日のように仕事が舞い込んで来る状況だ。
 そんな温度差の激しい日々を送り、アンジュは複雑な思いを抱えながらも、忙しい合間に歌詞を懸命に考えた。団長に曲を付けてもらい、いよいよ発表という段階に入る。
 ジェラルドとはあれから気まずく、アンジュは勿論、彼の方からも、あまり話しかけて来ないでいる。安堵する反面、胸に穴が空いたような気分になっている自身に戸惑っていた。
 あちこちから翻弄される気持ちの悪い日々だったが、別の貴族の屋敷に招かれた帰り道。他の団員達から少し離れ、一人で歩いていたアンジュは、ふと、思った。

 ――こんなに(ひと)りを意識したのは、久しぶりかもしれない……

 クリスは売れっ子なので、単独での仕事も多く、いつも一緒にいられる訳ではなかったし、団員達には『公爵家の次男坊に取り入った』と、噂されるようになり、相変わらず浮いていた。
 貴族の屋敷に招かれた時も、お客様と仕事として話す以外は、大体一人で過ごしていた。グラッドストーン家での公演以外は…… あそこでは、いつもジェラルドが何かとからかって来たから、アンジュは独りにならずに済んでいたのだ。

 ――もしかしたら、私がいつも一人でいるから気にかけてくれてた……?

 思い過ごしかもしれない。しかし、彼のおかげで、寂しい思いをすることが少なかったのは事実だった。しかし、お礼を言うにしても、『何の事だ? 自意識過剰だな』と鼻で笑われるのが関の山だと考え、躊躇(ためら)っていたのだ。気まずくなってしまったことも、原因の一つだったが……

 考え事をしてる間に、気づくと団員達からかなり離れてしまっていた。追いつこうと、慌てて駆け出した時――

「号外!! 号外!!」

 けたたましく張り上げた掛け声と共に、幾枚もの白い紙が、辺り一面に舞い上がった。
 はらはら、と石畳の歩道にビラの雨が降り、落ち葉と混じ入る。

「開戦だ!! ついに戦争が始まった!!」

 とんでもない情報に、慌てて足元に落ちたものを一枚拾い、印刷された文字を追う。――呼吸が、止まった。

『ドイツ軍、ポーランドに侵略!! これによって、ポーランドと協定を結んでいた、我が国もフランスと共に、ドイツとイタリアに宣戦布告!!』

 ――英国が、ドイツと戦争……!!

 視界が、一気に真っ暗になった気がした。膝が震え、足元がぐらつく。信じたくない現実。悪い夢なら今すぐ覚めて欲しいと願った。それに、フランスはフィリップの故郷である……
 他の団員達も、同じビラを手に、真っ青な顔をして立ち尽くしている。くしゃ、とビラを握りしめ、アンジュは、思わず空を見上げた。相変わらずの晴天だ。いつもと何も変わらない、少し霞んだブルーのロンドンの空。
 しかし、たった今、世界で戦争が始まったのだ。そして、自分が今居るこの国も、その戦いに参加しようとしている。何かが確実に変わっていく。それも悪い方へ。しかし、これは紛れもなく、自身に起こっている現実だ。

 瞬間、あの庭園で見た、ポピー畑が脳裏に浮かんだ。ポピーの朱に染まった絨毯が広がり、ロンドンの青い空が、アンジュの頭上で、たちまち(くれない)に染まっていく。
 ……まるで血と炎で埋め尽くされた、凄惨な戦場のように見えた。


 開戦を知らせるビラが撒かれてから数日後、アンジュは団長に呼び出され、とんでもない事を稽古場で告げられた。

「……今、何て……」

 耳を疑い、真っ青な顔でもう一度尋ねる。

「言った通りだ。我が国も参戦する事態になった今、反戦歌を歌うのはまずいのだ。よって、これからは君にも戦争讃歌や国歌を歌ってもらう。勿論、他のメンバーもだ」

 一気に血の気が引き、その場から突き落とされるような感覚に襲われた。軽い眩暈で視界がぐらつく。今年の春、グラッドストーン家の庭園でポピーの逸話をスコットさんから知り、一生懸命作った歌詞が……歌えない。
 しかも、反戦歌と正反対の趣旨の、戦争讃歌をこれからは歌わされる。あれほど待ち望んでいた独唱(ソロ)で、だ。スコットさんに、聴いてもらう約束だったのに……

