番外編2 蒔いた種は刈らねばならぬ-2
ー/ー 先ほどの両親の話で匠の心と頭の中は文字通りぐちゃぐちゃになっていた。早く落ち着くところへ移動してクールダウンしたい。そう思った匠は、営業所から徒歩十分ほど離れたところにある新宿中央公園へ向かう事にした。子どもの頃一度だけ遊びに行ったことがある場所なのだが、都庁よりもさらに先に位置している広めの公園だ。
十月半ばなのに日中はまだまだ暑い。スーツを脱いで肩にかけると、営業所近くのコンビニでペットボトルの水を購入し、早足で公園の外れまでたどり着いた。公園の地図を確認し『区民の森』と名づけられた一角へ向かう事を決める。
区民の森は、地方出身の匠からすればこれのどこが『森』なのだろうと思わずにはいられない程狭いエリアに、樹木が植えられていた。それでも緑は緑だ。なるべく人気(ひとけ)のない木陰を求めたところ、小さな空地の周囲を大きな半円を描くようにぐるりと配置された石のオブジェがベンチ替わりになりそうだったので、そこに腰かける。
まずはネクタイを緩めると、手にしていた冷えた水を一気に飲んでから、高い秋の空を見上げた。空の東側と南側は都庁や新宿パークタワーといったよく似た超高層ビルがそびえ、樹木の枝葉と共に視界を遮ってくる。
気持ちを落ち着けるように、ふーっと深呼吸をした。西新宿は首都高、甲州街道と青梅街道に挟まれ空気がうまいとは言い難いが、それでも幹線道路から離れた大きな公園の空気はまだましだった。
ビルの隙間から見える淡い青い空は、泣いたばかりの目には少し刺激が強かった。それでも匠は馴染みのない空を見上げ続けた。
パンドラの箱を開けた、か……。昨晩英里香に言われた言葉を思い出さずにはいられない。確かに災厄が飛び出してきた。両親や祖母がひた隠しにしてきた秘密だ。だが、パンドラの箱の底には希望(エルピス)が残っていた。その希望とは何かという事について様々な解釈があると何かで読んだ事があったものの、匠は素直な解釈を信じたかった。
言うまでもなくすべての元凶は伯父の誠だ。だが誠は、父の『二度と加奈子の前に姿を現すな』というプレッシャーに簡単に屈し、国外に行ってしまうほどの小物でもある。しかし誠のしでかした行いは母のみならず父の心にも巣食い、今でも山城家を呪い続けているかのようだった。その一番の犠牲者は、何の罪もない駆である。
匠は改めて父について考えてみる。匠は、父は情に流されることなく厳格で公正な判断をする人物だと思っていた。また同時に犯罪被害者や遺族に対しては今まで以上に公的サポートが必要であると主張し、実際そのために尽力している。また我が子達にはずっと、己に出来る範囲で弱者を守るように言い聞かせてきた。
そんな立派な人物が兄の誠が絡んだとたん冷静さを失ってしまうように、匠には思えてならなかった。恐らくではあるが、父は母の件が起こる前からずっと誠の事を嫌っていたに違いない。
記憶に残っている父の昔話によると、誠は両親を騙して東京の私大に進学するような狡猾な男だったが、翌年父が上京したらアパートで同居する約束だったのに、実際は女性をアパートに連れ込み同棲していたようだ。受験のため誠のアパートに一時的に泊まった父は、誠が隠しきれなかった女性の私物からその気配に気が付き、上京後駒場にある寮に住む事を決めた。
もちろん風谷の祖父母は父の決心に驚いたようだ。だが父は自分の親には未成年の兄の同棲の件を話せなかったらしい。まだろくに恋愛経験すらないような初心な十八歳だったのだ。誠が嫌い、だから一緒に住みたくないとだけ言ったため、父の我儘のように思われてしまったようだ。肝心なことが言い出せないそんな不器用なところは駆そっくりである。
そんな父は寮では意外にも麻雀にはまったようだ。また高い志を持つ友人達と出会った事によって、キャリア警察官を目指すようになったらしい。だから入寮時こそ渋々だったものの、そこでの出会いと二年間の経験は父にとって一生の宝物となったと聞いている。
塾にも通わずT大に現役合格していた父は、進学後もコツコツと勉学に励み国家公務員Ⅰ種試験にも相当の好成績で合格したようだ。警察官という仕事は生真面目で努力家の父の性格と非常にマッチしており、本人が天職だと匠に語っている。
父の人生が変化したのは、やはり母が誠との件を父に相談した事がきっかけなのだろう。それまでは激務だった事もあり色恋沙汰とは一切縁のない人生を送っていたようだ。もっとも同級会のエピソードからも想像できるように、父はきっと同級生だった母の事をずっと想っていたに違いない。母は高校時代、クラスの学級委員長をずっと務めるほど明るく人気者だったらしい。そんな母が自分の嫌っていた兄と交際した上に、脅迫されたなんて父にはとても許し難い事だったろう。
母に相談された時の父の心境を思うと、匠は気の毒でいたたまれない気分になった。証拠品の写真やネガを誠に提出させ、全てその手で焼却した時はどんな思いだったのだろう。
誠の犯罪自体が宙に浮いてしまったから罪に問われる事は絶対ないとはいえ、父のやった事自体は『証拠隠滅等罪』に相当する。匠はその事で父を咎める気持ちは起きなかったものの、それでも本当は父が母を説得し警察に被害届を提出し、誠にきちんと罪を償わせていればと思わずにはいられなかった。もっとも真面目な風谷の祖父母の事だから、示談金を何とか工面し弁護士を立ててでも山城家と示談し、不起訴に持ち込んだ可能性は高いだろうが。
だがもしそうなっていたら両親は絶対に結婚する事はなかっただろうから、匠や駆はこの世に誕生する事もなかった。そんな運命の悪戯に気付き、匠は思わず小さな声を上げて笑ってしまった。
今ここにいて、過去の事をあれこれ考えているこの自分は、善かれ悪しかれ両親の様々な選択の末に存在しているのだ。これが笑わずにはいられるだろうか。
匠は近くに人がいないことをこれ幸いにしばらく笑った後、ペットボトルの水を更に何口か飲んでから、今日何度吐いたか分からない吐息を吐き出した。遠くからは親子連れの楽し気な声が少しずつ近づいてくる。そんな中、匠の思考は再び迷宮をさ迷い始めた。
誠の犯罪は、この世の中で日々繰り返されている凶悪犯罪に比べたら非常にささやかなものだ。匠はそういった凶悪犯罪や悲惨な事故について毎日のように耳目に触れる立場にあるし、ましてや父は長年警察官として生きてきて、匠には想像もつかないくらい多くの事件事故を目にしてきているはずだ。だからこそ父は判断を誤ってしまったのかもしれない。母がトラウマ故に駆を拒絶する様子を、トラウマではなく母の繊細な気質に起因するものとして受け取ってしまった可能性はあると匠は感じていた。
実を言えば、匠はずっと母に対して嫌悪感を抱いていた。虐待とは非難できない程度に駆の相手をせず、一方で匠を父のミニチュアのように可愛がり、父にどっぷり依存し、単身赴任中で仕事の都合により気軽に帰省できない父の元へ、子ども達を祖母に任せて嬉々として通う母は、匠にとって全く理解できない異星人のような存在だった。
事情を知ってしまった事で今まで母に感じていた怒りや嫌悪は行き場を失い、匠は途方に暮れていた。長年心に積もり積もったどす黒い負の感情は、相手の事情が分かったからといって簡単に許し、昇華されるような容易い代物ではない事に匠は気が付いてしまった。
人の心とは元々そういうものなのだろう。理屈では全然説明できないのだ。だから理知的なはずの父が、誠の事になるととたんに感情に囚われ、理不尽な行動をとってしまう。
その時だった。
「パパ、ママ、お兄ちゃん、こっちこっち!」
幼い男の子の叫び声が聞こえてきた。五、六才くらいの可愛らしい顔立ちの男の子が勢いよく駆けてきて、後ろからゆっくり歩いてくる両親と小学校三年くらいの兄に手をぶるんぶるんと振っている。足元を全然見ず、後ろ向きにはしゃぎながら走っているので、いつか転ぶのではないかと匠の方がはらはらしてしまう。そんな無邪気な男の子と弟の駆が重なって見えた。
かつて兄弟が小学生だった頃、近所のショッピングモールに歩いて出かけフードコートで二人きりで、それぞれ選んだ色とりどりのダブルアイスクリームを食べている時、近くのテーブルで仲の良い親子連れが楽しそうに食事しているのを見る度に駆は羨ましがっていた。ある時など全く見知らぬ父子が携帯ゲームで楽しそうに対戦しているのを見かけ、駆が食い入るように見つめていた事をふと思い出す。
「いいな~」
小さな声で駆は羨ましがっていたのだが、あれは単にゲームが羨ましかっただけではない、父子で遊びたかったのだと匠は今更ながら気が付いた。匠は父とオセロなどで遊ぶ事があったが、駆は父を怖がってしまい、一緒に遊んでとねだる事すらできなかったのだ。
それから中学進学時に駆が剣道を止めた事が二人のわだかまりを生んでしまい、それ以降駆が父に認めてもらいたくてどんなにテニスで努力しても父には全く響かなかった。父が大人でましてや親なのだから、そこは父が駆に歩み寄ってほしかったと匠は思う。父と駆は、頑固で人間関係の立ち回りが不器用なところが実にそっくりなのだ。
下の子に遅れ歩いていた家族三人が、匠の前を幸せそうな笑顔で通り過ぎていく。匠はその様子をずっと目で追った。仲の良い家族を羨んだ事もあるが、今は自分の両親に期待する事はすっかり諦め自分自身で築くしかないのだと思っている。
その時匠の頭に浮かんだのは英里香の事だった。英里香とは結婚の話はすれ違ってばかりだが、それでも今すぐにでも会いたい、心の奥底からそう思った。
