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歪んだ王国

ー/ー



そこは、ひどく静謐な場所だった。

 空気の震えるような、かすかな機械音のみが闊歩し、それ以外に音を出すものはまったくと言っていいほどない。その空気に合わせたかのような白い壁も、床も、染み一つなく、まるで虚空のごとくただ、白い。

 そのひどく無機質な空間に、ただ一人、色を添える者がいた。

 歳の頃は20代前半ほどだろうか。鈍い茶色の髪と、同色の鋭く精悍な瞳を持つ、険しい表情の、白衣姿の青年。

 彼の双眸は、この無機質な空間にただ一つ、鮮やかな色を添えるそれ――頭上の大型モニターへと注がれていた。

 そこには、この空間には一切存在しないもの――青い空、白い雲、そして緑という生命力に満ち溢れた大樹が映し出されている。

 青年はそれを、まるで仇でも見るかのような険しい表情で見上げていた。
「ヴェロニカ」

 絞り出すような、うめくような声で、青年はその名を呼ぶ。その口元から流れ出す、苦味を含んだ空気が、静謐なこの空間を一瞬、青年の苦悶で染める。

「俺は決めたよ。お前を、あそこへ連れていく」

 誰もいないその空間で、青年は一人、つぶやく。

 その声が持つ色は、悔恨と、苦悩と、希望と、悲哀。

 短い言葉ながら、それらのないまぜになった、混沌とした彼の声色が、それらの想いの強さを如実に語っていた。

 握った拳を振るわせ、青年はうつむく。そして最後の言葉を、つぶやいた。

「お前が望む通り――この世界を救うために」

『世界樹の星』。そこはそう呼ばれる惑星だった。その名に反し、あらゆる植物が絶滅し、枯れ切った荒野の広がる世界。

 その世界に唯一、存在する大樹があった。

 それが文字通りの『世界樹』である。

 世界樹はあらゆる植物が担う、生命が活動するために必要な活動を一身に負い、この星の生命を維持するまさに母なるものだった。

 人間が、動物が排出する二酸化炭素を吸収し、酸素へと変えて放出する。決して一本の樹が担えるものではないこの役割を世界樹は負っていたのだ。

 人々は世界樹に感謝し、その生育のために科学の力を注ぎこんだ。やがて世界樹が世界で唯一の大樹となっても、生命が生き続けられるように。

 だが、その世界樹も絶対ではなかった。

 世界樹を保護していた人類は、ある日突然、その兆候を発見する。

 世界樹の老化現象である。それは人々のあいだに急速に波紋を呼んでいった。世界樹の死は、すでに世界の死と同義となっていたのだ。

 人々はそれまで培った科学の力を結集し、その原因を探し、対策を練った。

 そして行きついた唯一の答え――それはひどく原始的なものであった。

 世界樹と近い生体反応を持つ者を選出し、その老化の原因である、核にささげる――ありていに言う、生贄。

 そして人類の中で唯一、その資質を見出された者……それはこの星唯一の国の国王の娘だった。

 王立ナルティリア科学局……それは、この星の生命の要である世界樹を統括する施設である。国家の科学の粋と、高い威信を集結させたその施設では、日々その研究と実験が繰り返されていた。

 そのナルティリア科学局の廊下を歩く、一人の青年の姿がある。白衣を身にまとった、二十代前半と見られる、精悍な表情。その姿から科学者の一人と見えるが、鋭く精悍な顔つきと、たくましい体つきはどこかそれだけでない、野性的な空気を醸し出している。

「これはこれはジャスティン=アンカース少佐殿。今日は非番ではありませんでしたか?」

 青年……ジャスティン少佐と呼ばれた彼の前にもう一人、青年が姿を現す。

 こちらはジャスティンと違い、ひょろりとしたシルエットの青年だ。こちらは砂色のさらりとした髪に、いかにも女性受けしそうな甘い顔立ちが特徴的である。少々気障な壁に寄りかかった仕草と、言葉とは裏腹に軽薄めいたその口調が、さらにそれを際立たせていた。

「ふざけるのはやめろ、ディック。わかっているだろう? 今日は我らがお姫様に呼ばれている。あまり時間がない」

 壁に寄りかかったままのディックと呼ばれた青年を一瞥しただけで、ジャスティンは歩き続ける。あまりににべもないその様に、あわてた様子でディックがその後を追う。

「おいおい、ご挨拶だな、ジャス。せっかくこのディック=ブルース副局長様がじきじきにお出迎えに来てやったってのに、形だけの敬礼くらいしてくれたって罰は当たらないぜ? ていうか、それが大学時代からの親友に対する態度なわけ?」