「君のソロデビューの日にしていた、グラッドストーン家での晩餐会まで、悪いがあまり時間がない。急遽、戦歌を作詞してくれ」

 さらなる追い討ちに、心臓を引き裂かれた気がした。暗く重い声が、自然に零れる。

「……嫌、です」
「何だと?」

 団長は声を荒げたが、構わずアンジュは反論する。

「絶対に嫌です。戦争讃歌なんて作れないし、無理です。歌えません!!」
「アンジェリーク!!」

 怒りを(あらわ)にした団長に気圧(けお)され尻込みしたが、気持ちは変わらない。それでは、スコットさんとの約束を破るどころか、彼の傷に塩を塗るような真似をすることになる。団長を怒らせても、これだけはどうしても譲れなかった。

「これは趣味じゃない。仕事……ビジネスだ。個人的な私情も、我が儘も通用しない。……言うべき時を伺っていたが、お前をスカウトする時の条件が、孤児院への多額の寄付だったのだ。それだけ、お前には期待しているのだよ。アンジェリーク」
「…………!!」

 幼く無知だった為、当時はわからないでいたが、あの頃も今も、世界的な大不況で、大抵の一般人は、貧しさと飢えが当たり前の生活だった。こちらに来てから何となく察していたが、やはり、自分は売られたも同然だったのだと実感する。悔しげに唇を噛みしめ、アンジュは泣くのを堪えた。
 どうすることも出来ない現実。それでも、歌を捨てる事は出来ない。無力な自分が情けなく、歯痒(はがゆ)い……

「今はこういう時代なのだ。諦めろ。どうしても無理なら、代わりの歌を用意する。お前は稽古に集中しろ」

 彼女を一瞥(いちべつ)し、団長は部屋を出て行った。同時に、アンジュの眼から堪えていた涙が、頬をつたい流れる。

 ――スコットさん、ごめんなさい……

 その場に崩れ落ち、声を上げられないまま、顔を覆った。


 結局、アンジュの作詞デビューは無くなり、団長が勧めた、昔からある普遍的(ポピュラー)な戦歌を歌う事になり、練習を余儀なくされた。
 今までも厳しいレッスンはあったが、歌を歌っていて、こんなにも精神的にきつい状況は初めてだ。なかなか稽古に身が入らなく、教官に何度も叱られ、怒鳴られる日々。身を裂かれ、心を(えぐ)られる瞬間の連続で……拷問のようだった。

 そしてグラッドストーン家の晩餐会当日。アンジュの心境に反し、開戦してから初の晩餐会である会場の空気は、妙な緊張感がありつつ、心ここに(あら)ずといった様子で浮き立っている。
 アンジュの今夜の衣装は、いつもの傾向とはまるで違うビビッドレッド。それも、あのポピーの花というよりは、真っ赤な鮮血の色だ。
 完全に心を殺したまま舞台に上がる。会場の隅に立つ、ジェラルドと久しぶりに目が合った。彼は、相変わらず無表情で、その深い緑の()からは何も読み取れず、何を考えているのか、相変わらず真意は判らない。
 しかし、『だから言っただろう』と、彼が自分に呆れ、責められている気がして、アンジュは反射的に視線を反らした。

 ババーン!! という、勢いづいた前奏が会場に鳴り響き、()しくも彼女のソロデビューが始まる。が、当人は喜ぶどころか、悲しみと憤りで心臓が張り裂けそうだった。普段より一オクターブは低い、雄々しいメロディも、勇ましい歌詞も、彼女にとっては拷問でしかない為、その表情(かお)には、明らかに悲哀と苦しみが表れている。
 戦歌というよりは、透明感ある澄んだ声をした精霊の、叙情的な切なる叫びのような……哀歌(エレジー)と化していた。
 吐き切るように歌い終わると、凄まじいスタンディングオベーションになった。演目が終わっても、会場が割れるような拍手が、なかなか鳴り止まない。勇ましくはなかったが、アンジュの危機迫る情念溢れる様と、儚くも痛切な歌声が、今時世の観客の心に、深く……響いたのだった。


