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カリオフィパム

ー/ー



 五月九日
 嫌気が差すほどに天気が好い。
 からっとした晴れ模様の昼空は、もう夏が来たのではと思うほどに燦々とした陽射しが降り注いでいて、春と言うには些暖かすぎる陽気で満ちている。
 そんな日。とある日曜日だ。
 とにかく、お出掛けするにはお誂え向きな天気。その朗らかすぎる春空の下、僕は晴れない気持ちを抱えながら、一人とある目的地に向けて駅前の商店街を歩いていた。
 平日だろうと休日だろうと知ったことではないといった風に、いつも閑散としている商店街。今日というこの日も例に漏れることなく、寂れた景色がそこにはあった。
 ただ一軒の店を除いて。
 その通りの中頃にある小さな花屋。
 そこは普段の様子からは想像もできないほど、大勢の客で賑わっていた。そのほとんどが赤いカーネーションを手にしており、ひとつしかないレジを先頭に長い行列を作っていた。
 そう、今日は五月の第二日曜日。
 母の日だ。
 つまり、花を手にして仲良くレジに並んでいる彼らは、赤いカーネーションに『母への愛』という花言葉を添えて、日頃の感謝を伝えようとしているわけだ。
 なんともまあ、微笑ましい限りだ。
 そんな定例イベント『母の日』であるが――恐らく、僕には一生無縁な日だろう。これは、母に改まって感謝を伝えるなんて恥ずかしくてできない――とか、反抗期の男子中学生みたいな理由ではなく、もっと根本的な理由に起因している。
 まあ、将来的に花屋でアルバイトなり就職するなりして、書き入れ時である母の日の前後にしゃかりきになって働く、なんて可能性はゼロではないのかもしれないが。
 さて。
 そんなことを考えているうちに、目的地である小さなビルに到着する。
 ビルの三階に入っている心療内科――『誠心誠意まごころクリニック』
 そこが、僕のお訪ねだ。
 しかしまあ、なんというか、絶妙に胡散臭いネーミングである。誠実さを謳うがあまり、逆に不誠実っぽく見える、みたいな。そんな感じがする。
 だが、レビューを見た限り、このクリニックの評判はかなり良かった。自宅から近いこともあってこのクリニック決めたが、さて、どうだろうか。
 現在の時刻は十一時。予約した時間まではまだ三十分もあったが、外で待つのも変なので、中へと入った。
 初診時の受付を済ませて、待合室のソファに座る。手近な本棚を物色しながら診察への緊張を誤魔化していると、思いの外早く名前が呼ばれた。
「藤滝さん、どうぞ」
 僕の名前である。
 診察室の前に立って深く息を吐き出し、ドアをノックする。
「失礼します」
 すると、爽やかな男性の声が返ってきた。
「どうぞ」
 意を決してドアを開けると、そこには――派手な柄シャツの上に白衣を羽織り、薄紫の色つきレンズの眼鏡を掛けた、壮年の男性がいた。
「…………」
 ヤクザの事務所に来たのかと思った。
 律儀に胡散臭い。
 誠実に不誠実。
 真っ直ぐに歪んでいる。
 そんな感じの風貌だった。
 それを目にした僕は、ここに来たことを既に後悔していた。
「やあ、こんにちは。そこの椅子にかけて」
 爽やかな胡散臭い笑顔を浮かべて、おちゃらけた格好の医師は言う。
「はじめまして。えーっと、君は藤滝(ふじたき)春陽(はるひ)くんというのか。うん、素敵な名前だね。『藤滝』という珍しい苗字もそうだけど『春陽』という名で締めているのがまたいいね。名付け親のセンスが輝いているよ」
「はあ……」
「僕の名前は藤枝(ふじえ)――『藤の枝』と書いて藤枝。あはは、偶然にも『藤』繋がりだね」
 と、藤枝さんは嬉しそうに言う。
 本当に偶然なんだろうけれど、この人が「偶然」という言葉を使うと、途端に怪しい響きになるのは何故だろうか。
