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朱に夢現

ー/ー



 グラッドストーン邸に到着し、格調あるティールームに入室して暫くすると、一家が揃って現れた。今度は、始めからジェラルドもいる。初めに会った時と変わらず、彼は無表情で仏頂面だったが、アンジュを見つけると、一瞬だけ、口元を少しだけ歪めて笑った。対しアンジュは、速攻で視線を反らす。
 今日は、アフタヌーン・ティー……お茶会の催しだった。以前と同じメンバーで、前とは違う曲を歌う。今回は、スコットランドのノスタルジックな民謡だ。衣装も前回よりもシンプルなデザインの、ミルクティーベージュに控え目な刺繍が施された、フォーマルワンピースを着ていた。

 無事、演目が全て終わると同時に、和やかでありながら、どこか張り詰めた雰囲気の中で、メインのティータイムが始まる。例の(ごと)く、並ならぬ緊張で疲れ果てていたアンジュは、(かぐわ)しい香りを漂わせている紅茶を、部屋の隅で静かに楽しんでいた。アールグレイというポピュラーな種類らしいが、こんなに美味しい紅茶は生まれて初めてだと思った。
 手にした艶やかな白磁のティーカップにロイヤルブルーで描かれた、小花や鳥の柄も非常に美しく、ニューキャッスルで見た風景を思い出す。次第に緊張が解けてきたアンジュは、空腹を感じた。

 ――お菓子も……欲しいな

 そう思って、スコーンを取りに行こうとした時、山盛りのスコーンやマカロンなど、色とりどりの菓子が乗った皿が、ぬっ、と眼前に差し出された。驚いて見上げると、口元を少し弛めたような、静かな笑みのジェラルドが、アンジュを見下ろしていた。今日の深緑の()は、心なしか穏やかな気がする。ダークグレーのベストに、白シャツを少し着崩した礼服が、秀麗な顔立ちとアンバランスだった。

「どうぞ、召し上がれ」

 彼が視界に映った瞬間、先日の件を思い出したアンジュの頭に、一気に血がのぼる。

「……結構です」

 ふい、と顔を反らした。そんな彼女を見て、どこか(たの)しげにジェラルドは追求する。

「随分、物欲しげに見てただろう」
「み、見てないです」

 慌てて否定したが、その言葉とは裏腹に、彼女のお腹から、キュルキュル、と鳴き声が聞こえた。思わず腹を押さえたが、しっかり彼の耳に届いていた。その証拠に、もう片方の握り拳を口元にあて、必死に笑いを堪えている。

「……腹は、そうだと言ってる」

 恥ずかし過ぎて消えてしまいたかった。よりによって、この人に聞かれるなんて。直ぐにでも逃げ出したかったが、自分より十五センチ以上はある、長身の男性に道を塞がれていたので、とても突破出来そうになかった。おまけに、袖に付いた長いフリルや、スカートの裾がまとわりついて動きにくい。端から見ると、狼に追い詰められた野ウサギのようだ。
 そんな慌てふためく彼女を、ジェラルドは、可笑しそうに見ている。

「毒なんて入ってない。安心しろ」

 根負けして、アンジュは空腹に白旗を上げた。まだ笑いを堪えている彼を軽く睨むと、目の前のスコーンに手を伸ばした。少しかじると、口内に優しく甘い風味が広がり、不覚にも、ふわり、と頬がほころぶ。

