第6章 水魚の交わり-2
ー/ー 和風ファミレスでランチを食べてから、そのすぐ近くのドラッグストアで洗剤や掃除道具などを大量に買い出しした後、祖父の家に向かった。祖父の家はブロック塀に囲まれたいかにもザ・昭和といった木造二階建ての家で、黒い鉄製の門は最近滅多に使わないせいか錆付き、開けただけでキーキーとイヤな音を立てる。様々な種類の大きな樹木がふんだんに植えられた広い庭だけは、庭師さんが定期的に手入れしてくれているのできれいに整えられていたものの、人の気配のしないひっそりした家は本当に寂しく感じる。それでも電気ガス水道は止めなかったので今すぐにでも使えるのだが、月々基本料金を払う羽目にはなってもそうしておかないと、いざ掃除する時に困ってしまうからだった。
ショルダーバッグからこの家の鍵を取り出し玄関の引き戸タイプの扉をガラガラと開けると、埃っぽくて微かにかび臭い淀んだ空気が漂ってくる。けほけほと咳をしながら、まずはドアを全開にし、先ほど買ったばかりの三人分のスリッパと不織布マスクをエコバッグから取り出す。後から渚が来る事になっているから、その分もである。こんな埃まみれの家を素足で歩くことはできないし、させられない。マスクももちろん必須アイテムである。
「まずは換気だ。全部の部屋の窓を開けよう。君は一階をお願い!」
駆に声を掛けてから、私はスリッパを履いて玄関正面にある少し急な階段を上って二階に向かった。 二階には母の使っていた子ども部屋と祖父の和風な書斎がある。まず母が結婚前暮らしていた洋間のドアの前に立った。ドアには母が工作で作ったのだろう、少し不格好な木製のプレートがかけてあって、「葉月は不在です」と表示されている。ドアをゆっくり開くと、長い間閉ざされていた部屋独特のこもる臭いがしたので、急いでカーテンを開き窓を開けた。この部屋の本棚には母が独身時代収集してきた本やマンガがどっさり眠っている。私が幼い頃はやたら乙女チックな白いベッドや勉強机もあったのだが、私達家族三人が泊まりに来た時寝る場所を確保するために撤去されていた。
部屋を出る前に振り返ってぐるりと見回すと、壁には母のお気に入りだった昔のゲームのポスターが3枚ほど貼ってある。価格やゲームスペックが書いてあるから店頭でもらったものなのだろう。それ以外には、母が中学の頃読書感想文を書いてもらったらしい表彰状や合唱コンクールの賞状なども貼ってある。すべて色褪せ、時の流れを嫌でも感じさせられるものだった。
次に祖父の畳敷きの書斎に行き、同様に障子と窓を開け放った。ここにはどっしりとした木製の文机と祖父が研究していた郷土史の資料がどっさり置いてある。迷惑でなければいずれ地元の図書館に寄贈したいと思っているのだけど。私は幼い頃祖父に連れられ、地域にある石碑や神社など見に行ったものだ。母を連れて行った時には反応が薄かったのに、私を連れて行くととても楽しそうだったので嬉しくなってしまい、あちこち連れ歩いたのだと祖父は生前語っていた。
私は文机の上に置いてあった祖父の万年筆で書かれたノートを一瞬手に取ったものの、ノスタルジックな感傷を振り切るために首を何度か振るとノートを置き、書斎を出て階段を下りて行った。一階にある納戸に掃除機が入っていたはずだから、まずはそれを取り出さないといけない。
駆が祖父が使っていた広めの寝室の窓を開けている間に、納戸の奥からレトロなデザインの掃除機を取り出そうと一人で格闘している時に、玄関のチャイムが鳴った。渚だろうか。
「はーい。少々お待ちください!」と大声で返事しながら出ていくと、玄関に立っていたのは渚ではなく、隣人で母の幼馴染、久美子おばさんだった。祖父が心臓発作を起こし門前で倒れているところを発見して救急車を呼んでくれたのも、この久美子おばさんである。
「有葉ちゃん、お久しぶり、元気だった?」
「お久しぶりです、ご無沙汰していて申し訳ありませんでした」
私はぺこりと頭を下げた。
「この通り、なんとか生きてます」
そう言いながら頭に手を当てあははと笑う。
久美子おばさんは心配そうな顔をした。
「もう、葉月ちゃん亡き後、有葉ちゃんは私にとって娘同然なんだからね! お願いだから時々顔出してよ!」
「はい、すみませんでした」
私は再度頭を下げる。
その時久美子おばさんががたがたと音がする廊下の奥が気になるのか、背伸びをして覗こうとしている事に気が付いた。
「おばさん……実は今日……『彼』に来てもらってるんです」
『彼』という言葉を使うのには勇気がいる。一瞬詰まってしまった。すると久美子おばさんの目がきらんと輝いた。
「え、本当なの? 有葉ちゃん、ついに彼氏ができたのね!?」
駆にはしばらくこの家に出入りして掃除をしてもらわないといけないから、隣人の久美子おばさんへの紹介は必須なのである。私は奥に向かって駆を呼んだ。
「ランちゃん、ちょっと来てくれる?」
「はーい!」
先ほど渡した蟹工船の黒いTシャツに着替え、汗除けなのか大きめの黒いヘッドバンドを付けた駆が飛んできた。
私は久美子おばさんに駆を紹介する。
「おばさん、こちらが私の『彼』の山城 駆君です。大学生なので時間のある時にこの家の掃除をやってもらおうと思っていて……」
「山城です。よろしくお願いします!」
駆は礼儀正しく頭を下げた。
「ランちゃん、こちらが新井 久美子さん。お隣さんで、私のお母さんの幼馴染だったの。本当にいろいろとお世話になりっぱなしで……特におじいさんが倒れた時は救急車を呼んでくれて……」
久美子おばさんも駆にぺこりと頭を下げた。
「よろしくね、山城君」
それから私の方を向いてこう言った。
「いいのよ、お互い様じゃない。五十嵐のおじさんは葉月ちゃんを亡くしてから本当に意気消沈していたから気にはしていたんだけどね……もっと早く発見できていればとは思ってるのよ……」
「おばさんがすぐ発見してくれたから、私もおじいさんの最期の時に立ち会う事が出来たので本当に感謝しているんです」
私が久美子おばさんから連絡を受け近くの病院に向かった時、祖父は息を引き取る直前だった。それでも死に目に会う事が出来て良かったと思っている。両親の時は既に冷たくなっていたのだから。本当は一緒に住めばよかったのだろうが、祖父が頑なに拒んだのだ。一人で住むのに慣れてしまったからと言い張って。
「やだ、有葉ちゃん、泣けてくるからやめて」
久美子おばさんが目尻に指を当てた。そして再度駆の方を向いてこう言う。
「山城君、有葉ちゃんを本当によろしくね。それから……結婚式には絶対に呼んでちょうだい」
「有葉さんの事は全部オレに任せてください!」
駆はいたって真面目な表情で、らしくないえらく男っぽい台詞を吐いている。
「おばさん、さすがに気が早いって! それにランちゃんも止めて!」
私の顔が熱を帯びる。久美子おばさんは嬉しそうに笑うと、「じゃあ、そろそろおいとまするね」と言って手をひらひらと振りながら玄関を出て行った。
「いい方だね……」
その後ろ姿を見送りながら駆が呟いた。私は頷いた。
「そうだね……それにおじいさんの件では本当に恩人だよ……。ただ、会う度に私の結婚のことばかり気にしているのだけは止めて欲しいけど」
「おばさんの気持ちは痛いほど分かるな。アルファさんって放っておけないから」
駆が呟くように言う。私の眉間に自然に皺が寄った。
「ねえ、さっき綾乃さん達が来た時もそうだけど、私ってそんなに頼りないかな?」
駆は首を振る。
「違うよ。みんな、アルファさんの事を大切に思っているだけだって……」
私だってそれは分かっているのだ。心底有り難いと思ってはいるものの、だからこそ辛くなる時もある。さらに駆の場合、私の『彼氏』という設定に従って演技してくれているだけという事は分かっているからこそ、守る、だの任せろだのといった言葉が空虚に感じられ切なくなってしまうのだ。
「それは分かってるって……」
そう短く言ってから、私はこの話題を打ち切るかのように駆から顔を逸らすと、「早く掃除しないと」と掃除機を取り出すべく納戸の方に向かった。
「じゃあ、オレは台所の流しの掃除するから…………」
背後から聞こえる駆の声は少ししょんぼりと響いた。
渚を迎えるために、私はまず玄関と廊下に掃除機をかけてから、客間の掃除を始める事にした。この家は居間とは別に玄関のすぐ隣に立派な客間があるのだ。天井にはシャンデリア、革製の大きなソファに百科事典の配された立派な本棚、高級なローボード、懐かしのブラウン管のテレビ。出窓に他の部屋に比べて豪華なカーテン、毛足の長い深紅の絨毯。基本和風の家なのにここだけは徹底的に洋風だった。掃除機を使わなければならないので、駆には台所の水回りを掃除してもらう事にした。
窓を開けてもさほど風がないため、ちょっと動くだけで汗がどっと吹き出してくる。エアコンなどという気の利いたものは設置されていなかったので、先ほどの納戸から古めかしい扇風機を持ち出してきた。祖父は物が捨てられない性分で、平気で年代物の家電品を使っていたのだ。
扇風機を稼働させると暑さがだいぶましになったので、掃除を続行する。さっき墓掃除をしたばかりだし、今日の私は滅茶苦茶働き者ではなかろうか。そう自画自賛しながら持参したペットボトルのすっかり生ぬるくなってしまったミネラルウォーターを飲んでいる時、玄関のチャイムが鳴った。今度こそ渚だろう。
今日の渚は白いレース地のカットソーに水色のシンプルなキャミワンピを着ていた。明るく染めた短めのナチュラルボブにこれまたナチュラルメイクをばっちり決めた小柄な渚は本当に可愛い。手には白いケーキ箱を持っているので、それがLIMEで言ってた手土産なのだろう。
「久しぶりにこっちまで来たから、ケーキ買って来たよ」
渚が口にしたのはここの近所にある地元でも有名なパティスリーの名前だった。
「やったー!」
私は万歳をし、台所で水回りの徹底掃除をしている駆を呼んだ。渚と駆は既に面識もあり、何度か一緒に食事もしている仲だ。
玄関でサンダルを脱ぎスリッパに履き替えていた渚は、呼ばれてやって来た駆が蟹工船Tシャツを着ているのに気が付くなり大笑いをし始めた。渚は本の虫であり、元文学少女なのだ。
「あひゃひゃ、ランちゃん、そのTシャツって!!!」
「アルファさんがくれたんですけど、何か変ですか?」
駆はツボに入りまくって腹を抱えて笑い転げている渚を不思議そうに眺めている。
「いやね、有葉ちゃんに無理やり労働させられ、オレは搾取されているというメッセージなのかと思ったのよ」
「そんな訳ないですよ」
駆が口を尖らせた。私も異議を唱えた。
「ナギさん、失礼な! 言っておくけど私達は対等な労働契約を結んでるんだよ」
本当に対等かどうかは怪しいけど。今駆がしている家事をやってもらうために住み込みのお手伝いさんを雇ったら、もっと高くつくだろうから。
「ごめんごめん、そのTシャツ、とっても似合ってるよ」
フォローのつもりなのか渚がそう言ったが、駆はむくれたままだ。通常誰に対しても愛想の良い駆だが、渚に対してだけは不思議とかなり素で振舞ってくる。渚はそんな駆の態度を面白がっているようだ。渚には弟が一人いるから、そんな感じで扱ってくるので駆も気楽なのだろう。
渚がせっかく買ってきてくれたケーキを食べるべく、あまり広くない台所に行ってやかんでお湯を沸かし始める。その後大きな食器棚からケーキ皿とフォーク、ティーカップを取り出し軽く水洗いをした後、家から持参したアールグレイのティーバッグを使い、紅茶を淹れる。
渚が買ってきてくれたケーキは三種類。季節のフルーツを使ったタルト オ フリュイ、ガトーショコラ、シブーストである。駆と私でケーキ皿とティーカップを客間まで運び、重厚なローテーブルの上に並べた。
ケーキはじゃんけんで勝った者順に選ぶことにする。結局私が買ったのでシブーストを選び、駆がタルト オ フリュイ、渚がガトーショコラとなった。フランスで修業したというパティシエの作ったケーキは本当に絶品だった。しばらく三人で舌鼓を打つ。
全員食べ終わり食器を片付け洗ってしまうと、駆は私に対してこう言った。
「後はオレがやるんで、アルファさんは渚さんと客間でおしゃべりしていて下さい」
「えー、でも悪いよ」
と念のため言うと、
「お願いだからオレの仕事取らないで!」
そう言う駆の顔はいたって真剣だった。「はーい、分かりました」と私は敢えて逆らわず駆に甘える事にする。
私が客間に入った時、渚はちょこんとソファに座っていた。反対側のソファに座ろうとすると、渚は自分の隣をぽんぽんと叩いた。こっちに来いという事らしい。言われるがままに隣に座った。
「何があったのよ?」
私が尋ねると、それまで笑顔だった渚の顔がとたんに情けなさそうな表情となった。自信満々に我が道を突き進む渚がそんな顔をすることは、今はそうない事だ。だが中学の頃はしょっちゅうそんな顔をして私を見つめていたことをふと思い出す。
渚と私は小学一年の時たまたま同じクラスになってから、クラス替えで違うクラスになる事はあっても、ずっと仲の良い親友同士だった。
お互い中学受験などはせず地元の中学に進級したのだが、その頃の渚は文学少女ながり勉に成長していた。垢ぬけないボブカットというよりもおかっぱ頭で、今でこそコンタクト派だが、当時はあまり似合っていない黒いプラスチックの大きなフレームの眼鏡をかけた地味な女子中学生だった。学校でも同級生とはほとんど交流せずにひたすら本を読んでいた。小学校の時から渚を知る私は、渚が幼い同級生達を見下している事を知っていた。仕方ないだろう。中学生にして大人が読むような難しい本を読みこなしていた渚と同級生達とでは、精神年齢に大きな隔たりがあったのだ。特に男子との精神年齢の差は大きく、小学生と高校生くらいの差があった。渚からすれば望んでもいないのにガキの群れに無理やり放り込まれたようなものだ。耳を塞ぐためにも一人で本を読んでいるしかなかったのだ。
そんな渚は中二の時、いわゆるスクールカースト一軍に所属するクラスメート達の格好のイジメのターゲットとなってしまった。プリントを回してもらえなかったり、所持品を隠されたり捨てられたり。SNSを使った悪口も横行していたようだ。しかし渚はそんなイジメすら恐ろしいほど冷ややかに受け止めていた。
中三の時渚と同じクラスとなった私は、迷うことなく当然のように親友の渚を庇い始めた。すると私もイジメのターゲットにされてしまった。大切な文房具を壊されたり、SNSである事ない事書かれたりもした。その当時、毎朝学校に行かねばならない事は本当に憂鬱で仕方なかった。両親に相談すればよかったのだろうが、何故か憚られた。私を愛してくれている両親を悲しませたくなかったし、イジメの事実を知ったら両親がどんな行動を取るのか全く想像もできず、逆に怖かったのだ。担任はすべてにおいて頼りにならないタイプだったし。
一方渚が自身の親に相談しなかったのは、両親を――特に父親を全く信頼していなかったからだ。悲しい事に渚にとって、親とは全然頼れる存在ではなかった。渚は私に巻き込んでしまった事を、不甲斐ない自分自身を責めるかのような情けない表情で何度も何度も詫びたが、私は一人ならともかく渚と一緒なら耐えられると思った。中学校なんてほんの通過点に過ぎないと思えたからだ。
私達は相談した結果、とにかく今は我慢する。二人で励まし合いながら頑張って勉強し、イジメの加害者とは違う高校に進学して、彼らとは絶対におさらばすると決めたのだった。
結局、私は東京にあるそこそこ偏差値の高い共学の私立高校に、渚は地元では一番の進学校である公立の女子高に進学した。本当は渚も地元自体とおさらばして私と同じ高校に行きたがったのだけど、渚の父親が私立高校への進学を認めなかったのだ。女子なんてどうせ結婚して家を出て行ってしまうのだから、教育費をかける意味なんてないとの考えからだったそうだ。
渚は毎月受けていた模試の結果でもってその私立高校の特待生の権利を獲得していたので、父親の言い分は理不尽そのものだった。もちろん渚とて言われっぱなしではなかった。きちんと事情を説明し説得しようと試みたのだが、渚の父親はたとえ授業料が無料でも、私立はその他経費が高いからダメだと言い張ったのだ。未成年の渚は父親に屈するしかなかった。
今思い出してもひどい話だ。何故なら渚の弟は同じタイミングで中学受験して、東京の有名私立大学の付属中学に通学する事を決めていたからだ。
渚は渋々公立高校に入学した後も奮起し続けた。父親が大学に行きたいなら国立しか認めないと言い放ったから寝る間を惜しんで猛烈に勉強し、現役でH大学合格を勝ち取った。おそらく父親は地元の大学しか想定していたのだろう。さすがにその結果には驚いていたようだ。
渚は大学でもたゆまなく勉学に励み、同時に外見磨きにも力を入れ、有名コンサル会社への就職を勝ち取ったのだ。
一方で有名私立中学に行った渚の弟は成績が鳴かず飛ばずで、大学にぎりぎり内部進学できたものの学部を選ぶことができず、かろうじて卒業・就職したものの全く思い通りにならない己の人生についていつも家で不貞腐れているらしい。
「これってブラザーペナルティって言うらしいよ」
就職してから渚はそう解説してくれた。ブラザーペナルティとは弟がいる長女は文系を選びやすく、そうでない女性に比べて収入も低いか専業主婦率が高く、性別役割分業意識が強いという海外の研究結果に基づく言葉らしい。客観的にみて渚の方が弟よりも優秀だったのに、女だという理由だけで弟には求められなかった自助努力が求められたのだ。
渚はこのブラザーペナルティを覆したかったのだと私に語ってくれた。文系は渚自身の選択なのでそれはさておき、弟よりも絶対に高い収入を獲得し維持し続けたいのだと。それは渚の意地であり矜持でもあった。
堂々と自力で人生を切り開いてきた渚の浮かない顔を見ていると、私も切なくなってくる。何も言わずに渚の両手を両手で包み込んだ。するとようやく渚が口を開く。
「……あのね……先週の土曜日、わたしの誕生日だったじゃない?」
「うん……」
私は渚に誕生日プレゼントとしてネットでも使える図書券を贈っていた。友達に商品券なんて呆れられそうだが、渚が一番喜ぶものは結局これなのだ。
「その日、彼が誕生祝いに高級フレンチをご馳走してくれるって言うから、ついのこのこと丸の内まで出かけていった訳よ」
渚の彼氏は渚より四つ年上のアラサーサラリーマンで、一流メーカー勤務だとだけ私は聞いていた。
「フレンチは美味しかったよ。窓際で超高層ビルからの夜景もきれいだった。彼は一生懸命調べてその席を予約してくれたんだろうね」
「うん……」
私は相槌を打った。
「そこでいきなりプロポーズされたって訳」
プロポーズされて喜んでいる女性がこんな情けない顔をしている訳がない。渚がどう返事をしたのか容易に想像できてしまった。
「……わたしだって彼との結婚を想像しなかった訳じゃないんだ。なのに彼がその時言ったんだよ、子どもが出来たらわたしには仕事を辞めて欲しいって……」
渚は物憂げな声で続けている。
「だから言ったんだよ。わたしは人生のリスクヘッジの一環として一生仕事を続けたい。だからあなたの気持ちは嬉しいけど、お受けできないってね……」
「そりゃ、そうだよね……」
私も渚の言わんとしている事は痛いほどよく分かる。先ほどのブラザーペナルティの話とは別に、渚の家庭は母親が専業主婦なのだけど、男尊女卑でモラハラ気味の父親とは離婚したら生活が成り立たないからという理由で仮面夫婦状態が続いているのだそうだ。
「そしたら彼が言うわけ。彼親のサポートは十分受けられるから住むところには困らないし、一生君に苦労はさせない。安心して子育てに全力を注いでほしい。自分もそのように親から育てられて本当に正解だったと思っているからってね……」
「あー……話が全然噛み合ってないね」
私は感想を述べた。渚はこくりと頷く。
「そう……絶望的なくらいにね……。彼にはわたしの家庭環境とかは話していたけど、わたしの悔しさとか歯がゆさは全然理解してもらえなかったんだなって哀しくなっちゃったよ……」
「彼ってお坊ちゃまだったの?」
「そうだね……山手線内側に家があるし……やんごとなきお方達の通う学校に幼稚園から大学まで通ってたし」
渚はそう言って肩をすくめた。
きっと彼はその年まで躓くこともなく順調に生きてきたのだろう。渚の事を心から愛していて、彼女にも苦労のない明るい人生を共に歩んでほしいと願ったのだろう。しかし渚はそういう人生を求めていなかっただけなのだ。
「わたしは……その時まで彼の事けっこう好きだったよ……でも生きている世界が違いすぎて結婚はできないと分かってしまった……」