「藤はいいよね。なんて言ったって花が綺麗だ。林業家には嫌われがちだけど、毎年、藤の咲く春を楽しみにしている人は多いんじゃないかな。ちなみにだけど、藤の花言葉は『歓迎』、『優しさ』、『決して離れない』、『恋に酔う』だ。あはは、まあそんなわけで、僕は君を『歓迎』するよ」
「…………」
 胡散臭い……。
 創作の中ならまだしも、日常会話で花言葉を使うなんて、きな臭いと言ったらありはしない。
 まあしかし、案外アイスブレイクとしては成功しているのかもしれない。何故なら、まだ会話を始めて三十秒ほどだったが、既に僕は呆気を取られてしまい、緊張感どころかここに来た目的さえも忘れていたのだから。
「で、今日はどうしたの?」
 と、藤枝さんは、そんな僕の思考を見透かしたように、来訪の目的を尋ねてくる。
 爽やかな笑顔で。
「ああ、えっと……」
「うん」
「毎朝起きたときに、何故か涙が出るんです」
 それが、僕の抱えた問題。
 ここに来た理由だった。
「ふむ」
 藤枝さんは神妙な面持ちで言う。
「詳しく聞かせてくれるかな」
「あ、はい。でも、これ以上詳しく話すことはあまりないのですが……」
「あはは、そうかそうか。じゃあ、僕から質問するから、答えられる範囲で教えてくれるかな」
「わかりました」
 答えたくない質問には答えなくてもいいからね、と。
 そう前置きして、藤枝さんは質問を繰り出す。
「毎朝ということは、時々涙が出るのではなくて、毎日それがあって、もちろん今朝も涙が出た、ということかい?」
「そうです」
「それは、いつ頃からかな?」
「はっきりとは覚えていないのですが、一か月ほど前からです」
 ふむふむ。
 藤枝さんはパソコンのキーボードを軽やかに弾きながら、相槌を打つ。
「何故かということは、その涙の理由は君にはわからない、ということかな?」
「はい。感情とは関係なしに勝手に流れてくるので……」
「最近、悲しいことや辛いことはなかった?」
「そうですね……まあ、強いて挙げるとすればお気に入りのマグカップが割れてしまったことぐらいです。それ以外は特に……」
「そうか、原因不明の涙か……」
 それは大変だね、と。
 藤枝さんは言う。
「理由もわからないんじゃあ対処もできないからね。でも、ここに来たのはいい判断だったと思うよ。間違いなく心の問題だろう」
 心の問題。
 やっぱりそうなのか。
 でも――
「でも、僕は、そんな……深刻な悩みを抱えている……というわけでは、ないんですが……」
「あはは。まあまあ、案外気付いていないだけかもしれないよ」
 軽いなあ。
 まあでも、変に深刻な雰囲気を出されるよりかはいいか。実際、それに救われている気もする。
「じゃあ、もう少し訊いてみよう」
「はい」
 僕は姿勢を正した。
「藤滝くんは、今、大学生?」
「はい、今年の四月から」
「おお、一年生か。ちなみにどこの大学?」
「南大です」
「ああ! すぐそこの大学か。実家から通ってるの?」
「……いえ、三月の終わりぐらいから、こっちでひとり暮らしを始めました」
「そうかそうか、それでここを選んだわけだね。うんうん。ひとり暮らしは大変かい?」
「初めてだったので、最初の一週間ぐらいは大変でしたが、すぐに慣れました」
 ふむふむ、と。
 頷きながら、藤江さんはパソコンに向かう。
「一か月ぐらいか……」
「はい?」
「ああ、いや。質問を続けよう」
 ん?
 僕は首を傾げるが、藤枝さんは気にしない。
「大学は楽しいかい?」
「まあ、ほどほどに」
「そうかそうか。じゃあ、何かサークルとかは入った?」
「いえ、入ってないです」
「あら。友達とか作る大変じゃない?」
「まあ、たしかに……」
 学科内ならともかく、他学科や他学部の友達を作るとなると、それはたしかに大変かもしれない。
「恋人はいるかい?」
「いや、いないです」
「そうかそうか。そうだよねえ」
 ん?
