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8

ー/ー



その日、俺は半年以上ほったらかしていた電音研に顔を出した。
「西村先輩! ようやく引きこもりを卒業ですか」
「やかましい」
 せっかく謝ろうと思って真面目な顔をして行ったのに、真っ先に俺に気づいた莉子は軽口を叩いた。溜め息をついて「すまなかった」と謝る。「そんなの気にしてないです」と言って手を振る莉子。
 メンバーにも挨拶する。全部で十人にも満たない小規模なサークルだが、それゆえアットホームで居心地はいい。藤井が才能を発揮し出してからは、俺は遠ざかってしまったけれど。
「先輩、ちょっと私の聞いてくださいよ」
 莉子がせっついてくる。
「ギターのソロがいまいちなんですよね」
「いいけど、新曲作ってるのか?」
「はい。ネットに投稿予定です」
 ノートPCから伸びるヘッドフォンを受け取る。後輩にも抜かされていく現状。暗い感情を隠すために気前よく承諾する。
「そうだな、ちょっとリズムいじっていいか?」
「一応別で保存してくださいね」
 画面に映し出されたシーケンサを見て、ちょちょいとリズムだけ変えて、表情をつけてやる。再生して確認。
「なんか急にかっこよくなりました。年の功ですね」
「一つしか違わないだろ」
「見た目は二十代後半ですよ。このまえは三十代でしたけど」
「そもそもなんでこんなの作ってるんだよ? お前、バラード専門じゃなかったのか?」
 莉子の作風は切ないメロディで盛り上げるものばかりだったと記憶している。バラード職人なのだ。
「先輩、決め付けないでくださいよ。私の可能性は無限大ですよ」
「人にすがっておいて、どの口が言うか」
「いいんですよ。言葉は現実化するんですから」
 頭の中で何かが弾けた。
「今の言葉っ……!」
 妙な感覚だった。逸る気持ちを抑えることができず、莉子に覆いかぶさるほど身を乗り出す。
「どうしてそれを」
「ど、どうしてって、実は藤井さんから聞いたんです。いい言葉でしょ?」
 莉子は一旦身を引いたが、得意げに胸を張った。
「他には何か言ってなかったか」
「え? そうですね……言葉は現実化する。それから、そう。バラードしか作らないなんて言ってたら、その枠にハマってしまいます。枠からはみださなきゃダメなんです。そうやって進んできたから、ここまで来れたんだ、って」
 降り積もった雪が解けて水になり、その流れが一筋の小川を作るように、俺の中に一本の筋が通る。雪の下から顔を出したのは、鮮やかな緑。俺がずっと目を背け続けていたまぶしさだった。
 ――そうか。
 だからヘルメンなのだ。
 そして藤井にヘルメンと言わせたのは、俺だ。
「先輩……?」
 莉子が心配そうに俺を見ている。その頭にぽんと手を乗せた。
「悪いけど帰る」
「え、でも、今来たばかりじゃないですか」
「すまん。やることができた。今すぐにでもやりたいんだ」
 莉子の頭に乗せた手がうずいているのが分かる。莉子はやれやれと溜め息をつき、知ったような顔で「分かりましたよ」と言った。
 俺は電音研を後にした。自然と歩みが速くなり、走り出していた。息を切らしてアパートに戻ってくると、パソコンを起動する。ディスプレイには古いビデオ映像みたいな線が明滅して何が映っているのか分かりもしない。
「映れ。映れ!」
 がんがん叩いた。
「俺がお前の遺志を継ぐ。曲を完成させる! 一生に一度だけでいい! この曲だけでいい! 完成させる! だから映れ!」
 藤井がいるわけでもないのにそう叫んでいた。他人が見たら気でも狂ったかと思うだろう。だけど何度も何度も叫び、叩いた。
 古来、この国では言葉は言霊(ことだま)と呼ばれ、精霊が宿ると考えられていたらしい。言葉は特別な力を持っており、それ自体が神様のようなものなのだ。
 この木造二階建てのボロ臭い六畳間にも、言葉の神様はいてくれるだろうか――。
 いきなり画面がぐにゃりと歪んだかと思うと、デスクトップが綺麗に映った。俺はそっと手を離す。時々映像が歪むとはいえ、作業できないほどではない。