 先ほどの言葉とは違い、よく言えばフランクな、悪く言えばなれなれしい口調でディックが言う。

 ジャスティン=アンカース少佐と、ディック=ブルース科学局副局長。そう、彼ら二人は大学で世界樹について研究していた頃からの親友である。

 ジャスティン……ディックの言うジャスが世界樹を守る王国軍に入ってからも、その関係は続いていた。

「言っただろう。姫様がお待ちだ。時間がない」

 その言葉に、不意にディックの表情が真面目なものに変わる。

「そうだな。時間がない……な、確かに」

 後ろ頭を掻きながら、ディックは小さく嘆息した。

「腹は決まったんだろ?」

「彼女は最初からそのつもりだった」

 ぶっきらぼうに返すジャスの表情は、その言葉以上に硬く、重い。だがそれ以上にそこで存在感を醸し出すのは、かすかな悲哀か。

「そうじゃねえよ。お前の、さ」

「俺は、彼女の願うとおりにすることに決めた。もう、それしか考えていない」

 そのジャスの返事に、ディックの表情も重くなる。だが、かすかながらその顔には微笑みが浮かべられていた。

「お前なら、そう言うと思ってたよ。いいぜ、こっちの準備はできてる」

「すまん。お前を巻き込むつもりはなかった」

「気にすんな。それより、お姫様にはもっと優しくしてやれ。時間がないったって、なにしろ……」

 そこで、ディックはふと足を止める。そのまま進んでいくジャスの背中を見送りながら、彼はこれまでにないほどの悲哀を秘めた表情を浮かべて見せた。

「これが、最後かもしれないんだからな」

 その言葉が届いたのか否か、ジャスの右手が腰のハンドガンを確かめるかのように、なでた。

 ナルティリア王国国王は、決して不遜な人物ではなかった。世界樹を管理する王国として、その国王がそのような人物では務まらなかったためだ。

 公平であり、正義感にあふれ、寛大な人物であった。

 ただ唯一、彼には現在の事態に対して決定的な、しかも克服しようのない部分があった。それは人間として決して欠点と言えるものではなく、むしろ当然持ち合わせていておかしくないものだった。