 そうだよねえ?
 それはどういう意味だ?
 サークルや部活に入ってないと交流の機会が少ないから、そりゃあ恋人ができなくてもしょうがないよねえ――という意味か?
 それとも、君みたいなやつには恋人なんてできないよねえ――という意味か? 
 前者だよな?
 精神科医が患者の精神にダメージを与えてくるはずがないもんな。
 うん。
「じゃあ、好きな人はいるかい?」
「は?」
 好きな人?
「ん? 好きな人はいるかって訊いただけだよ」
「そ、それは……症状に関係があるんですか……?」
 怪しむ気持ちを隠し切れずにそう訊き返すと、藤枝さんは大袈裟に肩を竦める。
「さあ? 関係あるかもしれないし、無いかもしれない。わかんないね。あはは」
 あはは、って……。
 うーん。
 深く考えるだけ無駄な気がしてきた……。
「答えたくなかったら、言いたくないでいいからね」
「いや、答えたくないというわけではないのですが……」
「というと?」
「……わからないのです」
「ふむ。何がわからないのかな?」
 言ってごらん、と。
 藤枝さんは穏やかに促す。
 僕は、質問の答えにはならない答えを言った。
「人を好きになるというのがどういうものなのか、わからないのです」
 ふむふむ。
 藤枝さんは神妙に相槌を打つ。
「もしかしたら誰かを好きになったことがあるのかもしれないし、今も誰かを好きでいるのかもしれないけれど……好きというのがどういうものなのかわからないから、好きな人がいるのかいないのか、わからないです」
 うんうん、と。
 藤枝さんは得心が言ったというように深く頷き、キーボードの小気味良い音を奏でる。
 今ので何かわかったのだろうか。
 先の問答が僕の抱えた問題に関係しているとは到底思えないのだけれど……。
 まあ、いくら胡散臭い身なりをしているとはいえ、相手はプロだからな。僕にはわからなくても、彼にはわかるのかもしれないな。
「うん、やっぱり童貞だったか」
「待ってください先生。それは絶対関係ないですよね?」
 というか、お願いだから無関係であってほしい。
 そんな理由で毎朝涙を流しているとか悲しすぎる。
「あはは、冗談だよ冗談。世田谷ジョークさ」
「そんな文化は聞いたことありません。世田谷人に失礼です」
「あれえ、そうなの? 僕の周りではよく聞くんだけど……まあ、世田谷は広いからねえ」
「それはまあ、そうですけれど……」
「いやあ、だって、藤滝くんはとても男子大学生とは思えないほど、童顔で可愛い見た目をしてるからさあ」
「それコンプレックスなんでやめてください!」
「あはははは。僕は、藤滝くんがどっちを先に卒業するのかとても興味があるよ」
 絶句。
 あまりにも酷い。
 長机を挟んだ向こう側には、他人のコンプレックスをけたけたと笑う精神科医。僕はこれが終わったら、ありとあらゆる罵詈雑言を並べた最低評価のレビューを投稿してやると心に誓った。
「ああ、そういえば」
 藤枝さんは、この話はもうおしまいだと言わんばかりに、ドラマチックに――悪く言えば、かなりわざとらしく話題を変えて、こう続けた。
「今日は母の日だけど、お母さんに感謝の言葉は伝えたかい?」
「…………」
 僕は、すぐには答えられなかった。
 それは、突飛な質問に驚いたというわけではなかった。
「……いえ」
「ああ、そうなの。もしかしてお母さんと仲が悪かった?」
「いや……」
「ん? どうしたんだい?」
 爽やかな笑顔を浮かべた医師は、僕に尋ねる。
「何か問題でもあるのかい?」
「…………」
 とても『言いたくない』と言える雰囲気ではなかった。

「僕には、母がいません」

 そう。
 僕には、母と呼べる存在がいないのだ。
「そうか。それは悪いことを訊いたね」
 と、藤枝さんは白々しくそう言って――
「だけど、もう少し詳しく聞かせてくれるかな?」