「そんなに美味いのか? ベビーちゃん」

 クックッ、と喉を静かに鳴らしながら問う彼に、アンジュは聞き返す。

「……『ベビーちゃん』って、何ですか」
「君の事」

 とうとう沸点に達し、思わず声を荒げた。

「勝手に変な名前付けないで下さい! 私は、アンジェリークです!」
「君、まだまだ『ベビー(赤ちゃん)』って感じだから」

 この聞き捨てならない言葉に、更に、頭に血がのぼる。

「これでも十六です。『ベビー』じゃありません!」
「今日は、機嫌が悪いな」
「……心当たり、ありませんか?」

 以前よりは柔らかい低音の声だが、妙に絡んでくる彼に、アンジュは苛立ちを覚える。

「無いな」

 顔を赤くし、仔犬のように食ってかかる彼女に苦笑しながらも、ジェラルドは、しらっ、と返す。

「『馬子にも衣装』だなんて失礼じゃないですか! 貴方こそ、そんなに着崩していいんですか? 貴族でしょう?」
「……やたら気取るのは性に合わなくてね」
「貴方こそ、子供じゃないですか」

 そう言うなり、彼から皿を奪い取り、アンジュは、テーブルの方へ歩いて行った。

 ――何て失礼な人なの。嫌な事ばかり言って! 意地悪! フィリップとは大違い!!

 半ば自棄(やけ)気味にスコーンを頬張ったが、何故、こんなに腹が立つのか、自分でも分からない。単に、コンプレックスを指摘されただけではない気がする。胸の奥が、妙にざわざわして落ち着かない。
 一方、ジェラルドは、そんな彼女を若干、和んだ眼差しで見ていた。彼女の真っ直ぐな言動が、ささくれていた彼の心に深く沁み入り、印象付いている。

「『アンジェリーク』、か」

 長い年月(とき)と運命の糸に導かれ、二人は、こうして出逢った。これから、自身も世界中もを揺るがす、未曾有(みぞう)の業火が待ち受けているとは、夢にも思わず……


 季節は巡り、六月も間近になった頃。一年中、どこかひんやりとしているロンドンにも、ようやく(こころよ)い春の空気がやって来た。
 グラッドストーン家の屋敷の美しい庭園(ガーデン)にも、色とりどりの花々が咲き誇っていて、様々な甘い香りで満ち溢れている。春真っ盛りの心地好い陽気の中、まるで天国のような空間を、ふわふわとした足取りで、アンジュは歩いていた。
 この数ヵ月の間に、彼女の歌唱力はだいぶ上達し、ほんの僅かだが、貴族の間で名前が知られるようになっていた。そのかいあってか、今秋頃のグラッドストーン家での晩餐会で、自分で作詞した歌を、しかもソロで歌って良いという、団長からの許可が出たのだ。
 そこで、月に一度の休日を利用し、詩のイメージを膨らませようと、アンジュはロンドンの街を歩く事にした。街中を観光した後、最後に、あの屋敷の庭園を散歩しようと考え、今に至っている。自然豊かな土地で育った彼女は、花や動物が懐かしく、以前から、この庭に強く惹かれていた。一度、ゆっくり見てみたいと思い、主人である公爵に、団長づてに許可を取ったのだ。

 ――素敵……

 まるで花の精になった気分だ。澄みきった青空の下、深紅のローズ、純白のデイジー、紫のヒヤシンス、黄色いパンジー……色彩鮮やかに咲き、揺れ動く様は、正に楽園と称するに相応しい。所々に蜜蜂や蝶々が舞い飛んでいて、ここに生きるもの全てが、この季節を喜んでいるかのようだ。
 そんな生命力溢れる花園の、シナモンに染まった石畳の上を踊るように歩く。心地好い薫風(くんぷう)に吹かれながら、ここにはジェラルドは来ないだろう、と思っていたアンジュは、すっかり夢心地だった。

 この数ヵ月で、楽団がグラッドストーン家の御用達になったのは良いが、仕事の度に顔を合わせることになる為、嫌でも会ってしまう。完全に嫌な印象を(いだ)いてしまったので、必要以上に関わらない、と距離を置いていた。しかし、向こうから何かと話しかけ、からかって来るので話さない訳にはいかなかったのだ。増して、彼は依頼主の息子であり、客でもある。あまり邪険に出来ない為、対応に困っていた。