 ――もう少しだけ頼む。
 藤井が残した曲のデータを開く。パソコンが完全におしゃかになったときのために、USBにも元データを保存。DAWソフトを開き、どんどんシーケンサに音を打ち込んでいく。
 お前は馬鹿だ。俺みたいな、口先だけの野郎の言うことを真に受けて、担当さんが考えたキャッチフレーズを却下するなんて。
 お前のほうが音楽の才能も情熱もあった。人を惹きつける力を持っていた。だから俺の言葉なんて聴かずにどこまでも進んでいればよかったのに。俺の意見なんか求めないで、やりたいようにやればよかったのに。
 俺は夢のために努力もしないでお前に嫉妬してばかりだった。挙句、お前を裏切ったようなものだ。
「すまん。……すまん」
 謝罪が漏れた。後悔で胸がいっぱいになり、持ちきれない感情を吐き出すように何重にも音を打ち込みまくった。セオリーや理論で音を打ち込んでなどいなかった。ただ頭に「やれ」という声と意思とが流れ込んでくる。羽ばたくことをやめた鳥が落下してしまうように、音を打ち込むことをやめたら、きっとそれは停止してしまい、それまでのように思えたのだ。羽ばたくのがうまいとか下手だとか言っている暇もない。目的地に辿り着くためには休まず羽ばたくしかないのだ。
 ただただ一晩中、音楽と格闘し続けた。陽は高く昇っていた。
『先日言っていた、あいつの最後の曲、送ります。それから、もしよかったら、その曲をアレンジして俺が作ったのも、聴いてもらえませんか。まだ歌詞がないんですが』
 綾乃さんにメッセージを送ったが、返ってこなかった。社会人は俺と違って平日の昼間は忙しい。
 夜まで寝た。
 子供が寝る時間に起きると、綾乃さんから返事が来ていた。
『西村くん、ありがとう。チャットに入りますね』
 二時間ほど前のメッセージだったが、綾乃さんはまだインしていた。
『すみません、寝ちゃってました』
『こんばんは。こんな時間に昼寝ですか?』
『割とがっつり。曲を作り出して気づいたら徹夜してました』
『藤井くんもよくそんなことしてましたよ』
 そうか、あいつも作曲のために徹夜したことがあったのか。俺はなんだか、自分が人気アーティストに一歩だけ近づいたような気がして嬉しくなった。だけど恥ずかしいのでさらっと本題に進んだ。
『件の曲、貼りますね』
『西村くんが作った曲、私が聴いてもいいのですか。初めてですよね?』
 そう。これは俺の処女作でもある。歌詞はまだないが、曲のほうは完成している。
『お願いします』
 俺は二つのデータをドラッグ&ドロップした。



「それにしても、再生数、どこまで行くんだか」
 四宮(しのみや)さんが濃い髭をいじりながら呆れたように呟いた。アニメスタジオの休憩室には、今、俺とプロデューサーの四宮さん、二人きりしかいない。
「三百万強? 四百は行ってないよね?」
「ええ、伸び方も鈍くなってますし……」
 俺は最近の再生数の推移グラフを思い出して答えた。
「正直、ここまで行くとは思ってなかったですよ」
「西村くん、この企画がうまく行っても、本当にもう曲を書かないの?」
「すみません、書かないって決めたんです。これ完成させたとき、俺の役目は終わったっていう気がして」
「もったいないなあ」
 四宮さんのサングラス越しの目線が痛かった。俺は笑って誤魔化す。
 藤井が残した最後の楽曲を俺がアレンジして発表した。もちろん藤井の未発表楽曲のアレンジだということも明言している。最初はパクリだとか藤井の曲を汚すなとか、一部の攻撃的なファンから非難を浴びもしたが、悪い意味でもいい意味でも話題になり、拡散されたおかげで、その動画は見る見る再生数が伸び、気づけばミリオンヒット。曲の世界観を生かしたショートアニメ化の話が来た。
「それにしても、どうしてタイトルが『ヘルメン』なのよ? っていうかみんな思ってると思うんだけど『ヘルメン』って何よ? メルヘンじゃなくて?」
 この質問はよくファンからもされる。そのとき、俺はいつもこう答える。