 と、そう迫ってきた。
 黙秘する理由は、なかった。
「もともとは母子家庭だったのですが、僕が幼い頃に、母は亡くなったらしいです」
「らしい?」
「はい。僕がまだ一歳になる前だったそうです。だから、僕には母の記憶はありません」
「そうか。それはお気の毒に……」
 藤枝さんは、僕の境遇を憂うような素振りを見せて、質問を続ける。
「それでその後、君はどうなったんだい?」
「身寄りのなかった僕は、児童養護施設に引き取られて、そこで育ちました」
「なるほど。そして進学を機にそこを出て、今に至る、ということかな?」
「……そうです」
 という話である。
 ありふれた話というわけではないが、特別珍しいかと言われれば、そうではないと言える、そんな話。
「そうかそうか」
 ありがとう。よく話してくれたね。
 罪を自白した幼い子供を報うようにそう言って――
 おちゃらけた格好の医師は、冗談みたいに真面目な表情を浮かべて、こう言った。
「愛欠乏症だね」
「……はい?」
 アイケツボウショウ?
「えっと……『アイ』って、あの『愛』ですか……?」
「そう。あの『愛』だ」
「『青は愛より出でて僕は君だけを離さない』の『愛』ですか?」
 それだと赤色ができそうだけど、と。
 藤枝さんは突っ込む。
「そう。Loveの『(あい)』だよ。Blueという意味の『(あい)』でもなければ、ブルーな気持ちという意味の『(あい)』でもない」
「……欠乏症ってことは、足りていないってことですか?」
「まあ、平たく言うとそうだね」
「平たく言うと……」
 じゃあ、平たく言わなかったらどうなのか気になるところではあるが、僕は自分の思うところを伝える。
「でも、そんな自覚はないのですが……」
「うんうん、それも無理はないよ。症状と呼ぶべきなのかは甚だ疑問だけれど、まあそれは置いといて――自覚症状が無いのはよくあることだ。あるあると言ってもいい」
 それはもう歌いたくなっちゃうぐらいにね。
 と、戯けてみせる藤枝さん。
「愛が有ることも、逆に愛が無いことも、当人にはなかなか気付けないものだ。愛とはそういうものなんだよ」
「は、はあ……」
 相槌を打ってみるが、この医者が何を言っているのか、僕にはよくわからない。
 愛が、ない?
 愛がないって、なんだ?
 僕が受けてきた愛が足りないということなのか?
 それとも、僕から他者へ向けられた愛が足りないということなのか?
 さっぱりわからない。
 いや、そもそも、僕の抱えた問題となんの関係が――
「とにかく」
 藤枝さんは、きっぱりとした口調でそう言って、僕のごちゃごちゃとした思案を一蹴する。
「薬を出すから、夜寝る前に飲んでみてよ」
「えっ、薬?」
 予想外の言葉に、思わず声が裏返る。
「うん。もしかして、錠剤を飲むのは苦手だったかな?」
「あっ、いや、そうではなくて……」
「もし苦手だったら、服薬ゼリーを使うといいよ。一錠が結構大きくて、慣れない人は飲み込むのに苦労するからね」
「わ、わかりました……」
「それと――」
 藤枝さんは、にこやかな表情を浮かべて言った。
「帰りにカーネーションでも買っていったらどうかな? あれは日持ちもいいし、なんて言ったって、綺麗だからね」
 心も幾分か休まるだろう、と付け加えて、藤枝さんは立ち上がる。
「えっ、いや、ちょっ、待っ――」
「さあ、これで診察はおしまいだ。ほらほら、荷物を持って。これ以上は延長料金が必要だよ」
「そ、そんな、まるで『お金を払ってまで藤枝さんに会いに来てる』みたいな言い方しないでください!」
「まあまあ、実際そのようなもんだろう? はい、じゃあ、お大事にね」
 そうして、爽やかな挨拶と共に、僕は診察室を追い出されたのだった。
 その後、頭の整理がつかないまま会計と処方箋の受け取りを済ませて、同じビルの一階に入っている調剤薬局へと向かった。