「……家族がいて、お金持ちで、こんな素敵な場所に住んでるのに…… どうしてあんな風になるの?」

 ぽそり、と一人呟き、目の前のポピーの花に鼻を近づけた。まろやかで甘い香りが、爽やかにアンジュの鼻腔を(くすぐ)る。

「それにしても、すごいポピーの数ね……薔薇も多いけど……」

 周り一面を取り囲んでいる、朱色の絨毯のようなポピー畑を見渡す。ロンドンには多いのか、ここに来る途中に寄った、ウェストミンスター大聖堂にも、この花が植えられていた。

「ポピーは、この国では停戦の象徴なんですよ。お嬢さん」

 急に、少し(しわが)れた年配の男の声がした。驚いて目を向けると、一人の老人が、畑の中からゆったりと顔を出した。麦わら帽子を被り、軍手をした手にスコップを持ったその老人は、(ひげ)に付いた泥を拭いながら、アンジュの近くまで歩いて来る。直感的に、この屋敷の庭師なのだろうと思った。

「こんにちは。これは、全部、貴方が?」
「ああ。お嬢さんは、花が好きなのかい?」
「はい。こんな素敵な花畑……見たことないです」
「ははっ……ありがとう。そう言ってもらえると、花も喜ぶよ」

 老人は微笑みながら、近くに咲くポピーをいとおしそうに撫でている。

「あの。さっきの停戦の象徴って……?」
「……前の大戦の時に、ある人が、この花をモチーフにして、詩を作ったらしくてな。何でも、ある戦場の跡に咲いていた一面のポピーが、戦闘で死んでいった兵士の血の海に見えたそうで、思わず詩にしたらしい…… それから毎年追悼の記念日には、皆、胸にポピーの花を飾るようになった。ここに、この花を植えているのは、(わし)の個人的な意向でな……」

 そう言って、彼は寂しげに花を見つめた。まるで、誰かの姿を重ねているかのように。もしかしたら、この人は、前の大戦で大切な人を亡くされたのかもしれない……と、アンジュは思った。

 ふと、抑揚の無い声で、庭師(ガーデナー)は問いかける。

「お嬢さんは、知ってるかい?」
「え……?」
「今、また戦争が始まるかもしれないって事……」

 思わず目を伏せる。真冬に入った頃から、楽団内や客人の間で、あまり穏やかで無い、仄暗い噂が、頻繁に囁かれていたのだ。アンジュは持っていないので聞いていないが、ラジオやテレビのブラウン管から流れるニュースは、その話題一色らしい。
 優しい夢の世界から残酷で殺伐とした現実へ、一気に引き落とされたような思いで、足元に散らばる朱色の花びらを悲しく眺めた。
 何でも独裁政権に傾いたドイツが、イタリア、日本と同盟を結び、ヨーロッパの侵略を始めていて、既にオーストリアは併合、ユダヤ系民族は酷い迫害を受けているとの事だった。
 我が国イギリスは、フランスと共に止めるよう忠告しているが、停戦する様子は無く、このままでは、今度は世界中を巻き込んだ戦争になるという…… ユダヤ系の客人達は、仲間が受けている仕打ちを嘆き悲しみ、既に世界的恐慌の影響で、ロンドンの街には失業したらしい浮浪者で溢れている。
 この数ヶ月の間、そんな哀しく痛ましい空気の中を、アンジュなりに苦しみながら過ごしてきたのだ。現実味があるようで、どこか信じられない時流が心許なく、不安定な日々。それでも当たり前のように日常は続き、容赦なく()()()を迎えようとしている。

「……知ってます」

 動揺する不穏な心を鎮めながら、アンジュは返答した。戦争が始まったらどうなるのだろう。この美しい庭園も、長い歴史が積まれ刻まれた、今いるロンドンの街も、全て破壊され、跡形も無く消えてしまうのだろうか……