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「庭の方で声がしたから、少し気になってね。スコットさん、薔薇の調子はいかがです?」
「ああ、大丈夫ですよ。今年は、気候が良いからね」
 親しげに話す二人は、まるで昔ながらの友人のようである。ジェラルドの服装も、綿のシャツにサスペンダー付きの黒のトラウザーズパンツという、いつもよりラフな恰好だ。初めて見る穏やかな表情で、傍の薔薇を眺めている。
「あの……お二人は……」
 戸惑いながら尋ねるアンジュに、スコットと呼ばれた老人が説明した。
「ジェリー坊っちゃんは、昔から薔薇目当てで来て下さってるんですよ。他のご家族は見向きもされないんだがね」
 意外だった。いつも人を皮肉って拒絶している彼が、この美しい庭園を気にかけていたなんて。
「すごい…… この庭は、こんな人まで惹き付けるのね」
 思わず本音が漏れてしまったアンジュに、ジェラルドはまた苦笑した。
「随分だな。俺が花を好きじゃいけないのか?」
「いけなくないですけど……不自然です」
 不服そうに問う彼に、いつものお返し、とばかりに強気に返す。
「|儂《わし》は戻りますから、二人でゆっくりして下さい」
 そんなやり取りをする二人を見ていたスコットさんは、妙な気を利かせたのか、にこにこしながらそう告げ、屋敷に戻ってしまった。急に二人きりにされてしまい、アンジュは焦った。変な沈黙を避けようと、慌てて口を開く。
「あの、『ジェリー』って……?」
「俺の子供の頃の愛称。そう呼ぶのは、今ではスコットさんだけだけど。……それより、本当に反戦歌を歌うのか?」
「はい。作曲は団長で」
 意気込んで答える彼女に対し、ジェラルドは眉間を寄せた険しい表情に変わった。
「……何の為に?」
「え……?」
 唐突な予想外の問いに、アンジュは戸惑い、たじろぐ。
「もう、世界は大戦へと動き出してる。我が国も軍が防衛に備え始めてるらしい。今更、君が反戦歌を歌ったところで止まらない。無意味だと思わないか」
 彼のシビアな意見に息が止まり、言葉に詰まった。確かにそうかもしれない。自分一人の力で戦争は止められない。ただの自己満足に過ぎないのかもしれない。
 ……だけど、このままではいけない、という熱い思いが身体中を巡り、躍動していた。
「……それでもいい、です。一人でも沢山の人に、このポピーの話を知ってもらえたら……十分です」
 彼のダークグリーンの|瞳《め》を捉え、アンジュはきっぱりと答える。
「君の自由だけど……無駄な労力だな」
 冷ややかな視線を投げ、ジェラルドは屋敷の方へ帰って行った。唖然とした|表情《かお》で立ち尽くすアンジュの胸の奥には、驚きと憤りがぐるぐる渦巻いている。
 ――無駄とか無駄じゃないとか……そういう問題じゃないでしょ……?
 ――さっきは、あんなに穏やかな|表情《かお》をして薔薇を見てたのに、急に冷たい目になって……
 アンジュには、彼の事がよくわからなかった。しかし、これだけは改めて確信した。
 ――やっぱり…… あの人、苦手……!!
 屋敷に戻って行く彼の後ろ姿に向けて、珍しく顔を思い切りしかめた。
 一方、ジェラルドは、何故、あんな必死に反論したのか、自分でも分からず困惑していた。いつものように、少しからかうだけのつもりだった。軽く受け流して良かったのに。
「どうかしてるな……」
 ぎゅっ、と目を|瞑《つむ》り、戒めるように呟く。複雑な思いを振り切るかのように、足を急がせた。
 瞬く間に時は過ぎ、季節は九月初頭……待ち望んだ秋に入った。とはいえ、赤道から遥か遠いイギリスに吹いてくる風は、既にひんやりとしている。春から夏の間、国内の空気は、ジェラルドが言った通り、少しずつ重々しく、物騒になっていった。
 『空襲監視員』という国公認の団体が、ドイツ軍からの襲撃に備え、街中で様々な準備をし始めたのだ。警笛やサイレンに合わせての避難訓練が行われ、地下シェルターの建設が始まり、ガスマスクまでが配られ出した。毒ガスによるテロ攻撃に備える為だ。
