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第6章 水魚の交わり-1

ー/ー



 今日は9月23日木曜日、秋分の日である。駆と同居を始めてから早半年が経過していた。
 遅めの朝食時、お彼岸だし両親や母方の祖父の墓参りをするつもりだと、駆にその旨伝えたところ、自分も行きたいと言い出した。
 「えー、ただのお墓参りだよ」
コーンポタージュスープを飲んでから怪訝そうに言うと、ダイニングテーブルの反対側に座っていた駆はまっすぐな目をして私を見つめてきた。
「だってオレ、今アルファさんに大層お世話になってるし。今日はたまたまバイト入ってないから是非行きたいんだ。ダメ?」
 今時積極的に墓参りをしたがる若者がいるなんて思わなかった。
「まあ、君がそう言ってくれるなら私はいつだって大歓迎だよ。一人で墓参りなんて寂しいしね。せっかくだからランチを兼ねて出かけない? ついでにおじいさんの家も覗いてこようかな。あ、私の母方のおじいさんち、空き家になっているんだけど、ずっと放置状態だからさすがにまずいんだよね」
 墓のある寺は我が家から徒歩十分ほどのところにあり、寺と祖父の家の途中には和食系のファミレスがあった。そこでランチを食べれば丁度良いだろうと私は思案する。
「亡くなったおじいさんの家が、こことは別にあったんだ?」
駆は初耳というように目を見開いた。私はゆっくり頷く。
「うん、ここから徒歩十五分くらいの高台に古い一軒家があるんだけど、遺品整理がおっくうでずっと放置してたんだ」
「そうだったんだ……遺品整理って本当に大変だって聞いてるから仕方ないよ……」
 駆は労わるような眼差しで私を見てくる。私が不動産を複数相続した人間と知っても全く驚く事もなくその事実を淡々と受け入れているあたり、さすが実家が不動産業(ディベロッパー)のお坊ちゃまといったところか。通常だとかなり驚かれるのだ。

 正直に言うと、駆が信頼に値する人物か見極めるまで私が相続したもう一つの不動産の話は伏せておこうと思い、今まで黙っていたのだ。
 両親が交通事故で亡くなり、その約一年後祖父が病死した頃、私の財産を狙って接近してくる輩が大勢いた。連中は親切な顔を装い、精神的に弱っていた私に近づいてきたのである。大抵は投資目的のワンルームマンションのセールスや宗教勧誘、聞いたこともないような慈善団体からの寄付の依頼などだったのだが、とりわけたちが悪かったのは、かつての小学校の同級生の男だった。
 さりげなく私を労わるような電話をかけてきて食事に誘い、私に恋愛感情があるふりをして交際に持ち込もうとしたのだ。小学生の頃私に一切興味を示さなかったそいつが今更接近してくるなんておかしいと直感した、幼馴染で親友の柳田 渚が色々周囲を調べてくれた。「あいつは彼女いるし、実はギャンブル狂で相当借金抱えているらしい」と私に忠告してくれたため、食事を二回おごっただけで済んだのだが、その胸糞悪い経験に追い打ちをかけられ私は恋愛に対してさらに臆病になってしまったのだ。
 だが駆はこの半年間一度たりとも私に何かをねだったことはない。食事以外の必要なものは自分で購入していて、外食だけは「出世払いね」と冗談を言いながらいつも私がご馳走しているけど、本当にそれだけだ。その都度駆は何を食べたのか几帳面にスマホアプリに記録しているので、もしかしたら本当に将来出世できたら返すつもりなのかもしれない。そんな無欲で律儀な駆だからこそ、信頼できると確信できたのだ。
 当初駆がどんな人物か分からない状態で同居を申し出たし、日常生活を淡々と送るだけならそれで何の問題もないのだが、同居人に自分がそれなりに価値のある不動産を別途所有している事を明かす事には、実は勇気が必要だったのだ。

 「そうそう……君、アルバイトする気ない?」
私はかねてからの懸案事項を解決すべく駆に尋ねる。厚切りバタートーストを頬張っていた駆は不思議そうに首を傾げた。
「アルバイト?」
「ほら、この前国民年金の支払いがどーたらこーたらって言ってたじゃない」
「ああ……」
駆の表情がたちまち暗くなった。
「二ヶ月分はなんとか払ったんだけど、あれがこれから毎月続くと思うと憂鬱になるよね……。ってそのアルバイト話、是非教えてください!」
 つい先日の事だったが、駆が地元の区役所から送られてきた国民年金保険料の納付書を私に見せながらぼやいたばかりだった。話を聞くと、それまでは親が保険料を二年間前払いしてくれていたけど、7月に誕生日を迎えその前払期間がついに終了し、月々約一万七千円払う羽目に陥ったらしかった。大学の学費を稼ぐためにただでさえアルバイトに追われていた駆だったが、ここに来て二万円近い出費が追加されるという惨い仕打ちにさすがに青ざめていたため、私に出来る範囲で何とかしてあげたかったのだ。一生懸命考えた結果、ずっと放置していた祖父の家の掃除を思いついた次第である。

 「さっき話したおじいさんの家の事なんだけど、庭は以前から出入りしていた庭師さんに定期的にお願いしているからきれいなんだけど、家の中がほとんど手つかずなんだよ。掃除も必要だし、遺品の整理も徐々にやらなくちゃいけないんだけど、業者に委託すると大切なものまで処分されそうだから……」
「なるほど、その作業をオレにやってほしいと」
駆は考えるように顎に手を当てた。
「そうなの。まずは徹底的な掃除をして欲しいんだ。全然急いでいないから、君の空き時間にゆっくりやってくれればいい。もちろんバイト料は弾むから」
 私はテーブルの上にあったメモ用紙にその金額を走り書きし、駆に見せた。丁度国民年金保険料半年分相当額である。
「やります、いや、是非やらせてください!」
駆は素早く立ち上がるなり敬礼してきたのだった。