 受付で処方箋を渡し、数分待った後に再び受付に呼ばれる。薬剤師に処方薬の簡単な説明を受けて、薬を受け取る。その際に、藤枝さんに言われたものと同じ忠告をされた。
 大きくて飲み込むのが大変だから気をつけろ、と。
 薬剤師から渡されたそれは、たしかに飲み込むには大変そうな大きさだった。だが、それよりも、僕はその異様な見た目に呆気を取られてしまった。
 包装シートにパッキングされた、薄く桃色を帯びるハート型の錠剤。
 めっちゃ胡散臭い……。
 これが駄菓子屋に置いてあったら、遠足御用達のお菓子に見えるだろうし、ディスカウントストアに置いてあったら、大人向けのジョークグッズに見えるだろう。
 とにかく、ふざけた見た目だった。
 僕は藪医者にかかってしまったのだろうか。
 そして、現在進行形で薬剤師ぐるみで騙されているのだろうか。
 そんな猜疑心に苛まれながらも流されるままに会計を済ませ、結局、何もわからないどころか、問題をもうひとつ抱えてビルを出たのであった。
「はあ……なんだったんだ……」
 えっと、なんだっけ。『カリオフィパム』だっけ?
 やたらと脅されるから、飲むの怖くなってきた。というか、飲み込むのが大変だってわかってるなら、一錠を小さくして、一回二錠とかにすればいいような気もするのだが……。
 まあ、ちゃんとした理由があるんだろうけれども。
 うーん。
 ここに来たことでむしろ僕のメンタルヘルスが害された気がするけど、どうか僕の気の所為であってほしい。
 スマホを確認すると、現在の時刻は十二時二十分。なんだかんだで一時間以上もここにいたようだ。
「はあ」
 なんとも言い難い微妙な気持ちをぶら下げて、僕は自宅へと歩き出した。
 商店街の小さな花屋は、相変わらず客でごった返していて、レジのお姉さんは息も継げないような忙しさで絶え間なく客をさばいている。藤枝さんに勧められたこともあって、カーネーションを一輪だけ買っていこうかと悩んでいたが、生憎、今の僕は、あの人ごみの中に入っていけるような気分ではなかった。
 だから、まっすぐ家へと帰った。
 自宅であるアパートの一室に戻った僕は、溜まっていた衣服を洗濯したり、部屋の掃除をしたり、無意味に長く湯船に浸かったり、と。これと言って特徴のない日曜日の午後を過ごし、いつもより早く就寝の準備に入った。
 寝る前にすることがひとつ。
 紙袋から包装シートを取り出して、ぱちりと、錠剤をひとつ押し出す。掌に載せてみて、改めてわかるその大きさ。
 いや、でっか。
 猫の額ぐらいあるじゃん。
 いや、本来は小さいっていう意味だけど……。
 やっぱり、見栄なんか張らないで服薬ゼリーを買ってくればよかった……。
「うう…………」
 よし、覚悟を決めよう。
 僕は大きめのコップになみなみと水を注いで、深く息を吐きだす。そして、口に放り込んだ錠剤を一気に水で流し込んだ。
 どうやら、過剰な心配だったようで、それは難なく喉を通り過ぎた。けれど、なんとなく喉の奥に引っかかっているような、もやもやとした不快感が残って――もう一杯、水を流し込んでからベッドに入った。
 今日は色々あって疲れていたのだろうか。心なしか、いつもより寝つきが良かった。

 ふと、目を開けると、僕はリビングのテーブルについていた。僕のより長い脚のついた椅子に腰を掛けて、キッチンの方を眺めている。
 見覚えのない風景。
 けれど、僕はなんの疑いもなくそれを受け入れていた。
 不意に、開いていたらしいキッチンの小さな窓から風が吹き込み、そこにかけられたカーテンがふわりとなびく。
 次の瞬間――先程まで誰もいなかったキッチンに女性が立っていた。
 僕に背を向けて、コンロの前に立つ女性。

 母だった。

 見覚えのない後ろ姿。見覚えのないエプロン。見覚えのない仕草。