 アンジュ達の居る街も例外ではなかった。楽団のある建物にも、訓練の案内やガスマスクの使い方を教えに来る人間がやって来る。とりあえず従ってはいたが、グラッドストーン家での公演が評判となり、ますます忙しくなったワグネル楽団は、正直な話、それどころではなかった。断らなかったら、毎日のように仕事が舞い込んで来る状況だ。
 そんな温度差の激しい日々を送り、アンジュは複雑な思いを抱えながらも、忙しい合間に歌詞を懸命に考えた。団長に曲を付けてもらい、いよいよ発表という段階に入る。
 ジェラルドとはあれから気まずく、アンジュは勿論、彼の方からも、あまり話しかけて来ないでいる。安堵する反面、胸に穴が空いたような気分になっている自身に戸惑っていた。
 あちこちから翻弄される気持ちの悪い日々だったが、別の貴族の屋敷に招かれた帰り道。他の団員達から少し離れ、一人で歩いていたアンジュは、ふと、思った。
 ――こんなに|独《ひと》りを意識したのは、久しぶりかもしれない……
 クリスは売れっ子なので、単独での仕事も多く、いつも一緒にいられる訳ではなかったし、団員達には『公爵家の次男坊に取り入った』と、噂されるようになり、相変わらず浮いていた。
 貴族の屋敷に招かれた時も、お客様と仕事として話す以外は、大体一人で過ごしていた。グラッドストーン家での公演以外は…… あそこでは、いつもジェラルドが何かとからかって来たから、アンジュは独りにならずに済んでいたのだ。
 ――もしかしたら、私がいつも一人でいるから気にかけてくれてた……?
 思い過ごしかもしれない。しかし、彼のおかげで、寂しい思いをすることが少なかったのは事実だった。しかし、お礼を言うにしても、『何の事だ? 自意識過剰だな』と鼻で笑われるのが関の山だと考え、|躊躇《ためら》っていたのだ。気まずくなってしまったことも、原因の一つだったが……
 考え事をしてる間に、気づくと団員達からかなり離れてしまっていた。追いつこうと、慌てて駆け出した時――
「号外!! 号外!!」
 けたたましく張り上げた掛け声と共に、幾枚もの白い紙が、辺り一面に舞い上がった。
 はらはら、と石畳の歩道にビラの雨が降り、落ち葉と混じ入る。
「開戦だ!! ついに戦争が始まった!!」
 とんでもない情報に、慌てて足元に落ちたものを一枚拾い、印刷された文字を追う。――呼吸が、止まった。
『ドイツ軍、ポーランドに侵略!! これによって、ポーランドと協定を結んでいた、我が国もフランスと共に、ドイツとイタリアに宣戦布告!!』
 ――英国が、ドイツと戦争……!!
 視界が、一気に真っ暗になった気がした。膝が震え、足元がぐらつく。信じたくない現実。悪い夢なら今すぐ覚めて欲しいと願った。それに、フランスはフィリップの故郷である……
 他の団員達も、同じビラを手に、真っ青な顔をして立ち尽くしている。くしゃ、とビラを握りしめ、アンジュは、思わず空を見上げた。相変わらずの晴天だ。いつもと何も変わらない、少し霞んだブルーのロンドンの空。
 しかし、たった今、世界で戦争が始まったのだ。そして、自分が今居るこの国も、その戦いに参加しようとしている。何かが確実に変わっていく。それも悪い方へ。しかし、これは紛れもなく、自身に起こっている現実だ。
 瞬間、あの庭園で見た、ポピー畑が脳裏に浮かんだ。ポピーの朱に染まった絨毯が広がり、ロンドンの青い空が、アンジュの頭上で、たちまち|紅《くれない》に染まっていく。
 ……まるで血と炎で埋め尽くされた、凄惨な戦場のように見えた。
 開戦を知らせるビラが撒かれてから数日後、アンジュは団長に呼び出され、とんでもない事を稽古場で告げられた。
「……今、何て……」
 耳を疑い、真っ青な顔でもう一度尋ねる。
「言った通りだ。我が国も参戦する事態になった今、反戦歌を歌うのはまずいのだ。よって、これからは君にも戦争讃歌や国歌を歌ってもらう。勿論、他のメンバーもだ」
 一気に血の気が引き、その場から突き落とされるような感覚に襲われた。軽い眩暈で視界がぐらつく。今年の春、グラッドストーン家の庭園でポピーの逸話をスコットさんから知り、一生懸命作った歌詞が……歌えない。