 朝食後駆がキッチンで後片付けをしている間、私はソファにもたれかかって渚からのLIMEに返信していた。どうしても会って話したいことがあるそうだ。私は少し考えてから、
『午後おじいさんの家に行くつもりなんだ。多少埃っぽいのを我慢できるならそっちに来てくれる?』
と返信した。渚の自宅は私の住むマンションと祖父の家のちょうど中間地点にあるから、来る手間は変わらないはずだ。
 しばらくたってから返事が来た。
『了解! 手土産持っていくから楽しみにしてて!』
『ランちゃんの分もよろしくね♪』
 今日駆には水回りの掃除を中心にお願いするつもりだった。その間渚とゆっくり話せるだろう。
 そんな時、キッチンの横に設置されているインターホンが鳴った。私が出ようと立ち上がったものの、その前にひっそりぐらしのデニムのエプロンを付けた駆が出てくれたのだが、困惑した表情で私の方に振り返った。
「駅前交番の小川さんだって……」
「小川さん……ああ、綾乃さんね。お通ししてもらえるかな」
私はそう言いながらインターホンのディスプレイをひょいと横から覗き込む。顔馴染みの制服姿の警察官、小川 綾乃巡査部長とその背後に見覚えのないうら若い男性警察官が映っていた。

 綾乃さんは駅前交番に勤務しており、二年以上前から私の事をやたら気にかけてくれている人だった。確か私よりも三つ年上で、去年結婚したばかりと聞いている。今までは橋本さんという後輩女性巡査とペアを組んでいたのだが、ペアが交代したのだろうか。
 私は駆に四人分のコーヒーを淹れるようお願いしてから、二人を玄関で迎えるとリビングまで来てもらった。綾乃さんは早速見知らぬ若い警察官を紹介してくれる。
「有葉さん、こちらが私のペアの桜井巡査。前に異動があって橋本さんと交代したって訳」
 綾乃さんがタメ口なのは私がそうして欲しいとお願いしたからだ。綾乃さんには私のお姉さんみたいに接してほしかった。
「桜井 悠太です、今後よろしくお願いします!」
まだはたちそこそこに見える桜井巡査が、元気よく大きな声で自己紹介しながら私に名刺を渡してくれた。
 私は二人に客用ソファに腰かけてもらいながら、今日の訪問の目的を尋ねた。
「いつもの巡回連絡だよ」
綾乃さんはにこにこしながら答える。
「有葉さんが元気にしているのか、たまには確認しないとね」
「御覧の通り元気です」
私も笑顔で返した。
 その時駆が大きめのお盆にコーヒーの入った客用カップとマグカップをそれぞれ二つずつ載せてやって来た。どうぞ、と言いながらローテーブルにカップと砂糖とポーションの入った陶器の器をそっと置く。私は早速二人にコーヒーを勧めたのだが、カップを手にした綾乃さんが好奇心を隠しきれない様子で駆を見ている。
「有葉さん、ついに同棲始めたんだね! 表札見た時から、ははーん、これはって思ってたけど!」
 同棲ではないと本当は否定したかったけど、話がややこしくなるのでいつもそういう設定で通してしまう。駆も了承済みだ。
「三月から一緒に住んでます」
とだけ説明したのだが、綾乃さんは満面の笑みを浮かべたまま桜井君に巡回カードを出すように伝えた。
「じゃあ、彼の分もこのカード書いてもらえると助かるなあ。記入した個人情報はあくまでも非常時にしか使わないからご安心下さい」
 そう言いながら巡回連絡カードをつと差し出してくる。私はお盆を抱えたまま立っている駆の方を見上げた。
「ランちゃん、別に書いても書かなくてもいいんだからね」
 すると駆はお盆をカウンターに戻すと、ローテーブルに置かれたカードを取り上げ、ダイニングテーブルの上で全く迷うことなくさらさらとカードの記入を始めた。
「全然抵抗ないなんて珍しい」
驚いたように綾乃さんが呟いたので、駆が綾乃さんと桜井君の方を見ながらにっこりと微笑んだ。
「カードの記入を求められたら絶対に書いてさしあげろと、兄から厳命されているんで。なかなか書いてもらえなくて苦労してるからって」
 桜井君が「ご協力ありがとうございます!」と書き終わったカードを受け取りながら
「あれ、もしかしてこの連絡先に書いてある山城さんのお兄さん、僕達と同業者なんですか?」
とこの話題に食いついてきた。
「そうなんですよ。巡回連絡でカードを書いてもらうのが本当に大変だって兄が言ってましたから」
駆はさらりと流した。駆の兄、匠はキャリア警察官だが、交番勤務経験もあるって言ってたし苦労したのは間違いないだろう。
「本当に助かります!!!」
桜井君は本当に嬉しそうだった。

 その後私の傍に駆が腰かけ、四人で少し世間話をする。
「山城さん、岩手県出身のK大生なんですね」
綾乃さんがカードを見ながら駆に尋ねてくる。
「そうなんです。お恥ずかしながら留年中なんですけど」
駆は少し自嘲気味に答えた。綾乃さんは笑顔で首を振った。
「ドンマイですって! 人生山あり谷ありですし! ちなみに有葉さんとはどんな風に知り合ったんですか?」
駆は微かに苦笑した。
「オンラインゲームです。いかにも今時ですよね?」
「確かに……でも趣味が同じって事ですし、出会いの場としてはいいかもしれませんね!」
そう言われてしまうと、私も苦笑するしかない。
 綾乃さんは駆を見定めるようにじっと見つめてから、笑顔で続けた。
「私、有葉さんがこんなに素敵なイケメン彼氏と同棲されているのを知って嬉しくなっちゃいました。有葉さん、しばらく一人暮らしされていたからずっと心配だったんですよ
「任せてください! 有葉さんはオレが守りますから!」
 駆が右手で力拳を作り胸をどんと叩いてそう答えたので、私は危うくコーヒーを吹き出すところだった。駆が柄にもなく少年漫画の主人公のようなことをいきなり言い出すとびっくりする。
 綾乃さんが以前から私の事を殊更に心配してくれている事は分かっていた。親族を立て続けに亡くして天涯孤独となってしまった私は、普通の人達に比べて色々な意味でリスクを抱えている訳だし。そんな私に見守ってくれる同居人が出来た事は喜ばしい事なのだろう。しかし、駆が私を守るとか安易に口にするのはもやもやしてしまう。
 「守るって……」
私は口の中でごにょごにょと呟いた。
「私ってそんなに頼りないかな?」
それを聞いた駆が慌ててあたふたと両手を振った。
「あー、そんなつもりじゃ全然なくて……ほら、とりあえず男がいるっていうだけで犯罪のリスク減るじゃないですか……一人暮らしの女性がカモフラージュで男ものの洗濯物干すとか、玄関に靴を置くとかって聞くし、オレが有葉さんにとってそういう抑止力になってたら嬉しいなって話」
「そっか……うん、そうだね……」
私はぎこちなく笑みを浮かべる。
 すると綾乃さんが駆の言葉を受けてこう続けた。
「山城さんは防犯意識高そうで安心しました。お兄さんから薫陶を受けているのかな? ただしこちらのお宅はマンションの最上階ですし、空き巣に狙われる可能性もありますのでこれからも施錠はしっかりお願いしますね!」
「了解です!」
駆が元気よく答えた。駆の防犯に関する知識は、きっと兄よりも父親から叩き込まれたのだろうと私は思ったけど。大学進学時、これから始まる新生活に向けて父親から延々と注意喚起を受けたそうだから。
 その後付け加えるように桜井さんがはきはきとこう言う。
「特殊詐欺も巧妙化していますので、怪しい電話があったら遠慮なく僕たちにご一報ください!」
「承知しました!」
私も同じように元気よく答えた。そもそも家電(いえでん)の非通知はすべてシャットアウトしているし、過去の経験から私は結構疑り深いのだ。そう言えば初めて電話を掛けてきた匠の事すら掛け子と疑ったくらいだったっけ。