渚は俯いた。
「わたしは我が子のために仕事を辞めて全力で尽くすなんてできない女だ……わたしは自分の人生は自分のために生きたい……もちろん同じ道を共に歩んでくれる相手がいるならそれは嬉しい……だけど……彼の子どもの母として結婚を望まれるのはイヤなんだよ……そもそも子どもが生まれるなんて保証なんてどこにもないんだよ? 全然生まれなかったらどうするの? 不妊治療? それとも離婚?」
「ナギさん……」
私は渚の手を包み込んでいた手に更に力を込めた。渚は潤んだ瞳を私に向ける。
「ごめん……こんな風な言葉でプロポーズされるなんて夢にも思ってなくて、柄になく混乱してしまった……付き合って一年以上経っていたから勝手に彼はわたしの事を理解してくれていると思い込んでいたんだね……幻想だったし、その幻想はお互い様だった……」
「仕方ないよ……」
渚は大学デビューして以来、恋多き女だった。肉食系女子を自称し、いいと思う男子がいれば躊躇なく告白し付き合い、イヤだと思えばあっさりと別れてきた。そんな渚が珍しく一年以上特定の相手と付き合っていたのだから彼との相性は良かったのだろう。だが互いの異なる価値観だけはどうしようもない。
「……で結局どうなったの?」
私は結論を聞いていない事に気が付いた。渚はてへっと笑った。
「あ、言い忘れてた。その場でお別れしたよ。彼ももうアラサーだからね。だけどだいぶ未練がましかったな……僕が悪いなら改めるよとか言って……。でももういいんだ……単なる価値観の相違だから……彼みたいな好条件だったら相手には事欠かないと思うし……彼には幸せになって欲しいよ……」
「結婚って難しいんだね……」
と私が呟くように言うと、渚は首を傾げた。
「有葉ちゃんは簡単じゃん。あっちで掃除している彼に『好きです、つきましては私と結婚して下さい』って言えばいいだけだよ」
「な、な、な、な、何て事を!」
私の顔が瞬間で真っ赤になった。渚はにやりとした。
「恥ずかしくて言えないなら代理で告白してあげてもいいよ」
「やめて~! 自分で言うから! …………そのうち…………」
私は両手で顔を覆った。それからふと気が付く。私は渚に駆の事が好きだとは一言も打ち明けていなかった。完璧に鎌をかけられたのだ。
「ナギさん……どうして気が付いたの!?」
「気が付くもなにも、顔に書いてあるじゃん。二人ともね」
「○×△☆♯♭●□▲★※!!!」
私の発した声は言葉にならなかった。
「そもそも付き合うのに告白って必要なのかな」
渚がしれっと言った。
「セックスから始まる関係があったっていいじゃん。場が盛り上がって互いの合意がきちんとあって、それで身体の相性が良ければそのまま付き合えばいい訳でしょ。愛なんて告白しなくても身体言語で語り合えばいいんだよ」
ひーっと私は声にならない悲鳴を上げ、頭を抱えた。さすが欲望に忠実な肉食系女子、言う事が一味違う。
「で、でも、でもね、ランちゃんとは後少なくとも一年半は同居していかなくちゃいけないもの。そういう事勢いでしちゃって今の関係壊したくないし……。そもそも私はランちゃんを扶養しているから互いの関係は対等じゃないんだよ……」
私は目を白黒させながらも、渚のペースに陥らないように必死に喋った。渚は口元に笑みを浮かべた。
「有葉ちゃんは優しいねー。自分の欲望よりランちゃんの生活を優先してあげてるんだ」
「欲望って言うな~!」
私は怒ったふりをする。あははと渚は笑いながら手を叩いた。
「有葉ちゃんはランちゃんを扶養している事を気にしてるんだよね?」
渚が私の顔を覗き込みながら尋ねてくる。私は頷いた。
「そりゃあね。今の私って傍から見てるとホストやヒモに入れ込んでいる女状態じゃない?」
先日匠とのサシ飲みでの会話を思い出し胸がチクチクと傷んだ。私は駆の父親からそう認識されていたという話をこれでもけっこう引きずっているのだ。
「対価として食事作ってもらっているとは言っても、お金に困った学生を無料でマンションに住まわせてる訳だし……こんな関係とても対等だなんて言えないよ……。」
私は再度『対等』という言葉を使った。
「私の勝手な思い込みなのかもしれないけど、交際する時はお互い対等でいたいんだよね……お互い最低限の収入があって自立していて……」
三度目の『対等』だ。
ふうんと口元に右の人差し指を当て、渚が私をじっと見つめてきた。
「つまり、それって専業主婦の家庭では夫婦が対等じゃないってことだよね?」
渚が自分の母親を頭に置いて話しているという事は分かる。収入がなければ対等じゃない、下に見ていいという発想が父親のモラハラを引き起こしていると言っていた事があったっけ。後悔先に立たずだ。迂闊な事を口にしてしまった。
「ごめん……、でも違う……………………ええとね……結婚は法的拘束力のある契約だから……扶養の相互義務もあるし……夫婦は対等だよ……」
私は必死に頭をフル回転させた。そういえばサシ飲みの時、匠の彼女の英里香さんが結婚は法律の枷がどうのこうのって言ってて結婚に全然前向きになってくれないと言っていた事を突然思い出す。
「でも男女交際自体は契約じゃないよね」
渚は口元の指を当てたまま冷静にこう言った。
「有葉ちゃんの理屈で言うと、親とかに扶養されている学生はそもそも男女交際できないって事だよね」
ひー! 渚に論破されてしまう。確かに私の主張だと親に養われている自立していない学生は男女交際出来ない事になってしまう。
「ううっ、ナギさん怖いです……」
私は涙目になる。渚は私の頑なな思い込みを全力で剥ぎ取りにきている。私と駆の間にある障壁は、主に私の心の中に存在している。私だって本当はそれを分かっているんだ。
「有葉ちゃんの言い分はよく分かってるよ。有葉ちゃんは別に汎用的な事を言っているわけではなく、あくまで自分の気持ちを述べてるだけだよね。付き合うならそういう人がいいっていう話。でもランちゃんはその条件を満たしていない。有葉ちゃんの好意にすがって生活している訳で」
渚の口調が若干柔らかくなった。私は首を縦に振る。
「そうだね…………『勘当』されちゃったんだから、仕方ないよ……」
「でも、本当はおばあさんなりお兄さんに経済的に頼れるって、有葉ちゃんこの前言ってたよね」
「その通りだね」
私は小さく頷く。すると渚が口元に当てていた右手の人差し指を立ててみせた。
「つまりランちゃんは有り体に言えば、有葉ちゃんに甘えてるだけってことだ!」
「…………分かってるよ、そのくらい…………」
私はごにょごにょと口の中で言った。
「ランちゃんだけじゃない……逆に私もランちゃんに甘えているしものすごく依存もしている。一緒に住んでるのがものすごく心地良いし楽なんだ。だからランちゃんを手放したくない…………本当は大学院に行ってからもうちに住み続けて欲しいんだよ……だけどそんな気持ちはランちゃんのせっかくの自立の意欲を削いでしまう…………」
この感情は渚の言う『欲望』そのものなのだろう。私の心の中で、そして血潮の中でぐるぐると渦巻いている行き場のない欲望。
「そんなの当然じゃん。好きなんだから!」
渚はあっけらかんと言い放った。
「それが好きって事じゃん!」
私は目を丸くして、隣に座っている渚の顔をじっと見つめた。渚は続けた。
「もちろんランちゃんの場合有葉ちゃんと同居を続ける動機として、お父さんに対する意地や留年した事に対する悔恨だってあると思うよ。でも本当に経済的にしんどいと感じたならいつだって頼れる人はいるのに、マゾかと思うほどアルバイト必死で頑張って学費を稼いで……今日もこうして掃除しちゃって、有葉ちゃんの傍にい続けてる……それってまさしく愛じゃん!」
それを聞いた私は顔からぼっと火が出るかと思った。
「…………愛…………」
その言葉を口にしただけで恥ずかしくて倒れそうになる。
しかし私は必死で最後の抵抗を試みた。
「でも……ランちゃんが私の事が好きだって思っているのは、きっと刷り込みなんじゃないかな。たまたま人生で一番困っている時に手を差し伸べられたから好きになったと思い込んでるだけで……」
「有葉ちゃん……きみ、案外往生際が悪いね……刷り込みなんかじゃない、それは運命って言うんだよ!」
元文学少女に前のめりで力説され、私はのけぞってしまった。渚はまくし立てる。
「ランちゃんが助けを求めた時誰も手を差し伸べなかったら、きっと彼は最終的に諦めておばあさんに頭を下げたんだと思うよ!」
「…………お父さんもそう思っていたらしい…………勘当と言ったのはあくまでもゲームにハマって留年してしまった息子を反省させるつもりだったみたいだから…………」
先日匠から聞いた話を渚にして聞かせた。ちなみにその話は駆には内緒にしている。そんな話は絶対に聞きたくないと思うから。
「なのに有葉ちゃんが救いの手を差し伸べた。これこそ正に運命だよ!」
渚が両手を組んでうっとりしたような表情を浮かべる。
「どう? これでも否定する?」
「否定っていうか……怖いんだ……意を決して私から告白したのに拒絶されたらとか、最初はうまくいってても途中でダメになっちゃうとか……あれこれ想像しただけで怖くなっちゃう……」
私は両手に顔を埋めた。渚は尋ねてくる。
「半年同居してうまくいってるくせに、それでも怖いんだ?」
「怖いよ……ランちゃんがある日突然私の目の前からいなくなったらと考えただけで怖い……ランちゃんは私にとってもう大切な家族でもあるんだもの…………」
私は身を震わせた。両親がある日突然暴力的な交通事故でこの世から去ってしまったという事実は、未だに私の心に重く圧し掛かっていた。せっかく手にしたささやかな幸せが、自分の迂闊な行動で指の間から滑り落ちていくのが絶対に嫌なのだ。
「そっか……そうだよね、怖いよね……」
今度は渚が私の髪にそっと優しく手で触れてきた。目を向けるとさっきと打って変わって優しい眼差しと声音だった。
「何も急ぐ必要はないよ……焦らせてごめんね……」
「ううん……でも、渚が親身になってくれて本当に嬉しいんだ……私も早くこの恐怖心を克服したい……だって全然先に進めないもの……」
私がそこまで言った時、客間のドアが控えめにノックされた。「どうぞ~」と声を掛けると駆が顔だけのぞかせてきた。
「台所の水回りの清掃は終わったよ。次どうしよう?」
「居間に掃除機かけてくれる?」
そう答えたのだが、駆の視線が私と渚の方に釘付けになっていて、ようやく私達がやたら密着していた事に気が付いた。
駆はこほんと咳をすると
「了解。それにしても二人ってほーんと仲いいんだね」と言いながらパタンとドアを閉めたのだった。
「今の絶対妬いてたね!」
渚が心底嬉しそうに笑う。私は意識が遠のきそうになり、額に手を当てた。
「よしてよ……」
その後渚は用事があると言って帰っていった。「いい男がいたらどんどん紹介してね」と私達に言い残して。
駆がせっせと居間の畳に掃除機をかけている時、私はこの家をどう整理していこうか考えていた。そもそもここをどうするかという問題がある。家を貸すのか、売るのか、更地にするのか、それとも持ち続けるのか。家を遺品として改めて見ると物が多すぎた。 祖母は両親が結婚して私が生まれてから物心つく前にくも膜下出血で亡くなってしまったそうだが、それ以来祖父はここでずっと一人暮らしをしていた。私が保育園に通っていた時は、保育園の終わり頃迎えに行って両親が仕事から帰る時間まで、この家で私の面倒を見てくれていた。だから私にとってとても馴染みのある家となっている。売りたいか? と問われれば売りたくないのが本音なのだが、別なところに住んでいる私がずっと管理しきれるかという問題はあった。人が住まない家は痛みが早いと聞くし、法律改正されて危険な空き家は固定資産税が増やされてしまうらしいし、本当に悩ましい。
そんなことをつらつらと考えている時、騒々しい掃除機の音が止まった。
「居間の掃除は終わったよ。次どうする?」
駆が尋ねてくる。私はつい習慣で居間の壁時計を見上げたものの、電池が既に切れていてこの家の時は止まっていた。代わりに駆の腕時計を見せてもらう。もう五時過ぎていた。
「今日はそろそろ終わりにしようか。もう夕方だしね」
了解、と駆は掃除機を納戸にしまうため一旦部屋を出て行った。
残された私は何となく桐製の和箪笥に目をやった。その上にはたくさんの写真が飾られている。モノクロの祖父母の結婚写真から始まり、母が小学校に入学した時校門で取った記念写真、母や私の成人式の振袖の写真、祖父母の銀婚式の記念写真、両親の結婚式の写真、私のお宮参りの写真、珍しく祖父と両親そして私が映った旅行先での写真など所狭しと並んでいる。
四人で撮った写真のフレームを取り上げ、私は掃除機の片づけを終え戻って来た駆に見せた。
「遺伝って恐ろしいよね……おじいさんもお母さんも私も目、そっくりでしょ」
「いい写真ですよ」
駆は決して茶化したりはしなかった。
「みんな笑顔で楽しそう。これはどこで撮った写真?」
「ええと、ここは群馬の四万温泉だね……背景がレトロな旅館だから。確か今から六年くらい前だったかな」
映画にでも出てきそうな雰囲気の良いレトロな旅館に皆で宿泊した時の写真である。あの時は皆で絵に描いたような古き良き温泉街を散策し、スマートボールで遊んで楽しかった事を思い出す。
次に私は両親の少し大きめの結婚写真を手に取った。二人が結婚した頃は、まだホテルや結婚式場での結婚が主流だったそうだ。二人は地元のホテルで挙式したのだが、写真の中では銀のフロックコートを着た長身の父と、ちょっと時代がかった派手目のメイクをしてAラインのウェディングドレスに身を包んだ母が手をつないで満面の笑みを浮かべていた。
「お父さん、この頃は痩せててけっこうイケメンだったんだよね。晩年はお腹がすっかりテディベアになってしまったけど……」
私は笑いながら続けた。
「実はこの二人、なかなか結婚を認めてもらえなかったんだって。出会ったのがゲームのオフ会ってお母さんがうっかり説明したらおじいさんが激怒しちゃって。ゲームなんてやってる男はきっとチャラチャラしているに違いないからって」
「お母さんもそのゲームのファンだったんだよね?」
駆が唖然としたように尋ねてくる。私は頷いた。
「もちろん。半ばいちゃもんだって。お母さんは一人娘だったから、おじいさん的にはどこの馬の骨とも知れない男との結婚を簡単に認めたくなかっただけなんじゃないの?」
ふふっと駆が笑った。
「でも最終的には認められたんですよね?」
「もちろん! お父さんは人たらしだったんだよ。何度も懲りずにお酒を持参しておじいさんと腹を割って話し合って、ようやく心を掴んだらしいよ」
父はオタクではあったけど、同時に年配者に好かれる気遣いができるタイプでもあったから昭和の男だった祖父の懐に飛び込むことができたのだろう。
「す、凄いね。お父さんはそこまでしてもお母さんと結婚したかったんだね!」
駆が感嘆したように声を上げた。
「その愛のパワーが凄いよね?」
私はそう言いながら手にした写真を再び見つめた。父はいつも「お母さんよりも長生きしたくない」って言っていた。「お母さんがいない世界なんて見たくない、生きていたくない」って。一方父より三つ年下の母は「平均寿命は女性の方が長いんだよ。私の方が長生きする確率の方が圧倒的に高い。お父さんは私が看取ってあげるからいい加減安心しなさい」ってクールに言ってたっけ。なのに二人同時にこの世を去ってしまった。こんな形で父の願いが叶ってしまった事が哀しく思えてならなかった。
そんな事をふと思い返していたら、私の両目からいきなり涙がぼとぼとと溢れてきた。突然前触れもなく泣き始めた私を見て、傍で一緒に写真を眺めていた駆がおろおろし始める。
「アルファさん……?」
今気が付いたけど、私は駆の前では泣いたことがなかったのだ。涙もろい駆がいつも泣いてばかりだったから。
「ごめん…………何故か泣けてくる…………もうだいぶ経つのにね…………」
私の涙は全然止まらなかった。駆は私の正面についと回って、顔に指を差し出すとそっとぬぐってくる。その予想外の仕草に驚きのあまり私の涙が引っ込んでしまった。私は呆然と駆を見上げる。
「きれいなハンカチが手元になかったからついとっさに……勝手に触ってしまってごめんなさい! 指はさっき洗ったばかりだからきれいなはずだけど……」
駆は必死に謝ってくる。それから少したってからぽつりぽつりとこう続けた。
「あのね……ええと、泣くのは全然恥ずかしい事じゃないと思う……泣き虫のオレが言うとなんか言い訳がましいよね……でもオレのおばあさんは物凄く気丈な人だけど、それでもおじいさんのお墓の前で何度も泣いてたよ……。悲しみって別に克服する必要はないんじゃないかな……亡くなった方の事を思い出して悲しければ何度だって泣いていいと思うんだ……」
「……………………うん、そうだね……………………」
私は小さく頷き自分の指で涙をぬぐう。飾らない駆の言葉が嬉しかった。
少し落ち着いたので客間に置きっぱなしにしていた自分のショルダーバッグからミニタオルを取り出し、涙を拭く。駆に何度でも泣いていいと言われた事がじわじわと胸に沁みていく。再び目から涙が零れ落ちた。しかしこれは嬉し涙なのだった。
祖父の家の戸締りをしっかり行い鍵を駆に委ねた後、夕暮れの緩やかな坂道を下り始めた。駆はこういう時何も言わずに歩道の車道側を歩いてくれる。駆がふとこう言った。
「大学に進学したばかりの頃、身近に大きな山が見えなくて不安で仕方なかったんだ……関東平野って本当に広いんだね……びっくりしたよ」
「山って遠くに小さくしか見えないよね。埼玉でも冬、空気が澄んだ日に運が良ければ富士山が見えたりもするけど。君の実家からだとどんな山が見えるの?」
と私が尋ねると、駆は「岩手山」と答えながらサコッシュからスマホを取り出し、それをいじって美しく壮麗な雪山の映った風景写真を見せてくれた。
「こんな感じで見えるんだ。綺麗でしょう? 盛岡から見るよりも一回り小さいけど、それでも毎日仰ぎ見ていた山なんだ。家の近くを北上川が流れていて……」
「それが君の故郷の風景なんだね」
「東京から地元に移住してきたおじいさんがその風景を大層気に入ったんだって……おばあさんの家にはおじいさんが水彩絵の具で描いた風景画が山のように残っているんだ」
東京出身の人も魅了するなんてさぞかし美しい風景なのだろうなあと、羨ましく思った。
「私は御覧の通りの何の変哲もない風景を毎日見てたよ……」
この周辺は基本住宅街なので、家やマンションばかりである。所々に古くからある神社があるくらいで、何の変哲もない風景だ。振り向けば遠くにパルコが見えるけど。
「それでもアルファさんの大切な風景だよ」
駆がそう言ってくれたので、私はふふっと笑った
「岩手山見てみたいなあ」
「オレが無事進級できたら行ってみる?」
すると駆がそう提案してきたので、私は訂正した。
「進級できたら、じゃなくて絶対するの!」
そして旅行案には同意する。
「ま、それは置いておいて、いいね! 私、盛岡はまだ行った事ないんだよ!」
「じゃ、絶対に行こう! アルファさんに見せたいところ一杯あるんだよ!」
駆の声ははしゃいでいた。勘当されたから地元には帰りたくないのかと思ってたけど、実家に行かなければ平気なのかな。
「どこがお勧め?」
私が尋ねると駆はそれは嬉しそうに話し始めた。
「やっぱり不来方城かな。石川啄木が『不来方の~』って歌ったところ」
「あ、その短歌私でも知ってる!」
「後はね、盛岡はレトロな喫茶店が多いんだ! オレのお気に入りの喫茶店にアルファさんを是非連れていきたい! 絶対に気に入るはずだから!」
「お、いいね!」
「麺も有名だよ。わんこそばに冷麺にじゃじゃ麺」
「盛岡、グルメの街じゃん」
「さらに有名なコッペパンがあってね。オレの高校の近くに本店があるんだけど、観光客が行列するんだよ」
「コッペパンに行列!?」
私は仰天した。駆は頷く。
「挟む具が色々選べるんだよ。まあ、地元民は並ばずに済む違う店に行くんだけどね」
「そこも行くー!」
私が右手を挙げた。
「少し離れたところには小岩井農場もあるよ」
「新鮮な牛乳飲みたい!」
「つなぎ温泉という美肌の湯もある!」
「泊まりはそこかな?」
駆はどんどん列挙していく。話を聞いているだけで私の旅行欲が高まっていった。
「本屋で岩手の旅行雑誌買わなくちゃ!」
「レンタカーの運転はオレに任せて!」
「おう、期待してる!」
私達は酒を飲んだわけでもないのにテンション高くおしゃべりしながら、近所にある安い事で有名な大型スーパーに向かって歩いて行った。