英里香は今頃浅草周辺で、訪日外国人観光客に着物を着てもらい茶道体験をするツアーのガイドをしているはずだ。司法修習が始まる前に色々なアルバイトを経験したいと言ってわざわざ探したものらしい。終わるのが午後一時頃と言っていたから、今から浅草に移動してカフェ辺りで待っていれば合流できるだろう。
早速スマホを取り出しルート検索をする。ここからなら都営大江戸線の都庁前駅で地下鉄に乗り、蔵前で都営浅草線に乗り換えるのが早そうだった。
思い立ってから一時間も経たずに匠は地下鉄浅草駅前までやって来た。久しぶりに来た浅草は外国人観光客でごった返しているため、敢えて駅近のカフェチェーンに入り、考えすぎて疲れた頭を癒すためにアイス黒糖ラテを頼んだ。店内はかなり混んでいたが、一人だけならカウンター席もかろうじて空いている。
テーブルにグラスの載ったトレイを置いてから少し狭い席に身体を押し込めながら座ると、まずはコクのある黒糖の甘さを味わいつつラテを一、二口飲んで一息つく。スーツの内ポケットからスマホを取り出すとLIMEのアプリを立ち上げ、英里香宛に『浅草駅近にいる。会いたい』とだけ入力した。匠は今までこんな衝動的な事などした事はなかった。朝別れたばかりなのにかっこ悪いとは思うが、なりふり構わないくらい英里香をこの手で抱きしめたかったのだ。
更にラテを飲んでから、今度は有葉とのトーク画面を開き分かった事を報告していく。と言っても、母が誠から脅迫された事と父が証拠品を焼却した件は自分だけの胸にしまう事に決めていたので、有葉には誠が何股もかけていて母が激怒し、別れる時にひどく拗れ父が仲裁に入ったものの母は誠に対してトラウマを覚えるようになったようだとだけ伝える事にする。それだけで十分だろう。有葉も誠のサイトやブログを見ていれば、誠が駆に似ている事くらい既に気が付いているはずだ。イヤな別れ方をした元カレと息子が似ているから愛せないという説明は、理由としては十分だろう。
普段ならLIMEに投稿すると早めに既読になる有葉だったが、この日は外出でもしているのか未読のままだった。自分自身LIMEをあまりチェックしない匠はその事をさほど気に留める事もなく、英里香からの返事が来るまでスマホでYourTubeで知人の剣道の動画を眺めながら暇つぶしをし始めたのだった。
英里香から返事が来たのは、カフェに来てから小一時間が経過した頃だった。
最初に
『Mission complete!』
それから続けて
『甘味をご馳走して! 腹ペコだよ』
と返ってきた。匠は
『Sure!』
と入力してから、
『今どこにいる? 迎えに行くから!』
と尋ねた。やがて位置情報が送られてきたので、匠はそそくさと立ち上がるとトレーを返却口に置いて、店をいそいそと出たのだった。
紺色のパンツスーツに白いシンプルなカットソー姿の英里香は、観光客で混雑している雷門の近くに立っていた。匠の姿を見つけた途端、大きく両手を振って来たので、匠は足早に近づくと人目もはばからずそんな英里香を抱きしめた。
「会いたかった!」
激しく抱きしめられた英里香は陽気な笑い声をあげた。
「ワタシ達これじゃ一年ぶりに会ったカップルみたいじゃない?」
そう言いながら匠の首に腕を回すと逞しい胸に顔を埋めそっと囁く。
「……でもワタシも会いたかったよ……」
周囲にいた外国人観光客達が皆、微笑ましげに二人を見守っている。匠は本来、手を繋ぐ以上の愛情表現を人前でする事はほとんどなかったし、英里香もそれを期待する事は一切ないクールなタイプだった。なのに事前に打合せしたかのように、匠に合わせてくれている。匠は英里香のそういう所が心から好きだった。
しばらく目を閉じて英里香の身体の温もりと存在を思い切り感じてから、腕を緩めて英里香にこう尋ねた。
「どこかお勧めの店ある? 自分も腹減ったし」
「あまり知られていない穴場の店があるってガイド仲間がさっき教えてくれたよ。少し離れてはいるみたいだけど」
「じゃ、そこに行こう!」
「もちろんキミのおごりだよね?」
英里香が悪戯っぽく見上げてくる。司法試験のためこれまでアルバイトしかしてこなかった英里香は、さほど金銭的に余裕があるわけではない。司法修習が始まれば修習給付金が支給されるが、それとて月額13万円強らしい。
「任せとけ! その代わり店まで案内してくれる?」
匠はそう言いながら英里香の手を取った。
「おっと合点承知の助!」
英里香は承諾した事を示すために、ツアーガイドを始めてから最近覚えたばかりの言い回しを使ってみせた。二人は顔を見合わせ笑い合うと、喧騒から離れるべく裏道に向かって歩き始めたのだった。
それから三週間ほどたった十一月のとある休日、ジムから帰って独身寮でくつろいでいる時に、匠のスマホに津紀子から電話が掛かってきた。匠が出るなり、津紀子は弾んだ声で挨拶もそこそこにいきなり報告を始めた。
「昨日ね、たまたま家にいる時あんたを名乗る男から電話が掛ってきたんだよ」
匠は思わず笑ってしまった。特殊詐欺でよりによって警察官の自分を騙ってくるとはリサーチ不足にもほどがあるが、恐らく掛け子は入手した名簿を元に手あたり次第電話を掛けさせられているのだろう。
「それでその自分は何て言ってきたんですか?」
と興味津々で尋ねると、津紀子は口真似を始めた。
「あ、おばあちゃん、俺だよ、匠だよ。株式投資に失敗しちゃったんだけど、つい会社の金に手を出しちゃってさ、早く穴埋めしないとやばいんだよ。お金準備できる?…………だーってさ」
そこまで言って大笑いする。
「話を聞きながら笑いをこらえるのに必死だったよ。『会社』の金を横領するような『孫』なんてさっさとその会社に捕まればいいと思ったけどさ。とりあえず引っかかったふりをしてね、そりゃ大変だ、お金をATMですぐ準備するからどうすればいい? って聞いたら、あんたの代わりに上司がATMのある近所のショッピングモールまでわざわざ来てくれるって言うのさ」
「そりゃ親切な上司ですね。横領した部下をフォローするためにわざわざ岩手まで取りに行ってくれるなんて」
匠はそう言いながら自分の直属の上司である遠藤課長補佐の顔を思い浮かべた。一見強面なのだが、情に厚くとても親切な人だ。胃が弱いらしく、何か面倒な事が起こる度腹部をさすっている。週明け早速この話を教えてあげなければ。大喜びしてくれるだろう。
「電話を切った後、即警察署に電話したのさ。そしたらあんたのお師匠の菊池さんが対応してくれたんだけど、騙されたふりをしてくれって頼まれてね」
菊池さんは、匠や駆が幼い頃剣道の道場で手取り足取り教えてくれた最初の師匠だ。普段は穏やかだが、怒ると怖い人である。
「あたしは普通のおばあさんみたいな格好をしてショッピングモールまで出かけて、お金が入っているように見せかけた紙袋を持って約束のATMの前に立って待ってたんだよ。そしたら、あんたの『上司』とやらがやってきたんだけど、全然スーツが似合っていない茶髪のあんちゃんで、実際あんたより若かったんじゃないかな」
特殊詐欺の受け子は若いケースが多い。そして服装もちぐはぐだ。設定が破綻していると思うのだが、被害者は焦っているせいなのか案外騙されてしまう。またその受け子自身、特殊詐欺グループからすれば使い捨ての存在でしかない。
「匠君の上司ですなんて名乗って早速紙袋を受け取ったら、陰に隠れていた菊池さん達が飛び出してきて確保してくれたよ。この辺であたしを知らないなんてモグリだよね」
そう言って津紀子は愉快そうに笑った。実際地元で山城津紀子を知らぬ者はいないだろう。そのくらい津紀子は顔と名がよく知られた地元の名士だった。恐らくその特殊詐欺グループは間抜けな事に、地元の事情を全く知らなかったのだろう。
「ご協力ありがとうございました!」
匠が津紀子をねぎらったが、津紀子はよほど嬉しかったらしくまだ笑っている。
「先日真由子から還付金詐欺被害を防いだって聞いてたから、あたしのところにも掛け子から電話が掛ってこないかなってわくわくしていたんだよ」
「おばあさん、詐欺は娯楽じゃないんですから。今は国際ロマンス詐欺なんてものすらあるんだから気を付けてくださいね!」
匠は立場上津紀子をたしなめる。非常に巧妙な詐欺もあるのだ。しっかりした津紀子でも絶対に騙されないという保証はない。
「まあ、今回警察にすぐ連絡してくれたのは正解でした。今後も怪しいと思ったら即地元の警察に相談して下さいね」
「分かってるって。あんたも剛君と同じ事言うんだね」
どうやら、匠に電話をする前に父に電話をしていたようだ。父にわざわざ電話をするとはよほど嬉しかったに違いない。匠はおかしくなったが、必死にあくまで真面目な口調で続けた。
「おばあさんは一人暮らしなんですから、本当に気を付けて下さいよ!」
はいはい、と津紀子は適当に返事をした後、少し間をおいてから声を改め続けた。
「そうそう、あんたがこの前紹介してくれたカウンセラーだけどね、ようやく来週予約が取れたのさ。まずはあたし一人で行ってくるよ」
「そうでしたか、ひとまずは良かったです……」
としか匠は言うことが出来なかった。
通話後、匠は深く息を吐き出した。まずは第一歩を踏み出す事ができたのだ。津紀子がカウンセリングを受け、感触が良ければ父に勧める事になっている。トラウマを負った母だけでなく、頑なな父にもきちんとカウンセリングを受けてもらいたいと匠は思っていた。駆は誠とは全く違う一個の人間なのだと、父に早く気が付いて欲しかったのだ。