 その後二人は「また来ますね!」とにこやかに去っていった。私達は玄関でその背中に手を振り見送った後、リビングに戻りながら駆が質問してきた。
「綾乃さん、時々こうやって訪ねてきてくれるんですか?」
「うん、前に来たときは丁度両親の三回忌の頃だったな。君がここに来るちょっと前だね。埼玉県警の交通部の人達も折を見て訪ねてきてくれるし、何だかんだ気にかけてくれるって嬉しいよね」
コーヒーカップとマグカップをキッチンカウンターに戻しながら私が答えた。
「本当ですね……」
流しの前に立った駆が頷きながら、カップを洗い始める。
 「アルファさんはこのマンションの方達にも大事にされているし……」
「このマンション世帯数少ないから、なんだか長屋みたいな雰囲気なんだよね……いい意味でおせっかいというか……会えばみんな挨拶してくれるでしょ?」
「そうだね……既に何度もお茶に誘われてるし、背が高いから電球交換してっていきなり頼まれたり……オレも作りすぎたおかずをおすそ分けしたりとか……」
私は笑った。
「そうだったんだ。でもほんと有り難いよね。両親の葬儀の時は大勢の方々が駆けつけてくれたし、それ以来管理人さんも含めて皆で私の事気にしてくれて……」
 そう口にした時、目頭が熱くなった。自分の事を決して忘れずに声を掛けてくれる存在が沢山いる事が本当に嬉しかった。
「でも君、そんな風に声かけられたらウザいとか思わないの?」
不思議に思って尋ねると、カップを洗い終えた駆は、蛇口を閉めながら首を横に振った。
「田舎なんてこんなものじゃないから。オレが何してたなんて全部筒抜けなんだよ。本屋でマンガ立ち読みしてたとか、肉屋でコロッケ買い食いしてたとか家に帰るころには全部母さんにバレてるの。小中の頃こっそりゲームさせてくれてた友達は田舎のネットワークから外れている他所から来た移住者だったから、親バレしなかったって訳」
へぇと私は感心するしかなかった。
「田舎も良し悪しか……」
「そう。だから横浜で一人暮らしをし始めた頃はびっくりした。人との距離感がそれまでと全然違ったから」
 「君はどっちの距離感が好き?」
私が質問すると駆は首を傾げた。
「分からない……濃厚な田舎の人間関係は息苦しいけど、希薄すぎる都会の人間関係は寂しくもある……。そういう意味でここでの暮らしはある意味理想かもしれないね……」
 なるほど、ね。ここを「マンション長屋」と呼んでいたのは私の母親だけど、その表現はいいところを突いていたと思っている。

 「もうちょっとしたら出かけるとしようか。墓前に供える仏花も近所の花屋で買いたいしね」
私がそう提案すると、駆は今まで着けっぱなしだったエプロンを外しながら頷いた。
「うん、おじいさんの家で掃除するってことは着替えも持って行った方が良さそうだね」
「着替えと言えば……ちょっと待ってて!」
私は急ぎ足で自室に行って、タンスから黒いTシャツを取り出して戻って来た。
「君の服、大掃除するには上等すぎるからこれあげるよ。自分用に買ってたんだけど、思いのほか大きくてね。君なら着丈が丁度いいと思う」
「ありがとう!」
駆はTシャツを受け取ってからそれを広げた。「蟹工船」「小林多喜二」と書いてある黒とオレンジのTシャツで小説の表紙をイメージしたものである。
「これ、どうしたんですか?」
困惑したように駆の眉が八の字を描く。
「小樽の文学館でお土産に買ってたの。文学好きの渚と一緒に行ったんだけどね。実はうちのお父さんの実家って小樽にあったんだよ。今は誰もいなくなってしまったけど……。小林多喜二って小樽の大学出身らしくてゆかりの文学者ってことで売ってたの。これ、なんかスタイリッシュじゃない?」
と延々Tシャツの由来を説明したのだが、駆の眉は八の字のままだ。
「そうですね……」
 なんだか無理やり同意させたみたいになってしまったけど、着なければ永遠に私のタンスに眠ったままなのだ。そう自分に言い聞かせると、私も出かける準備を始める事にした。今日は基本肉体労働だから、汚れの目立たない黒っぽいTシャツに着古したジーンズを選んだのである。



 両親の墓のある寺は元々母方の実家、五十嵐家の菩提寺だった。両親が突然亡くなりパニックに陥っていた私に代わって祖父はその寺で葬儀の手配をてきぱきと行ってくれた。祖父や、両親の職場の方々のお力添えもあり葬儀はなんとか無事済ませる事が出来たのだが、次に考えなければいけないのは墓をどうするかだった。そういった知識を全く持ち合わせていなかった私がうんうんと悩んでいる時に祖父がその菩提寺と交渉してくれて、両親のための墓の場所を何とか確保してくれたのだ。
 「なんだかんだでお墓は家から近い方がいいと思うよ」
祖父はそう言ってくれた。「その方が僕も足を運びやすいから有り難いんだ」