スーパーの中に入ってから、入り口に置いてあるかごを持った駆が尋ねてくる。
「アルファさん、今晩何が食べたい?」
「ランちゃんが作るものなら何でもいいよ」
「何でもいいが一番困るっていつも言ってるでしょ!」
笑顔の駆に叱られた。まるでお母さんのようである。
「ごめんごめん、じゃあ今日はお互い頑張ったからピザにしよう。ここのピザ安くておいしいよね」
「了解! 支払いはアルファさん、お願いします」
ポイ活大好きな駆だが、このスーパーは現金払いのみ会員割引があるのだ。キャッシュレス決済で付与されるポイントよりも現金払いの方がお得なのは計算すれば明らかだ、ただし現金を持っていればの話だけど。
「はーい、あれ、でも、私現金持ってたかな? 最近私の財布のキャッシュレス化が進んでて現金持つ習慣がなくなっちゃって」
私ははたと立ち止まるとショルダーバッグから財布を取り出して確認する。大丈夫、夕食分くらいの現金はちゃんと残っていた。
本当に世帯じみた会話である。色気も素っ気もなさすぎる。でも、私は駆のきれいな横顔を見上げながら幸せを噛みしめていた。この他愛もない会話こそが、何物にも代えがたい尊いものであることを私は知っているから。
私の視線に気が付いた駆が、私の方を向いてにこっと笑った。いつも思うのだが駆の笑顔は極上だ。
「そういえばタバスコ切れてたよね」
「うん、粉チーズも買い足しておかなくちゃ」
私は微笑み返すと、そう付け加えたのだった。
ショルダーバッグからこの家の鍵を取り出し玄関の引き戸タイプの扉をガラガラと開けると、埃っぽくて微かにかび臭い淀んだ空気が漂ってくる。けほけほと咳をしながら、まずはドアを全開にし、先ほど買ったばかりの三人分のスリッパと不織布マスクをエコバッグから取り出す。後から渚が来る事になっているから、その分もである。こんな埃まみれの家を素足で歩くことはできないし、させられない。マスクももちろん必須アイテムである。
「まずは換気だ。全部の部屋の窓を開けよう。君は一階をお願い!」
駆に声を掛けてから、私はスリッパを履いて玄関正面にある少し急な階段を上って二階に向かった。 二階には母の使っていた子ども部屋と祖父の和風な書斎がある。まず母が結婚前暮らしていた洋間のドアの前に立った。ドアには母が工作で作ったのだろう、少し不格好な木製のプレートがかけてあって、「葉月は不在です」と表示されている。ドアをゆっくり開くと、長い間閉ざされていた部屋独特のこもる臭いがしたので、急いでカーテンを開き窓を開けた。この部屋の本棚には母が独身時代収集してきた本やマンガがどっさり眠っている。私が幼い頃はやたら乙女チックな白いベッドや勉強机もあったのだが、私達家族三人が泊まりに来た時寝る場所を確保するために撤去されていた。
部屋を出る前に振り返ってぐるりと見回すと、壁には母のお気に入りだった昔のゲームのポスターが3枚ほど貼ってある。価格やゲームスペックが書いてあるから店頭でもらったものなのだろう。それ以外には、母が中学の頃読書感想文を書いてもらったらしい表彰状や合唱コンクールの賞状なども貼ってある。すべて色褪せ、時の流れを嫌でも感じさせられるものだった。
次に祖父の畳敷きの書斎に行き、同様に障子と窓を開け放った。ここにはどっしりとした木製の文机と祖父が研究していた郷土史の資料がどっさり置いてある。迷惑でなければいずれ地元の図書館に寄贈したいと思っているのだけど。私は幼い頃祖父に連れられ、地域にある石碑や神社など見に行ったものだ。母を連れて行った時には反応が薄かったのに、私を連れて行くととても楽しそうだったので嬉しくなってしまい、あちこち連れ歩いたのだと祖父は生前語っていた。
私は文机の上に置いてあった祖父の万年筆で書かれたノートを一瞬手に取ったものの、ノスタルジックな感傷を振り切るために首を何度か振るとノートを置き、書斎を出て階段を下りて行った。一階にある納戸に掃除機が入っていたはずだから、まずはそれを取り出さないといけない。
駆が祖父が使っていた広めの寝室の窓を開けている間に、納戸の奥からレトロなデザインの掃除機を取り出そうと一人で格闘している時に、玄関のチャイムが鳴った。渚だろうか。
「はーい。少々お待ちください!」と大声で返事しながら出ていくと、玄関に立っていたのは渚ではなく、隣人で母の幼馴染、久美子おばさんだった。祖父が心臓発作を起こし門前で倒れているところを発見して救急車を呼んでくれたのも、この久美子おばさんである。
「有葉ちゃん、お久しぶり、元気だった?」
「お久しぶりです、ご無沙汰していて申し訳ありませんでした」
私はぺこりと頭を下げた。
「この通り、なんとか生きてます」
そう言いながら頭に手を当てあははと笑う。
久美子おばさんは心配そうな顔をした。
「もう、葉月ちゃん亡き後、有葉ちゃんは私にとって娘同然なんだからね! お願いだから時々顔出してよ!」
「はい、すみませんでした」
私は再度頭を下げる。
その時久美子おばさんががたがたと音がする廊下の奥が気になるのか、背伸びをして覗こうとしている事に気が付いた。
「おばさん……実は今日……『彼』に来てもらってるんです」
『彼』という言葉を使うのには勇気がいる。一瞬詰まってしまった。すると久美子おばさんの目がきらんと輝いた。
「え、本当なの? 有葉ちゃん、ついに彼氏ができたのね!?」
駆にはしばらくこの家に出入りして掃除をしてもらわないといけないから、隣人の久美子おばさんへの紹介は必須なのである。私は奥に向かって駆を呼んだ。
「ランちゃん、ちょっと来てくれる?」
「はーい!」
先ほど渡した蟹工船の黒いTシャツに着替え、汗除けなのか大きめの黒いヘッドバンドを付けた駆が飛んできた。
私は久美子おばさんに駆を紹介する。
「おばさん、こちらが私の『彼』の山城 駆君です。大学生なので時間のある時にこの家の掃除をやってもらおうと思っていて……」
「山城です。よろしくお願いします!」
駆は礼儀正しく頭を下げた。
「ランちゃん、こちらが新井 久美子さん。お隣さんで、私のお母さんの幼馴染だったの。本当にいろいろとお世話になりっぱなしで……特におじいさんが倒れた時は救急車を呼んでくれて……」
久美子おばさんも駆にぺこりと頭を下げた。
「よろしくね、山城君」
それから私の方を向いてこう言った。
「いいのよ、お互い様じゃない。五十嵐のおじさんは葉月ちゃんを亡くしてから本当に意気消沈していたから気にはしていたんだけどね……もっと早く発見できていればとは思ってるのよ……」
「おばさんがすぐ発見してくれたから、私もおじいさんの最期の時に立ち会う事が出来たので本当に感謝しているんです」
私が久美子おばさんから連絡を受け近くの病院に向かった時、祖父は息を引き取る直前だった。それでも死に目に会う事が出来て良かったと思っている。両親の時は既に冷たくなっていたのだから。本当は一緒に住めばよかったのだろうが、祖父が頑なに拒んだのだ。一人で住むのに慣れてしまったからと言い張って。
「やだ、有葉ちゃん、泣けてくるからやめて」
久美子おばさんが目尻に指を当てた。そして再度駆の方を向いてこう言う。
「山城君、有葉ちゃんを本当によろしくね。それから……結婚式には絶対に呼んでちょうだい」
「有葉さんの事は全部オレに任せてください!」
駆はいたって真面目な表情で、らしくないえらく男っぽい台詞を吐いている。
「おばさん、さすがに気が早いって! それにランちゃんも止めて!」
私の顔が熱を帯びる。久美子おばさんは嬉しそうに笑うと、「じゃあ、そろそろおいとまするね」と言って手をひらひらと振りながら玄関を出て行った。
「いい方だね……」
その後ろ姿を見送りながら駆が呟いた。私は頷いた。
「そうだね……それにおじいさんの件では本当に恩人だよ……。ただ、会う度に私の結婚のことばかり気にしているのだけは止めて欲しいけど」
「おばさんの気持ちは痛いほど分かるな。アルファさんって放っておけないから」
駆が呟くように言う。私の眉間に自然に皺が寄った。
「ねえ、さっき綾乃さん達が来た時もそうだけど、私ってそんなに頼りないかな?」
駆は首を振る。
「違うよ。みんな、アルファさんの事を大切に思っているだけだって……」
私だってそれは分かっているのだ。心底有り難いと思ってはいるものの、だからこそ辛くなる時もある。さらに駆の場合、私の『彼氏』という設定に従って演技してくれているだけという事は分かっているからこそ、守る、だの任せろだのといった言葉が空虚に感じられ切なくなってしまうのだ。
「それは分かってるって……」
そう短く言ってから、私はこの話題を打ち切るかのように駆から顔を逸らすと、「早く掃除しないと」と掃除機を取り出すべく納戸の方に向かった。
「じゃあ、オレは台所の流しの掃除するから…………」
背後から聞こえる駆の声は少ししょんぼりと響いた。
渚を迎えるために、私はまず玄関と廊下に掃除機をかけてから、客間の掃除を始める事にした。この家は居間とは別に玄関のすぐ隣に立派な客間があるのだ。天井にはシャンデリア、革製の大きなソファに百科事典の配された立派な本棚、高級なローボード、懐かしのブラウン管のテレビ。出窓に他の部屋に比べて豪華なカーテン、毛足の長い深紅の絨毯。基本和風の家なのにここだけは徹底的に洋風だった。掃除機を使わなければならないので、駆には台所の水回りを掃除してもらう事にした。
窓を開けてもさほど風がないため、ちょっと動くだけで汗がどっと吹き出してくる。エアコンなどという気の利いたものは設置されていなかったので、先ほどの納戸から古めかしい扇風機を持ち出してきた。祖父は物が捨てられない性分で、平気で年代物の家電品を使っていたのだ。
扇風機を稼働させると暑さがだいぶましになったので、掃除を続行する。さっき墓掃除をしたばかりだし、今日の私は滅茶苦茶働き者ではなかろうか。そう自画自賛しながら持参したペットボトルのすっかり生ぬるくなってしまったミネラルウォーターを飲んでいる時、玄関のチャイムが鳴った。今度こそ渚だろう。
今日の渚は白いレース地のカットソーに水色のシンプルなキャミワンピを着ていた。明るく染めた短めのナチュラルボブにこれまたナチュラルメイクをばっちり決めた小柄な渚は本当に可愛い。手には白いケーキ箱を持っているので、それがLIMEで言ってた手土産なのだろう。
「久しぶりにこっちまで来たから、ケーキ買って来たよ」
渚が口にしたのはここの近所にある地元でも有名なパティスリーの名前だった。
「やったー!」
私は万歳をし、台所で水回りの徹底掃除をしている駆を呼んだ。渚と駆は既に面識もあり、何度か一緒に食事もしている仲だ。
玄関でサンダルを脱ぎスリッパに履き替えていた渚は、呼ばれてやって来た駆が蟹工船Tシャツを着ているのに気が付くなり大笑いをし始めた。渚は本の虫であり、元文学少女なのだ。
「あひゃひゃ、ランちゃん、そのTシャツって!!!」
「アルファさんがくれたんですけど、何か変ですか?」
駆はツボに入りまくって腹を抱えて笑い転げている渚を不思議そうに眺めている。
「いやね、有葉ちゃんに無理やり労働させられ、オレは搾取されているというメッセージなのかと思ったのよ」
「そんな訳ないですよ」
駆が口を尖らせた。私も異議を唱えた。
「ナギさん、失礼な! 言っておくけど私達は対等な労働契約を結んでるんだよ」
本当に対等かどうかは怪しいけど。今駆がしている家事をやってもらうために住み込みのお手伝いさんを雇ったら、もっと高くつくだろうから。
「ごめんごめん、そのTシャツ、とっても似合ってるよ」
フォローのつもりなのか渚がそう言ったが、駆はむくれたままだ。通常誰に対しても愛想の良い駆だが、渚に対してだけは不思議とかなり素で振舞ってくる。渚はそんな駆の態度を面白がっているようだ。渚には弟が一人いるから、そんな感じで扱ってくるので駆も気楽なのだろう。
渚がせっかく買ってきてくれたケーキを食べるべく、あまり広くない台所に行ってやかんでお湯を沸かし始める。その後大きな食器棚からケーキ皿とフォーク、ティーカップを取り出し軽く水洗いをした後、家から持参したアールグレイのティーバッグを使い、紅茶を淹れる。
渚が買ってきてくれたケーキは三種類。季節のフルーツを使ったタルト オ フリュイ、ガトーショコラ、シブーストである。駆と私でケーキ皿とティーカップを客間まで運び、重厚なローテーブルの上に並べた。
ケーキはじゃんけんで勝った者順に選ぶことにする。結局私が買ったのでシブーストを選び、駆がタルト オ フリュイ、渚がガトーショコラとなった。フランスで修業したというパティシエの作ったケーキは本当に絶品だった。しばらく三人で舌鼓を打つ。
全員食べ終わり食器を片付け洗ってしまうと、駆は私に対してこう言った。
「後はオレがやるんで、アルファさんは渚さんと客間でおしゃべりしていて下さい」
「えー、でも悪いよ」
と念のため言うと、
「お願いだからオレの仕事取らないで!」
そう言う駆の顔はいたって真剣だった。「はーい、分かりました」と私は敢えて逆らわず駆に甘える事にする。
私が客間に入った時、渚はちょこんとソファに座っていた。反対側のソファに座ろうとすると、渚は自分の隣をぽんぽんと叩いた。こっちに来いという事らしい。言われるがままに隣に座った。
「何があったのよ?」
私が尋ねると、それまで笑顔だった渚の顔がとたんに情けなさそうな表情となった。自信満々に我が道を突き進む渚がそんな顔をすることは、今はそうない事だ。だが中学の頃はしょっちゅうそんな顔をして私を見つめていたことをふと思い出す。
渚と私は小学一年の時たまたま同じクラスになってから、クラス替えで違うクラスになる事はあっても、ずっと仲の良い親友同士だった。
お互い中学受験などはせず地元の中学に進級したのだが、その頃の渚は文学少女ながり勉に成長していた。垢ぬけないボブカットというよりもおかっぱ頭で、今でこそコンタクト派だが、当時はあまり似合っていない黒いプラスチックの大きなフレームの眼鏡をかけた地味な女子中学生だった。学校でも同級生とはほとんど交流せずにひたすら本を読んでいた。小学校の時から渚を知る私は、渚が幼い同級生達を見下している事を知っていた。仕方ないだろう。中学生にして大人が読むような難しい本を読みこなしていた渚と同級生達とでは、精神年齢に大きな隔たりがあったのだ。特に男子との精神年齢の差は大きく、小学生と高校生くらいの差があった。渚からすれば望んでもいないのにガキの群れに無理やり放り込まれたようなものだ。耳を塞ぐためにも一人で本を読んでいるしかなかったのだ。
そんな渚は中二の時、いわゆるスクールカースト一軍に所属するクラスメート達の格好のイジメのターゲットとなってしまった。プリントを回してもらえなかったり、所持品を隠されたり捨てられたり。SNSを使った悪口も横行していたようだ。しかし渚はそんなイジメすら恐ろしいほど冷ややかに受け止めていた。
中三の時渚と同じクラスとなった私は、迷うことなく当然のように親友の渚を庇い始めた。すると私もイジメのターゲットにされてしまった。大切な文房具を壊されたり、SNSである事ない事書かれたりもした。その当時、毎朝学校に行かねばならない事は本当に憂鬱で仕方なかった。両親に相談すればよかったのだろうが、何故か憚られた。私を愛してくれている両親を悲しませたくなかったし、イジメの事実を知ったら両親がどんな行動を取るのか全く想像もできず、逆に怖かったのだ。担任はすべてにおいて頼りにならないタイプだったし。
一方渚が自身の親に相談しなかったのは、両親を――特に父親を全く信頼していなかったからだ。悲しい事に渚にとって、親とは全然頼れる存在ではなかった。渚は私に巻き込んでしまった事を、不甲斐ない自分自身を責めるかのような情けない表情で何度も何度も詫びたが、私は一人ならともかく渚と一緒なら耐えられると思った。中学校なんてほんの通過点に過ぎないと思えたからだ。
私達は相談した結果、とにかく今は我慢する。二人で励まし合いながら頑張って勉強し、イジメの加害者とは違う高校に進学して、彼らとは絶対におさらばすると決めたのだった。
結局、私は東京にあるそこそこ偏差値の高い共学の私立高校に、渚は地元では一番の進学校である公立の女子高に進学した。本当は渚も地元自体とおさらばして私と同じ高校に行きたがったのだけど、渚の父親が私立高校への進学を認めなかったのだ。女子なんてどうせ結婚して家を出て行ってしまうのだから、教育費をかける意味なんてないとの考えからだったそうだ。
渚は毎月受けていた模試の結果でもってその私立高校の特待生の権利を獲得していたので、父親の言い分は理不尽そのものだった。もちろん渚とて言われっぱなしではなかった。きちんと事情を説明し説得しようと試みたのだが、渚の父親はたとえ授業料が無料でも、私立はその他経費が高いからダメだと言い張ったのだ。未成年の渚は父親に屈するしかなかった。
今思い出してもひどい話だ。何故なら渚の弟は同じタイミングで中学受験して、東京の有名私立大学の付属中学に通学する事を決めていたからだ。
渚は渋々公立高校に入学した後も奮起し続けた。父親が大学に行きたいなら国立しか認めないと言い放ったから寝る間を惜しんで猛烈に勉強し、現役でH大学合格を勝ち取った。おそらく父親は地元の大学しか想定していたのだろう。さすがにその結果には驚いていたようだ。
渚は大学でもたゆまなく勉学に励み、同時に外見磨きにも力を入れ、有名コンサル会社への就職を勝ち取ったのだ。
一方で有名私立中学に行った渚の弟は成績が鳴かず飛ばずで、大学にぎりぎり内部進学できたものの学部を選ぶことができず、かろうじて卒業・就職したものの全く思い通りにならない己の人生についていつも家で不貞腐れているらしい。
「これってブラザーペナルティって言うらしいよ」
就職してから渚はそう解説してくれた。ブラザーペナルティとは弟がいる長女は文系を選びやすく、そうでない女性に比べて収入も低いか専業主婦率が高く、性別役割分業意識が強いという海外の研究結果に基づく言葉らしい。客観的にみて渚の方が弟よりも優秀だったのに、女だという理由だけで弟には求められなかった自助努力が求められたのだ。
渚はこのブラザーペナルティを覆したかったのだと私に語ってくれた。文系は渚自身の選択なのでそれはさておき、弟よりも絶対に高い収入を獲得し維持し続けたいのだと。それは渚の意地であり矜持でもあった。
堂々と自力で人生を切り開いてきた渚の浮かない顔を見ていると、私も切なくなってくる。何も言わずに渚の両手を両手で包み込んだ。するとようやく渚が口を開く。
「……あのね……先週の土曜日、わたしの誕生日だったじゃない?」
「うん……」
私は渚に誕生日プレゼントとしてネットでも使える図書券を贈っていた。友達に商品券なんて呆れられそうだが、渚が一番喜ぶものは結局これなのだ。
「その日、彼が誕生祝いに高級フレンチをご馳走してくれるって言うから、ついのこのこと丸の内まで出かけていった訳よ」
渚の彼氏は渚より四つ年上のアラサーサラリーマンで、一流メーカー勤務だとだけ私は聞いていた。
「フレンチは美味しかったよ。窓際で超高層ビルからの夜景もきれいだった。彼は一生懸命調べてその席を予約してくれたんだろうね」
「うん……」
私は相槌を打った。
「そこでいきなりプロポーズされたって訳」
プロポーズされて喜んでいる女性がこんな情けない顔をしている訳がない。渚がどう返事をしたのか容易に想像できてしまった。
「……わたしだって彼との結婚を想像しなかった訳じゃないんだ。なのに彼がその時言ったんだよ、子どもが出来たらわたしには仕事を辞めて欲しいって……」
渚は物憂げな声で続けている。
「だから言ったんだよ。わたしは人生のリスクヘッジの一環として一生仕事を続けたい。だからあなたの気持ちは嬉しいけど、お受けできないってね……」
「そりゃ、そうだよね……」
私も渚の言わんとしている事は痛いほどよく分かる。先ほどのブラザーペナルティの話とは別に、渚の家庭は母親が専業主婦なのだけど、男尊女卑でモラハラ気味の父親とは離婚したら生活が成り立たないからという理由で仮面夫婦状態が続いているのだそうだ。
「そしたら彼が言うわけ。彼親のサポートは十分受けられるから住むところには困らないし、一生君に苦労はさせない。安心して子育てに全力を注いでほしい。自分もそのように親から育てられて本当に正解だったと思っているからってね……」
「あー……話が全然噛み合ってないね」
私は感想を述べた。渚はこくりと頷く。