「そうかい…… 限りある富、どこまで奪い合うのかねぇ……」

 庭師の老人は、彼女に聞かせるのではなく、遠い異国……いや、目に見えぬ何者かに訴えるように、呟いた。

「おじいさん……」

 アンジュの哀しげな呼び声に、彼は、はっ、と我に返る。

「ああ……すまないね。暗い話を聞かせてしまって。また、いつでも見に来ておくれ」
「もちろんです。あ……」

 なるべく明るく答えた後、一つのアイデアが脳裏に弾け、浮かんだ。今の自分が出来る事……

「あの…… 私、今年の秋に、このお屋敷のパーティーで自分で作詞した曲を歌わせてもらえるんです。このポピーをモチーフに、私も歌詞を作るわ。反戦歌にするの!」

 憂いが少し(かす)んだ、マリンブルーの()を煌めかせ、無邪気に意気込むアンジュに、彼は少し驚いたように固まった後、皺で囲まれた眼を細め、嬉しそうに頬を綻ばせた。

「そうかい……嬉しいね。儂は聴けないのが残念だが……頑張りなさいよ」
「ここでも歌うわ。こっそりだけど……聴いて欲しいです」

 改めて、気を引き締めた時……

「いいのか? 仕事のネタだろう?」

 少し呆れたような、聞き覚えのある静かな低音が、耳に飛び込んできた。
 心臓が跳ね上がり、反射的に声のした方へ振り向くと、()()ジェラルドが、トラウザーズパンツのポケットに手を突っ込みながら、アンジュを見下ろすように立っていた。