 駆に線香一式と花屋で買った仏花を持ってもらい寺に向かった。さすがお彼岸だけあって、普段はひっそりしているさほど大きくない墓地にはお墓参りの人々が複数見受けられたし、あちこちの墓前には仏花が添えられている。幼い頃墓場は怖いものだと思っていたが、今は違う。墓に眠っている人々の数だけ人生があって、生前どんな人物であっても今は皆そこで静かに眠っているだけなのだと悟ったら全く怖くなくなったのだ。
 私は最初に住職さんに挨拶してから、墓地の片隅に置いてある手桶に水を汲むと、まずは氷室家の墓に向かった。
 駆に手伝ってもらいながら墓とその周囲を掃除していく。前回来たのはお盆だったのでさほど汚れてはいなかったものの、しばらく二人で黙々と掃除をすることでよりきれいになっていった。
 「君、こういうの慣れてるんだね」
嫌な顔一つせずしゃがみ込んでせっせと墓石掃除している駆に対して声を掛けると、駆は笑顔を見せた。
「うん、オレおばあさんっ子だったから、おばあさんに連れられておじいさんのお墓参りしょっちゅうしてたからね」
「ランちゃんのおじいさんって若くして亡くなったんだよね?」
「そう。四十代になったばかりで母さんがまだ高校生の頃だって。進行の早い胃ガンで発覚した時はもう手遅れだったらしい。今なら死ななくて済んだのかもしれないけど。オレはそのおじいさんによく似てるんだって。だからおばあさんがオレの事孫の中で一番かわいがってくれたんだ。兄さんやいとこ達にはなんだか申し訳なかったけど……」
 そう話しながらも駆の手は一切止まらない。九月下旬とはいえ、まだまだ暑かった。日差しが容赦なく照りつけてくる。私達は最終的には汗だくになっていた。
 黒御影石の墓石がぴかぴかになったので、きれいな水と仏花を供え、線香に火を灯した。二人でそっと合掌し両親の冥福を祈る。それから少し離れたところにある、かなりの年季が入った五十嵐家代々の墓を同じように掃除をしてから合掌した。

 「アルファさんのおじいさんってどんな方だったの?」
手桶を元あった場所に戻した時駆が尋ねてきた。私は少し考えてから答えた。
「……地元の市役所に勤めていたんだけど、定年退職してからは郷土史研究を趣味にしてた。私が歴史好きなのは完璧におじいさんの影響だね。それと……私の目はおじいさんそっくりって言われてたよ」
私の三白眼は間違いなく母方の祖父、五十嵐 雄一からの遺伝である。
「おじいさんちに行けば写真があるから見て。絶対に笑えるって」
「オレ、アルファさんの目好きだから。目力があって凛々しくて。おじいさんの遺伝だったんだね」
いきなりドキッとする事を言ってくる。私は動揺を誤魔化すように軽く答えた。
「そりゃどうも」
「アルファさんが歴史好きなのもおじいさんの影響だったんだ。確か大学も史学科卒だったよね?」
「そう、文学部史学科。卒論のテーマが卓上ゲームの歴史っていう……」
 ええ!?と駆は目をまん丸にして驚いてから、尋ねてくる。
「卓上ゲームというと具体的には?」
「将棋とかチェスとか……双六もそうだよね……まあ、定義としては卓上ゲームからは外れるけど麻雀のこともかなり調べたよ」
「文系って自由でいいですねー」
心底羨ましそうにそう言われたので私はてへへと笑う。本当は駆が何を卒論のテーマにしたいのか聞いてみたいとは思ったものの、まだ進級できていないから敢えてその話題は触れないでおこうとこの時思ったのだった。

 その後寺を退出し、ファミレス目指して肩を並べて歩き始める。駆は先ほどの卒論の話題で思い出したんだけどと前置きしてから話し始めた。
「先週、久しぶりに内海君と大学の食堂でランチしたんだ。内海君は無事就職の内定もらって、後は卒論を書き上げるだけなんだけど、彼けっこう憔悴していて……」
 内海君とは駆の友達の苦学生、内海 陽大君のことである。以前我が家のすき焼きパーティに来てもらった事もあり私とも面識がある青年だ。その彼は電子機器の部品メーカーに内定をもらったらしい。地味で知名度はあまりないものの、その分野でのシェアは世界一らしく隠れた優良企業だそうだ。
 「いつも元気一杯って雰囲気だったのに、そんな彼でも憔悴するんだね……」
私は驚いた。
「うん、卒論のテーマ選定で煮詰まっているみたいで……おまけに卒論落としたら卒業できないから当然就職もできないし、お金もないから留年もできないって物凄く焦ってて……」
駆はそう言ってから目を伏せる。
「内海君の焦りは全く他人事じゃないよ……。オレだって無事進級できたって今度は院試や卒論が待ってる……。金銭的に余裕がないと、常に追い立てられているようなそんな気持ちなんだ……」
それからはぁと深いため息をついた。
「内海君、言ってた。たとえ卒業出来て就職しても今度は奨学金の返済が待ち受けているって……社会人生活の最初から何百万って借金背負う事になるのが不安で不安でたまらないって。さっきの国民年金の話だって、彼は学生免除を選択したそうだけど、いくら後から追納ができると言っても奨学金とのダブル返済は絶対にきついってさ……だけどこれで追納しなければ将来の年金額が減額されるんだって……どんな罰ゲームだよって泣きそうだった……」
「そっか……」
 私はなんと言ってよいか分からなかった。苦学生達に金くらいいくらでも貸してやるから安心して勉強に励め!と声を掛けてあげたかったが、少なくとも駆が望んでいるのはそんな言葉ではない事くらい承知している。結局祖父の家の掃除をしてもらって、アルバイト料を渡すことくらいしか私にはできないのだ。
「内海君、今でも煮詰まっているようならいつでも気分転換にうちに来てもらっていいからね。次はしゃぶしゃぶでも焼肉でも君たちが食べたいものを選んで!」
「ありがとう、そう伝えておくよ。内海君、きっと喜ぶと思う」
 深刻な話題にずっと硬い表情だった駆の表情がようやく和らいだのである。