「娘は、ヴェロニカはどうしている?」

 王はひざまずく軍服の近衛兵にうっそりと話しかける。その様子は普段の彼と違い、そわそわと落ち着かない。

 そう、王は娘を溺愛していた。彼がこれまで国のために尽力してきたのも、もちろんその国のためもあるが、その根源にあるのは娘への愛であった。

 娘への愛ゆえに、王は世界樹の修復に必要なのが己の娘の身であることを受けいれることができずにいたのだ。

「よいか、国民にはまだ娘が世界樹を救う唯一の手段だと知らせてはならぬ。なんとか、なんとかして他の手を見つけ出すのだ」

「……はい」

 近衛兵は、少々当惑した色をその声に混ぜながらも頭を垂れる。

「それに、我が娘の説得を急がせろ。ヴェロニカのことだ、一度言い出したら聞かぬであろうことはわかっている」

「はい。ただいまジャスティン少佐が説得に向かっております」

 その名に、王の表情が一瞬、複雑な色に染まった。それは彼ならという安堵と、彼に対する不安感をないまぜにした、複雑な色。

「ジャスティン、か……」

 その表情を隠そうとするかのように、王は近衛兵に背を向ける。

「確かに……彼しかいない。娘が世界のために犠牲になることをやめるよう、説得できるのは」

 だが、その言葉と裏腹に、王はどこか暗雲を見上げるようなまなざしで、遠くを見るように天を仰いだ。

 ジャスティン・アンカースは、その『姫』の部屋の前にたたずんでいた。

 ノックするため、拳を持ち上げては下ろすという動作をもう三回は繰り返していた。

 無理もない。何しろこれが最後になるのかもしれないのだから。

 ――自分の婚約者との会話が。

 そう、ジャスティンは姫、ヴェロニカとの婚約者であった。

 だが、ヴェロニカは世界樹の核を修復するための唯一の手段として、選ばれてしまったのだ。

 ――いつまでもためらっているわけにはいかない。

 ジャスティンは自分を奮い立たせると、ドアをノックする。

「はい」

 同時に、中から清楚なその声が響いた。

「失礼します」

 婚約者とはいえ、相手は姫。一応形として、礼をしながらジャスティンは部屋の中へと入った。

「――ジャス」

 苦い表情で顔を上げた彼の、その顔を見て、ヴェロニカはかすかに微笑んだ。

「そんなに仰々しくしなくっていいんですよ。なんといったって、私たちは婚約者同士なんだから」

 くすくすとおかしそうに笑うヴェロニカの様子を見、ジャスティンの顔が悲哀に歪んだ。

「本当に、いいのか」

「もう、王であるお父様だって許してるんだから、そんなこと……」

 相変わらず微笑むヴェロニカの言葉を、ジャスティンの鋭く、しかし迷いに染まった視線が遮った。それはどこか、いつも通りに振る舞おうとするヴェロニカの様を、叱咤しているようにも見えた。

「いいんです。私が犠牲になることでこの星が救われるのなら、私はそれで幸せなんです」

 本当は、彼女にもわかっていた。父である王も、目の前の婚約者、ジャスティンも、それを望んではいないことに。

 表向きは、ジャスティンは今日、王の命でここにヴェロニカを説得しに来たことになっている。

 そう、表向きは、世界樹の核となることを受け入れた彼女を、引き留めるために。

 だが。

「わかった」

 言葉短く、ジャスティンは言うとその瞳を閉じた。それはあきらめだったのか、それとも彼なりの決意の示し方だったのか、ヴェロニカにもわからなかった。

「ディックが手伝ってくれる。大丈夫だ」

 だが、一度うつむいて顔を上げたジャスティンが浮かべた、珍しい笑顔という表情を見、ヴェロニカは後者だと信じることにした。

「なら行こう。時間はあまりない。他の人間に気づかれる前に、世界樹の元へ行かなければならない」

「――はい」

 ヴェロニカは、うれしかった。彼が、自分の想いを尊重してくれたことが。だがそれと同じくらい、悲しかった。そのために、彼を犠牲にしなくてはいけないかもしれないことが。
「オートジャイロの準備ができているはずだ。まずはそこまで行こう」