「な、何で、ここに……」

 ()を白黒させ、口をぱくぱくさせている彼女を見て、ジェラルドは口元を少し歪め、苦笑する。

「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「ジェリー坊っちゃん。今日は早いですね」

 にこやかに優しく微笑み、彼に声をかける老人に、アンジュは更に吃驚(びっくり)した。


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 グラッドストーン邸に到着し、格調あるティールームに入室して暫くすると、一家が揃って現れた。今度は、始めからジェラルドもいる。初めに会った時と変わらず、彼は無表情で仏頂面だったが、アンジュを見つけると、一瞬だけ、口元を少しだけ歪めて笑った。対しアンジュは、速攻で視線を反らす。
 今日は、アフタヌーン・ティー……お茶会の催しだった。以前と同じメンバーで、前とは違う曲を歌う。今回は、スコットランドのノスタルジックな民謡だ。衣装も前回よりもシンプルなデザインの、ミルクティーベージュに控え目な刺繍が施された、フォーマルワンピースを着ていた。
 無事、演目が全て終わると同時に、和やかでありながら、どこか張り詰めた雰囲気の中で、メインのティータイムが始まる。例の|如《ごと》く、並ならぬ緊張で疲れ果てていたアンジュは、|芳《かぐわ》しい香りを漂わせている紅茶を、部屋の隅で静かに楽しんでいた。アールグレイというポピュラーな種類らしいが、こんなに美味しい紅茶は生まれて初めてだと思った。
 手にした艶やかな白磁のティーカップにロイヤルブルーで描かれた、小花や鳥の柄も非常に美しく、ニューキャッスルで見た風景を思い出す。次第に緊張が解けてきたアンジュは、空腹を感じた。
 ――お菓子も……欲しいな
 そう思って、スコーンを取りに行こうとした時、山盛りのスコーンやマカロンなど、色とりどりの菓子が乗った皿が、ぬっ、と眼前に差し出された。驚いて見上げると、口元を少し弛めたような、静かな笑みのジェラルドが、アンジュを見下ろしていた。今日の深緑の|瞳《め》は、心なしか穏やかな気がする。ダークグレーのベストに、白シャツを少し着崩した礼服が、秀麗な顔立ちとアンバランスだった。
「どうぞ、召し上がれ」
 彼が視界に映った瞬間、先日の件を思い出したアンジュの頭に、一気に血がのぼる。
「……結構です」
 ふい、と顔を反らした。そんな彼女を見て、どこか|愉《たの》しげにジェラルドは追求する。
「随分、物欲しげに見てただろう」
「み、見てないです」
 慌てて否定したが、その言葉とは裏腹に、彼女のお腹から、キュルキュル、と鳴き声が聞こえた。思わず腹を押さえたが、しっかり彼の耳に届いていた。その証拠に、もう片方の握り拳を口元にあて、必死に笑いを堪えている。
「……腹は、そうだと言ってる」
 恥ずかし過ぎて消えてしまいたかった。よりによって、この人に聞かれるなんて。直ぐにでも逃げ出したかったが、自分より十五センチ以上はある、長身の男性に道を塞がれていたので、とても突破出来そうになかった。おまけに、袖に付いた長いフリルや、スカートの裾がまとわりついて動きにくい。端から見ると、狼に追い詰められた野ウサギのようだ。
 そんな慌てふためく彼女を、ジェラルドは、可笑しそうに見ている。
「毒なんて入ってない。安心しろ」
 根負けして、アンジュは空腹に白旗を上げた。まだ笑いを堪えている彼を軽く睨むと、目の前のスコーンに手を伸ばした。少しかじると、口内に優しく甘い風味が広がり、不覚にも、ふわり、と頬がほころぶ。
「そんなに美味いのか? ベビーちゃん」
 クックッ、と喉を静かに鳴らしながら問う彼に、アンジュは聞き返す。
「……『ベビーちゃん』って、何ですか」
「君の事」
 とうとう沸点に達し、思わず声を荒げた。
「勝手に変な名前付けないで下さい! 私は、アンジェリークです!」
「君、まだまだ『ベビー(赤ちゃん)』って感じだから」
 この聞き捨てならない言葉に、更に、頭に血がのぼる。
「これでも十六です。『ベビー』じゃありません!」
「今日は、機嫌が悪いな」
「……心当たり、ありませんか?」
 以前よりは柔らかい低音の声だが、妙に絡んでくる彼に、アンジュは苛立ちを覚える。
「無いな」