今こうして匠が動いている事は、駆には一切話していなかった。話したところで、「今更どうでもいいよ」と言われるに決まっているからだ。確かに家を追い出された駆からすれば、もうどうだっていい話なのだ。だけど匠は『どうでもいい話』で終わらせる訳にはいかなかった。一家の縺れに縺れた糸を、時間をかけてでも丁寧にほどこうと決意したのだ。それが禁断の箱を開けてしまった者としての義務なのだと匠は考えていた。
「次のミッションは正月か……」
匠は独り言ちる。何事もなければ父と地元で会うのは年末年始だ。その時に駆を扶養してくれている有葉について、父にきちんと事情を伝えるつもりだった。父がそれを知った時どんな反応を示すのか匠には全く想像できなかったが、自分で言い出した以上やるしかないのだ。
「頑張れよ、自分」
言い聞かせるように呟くと、匠は気合を入れるように自分の頬を両手で思い切り叩いたのだった。
十月半ばなのに日中はまだまだ暑い。スーツを脱いで肩にかけると、営業所近くのコンビニでペットボトルの水を購入し、早足で公園の外れまでたどり着いた。公園の地図を確認し『区民の森』と名づけられた一角へ向かう事を決める。
区民の森は、地方出身の匠からすればこれのどこが『森』なのだろうと思わずにはいられない程狭いエリアに、樹木が植えられていた。それでも緑は緑だ。なるべく人気(ひとけ)のない木陰を求めたところ、小さな空地の周囲を大きな半円を描くようにぐるりと配置された石のオブジェがベンチ替わりになりそうだったので、そこに腰かける。
まずはネクタイを緩めると、手にしていた冷えた水を一気に飲んでから、高い秋の空を見上げた。空の東側と南側は都庁や新宿パークタワーといったよく似た超高層ビルがそびえ、樹木の枝葉と共に視界を遮ってくる。
気持ちを落ち着けるように、ふーっと深呼吸をした。西新宿は首都高、甲州街道と青梅街道に挟まれ空気がうまいとは言い難いが、それでも幹線道路から離れた大きな公園の空気はまだましだった。
ビルの隙間から見える淡い青い空は、泣いたばかりの目には少し刺激が強かった。それでも匠は馴染みのない空を見上げ続けた。
パンドラの箱を開けた、か……。昨晩英里香に言われた言葉を思い出さずにはいられない。確かに災厄が飛び出してきた。両親や祖母がひた隠しにしてきた秘密だ。だが、パンドラの箱の底には希望(エルピス)が残っていた。その希望とは何かという事について様々な解釈があると何かで読んだ事があったものの、匠は素直な解釈を信じたかった。
言うまでもなくすべての元凶は伯父の誠だ。だが誠は、父の『二度と加奈子の前に姿を現すな』というプレッシャーに簡単に屈し、国外に行ってしまうほどの小物でもある。しかし誠のしでかした行いは母のみならず父の心にも巣食い、今でも山城家を呪い続けているかのようだった。その一番の犠牲者は、何の罪もない駆である。
匠は改めて父について考えてみる。匠は、父は情に流されることなく厳格で公正な判断をする人物だと思っていた。また同時に犯罪被害者や遺族に対しては今まで以上に公的サポートが必要であると主張し、実際そのために尽力している。また我が子達にはずっと、己に出来る範囲で弱者を守るように言い聞かせてきた。
そんな立派な人物が兄の誠が絡んだとたん冷静さを失ってしまうように、匠には思えてならなかった。恐らくではあるが、父は母の件が起こる前からずっと誠の事を嫌っていたに違いない。
記憶に残っている父の昔話によると、誠は両親を騙して東京の私大に進学するような狡猾な男だったが、翌年父が上京したらアパートで同居する約束だったのに、実際は女性をアパートに連れ込み同棲していたようだ。受験のため誠のアパートに一時的に泊まった父は、誠が隠しきれなかった女性の私物からその気配に気が付き、上京後駒場にある寮に住む事を決めた。
もちろん風谷の祖父母は父の決心に驚いたようだ。だが父は自分の親には未成年の兄の同棲の件を話せなかったらしい。まだろくに恋愛経験すらないような初心な十八歳だったのだ。誠が嫌い、だから一緒に住みたくないとだけ言ったため、父の我儘のように思われてしまったようだ。肝心なことが言い出せないそんな不器用なところは駆そっくりである。
そんな父は寮では意外にも麻雀にはまったようだ。また高い志を持つ友人達と出会った事によって、キャリア警察官を目指すようになったらしい。だから入寮時こそ渋々だったものの、そこでの出会いと二年間の経験は父にとって一生の宝物となったと聞いている。
塾にも通わずT大に現役合格していた父は、進学後もコツコツと勉学に励み国家公務員Ⅰ種試験にも相当の好成績で合格したようだ。警察官という仕事は生真面目で努力家の父の性格と非常にマッチしており、本人が天職だと匠に語っている。
父の人生が変化したのは、やはり母が誠との件を父に相談した事がきっかけなのだろう。それまでは激務だった事もあり色恋沙汰とは一切縁のない人生を送っていたようだ。もっとも同級会のエピソードからも想像できるように、父はきっと同級生だった母の事をずっと想っていたに違いない。母は高校時代、クラスの学級委員長をずっと務めるほど明るく人気者だったらしい。そんな母が自分の嫌っていた兄と交際した上に、脅迫されたなんて父にはとても許し難い事だったろう。
母に相談された時の父の心境を思うと、匠は気の毒でいたたまれない気分になった。証拠品の写真やネガを誠に提出させ、全てその手で焼却した時はどんな思いだったのだろう。
誠の犯罪自体が宙に浮いてしまったから罪に問われる事は絶対ないとはいえ、父のやった事自体は『証拠隠滅等罪』に相当する。匠はその事で父を咎める気持ちは起きなかったものの、それでも本当は父が母を説得し警察に被害届を提出し、誠にきちんと罪を償わせていればと思わずにはいられなかった。もっとも真面目な風谷の祖父母の事だから、示談金を何とか工面し弁護士を立ててでも山城家と示談し、不起訴に持ち込んだ可能性は高いだろうが。
だがもしそうなっていたら両親は絶対に結婚する事はなかっただろうから、匠や駆はこの世に誕生する事もなかった。そんな運命の悪戯に気付き、匠は思わず小さな声を上げて笑ってしまった。
今ここにいて、過去の事をあれこれ考えているこの自分は、善かれ悪しかれ両親の様々な選択の末に存在しているのだ。これが笑わずにはいられるだろうか。
匠は近くに人がいないことをこれ幸いにしばらく笑った後、ペットボトルの水を更に何口か飲んでから、今日何度吐いたか分からない吐息を吐き出した。遠くからは親子連れの楽し気な声が少しずつ近づいてくる。そんな中、匠の思考は再び迷宮をさ迷い始めた。
誠の犯罪は、この世の中で日々繰り返されている凶悪犯罪に比べたら非常にささやかなものだ。匠はそういった凶悪犯罪や悲惨な事故について毎日のように耳目に触れる立場にあるし、ましてや父は長年警察官として生きてきて、匠には想像もつかないくらい多くの事件事故を目にしてきているはずだ。だからこそ父は判断を誤ってしまったのかもしれない。母がトラウマ故に駆を拒絶する様子を、トラウマではなく母の繊細な気質に起因するものとして受け取ってしまった可能性はあると匠は感じていた。
実を言えば、匠はずっと母に対して嫌悪感を抱いていた。虐待とは非難できない程度に駆の相手をせず、一方で匠を父のミニチュアのように可愛がり、父にどっぷり依存し、単身赴任中で仕事の都合により気軽に帰省できない父の元へ、子ども達を祖母に任せて嬉々として通う母は、匠にとって全く理解できない異星人のような存在だった。
事情を知ってしまった事で今まで母に感じていた怒りや嫌悪は行き場を失い、匠は途方に暮れていた。長年心に積もり積もったどす黒い負の感情は、相手の事情が分かったからといって簡単に許し、昇華されるような容易い代物ではない事に匠は気が付いてしまった。
人の心とは元々そういうものなのだろう。理屈では全然説明できないのだ。だから理知的なはずの父が、誠の事になるととたんに感情に囚われ、理不尽な行動をとってしまう。
その時だった。
「パパ、ママ、お兄ちゃん、こっちこっち!」
幼い男の子の叫び声が聞こえてきた。五、六才くらいの可愛らしい顔立ちの男の子が勢いよく駆けてきて、後ろからゆっくり歩いてくる両親と小学校三年くらいの兄に手をぶるんぶるんと振っている。足元を全然見ず、後ろ向きにはしゃぎながら走っているので、いつか転ぶのではないかと匠の方がはらはらしてしまう。そんな無邪気な男の子と弟の駆が重なって見えた。
かつて兄弟が小学生だった頃、近所のショッピングモールに歩いて出かけフードコートで二人きりで、それぞれ選んだ色とりどりのダブルアイスクリームを食べている時、近くのテーブルで仲の良い親子連れが楽しそうに食事しているのを見る度に駆は羨ましがっていた。ある時など全く見知らぬ父子が携帯ゲームで楽しそうに対戦しているのを見かけ、駆が食い入るように見つめていた事をふと思い出す。
「いいな~」
小さな声で駆は羨ましがっていたのだが、あれは単にゲームが羨ましかっただけではない、父子で遊びたかったのだと匠は今更ながら気が付いた。匠は父とオセロなどで遊ぶ事があったが、駆は父を怖がってしまい、一緒に遊んでとねだる事すらできなかったのだ。
それから中学進学時に駆が剣道を止めた事が二人のわだかまりを生んでしまい、それ以降駆が父に認めてもらいたくてどんなにテニスで努力しても父には全く響かなかった。父が大人でましてや親なのだから、そこは父が駆に歩み寄ってほしかったと匠は思う。父と駆は、頑固で人間関係の立ち回りが不器用なところが実にそっくりなのだ。