「そう……絶望的なくらいにね……。彼にはわたしの家庭環境とかは話していたけど、わたしの悔しさとか歯がゆさは全然理解してもらえなかったんだなって哀しくなっちゃったよ……」
「彼ってお坊ちゃまだったの?」
「そうだね……山手線内側に家があるし……やんごとなきお方達の通う学校に幼稚園から大学まで通ってたし」
渚はそう言って肩をすくめた。
きっと彼はその年まで躓くこともなく順調に生きてきたのだろう。渚の事を心から愛していて、彼女にも苦労のない明るい人生を共に歩んでほしいと願ったのだろう。しかし渚はそういう人生を求めていなかっただけなのだ。
「わたしは……その時まで彼の事けっこう好きだったよ……でも生きている世界が違いすぎて結婚はできないと分かってしまった……」
渚は俯いた。
「わたしは我が子のために仕事を辞めて全力で尽くすなんてできない女だ……わたしは自分の人生は自分のために生きたい……もちろん同じ道を共に歩んでくれる相手がいるならそれは嬉しい……だけど……彼の子どもの母として結婚を望まれるのはイヤなんだよ……そもそも子どもが生まれるなんて保証なんてどこにもないんだよ? 全然生まれなかったらどうするの? 不妊治療? それとも離婚?」
「ナギさん……」
私は渚の手を包み込んでいた手に更に力を込めた。渚は潤んだ瞳を私に向ける。
「ごめん……こんな風な言葉でプロポーズされるなんて夢にも思ってなくて、柄になく混乱してしまった……付き合って一年以上経っていたから勝手に彼はわたしの事を理解してくれていると思い込んでいたんだね……幻想だったし、その幻想はお互い様だった……」
「仕方ないよ……」
渚は大学デビューして以来、恋多き女だった。肉食系女子を自称し、いいと思う男子がいれば躊躇なく告白し付き合い、イヤだと思えばあっさりと別れてきた。そんな渚が珍しく一年以上特定の相手と付き合っていたのだから彼との相性は良かったのだろう。だが互いの異なる価値観だけはどうしようもない。
「……で結局どうなったの?」
私は結論を聞いていない事に気が付いた。渚はてへっと笑った。
「あ、言い忘れてた。その場でお別れしたよ。彼ももうアラサーだからね。だけどだいぶ未練がましかったな……僕が悪いなら改めるよとか言って……。でももういいんだ……単なる価値観の相違だから……彼みたいな好条件だったら相手には事欠かないと思うし……彼には幸せになって欲しいよ……」
「結婚って難しいんだね……」
と私が呟くように言うと、渚は首を傾げた。
「有葉ちゃんは簡単じゃん。あっちで掃除している彼に『好きです、つきましては私と結婚して下さい』って言えばいいだけだよ」
「な、な、な、な、何て事を!」
私の顔が瞬間で真っ赤になった。渚はにやりとした。
「恥ずかしくて言えないなら代理で告白してあげてもいいよ」
「やめて~! 自分で言うから! …………そのうち…………」
私は両手で顔を覆った。それからふと気が付く。私は渚に駆の事が好きだとは一言も打ち明けていなかった。完璧に鎌をかけられたのだ。
「ナギさん……どうして気が付いたの!?」
「気が付くもなにも、顔に書いてあるじゃん。二人ともね」
「○×△☆♯♭●□▲★※!!!」
私の発した声は言葉にならなかった。
「そもそも付き合うのに告白って必要なのかな」
渚がしれっと言った。
「セックスから始まる関係があったっていいじゃん。場が盛り上がって互いの合意がきちんとあって、それで身体の相性が良ければそのまま付き合えばいい訳でしょ。愛なんて告白しなくても身体言語で語り合えばいいんだよ」
ひーっと私は声にならない悲鳴を上げ、頭を抱えた。さすが欲望に忠実な肉食系女子、言う事が一味違う。
「で、でも、でもね、ランちゃんとは後少なくとも一年半は同居していかなくちゃいけないもの。そういう事勢いでしちゃって今の関係壊したくないし……。そもそも私はランちゃんを扶養しているから互いの関係は対等じゃないんだよ……」
私は目を白黒させながらも、渚のペースに陥らないように必死に喋った。渚は口元に笑みを浮かべた。
「有葉ちゃんは優しいねー。自分の欲望よりランちゃんの生活を優先してあげてるんだ」
「欲望って言うな~!」
私は怒ったふりをする。あははと渚は笑いながら手を叩いた。
「有葉ちゃんはランちゃんを扶養している事を気にしてるんだよね?」
渚が私の顔を覗き込みながら尋ねてくる。私は頷いた。
「そりゃあね。今の私って傍から見てるとホストやヒモに入れ込んでいる女状態じゃない?」
先日匠とのサシ飲みでの会話を思い出し胸がチクチクと傷んだ。私は駆の父親からそう認識されていたという話をこれでもけっこう引きずっているのだ。
「対価として食事作ってもらっているとは言っても、お金に困った学生を無料でマンションに住まわせてる訳だし……こんな関係とても対等だなんて言えないよ……。」
私は再度『対等』という言葉を使った。
「私の勝手な思い込みなのかもしれないけど、交際する時はお互い対等でいたいんだよね……お互い最低限の収入があって自立していて……」
三度目の『対等』だ。
ふうんと口元に右の人差し指を当て、渚が私をじっと見つめてきた。
「つまり、それって専業主婦の家庭では夫婦が対等じゃないってことだよね?」
渚が自分の母親を頭に置いて話しているという事は分かる。収入がなければ対等じゃない、下に見ていいという発想が父親のモラハラを引き起こしていると言っていた事があったっけ。後悔先に立たずだ。迂闊な事を口にしてしまった。
「ごめん……、でも違う……………………ええとね……結婚は法的拘束力のある契約だから……扶養の相互義務もあるし……夫婦は対等だよ……」
私は必死に頭をフル回転させた。そういえばサシ飲みの時、匠の彼女の英里香さんが結婚は法律の枷がどうのこうのって言ってて結婚に全然前向きになってくれないと言っていた事を突然思い出す。
「でも男女交際自体は契約じゃないよね」
渚は口元の指を当てたまま冷静にこう言った。
「有葉ちゃんの理屈で言うと、親とかに扶養されている学生はそもそも男女交際できないって事だよね」
ひー! 渚に論破されてしまう。確かに私の主張だと親に養われている自立していない学生は男女交際出来ない事になってしまう。
「ううっ、ナギさん怖いです……」
私は涙目になる。渚は私の頑なな思い込みを全力で剥ぎ取りにきている。私と駆の間にある障壁は、主に私の心の中に存在している。私だって本当はそれを分かっているんだ。
「有葉ちゃんの言い分はよく分かってるよ。有葉ちゃんは別に汎用的な事を言っているわけではなく、あくまで自分の気持ちを述べてるだけだよね。付き合うならそういう人がいいっていう話。でもランちゃんはその条件を満たしていない。有葉ちゃんの好意にすがって生活している訳で」
渚の口調が若干柔らかくなった。私は首を縦に振る。
「そうだね…………『勘当』されちゃったんだから、仕方ないよ……」
「でも、本当はおばあさんなりお兄さんに経済的に頼れるって、有葉ちゃんこの前言ってたよね」
「その通りだね」
私は小さく頷く。すると渚が口元に当てていた右手の人差し指を立ててみせた。
「つまりランちゃんは有り体に言えば、有葉ちゃんに甘えてるだけってことだ!」
「…………分かってるよ、そのくらい…………」
私はごにょごにょと口の中で言った。
「ランちゃんだけじゃない……逆に私もランちゃんに甘えているしものすごく依存もしている。一緒に住んでるのがものすごく心地良いし楽なんだ。だからランちゃんを手放したくない…………本当は大学院に行ってからもうちに住み続けて欲しいんだよ……だけどそんな気持ちはランちゃんのせっかくの自立の意欲を削いでしまう…………」
この感情は渚の言う『欲望』そのものなのだろう。私の心の中で、そして血潮の中でぐるぐると渦巻いている行き場のない欲望。
「そんなの当然じゃん。好きなんだから!」
渚はあっけらかんと言い放った。
「それが好きって事じゃん!」
私は目を丸くして、隣に座っている渚の顔をじっと見つめた。渚は続けた。
「もちろんランちゃんの場合有葉ちゃんと同居を続ける動機として、お父さんに対する意地や留年した事に対する悔恨だってあると思うよ。でも本当に経済的にしんどいと感じたならいつだって頼れる人はいるのに、マゾかと思うほどアルバイト必死で頑張って学費を稼いで……今日もこうして掃除しちゃって、有葉ちゃんの傍にい続けてる……それってまさしく愛じゃん!」
それを聞いた私は顔からぼっと火が出るかと思った。
「…………愛…………」
その言葉を口にしただけで恥ずかしくて倒れそうになる。
しかし私は必死で最後の抵抗を試みた。
「でも……ランちゃんが私の事が好きだって思っているのは、きっと刷り込みなんじゃないかな。たまたま人生で一番困っている時に手を差し伸べられたから好きになったと思い込んでるだけで……」
「有葉ちゃん……きみ、案外往生際が悪いね……刷り込みなんかじゃない、それは運命って言うんだよ!」
元文学少女に前のめりで力説され、私はのけぞってしまった。渚はまくし立てる。
「ランちゃんが助けを求めた時誰も手を差し伸べなかったら、きっと彼は最終的に諦めておばあさんに頭を下げたんだと思うよ!」
「…………お父さんもそう思っていたらしい…………勘当と言ったのはあくまでもゲームにハマって留年してしまった息子を反省させるつもりだったみたいだから…………」
先日匠から聞いた話を渚にして聞かせた。ちなみにその話は駆には内緒にしている。そんな話は絶対に聞きたくないと思うから。
「なのに有葉ちゃんが救いの手を差し伸べた。これこそ正に運命だよ!」
渚が両手を組んでうっとりしたような表情を浮かべる。
「どう? これでも否定する?」
「否定っていうか……怖いんだ……意を決して私から告白したのに拒絶されたらとか、最初はうまくいってても途中でダメになっちゃうとか……あれこれ想像しただけで怖くなっちゃう……」
私は両手に顔を埋めた。渚は尋ねてくる。
「半年同居してうまくいってるくせに、それでも怖いんだ?」
「怖いよ……ランちゃんがある日突然私の目の前からいなくなったらと考えただけで怖い……ランちゃんは私にとってもう大切な家族でもあるんだもの…………」
私は身を震わせた。両親がある日突然暴力的な交通事故でこの世から去ってしまったという事実は、未だに私の心に重く圧し掛かっていた。せっかく手にしたささやかな幸せが、自分の迂闊な行動で指の間から滑り落ちていくのが絶対に嫌なのだ。
「そっか……そうだよね、怖いよね……」
今度は渚が私の髪にそっと優しく手で触れてきた。目を向けるとさっきと打って変わって優しい眼差しと声音だった。
「何も急ぐ必要はないよ……焦らせてごめんね……」
「ううん……でも、渚が親身になってくれて本当に嬉しいんだ……私も早くこの恐怖心を克服したい……だって全然先に進めないもの……」
私がそこまで言った時、客間のドアが控えめにノックされた。「どうぞ~」と声を掛けると駆が顔だけのぞかせてきた。
「台所の水回りの清掃は終わったよ。次どうしよう?」
「居間に掃除機かけてくれる?」
そう答えたのだが、駆の視線が私と渚の方に釘付けになっていて、ようやく私達がやたら密着していた事に気が付いた。
駆はこほんと咳をすると
「了解。それにしても二人ってほーんと仲いいんだね」と言いながらパタンとドアを閉めたのだった。
「今の絶対妬いてたね!」
渚が心底嬉しそうに笑う。私は意識が遠のきそうになり、額に手を当てた。
「よしてよ……」
その後渚は用事があると言って帰っていった。「いい男がいたらどんどん紹介してね」と私達に言い残して。
駆がせっせと居間の畳に掃除機をかけている時、私はこの家をどう整理していこうか考えていた。そもそもここをどうするかという問題がある。家を貸すのか、売るのか、更地にするのか、それとも持ち続けるのか。家を遺品として改めて見ると物が多すぎた。 祖母は両親が結婚して私が生まれてから物心つく前にくも膜下出血で亡くなってしまったそうだが、それ以来祖父はここでずっと一人暮らしをしていた。私が保育園に通っていた時は、保育園の終わり頃迎えに行って両親が仕事から帰る時間まで、この家で私の面倒を見てくれていた。だから私にとってとても馴染みのある家となっている。売りたいか? と問われれば売りたくないのが本音なのだが、別なところに住んでいる私がずっと管理しきれるかという問題はあった。人が住まない家は痛みが早いと聞くし、法律改正されて危険な空き家は固定資産税が増やされてしまうらしいし、本当に悩ましい。
そんなことをつらつらと考えている時、騒々しい掃除機の音が止まった。
「居間の掃除は終わったよ。次どうする?」
駆が尋ねてくる。私はつい習慣で居間の壁時計を見上げたものの、電池が既に切れていてこの家の時は止まっていた。代わりに駆の腕時計を見せてもらう。もう五時過ぎていた。
「今日はそろそろ終わりにしようか。もう夕方だしね」
了解、と駆は掃除機を納戸にしまうため一旦部屋を出て行った。
残された私は何となく桐製の和箪笥に目をやった。その上にはたくさんの写真が飾られている。モノクロの祖父母の結婚写真から始まり、母が小学校に入学した時校門で取った記念写真、母や私の成人式の振袖の写真、祖父母の銀婚式の記念写真、両親の結婚式の写真、私のお宮参りの写真、珍しく祖父と両親そして私が映った旅行先での写真など所狭しと並んでいる。
四人で撮った写真のフレームを取り上げ、私は掃除機の片づけを終え戻って来た駆に見せた。
「遺伝って恐ろしいよね……おじいさんもお母さんも私も目、そっくりでしょ」
「いい写真ですよ」
駆は決して茶化したりはしなかった。
「みんな笑顔で楽しそう。これはどこで撮った写真?」
「ええと、ここは群馬の四万温泉だね……背景がレトロな旅館だから。確か今から六年くらい前だったかな」
映画にでも出てきそうな雰囲気の良いレトロな旅館に皆で宿泊した時の写真である。あの時は皆で絵に描いたような古き良き温泉街を散策し、スマートボールで遊んで楽しかった事を思い出す。
次に私は両親の少し大きめの結婚写真を手に取った。二人が結婚した頃は、まだホテルや結婚式場での結婚が主流だったそうだ。二人は地元のホテルで挙式したのだが、写真の中では銀のフロックコートを着た長身の父と、ちょっと時代がかった派手目のメイクをしてAラインのウェディングドレスに身を包んだ母が手をつないで満面の笑みを浮かべていた。
「お父さん、この頃は痩せててけっこうイケメンだったんだよね。晩年はお腹がすっかりテディベアになってしまったけど……」
私は笑いながら続けた。
「実はこの二人、なかなか結婚を認めてもらえなかったんだって。出会ったのがゲームのオフ会ってお母さんがうっかり説明したらおじいさんが激怒しちゃって。ゲームなんてやってる男はきっとチャラチャラしているに違いないからって」
「お母さんもそのゲームのファンだったんだよね?」
駆が唖然としたように尋ねてくる。私は頷いた。
「もちろん。半ばいちゃもんだって。お母さんは一人娘だったから、おじいさん的にはどこの馬の骨とも知れない男との結婚を簡単に認めたくなかっただけなんじゃないの?」
ふふっと駆が笑った。
「でも最終的には認められたんですよね?」
「もちろん! お父さんは人たらしだったんだよ。何度も懲りずにお酒を持参しておじいさんと腹を割って話し合って、ようやく心を掴んだらしいよ」
父はオタクではあったけど、同時に年配者に好かれる気遣いができるタイプでもあったから昭和の男だった祖父の懐に飛び込むことができたのだろう。
「す、凄いね。お父さんはそこまでしてもお母さんと結婚したかったんだね!」
駆が感嘆したように声を上げた。
「その愛のパワーが凄いよね?」
私はそう言いながら手にした写真を再び見つめた。父はいつも「お母さんよりも長生きしたくない」って言っていた。「お母さんがいない世界なんて見たくない、生きていたくない」って。一方父より三つ年下の母は「平均寿命は女性の方が長いんだよ。私の方が長生きする確率の方が圧倒的に高い。お父さんは私が看取ってあげるからいい加減安心しなさい」ってクールに言ってたっけ。なのに二人同時にこの世を去ってしまった。こんな形で父の願いが叶ってしまった事が哀しく思えてならなかった。
そんな事をふと思い返していたら、私の両目からいきなり涙がぼとぼとと溢れてきた。突然前触れもなく泣き始めた私を見て、傍で一緒に写真を眺めていた駆がおろおろし始める。
「アルファさん……?」
今気が付いたけど、私は駆の前では泣いたことがなかったのだ。涙もろい駆がいつも泣いてばかりだったから。
「ごめん…………何故か泣けてくる…………もうだいぶ経つのにね…………」
私の涙は全然止まらなかった。駆は私の正面についと回って、顔に指を差し出すとそっとぬぐってくる。その予想外の仕草に驚きのあまり私の涙が引っ込んでしまった。私は呆然と駆を見上げる。
「きれいなハンカチが手元になかったからついとっさに……勝手に触ってしまってごめんなさい! 指はさっき洗ったばかりだからきれいなはずだけど……」
駆は必死に謝ってくる。それから少したってからぽつりぽつりとこう続けた。
「あのね……ええと、泣くのは全然恥ずかしい事じゃないと思う……泣き虫のオレが言うとなんか言い訳がましいよね……でもオレのおばあさんは物凄く気丈な人だけど、それでもおじいさんのお墓の前で何度も泣いてたよ……。悲しみって別に克服する必要はないんじゃないかな……亡くなった方の事を思い出して悲しければ何度だって泣いていいと思うんだ……」
「……………………うん、そうだね……………………」
私は小さく頷き自分の指で涙をぬぐう。飾らない駆の言葉が嬉しかった。
少し落ち着いたので客間に置きっぱなしにしていた自分のショルダーバッグからミニタオルを取り出し、涙を拭く。駆に何度でも泣いていいと言われた事がじわじわと胸に沁みていく。再び目から涙が零れ落ちた。しかしこれは嬉し涙なのだった。
祖父の家の戸締りをしっかり行い鍵を駆に委ねた後、夕暮れの緩やかな坂道を下り始めた。駆はこういう時何も言わずに歩道の車道側を歩いてくれる。駆がふとこう言った。
「大学に進学したばかりの頃、身近に大きな山が見えなくて不安で仕方なかったんだ……関東平野って本当に広いんだね……びっくりしたよ」
「山って遠くに小さくしか見えないよね。埼玉でも冬、空気が澄んだ日に運が良ければ富士山が見えたりもするけど。君の実家からだとどんな山が見えるの?」
と私が尋ねると、駆は「岩手山」と答えながらサコッシュからスマホを取り出し、それをいじって美しく壮麗な雪山の映った風景写真を見せてくれた。
「こんな感じで見えるんだ。綺麗でしょう? 盛岡から見るよりも一回り小さいけど、それでも毎日仰ぎ見ていた山なんだ。家の近くを北上川が流れていて……」
「それが君の故郷の風景なんだね」
「東京から地元に移住してきたおじいさんがその風景を大層気に入ったんだって……おばあさんの家にはおじいさんが水彩絵の具で描いた風景画が山のように残っているんだ」
東京出身の人も魅了するなんてさぞかし美しい風景なのだろうなあと、羨ましく思った。
「私は御覧の通りの何の変哲もない風景を毎日見てたよ……」
この周辺は基本住宅街なので、家やマンションばかりである。所々に古くからある神社があるくらいで、何の変哲もない風景だ。振り向けば遠くにパルコが見えるけど。
「それでもアルファさんの大切な風景だよ」
駆がそう言ってくれたので、私はふふっと笑った
「岩手山見てみたいなあ」
「オレが無事進級できたら行ってみる?」
すると駆がそう提案してきたので、私は訂正した。
「進級できたら、じゃなくて絶対するの!」
そして旅行案には同意する。
「ま、それは置いておいて、いいね! 私、盛岡はまだ行った事ないんだよ!」
「じゃ、絶対に行こう! アルファさんに見せたいところ一杯あるんだよ!」
駆の声ははしゃいでいた。勘当されたから地元には帰りたくないのかと思ってたけど、実家に行かなければ平気なのかな。
「どこがお勧め?」
私が尋ねると駆はそれは嬉しそうに話し始めた。
「やっぱり不来方城かな。石川啄木が『不来方の~』って歌ったところ」
「あ、その短歌私でも知ってる!」
「後はね、盛岡はレトロな喫茶店が多いんだ! オレのお気に入りの喫茶店にアルファさんを是非連れていきたい! 絶対に気に入るはずだから!」
「お、いいね!」
「麺も有名だよ。わんこそばに冷麺にじゃじゃ麺」
「盛岡、グルメの街じゃん」
「さらに有名なコッペパンがあってね。オレの高校の近くに本店があるんだけど、観光客が行列するんだよ」
「コッペパンに行列!?」