 顔を赤くし、仔犬のように食ってかかる彼女に苦笑しながらも、ジェラルドは、しらっ、と返す。
「『馬子にも衣装』だなんて失礼じゃないですか! 貴方こそ、そんなに着崩していいんですか? 貴族でしょう?」
「……やたら気取るのは性に合わなくてね」
「貴方こそ、子供じゃないですか」
 そう言うなり、彼から皿を奪い取り、アンジュは、テーブルの方へ歩いて行った。
 ――何て失礼な人なの。嫌な事ばかり言って! 意地悪! フィリップとは大違い!!
 半ば|自棄《やけ》気味にスコーンを頬張ったが、何故、こんなに腹が立つのか、自分でも分からない。単に、コンプレックスを指摘されただけではない気がする。胸の奥が、妙にざわざわして落ち着かない。
 一方、ジェラルドは、そんな彼女を若干、和んだ眼差しで見ていた。彼女の真っ直ぐな言動が、ささくれていた彼の心に深く沁み入り、印象付いている。
「『アンジェリーク』、か」
 長い|年月《とき》と運命の糸に導かれ、二人は、こうして出逢った。これから、自身も世界中もを揺るがす、|未曾有《みぞう》の業火が待ち受けているとは、夢にも思わず……
 季節は巡り、六月も間近になった頃。一年中、どこかひんやりとしているロンドンにも、ようやく|快《こころよ》い春の空気がやって来た。
 グラッドストーン家の屋敷の美しい|庭園《ガーデン》にも、色とりどりの花々が咲き誇っていて、様々な甘い香りで満ち溢れている。春真っ盛りの心地好い陽気の中、まるで天国のような空間を、ふわふわとした足取りで、アンジュは歩いていた。
 この数ヵ月の間に、彼女の歌唱力はだいぶ上達し、ほんの僅かだが、貴族の間で名前が知られるようになっていた。そのかいあってか、今秋頃のグラッドストーン家での晩餐会で、自分で作詞した歌を、しかもソロで歌って良いという、団長からの許可が出たのだ。
 そこで、月に一度の休日を利用し、詩のイメージを膨らませようと、アンジュはロンドンの街を歩く事にした。街中を観光した後、最後に、あの屋敷の庭園を散歩しようと考え、今に至っている。自然豊かな土地で育った彼女は、花や動物が懐かしく、以前から、この庭に強く惹かれていた。一度、ゆっくり見てみたいと思い、主人である公爵に、団長づてに許可を取ったのだ。
 ――素敵……
 まるで花の精になった気分だ。澄みきった青空の下、深紅のローズ、純白のデイジー、紫のヒヤシンス、黄色いパンジー……色彩鮮やかに咲き、揺れ動く様は、正に楽園と称するに相応しい。所々に蜜蜂や蝶々が舞い飛んでいて、ここに生きるもの全てが、この季節を喜んでいるかのようだ。
 そんな生命力溢れる花園の、シナモンに染まった石畳の上を踊るように歩く。心地好い|薫風《くんぷう》に吹かれながら、ここにはジェラルドは来ないだろう、と思っていたアンジュは、すっかり夢心地だった。
 この数ヵ月で、楽団がグラッドストーン家の御用達になったのは良いが、仕事の度に顔を合わせることになる為、嫌でも会ってしまう。完全に嫌な印象を|抱《いだ》いてしまったので、必要以上に関わらない、と距離を置いていた。しかし、向こうから何かと話しかけ、からかって来るので話さない訳にはいかなかったのだ。増して、彼は依頼主の息子であり、客でもある。あまり邪険に出来ない為、対応に困っていた。
「……家族がいて、お金持ちで、こんな素敵な場所に住んでるのに…… どうしてあんな風になるの?」
 ぽそり、と一人呟き、目の前のポピーの花に鼻を近づけた。まろやかで甘い香りが、爽やかにアンジュの鼻腔を|擽《くすぐ》る。
「それにしても、すごいポピーの数ね……薔薇も多いけど……」
 周り一面を取り囲んでいる、朱色の絨毯のようなポピー畑を見渡す。ロンドンには多いのか、ここに来る途中に寄った、ウェストミンスター大聖堂にも、この花が植えられていた。
「ポピーは、この国では停戦の象徴なんですよ。お嬢さん」
 急に、少し|嗄《しわが》れた年配の男の声がした。驚いて目を向けると、一人の老人が、畑の中からゆったりと顔を出した。麦わら帽子を被り、軍手をした手にスコップを持ったその老人は、|髭《ひげ》に付いた泥を拭いながら、アンジュの近くまで歩いて来る。直感的に、この屋敷の庭師なのだろうと思った。
「こんにちは。これは、全部、貴方が?」
「ああ。お嬢さんは、花が好きなのかい?」
「はい。こんな素敵な花畑……見たことないです」