下の子に遅れ歩いていた家族三人が、匠の前を幸せそうな笑顔で通り過ぎていく。匠はその様子をずっと目で追った。仲の良い家族を羨んだ事もあるが、今は自分の両親に期待する事はすっかり諦め自分自身で築くしかないのだと思っている。
その時匠の頭に浮かんだのは英里香の事だった。英里香とは結婚の話はすれ違ってばかりだが、それでも今すぐにでも会いたい、心の奥底からそう思った。
英里香は今頃浅草周辺で、訪日外国人観光客に着物を着てもらい茶道体験をするツアーのガイドをしているはずだ。司法修習が始まる前に色々なアルバイトを経験したいと言ってわざわざ探したものらしい。終わるのが午後一時頃と言っていたから、今から浅草に移動してカフェ辺りで待っていれば合流できるだろう。
早速スマホを取り出しルート検索をする。ここからなら都営大江戸線の都庁前駅で地下鉄に乗り、蔵前で都営浅草線に乗り換えるのが早そうだった。
思い立ってから一時間も経たずに匠は地下鉄浅草駅前までやって来た。久しぶりに来た浅草は外国人観光客でごった返しているため、敢えて駅近のカフェチェーンに入り、考えすぎて疲れた頭を癒すためにアイス黒糖ラテを頼んだ。店内はかなり混んでいたが、一人だけならカウンター席もかろうじて空いている。
テーブルにグラスの載ったトレイを置いてから少し狭い席に身体を押し込めながら座ると、まずはコクのある黒糖の甘さを味わいつつラテを一、二口飲んで一息つく。スーツの内ポケットからスマホを取り出すとLIMEのアプリを立ち上げ、英里香宛に『浅草駅近にいる。会いたい』とだけ入力した。匠は今までこんな衝動的な事などした事はなかった。朝別れたばかりなのにかっこ悪いとは思うが、なりふり構わないくらい英里香をこの手で抱きしめたかったのだ。
更にラテを飲んでから、今度は有葉とのトーク画面を開き分かった事を報告していく。と言っても、母が誠から脅迫された事と父が証拠品を焼却した件は自分だけの胸にしまう事に決めていたので、有葉には誠が何股もかけていて母が激怒し、別れる時にひどく拗れ父が仲裁に入ったものの母は誠に対してトラウマを覚えるようになったようだとだけ伝える事にする。それだけで十分だろう。有葉も誠のサイトやブログを見ていれば、誠が駆に似ている事くらい既に気が付いているはずだ。イヤな別れ方をした元カレと息子が似ているから愛せないという説明は、理由としては十分だろう。
普段ならLIMEに投稿すると早めに既読になる有葉だったが、この日は外出でもしているのか未読のままだった。自分自身LIMEをあまりチェックしない匠はその事をさほど気に留める事もなく、英里香からの返事が来るまでスマホでYourTubeで知人の剣道の動画を眺めながら暇つぶしをし始めたのだった。
英里香から返事が来たのは、カフェに来てから小一時間が経過した頃だった。
最初に
『Mission complete!』
それから続けて
『甘味をご馳走して! 腹ペコだよ』
と返ってきた。匠は
『Sure!』
と入力してから、
『今どこにいる? 迎えに行くから!』
と尋ねた。やがて位置情報が送られてきたので、匠はそそくさと立ち上がるとトレーを返却口に置いて、店をいそいそと出たのだった。
紺色のパンツスーツに白いシンプルなカットソー姿の英里香は、観光客で混雑している雷門の近くに立っていた。匠の姿を見つけた途端、大きく両手を振って来たので、匠は足早に近づくと人目もはばからずそんな英里香を抱きしめた。
「会いたかった!」
激しく抱きしめられた英里香は陽気な笑い声をあげた。
「ワタシ達これじゃ一年ぶりに会ったカップルみたいじゃない?」
そう言いながら匠の首に腕を回すと逞しい胸に顔を埋めそっと囁く。
「……でもワタシも会いたかったよ……」
周囲にいた外国人観光客達が皆、微笑ましげに二人を見守っている。匠は本来、手を繋ぐ以上の愛情表現を人前でする事はほとんどなかったし、英里香もそれを期待する事は一切ないクールなタイプだった。なのに事前に打合せしたかのように、匠に合わせてくれている。匠は英里香のそういう所が心から好きだった。
しばらく目を閉じて英里香の身体の温もりと存在を思い切り感じてから、腕を緩めて英里香にこう尋ねた。
「どこかお勧めの店ある? 自分も腹減ったし」
「あまり知られていない穴場の店があるってガイド仲間がさっき教えてくれたよ。少し離れてはいるみたいだけど」
「じゃ、そこに行こう!」
「もちろんキミのおごりだよね?」
英里香が悪戯っぽく見上げてくる。司法試験のためこれまでアルバイトしかしてこなかった英里香は、さほど金銭的に余裕があるわけではない。司法修習が始まれば修習給付金が支給されるが、それとて月額13万円強らしい。
「任せとけ! その代わり店まで案内してくれる?」
匠はそう言いながら英里香の手を取った。
「おっと合点承知の助!」
英里香は承諾した事を示すために、ツアーガイドを始めてから最近覚えたばかりの言い回しを使ってみせた。二人は顔を見合わせ笑い合うと、喧騒から離れるべく裏道に向かって歩き始めたのだった。
それから三週間ほどたった十一月のとある休日、ジムから帰って独身寮でくつろいでいる時に、匠のスマホに津紀子から電話が掛かってきた。匠が出るなり、津紀子は弾んだ声で挨拶もそこそこにいきなり報告を始めた。
「昨日ね、たまたま家にいる時あんたを名乗る男から電話が掛ってきたんだよ」
匠は思わず笑ってしまった。特殊詐欺でよりによって警察官の自分を騙ってくるとはリサーチ不足にもほどがあるが、恐らく掛け子は入手した名簿を元に手あたり次第電話を掛けさせられているのだろう。
「それでその自分は何て言ってきたんですか?」
と興味津々で尋ねると、津紀子は口真似を始めた。
「あ、おばあちゃん、俺だよ、匠だよ。株式投資に失敗しちゃったんだけど、つい会社の金に手を出しちゃってさ、早く穴埋めしないとやばいんだよ。お金準備できる?…………だーってさ」
そこまで言って大笑いする。
「話を聞きながら笑いをこらえるのに必死だったよ。『会社』の金を横領するような『孫』なんてさっさとその会社に捕まればいいと思ったけどさ。とりあえず引っかかったふりをしてね、そりゃ大変だ、お金をATMですぐ準備するからどうすればいい? って聞いたら、あんたの代わりに上司がATMのある近所のショッピングモールまでわざわざ来てくれるって言うのさ」
「そりゃ親切な上司ですね。横領した部下をフォローするためにわざわざ岩手まで取りに行ってくれるなんて」
匠はそう言いながら自分の直属の上司である遠藤課長補佐の顔を思い浮かべた。一見強面なのだが、情に厚くとても親切な人だ。胃が弱いらしく、何か面倒な事が起こる度腹部をさすっている。週明け早速この話を教えてあげなければ。大喜びしてくれるだろう。
「電話を切った後、即警察署に電話したのさ。そしたらあんたのお師匠の菊池さんが対応してくれたんだけど、騙されたふりをしてくれって頼まれてね」
菊池さんは、匠や駆が幼い頃剣道の道場で手取り足取り教えてくれた最初の師匠だ。普段は穏やかだが、怒ると怖い人である。
「あたしは普通のおばあさんみたいな格好をしてショッピングモールまで出かけて、お金が入っているように見せかけた紙袋を持って約束のATMの前に立って待ってたんだよ。そしたら、あんたの『上司』とやらがやってきたんだけど、全然スーツが似合っていない茶髪のあんちゃんで、実際あんたより若かったんじゃないかな」
特殊詐欺の受け子は若いケースが多い。そして服装もちぐはぐだ。設定が破綻していると思うのだが、被害者は焦っているせいなのか案外騙されてしまう。またその受け子自身、特殊詐欺グループからすれば使い捨ての存在でしかない。
「匠君の上司ですなんて名乗って早速紙袋を受け取ったら、陰に隠れていた菊池さん達が飛び出してきて確保してくれたよ。この辺であたしを知らないなんてモグリだよね」
そう言って津紀子は愉快そうに笑った。実際地元で山城津紀子を知らぬ者はいないだろう。そのくらい津紀子は顔と名がよく知られた地元の名士だった。恐らくその特殊詐欺グループは間抜けな事に、地元の事情を全く知らなかったのだろう。
「ご協力ありがとうございました!」
匠が津紀子をねぎらったが、津紀子はよほど嬉しかったらしくまだ笑っている。
「先日真由子から還付金詐欺被害を防いだって聞いてたから、あたしのところにも掛け子から電話が掛ってこないかなってわくわくしていたんだよ」
「おばあさん、詐欺は娯楽じゃないんですから。今は国際ロマンス詐欺なんてものすらあるんだから気を付けてくださいね!」
匠は立場上津紀子をたしなめる。非常に巧妙な詐欺もあるのだ。しっかりした津紀子でも絶対に騙されないという保証はない。
「まあ、今回警察にすぐ連絡してくれたのは正解でした。今後も怪しいと思ったら即地元の警察に相談して下さいね」
「分かってるって。あんたも剛君と同じ事言うんだね」
どうやら、匠に電話をする前に父に電話をしていたようだ。父にわざわざ電話をするとはよほど嬉しかったに違いない。匠はおかしくなったが、必死にあくまで真面目な口調で続けた。
「おばあさんは一人暮らしなんですから、本当に気を付けて下さいよ!」
はいはい、と津紀子は適当に返事をした後、少し間をおいてから声を改め続けた。