 僕は自分の母のことをほとんど知らない。写真で見たことはあるけれど、その顔だってうろ覚えだ。けれど、今、僕が見ている女性は紛れもなく母だった。
 母という存在だった。
 そして、僕はなんの疑いもなくそれを受け入れていた。
 何かを終えたらしい母は、こちらへ振り返り近づいてくる。僕は母の顔が見たいのに、僕の視線は母が手にしている物に釘付けで、動かなかった。
 母は、それをことりと僕の目の前に置く。
 ホットケーキだ。
 小麦色のまん丸。
 それはまるで、満月のようなホットケーキだった。
 僕は、母を見上げて訊いた。
「いいの?」
「ええ、いいのよ」
 母は穏やかな表情を浮かべて、そう言った。僕には母の声は聞こえなかったけれど、確かにそう言っていた。
 それに、僕が見上げているその顔は、まるで薄雲がかかったようにぼやけていて、霞んでいて、輪郭さえも曖昧だったけれど、確かに母は柔らかい笑みをたたえていた。
 そっか、いいんだ。
 僕はホットケーキが置いてある手元に視線を落とす。
 すると僕は、母の膝の上に座っていた。
 ソファに腰を掛ける母の膝の上で、母の胸に背中を預けるようにして座っていた。
 顔は見えない。
 もしかしたら、見えたとしてもわからないかもしれない。
 記憶にはない母の匂い。
 記憶にはない母の温もり。
 けれど、僕を包むその人は確かに母だった。
 僕のお母さんだった。

 目を覚ますと、僕はいつもの部屋の中にいた。
 いや、それは当たり前か。昨日の夜に、ここで眠りについたのだから当然だ。
 しかし、それでも僕は、上体を起こして周囲を見渡さないではいられなかった。確認せずには――探さずにはいられなかった。けれど、やっぱり僕はいつもと同じ部屋で、いつもと同じベッドの上にひとりでいた。
 そして、僕は確信した。
 やはり彼は藪医者だった。
「ちっとも良くならないじゃないか……」
 僕の両の眼は、また涙を零していた。
 ぽたぽたと、まるで点滴のように。
 止め処なく水滴が零れ落ちる。
 結局、僕の抱えた問題は、改善するどころかむしろ悪化していた。
 いつもならすぐに止むはずのそれは、僕の意思に反して滔々と流れ続ける。
 拭っても拭っても、涙が頬を伝う。
 それに、酷く胸が苦しかった。
 いつもの無感情な涙ではない。
 僕は、はっきりと悲しかった。
 はっきりと。
 そうか――

 僕は寂しかったのか。

 そっか。
 そんなことで僕は毎日涙を流していたのか。
 十八歳にもなって、そんな理由で。
 そんなの、今に始まったことじゃないのに。
 ああ、情けない。
 実に。
 実に実に。
 情けないなあ。
「うっ……うぅうう……うわぁあああ――」
 気が付けば、僕は泣き喚いていた。
 飲み込み切れない感情に耐え切れず溢れてしまったのか、今まで溜め込んできた分を纏めて返済しようとしているのか、それとも、幼稚な自分が情けなくてなのか、いまいちわからない。
 自分の気持ちがわからないなんて、おかしな話だけれど。
「う、うぅうう……ぐすっ、う、うわぁあああん」
 けれど、とにかく僕は――
 まるで、産声をあげるように。
 みっともなく大声をあげて、
「うわぁあああああああん、う、あ、あああ……わぁああああ――」
 泣いていた。

 どれくらいの時間、泣いていたのだろう。
 やっと落ち着いて、机の上の時計を確認すると、現在の時刻は九時五十分。
 月曜日の講義は午後だけだから、二度寝もできてしまうが、流石にもう眠気は残っていないし、前回の食事からそれなりに時間が空いているからか、とても空腹を感じる。
 ふと、夢に出てきたホットケーキを思い出す。
 綺麗な焼き目のついた小麦色のまん丸。
「美味しそうだったなあ……」
 うん。
 朝食兼昼食はホットケーキにしようかな。夢の中じゃあ食べられなかったし。