「字のごとくです。ヘルメン・イズ・ヘルメンです」
「分からんなあ。地獄から来た男じゃないんだろう?」
「たぶん違います。そもそもこの『ヘルメン』っていうのも藤井が言い出した言葉だから、百パーセント完全に否定できるかというと、僕にも分からないですけど」
「もう誰にも分からんというわけか。最後にいいもんを残してくれたな」
「そうですね。本当に」
 俺はあいつの遺志を継いで曲を完成させた。そして人気アーティストの仲間入り……には至らなかった。大学を五年目に卒業した後、アーティストではなく、アーティストになりたい人たちを支援する仕事を始めた。要は音楽の添削とかアドバイスということをやってみたのだ。それがうまく行くかどうかはまだ分からない。
 『ヘルメン』を完成させた後、俺は一つの曲も完成させることができなくなった。一曲できればもういくつでもできそうな気がしたものだが、どういうわけかダメだった。まるで自分が持っているものを全て『ヘルメン』に吸われてしまったような、あるいは注ぎ込んでしまったような。
「……何か馬鹿なこと口走ったっけな?」
「西村くん、何か言ったかい?」
「いや、何も」
「そうか。んじゃあ、そろそろ戻るかね。打ち合わせの続き」
「はい。お願いします」
 藤井。お前の音楽の世界は、メルヘンなんて既存の言葉じゃ表わせない世界だ。言葉が現実化するなら、『メルヘン』と呼ばれる限り『メルヘン』になってしまう。つまり『メルヘン』という枠にハマる。誰もが藤井の音楽を『メルヘン』と呼ぶ状況がそれだ。お前はこれを望まなかったんだよな?
 だから既存の言葉にはない、言葉にしても枠が存在しない言葉を求めていたのだ。藤井、これからもお前の作品はそういう世界であり続けるだろう。それは俺が保障する。だから向こうでも気にせず次の曲を書けよ。お前らしく進んでくれ。
 俺は立ち上がって、四宮さんの後に続いて部屋を出た。ドアを閉める。
「ヘルメン」
 誰かが呟いた。


<了>


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「西村先輩! ようやく引きこもりを卒業ですか」
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 メンバーにも挨拶する。全部で十人にも満たない小規模なサークルだが、それゆえアットホームで居心地はいい。藤井が才能を発揮し出してからは、俺は遠ざかってしまったけれど。
「先輩、ちょっと私の聞いてくださいよ」
 莉子がせっついてくる。
「ギターのソロがいまいちなんですよね」
「いいけど、新曲作ってるのか?」
「はい。ネットに投稿予定です」
 ノートPCから伸びるヘッドフォンを受け取る。後輩にも抜かされていく現状。暗い感情を隠すために気前よく承諾する。
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「一応別で保存してくださいね」
 画面に映し出されたシーケンサを見て、ちょちょいとリズムだけ変えて、表情をつけてやる。再生して確認。
「なんか急にかっこよくなりました。年の功ですね」
「一つしか違わないだろ」
「見た目は二十代後半ですよ。このまえは三十代でしたけど」
「そもそもなんでこんなの作ってるんだよ? お前、バラード専門じゃなかったのか?」
 莉子の作風は切ないメロディで盛り上げるものばかりだったと記憶している。バラード職人なのだ。
「先輩、決め付けないでくださいよ。私の可能性は無限大ですよ」
「人にすがっておいて、どの口が言うか」
「いいんですよ。言葉は現実化するんですから」
 頭の中で何かが弾けた。
「今の言葉っ……!」
 妙な感覚だった。逸る気持ちを抑えることができず、莉子に覆いかぶさるほど身を乗り出す。
「どうしてそれを」
「ど、どうしてって、実は藤井さんから聞いたんです。いい言葉でしょ?」
 莉子は一旦身を引いたが、得意げに胸を張った。