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そこは、ひどく静謐な場所だった。
 空気の震えるような、かすかな機械音のみが闊歩し、それ以外に音を出すものはまったくと言っていいほどない。その空気に合わせたかのような白い壁も、床も、染み一つなく、まるで虚空のごとくただ、白い。
 そのひどく無機質な空間に、ただ一人、色を添える者がいた。
 歳の頃は20代前半ほどだろうか。鈍い茶色の髪と、同色の鋭く精悍な瞳を持つ、険しい表情の、白衣姿の青年。
 彼の双眸は、この無機質な空間にただ一つ、鮮やかな色を添えるそれ――頭上の大型モニターへと注がれていた。
 そこには、この空間には一切存在しないもの――青い空、白い雲、そして緑という生命力に満ち溢れた大樹が映し出されている。
 青年はそれを、まるで仇でも見るかのような険しい表情で見上げていた。
「ヴェロニカ」
 絞り出すような、うめくような声で、青年はその名を呼ぶ。その口元から流れ出す、苦味を含んだ空気が、静謐なこの空間を一瞬、青年の苦悶で染める。
「俺は決めたよ。お前を、あそこへ連れていく」
 誰もいないその空間で、青年は一人、つぶやく。
 その声が持つ色は、悔恨と、苦悩と、希望と、悲哀。
 短い言葉ながら、それらのないまぜになった、混沌とした彼の声色が、それらの想いの強さを如実に語っていた。
 握った拳を振るわせ、青年はうつむく。そして最後の言葉を、つぶやいた。
「お前が望む通り――この世界を救うために」
『世界樹の星』。そこはそう呼ばれる惑星だった。その名に反し、あらゆる植物が絶滅し、枯れ切った荒野の広がる世界。
 その世界に唯一、存在する大樹があった。
 それが文字通りの『世界樹』である。
 世界樹はあらゆる植物が担う、生命が活動するために必要な活動を一身に負い、この星の生命を維持するまさに母なるものだった。
 人間が、動物が排出する二酸化炭素を吸収し、酸素へと変えて放出する。決して一本の樹が担えるものではないこの役割を世界樹は負っていたのだ。
 人々は世界樹に感謝し、その生育のために科学の力を注ぎこんだ。やがて世界樹が世界で唯一の大樹となっても、生命が生き続けられるように。
 だが、その世界樹も絶対ではなかった。
 世界樹を保護していた人類は、ある日突然、その兆候を発見する。
 世界樹の老化現象である。それは人々のあいだに急速に波紋を呼んでいった。世界樹の死は、すでに世界の死と同義となっていたのだ。
 人々はそれまで培った科学の力を結集し、その原因を探し、対策を練った。
 そして行きついた唯一の答え――それはひどく原始的なものであった。
 世界樹と近い生体反応を持つ者を選出し、その老化の原因である、核にささげる――ありていに言う、生贄。
 そして人類の中で唯一、その資質を見出された者……それはこの星唯一の国の国王の娘だった。
 王立ナルティリア科学局……それは、この星の生命の要である世界樹を統括する施設である。国家の科学の粋と、高い威信を集結させたその施設では、日々その研究と実験が繰り返されていた。
 そのナルティリア科学局の廊下を歩く、一人の青年の姿がある。白衣を身にまとった、二十代前半と見られる、精悍な表情。その姿から科学者の一人と見えるが、鋭く精悍な顔つきと、たくましい体つきはどこかそれだけでない、野性的な空気を醸し出している。
「これはこれはジャスティン=アンカース少佐殿。今日は非番ではありませんでしたか?」
 青年……ジャスティン少佐と呼ばれた彼の前にもう一人、青年が姿を現す。
 こちらはジャスティンと違い、ひょろりとしたシルエットの青年だ。こちらは砂色のさらりとした髪に、いかにも女性受けしそうな甘い顔立ちが特徴的である。少々気障な壁に寄りかかった仕草と、言葉とは裏腹に軽薄めいたその口調が、さらにそれを際立たせていた。
「ふざけるのはやめろ、ディック。わかっているだろう? 今日は我らがお姫様に呼ばれている。あまり時間がない」
 壁に寄りかかったままのディックと呼ばれた青年を一瞥しただけで、ジャスティンは歩き続ける。あまりににべもないその様に、あわてた様子でディックがその後を追う。
「おいおい、ご挨拶だな、ジャス。せっかくこのディック=ブルース副局長様がじきじきにお出迎えに来てやったってのに、形だけの敬礼くらいしてくれたって罰は当たらないぜ? ていうか、それが大学時代からの親友に対する態度なわけ?」
 先ほどの言葉とは違い、よく言えばフランクな、悪く言えばなれなれしい口調でディックが言う。
 ジャスティン=アンカース少佐と、ディック=ブルース科学局副局長。そう、彼ら二人は大学で世界樹について研究していた頃からの親友である。
 ジャスティン……ディックの言うジャスが世界樹を守る王国軍に入ってからも、その関係は続いていた。
「言っただろう。姫様がお待ちだ。時間がない」
 その言葉に、不意にディックの表情が真面目なものに変わる。
「そうだな。時間がない……な、確かに」
 後ろ頭を掻きながら、ディックは小さく嘆息した。
「腹は決まったんだろ?」
「彼女は最初からそのつもりだった」
 ぶっきらぼうに返すジャスの表情は、その言葉以上に硬く、重い。だがそれ以上にそこで存在感を醸し出すのは、かすかな悲哀か。