「ははっ……ありがとう。そう言ってもらえると、花も喜ぶよ」
 老人は微笑みながら、近くに咲くポピーをいとおしそうに撫でている。
「あの。さっきの停戦の象徴って……?」
「……前の大戦の時に、ある人が、この花をモチーフにして、詩を作ったらしくてな。何でも、ある戦場の跡に咲いていた一面のポピーが、戦闘で死んでいった兵士の血の海に見えたそうで、思わず詩にしたらしい…… それから毎年追悼の記念日には、皆、胸にポピーの花を飾るようになった。ここに、この花を植えているのは、|儂《わし》の個人的な意向でな……」
 そう言って、彼は寂しげに花を見つめた。まるで、誰かの姿を重ねているかのように。もしかしたら、この人は、前の大戦で大切な人を亡くされたのかもしれない……と、アンジュは思った。
 ふと、抑揚の無い声で、|庭師《ガーデナー》は問いかける。
「お嬢さんは、知ってるかい?」
「え……?」
「今、また戦争が始まるかもしれないって事……」
 思わず目を伏せる。真冬に入った頃から、楽団内や客人の間で、あまり穏やかで無い、仄暗い噂が、頻繁に囁かれていたのだ。アンジュは持っていないので聞いていないが、ラジオやテレビのブラウン管から流れるニュースは、その話題一色らしい。
 優しい夢の世界から残酷で殺伐とした現実へ、一気に引き落とされたような思いで、足元に散らばる朱色の花びらを悲しく眺めた。
 何でも独裁政権に傾いたドイツが、イタリア、日本と同盟を結び、ヨーロッパの侵略を始めていて、既にオーストリアは併合、ユダヤ系民族は酷い迫害を受けているとの事だった。
 我が国イギリスは、フランスと共に止めるよう忠告しているが、停戦する様子は無く、このままでは、今度は世界中を巻き込んだ戦争になるという…… ユダヤ系の客人達は、仲間が受けている仕打ちを嘆き悲しみ、既に世界的恐慌の影響で、ロンドンの街には失業したらしい浮浪者で溢れている。
 この数ヶ月の間、そんな哀しく痛ましい空気の中を、アンジュなりに苦しみながら過ごしてきたのだ。現実味があるようで、どこか信じられない時流が心許なく、不安定な日々。それでも当たり前のように日常は続き、容赦なく|そ《・》|の《・》|時《・》を迎えようとしている。
「……知ってます」
 動揺する不穏な心を鎮めながら、アンジュは返答した。戦争が始まったらどうなるのだろう。この美しい庭園も、長い歴史が積まれ刻まれた、今いるロンドンの街も、全て破壊され、跡形も無く消えてしまうのだろうか……
「そうかい…… 限りある富、どこまで奪い合うのかねぇ……」
 庭師の老人は、彼女に聞かせるのではなく、遠い異国……いや、目に見えぬ何者かに訴えるように、呟いた。
「おじいさん……」
 アンジュの哀しげな呼び声に、彼は、はっ、と我に返る。
「ああ……すまないね。暗い話を聞かせてしまって。また、いつでも見に来ておくれ」
「もちろんです。あ……」
 なるべく明るく答えた後、一つのアイデアが脳裏に弾け、浮かんだ。今の自分が出来る事……
「あの…… 私、今年の秋に、このお屋敷のパーティーで自分で作詞した曲を歌わせてもらえるんです。このポピーをモチーフに、私も歌詞を作るわ。反戦歌にするの!」
 憂いが少し|霞《かす》んだ、マリンブルーの|瞳《め》を煌めかせ、無邪気に意気込むアンジュに、彼は少し驚いたように固まった後、皺で囲まれた眼を細め、嬉しそうに頬を綻ばせた。
「そうかい……嬉しいね。儂は聴けないのが残念だが……頑張りなさいよ」
「ここでも歌うわ。こっそりだけど……聴いて欲しいです」
 改めて、気を引き締めた時……
「いいのか? 仕事のネタだろう?」
 少し呆れたような、聞き覚えのある静かな低音が、耳に飛び込んできた。
 心臓が跳ね上がり、反射的に声のした方へ振り向くと、|あ《・》|の《・》ジェラルドが、トラウザーズパンツのポケットに手を突っ込みながら、アンジュを見下ろすように立っていた。
「な、何で、ここに……」
 |眼《め》を白黒させ、口をぱくぱくさせている彼女を見て、ジェラルドは口元を少し歪め、苦笑する。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「ジェリー坊っちゃん。今日は早いですね」
 にこやかに優しく微笑み、彼に声をかける老人に、アンジュは更に|吃驚《びっくり》した。