「他には何か言ってなかったか」
「え? そうですね……言葉は現実化する。それから、そう。バラードしか作らないなんて言ってたら、その枠にハマってしまいます。枠からはみださなきゃダメなんです。そうやって進んできたから、ここまで来れたんだ、って」
 降り積もった雪が解けて水になり、その流れが一筋の小川を作るように、俺の中に一本の筋が通る。雪の下から顔を出したのは、鮮やかな緑。俺がずっと目を背け続けていたまぶしさだった。
 ――そうか。
 だからヘルメンなのだ。
 そして藤井にヘルメンと言わせたのは、俺だ。
「先輩……?」
 莉子が心配そうに俺を見ている。その頭にぽんと手を乗せた。
「悪いけど帰る」
「え、でも、今来たばかりじゃないですか」
「すまん。やることができた。今すぐにでもやりたいんだ」
 莉子の頭に乗せた手がうずいているのが分かる。莉子はやれやれと溜め息をつき、知ったような顔で「分かりましたよ」と言った。
 俺は電音研を後にした。自然と歩みが速くなり、走り出していた。息を切らしてアパートに戻ってくると、パソコンを起動する。ディスプレイには古いビデオ映像みたいな線が明滅して何が映っているのか分かりもしない。
「映れ。映れ!」
 がんがん叩いた。
「俺がお前の遺志を継ぐ。曲を完成させる! 一生に一度だけでいい! この曲だけでいい! 完成させる! だから映れ!」
 藤井がいるわけでもないのにそう叫んでいた。他人が見たら気でも狂ったかと思うだろう。だけど何度も何度も叫び、叩いた。
 古来、この国では言葉は言霊(ことだま)と呼ばれ、精霊が宿ると考えられていたらしい。言葉は特別な力を持っており、それ自体が神様のようなものなのだ。
 この木造二階建てのボロ臭い六畳間にも、言葉の神様はいてくれるだろうか――。
 いきなり画面がぐにゃりと歪んだかと思うと、デスクトップが綺麗に映った。俺はそっと手を離す。時々映像が歪むとはいえ、作業できないほどではない。
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 藤井が残した曲のデータを開く。パソコンが完全におしゃかになったときのために、USBにも元データを保存。DAWソフトを開き、どんどんシーケンサに音を打ち込んでいく。
 お前は馬鹿だ。俺みたいな、口先だけの野郎の言うことを真に受けて、担当さんが考えたキャッチフレーズを却下するなんて。
 お前のほうが音楽の才能も情熱もあった。人を惹きつける力を持っていた。だから俺の言葉なんて聴かずにどこまでも進んでいればよかったのに。俺の意見なんか求めないで、やりたいようにやればよかったのに。
 俺は夢のために努力もしないでお前に嫉妬してばかりだった。挙句、お前を裏切ったようなものだ。
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 謝罪が漏れた。後悔で胸がいっぱいになり、持ちきれない感情を吐き出すように何重にも音を打ち込みまくった。セオリーや理論で音を打ち込んでなどいなかった。ただ頭に「やれ」という声と意思とが流れ込んでくる。羽ばたくことをやめた鳥が落下してしまうように、音を打ち込むことをやめたら、きっとそれは停止してしまい、それまでのように思えたのだ。羽ばたくのがうまいとか下手だとか言っている暇もない。目的地に辿り着くためには休まず羽ばたくしかないのだ。
 ただただ一晩中、音楽と格闘し続けた。陽は高く昇っていた。
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 夜まで寝た。
 子供が寝る時間に起きると、綾乃さんから返事が来ていた。
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 二時間ほど前のメッセージだったが、綾乃さんはまだインしていた。
『すみません、寝ちゃってました』