「そうそう、あんたがこの前紹介してくれたカウンセラーだけどね、ようやく来週予約が取れたのさ。まずはあたし一人で行ってくるよ」
「そうでしたか、ひとまずは良かったです……」
としか匠は言うことが出来なかった。
通話後、匠は深く息を吐き出した。まずは第一歩を踏み出す事ができたのだ。津紀子がカウンセリングを受け、感触が良ければ父に勧める事になっている。トラウマを負った母だけでなく、頑なな父にもきちんとカウンセリングを受けてもらいたいと匠は思っていた。駆は誠とは全く違う一個の人間なのだと、父に早く気が付いて欲しかったのだ。
今こうして匠が動いている事は、駆には一切話していなかった。話したところで、「今更どうでもいいよ」と言われるに決まっているからだ。確かに家を追い出された駆からすれば、もうどうだっていい話なのだ。だけど匠は『どうでもいい話』で終わらせる訳にはいかなかった。一家の縺れに縺れた糸を、時間をかけてでも丁寧にほどこうと決意したのだ。それが禁断の箱を開けてしまった者としての義務なのだと匠は考えていた。
「次のミッションは正月か……」
匠は独り言ちる。何事もなければ父と地元で会うのは年末年始だ。その時に駆を扶養してくれている有葉について、父にきちんと事情を伝えるつもりだった。父がそれを知った時どんな反応を示すのか匠には全く想像できなかったが、自分で言い出した以上やるしかないのだ。
「頑張れよ、自分」
言い聞かせるように呟くと、匠は気合を入れるように自分の頬を両手で思い切り叩いたのだった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
先ほどの両親の話で匠の心と頭の中は文字通りぐちゃぐちゃになっていた。早く落ち着くところへ移動してクールダウンしたい。そう思った匠は、営業所から徒歩十分ほど離れたところにある新宿中央公園へ向かう事にした。子どもの頃一度だけ遊びに行ったことがある場所なのだが、都庁よりもさらに先に位置している広めの公園だ。
十月半ばなのに日中はまだまだ暑い。スーツを脱いで肩にかけると、営業所近くのコンビニでペットボトルの水を購入し、早足で公園の外れまでたどり着いた。公園の地図を確認し『区民の森』と名づけられた一角へ向かう事を決める。
区民の森は、地方出身の匠からすればこれのどこが『森』なのだろうと思わずにはいられない程狭いエリアに、樹木が植えられていた。それでも緑は緑だ。なるべく人気(ひとけ)のない木陰を求めたところ、小さな空地の周囲を大きな半円を描くようにぐるりと配置された石のオブジェがベンチ替わりになりそうだったので、そこに腰かける。
まずはネクタイを緩めると、手にしていた冷えた水を一気に飲んでから、高い秋の空を見上げた。空の東側と南側は都庁や新宿パークタワーといったよく似た超高層ビルがそびえ、樹木の枝葉と共に視界を遮ってくる。
気持ちを落ち着けるように、ふーっと深呼吸をした。西新宿は首都高、甲州街道と青梅街道に挟まれ空気がうまいとは言い難いが、それでも幹線道路から離れた大きな公園の空気はまだましだった。
十月半ばなのに日中はまだまだ暑い。スーツを脱いで肩にかけると、営業所近くのコンビニでペットボトルの水を購入し、早足で公園の外れまでたどり着いた。公園の地図を確認し『区民の森』と名づけられた一角へ向かう事を決める。
区民の森は、地方出身の匠からすればこれのどこが『森』なのだろうと思わずにはいられない程狭いエリアに、樹木が植えられていた。それでも緑は緑だ。なるべく人気(ひとけ)のない木陰を求めたところ、小さな空地の周囲を大きな半円を描くようにぐるりと配置された石のオブジェがベンチ替わりになりそうだったので、そこに腰かける。
まずはネクタイを緩めると、手にしていた冷えた水を一気に飲んでから、高い秋の空を見上げた。空の東側と南側は都庁や新宿パークタワーといったよく似た超高層ビルがそびえ、樹木の枝葉と共に視界を遮ってくる。
気持ちを落ち着けるように、ふーっと深呼吸をした。西新宿は首都高、甲州街道と青梅街道に挟まれ空気がうまいとは言い難いが、それでも幹線道路から離れた大きな公園の空気はまだましだった。
ビルの隙間から見える淡い青い空は、泣いたばかりの目には少し刺激が強かった。それでも匠は馴染みのない空を見上げ続けた。
パンドラの箱を開けた、か……。昨晩英里香に言われた言葉を思い出さずにはいられない。確かに災厄が飛び出してきた。両親や祖母がひた隠しにしてきた秘密だ。だが、パンドラの箱の底には希望(エルピス)が残っていた。その希望とは何かという事について様々な解釈があると何かで読んだ事があったものの、匠は素直な解釈を信じたかった。
パンドラの箱を開けた、か……。昨晩英里香に言われた言葉を思い出さずにはいられない。確かに災厄が飛び出してきた。両親や祖母がひた隠しにしてきた秘密だ。だが、パンドラの箱の底には希望(エルピス)が残っていた。その希望とは何かという事について様々な解釈があると何かで読んだ事があったものの、匠は素直な解釈を信じたかった。
言うまでもなくすべての元凶は伯父の誠だ。だが誠は、父の『二度と加奈子の前に姿を現すな』というプレッシャーに簡単に屈し、国外に行ってしまうほどの小物でもある。しかし誠のしでかした行いは母のみならず父の心にも巣食い、今でも山城家を呪い続けているかのようだった。その一番の犠牲者は、何の罪もない駆である。
匠は改めて父について考えてみる。匠は、父は情に流されることなく厳格で公正な判断をする人物だと思っていた。また同時に犯罪被害者や遺族に対しては今まで以上に公的サポートが必要であると主張し、実際そのために尽力している。また我が子達にはずっと、己に出来る範囲で弱者を守るように言い聞かせてきた。
そんな立派な人物が兄の誠が絡んだとたん冷静さを失ってしまうように、匠には思えてならなかった。恐らくではあるが、父は母の件が起こる前からずっと誠の事を嫌っていたに違いない。
記憶に残っている父の昔話によると、誠は両親を騙して東京の私大に進学するような狡猾な男だったが、翌年父が上京したらアパートで同居する約束だったのに、実際は女性をアパートに連れ込み同棲していたようだ。受験のため誠のアパートに一時的に泊まった父は、誠が隠しきれなかった女性の私物からその気配に気が付き、上京後駒場にある寮に住む事を決めた。
もちろん風谷の祖父母は父の決心に驚いたようだ。だが父は自分の親には未成年の兄の同棲の件を話せなかったらしい。まだろくに恋愛経験すらないような初心な十八歳だったのだ。誠が嫌い、だから一緒に住みたくないとだけ言ったため、父の我儘のように思われてしまったようだ。肝心なことが言い出せないそんな不器用なところは駆そっくりである。
そんな父は寮では意外にも麻雀にはまったようだ。また高い志を持つ友人達と出会った事によって、キャリア警察官を目指すようになったらしい。だから入寮時こそ渋々だったものの、そこでの出会いと二年間の経験は父にとって一生の宝物となったと聞いている。
塾にも通わずT大に現役合格していた父は、進学後もコツコツと勉学に励み国家公務員Ⅰ種試験にも相当の好成績で合格したようだ。警察官という仕事は生真面目で努力家の父の性格と非常にマッチしており、本人が天職だと匠に語っている。
父の人生が変化したのは、やはり母が誠との件を父に相談した事がきっかけなのだろう。それまでは激務だった事もあり色恋沙汰とは一切縁のない人生を送っていたようだ。もっとも同級会のエピソードからも想像できるように、父はきっと同級生だった母の事をずっと想っていたに違いない。母は高校時代、クラスの学級委員長をずっと務めるほど明るく人気者だったらしい。そんな母が自分の嫌っていた兄と交際した上に、脅迫されたなんて父にはとても許し難い事だったろう。
匠は改めて父について考えてみる。匠は、父は情に流されることなく厳格で公正な判断をする人物だと思っていた。また同時に犯罪被害者や遺族に対しては今まで以上に公的サポートが必要であると主張し、実際そのために尽力している。また我が子達にはずっと、己に出来る範囲で弱者を守るように言い聞かせてきた。
そんな立派な人物が兄の誠が絡んだとたん冷静さを失ってしまうように、匠には思えてならなかった。恐らくではあるが、父は母の件が起こる前からずっと誠の事を嫌っていたに違いない。
記憶に残っている父の昔話によると、誠は両親を騙して東京の私大に進学するような狡猾な男だったが、翌年父が上京したらアパートで同居する約束だったのに、実際は女性をアパートに連れ込み同棲していたようだ。受験のため誠のアパートに一時的に泊まった父は、誠が隠しきれなかった女性の私物からその気配に気が付き、上京後駒場にある寮に住む事を決めた。
もちろん風谷の祖父母は父の決心に驚いたようだ。だが父は自分の親には未成年の兄の同棲の件を話せなかったらしい。まだろくに恋愛経験すらないような初心な十八歳だったのだ。誠が嫌い、だから一緒に住みたくないとだけ言ったため、父の我儘のように思われてしまったようだ。肝心なことが言い出せないそんな不器用なところは駆そっくりである。
そんな父は寮では意外にも麻雀にはまったようだ。また高い志を持つ友人達と出会った事によって、キャリア警察官を目指すようになったらしい。だから入寮時こそ渋々だったものの、そこでの出会いと二年間の経験は父にとって一生の宝物となったと聞いている。