私は仰天した。駆は頷く。
「挟む具が色々選べるんだよ。まあ、地元民は並ばずに済む違う店に行くんだけどね」
「そこも行くー!」
私が右手を挙げた。
「少し離れたところには小岩井農場もあるよ」
「新鮮な牛乳飲みたい!」
「つなぎ温泉という美肌の湯もある!」
「泊まりはそこかな?」
駆はどんどん列挙していく。話を聞いているだけで私の旅行欲が高まっていった。
「本屋で岩手の旅行雑誌買わなくちゃ!」
「レンタカーの運転はオレに任せて!」
「おう、期待してる!」
私達は酒を飲んだわけでもないのにテンション高くおしゃべりしながら、近所にある安い事で有名な大型スーパーに向かって歩いて行った。
スーパーの中に入ってから、入り口に置いてあるかごを持った駆が尋ねてくる。
「アルファさん、今晩何が食べたい?」
「ランちゃんが作るものなら何でもいいよ」
「何でもいいが一番困るっていつも言ってるでしょ!」
笑顔の駆に叱られた。まるでお母さんのようである。
「ごめんごめん、じゃあ今日はお互い頑張ったからピザにしよう。ここのピザ安くておいしいよね」
「了解! 支払いはアルファさん、お願いします」
ポイ活大好きな駆だが、このスーパーは現金払いのみ会員割引があるのだ。キャッシュレス決済で付与されるポイントよりも現金払いの方がお得なのは計算すれば明らかだ、ただし現金を持っていればの話だけど。
「はーい、あれ、でも、私現金持ってたかな? 最近私の財布のキャッシュレス化が進んでて現金持つ習慣がなくなっちゃって」
私ははたと立ち止まるとショルダーバッグから財布を取り出して確認する。大丈夫、夕食分くらいの現金はちゃんと残っていた。
本当に世帯じみた会話である。色気も素っ気もなさすぎる。でも、私は駆のきれいな横顔を見上げながら幸せを噛みしめていた。この他愛もない会話こそが、何物にも代えがたい尊いものであることを私は知っているから。
私の視線に気が付いた駆が、私の方を向いてにこっと笑った。いつも思うのだが駆の笑顔は極上だ。
「そういえばタバスコ切れてたよね」
「うん、粉チーズも買い足しておかなくちゃ」
私は微笑み返すと、そう付け加えたのだった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
和風ファミレスでランチを食べてから、そのすぐ近くのドラッグストアで洗剤や掃除道具などを大量に買い出しした後、祖父の家に向かった。祖父の家はブロック塀に囲まれたいかにもザ・昭和といった木造二階建ての家で、黒い鉄製の門は最近滅多に使わないせいか錆付き、開けただけでキーキーとイヤな音を立てる。様々な種類の大きな樹木がふんだんに植えられた広い庭だけは、庭師さんが定期的に手入れしてくれているのできれいに整えられていたものの、人の気配のしないひっそりした家は本当に寂しく感じる。それでも電気ガス水道は止めなかったので今すぐにでも使えるのだが、月々基本料金を払う羽目にはなってもそうしておかないと、いざ掃除する時に困ってしまうからだった。
ショルダーバッグからこの家の鍵を取り出し玄関の引き戸タイプの扉をガラガラと開けると、埃っぽくて微かにかび臭い淀んだ空気が漂ってくる。けほけほと咳をしながら、まずはドアを全開にし、先ほど買ったばかりの三人分のスリッパと不織布マスクをエコバッグから取り出す。後から渚が来る事になっているから、その分もである。こんな埃まみれの家を素足で歩くことはできないし、させられない。マスクももちろん必須アイテムである。
ショルダーバッグからこの家の鍵を取り出し玄関の引き戸タイプの扉をガラガラと開けると、埃っぽくて微かにかび臭い淀んだ空気が漂ってくる。けほけほと咳をしながら、まずはドアを全開にし、先ほど買ったばかりの三人分のスリッパと不織布マスクをエコバッグから取り出す。後から渚が来る事になっているから、その分もである。こんな埃まみれの家を素足で歩くことはできないし、させられない。マスクももちろん必須アイテムである。
「まずは換気だ。全部の部屋の窓を開けよう。君は一階をお願い!」
駆に声を掛けてから、私はスリッパを履いて玄関正面にある少し急な階段を上って二階に向かった。 二階には母の使っていた子ども部屋と祖父の和風な書斎がある。まず母が結婚前暮らしていた洋間のドアの前に立った。ドアには母が工作で作ったのだろう、少し不格好な木製のプレートがかけてあって、「葉月は不在です」と表示されている。ドアをゆっくり開くと、長い間閉ざされていた部屋独特のこもる臭いがしたので、急いでカーテンを開き窓を開けた。この部屋の本棚には母が独身時代収集してきた本やマンガがどっさり眠っている。私が幼い頃はやたら乙女チックな白いベッドや勉強机もあったのだが、私達家族三人が泊まりに来た時寝る場所を確保するために撤去されていた。
部屋を出る前に振り返ってぐるりと見回すと、壁には母のお気に入りだった昔のゲームのポスターが3枚ほど貼ってある。価格やゲームスペックが書いてあるから店頭でもらったものなのだろう。それ以外には、母が中学の頃読書感想文を書いてもらったらしい表彰状や合唱コンクールの賞状なども貼ってある。すべて色褪せ、時の流れを嫌でも感じさせられるものだった。
駆に声を掛けてから、私はスリッパを履いて玄関正面にある少し急な階段を上って二階に向かった。 二階には母の使っていた子ども部屋と祖父の和風な書斎がある。まず母が結婚前暮らしていた洋間のドアの前に立った。ドアには母が工作で作ったのだろう、少し不格好な木製のプレートがかけてあって、「葉月は不在です」と表示されている。ドアをゆっくり開くと、長い間閉ざされていた部屋独特のこもる臭いがしたので、急いでカーテンを開き窓を開けた。この部屋の本棚には母が独身時代収集してきた本やマンガがどっさり眠っている。私が幼い頃はやたら乙女チックな白いベッドや勉強机もあったのだが、私達家族三人が泊まりに来た時寝る場所を確保するために撤去されていた。
部屋を出る前に振り返ってぐるりと見回すと、壁には母のお気に入りだった昔のゲームのポスターが3枚ほど貼ってある。価格やゲームスペックが書いてあるから店頭でもらったものなのだろう。それ以外には、母が中学の頃読書感想文を書いてもらったらしい表彰状や合唱コンクールの賞状なども貼ってある。すべて色褪せ、時の流れを嫌でも感じさせられるものだった。
次に祖父の畳敷きの書斎に行き、同様に障子と窓を開け放った。ここにはどっしりとした木製の文机と祖父が研究していた郷土史の資料がどっさり置いてある。迷惑でなければいずれ地元の図書館に寄贈したいと思っているのだけど。私は幼い頃祖父に連れられ、地域にある石碑や神社など見に行ったものだ。母を連れて行った時には反応が薄かったのに、私を連れて行くととても楽しそうだったので嬉しくなってしまい、あちこち連れ歩いたのだと祖父は生前語っていた。
私は文机の上に置いてあった祖父の万年筆で書かれたノートを一瞬手に取ったものの、ノスタルジックな感傷を振り切るために首を何度か振るとノートを置き、書斎を出て階段を下りて行った。一階にある納戸に掃除機が入っていたはずだから、まずはそれを取り出さないといけない。
私は文机の上に置いてあった祖父の万年筆で書かれたノートを一瞬手に取ったものの、ノスタルジックな感傷を振り切るために首を何度か振るとノートを置き、書斎を出て階段を下りて行った。一階にある納戸に掃除機が入っていたはずだから、まずはそれを取り出さないといけない。
駆が祖父が使っていた広めの寝室の窓を開けている間に、納戸の奥からレトロなデザインの掃除機を取り出そうと一人で格闘している時に、玄関のチャイムが鳴った。渚だろうか。
「はーい。少々お待ちください!」と大声で返事しながら出ていくと、玄関に立っていたのは渚ではなく、隣人で母の幼馴染、久美子おばさんだった。祖父が心臓発作を起こし門前で倒れているところを発見して救急車を呼んでくれたのも、この久美子おばさんである。
「有葉ちゃん、お久しぶり、元気だった?」
「お久しぶりです、ご無沙汰していて申し訳ありませんでした」
私はぺこりと頭を下げた。
「この通り、なんとか生きてます」
そう言いながら頭に手を当てあははと笑う。
久美子おばさんは心配そうな顔をした。
「もう、葉月ちゃん亡き後、有葉ちゃんは私にとって娘同然なんだからね! お願いだから時々顔出してよ!」
「はい、すみませんでした」
私は再度頭を下げる。
その時久美子おばさんががたがたと音がする廊下の奥が気になるのか、背伸びをして覗こうとしている事に気が付いた。
「おばさん……実は今日……『彼』に来てもらってるんです」
『彼』という言葉を使うのには勇気がいる。一瞬詰まってしまった。すると久美子おばさんの目がきらんと輝いた。
「え、本当なの? 有葉ちゃん、ついに彼氏ができたのね!?」
駆にはしばらくこの家に出入りして掃除をしてもらわないといけないから、隣人の久美子おばさんへの紹介は必須なのである。私は奥に向かって駆を呼んだ。
「ランちゃん、ちょっと来てくれる?」
「はーい!」
先ほど渡した蟹工船の黒いTシャツに着替え、汗除けなのか大きめの黒いヘッドバンドを付けた駆が飛んできた。
私は久美子おばさんに駆を紹介する。
「おばさん、こちらが私の『彼』の山城 駆君です。大学生なので時間のある時にこの家の掃除をやってもらおうと思っていて……」
「山城です。よろしくお願いします!」
駆は礼儀正しく頭を下げた。
「ランちゃん、こちらが新井 久美子さん。お隣さんで、私のお母さんの幼馴染だったの。本当にいろいろとお世話になりっぱなしで……特におじいさんが倒れた時は救急車を呼んでくれて……」
久美子おばさんも駆にぺこりと頭を下げた。
「よろしくね、山城君」
それから私の方を向いてこう言った。
「いいのよ、お互い様じゃない。五十嵐のおじさんは葉月ちゃんを亡くしてから本当に意気消沈していたから気にはしていたんだけどね……もっと早く発見できていればとは思ってるのよ……」
「おばさんがすぐ発見してくれたから、私もおじいさんの最期の時に立ち会う事が出来たので本当に感謝しているんです」
私が久美子おばさんから連絡を受け近くの病院に向かった時、祖父は息を引き取る直前だった。それでも死に目に会う事が出来て良かったと思っている。両親の時は既に冷たくなっていたのだから。本当は一緒に住めばよかったのだろうが、祖父が頑なに拒んだのだ。一人で住むのに慣れてしまったからと言い張って。
「やだ、有葉ちゃん、泣けてくるからやめて」
久美子おばさんが目尻に指を当てた。そして再度駆の方を向いてこう言う。
「山城君、有葉ちゃんを本当によろしくね。それから……結婚式には絶対に呼んでちょうだい」
「有葉さんの事は全部オレに任せてください!」
駆はいたって真面目な表情で、らしくないえらく男っぽい台詞を吐いている。
「おばさん、さすがに気が早いって! それにランちゃんも止めて!」
私の顔が熱を帯びる。久美子おばさんは嬉しそうに笑うと、「じゃあ、そろそろおいとまするね」と言って手をひらひらと振りながら玄関を出て行った。
「はーい。少々お待ちください!」と大声で返事しながら出ていくと、玄関に立っていたのは渚ではなく、隣人で母の幼馴染、久美子おばさんだった。祖父が心臓発作を起こし門前で倒れているところを発見して救急車を呼んでくれたのも、この久美子おばさんである。
「有葉ちゃん、お久しぶり、元気だった?」
「お久しぶりです、ご無沙汰していて申し訳ありませんでした」
私はぺこりと頭を下げた。
「この通り、なんとか生きてます」
そう言いながら頭に手を当てあははと笑う。
久美子おばさんは心配そうな顔をした。
「もう、葉月ちゃん亡き後、有葉ちゃんは私にとって娘同然なんだからね! お願いだから時々顔出してよ!」
「はい、すみませんでした」
私は再度頭を下げる。
その時久美子おばさんががたがたと音がする廊下の奥が気になるのか、背伸びをして覗こうとしている事に気が付いた。
「おばさん……実は今日……『彼』に来てもらってるんです」
『彼』という言葉を使うのには勇気がいる。一瞬詰まってしまった。すると久美子おばさんの目がきらんと輝いた。
「え、本当なの? 有葉ちゃん、ついに彼氏ができたのね!?」
駆にはしばらくこの家に出入りして掃除をしてもらわないといけないから、隣人の久美子おばさんへの紹介は必須なのである。私は奥に向かって駆を呼んだ。
「ランちゃん、ちょっと来てくれる?」
「はーい!」
先ほど渡した蟹工船の黒いTシャツに着替え、汗除けなのか大きめの黒いヘッドバンドを付けた駆が飛んできた。
私は久美子おばさんに駆を紹介する。
「おばさん、こちらが私の『彼』の山城 駆君です。大学生なので時間のある時にこの家の掃除をやってもらおうと思っていて……」
「山城です。よろしくお願いします!」
駆は礼儀正しく頭を下げた。
「ランちゃん、こちらが新井 久美子さん。お隣さんで、私のお母さんの幼馴染だったの。本当にいろいろとお世話になりっぱなしで……特におじいさんが倒れた時は救急車を呼んでくれて……」
久美子おばさんも駆にぺこりと頭を下げた。
「よろしくね、山城君」
それから私の方を向いてこう言った。
「いいのよ、お互い様じゃない。五十嵐のおじさんは葉月ちゃんを亡くしてから本当に意気消沈していたから気にはしていたんだけどね……もっと早く発見できていればとは思ってるのよ……」
「おばさんがすぐ発見してくれたから、私もおじいさんの最期の時に立ち会う事が出来たので本当に感謝しているんです」
私が久美子おばさんから連絡を受け近くの病院に向かった時、祖父は息を引き取る直前だった。それでも死に目に会う事が出来て良かったと思っている。両親の時は既に冷たくなっていたのだから。本当は一緒に住めばよかったのだろうが、祖父が頑なに拒んだのだ。一人で住むのに慣れてしまったからと言い張って。
「やだ、有葉ちゃん、泣けてくるからやめて」
久美子おばさんが目尻に指を当てた。そして再度駆の方を向いてこう言う。
「山城君、有葉ちゃんを本当によろしくね。それから……結婚式には絶対に呼んでちょうだい」
「有葉さんの事は全部オレに任せてください!」
駆はいたって真面目な表情で、らしくないえらく男っぽい台詞を吐いている。
「おばさん、さすがに気が早いって! それにランちゃんも止めて!」
私の顔が熱を帯びる。久美子おばさんは嬉しそうに笑うと、「じゃあ、そろそろおいとまするね」と言って手をひらひらと振りながら玄関を出て行った。
「いい方だね……」
その後ろ姿を見送りながら駆が呟いた。私は頷いた。
「そうだね……それにおじいさんの件では本当に恩人だよ……。ただ、会う度に私の結婚のことばかり気にしているのだけは止めて欲しいけど」
「おばさんの気持ちは痛いほど分かるな。アルファさんって放っておけないから」
駆が呟くように言う。私の眉間に自然に皺が寄った。
「ねえ、さっき綾乃さん達が来た時もそうだけど、私ってそんなに頼りないかな?」
駆は首を振る。
「違うよ。みんな、アルファさんの事を大切に思っているだけだって……」
私だってそれは分かっているのだ。心底有り難いと思ってはいるものの、だからこそ辛くなる時もある。さらに駆の場合、私の『彼氏』という設定に従って演技してくれているだけという事は分かっているからこそ、守る、だの任せろだのといった言葉が空虚に感じられ切なくなってしまうのだ。
「それは分かってるって……」
そう短く言ってから、私はこの話題を打ち切るかのように駆から顔を逸らすと、「早く掃除しないと」と掃除機を取り出すべく納戸の方に向かった。
「じゃあ、オレは台所の流しの掃除するから…………」
背後から聞こえる駆の声は少ししょんぼりと響いた。
その後ろ姿を見送りながら駆が呟いた。私は頷いた。
「そうだね……それにおじいさんの件では本当に恩人だよ……。ただ、会う度に私の結婚のことばかり気にしているのだけは止めて欲しいけど」
「おばさんの気持ちは痛いほど分かるな。アルファさんって放っておけないから」
駆が呟くように言う。私の眉間に自然に皺が寄った。
「ねえ、さっき綾乃さん達が来た時もそうだけど、私ってそんなに頼りないかな?」
駆は首を振る。
「違うよ。みんな、アルファさんの事を大切に思っているだけだって……」
私だってそれは分かっているのだ。心底有り難いと思ってはいるものの、だからこそ辛くなる時もある。さらに駆の場合、私の『彼氏』という設定に従って演技してくれているだけという事は分かっているからこそ、守る、だの任せろだのといった言葉が空虚に感じられ切なくなってしまうのだ。
「それは分かってるって……」
そう短く言ってから、私はこの話題を打ち切るかのように駆から顔を逸らすと、「早く掃除しないと」と掃除機を取り出すべく納戸の方に向かった。
「じゃあ、オレは台所の流しの掃除するから…………」
背後から聞こえる駆の声は少ししょんぼりと響いた。
渚を迎えるために、私はまず玄関と廊下に掃除機をかけてから、客間の掃除を始める事にした。この家は居間とは別に玄関のすぐ隣に立派な客間があるのだ。天井にはシャンデリア、革製の大きなソファに百科事典の配された立派な本棚、高級なローボード、懐かしのブラウン管のテレビ。出窓に他の部屋に比べて豪華なカーテン、毛足の長い深紅の絨毯。基本和風の家なのにここだけは徹底的に洋風だった。掃除機を使わなければならないので、駆には台所の水回りを掃除してもらう事にした。
窓を開けてもさほど風がないため、ちょっと動くだけで汗がどっと吹き出してくる。エアコンなどという気の利いたものは設置されていなかったので、先ほどの納戸から古めかしい扇風機を持ち出してきた。祖父は物が捨てられない性分で、平気で年代物の家電品を使っていたのだ。
扇風機を稼働させると暑さがだいぶましになったので、掃除を続行する。さっき墓掃除をしたばかりだし、今日の私は滅茶苦茶働き者ではなかろうか。そう自画自賛しながら持参したペットボトルのすっかり生ぬるくなってしまったミネラルウォーターを飲んでいる時、玄関のチャイムが鳴った。今度こそ渚だろう。
今日の渚は白いレース地のカットソーに水色のシンプルなキャミワンピを着ていた。明るく染めた短めのナチュラルボブにこれまたナチュラルメイクをばっちり決めた小柄な渚は本当に可愛い。手には白いケーキ箱を持っているので、それがLIMEで言ってた手土産なのだろう。
「久しぶりにこっちまで来たから、ケーキ買って来たよ」
渚が口にしたのはここの近所にある地元でも有名なパティスリーの名前だった。
「やったー!」
私は万歳をし、台所で水回りの徹底掃除をしている駆を呼んだ。渚と駆は既に面識もあり、何度か一緒に食事もしている仲だ。
窓を開けてもさほど風がないため、ちょっと動くだけで汗がどっと吹き出してくる。エアコンなどという気の利いたものは設置されていなかったので、先ほどの納戸から古めかしい扇風機を持ち出してきた。祖父は物が捨てられない性分で、平気で年代物の家電品を使っていたのだ。
扇風機を稼働させると暑さがだいぶましになったので、掃除を続行する。さっき墓掃除をしたばかりだし、今日の私は滅茶苦茶働き者ではなかろうか。そう自画自賛しながら持参したペットボトルのすっかり生ぬるくなってしまったミネラルウォーターを飲んでいる時、玄関のチャイムが鳴った。今度こそ渚だろう。
今日の渚は白いレース地のカットソーに水色のシンプルなキャミワンピを着ていた。明るく染めた短めのナチュラルボブにこれまたナチュラルメイクをばっちり決めた小柄な渚は本当に可愛い。手には白いケーキ箱を持っているので、それがLIMEで言ってた手土産なのだろう。
「久しぶりにこっちまで来たから、ケーキ買って来たよ」
渚が口にしたのはここの近所にある地元でも有名なパティスリーの名前だった。
「やったー!」
私は万歳をし、台所で水回りの徹底掃除をしている駆を呼んだ。渚と駆は既に面識もあり、何度か一緒に食事もしている仲だ。
玄関でサンダルを脱ぎスリッパに履き替えていた渚は、呼ばれてやって来た駆が蟹工船Tシャツを着ているのに気が付くなり大笑いをし始めた。渚は本の虫であり、元文学少女なのだ。
「あひゃひゃ、ランちゃん、そのTシャツって!!!」
「アルファさんがくれたんですけど、何か変ですか?」
駆はツボに入りまくって腹を抱えて笑い転げている渚を不思議そうに眺めている。
「いやね、有葉ちゃんに無理やり労働させられ、オレは搾取されているというメッセージなのかと思ったのよ」
「そんな訳ないですよ」
駆が口を尖らせた。私も異議を唱えた。