「そうじゃねえよ。お前の、さ」
「俺は、彼女の願うとおりにすることに決めた。もう、それしか考えていない」
 そのジャスの返事に、ディックの表情も重くなる。だが、かすかながらその顔には微笑みが浮かべられていた。
「お前なら、そう言うと思ってたよ。いいぜ、こっちの準備はできてる」
「すまん。お前を巻き込むつもりはなかった」
「気にすんな。それより、お姫様にはもっと優しくしてやれ。時間がないったって、なにしろ……」
 そこで、ディックはふと足を止める。そのまま進んでいくジャスの背中を見送りながら、彼はこれまでにないほどの悲哀を秘めた表情を浮かべて見せた。
「これが、最後かもしれないんだからな」
 その言葉が届いたのか否か、ジャスの右手が腰のハンドガンを確かめるかのように、なでた。
 ナルティリア王国国王は、決して不遜な人物ではなかった。世界樹を管理する王国として、その国王がそのような人物では務まらなかったためだ。
 公平であり、正義感にあふれ、寛大な人物であった。
 ただ唯一、彼には現在の事態に対して決定的な、しかも克服しようのない部分があった。それは人間として決して欠点と言えるものではなく、むしろ当然持ち合わせていておかしくないものだった。
「娘は、ヴェロニカはどうしている?」
 王はひざまずく軍服の近衛兵にうっそりと話しかける。その様子は普段の彼と違い、そわそわと落ち着かない。
 そう、王は娘を溺愛していた。彼がこれまで国のために尽力してきたのも、もちろんその国のためもあるが、その根源にあるのは娘への愛であった。
 娘への愛ゆえに、王は世界樹の修復に必要なのが己の娘の身であることを受けいれることができずにいたのだ。
「よいか、国民にはまだ娘が世界樹を救う唯一の手段だと知らせてはならぬ。なんとか、なんとかして他の手を見つけ出すのだ」
「……はい」
 近衛兵は、少々当惑した色をその声に混ぜながらも頭を垂れる。
「それに、我が娘の説得を急がせろ。ヴェロニカのことだ、一度言い出したら聞かぬであろうことはわかっている」
「はい。ただいまジャスティン少佐が説得に向かっております」
 その名に、王の表情が一瞬、複雑な色に染まった。それは彼ならという安堵と、彼に対する不安感をないまぜにした、複雑な色。
「ジャスティン、か……」
 その表情を隠そうとするかのように、王は近衛兵に背を向ける。
「確かに……彼しかいない。娘が世界のために犠牲になることをやめるよう、説得できるのは」
 だが、その言葉と裏腹に、王はどこか暗雲を見上げるようなまなざしで、遠くを見るように天を仰いだ。
 ジャスティン・アンカースは、その『姫』の部屋の前にたたずんでいた。
 ノックするため、拳を持ち上げては下ろすという動作をもう三回は繰り返していた。
 無理もない。何しろこれが最後になるのかもしれないのだから。
 ――自分の婚約者との会話が。
 そう、ジャスティンは姫、ヴェロニカとの婚約者であった。
 だが、ヴェロニカは世界樹の核を修復するための唯一の手段として、選ばれてしまったのだ。
 ――いつまでもためらっているわけにはいかない。
 ジャスティンは自分を奮い立たせると、ドアをノックする。
「はい」
 同時に、中から清楚なその声が響いた。
「失礼します」
 婚約者とはいえ、相手は姫。一応形として、礼をしながらジャスティンは部屋の中へと入った。
「――ジャス」
 苦い表情で顔を上げた彼の、その顔を見て、ヴェロニカはかすかに微笑んだ。
「そんなに仰々しくしなくっていいんですよ。なんといったって、私たちは婚約者同士なんだから」
 くすくすとおかしそうに笑うヴェロニカの様子を見、ジャスティンの顔が悲哀に歪んだ。
「本当に、いいのか」
「もう、王であるお父様だって許してるんだから、そんなこと……」
 相変わらず微笑むヴェロニカの言葉を、ジャスティンの鋭く、しかし迷いに染まった視線が遮った。それはどこか、いつも通りに振る舞おうとするヴェロニカの様を、叱咤しているようにも見えた。
「いいんです。私が犠牲になることでこの星が救われるのなら、私はそれで幸せなんです」
 本当は、彼女にもわかっていた。父である王も、目の前の婚約者、ジャスティンも、それを望んではいないことに。
 表向きは、ジャスティンは今日、王の命でここにヴェロニカを説得しに来たことになっている。
 そう、表向きは、世界樹の核となることを受け入れた彼女を、引き留めるために。
 だが。
「わかった」
 言葉短く、ジャスティンは言うとその瞳を閉じた。それはあきらめだったのか、それとも彼なりの決意の示し方だったのか、ヴェロニカにもわからなかった。
「ディックが手伝ってくれる。大丈夫だ」
 だが、一度うつむいて顔を上げたジャスティンが浮かべた、珍しい笑顔という表情を見、ヴェロニカは後者だと信じることにした。
「なら行こう。時間はあまりない。他の人間に気づかれる前に、世界樹の元へ行かなければならない」
「――はい」
 ヴェロニカは、うれしかった。彼が、自分の想いを尊重してくれたことが。だがそれと同じくらい、悲しかった。そのために、彼を犠牲にしなくてはいけないかもしれないことが。
「オートジャイロの準備ができているはずだ。まずはそこまで行こう」