 しかも、反戦歌と正反対の趣旨の、戦争讃歌をこれからは歌わされる。あれほど待ち望んでいた|独唱《ソロ》で、だ。スコットさんに、聴いてもらう約束だったのに……
「君のソロデビューの日にしていた、グラッドストーン家での晩餐会まで、悪いがあまり時間がない。急遽、戦歌を作詞してくれ」
 さらなる追い討ちに、心臓を引き裂かれた気がした。暗く重い声が、自然に零れる。
「……嫌、です」
「何だと?」
 団長は声を荒げたが、構わずアンジュは反論する。
「絶対に嫌です。戦争讃歌なんて作れないし、無理です。歌えません!!」
「アンジェリーク!!」
 怒りを|顕《あらわ》にした団長に|気圧《けお》され尻込みしたが、気持ちは変わらない。それでは、スコットさんとの約束を破るどころか、彼の傷に塩を塗るような真似をすることになる。団長を怒らせても、これだけはどうしても譲れなかった。
「これは趣味じゃない。仕事……ビジネスだ。個人的な私情も、我が儘も通用しない。……言うべき時を伺っていたが、お前をスカウトする時の条件が、孤児院への多額の寄付だったのだ。それだけ、お前には期待しているのだよ。アンジェリーク」
「…………!!」
 幼く無知だった為、当時はわからないでいたが、あの頃も今も、世界的な大不況で、大抵の一般人は、貧しさと飢えが当たり前の生活だった。こちらに来てから何となく察していたが、やはり、自分は売られたも同然だったのだと実感する。悔しげに唇を噛みしめ、アンジュは泣くのを堪えた。
 どうすることも出来ない現実。それでも、歌を捨てる事は出来ない。無力な自分が情けなく、|歯痒《はがゆ》い……
「今はこういう時代なのだ。諦めろ。どうしても無理なら、代わりの歌を用意する。お前は稽古に集中しろ」
 彼女を|一瞥《いちべつ》し、団長は部屋を出て行った。同時に、アンジュの眼から堪えていた涙が、頬をつたい流れる。
 ――スコットさん、ごめんなさい……
 その場に崩れ落ち、声を上げられないまま、顔を覆った。
 結局、アンジュの作詞デビューは無くなり、団長が勧めた、昔からある|普遍的《ポピュラー》な戦歌を歌う事になり、練習を余儀なくされた。
 今までも厳しいレッスンはあったが、歌を歌っていて、こんなにも精神的にきつい状況は初めてだ。なかなか稽古に身が入らなく、教官に何度も叱られ、怒鳴られる日々。身を裂かれ、心を|抉《えぐ》られる瞬間の連続で……拷問のようだった。
 そしてグラッドストーン家の晩餐会当日。アンジュの心境に反し、開戦してから初の晩餐会である会場の空気は、妙な緊張感がありつつ、心ここに|非《あら》ずといった様子で浮き立っている。
 アンジュの今夜の衣装は、いつもの傾向とはまるで違うビビッドレッド。それも、あのポピーの花というよりは、真っ赤な鮮血の色だ。
 完全に心を殺したまま舞台に上がる。会場の隅に立つ、ジェラルドと久しぶりに目が合った。彼は、相変わらず無表情で、その深い緑の|瞳《め》からは何も読み取れず、何を考えているのか、相変わらず真意は判らない。
 しかし、『だから言っただろう』と、彼が自分に呆れ、責められている気がして、アンジュは反射的に視線を反らした。
 ババーン!! という、勢いづいた前奏が会場に鳴り響き、|奇《く》しくも彼女のソロデビューが始まる。が、当人は喜ぶどころか、悲しみと憤りで心臓が張り裂けそうだった。普段より一オクターブは低い、雄々しいメロディも、勇ましい歌詞も、彼女にとっては拷問でしかない為、その|表情《かお》には、明らかに悲哀と苦しみが表れている。
 戦歌というよりは、透明感ある澄んだ声をした精霊の、叙情的な切なる叫びのような……|哀歌《エレジー》と化していた。
 吐き切るように歌い終わると、凄まじいスタンディングオベーションになった。演目が終わっても、会場が割れるような拍手が、なかなか鳴り止まない。勇ましくはなかったが、アンジュの危機迫る情念溢れる様と、儚くも痛切な歌声が、今時世の観客の心に、深く……響いたのだった。