 まあ、僕があんなに上手に焼けるとは思えないけれど。
 よし、そうと決まれば、まずはホットケーキミックスを買ってこなきゃだな。
 僕は冷たい水で顔を洗って、寝間着のまま、財布だけを持って玄関に立つ。瞼は赤く腫れ上がっていて、姿見に映る僕はみっともないのひと言だったけれど、まあよしとしよう。
 そうだ。ついでにカーネーションでも買ってこよう。少し遠回りにはなるけど、講義までは時間がある。それに、昨日からは一変、閑散とした店内に、あのお姉さんも寂しく思っているかもしれないし。
 一日遅れにはなるけれど、別に感謝を伝える日なんていつだって構わないだろう。
 僕に限っては、お日柄なんて関係ないのだから。
 よし、それじゃあ――
「いってきます」
 晴れ上がった空を望んで、僕はドアを開けた。


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 さて。
 そんなことを考えているうちに、目的地である小さなビルに到着する。
 ビルの三階に入っている心療内科――『誠心誠意まごころクリニック』
 そこが、僕のお訪ねだ。
 しかしまあ、なんというか、絶妙に胡散臭いネーミングである。誠実さを謳うがあまり、逆に不誠実っぽく見える、みたいな。そんな感じがする。
 だが、レビューを見た限り、このクリニックの評判はかなり良かった。自宅から近いこともあってこのクリニック決めたが、さて、どうだろうか。
 現在の時刻は十一時。予約した時間まではまだ三十分もあったが、外で待つのも変なので、中へと入った。
 初診時の受付を済ませて、待合室のソファに座る。手近な本棚を物色しながら診察への緊張を誤魔化していると、思いの外早く名前が呼ばれた。
「藤滝さん、どうぞ」
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 診察室の前に立って深く息を吐き出し、ドアをノックする。
「失礼します」
 すると、爽やかな男性の声が返ってきた。
「どうぞ」
 意を決してドアを開けると、そこには――派手な柄シャツの上に白衣を羽織り、薄紫の色つきレンズの眼鏡を掛けた、壮年の男性がいた。
「…………」
 ヤクザの事務所に来たのかと思った。
 律儀に胡散臭い。
 誠実に不誠実。
 真っ直ぐに歪んでいる。
 そんな感じの風貌だった。
 それを目にした僕は、ここに来たことを既に後悔していた。
「やあ、こんにちは。そこの椅子にかけて」
 爽やかな胡散臭い笑顔を浮かべて、おちゃらけた格好の医師は言う。
「はじめまして。えーっと、君は|藤滝《ふじたき》|春陽《はるひ》くんというのか。うん、素敵な名前だね。『藤滝』という珍しい苗字もそうだけど『春陽』という名で締めているのがまたいいね。名付け親のセンスが輝いているよ」
「はあ……」
「僕の名前は|藤枝《ふじえ》――『藤の枝』と書いて藤枝。あはは、偶然にも『藤』繋がりだね」
 と、藤枝さんは嬉しそうに言う。
 本当に偶然なんだろうけれど、この人が「偶然」という言葉を使うと、途端に怪しい響きになるのは何故だろうか。
「藤はいいよね。なんて言ったって花が綺麗だ。林業家には嫌われがちだけど、毎年、藤の咲く春を楽しみにしている人は多いんじゃないかな。ちなみにだけど、藤の花言葉は『歓迎』、『優しさ』、『決して離れない』、『恋に酔う』だ。あはは、まあそんなわけで、僕は君を『歓迎』するよ」
「…………」
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 まあしかし、案外アイスブレイクとしては成功しているのかもしれない。何故なら、まだ会話を始めて三十秒ほどだったが、既に僕は呆気を取られてしまい、緊張感どころかここに来た目的さえも忘れていたのだから。