「ナギさん、失礼な! 言っておくけど私達は対等な労働契約を結んでるんだよ」
本当に対等かどうかは怪しいけど。今駆がしている家事をやってもらうために住み込みのお手伝いさんを雇ったら、もっと高くつくだろうから。
「ごめんごめん、そのTシャツ、とっても似合ってるよ」
フォローのつもりなのか渚がそう言ったが、駆はむくれたままだ。通常誰に対しても愛想の良い駆だが、渚に対してだけは不思議とかなり素で振舞ってくる。渚はそんな駆の態度を面白がっているようだ。渚には弟が一人いるから、そんな感じで扱ってくるので駆も気楽なのだろう。
「あひゃひゃ、ランちゃん、そのTシャツって!!!」
「アルファさんがくれたんですけど、何か変ですか?」
駆はツボに入りまくって腹を抱えて笑い転げている渚を不思議そうに眺めている。
「いやね、有葉ちゃんに無理やり労働させられ、オレは搾取されているというメッセージなのかと思ったのよ」
「そんな訳ないですよ」
駆が口を尖らせた。私も異議を唱えた。
「ナギさん、失礼な! 言っておくけど私達は対等な労働契約を結んでるんだよ」
本当に対等かどうかは怪しいけど。今駆がしている家事をやってもらうために住み込みのお手伝いさんを雇ったら、もっと高くつくだろうから。
「ごめんごめん、そのTシャツ、とっても似合ってるよ」
フォローのつもりなのか渚がそう言ったが、駆はむくれたままだ。通常誰に対しても愛想の良い駆だが、渚に対してだけは不思議とかなり素で振舞ってくる。渚はそんな駆の態度を面白がっているようだ。渚には弟が一人いるから、そんな感じで扱ってくるので駆も気楽なのだろう。
渚がせっかく買ってきてくれたケーキを食べるべく、あまり広くない台所に行ってやかんでお湯を沸かし始める。その後大きな食器棚からケーキ皿とフォーク、ティーカップを取り出し軽く水洗いをした後、家から持参したアールグレイのティーバッグを使い、紅茶を淹れる。
渚が買ってきてくれたケーキは三種類。季節のフルーツを使ったタルト オ フリュイ、ガトーショコラ、シブーストである。駆と私でケーキ皿とティーカップを客間まで運び、重厚なローテーブルの上に並べた。
ケーキはじゃんけんで勝った者順に選ぶことにする。結局私が買ったのでシブーストを選び、駆がタルト オ フリュイ、渚がガトーショコラとなった。フランスで修業したというパティシエの作ったケーキは本当に絶品だった。しばらく三人で舌鼓を打つ。
全員食べ終わり食器を片付け洗ってしまうと、駆は私に対してこう言った。
「後はオレがやるんで、アルファさんは渚さんと客間でおしゃべりしていて下さい」
「えー、でも悪いよ」
と念のため言うと、
「お願いだからオレの仕事取らないで!」
そう言う駆の顔はいたって真剣だった。「はーい、分かりました」と私は敢えて逆らわず駆に甘える事にする。
渚が買ってきてくれたケーキは三種類。季節のフルーツを使ったタルト オ フリュイ、ガトーショコラ、シブーストである。駆と私でケーキ皿とティーカップを客間まで運び、重厚なローテーブルの上に並べた。
ケーキはじゃんけんで勝った者順に選ぶことにする。結局私が買ったのでシブーストを選び、駆がタルト オ フリュイ、渚がガトーショコラとなった。フランスで修業したというパティシエの作ったケーキは本当に絶品だった。しばらく三人で舌鼓を打つ。
全員食べ終わり食器を片付け洗ってしまうと、駆は私に対してこう言った。
「後はオレがやるんで、アルファさんは渚さんと客間でおしゃべりしていて下さい」
「えー、でも悪いよ」
と念のため言うと、
「お願いだからオレの仕事取らないで!」
そう言う駆の顔はいたって真剣だった。「はーい、分かりました」と私は敢えて逆らわず駆に甘える事にする。
私が客間に入った時、渚はちょこんとソファに座っていた。反対側のソファに座ろうとすると、渚は自分の隣をぽんぽんと叩いた。こっちに来いという事らしい。言われるがままに隣に座った。
「何があったのよ?」
私が尋ねると、それまで笑顔だった渚の顔がとたんに情けなさそうな表情となった。自信満々に我が道を突き進む渚がそんな顔をすることは、今はそうない事だ。だが中学の頃はしょっちゅうそんな顔をして私を見つめていたことをふと思い出す。
「何があったのよ?」
私が尋ねると、それまで笑顔だった渚の顔がとたんに情けなさそうな表情となった。自信満々に我が道を突き進む渚がそんな顔をすることは、今はそうない事だ。だが中学の頃はしょっちゅうそんな顔をして私を見つめていたことをふと思い出す。
渚と私は小学一年の時たまたま同じクラスになってから、クラス替えで違うクラスになる事はあっても、ずっと仲の良い親友同士だった。
お互い中学受験などはせず地元の中学に進級したのだが、その頃の渚は文学少女ながり勉に成長していた。垢ぬけないボブカットというよりもおかっぱ頭で、今でこそコンタクト派だが、当時はあまり似合っていない黒いプラスチックの大きなフレームの眼鏡をかけた地味な女子中学生だった。学校でも同級生とはほとんど交流せずにひたすら本を読んでいた。小学校の時から渚を知る私は、渚が幼い同級生達を見下している事を知っていた。仕方ないだろう。中学生にして大人が読むような難しい本を読みこなしていた渚と同級生達とでは、精神年齢に大きな隔たりがあったのだ。特に男子との精神年齢の差は大きく、小学生と高校生くらいの差があった。渚からすれば望んでもいないのにガキの群れに無理やり放り込まれたようなものだ。耳を塞ぐためにも一人で本を読んでいるしかなかったのだ。
そんな渚は中二の時、いわゆるスクールカースト一軍に所属するクラスメート達の格好のイジメのターゲットとなってしまった。プリントを回してもらえなかったり、所持品を隠されたり捨てられたり。SNSを使った悪口も横行していたようだ。しかし渚はそんなイジメすら恐ろしいほど冷ややかに受け止めていた。
中三の時渚と同じクラスとなった私は、迷うことなく当然のように親友の渚を庇い始めた。すると私もイジメのターゲットにされてしまった。大切な文房具を壊されたり、SNSである事ない事書かれたりもした。その当時、毎朝学校に行かねばならない事は本当に憂鬱で仕方なかった。両親に相談すればよかったのだろうが、何故か憚られた。私を愛してくれている両親を悲しませたくなかったし、イジメの事実を知ったら両親がどんな行動を取るのか全く想像もできず、逆に怖かったのだ。担任はすべてにおいて頼りにならないタイプだったし。
一方渚が自身の親に相談しなかったのは、両親を――特に父親を全く信頼していなかったからだ。悲しい事に渚にとって、親とは全然頼れる存在ではなかった。渚は私に巻き込んでしまった事を、不甲斐ない自分自身を責めるかのような情けない表情で何度も何度も詫びたが、私は一人ならともかく渚と一緒なら耐えられると思った。中学校なんてほんの通過点に過ぎないと思えたからだ。
私達は相談した結果、とにかく今は我慢する。二人で励まし合いながら頑張って勉強し、イジメの加害者とは違う高校に進学して、彼らとは絶対におさらばすると決めたのだった。
お互い中学受験などはせず地元の中学に進級したのだが、その頃の渚は文学少女ながり勉に成長していた。垢ぬけないボブカットというよりもおかっぱ頭で、今でこそコンタクト派だが、当時はあまり似合っていない黒いプラスチックの大きなフレームの眼鏡をかけた地味な女子中学生だった。学校でも同級生とはほとんど交流せずにひたすら本を読んでいた。小学校の時から渚を知る私は、渚が幼い同級生達を見下している事を知っていた。仕方ないだろう。中学生にして大人が読むような難しい本を読みこなしていた渚と同級生達とでは、精神年齢に大きな隔たりがあったのだ。特に男子との精神年齢の差は大きく、小学生と高校生くらいの差があった。渚からすれば望んでもいないのにガキの群れに無理やり放り込まれたようなものだ。耳を塞ぐためにも一人で本を読んでいるしかなかったのだ。
そんな渚は中二の時、いわゆるスクールカースト一軍に所属するクラスメート達の格好のイジメのターゲットとなってしまった。プリントを回してもらえなかったり、所持品を隠されたり捨てられたり。SNSを使った悪口も横行していたようだ。しかし渚はそんなイジメすら恐ろしいほど冷ややかに受け止めていた。
中三の時渚と同じクラスとなった私は、迷うことなく当然のように親友の渚を庇い始めた。すると私もイジメのターゲットにされてしまった。大切な文房具を壊されたり、SNSである事ない事書かれたりもした。その当時、毎朝学校に行かねばならない事は本当に憂鬱で仕方なかった。両親に相談すればよかったのだろうが、何故か憚られた。私を愛してくれている両親を悲しませたくなかったし、イジメの事実を知ったら両親がどんな行動を取るのか全く想像もできず、逆に怖かったのだ。担任はすべてにおいて頼りにならないタイプだったし。
一方渚が自身の親に相談しなかったのは、両親を――特に父親を全く信頼していなかったからだ。悲しい事に渚にとって、親とは全然頼れる存在ではなかった。渚は私に巻き込んでしまった事を、不甲斐ない自分自身を責めるかのような情けない表情で何度も何度も詫びたが、私は一人ならともかく渚と一緒なら耐えられると思った。中学校なんてほんの通過点に過ぎないと思えたからだ。
私達は相談した結果、とにかく今は我慢する。二人で励まし合いながら頑張って勉強し、イジメの加害者とは違う高校に進学して、彼らとは絶対におさらばすると決めたのだった。
結局、私は東京にあるそこそこ偏差値の高い共学の私立高校に、渚は地元では一番の進学校である公立の女子高に進学した。本当は渚も地元自体とおさらばして私と同じ高校に行きたがったのだけど、渚の父親が私立高校への進学を認めなかったのだ。女子なんてどうせ結婚して家を出て行ってしまうのだから、教育費をかける意味なんてないとの考えからだったそうだ。
渚は毎月受けていた模試の結果でもってその私立高校の特待生の権利を獲得していたので、父親の言い分は理不尽そのものだった。もちろん渚とて言われっぱなしではなかった。きちんと事情を説明し説得しようと試みたのだが、渚の父親はたとえ授業料が無料でも、私立はその他経費が高いからダメだと言い張ったのだ。未成年の渚は父親に屈するしかなかった。
今思い出してもひどい話だ。何故なら渚の弟は同じタイミングで中学受験して、東京の有名私立大学の付属中学に通学する事を決めていたからだ。
渚は毎月受けていた模試の結果でもってその私立高校の特待生の権利を獲得していたので、父親の言い分は理不尽そのものだった。もちろん渚とて言われっぱなしではなかった。きちんと事情を説明し説得しようと試みたのだが、渚の父親はたとえ授業料が無料でも、私立はその他経費が高いからダメだと言い張ったのだ。未成年の渚は父親に屈するしかなかった。
今思い出してもひどい話だ。何故なら渚の弟は同じタイミングで中学受験して、東京の有名私立大学の付属中学に通学する事を決めていたからだ。
渚は渋々公立高校に入学した後も奮起し続けた。父親が大学に行きたいなら国立しか認めないと言い放ったから寝る間を惜しんで猛烈に勉強し、現役でH大学合格を勝ち取った。おそらく父親は地元の大学しか想定していたのだろう。さすがにその結果には驚いていたようだ。
渚は大学でもたゆまなく勉学に励み、同時に外見磨きにも力を入れ、有名コンサル会社への就職を勝ち取ったのだ。
一方で有名私立中学に行った渚の弟は成績が鳴かず飛ばずで、大学にぎりぎり内部進学できたものの学部を選ぶことができず、かろうじて卒業・就職したものの全く思い通りにならない己の人生についていつも家で不貞腐れているらしい。
渚は大学でもたゆまなく勉学に励み、同時に外見磨きにも力を入れ、有名コンサル会社への就職を勝ち取ったのだ。
一方で有名私立中学に行った渚の弟は成績が鳴かず飛ばずで、大学にぎりぎり内部進学できたものの学部を選ぶことができず、かろうじて卒業・就職したものの全く思い通りにならない己の人生についていつも家で不貞腐れているらしい。
「これってブラザーペナルティって言うらしいよ」
就職してから渚はそう解説してくれた。ブラザーペナルティとは弟がいる長女は文系を選びやすく、そうでない女性に比べて収入も低いか専業主婦率が高く、性別役割分業意識が強いという海外の研究結果に基づく言葉らしい。客観的にみて渚の方が弟よりも優秀だったのに、女だという理由だけで弟には求められなかった自助努力が求められたのだ。
渚はこのブラザーペナルティを覆したかったのだと私に語ってくれた。文系は渚自身の選択なのでそれはさておき、弟よりも絶対に高い収入を獲得し維持し続けたいのだと。それは渚の意地であり矜持でもあった。
就職してから渚はそう解説してくれた。ブラザーペナルティとは弟がいる長女は文系を選びやすく、そうでない女性に比べて収入も低いか専業主婦率が高く、性別役割分業意識が強いという海外の研究結果に基づく言葉らしい。客観的にみて渚の方が弟よりも優秀だったのに、女だという理由だけで弟には求められなかった自助努力が求められたのだ。
渚はこのブラザーペナルティを覆したかったのだと私に語ってくれた。文系は渚自身の選択なのでそれはさておき、弟よりも絶対に高い収入を獲得し維持し続けたいのだと。それは渚の意地であり矜持でもあった。
堂々と自力で人生を切り開いてきた渚の浮かない顔を見ていると、私も切なくなってくる。何も言わずに渚の両手を両手で包み込んだ。するとようやく渚が口を開く。
「……あのね……先週の土曜日、わたしの誕生日だったじゃない?」
「うん……」
私は渚に誕生日プレゼントとしてネットでも使える図書券を贈っていた。友達に商品券なんて呆れられそうだが、渚が一番喜ぶものは結局これなのだ。
「その日、彼が誕生祝いに高級フレンチをご馳走してくれるって言うから、ついのこのこと丸の内まで出かけていった訳よ」
渚の彼氏は渚より四つ年上のアラサーサラリーマンで、一流メーカー勤務だとだけ私は聞いていた。
「フレンチは美味しかったよ。窓際で超高層ビルからの夜景もきれいだった。彼は一生懸命調べてその席を予約してくれたんだろうね」
「うん……」
私は相槌を打った。
「そこでいきなりプロポーズされたって訳」
プロポーズされて喜んでいる女性がこんな情けない顔をしている訳がない。渚がどう返事をしたのか容易に想像できてしまった。
「……わたしだって彼との結婚を想像しなかった訳じゃないんだ。なのに彼がその時言ったんだよ、子どもが出来たらわたしには仕事を辞めて欲しいって……」
渚は物憂げな声で続けている。
「だから言ったんだよ。わたしは人生のリスクヘッジの一環として一生仕事を続けたい。だからあなたの気持ちは嬉しいけど、お受けできないってね……」
「そりゃ、そうだよね……」
私も渚の言わんとしている事は痛いほどよく分かる。先ほどのブラザーペナルティの話とは別に、渚の家庭は母親が専業主婦なのだけど、男尊女卑でモラハラ気味の父親とは離婚したら生活が成り立たないからという理由で仮面夫婦状態が続いているのだそうだ。
「そしたら彼が言うわけ。彼親のサポートは十分受けられるから住むところには困らないし、一生君に苦労はさせない。安心して子育てに全力を注いでほしい。自分もそのように親から育てられて本当に正解だったと思っているからってね……」
「あー……話が全然噛み合ってないね」
私は感想を述べた。渚はこくりと頷く。
「そう……絶望的なくらいにね……。彼にはわたしの家庭環境とかは話していたけど、わたしの悔しさとか歯がゆさは全然理解してもらえなかったんだなって哀しくなっちゃったよ……」
「彼ってお坊ちゃまだったの?」
「そうだね……山手線内側に家があるし……やんごとなきお方達の通う学校に幼稚園から大学まで通ってたし」
渚はそう言って肩をすくめた。
きっと彼はその年まで躓くこともなく順調に生きてきたのだろう。渚の事を心から愛していて、彼女にも苦労のない明るい人生を共に歩んでほしいと願ったのだろう。しかし渚はそういう人生を求めていなかっただけなのだ。
「わたしは……その時まで彼の事けっこう好きだったよ……でも生きている世界が違いすぎて結婚はできないと分かってしまった……」
渚は俯いた。
「わたしは我が子のために仕事を辞めて全力で尽くすなんてできない女だ……わたしは自分の人生は自分のために生きたい……もちろん同じ道を共に歩んでくれる相手がいるならそれは嬉しい……だけど……彼の子どもの母として結婚を望まれるのはイヤなんだよ……そもそも子どもが生まれるなんて保証なんてどこにもないんだよ? 全然生まれなかったらどうするの? 不妊治療? それとも離婚?」
「ナギさん……」
私は渚の手を包み込んでいた手に更に力を込めた。渚は潤んだ瞳を私に向ける。
「ごめん……こんな風な言葉でプロポーズされるなんて夢にも思ってなくて、柄になく混乱してしまった……付き合って一年以上経っていたから勝手に彼はわたしの事を理解してくれていると思い込んでいたんだね……幻想だったし、その幻想はお互い様だった……」
「仕方ないよ……」
渚は大学デビューして以来、恋多き女だった。肉食系女子を自称し、いいと思う男子がいれば躊躇なく告白し付き合い、イヤだと思えばあっさりと別れてきた。そんな渚が珍しく一年以上特定の相手と付き合っていたのだから彼との相性は良かったのだろう。だが互いの異なる価値観だけはどうしようもない。
「……で結局どうなったの?」
私は結論を聞いていない事に気が付いた。渚はてへっと笑った。
「あ、言い忘れてた。その場でお別れしたよ。彼ももうアラサーだからね。だけどだいぶ未練がましかったな……僕が悪いなら改めるよとか言って……。でももういいんだ……単なる価値観の相違だから……彼みたいな好条件だったら相手には事欠かないと思うし……彼には幸せになって欲しいよ……」
「……あのね……先週の土曜日、わたしの誕生日だったじゃない?」
「うん……」
私は渚に誕生日プレゼントとしてネットでも使える図書券を贈っていた。友達に商品券なんて呆れられそうだが、渚が一番喜ぶものは結局これなのだ。
「その日、彼が誕生祝いに高級フレンチをご馳走してくれるって言うから、ついのこのこと丸の内まで出かけていった訳よ」
渚の彼氏は渚より四つ年上のアラサーサラリーマンで、一流メーカー勤務だとだけ私は聞いていた。
「フレンチは美味しかったよ。窓際で超高層ビルからの夜景もきれいだった。彼は一生懸命調べてその席を予約してくれたんだろうね」
「うん……」
私は相槌を打った。
「そこでいきなりプロポーズされたって訳」
プロポーズされて喜んでいる女性がこんな情けない顔をしている訳がない。渚がどう返事をしたのか容易に想像できてしまった。
「……わたしだって彼との結婚を想像しなかった訳じゃないんだ。なのに彼がその時言ったんだよ、子どもが出来たらわたしには仕事を辞めて欲しいって……」
渚は物憂げな声で続けている。
「だから言ったんだよ。わたしは人生のリスクヘッジの一環として一生仕事を続けたい。だからあなたの気持ちは嬉しいけど、お受けできないってね……」
「そりゃ、そうだよね……」
私も渚の言わんとしている事は痛いほどよく分かる。先ほどのブラザーペナルティの話とは別に、渚の家庭は母親が専業主婦なのだけど、男尊女卑でモラハラ気味の父親とは離婚したら生活が成り立たないからという理由で仮面夫婦状態が続いているのだそうだ。
「そしたら彼が言うわけ。彼親のサポートは十分受けられるから住むところには困らないし、一生君に苦労はさせない。安心して子育てに全力を注いでほしい。自分もそのように親から育てられて本当に正解だったと思っているからってね……」
「あー……話が全然噛み合ってないね」
私は感想を述べた。渚はこくりと頷く。
「そう……絶望的なくらいにね……。彼にはわたしの家庭環境とかは話していたけど、わたしの悔しさとか歯がゆさは全然理解してもらえなかったんだなって哀しくなっちゃったよ……」
「彼ってお坊ちゃまだったの?」
「そうだね……山手線内側に家があるし……やんごとなきお方達の通う学校に幼稚園から大学まで通ってたし」
渚はそう言って肩をすくめた。
きっと彼はその年まで躓くこともなく順調に生きてきたのだろう。渚の事を心から愛していて、彼女にも苦労のない明るい人生を共に歩んでほしいと願ったのだろう。しかし渚はそういう人生を求めていなかっただけなのだ。
「わたしは……その時まで彼の事けっこう好きだったよ……でも生きている世界が違いすぎて結婚はできないと分かってしまった……」