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 今日は9月23日木曜日、秋分の日である。駆と同居を始めてから早半年が経過していた。
 遅めの朝食時、お彼岸だし両親や母方の祖父の墓参りをするつもりだと、駆にその旨伝えたところ、自分も行きたいと言い出した。
 「えー、ただのお墓参りだよ」
コーンポタージュスープを飲んでから怪訝そうに言うと、ダイニングテーブルの反対側に座っていた駆はまっすぐな目をして私を見つめてきた。
「だってオレ、今アルファさんに大層お世話になってるし。今日はたまたまバイト入ってないから是非行きたいんだ。ダメ?」
 今時積極的に墓参りをしたがる若者がいるなんて思わなかった。
「まあ、君がそう言ってくれるなら私はいつだって大歓迎だよ。一人で墓参りなんて寂しいしね。せっかくだからランチを兼ねて出かけない? ついでにおじいさんの家も覗いてこようかな。あ、私の母方のおじいさんち、空き家になっているんだけど、ずっと放置状態だからさすがにまずいんだよね」
 墓のある寺は我が家から徒歩十分ほどのところにあり、寺と祖父の家の途中には和食系のファミレスがあった。そこでランチを食べれば丁度良いだろうと私は思案する。
「亡くなったおじいさんの家が、こことは別にあったんだ?」
駆は初耳というように目を見開いた。私はゆっくり頷く。
「うん、ここから徒歩十五分くらいの高台に古い一軒家があるんだけど、遺品整理がおっくうでずっと放置してたんだ」
「そうだったんだ……遺品整理って本当に大変だって聞いてるから仕方ないよ……」
 駆は労わるような眼差しで私を見てくる。私が不動産を複数相続した人間と知っても全く驚く事もなくその事実を淡々と受け入れているあたり、さすが実家が|不動産業《ディベロッパー》のお坊ちゃまといったところか。通常だとかなり驚かれるのだ。
 正直に言うと、駆が信頼に値する人物か見極めるまで私が相続したもう一つの不動産の話は伏せておこうと思い、今まで黙っていたのだ。
 両親が交通事故で亡くなり、その約一年後祖父が病死した頃、私の財産を狙って接近してくる輩が大勢いた。連中は親切な顔を装い、精神的に弱っていた私に近づいてきたのである。大抵は投資目的のワンルームマンションのセールスや宗教勧誘、聞いたこともないような慈善団体からの寄付の依頼などだったのだが、とりわけたちが悪かったのは、かつての小学校の同級生の男だった。
 さりげなく私を労わるような電話をかけてきて食事に誘い、私に恋愛感情があるふりをして交際に持ち込もうとしたのだ。小学生の頃私に一切興味を示さなかったそいつが今更接近してくるなんておかしいと直感した、幼馴染で親友の柳田 渚が色々周囲を調べてくれた。「あいつは彼女いるし、実はギャンブル狂で相当借金抱えているらしい」と私に忠告してくれたため、食事を二回おごっただけで済んだのだが、その胸糞悪い経験に追い打ちをかけられ私は恋愛に対してさらに臆病になってしまったのだ。
 だが駆はこの半年間一度たりとも私に何かをねだったことはない。食事以外の必要なものは自分で購入していて、外食だけは「出世払いね」と冗談を言いながらいつも私がご馳走しているけど、本当にそれだけだ。その都度駆は何を食べたのか几帳面にスマホアプリに記録しているので、もしかしたら本当に将来出世できたら返すつもりなのかもしれない。そんな無欲で律儀な駆だからこそ、信頼できると確信できたのだ。
 当初駆がどんな人物か分からない状態で同居を申し出たし、日常生活を淡々と送るだけならそれで何の問題もないのだが、同居人に自分がそれなりに価値のある不動産を別途所有している事を明かす事には、実は勇気が必要だったのだ。
 「そうそう……君、アルバイトする気ない?」
私はかねてからの懸案事項を解決すべく駆に尋ねる。厚切りバタートーストを頬張っていた駆は不思議そうに首を傾げた。
「アルバイト?」
「ほら、この前国民年金の支払いがどーたらこーたらって言ってたじゃない」
「ああ……」
駆の表情がたちまち暗くなった。
「二ヶ月分はなんとか払ったんだけど、あれがこれから毎月続くと思うと憂鬱になるよね……。ってそのアルバイト話、是非教えてください!」
 つい先日の事だったが、駆が地元の区役所から送られてきた国民年金保険料の納付書を私に見せながらぼやいたばかりだった。話を聞くと、それまでは親が保険料を二年間前払いしてくれていたけど、7月に誕生日を迎えその前払期間がついに終了し、月々約一万七千円払う羽目に陥ったらしかった。大学の学費を稼ぐためにただでさえアルバイトに追われていた駆だったが、ここに来て二万円近い出費が追加されるという惨い仕打ちにさすがに青ざめていたため、私に出来る範囲で何とかしてあげたかったのだ。一生懸命考えた結果、ずっと放置していた祖父の家の掃除を思いついた次第である。
 「さっき話したおじいさんの家の事なんだけど、庭は以前から出入りしていた庭師さんに定期的にお願いしているからきれいなんだけど、家の中がほとんど手つかずなんだよ。掃除も必要だし、遺品の整理も徐々にやらなくちゃいけないんだけど、業者に委託すると大切なものまで処分されそうだから……」
「なるほど、その作業をオレにやってほしいと」
駆は考えるように顎に手を当てた。
「そうなの。まずは徹底的な掃除をして欲しいんだ。全然急いでいないから、君の空き時間にゆっくりやってくれればいい。もちろんバイト料は弾むから」
 私はテーブルの上にあったメモ用紙にその金額を走り書きし、駆に見せた。丁度国民年金保険料半年分相当額である。
「やります、いや、是非やらせてください!」
駆は素早く立ち上がるなり敬礼してきたのだった。
 朝食後駆がキッチンで後片付けをしている間、私はソファにもたれかかって渚からのLIMEに返信していた。どうしても会って話したいことがあるそうだ。私は少し考えてから、
『午後おじいさんの家に行くつもりなんだ。多少埃っぽいのを我慢できるならそっちに来てくれる?』