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『割とがっつり。曲を作り出して気づいたら徹夜してました』
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『件の曲、貼りますね』
『西村くんが作った曲、私が聴いてもいいのですか。初めてですよね?』
 そう。これは俺の処女作でもある。歌詞はまだないが、曲のほうは完成している。
『お願いします』
 俺は二つのデータをドラッグ&ドロップした。
「それにしても、再生数、どこまで行くんだか」
 四宮(しのみや)さんが濃い髭をいじりながら呆れたように呟いた。アニメスタジオの休憩室には、今、俺とプロデューサーの四宮さん、二人きりしかいない。
「三百万強? 四百は行ってないよね?」
「ええ、伸び方も鈍くなってますし……」
 俺は最近の再生数の推移グラフを思い出して答えた。
「正直、ここまで行くとは思ってなかったですよ」
「西村くん、この企画がうまく行っても、本当にもう曲を書かないの?」
「すみません、書かないって決めたんです。これ完成させたとき、俺の役目は終わったっていう気がして」
「もったいないなあ」
 四宮さんのサングラス越しの目線が痛かった。俺は笑って誤魔化す。
 藤井が残した最後の楽曲を俺がアレンジして発表した。もちろん藤井の未発表楽曲のアレンジだということも明言している。最初はパクリだとか藤井の曲を汚すなとか、一部の攻撃的なファンから非難を浴びもしたが、悪い意味でもいい意味でも話題になり、拡散されたおかげで、その動画は見る見る再生数が伸び、気づけばミリオンヒット。曲の世界観を生かしたショートアニメ化の話が来た。
「それにしても、どうしてタイトルが『ヘルメン』なのよ? っていうかみんな思ってると思うんだけど『ヘルメン』って何よ? メルヘンじゃなくて?」
 この質問はよくファンからもされる。そのとき、俺はいつもこう答える。
「字のごとくです。ヘルメン・イズ・ヘルメンです」
「分からんなあ。地獄から来た男じゃないんだろう?」
「たぶん違います。そもそもこの『ヘルメン』っていうのも藤井が言い出した言葉だから、百パーセント完全に否定できるかというと、僕にも分からないですけど」
「もう誰にも分からんというわけか。最後にいいもんを残してくれたな」
「そうですね。本当に」
 俺はあいつの遺志を継いで曲を完成させた。そして人気アーティストの仲間入り……には至らなかった。大学を五年目に卒業した後、アーティストではなく、アーティストになりたい人たちを支援する仕事を始めた。要は音楽の添削とかアドバイスということをやってみたのだ。それがうまく行くかどうかはまだ分からない。
 『ヘルメン』を完成させた後、俺は一つの曲も完成させることができなくなった。一曲できればもういくつでもできそうな気がしたものだが、どういうわけかダメだった。まるで自分が持っているものを全て『ヘルメン』に吸われてしまったような、あるいは注ぎ込んでしまったような。
「……何か馬鹿なこと口走ったっけな?」
「西村くん、何か言ったかい?」
「いや、何も」
「そうか。んじゃあ、そろそろ戻るかね。打ち合わせの続き」
「はい。お願いします」
 藤井。お前の音楽の世界は、メルヘンなんて既存の言葉じゃ表わせない世界だ。言葉が現実化するなら、『メルヘン』と呼ばれる限り『メルヘン』になってしまう。つまり『メルヘン』という枠にハマる。誰もが藤井の音楽を『メルヘン』と呼ぶ状況がそれだ。お前はこれを望まなかったんだよな?
 だから既存の言葉にはない、言葉にしても枠が存在しない言葉を求めていたのだ。藤井、これからもお前の作品はそういう世界であり続けるだろう。それは俺が保障する。だから向こうでも気にせず次の曲を書けよ。お前らしく進んでくれ。
 俺は立ち上がって、四宮さんの後に続いて部屋を出た。ドアを閉める。
「ヘルメン」
 誰かが呟いた。
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