渚は俯いた。
「わたしは我が子のために仕事を辞めて全力で尽くすなんてできない女だ……わたしは自分の人生は自分のために生きたい……もちろん同じ道を共に歩んでくれる相手がいるならそれは嬉しい……だけど……彼の子どもの母として結婚を望まれるのはイヤなんだよ……そもそも子どもが生まれるなんて保証なんてどこにもないんだよ? 全然生まれなかったらどうするの? 不妊治療? それとも離婚?」
「ナギさん……」
私は渚の手を包み込んでいた手に更に力を込めた。渚は潤んだ瞳を私に向ける。
「ごめん……こんな風な言葉でプロポーズされるなんて夢にも思ってなくて、柄になく混乱してしまった……付き合って一年以上経っていたから勝手に彼はわたしの事を理解してくれていると思い込んでいたんだね……幻想だったし、その幻想はお互い様だった……」
「仕方ないよ……」
渚は大学デビューして以来、恋多き女だった。肉食系女子を自称し、いいと思う男子がいれば躊躇なく告白し付き合い、イヤだと思えばあっさりと別れてきた。そんな渚が珍しく一年以上特定の相手と付き合っていたのだから彼との相性は良かったのだろう。だが互いの異なる価値観だけはどうしようもない。
「……で結局どうなったの?」
私は結論を聞いていない事に気が付いた。渚はてへっと笑った。
「あ、言い忘れてた。その場でお別れしたよ。彼ももうアラサーだからね。だけどだいぶ未練がましかったな……僕が悪いなら改めるよとか言って……。でももういいんだ……単なる価値観の相違だから……彼みたいな好条件だったら相手には事欠かないと思うし……彼には幸せになって欲しいよ……」
「結婚って難しいんだね……」
と私が呟くように言うと、渚は首を傾げた。
「有葉ちゃんは簡単じゃん。あっちで掃除している彼に『好きです、つきましては私と結婚して下さい』って言えばいいだけだよ」
「な、な、な、な、何て事を!」
私の顔が瞬間で真っ赤になった。渚はにやりとした。
「恥ずかしくて言えないなら代理で告白してあげてもいいよ」
「やめて~! 自分で言うから! …………そのうち…………」
私は両手で顔を覆った。それからふと気が付く。私は渚に駆の事が好きだとは一言も打ち明けていなかった。完璧に鎌をかけられたのだ。
「ナギさん……どうして気が付いたの!?」
「気が付くもなにも、顔に書いてあるじゃん。二人ともね」
「○×△☆♯♭●□▲★※!!!」
私の発した声は言葉にならなかった。
と私が呟くように言うと、渚は首を傾げた。
「有葉ちゃんは簡単じゃん。あっちで掃除している彼に『好きです、つきましては私と結婚して下さい』って言えばいいだけだよ」
「な、な、な、な、何て事を!」
私の顔が瞬間で真っ赤になった。渚はにやりとした。
「恥ずかしくて言えないなら代理で告白してあげてもいいよ」
「やめて~! 自分で言うから! …………そのうち…………」
私は両手で顔を覆った。それからふと気が付く。私は渚に駆の事が好きだとは一言も打ち明けていなかった。完璧に鎌をかけられたのだ。
「ナギさん……どうして気が付いたの!?」
「気が付くもなにも、顔に書いてあるじゃん。二人ともね」
「○×△☆♯♭●□▲★※!!!」
私の発した声は言葉にならなかった。
「そもそも付き合うのに告白って必要なのかな」
渚がしれっと言った。
「セックスから始まる関係があったっていいじゃん。場が盛り上がって互いの合意がきちんとあって、それで身体の相性が良ければそのまま付き合えばいい訳でしょ。愛なんて告白しなくても身体言語で語り合えばいいんだよ」
ひーっと私は声にならない悲鳴を上げ、頭を抱えた。さすが欲望に忠実な肉食系女子、言う事が一味違う。
「で、でも、でもね、ランちゃんとは後少なくとも一年半は同居していかなくちゃいけないもの。そういう事勢いでしちゃって今の関係壊したくないし……。そもそも私はランちゃんを扶養しているから互いの関係は対等じゃないんだよ……」
私は目を白黒させながらも、渚のペースに陥らないように必死に喋った。渚は口元に笑みを浮かべた。
「有葉ちゃんは優しいねー。自分の欲望よりランちゃんの生活を優先してあげてるんだ」
「欲望って言うな~!」
私は怒ったふりをする。あははと渚は笑いながら手を叩いた。
「有葉ちゃんはランちゃんを扶養している事を気にしてるんだよね?」
渚が私の顔を覗き込みながら尋ねてくる。私は頷いた。
「そりゃあね。今の私って傍から見てるとホストやヒモに入れ込んでいる女状態じゃない?」
先日匠とのサシ飲みでの会話を思い出し胸がチクチクと傷んだ。私は駆の父親からそう認識されていたという話をこれでもけっこう引きずっているのだ。
「対価として食事作ってもらっているとは言っても、お金に困った学生を無料でマンションに住まわせてる訳だし……こんな関係とても対等だなんて言えないよ……。」
私は再度『対等』という言葉を使った。
「私の勝手な思い込みなのかもしれないけど、交際する時はお互い対等でいたいんだよね……お互い最低限の収入があって自立していて……」
三度目の『対等』だ。
ふうんと口元に右の人差し指を当て、渚が私をじっと見つめてきた。
「つまり、それって専業主婦の家庭では夫婦が対等じゃないってことだよね?」
渚が自分の母親を頭に置いて話しているという事は分かる。収入がなければ対等じゃない、下に見ていいという発想が父親のモラハラを引き起こしていると言っていた事があったっけ。後悔先に立たずだ。迂闊な事を口にしてしまった。
「ごめん……、でも違う……………………ええとね……結婚は法的拘束力のある契約だから……扶養の相互義務もあるし……夫婦は対等だよ……」
私は必死に頭をフル回転させた。そういえばサシ飲みの時、匠の彼女の英里香さんが結婚は法律の枷がどうのこうのって言ってて結婚に全然前向きになってくれないと言っていた事を突然思い出す。
「でも男女交際自体は契約じゃないよね」
渚は口元の指を当てたまま冷静にこう言った。
「有葉ちゃんの理屈で言うと、親とかに扶養されている学生はそもそも男女交際できないって事だよね」
ひー! 渚に論破されてしまう。確かに私の主張だと親に養われている自立していない学生は男女交際出来ない事になってしまう。
「ううっ、ナギさん怖いです……」
私は涙目になる。渚は私の頑なな思い込みを全力で剥ぎ取りにきている。私と駆の間にある障壁は、主に私の心の中に存在している。私だって本当はそれを分かっているんだ。
「有葉ちゃんの言い分はよく分かってるよ。有葉ちゃんは別に汎用的な事を言っているわけではなく、あくまで自分の気持ちを述べてるだけだよね。付き合うならそういう人がいいっていう話。でもランちゃんはその条件を満たしていない。有葉ちゃんの好意にすがって生活している訳で」
渚の口調が若干柔らかくなった。私は首を縦に振る。
「そうだね…………『勘当』されちゃったんだから、仕方ないよ……」
「でも、本当はおばあさんなりお兄さんに経済的に頼れるって、有葉ちゃんこの前言ってたよね」
「その通りだね」
私は小さく頷く。すると渚が口元に当てていた右手の人差し指を立ててみせた。
「つまりランちゃんは有り体に言えば、有葉ちゃんに甘えてるだけってことだ!」
「…………分かってるよ、そのくらい…………」
私はごにょごにょと口の中で言った。
「ランちゃんだけじゃない……逆に私もランちゃんに甘えているしものすごく依存もしている。一緒に住んでるのがものすごく心地良いし楽なんだ。だからランちゃんを手放したくない…………本当は大学院に行ってからもうちに住み続けて欲しいんだよ……だけどそんな気持ちはランちゃんのせっかくの自立の意欲を削いでしまう…………」
この感情は渚の言う『欲望』そのものなのだろう。私の心の中で、そして血潮の中でぐるぐると渦巻いている行き場のない欲望。
渚がしれっと言った。
「セックスから始まる関係があったっていいじゃん。場が盛り上がって互いの合意がきちんとあって、それで身体の相性が良ければそのまま付き合えばいい訳でしょ。愛なんて告白しなくても身体言語で語り合えばいいんだよ」
ひーっと私は声にならない悲鳴を上げ、頭を抱えた。さすが欲望に忠実な肉食系女子、言う事が一味違う。
「で、でも、でもね、ランちゃんとは後少なくとも一年半は同居していかなくちゃいけないもの。そういう事勢いでしちゃって今の関係壊したくないし……。そもそも私はランちゃんを扶養しているから互いの関係は対等じゃないんだよ……」
私は目を白黒させながらも、渚のペースに陥らないように必死に喋った。渚は口元に笑みを浮かべた。
「有葉ちゃんは優しいねー。自分の欲望よりランちゃんの生活を優先してあげてるんだ」
「欲望って言うな~!」
私は怒ったふりをする。あははと渚は笑いながら手を叩いた。
「有葉ちゃんはランちゃんを扶養している事を気にしてるんだよね?」
渚が私の顔を覗き込みながら尋ねてくる。私は頷いた。
「そりゃあね。今の私って傍から見てるとホストやヒモに入れ込んでいる女状態じゃない?」
先日匠とのサシ飲みでの会話を思い出し胸がチクチクと傷んだ。私は駆の父親からそう認識されていたという話をこれでもけっこう引きずっているのだ。
「対価として食事作ってもらっているとは言っても、お金に困った学生を無料でマンションに住まわせてる訳だし……こんな関係とても対等だなんて言えないよ……。」
私は再度『対等』という言葉を使った。
「私の勝手な思い込みなのかもしれないけど、交際する時はお互い対等でいたいんだよね……お互い最低限の収入があって自立していて……」
三度目の『対等』だ。
ふうんと口元に右の人差し指を当て、渚が私をじっと見つめてきた。
「つまり、それって専業主婦の家庭では夫婦が対等じゃないってことだよね?」
渚が自分の母親を頭に置いて話しているという事は分かる。収入がなければ対等じゃない、下に見ていいという発想が父親のモラハラを引き起こしていると言っていた事があったっけ。後悔先に立たずだ。迂闊な事を口にしてしまった。
「ごめん……、でも違う……………………ええとね……結婚は法的拘束力のある契約だから……扶養の相互義務もあるし……夫婦は対等だよ……」
私は必死に頭をフル回転させた。そういえばサシ飲みの時、匠の彼女の英里香さんが結婚は法律の枷がどうのこうのって言ってて結婚に全然前向きになってくれないと言っていた事を突然思い出す。
「でも男女交際自体は契約じゃないよね」
渚は口元の指を当てたまま冷静にこう言った。
「有葉ちゃんの理屈で言うと、親とかに扶養されている学生はそもそも男女交際できないって事だよね」
ひー! 渚に論破されてしまう。確かに私の主張だと親に養われている自立していない学生は男女交際出来ない事になってしまう。
「ううっ、ナギさん怖いです……」
私は涙目になる。渚は私の頑なな思い込みを全力で剥ぎ取りにきている。私と駆の間にある障壁は、主に私の心の中に存在している。私だって本当はそれを分かっているんだ。
「有葉ちゃんの言い分はよく分かってるよ。有葉ちゃんは別に汎用的な事を言っているわけではなく、あくまで自分の気持ちを述べてるだけだよね。付き合うならそういう人がいいっていう話。でもランちゃんはその条件を満たしていない。有葉ちゃんの好意にすがって生活している訳で」
渚の口調が若干柔らかくなった。私は首を縦に振る。
「そうだね…………『勘当』されちゃったんだから、仕方ないよ……」
「でも、本当はおばあさんなりお兄さんに経済的に頼れるって、有葉ちゃんこの前言ってたよね」
「その通りだね」
私は小さく頷く。すると渚が口元に当てていた右手の人差し指を立ててみせた。
「つまりランちゃんは有り体に言えば、有葉ちゃんに甘えてるだけってことだ!」
「…………分かってるよ、そのくらい…………」
私はごにょごにょと口の中で言った。
「ランちゃんだけじゃない……逆に私もランちゃんに甘えているしものすごく依存もしている。一緒に住んでるのがものすごく心地良いし楽なんだ。だからランちゃんを手放したくない…………本当は大学院に行ってからもうちに住み続けて欲しいんだよ……だけどそんな気持ちはランちゃんのせっかくの自立の意欲を削いでしまう…………」
この感情は渚の言う『欲望』そのものなのだろう。私の心の中で、そして血潮の中でぐるぐると渦巻いている行き場のない欲望。
「そんなの当然じゃん。好きなんだから!」
渚はあっけらかんと言い放った。
「それが好きって事じゃん!」
私は目を丸くして、隣に座っている渚の顔をじっと見つめた。渚は続けた。
「もちろんランちゃんの場合有葉ちゃんと同居を続ける動機として、お父さんに対する意地や留年した事に対する悔恨だってあると思うよ。でも本当に経済的にしんどいと感じたならいつだって頼れる人はいるのに、マゾかと思うほどアルバイト必死で頑張って学費を稼いで……今日もこうして掃除しちゃって、有葉ちゃんの傍にい続けてる……それってまさしく愛じゃん!」
それを聞いた私は顔からぼっと火が出るかと思った。
「…………愛…………」
その言葉を口にしただけで恥ずかしくて倒れそうになる。
渚はあっけらかんと言い放った。
「それが好きって事じゃん!」
私は目を丸くして、隣に座っている渚の顔をじっと見つめた。渚は続けた。
「もちろんランちゃんの場合有葉ちゃんと同居を続ける動機として、お父さんに対する意地や留年した事に対する悔恨だってあると思うよ。でも本当に経済的にしんどいと感じたならいつだって頼れる人はいるのに、マゾかと思うほどアルバイト必死で頑張って学費を稼いで……今日もこうして掃除しちゃって、有葉ちゃんの傍にい続けてる……それってまさしく愛じゃん!」
それを聞いた私は顔からぼっと火が出るかと思った。
「…………愛…………」
その言葉を口にしただけで恥ずかしくて倒れそうになる。
しかし私は必死で最後の抵抗を試みた。
「でも……ランちゃんが私の事が好きだって思っているのは、きっと刷り込みなんじゃないかな。たまたま人生で一番困っている時に手を差し伸べられたから好きになったと思い込んでるだけで……」
「有葉ちゃん……きみ、案外往生際が悪いね……刷り込みなんかじゃない、それは運命って言うんだよ!」
元文学少女に前のめりで力説され、私はのけぞってしまった。渚はまくし立てる。
「ランちゃんが助けを求めた時誰も手を差し伸べなかったら、きっと彼は最終的に諦めておばあさんに頭を下げたんだと思うよ!」
「…………お父さんもそう思っていたらしい…………勘当と言ったのはあくまでもゲームにハマって留年してしまった息子を反省させるつもりだったみたいだから…………」
先日匠から聞いた話を渚にして聞かせた。ちなみにその話は駆には内緒にしている。そんな話は絶対に聞きたくないと思うから。
「なのに有葉ちゃんが救いの手を差し伸べた。これこそ正に運命だよ!」
渚が両手を組んでうっとりしたような表情を浮かべる。
「どう? これでも否定する?」
「否定っていうか……怖いんだ……意を決して私から告白したのに拒絶されたらとか、最初はうまくいってても途中でダメになっちゃうとか……あれこれ想像しただけで怖くなっちゃう……」
私は両手に顔を埋めた。渚は尋ねてくる。
「半年同居してうまくいってるくせに、それでも怖いんだ?」
「怖いよ……ランちゃんがある日突然私の目の前からいなくなったらと考えただけで怖い……ランちゃんは私にとってもう大切な家族でもあるんだもの…………」
私は身を震わせた。両親がある日突然暴力的な交通事故でこの世から去ってしまったという事実は、未だに私の心に重く圧し掛かっていた。せっかく手にしたささやかな幸せが、自分の迂闊な行動で指の間から滑り落ちていくのが絶対に嫌なのだ。
「でも……ランちゃんが私の事が好きだって思っているのは、きっと刷り込みなんじゃないかな。たまたま人生で一番困っている時に手を差し伸べられたから好きになったと思い込んでるだけで……」
「有葉ちゃん……きみ、案外往生際が悪いね……刷り込みなんかじゃない、それは運命って言うんだよ!」
元文学少女に前のめりで力説され、私はのけぞってしまった。渚はまくし立てる。
「ランちゃんが助けを求めた時誰も手を差し伸べなかったら、きっと彼は最終的に諦めておばあさんに頭を下げたんだと思うよ!」
「…………お父さんもそう思っていたらしい…………勘当と言ったのはあくまでもゲームにハマって留年してしまった息子を反省させるつもりだったみたいだから…………」
先日匠から聞いた話を渚にして聞かせた。ちなみにその話は駆には内緒にしている。そんな話は絶対に聞きたくないと思うから。
「なのに有葉ちゃんが救いの手を差し伸べた。これこそ正に運命だよ!」
渚が両手を組んでうっとりしたような表情を浮かべる。
「どう? これでも否定する?」
「否定っていうか……怖いんだ……意を決して私から告白したのに拒絶されたらとか、最初はうまくいってても途中でダメになっちゃうとか……あれこれ想像しただけで怖くなっちゃう……」
私は両手に顔を埋めた。渚は尋ねてくる。
「半年同居してうまくいってるくせに、それでも怖いんだ?」
「怖いよ……ランちゃんがある日突然私の目の前からいなくなったらと考えただけで怖い……ランちゃんは私にとってもう大切な家族でもあるんだもの…………」
私は身を震わせた。両親がある日突然暴力的な交通事故でこの世から去ってしまったという事実は、未だに私の心に重く圧し掛かっていた。せっかく手にしたささやかな幸せが、自分の迂闊な行動で指の間から滑り落ちていくのが絶対に嫌なのだ。
「そっか……そうだよね、怖いよね……」
今度は渚が私の髪にそっと優しく手で触れてきた。目を向けるとさっきと打って変わって優しい眼差しと声音だった。
「何も急ぐ必要はないよ……焦らせてごめんね……」
「ううん……でも、渚が親身になってくれて本当に嬉しいんだ……私も早くこの恐怖心を克服したい……だって全然先に進めないもの……」
私がそこまで言った時、客間のドアが控えめにノックされた。「どうぞ~」と声を掛けると駆が顔だけのぞかせてきた。
「台所の水回りの清掃は終わったよ。次どうしよう?」
「居間に掃除機かけてくれる?」
そう答えたのだが、駆の視線が私と渚の方に釘付けになっていて、ようやく私達がやたら密着していた事に気が付いた。
駆はこほんと咳をすると
「了解。それにしても二人ってほーんと仲いいんだね」と言いながらパタンとドアを閉めたのだった。
「今の絶対妬いてたね!」
渚が心底嬉しそうに笑う。私は意識が遠のきそうになり、額に手を当てた。
「よしてよ……」
今度は渚が私の髪にそっと優しく手で触れてきた。目を向けるとさっきと打って変わって優しい眼差しと声音だった。
「何も急ぐ必要はないよ……焦らせてごめんね……」
「ううん……でも、渚が親身になってくれて本当に嬉しいんだ……私も早くこの恐怖心を克服したい……だって全然先に進めないもの……」
私がそこまで言った時、客間のドアが控えめにノックされた。「どうぞ~」と声を掛けると駆が顔だけのぞかせてきた。
「台所の水回りの清掃は終わったよ。次どうしよう?」
「居間に掃除機かけてくれる?」
そう答えたのだが、駆の視線が私と渚の方に釘付けになっていて、ようやく私達がやたら密着していた事に気が付いた。
駆はこほんと咳をすると
「了解。それにしても二人ってほーんと仲いいんだね」と言いながらパタンとドアを閉めたのだった。
「今の絶対妬いてたね!」
渚が心底嬉しそうに笑う。私は意識が遠のきそうになり、額に手を当てた。
「よしてよ……」
その後渚は用事があると言って帰っていった。「いい男がいたらどんどん紹介してね」と私達に言い残して。
駆がせっせと居間の畳に掃除機をかけている時、私はこの家をどう整理していこうか考えていた。そもそもここをどうするかという問題がある。家を貸すのか、売るのか、更地にするのか、それとも持ち続けるのか。家を遺品として改めて見ると物が多すぎた。 祖母は両親が結婚して私が生まれてから物心つく前にくも膜下出血で亡くなってしまったそうだが、それ以来祖父はここでずっと一人暮らしをしていた。私が保育園に通っていた時は、保育園の終わり頃迎えに行って両親が仕事から帰る時間まで、この家で私の面倒を見てくれていた。だから私にとってとても馴染みのある家となっている。売りたいか? と問われれば売りたくないのが本音なのだが、別なところに住んでいる私がずっと管理しきれるかという問題はあった。人が住まない家は痛みが早いと聞くし、法律改正されて危険な空き家は固定資産税が増やされてしまうらしいし、本当に悩ましい。