と返信した。渚の自宅は私の住むマンションと祖父の家のちょうど中間地点にあるから、来る手間は変わらないはずだ。
 しばらくたってから返事が来た。
『了解! 手土産持っていくから楽しみにしてて!』
『ランちゃんの分もよろしくね♪』
 今日駆には水回りの掃除を中心にお願いするつもりだった。その間渚とゆっくり話せるだろう。
 そんな時、キッチンの横に設置されているインターホンが鳴った。私が出ようと立ち上がったものの、その前にひっそりぐらしのデニムのエプロンを付けた駆が出てくれたのだが、困惑した表情で私の方に振り返った。
「駅前交番の小川さんだって……」
「小川さん……ああ、綾乃さんね。お通ししてもらえるかな」
私はそう言いながらインターホンのディスプレイをひょいと横から覗き込む。顔馴染みの制服姿の警察官、小川 綾乃巡査部長とその背後に見覚えのないうら若い男性警察官が映っていた。
 綾乃さんは駅前交番に勤務しており、二年以上前から私の事をやたら気にかけてくれている人だった。確か私よりも三つ年上で、去年結婚したばかりと聞いている。今までは橋本さんという後輩女性巡査とペアを組んでいたのだが、ペアが交代したのだろうか。
 私は駆に四人分のコーヒーを淹れるようお願いしてから、二人を玄関で迎えるとリビングまで来てもらった。綾乃さんは早速見知らぬ若い警察官を紹介してくれる。
「有葉さん、こちらが私のペアの桜井巡査。前に異動があって橋本さんと交代したって訳」
 綾乃さんがタメ口なのは私がそうして欲しいとお願いしたからだ。綾乃さんには私のお姉さんみたいに接してほしかった。
「桜井 悠太です、今後よろしくお願いします!」
まだはたちそこそこに見える桜井巡査が、元気よく大きな声で自己紹介しながら私に名刺を渡してくれた。
 私は二人に客用ソファに腰かけてもらいながら、今日の訪問の目的を尋ねた。
「いつもの巡回連絡だよ」
綾乃さんはにこにこしながら答える。
「有葉さんが元気にしているのか、たまには確認しないとね」
「御覧の通り元気です」
私も笑顔で返した。
 その時駆が大きめのお盆にコーヒーの入った客用カップとマグカップをそれぞれ二つずつ載せてやって来た。どうぞ、と言いながらローテーブルにカップと砂糖とポーションの入った陶器の器をそっと置く。私は早速二人にコーヒーを勧めたのだが、カップを手にした綾乃さんが好奇心を隠しきれない様子で駆を見ている。
「有葉さん、ついに同棲始めたんだね! 表札見た時から、ははーん、これはって思ってたけど!」
 同棲ではないと本当は否定したかったけど、話がややこしくなるのでいつもそういう設定で通してしまう。駆も了承済みだ。
「三月から一緒に住んでます」
とだけ説明したのだが、綾乃さんは満面の笑みを浮かべたまま桜井君に巡回カードを出すように伝えた。
「じゃあ、彼の分もこのカード書いてもらえると助かるなあ。記入した個人情報はあくまでも非常時にしか使わないからご安心下さい」
 そう言いながら巡回連絡カードをつと差し出してくる。私はお盆を抱えたまま立っている駆の方を見上げた。
「ランちゃん、別に書いても書かなくてもいいんだからね」
 すると駆はお盆をカウンターに戻すと、ローテーブルに置かれたカードを取り上げ、ダイニングテーブルの上で全く迷うことなくさらさらとカードの記入を始めた。
「全然抵抗ないなんて珍しい」
驚いたように綾乃さんが呟いたので、駆が綾乃さんと桜井君の方を見ながらにっこりと微笑んだ。
「カードの記入を求められたら絶対に書いてさしあげろと、兄から厳命されているんで。なかなか書いてもらえなくて苦労してるからって」
 桜井君が「ご協力ありがとうございます!」と書き終わったカードを受け取りながら
「あれ、もしかしてこの連絡先に書いてある山城さんのお兄さん、僕達と同業者なんですか?」
とこの話題に食いついてきた。
「そうなんですよ。巡回連絡でカードを書いてもらうのが本当に大変だって兄が言ってましたから」
駆はさらりと流した。駆の兄、匠はキャリア警察官だが、交番勤務経験もあるって言ってたし苦労したのは間違いないだろう。
「本当に助かります!!!」
桜井君は本当に嬉しそうだった。
 その後私の傍に駆が腰かけ、四人で少し世間話をする。
「山城さん、岩手県出身のK大生なんですね」
綾乃さんがカードを見ながら駆に尋ねてくる。
「そうなんです。お恥ずかしながら留年中なんですけど」
駆は少し自嘲気味に答えた。綾乃さんは笑顔で首を振った。
「ドンマイですって! 人生山あり谷ありですし! ちなみに有葉さんとはどんな風に知り合ったんですか?」
駆は微かに苦笑した。
「オンラインゲームです。いかにも今時ですよね?」
「確かに……でも趣味が同じって事ですし、出会いの場としてはいいかもしれませんね!」
そう言われてしまうと、私も苦笑するしかない。
 綾乃さんは駆を見定めるようにじっと見つめてから、笑顔で続けた。
「私、有葉さんがこんなに素敵なイケメン彼氏と同棲されているのを知って嬉しくなっちゃいました。有葉さん、しばらく一人暮らしされていたからずっと心配だったんですよ
「任せてください! 有葉さんはオレが守りますから!」
 駆が右手で力拳を作り胸をどんと叩いてそう答えたので、私は危うくコーヒーを吹き出すところだった。駆が柄にもなく少年漫画の主人公のようなことをいきなり言い出すとびっくりする。
 綾乃さんが以前から私の事を殊更に心配してくれている事は分かっていた。親族を立て続けに亡くして天涯孤独となってしまった私は、普通の人達に比べて色々な意味でリスクを抱えている訳だし。そんな私に見守ってくれる同居人が出来た事は喜ばしい事なのだろう。しかし、駆が私を守るとか安易に口にするのはもやもやしてしまう。
 「守るって……」
私は口の中でごにょごにょと呟いた。
「私ってそんなに頼りないかな?」
それを聞いた駆が慌ててあたふたと両手を振った。