塾にも通わずT大に現役合格していた父は、進学後もコツコツと勉学に励み国家公務員Ⅰ種試験にも相当の好成績で合格したようだ。警察官という仕事は生真面目で努力家の父の性格と非常にマッチしており、本人が天職だと匠に語っている。
父の人生が変化したのは、やはり母が誠との件を父に相談した事がきっかけなのだろう。それまでは激務だった事もあり色恋沙汰とは一切縁のない人生を送っていたようだ。もっとも同級会のエピソードからも想像できるように、父はきっと同級生だった母の事をずっと想っていたに違いない。母は高校時代、クラスの学級委員長をずっと務めるほど明るく人気者だったらしい。そんな母が自分の嫌っていた兄と交際した上に、脅迫されたなんて父にはとても許し難い事だったろう。
母に相談された時の父の心境を思うと、匠は気の毒でいたたまれない気分になった。証拠品の写真やネガを誠に提出させ、全てその手で焼却した時はどんな思いだったのだろう。
誠の犯罪自体が宙に浮いてしまったから罪に問われる事は絶対ないとはいえ、父のやった事自体は『証拠隠滅等罪』に相当する。匠はその事で父を咎める気持ちは起きなかったものの、それでも本当は父が母を説得し警察に被害届を提出し、誠にきちんと罪を償わせていればと思わずにはいられなかった。もっとも真面目な風谷の祖父母の事だから、示談金を何とか工面し弁護士を立ててでも山城家と示談し、不起訴に持ち込んだ可能性は高いだろうが。
だがもしそうなっていたら両親は絶対に結婚する事はなかっただろうから、匠や駆はこの世に誕生する事もなかった。そんな運命の悪戯に気付き、匠は思わず小さな声を上げて笑ってしまった。
今ここにいて、過去の事をあれこれ考えているこの自分は、善かれ悪しかれ両親の様々な選択の末に存在しているのだ。これが笑わずにはいられるだろうか。
誠の犯罪自体が宙に浮いてしまったから罪に問われる事は絶対ないとはいえ、父のやった事自体は『証拠隠滅等罪』に相当する。匠はその事で父を咎める気持ちは起きなかったものの、それでも本当は父が母を説得し警察に被害届を提出し、誠にきちんと罪を償わせていればと思わずにはいられなかった。もっとも真面目な風谷の祖父母の事だから、示談金を何とか工面し弁護士を立ててでも山城家と示談し、不起訴に持ち込んだ可能性は高いだろうが。
だがもしそうなっていたら両親は絶対に結婚する事はなかっただろうから、匠や駆はこの世に誕生する事もなかった。そんな運命の悪戯に気付き、匠は思わず小さな声を上げて笑ってしまった。
今ここにいて、過去の事をあれこれ考えているこの自分は、善かれ悪しかれ両親の様々な選択の末に存在しているのだ。これが笑わずにはいられるだろうか。
匠は近くに人がいないことをこれ幸いにしばらく笑った後、ペットボトルの水を更に何口か飲んでから、今日何度吐いたか分からない吐息を吐き出した。遠くからは親子連れの楽し気な声が少しずつ近づいてくる。そんな中、匠の思考は再び迷宮をさ迷い始めた。
誠の犯罪は、この世の中で日々繰り返されている凶悪犯罪に比べたら非常にささやかなものだ。匠はそういった凶悪犯罪や悲惨な事故について毎日のように耳目に触れる立場にあるし、ましてや父は長年警察官として生きてきて、匠には想像もつかないくらい多くの事件事故を目にしてきているはずだ。だからこそ父は判断を誤ってしまったのかもしれない。母がトラウマ故に駆を拒絶する様子を、トラウマではなく母の繊細な気質に起因するものとして受け取ってしまった可能性はあると匠は感じていた。
実を言えば、匠はずっと母に対して嫌悪感を抱いていた。虐待とは非難できない程度に駆の相手をせず、一方で匠を父のミニチュアのように可愛がり、父にどっぷり依存し、単身赴任中で仕事の都合により気軽に帰省できない父の元へ、子ども達を祖母に任せて嬉々として通う母は、匠にとって全く理解できない異星人のような存在だった。
事情を知ってしまった事で今まで母に感じていた怒りや嫌悪は行き場を失い、匠は途方に暮れていた。長年心に積もり積もったどす黒い負の感情は、相手の事情が分かったからといって簡単に許し、昇華されるような容易い代物ではない事に匠は気が付いてしまった。
人の心とは元々そういうものなのだろう。理屈では全然説明できないのだ。だから理知的なはずの父が、誠の事になるととたんに感情に囚われ、理不尽な行動をとってしまう。
実を言えば、匠はずっと母に対して嫌悪感を抱いていた。虐待とは非難できない程度に駆の相手をせず、一方で匠を父のミニチュアのように可愛がり、父にどっぷり依存し、単身赴任中で仕事の都合により気軽に帰省できない父の元へ、子ども達を祖母に任せて嬉々として通う母は、匠にとって全く理解できない異星人のような存在だった。
事情を知ってしまった事で今まで母に感じていた怒りや嫌悪は行き場を失い、匠は途方に暮れていた。長年心に積もり積もったどす黒い負の感情は、相手の事情が分かったからといって簡単に許し、昇華されるような容易い代物ではない事に匠は気が付いてしまった。
人の心とは元々そういうものなのだろう。理屈では全然説明できないのだ。だから理知的なはずの父が、誠の事になるととたんに感情に囚われ、理不尽な行動をとってしまう。
その時だった。
「パパ、ママ、お兄ちゃん、こっちこっち!」
幼い男の子の叫び声が聞こえてきた。五、六才くらいの可愛らしい顔立ちの男の子が勢いよく駆けてきて、後ろからゆっくり歩いてくる両親と小学校三年くらいの兄に手をぶるんぶるんと振っている。足元を全然見ず、後ろ向きにはしゃぎながら走っているので、いつか転ぶのではないかと匠の方がはらはらしてしまう。そんな無邪気な男の子と弟の駆が重なって見えた。
かつて兄弟が小学生だった頃、近所のショッピングモールに歩いて出かけフードコートで二人きりで、それぞれ選んだ色とりどりのダブルアイスクリームを食べている時、近くのテーブルで仲の良い親子連れが楽しそうに食事しているのを見る度に駆は羨ましがっていた。ある時など全く見知らぬ父子が携帯ゲームで楽しそうに対戦しているのを見かけ、駆が食い入るように見つめていた事をふと思い出す。
「いいな~」
小さな声で駆は羨ましがっていたのだが、あれは単にゲームが羨ましかっただけではない、父子で遊びたかったのだと匠は今更ながら気が付いた。匠は父とオセロなどで遊ぶ事があったが、駆は父を怖がってしまい、一緒に遊んでとねだる事すらできなかったのだ。
それから中学進学時に駆が剣道を止めた事が二人のわだかまりを生んでしまい、それ以降駆が父に認めてもらいたくてどんなにテニスで努力しても父には全く響かなかった。父が大人でましてや親なのだから、そこは父が駆に歩み寄ってほしかったと匠は思う。父と駆は、頑固で人間関係の立ち回りが不器用なところが実にそっくりなのだ。
「パパ、ママ、お兄ちゃん、こっちこっち!」
幼い男の子の叫び声が聞こえてきた。五、六才くらいの可愛らしい顔立ちの男の子が勢いよく駆けてきて、後ろからゆっくり歩いてくる両親と小学校三年くらいの兄に手をぶるんぶるんと振っている。足元を全然見ず、後ろ向きにはしゃぎながら走っているので、いつか転ぶのではないかと匠の方がはらはらしてしまう。そんな無邪気な男の子と弟の駆が重なって見えた。
かつて兄弟が小学生だった頃、近所のショッピングモールに歩いて出かけフードコートで二人きりで、それぞれ選んだ色とりどりのダブルアイスクリームを食べている時、近くのテーブルで仲の良い親子連れが楽しそうに食事しているのを見る度に駆は羨ましがっていた。ある時など全く見知らぬ父子が携帯ゲームで楽しそうに対戦しているのを見かけ、駆が食い入るように見つめていた事をふと思い出す。
「いいな~」
小さな声で駆は羨ましがっていたのだが、あれは単にゲームが羨ましかっただけではない、父子で遊びたかったのだと匠は今更ながら気が付いた。匠は父とオセロなどで遊ぶ事があったが、駆は父を怖がってしまい、一緒に遊んでとねだる事すらできなかったのだ。
それから中学進学時に駆が剣道を止めた事が二人のわだかまりを生んでしまい、それ以降駆が父に認めてもらいたくてどんなにテニスで努力しても父には全く響かなかった。父が大人でましてや親なのだから、そこは父が駆に歩み寄ってほしかったと匠は思う。父と駆は、頑固で人間関係の立ち回りが不器用なところが実にそっくりなのだ。
下の子に遅れ歩いていた家族三人が、匠の前を幸せそうな笑顔で通り過ぎていく。匠はその様子をずっと目で追った。仲の良い家族を羨んだ事もあるが、今は自分の両親に期待する事はすっかり諦め自分自身で築くしかないのだと思っている。
その時匠の頭に浮かんだのは英里香の事だった。英里香とは結婚の話はすれ違ってばかりだが、それでも今すぐにでも会いたい、心の奥底からそう思った。
英里香は今頃浅草周辺で、訪日外国人観光客に着物を着てもらい茶道体験をするツアーのガイドをしているはずだ。司法修習が始まる前に色々なアルバイトを経験したいと言ってわざわざ探したものらしい。終わるのが午後一時頃と言っていたから、今から浅草に移動してカフェ辺りで待っていれば合流できるだろう。
早速スマホを取り出しルート検索をする。ここからなら都営大江戸線の都庁前駅で地下鉄に乗り、蔵前で都営浅草線に乗り換えるのが早そうだった。
その時匠の頭に浮かんだのは英里香の事だった。英里香とは結婚の話はすれ違ってばかりだが、それでも今すぐにでも会いたい、心の奥底からそう思った。