駆がせっせと居間の畳に掃除機をかけている時、私はこの家をどう整理していこうか考えていた。そもそもここをどうするかという問題がある。家を貸すのか、売るのか、更地にするのか、それとも持ち続けるのか。家を遺品として改めて見ると物が多すぎた。 祖母は両親が結婚して私が生まれてから物心つく前にくも膜下出血で亡くなってしまったそうだが、それ以来祖父はここでずっと一人暮らしをしていた。私が保育園に通っていた時は、保育園の終わり頃迎えに行って両親が仕事から帰る時間まで、この家で私の面倒を見てくれていた。だから私にとってとても馴染みのある家となっている。売りたいか? と問われれば売りたくないのが本音なのだが、別なところに住んでいる私がずっと管理しきれるかという問題はあった。人が住まない家は痛みが早いと聞くし、法律改正されて危険な空き家は固定資産税が増やされてしまうらしいし、本当に悩ましい。
そんなことをつらつらと考えている時、騒々しい掃除機の音が止まった。
「居間の掃除は終わったよ。次どうする?」
駆が尋ねてくる。私はつい習慣で居間の壁時計を見上げたものの、電池が既に切れていてこの家の時は止まっていた。代わりに駆の腕時計を見せてもらう。もう五時過ぎていた。
「今日はそろそろ終わりにしようか。もう夕方だしね」
了解、と駆は掃除機を納戸にしまうため一旦部屋を出て行った。
「居間の掃除は終わったよ。次どうする?」
駆が尋ねてくる。私はつい習慣で居間の壁時計を見上げたものの、電池が既に切れていてこの家の時は止まっていた。代わりに駆の腕時計を見せてもらう。もう五時過ぎていた。
「今日はそろそろ終わりにしようか。もう夕方だしね」
了解、と駆は掃除機を納戸にしまうため一旦部屋を出て行った。
残された私は何となく桐製の和箪笥に目をやった。その上にはたくさんの写真が飾られている。モノクロの祖父母の結婚写真から始まり、母が小学校に入学した時校門で取った記念写真、母や私の成人式の振袖の写真、祖父母の銀婚式の記念写真、両親の結婚式の写真、私のお宮参りの写真、珍しく祖父と両親そして私が映った旅行先での写真など所狭しと並んでいる。
四人で撮った写真のフレームを取り上げ、私は掃除機の片づけを終え戻って来た駆に見せた。
「遺伝って恐ろしいよね……おじいさんもお母さんも私も目、そっくりでしょ」
「いい写真ですよ」
駆は決して茶化したりはしなかった。
「みんな笑顔で楽しそう。これはどこで撮った写真?」
「ええと、ここは群馬の四万温泉だね……背景がレトロな旅館だから。確か今から六年くらい前だったかな」
映画にでも出てきそうな雰囲気の良いレトロな旅館に皆で宿泊した時の写真である。あの時は皆で絵に描いたような古き良き温泉街を散策し、スマートボールで遊んで楽しかった事を思い出す。
次に私は両親の少し大きめの結婚写真を手に取った。二人が結婚した頃は、まだホテルや結婚式場での結婚が主流だったそうだ。二人は地元のホテルで挙式したのだが、写真の中では銀のフロックコートを着た長身の父と、ちょっと時代がかった派手目のメイクをしてAラインのウェディングドレスに身を包んだ母が手をつないで満面の笑みを浮かべていた。
「お父さん、この頃は痩せててけっこうイケメンだったんだよね。晩年はお腹がすっかりテディベアになってしまったけど……」
私は笑いながら続けた。
「実はこの二人、なかなか結婚を認めてもらえなかったんだって。出会ったのがゲームのオフ会ってお母さんがうっかり説明したらおじいさんが激怒しちゃって。ゲームなんてやってる男はきっとチャラチャラしているに違いないからって」
「お母さんもそのゲームのファンだったんだよね?」
駆が唖然としたように尋ねてくる。私は頷いた。
「もちろん。半ばいちゃもんだって。お母さんは一人娘だったから、おじいさん的にはどこの馬の骨とも知れない男との結婚を簡単に認めたくなかっただけなんじゃないの?」
ふふっと駆が笑った。
「でも最終的には認められたんですよね?」
「もちろん! お父さんは人たらしだったんだよ。何度も懲りずにお酒を持参しておじいさんと腹を割って話し合って、ようやく心を掴んだらしいよ」
父はオタクではあったけど、同時に年配者に好かれる気遣いができるタイプでもあったから昭和の男だった祖父の懐に飛び込むことができたのだろう。
「す、凄いね。お父さんはそこまでしてもお母さんと結婚したかったんだね!」
駆が感嘆したように声を上げた。
「その愛のパワーが凄いよね?」
私はそう言いながら手にした写真を再び見つめた。父はいつも「お母さんよりも長生きしたくない」って言っていた。「お母さんがいない世界なんて見たくない、生きていたくない」って。一方父より三つ年下の母は「平均寿命は女性の方が長いんだよ。私の方が長生きする確率の方が圧倒的に高い。お父さんは私が看取ってあげるからいい加減安心しなさい」ってクールに言ってたっけ。なのに二人同時にこの世を去ってしまった。こんな形で父の願いが叶ってしまった事が哀しく思えてならなかった。
四人で撮った写真のフレームを取り上げ、私は掃除機の片づけを終え戻って来た駆に見せた。
「遺伝って恐ろしいよね……おじいさんもお母さんも私も目、そっくりでしょ」
「いい写真ですよ」
駆は決して茶化したりはしなかった。
「みんな笑顔で楽しそう。これはどこで撮った写真?」
「ええと、ここは群馬の四万温泉だね……背景がレトロな旅館だから。確か今から六年くらい前だったかな」
映画にでも出てきそうな雰囲気の良いレトロな旅館に皆で宿泊した時の写真である。あの時は皆で絵に描いたような古き良き温泉街を散策し、スマートボールで遊んで楽しかった事を思い出す。
次に私は両親の少し大きめの結婚写真を手に取った。二人が結婚した頃は、まだホテルや結婚式場での結婚が主流だったそうだ。二人は地元のホテルで挙式したのだが、写真の中では銀のフロックコートを着た長身の父と、ちょっと時代がかった派手目のメイクをしてAラインのウェディングドレスに身を包んだ母が手をつないで満面の笑みを浮かべていた。
「お父さん、この頃は痩せててけっこうイケメンだったんだよね。晩年はお腹がすっかりテディベアになってしまったけど……」
私は笑いながら続けた。
「実はこの二人、なかなか結婚を認めてもらえなかったんだって。出会ったのがゲームのオフ会ってお母さんがうっかり説明したらおじいさんが激怒しちゃって。ゲームなんてやってる男はきっとチャラチャラしているに違いないからって」
「お母さんもそのゲームのファンだったんだよね?」
駆が唖然としたように尋ねてくる。私は頷いた。
「もちろん。半ばいちゃもんだって。お母さんは一人娘だったから、おじいさん的にはどこの馬の骨とも知れない男との結婚を簡単に認めたくなかっただけなんじゃないの?」
ふふっと駆が笑った。
「でも最終的には認められたんですよね?」
「もちろん! お父さんは人たらしだったんだよ。何度も懲りずにお酒を持参しておじいさんと腹を割って話し合って、ようやく心を掴んだらしいよ」
父はオタクではあったけど、同時に年配者に好かれる気遣いができるタイプでもあったから昭和の男だった祖父の懐に飛び込むことができたのだろう。
「す、凄いね。お父さんはそこまでしてもお母さんと結婚したかったんだね!」
駆が感嘆したように声を上げた。
「その愛のパワーが凄いよね?」
私はそう言いながら手にした写真を再び見つめた。父はいつも「お母さんよりも長生きしたくない」って言っていた。「お母さんがいない世界なんて見たくない、生きていたくない」って。一方父より三つ年下の母は「平均寿命は女性の方が長いんだよ。私の方が長生きする確率の方が圧倒的に高い。お父さんは私が看取ってあげるからいい加減安心しなさい」ってクールに言ってたっけ。なのに二人同時にこの世を去ってしまった。こんな形で父の願いが叶ってしまった事が哀しく思えてならなかった。
そんな事をふと思い返していたら、私の両目からいきなり涙がぼとぼとと溢れてきた。突然前触れもなく泣き始めた私を見て、傍で一緒に写真を眺めていた駆がおろおろし始める。
「アルファさん……?」
今気が付いたけど、私は駆の前では泣いたことがなかったのだ。涙もろい駆がいつも泣いてばかりだったから。
「ごめん…………何故か泣けてくる…………もうだいぶ経つのにね…………」
私の涙は全然止まらなかった。駆は私の正面についと回って、顔に指を差し出すとそっとぬぐってくる。その予想外の仕草に驚きのあまり私の涙が引っ込んでしまった。私は呆然と駆を見上げる。
「きれいなハンカチが手元になかったからついとっさに……勝手に触ってしまってごめんなさい! 指はさっき洗ったばかりだからきれいなはずだけど……」
駆は必死に謝ってくる。それから少したってからぽつりぽつりとこう続けた。
「あのね……ええと、泣くのは全然恥ずかしい事じゃないと思う……泣き虫のオレが言うとなんか言い訳がましいよね……でもオレのおばあさんは物凄く気丈な人だけど、それでもおじいさんのお墓の前で何度も泣いてたよ……。悲しみって別に克服する必要はないんじゃないかな……亡くなった方の事を思い出して悲しければ何度だって泣いていいと思うんだ……」
「……………………うん、そうだね……………………」
私は小さく頷き自分の指で涙をぬぐう。飾らない駆の言葉が嬉しかった。
少し落ち着いたので客間に置きっぱなしにしていた自分のショルダーバッグからミニタオルを取り出し、涙を拭く。駆に何度でも泣いていいと言われた事がじわじわと胸に沁みていく。再び目から涙が零れ落ちた。しかしこれは嬉し涙なのだった。
「アルファさん……?」
今気が付いたけど、私は駆の前では泣いたことがなかったのだ。涙もろい駆がいつも泣いてばかりだったから。
「ごめん…………何故か泣けてくる…………もうだいぶ経つのにね…………」
私の涙は全然止まらなかった。駆は私の正面についと回って、顔に指を差し出すとそっとぬぐってくる。その予想外の仕草に驚きのあまり私の涙が引っ込んでしまった。私は呆然と駆を見上げる。
「きれいなハンカチが手元になかったからついとっさに……勝手に触ってしまってごめんなさい! 指はさっき洗ったばかりだからきれいなはずだけど……」
駆は必死に謝ってくる。それから少したってからぽつりぽつりとこう続けた。
「あのね……ええと、泣くのは全然恥ずかしい事じゃないと思う……泣き虫のオレが言うとなんか言い訳がましいよね……でもオレのおばあさんは物凄く気丈な人だけど、それでもおじいさんのお墓の前で何度も泣いてたよ……。悲しみって別に克服する必要はないんじゃないかな……亡くなった方の事を思い出して悲しければ何度だって泣いていいと思うんだ……」
「……………………うん、そうだね……………………」
私は小さく頷き自分の指で涙をぬぐう。飾らない駆の言葉が嬉しかった。
少し落ち着いたので客間に置きっぱなしにしていた自分のショルダーバッグからミニタオルを取り出し、涙を拭く。駆に何度でも泣いていいと言われた事がじわじわと胸に沁みていく。再び目から涙が零れ落ちた。しかしこれは嬉し涙なのだった。
祖父の家の戸締りをしっかり行い鍵を駆に委ねた後、夕暮れの緩やかな坂道を下り始めた。駆はこういう時何も言わずに歩道の車道側を歩いてくれる。駆がふとこう言った。
「大学に進学したばかりの頃、身近に大きな山が見えなくて不安で仕方なかったんだ……関東平野って本当に広いんだね……びっくりしたよ」
「山って遠くに小さくしか見えないよね。埼玉でも冬、空気が澄んだ日に運が良ければ富士山が見えたりもするけど。君の実家からだとどんな山が見えるの?」
と私が尋ねると、駆は「岩手山」と答えながらサコッシュからスマホを取り出し、それをいじって美しく壮麗な雪山の映った風景写真を見せてくれた。
「こんな感じで見えるんだ。綺麗でしょう? 盛岡から見るよりも一回り小さいけど、それでも毎日仰ぎ見ていた山なんだ。家の近くを北上川が流れていて……」
「それが君の故郷の風景なんだね」
「東京から地元に移住してきたおじいさんがその風景を大層気に入ったんだって……おばあさんの家にはおじいさんが水彩絵の具で描いた風景画が山のように残っているんだ」
東京出身の人も魅了するなんてさぞかし美しい風景なのだろうなあと、羨ましく思った。
「私は御覧の通りの何の変哲もない風景を毎日見てたよ……」
この周辺は基本住宅街なので、家やマンションばかりである。所々に古くからある神社があるくらいで、何の変哲もない風景だ。振り向けば遠くにパルコが見えるけど。
「それでもアルファさんの大切な風景だよ」
駆がそう言ってくれたので、私はふふっと笑った
「岩手山見てみたいなあ」
「オレが無事進級できたら行ってみる?」
すると駆がそう提案してきたので、私は訂正した。
「進級できたら、じゃなくて絶対するの!」
そして旅行案には同意する。
「ま、それは置いておいて、いいね! 私、盛岡はまだ行った事ないんだよ!」
「じゃ、絶対に行こう! アルファさんに見せたいところ一杯あるんだよ!」
駆の声ははしゃいでいた。勘当されたから地元には帰りたくないのかと思ってたけど、実家に行かなければ平気なのかな。
「大学に進学したばかりの頃、身近に大きな山が見えなくて不安で仕方なかったんだ……関東平野って本当に広いんだね……びっくりしたよ」
「山って遠くに小さくしか見えないよね。埼玉でも冬、空気が澄んだ日に運が良ければ富士山が見えたりもするけど。君の実家からだとどんな山が見えるの?」
と私が尋ねると、駆は「岩手山」と答えながらサコッシュからスマホを取り出し、それをいじって美しく壮麗な雪山の映った風景写真を見せてくれた。
「こんな感じで見えるんだ。綺麗でしょう? 盛岡から見るよりも一回り小さいけど、それでも毎日仰ぎ見ていた山なんだ。家の近くを北上川が流れていて……」
「それが君の故郷の風景なんだね」
「東京から地元に移住してきたおじいさんがその風景を大層気に入ったんだって……おばあさんの家にはおじいさんが水彩絵の具で描いた風景画が山のように残っているんだ」
東京出身の人も魅了するなんてさぞかし美しい風景なのだろうなあと、羨ましく思った。
「私は御覧の通りの何の変哲もない風景を毎日見てたよ……」
この周辺は基本住宅街なので、家やマンションばかりである。所々に古くからある神社があるくらいで、何の変哲もない風景だ。振り向けば遠くにパルコが見えるけど。
「それでもアルファさんの大切な風景だよ」
駆がそう言ってくれたので、私はふふっと笑った
「岩手山見てみたいなあ」
「オレが無事進級できたら行ってみる?」
すると駆がそう提案してきたので、私は訂正した。
「進級できたら、じゃなくて絶対するの!」
そして旅行案には同意する。
「ま、それは置いておいて、いいね! 私、盛岡はまだ行った事ないんだよ!」
「じゃ、絶対に行こう! アルファさんに見せたいところ一杯あるんだよ!」
駆の声ははしゃいでいた。勘当されたから地元には帰りたくないのかと思ってたけど、実家に行かなければ平気なのかな。
「どこがお勧め?」
私が尋ねると駆はそれは嬉しそうに話し始めた。
「やっぱり|不来方《こずかた》城かな。石川啄木が『不来方の~』って歌ったところ」
「あ、その短歌私でも知ってる!」
「後はね、盛岡はレトロな喫茶店が多いんだ! オレのお気に入りの喫茶店にアルファさんを是非連れていきたい! 絶対に気に入るはずだから!」
「お、いいね!」
「麺も有名だよ。わんこそばに冷麺にじゃじゃ麺」
「盛岡、グルメの街じゃん」
「さらに有名なコッペパンがあってね。オレの高校の近くに本店があるんだけど、観光客が行列するんだよ」
「コッペパンに行列!?」
私は仰天した。駆は頷く。
「挟む具が色々選べるんだよ。まあ、地元民は並ばずに済む違う店に行くんだけどね」
「そこも行くー!」
私が右手を挙げた。
「少し離れたところには小岩井農場もあるよ」
「新鮮な牛乳飲みたい!」
「つなぎ温泉という美肌の湯もある!」
「泊まりはそこかな?」
駆はどんどん列挙していく。話を聞いているだけで私の旅行欲が高まっていった。
「本屋で岩手の旅行雑誌買わなくちゃ!」
「レンタカーの運転はオレに任せて!」
「おう、期待してる!」
私達は酒を飲んだわけでもないのにテンション高くおしゃべりしながら、近所にある安い事で有名な大型スーパーに向かって歩いて行った。
私が尋ねると駆はそれは嬉しそうに話し始めた。
「やっぱり|不来方《こずかた》城かな。石川啄木が『不来方の~』って歌ったところ」
「あ、その短歌私でも知ってる!」
「後はね、盛岡はレトロな喫茶店が多いんだ! オレのお気に入りの喫茶店にアルファさんを是非連れていきたい! 絶対に気に入るはずだから!」
「お、いいね!」
「麺も有名だよ。わんこそばに冷麺にじゃじゃ麺」
「盛岡、グルメの街じゃん」
「さらに有名なコッペパンがあってね。オレの高校の近くに本店があるんだけど、観光客が行列するんだよ」
「コッペパンに行列!?」
私は仰天した。駆は頷く。
「挟む具が色々選べるんだよ。まあ、地元民は並ばずに済む違う店に行くんだけどね」
「そこも行くー!」
私が右手を挙げた。
「少し離れたところには小岩井農場もあるよ」
「新鮮な牛乳飲みたい!」
「つなぎ温泉という美肌の湯もある!」
「泊まりはそこかな?」
駆はどんどん列挙していく。話を聞いているだけで私の旅行欲が高まっていった。
「本屋で岩手の旅行雑誌買わなくちゃ!」
「レンタカーの運転はオレに任せて!」
「おう、期待してる!」
私達は酒を飲んだわけでもないのにテンション高くおしゃべりしながら、近所にある安い事で有名な大型スーパーに向かって歩いて行った。
スーパーの中に入ってから、入り口に置いてあるかごを持った駆が尋ねてくる。
「アルファさん、今晩何が食べたい?」
「ランちゃんが作るものなら何でもいいよ」
「何でもいいが一番困るっていつも言ってるでしょ!」
笑顔の駆に叱られた。まるでお母さんのようである。
「ごめんごめん、じゃあ今日はお互い頑張ったからピザにしよう。ここのピザ安くておいしいよね」
「了解! 支払いはアルファさん、お願いします」
ポイ活大好きな駆だが、このスーパーは現金払いのみ会員割引があるのだ。キャッシュレス決済で付与されるポイントよりも現金払いの方がお得なのは計算すれば明らかだ、ただし現金を持っていればの話だけど。
「はーい、あれ、でも、私現金持ってたかな? 最近私の財布のキャッシュレス化が進んでて現金持つ習慣がなくなっちゃって」
私ははたと立ち止まるとショルダーバッグから財布を取り出して確認する。大丈夫、夕食分くらいの現金はちゃんと残っていた。
本当に世帯じみた会話である。色気も素っ気もなさすぎる。でも、私は駆のきれいな横顔を見上げながら幸せを噛みしめていた。この他愛もない会話こそが、何物にも代えがたい尊いものであることを私は知っているから。
私の視線に気が付いた駆が、私の方を向いてにこっと笑った。いつも思うのだが駆の笑顔は極上だ。
「そういえばタバスコ切れてたよね」
「うん、粉チーズも買い足しておかなくちゃ」
私は微笑み返すと、そう付け加えたのだった。
「アルファさん、今晩何が食べたい?」
「ランちゃんが作るものなら何でもいいよ」
「何でもいいが一番困るっていつも言ってるでしょ!」
笑顔の駆に叱られた。まるでお母さんのようである。
「ごめんごめん、じゃあ今日はお互い頑張ったからピザにしよう。ここのピザ安くておいしいよね」
「了解! 支払いはアルファさん、お願いします」
ポイ活大好きな駆だが、このスーパーは現金払いのみ会員割引があるのだ。キャッシュレス決済で付与されるポイントよりも現金払いの方がお得なのは計算すれば明らかだ、ただし現金を持っていればの話だけど。
「はーい、あれ、でも、私現金持ってたかな? 最近私の財布のキャッシュレス化が進んでて現金持つ習慣がなくなっちゃって」
私ははたと立ち止まるとショルダーバッグから財布を取り出して確認する。大丈夫、夕食分くらいの現金はちゃんと残っていた。
本当に世帯じみた会話である。色気も素っ気もなさすぎる。でも、私は駆のきれいな横顔を見上げながら幸せを噛みしめていた。この他愛もない会話こそが、何物にも代えがたい尊いものであることを私は知っているから。
私の視線に気が付いた駆が、私の方を向いてにこっと笑った。いつも思うのだが駆の笑顔は極上だ。
「そういえばタバスコ切れてたよね」
「うん、粉チーズも買い足しておかなくちゃ」
私は微笑み返すと、そう付け加えたのだった。