「あー、そんなつもりじゃ全然なくて……ほら、とりあえず男がいるっていうだけで犯罪のリスク減るじゃないですか……一人暮らしの女性がカモフラージュで男ものの洗濯物干すとか、玄関に靴を置くとかって聞くし、オレが有葉さんにとってそういう抑止力になってたら嬉しいなって話」
「そっか……うん、そうだね……」
私はぎこちなく笑みを浮かべる。
 すると綾乃さんが駆の言葉を受けてこう続けた。
「山城さんは防犯意識高そうで安心しました。お兄さんから薫陶を受けているのかな? ただしこちらのお宅はマンションの最上階ですし、空き巣に狙われる可能性もありますのでこれからも施錠はしっかりお願いしますね!」
「了解です!」
駆が元気よく答えた。駆の防犯に関する知識は、きっと兄よりも父親から叩き込まれたのだろうと私は思ったけど。大学進学時、これから始まる新生活に向けて父親から延々と注意喚起を受けたそうだから。
 その後付け加えるように桜井さんがはきはきとこう言う。
「特殊詐欺も巧妙化していますので、怪しい電話があったら遠慮なく僕たちにご一報ください!」
「承知しました!」
私も同じように元気よく答えた。そもそも|家電《いえでん》の非通知はすべてシャットアウトしているし、過去の経験から私は結構疑り深いのだ。そう言えば初めて電話を掛けてきた匠の事すら掛け子と疑ったくらいだったっけ。
 その後二人は「また来ますね!」とにこやかに去っていった。私達は玄関でその背中に手を振り見送った後、リビングに戻りながら駆が質問してきた。
「綾乃さん、時々こうやって訪ねてきてくれるんですか?」
「うん、前に来たときは丁度両親の三回忌の頃だったな。君がここに来るちょっと前だね。埼玉県警の交通部の人達も折を見て訪ねてきてくれるし、何だかんだ気にかけてくれるって嬉しいよね」
コーヒーカップとマグカップをキッチンカウンターに戻しながら私が答えた。
「本当ですね……」
流しの前に立った駆が頷きながら、カップを洗い始める。
 「アルファさんはこのマンションの方達にも大事にされているし……」
「このマンション世帯数少ないから、なんだか長屋みたいな雰囲気なんだよね……いい意味でおせっかいというか……会えばみんな挨拶してくれるでしょ?」
「そうだね……既に何度もお茶に誘われてるし、背が高いから電球交換してっていきなり頼まれたり……オレも作りすぎたおかずをおすそ分けしたりとか……」
私は笑った。
「そうだったんだ。でもほんと有り難いよね。両親の葬儀の時は大勢の方々が駆けつけてくれたし、それ以来管理人さんも含めて皆で私の事気にしてくれて……」
 そう口にした時、目頭が熱くなった。自分の事を決して忘れずに声を掛けてくれる存在が沢山いる事が本当に嬉しかった。
「でも君、そんな風に声かけられたらウザいとか思わないの?」
不思議に思って尋ねると、カップを洗い終えた駆は、蛇口を閉めながら首を横に振った。
「田舎なんてこんなものじゃないから。オレが何してたなんて全部筒抜けなんだよ。本屋でマンガ立ち読みしてたとか、肉屋でコロッケ買い食いしてたとか家に帰るころには全部母さんにバレてるの。小中の頃こっそりゲームさせてくれてた友達は田舎のネットワークから外れている他所から来た移住者だったから、親バレしなかったって訳」
へぇと私は感心するしかなかった。
「田舎も良し悪しか……」
「そう。だから横浜で一人暮らしをし始めた頃はびっくりした。人との距離感がそれまでと全然違ったから」
 「君はどっちの距離感が好き?」
私が質問すると駆は首を傾げた。
「分からない……濃厚な田舎の人間関係は息苦しいけど、希薄すぎる都会の人間関係は寂しくもある……。そういう意味でここでの暮らしはある意味理想かもしれないね……」
 なるほど、ね。ここを「マンション長屋」と呼んでいたのは私の母親だけど、その表現はいいところを突いていたと思っている。
 「もうちょっとしたら出かけるとしようか。墓前に供える仏花も近所の花屋で買いたいしね」
私がそう提案すると、駆は今まで着けっぱなしだったエプロンを外しながら頷いた。
「うん、おじいさんの家で掃除するってことは着替えも持って行った方が良さそうだね」
「着替えと言えば……ちょっと待ってて!」
私は急ぎ足で自室に行って、タンスから黒いTシャツを取り出して戻って来た。
「君の服、大掃除するには上等すぎるからこれあげるよ。自分用に買ってたんだけど、思いのほか大きくてね。君なら着丈が丁度いいと思う」
「ありがとう!」
駆はTシャツを受け取ってからそれを広げた。「蟹工船」「小林多喜二」と書いてある黒とオレンジのTシャツで小説の表紙をイメージしたものである。
「これ、どうしたんですか?」
困惑したように駆の眉が八の字を描く。
「小樽の文学館でお土産に買ってたの。文学好きの渚と一緒に行ったんだけどね。実はうちのお父さんの実家って小樽にあったんだよ。今は誰もいなくなってしまったけど……。小林多喜二って小樽の大学出身らしくてゆかりの文学者ってことで売ってたの。これ、なんかスタイリッシュじゃない?」
と延々Tシャツの由来を説明したのだが、駆の眉は八の字のままだ。
「そうですね……」
 なんだか無理やり同意させたみたいになってしまったけど、着なければ永遠に私のタンスに眠ったままなのだ。そう自分に言い聞かせると、私も出かける準備を始める事にした。今日は基本肉体労働だから、汚れの目立たない黒っぽいTシャツに着古したジーンズを選んだのである。
 両親の墓のある寺は元々母方の実家、五十嵐家の菩提寺だった。両親が突然亡くなりパニックに陥っていた私に代わって祖父はその寺で葬儀の手配をてきぱきと行ってくれた。祖父や、両親の職場の方々のお力添えもあり葬儀はなんとか無事済ませる事が出来たのだが、次に考えなければいけないのは墓をどうするかだった。そういった知識を全く持ち合わせていなかった私がうんうんと悩んでいる時に祖父がその菩提寺と交渉してくれて、両親のための墓の場所を何とか確保してくれたのだ。