英里香は今頃浅草周辺で、訪日外国人観光客に着物を着てもらい茶道体験をするツアーのガイドをしているはずだ。司法修習が始まる前に色々なアルバイトを経験したいと言ってわざわざ探したものらしい。終わるのが午後一時頃と言っていたから、今から浅草に移動してカフェ辺りで待っていれば合流できるだろう。
早速スマホを取り出しルート検索をする。ここからなら都営大江戸線の都庁前駅で地下鉄に乗り、蔵前で都営浅草線に乗り換えるのが早そうだった。
思い立ってから一時間も経たずに匠は地下鉄浅草駅前までやって来た。久しぶりに来た浅草は外国人観光客でごった返しているため、敢えて駅近のカフェチェーンに入り、考えすぎて疲れた頭を癒すためにアイス黒糖ラテを頼んだ。店内はかなり混んでいたが、一人だけならカウンター席もかろうじて空いている。
テーブルにグラスの載ったトレイを置いてから少し狭い席に身体を押し込めながら座ると、まずはコクのある黒糖の甘さを味わいつつラテを一、二口飲んで一息つく。スーツの内ポケットからスマホを取り出すとLIMEのアプリを立ち上げ、英里香宛に『浅草駅近にいる。会いたい』とだけ入力した。匠は今までこんな衝動的な事などした事はなかった。朝別れたばかりなのにかっこ悪いとは思うが、なりふり構わないくらい英里香をこの手で抱きしめたかったのだ。
更にラテを飲んでから、今度は有葉とのトーク画面を開き分かった事を報告していく。と言っても、母が誠から脅迫された事と父が証拠品を焼却した件は自分だけの胸にしまう事に決めていたので、有葉には誠が何股もかけていて母が激怒し、別れる時にひどく拗れ父が仲裁に入ったものの母は誠に対してトラウマを覚えるようになったようだとだけ伝える事にする。それだけで十分だろう。有葉も誠のサイトやブログを見ていれば、誠が駆に似ている事くらい既に気が付いているはずだ。イヤな別れ方をした元カレと息子が似ているから愛せないという説明は、理由としては十分だろう。
普段ならLIMEに投稿すると早めに既読になる有葉だったが、この日は外出でもしているのか未読のままだった。自分自身LIMEをあまりチェックしない匠はその事をさほど気に留める事もなく、英里香からの返事が来るまでスマホでYourTubeで知人の剣道の動画を眺めながら暇つぶしをし始めたのだった。
テーブルにグラスの載ったトレイを置いてから少し狭い席に身体を押し込めながら座ると、まずはコクのある黒糖の甘さを味わいつつラテを一、二口飲んで一息つく。スーツの内ポケットからスマホを取り出すとLIMEのアプリを立ち上げ、英里香宛に『浅草駅近にいる。会いたい』とだけ入力した。匠は今までこんな衝動的な事などした事はなかった。朝別れたばかりなのにかっこ悪いとは思うが、なりふり構わないくらい英里香をこの手で抱きしめたかったのだ。
更にラテを飲んでから、今度は有葉とのトーク画面を開き分かった事を報告していく。と言っても、母が誠から脅迫された事と父が証拠品を焼却した件は自分だけの胸にしまう事に決めていたので、有葉には誠が何股もかけていて母が激怒し、別れる時にひどく拗れ父が仲裁に入ったものの母は誠に対してトラウマを覚えるようになったようだとだけ伝える事にする。それだけで十分だろう。有葉も誠のサイトやブログを見ていれば、誠が駆に似ている事くらい既に気が付いているはずだ。イヤな別れ方をした元カレと息子が似ているから愛せないという説明は、理由としては十分だろう。
普段ならLIMEに投稿すると早めに既読になる有葉だったが、この日は外出でもしているのか未読のままだった。自分自身LIMEをあまりチェックしない匠はその事をさほど気に留める事もなく、英里香からの返事が来るまでスマホでYourTubeで知人の剣道の動画を眺めながら暇つぶしをし始めたのだった。
英里香から返事が来たのは、カフェに来てから小一時間が経過した頃だった。
最初に
『Mission complete!』
それから続けて
『甘味をご馳走して! 腹ペコだよ』
と返ってきた。匠は
『Sure!』
と入力してから、
『今どこにいる? 迎えに行くから!』
と尋ねた。やがて位置情報が送られてきたので、匠はそそくさと立ち上がるとトレーを返却口に置いて、店をいそいそと出たのだった。
最初に
『Mission complete!』
それから続けて
『甘味をご馳走して! 腹ペコだよ』
と返ってきた。匠は
『Sure!』
と入力してから、
『今どこにいる? 迎えに行くから!』
と尋ねた。やがて位置情報が送られてきたので、匠はそそくさと立ち上がるとトレーを返却口に置いて、店をいそいそと出たのだった。
紺色のパンツスーツに白いシンプルなカットソー姿の英里香は、観光客で混雑している雷門の近くに立っていた。匠の姿を見つけた途端、大きく両手を振って来たので、匠は足早に近づくと人目もはばからずそんな英里香を抱きしめた。
「会いたかった!」
激しく抱きしめられた英里香は陽気な笑い声をあげた。
「ワタシ達これじゃ一年ぶりに会ったカップルみたいじゃない?」
そう言いながら匠の首に腕を回すと逞しい胸に顔を埋めそっと囁く。
「……でもワタシも会いたかったよ……」
周囲にいた外国人観光客達が皆、微笑ましげに二人を見守っている。匠は本来、手を繋ぐ以上の愛情表現を人前でする事はほとんどなかったし、英里香もそれを期待する事は一切ないクールなタイプだった。なのに事前に打合せしたかのように、匠に合わせてくれている。匠は英里香のそういう所が心から好きだった。
しばらく目を閉じて英里香の身体の温もりと存在を思い切り感じてから、腕を緩めて英里香にこう尋ねた。
「どこかお勧めの店ある? 自分も腹減ったし」
「あまり知られていない穴場の店があるってガイド仲間がさっき教えてくれたよ。少し離れてはいるみたいだけど」
「じゃ、そこに行こう!」
「もちろんキミのおごりだよね?」
英里香が悪戯っぽく見上げてくる。司法試験のためこれまでアルバイトしかしてこなかった英里香は、さほど金銭的に余裕があるわけではない。司法修習が始まれば修習給付金が支給されるが、それとて月額13万円強らしい。
「任せとけ! その代わり店まで案内してくれる?」
匠はそう言いながら英里香の手を取った。
「おっと合点承知の助!」
英里香は承諾した事を示すために、ツアーガイドを始めてから最近覚えたばかりの言い回しを使ってみせた。二人は顔を見合わせ笑い合うと、喧騒から離れるべく裏道に向かって歩き始めたのだった。
「会いたかった!」
激しく抱きしめられた英里香は陽気な笑い声をあげた。
「ワタシ達これじゃ一年ぶりに会ったカップルみたいじゃない?」
そう言いながら匠の首に腕を回すと逞しい胸に顔を埋めそっと囁く。
「……でもワタシも会いたかったよ……」
周囲にいた外国人観光客達が皆、微笑ましげに二人を見守っている。匠は本来、手を繋ぐ以上の愛情表現を人前でする事はほとんどなかったし、英里香もそれを期待する事は一切ないクールなタイプだった。なのに事前に打合せしたかのように、匠に合わせてくれている。匠は英里香のそういう所が心から好きだった。
しばらく目を閉じて英里香の身体の温もりと存在を思い切り感じてから、腕を緩めて英里香にこう尋ねた。
「どこかお勧めの店ある? 自分も腹減ったし」
「あまり知られていない穴場の店があるってガイド仲間がさっき教えてくれたよ。少し離れてはいるみたいだけど」
「じゃ、そこに行こう!」
「もちろんキミのおごりだよね?」
英里香が悪戯っぽく見上げてくる。司法試験のためこれまでアルバイトしかしてこなかった英里香は、さほど金銭的に余裕があるわけではない。司法修習が始まれば修習給付金が支給されるが、それとて月額13万円強らしい。
「任せとけ! その代わり店まで案内してくれる?」
匠はそう言いながら英里香の手を取った。
「おっと合点承知の助!」
英里香は承諾した事を示すために、ツアーガイドを始めてから最近覚えたばかりの言い回しを使ってみせた。二人は顔を見合わせ笑い合うと、喧騒から離れるべく裏道に向かって歩き始めたのだった。
それから三週間ほどたった十一月のとある休日、ジムから帰って独身寮でくつろいでいる時に、匠のスマホに津紀子から電話が掛かってきた。匠が出るなり、津紀子は弾んだ声で挨拶もそこそこにいきなり報告を始めた。
「昨日ね、たまたま家にいる時あんたを名乗る男から電話が掛ってきたんだよ」
匠は思わず笑ってしまった。特殊詐欺でよりによって警察官の自分を騙ってくるとはリサーチ不足にもほどがあるが、恐らく掛け子は入手した名簿を元に手あたり次第電話を掛けさせられているのだろう。
「それでその自分は何て言ってきたんですか?」
と興味津々で尋ねると、津紀子は口真似を始めた。
「あ、おばあちゃん、俺だよ、匠だよ。株式投資に失敗しちゃったんだけど、つい会社の金に手を出しちゃってさ、早く穴埋めしないとやばいんだよ。お金準備できる?…………だーってさ」
そこまで言って大笑いする。
「話を聞きながら笑いをこらえるのに必死だったよ。『会社』の金を横領するような『孫』なんてさっさとその会社に捕まればいいと思ったけどさ。とりあえず引っかかったふりをしてね、そりゃ大変だ、お金をATMですぐ準備するからどうすればいい? って聞いたら、あんたの代わりに上司がATMのある近所のショッピングモールまでわざわざ来てくれるって言うのさ」
「そりゃ親切な上司ですね。横領した部下をフォローするためにわざわざ岩手まで取りに行ってくれるなんて」