 「なんだかんだでお墓は家から近い方がいいと思うよ」
祖父はそう言ってくれた。「その方が僕も足を運びやすいから有り難いんだ」
 駆に線香一式と花屋で買った仏花を持ってもらい寺に向かった。さすがお彼岸だけあって、普段はひっそりしているさほど大きくない墓地にはお墓参りの人々が複数見受けられたし、あちこちの墓前には仏花が添えられている。幼い頃墓場は怖いものだと思っていたが、今は違う。墓に眠っている人々の数だけ人生があって、生前どんな人物であっても今は皆そこで静かに眠っているだけなのだと悟ったら全く怖くなくなったのだ。
 私は最初に住職さんに挨拶してから、墓地の片隅に置いてある手桶に水を汲むと、まずは氷室家の墓に向かった。
 駆に手伝ってもらいながら墓とその周囲を掃除していく。前回来たのはお盆だったのでさほど汚れてはいなかったものの、しばらく二人で黙々と掃除をすることでよりきれいになっていった。
 「君、こういうの慣れてるんだね」
嫌な顔一つせずしゃがみ込んでせっせと墓石掃除している駆に対して声を掛けると、駆は笑顔を見せた。
「うん、オレおばあさんっ子だったから、おばあさんに連れられておじいさんのお墓参りしょっちゅうしてたからね」
「ランちゃんのおじいさんって若くして亡くなったんだよね?」
「そう。四十代になったばかりで母さんがまだ高校生の頃だって。進行の早い胃ガンで発覚した時はもう手遅れだったらしい。今なら死ななくて済んだのかもしれないけど。オレはそのおじいさんによく似てるんだって。だからおばあさんがオレの事孫の中で一番かわいがってくれたんだ。兄さんやいとこ達にはなんだか申し訳なかったけど……」
 そう話しながらも駆の手は一切止まらない。九月下旬とはいえ、まだまだ暑かった。日差しが容赦なく照りつけてくる。私達は最終的には汗だくになっていた。
 黒御影石の墓石がぴかぴかになったので、きれいな水と仏花を供え、線香に火を灯した。二人でそっと合掌し両親の冥福を祈る。それから少し離れたところにある、かなりの年季が入った五十嵐家代々の墓を同じように掃除をしてから合掌した。
 「アルファさんのおじいさんってどんな方だったの?」
手桶を元あった場所に戻した時駆が尋ねてきた。私は少し考えてから答えた。
「……地元の市役所に勤めていたんだけど、定年退職してからは郷土史研究を趣味にしてた。私が歴史好きなのは完璧におじいさんの影響だね。それと……私の目はおじいさんそっくりって言われてたよ」
私の三白眼は間違いなく母方の祖父、五十嵐 雄一からの遺伝である。
「おじいさんちに行けば写真があるから見て。絶対に笑えるって」
「オレ、アルファさんの目好きだから。目力があって凛々しくて。おじいさんの遺伝だったんだね」
いきなりドキッとする事を言ってくる。私は動揺を誤魔化すように軽く答えた。
「そりゃどうも」
「アルファさんが歴史好きなのもおじいさんの影響だったんだ。確か大学も史学科卒だったよね?」
「そう、文学部史学科。卒論のテーマが卓上ゲームの歴史っていう……」
 ええ!?と駆は目をまん丸にして驚いてから、尋ねてくる。
「卓上ゲームというと具体的には?」
「将棋とかチェスとか……双六もそうだよね……まあ、定義としては卓上ゲームからは外れるけど麻雀のこともかなり調べたよ」
「文系って自由でいいですねー」
心底羨ましそうにそう言われたので私はてへへと笑う。本当は駆が何を卒論のテーマにしたいのか聞いてみたいとは思ったものの、まだ進級できていないから敢えてその話題は触れないでおこうとこの時思ったのだった。
 その後寺を退出し、ファミレス目指して肩を並べて歩き始める。駆は先ほどの卒論の話題で思い出したんだけどと前置きしてから話し始めた。
「先週、久しぶりに内海君と大学の食堂でランチしたんだ。内海君は無事就職の内定もらって、後は卒論を書き上げるだけなんだけど、彼けっこう憔悴していて……」
 内海君とは駆の友達の苦学生、内海 陽大君のことである。以前我が家のすき焼きパーティに来てもらった事もあり私とも面識がある青年だ。その彼は電子機器の部品メーカーに内定をもらったらしい。地味で知名度はあまりないものの、その分野でのシェアは世界一らしく隠れた優良企業だそうだ。
 「いつも元気一杯って雰囲気だったのに、そんな彼でも憔悴するんだね……」
私は驚いた。
「うん、卒論のテーマ選定で煮詰まっているみたいで……おまけに卒論落としたら卒業できないから当然就職もできないし、お金もないから留年もできないって物凄く焦ってて……」
駆はそう言ってから目を伏せる。
「内海君の焦りは全く他人事じゃないよ……。オレだって無事進級できたって今度は院試や卒論が待ってる……。金銭的に余裕がないと、常に追い立てられているようなそんな気持ちなんだ……」
それからはぁと深いため息をついた。
「内海君、言ってた。たとえ卒業出来て就職しても今度は奨学金の返済が待ち受けているって……社会人生活の最初から何百万って借金背負う事になるのが不安で不安でたまらないって。さっきの国民年金の話だって、彼は学生免除を選択したそうだけど、いくら後から追納ができると言っても奨学金とのダブル返済は絶対にきついってさ……だけどこれで追納しなければ将来の年金額が減額されるんだって……どんな罰ゲームだよって泣きそうだった……」
「そっか……」
 私はなんと言ってよいか分からなかった。苦学生達に金くらいいくらでも貸してやるから安心して勉強に励め!と声を掛けてあげたかったが、少なくとも駆が望んでいるのはそんな言葉ではない事くらい承知している。結局祖父の家の掃除をしてもらって、アルバイト料を渡すことくらいしか私にはできないのだ。
「内海君、今でも煮詰まっているようならいつでも気分転換にうちに来てもらっていいからね。次はしゃぶしゃぶでも焼肉でも君たちが食べたいものを選んで!」
「ありがとう、そう伝えておくよ。内海君、きっと喜ぶと思う」
 深刻な話題にずっと硬い表情だった駆の表情がようやく和らいだのである。