匠はそう言いながら自分の直属の上司である遠藤課長補佐の顔を思い浮かべた。一見強面なのだが、情に厚くとても親切な人だ。胃が弱いらしく、何か面倒な事が起こる度腹部をさすっている。週明け早速この話を教えてあげなければ。大喜びしてくれるだろう。
「電話を切った後、即警察署に電話したのさ。そしたらあんたのお師匠の菊池さんが対応してくれたんだけど、騙されたふりをしてくれって頼まれてね」
菊池さんは、匠や駆が幼い頃剣道の道場で手取り足取り教えてくれた最初の師匠だ。普段は穏やかだが、怒ると怖い人である。
「あたしは普通のおばあさんみたいな格好をしてショッピングモールまで出かけて、お金が入っているように見せかけた紙袋を持って約束のATMの前に立って待ってたんだよ。そしたら、あんたの『上司』とやらがやってきたんだけど、全然スーツが似合っていない茶髪のあんちゃんで、実際あんたより若かったんじゃないかな」
特殊詐欺の受け子は若いケースが多い。そして服装もちぐはぐだ。設定が破綻していると思うのだが、被害者は焦っているせいなのか案外騙されてしまう。またその受け子自身、特殊詐欺グループからすれば使い捨ての存在でしかない。
「匠君の上司ですなんて名乗って早速紙袋を受け取ったら、陰に隠れていた菊池さん達が飛び出してきて確保してくれたよ。この辺であたしを知らないなんてモグリだよね」
そう言って津紀子は愉快そうに笑った。実際地元で山城津紀子を知らぬ者はいないだろう。そのくらい津紀子は顔と名がよく知られた地元の名士だった。恐らくその特殊詐欺グループは間抜けな事に、地元の事情を全く知らなかったのだろう。
「ご協力ありがとうございました!」
匠が津紀子をねぎらったが、津紀子はよほど嬉しかったらしくまだ笑っている。
「先日真由子から還付金詐欺被害を防いだって聞いてたから、あたしのところにも掛け子から電話が掛ってこないかなってわくわくしていたんだよ」
「おばあさん、詐欺は娯楽じゃないんですから。今は国際ロマンス詐欺なんてものすらあるんだから気を付けてくださいね!」
匠は立場上津紀子をたしなめる。非常に巧妙な詐欺もあるのだ。しっかりした津紀子でも絶対に騙されないという保証はない。
「まあ、今回警察にすぐ連絡してくれたのは正解でした。今後も怪しいと思ったら即地元の警察に相談して下さいね」
「分かってるって。あんたも剛君と同じ事言うんだね」
どうやら、匠に電話をする前に父に電話をしていたようだ。父にわざわざ電話をするとはよほど嬉しかったに違いない。匠はおかしくなったが、必死にあくまで真面目な口調で続けた。
「おばあさんは一人暮らしなんですから、本当に気を付けて下さいよ!」
はいはい、と津紀子は適当に返事をした後、少し間をおいてから声を改め続けた。
「そうそう、あんたがこの前紹介してくれたカウンセラーだけどね、ようやく来週予約が取れたのさ。まずはあたし一人で行ってくるよ」
「そうでしたか、ひとまずは良かったです……」
としか匠は言うことが出来なかった。
「昨日ね、たまたま家にいる時あんたを名乗る男から電話が掛ってきたんだよ」
匠は思わず笑ってしまった。特殊詐欺でよりによって警察官の自分を騙ってくるとはリサーチ不足にもほどがあるが、恐らく掛け子は入手した名簿を元に手あたり次第電話を掛けさせられているのだろう。
「それでその自分は何て言ってきたんですか?」
と興味津々で尋ねると、津紀子は口真似を始めた。
「あ、おばあちゃん、俺だよ、匠だよ。株式投資に失敗しちゃったんだけど、つい会社の金に手を出しちゃってさ、早く穴埋めしないとやばいんだよ。お金準備できる?…………だーってさ」
そこまで言って大笑いする。
「話を聞きながら笑いをこらえるのに必死だったよ。『会社』の金を横領するような『孫』なんてさっさとその会社に捕まればいいと思ったけどさ。とりあえず引っかかったふりをしてね、そりゃ大変だ、お金をATMですぐ準備するからどうすればいい? って聞いたら、あんたの代わりに上司がATMのある近所のショッピングモールまでわざわざ来てくれるって言うのさ」
「そりゃ親切な上司ですね。横領した部下をフォローするためにわざわざ岩手まで取りに行ってくれるなんて」
匠はそう言いながら自分の直属の上司である遠藤課長補佐の顔を思い浮かべた。一見強面なのだが、情に厚くとても親切な人だ。胃が弱いらしく、何か面倒な事が起こる度腹部をさすっている。週明け早速この話を教えてあげなければ。大喜びしてくれるだろう。
「電話を切った後、即警察署に電話したのさ。そしたらあんたのお師匠の菊池さんが対応してくれたんだけど、騙されたふりをしてくれって頼まれてね」
菊池さんは、匠や駆が幼い頃剣道の道場で手取り足取り教えてくれた最初の師匠だ。普段は穏やかだが、怒ると怖い人である。
「あたしは普通のおばあさんみたいな格好をしてショッピングモールまで出かけて、お金が入っているように見せかけた紙袋を持って約束のATMの前に立って待ってたんだよ。そしたら、あんたの『上司』とやらがやってきたんだけど、全然スーツが似合っていない茶髪のあんちゃんで、実際あんたより若かったんじゃないかな」
特殊詐欺の受け子は若いケースが多い。そして服装もちぐはぐだ。設定が破綻していると思うのだが、被害者は焦っているせいなのか案外騙されてしまう。またその受け子自身、特殊詐欺グループからすれば使い捨ての存在でしかない。
「匠君の上司ですなんて名乗って早速紙袋を受け取ったら、陰に隠れていた菊池さん達が飛び出してきて確保してくれたよ。この辺であたしを知らないなんてモグリだよね」
そう言って津紀子は愉快そうに笑った。実際地元で山城津紀子を知らぬ者はいないだろう。そのくらい津紀子は顔と名がよく知られた地元の名士だった。恐らくその特殊詐欺グループは間抜けな事に、地元の事情を全く知らなかったのだろう。
「ご協力ありがとうございました!」
匠が津紀子をねぎらったが、津紀子はよほど嬉しかったらしくまだ笑っている。
「先日真由子から還付金詐欺被害を防いだって聞いてたから、あたしのところにも掛け子から電話が掛ってこないかなってわくわくしていたんだよ」
「おばあさん、詐欺は娯楽じゃないんですから。今は国際ロマンス詐欺なんてものすらあるんだから気を付けてくださいね!」
匠は立場上津紀子をたしなめる。非常に巧妙な詐欺もあるのだ。しっかりした津紀子でも絶対に騙されないという保証はない。
「まあ、今回警察にすぐ連絡してくれたのは正解でした。今後も怪しいと思ったら即地元の警察に相談して下さいね」
「分かってるって。あんたも剛君と同じ事言うんだね」
どうやら、匠に電話をする前に父に電話をしていたようだ。父にわざわざ電話をするとはよほど嬉しかったに違いない。匠はおかしくなったが、必死にあくまで真面目な口調で続けた。
「おばあさんは一人暮らしなんですから、本当に気を付けて下さいよ!」
はいはい、と津紀子は適当に返事をした後、少し間をおいてから声を改め続けた。
「そうそう、あんたがこの前紹介してくれたカウンセラーだけどね、ようやく来週予約が取れたのさ。まずはあたし一人で行ってくるよ」
「そうでしたか、ひとまずは良かったです……」
としか匠は言うことが出来なかった。
通話後、匠は深く息を吐き出した。まずは第一歩を踏み出す事ができたのだ。津紀子がカウンセリングを受け、感触が良ければ父に勧める事になっている。トラウマを負った母だけでなく、頑なな父にもきちんとカウンセリングを受けてもらいたいと匠は思っていた。駆は誠とは全く違う一個の人間なのだと、父に早く気が付いて欲しかったのだ。
今こうして匠が動いている事は、駆には一切話していなかった。話したところで、「今更どうでもいいよ」と言われるに決まっているからだ。確かに家を追い出された駆からすれば、もうどうだっていい話なのだ。だけど匠は『どうでもいい話』で終わらせる訳にはいかなかった。一家の縺れに縺れた糸を、時間をかけてでも丁寧にほどこうと決意したのだ。それが禁断の箱を開けてしまった者としての義務なのだと匠は考えていた。
「次のミッションは正月か……」
匠は独り言ちる。何事もなければ父と地元で会うのは年末年始だ。その時に駆を扶養してくれている有葉について、父にきちんと事情を伝えるつもりだった。父がそれを知った時どんな反応を示すのか匠には全く想像できなかったが、自分で言い出した以上やるしかないのだ。
「頑張れよ、自分」
言い聞かせるように呟くと、匠は気合を入れるように自分の頬を両手で思い切り叩いたのだった。
今こうして匠が動いている事は、駆には一切話していなかった。話したところで、「今更どうでもいいよ」と言われるに決まっているからだ。確かに家を追い出された駆からすれば、もうどうだっていい話なのだ。だけど匠は『どうでもいい話』で終わらせる訳にはいかなかった。一家の縺れに縺れた糸を、時間をかけてでも丁寧にほどこうと決意したのだ。それが禁断の箱を開けてしまった者としての義務なのだと匠は考えていた。
「次のミッションは正月か……」
匠は独り言ちる。何事もなければ父と地元で会うのは年末年始だ。その時に駆を扶養してくれている有葉について、父にきちんと事情を伝えるつもりだった。父がそれを知った時どんな反応を示すのか匠には全く想像できなかったが、自分で言い出した以上やるしかないのだ。
「頑張れよ、自分」
言い聞かせるように呟くと、匠は気合を入れるように自分の頬を両手で思い切り叩いたのだった。