「で、今日はどうしたの?」
 と、藤枝さんは、そんな僕の思考を見透かしたように、来訪の目的を尋ねてくる。
 爽やかな笑顔で。
「ああ、えっと……」
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 それが、僕の抱えた問題。
 ここに来た理由だった。
「ふむ」
 藤枝さんは神妙な面持ちで言う。
「詳しく聞かせてくれるかな」
「あ、はい。でも、これ以上詳しく話すことはあまりないのですが……」
「あはは、そうかそうか。じゃあ、僕から質問するから、答えられる範囲で教えてくれるかな」
「わかりました」
 答えたくない質問には答えなくてもいいからね、と。
 そう前置きして、藤枝さんは質問を繰り出す。
「毎朝ということは、時々涙が出るのではなくて、毎日それがあって、もちろん今朝も涙が出た、ということかい?」
「そうです」
「それは、いつ頃からかな?」
「はっきりとは覚えていないのですが、一か月ほど前からです」
 ふむふむ。
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「何故かということは、その涙の理由は君にはわからない、ということかな?」
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 藤枝さんは言う。
「理由もわからないんじゃあ対処もできないからね。でも、ここに来たのはいい判断だったと思うよ。間違いなく心の問題だろう」
 心の問題。
 やっぱりそうなのか。
 でも――
「でも、僕は、そんな……深刻な悩みを抱えている……というわけでは、ないんですが……」
「あはは。まあまあ、案外気付いていないだけかもしれないよ」
 軽いなあ。
 まあでも、変に深刻な雰囲気を出されるよりかはいいか。実際、それに救われている気もする。
「じゃあ、もう少し訊いてみよう」
「はい」
 僕は姿勢を正した。
「藤滝くんは、今、大学生?」
「はい、今年の四月から」
「おお、一年生か。ちなみにどこの大学?」
「南大です」
「ああ! すぐそこの大学か。実家から通ってるの?」
「……いえ、三月の終わりぐらいから、こっちでひとり暮らしを始めました」
「そうかそうか、それでここを選んだわけだね。うんうん。ひとり暮らしは大変かい?」
「初めてだったので、最初の一週間ぐらいは大変でしたが、すぐに慣れました」
 ふむふむ、と。
 頷きながら、藤江さんはパソコンに向かう。
「一か月ぐらいか……」
「はい?」
「ああ、いや。質問を続けよう」
 ん?
 僕は首を傾げるが、藤枝さんは気にしない。
「大学は楽しいかい?」
「まあ、ほどほどに」
「そうかそうか。じゃあ、何かサークルとかは入った?」
「いえ、入ってないです」
「あら。友達とか作る大変じゃない?」
「まあ、たしかに……」
 学科内ならともかく、他学科や他学部の友達を作るとなると、それはたしかに大変かもしれない。
「恋人はいるかい?」
「いや、いないです」
「そうかそうか。そうだよねえ」
 ん?
 そうだよねえ?
 それはどういう意味だ?
 サークルや部活に入ってないと交流の機会が少ないから、そりゃあ恋人ができなくてもしょうがないよねえ――という意味か?
 それとも、君みたいなやつには恋人なんてできないよねえ――という意味か? 
 前者だよな?
 精神科医が患者の精神にダメージを与えてくるはずがないもんな。
 うん。
「じゃあ、好きな人はいるかい?」
「は?」
 好きな人?
「ん? 好きな人はいるかって訊いただけだよ」
「そ、それは……症状に関係があるんですか……?」
 怪しむ気持ちを隠し切れずにそう訊き返すと、藤枝さんは大袈裟に肩を竦める。
「さあ? 関係あるかもしれないし、無いかもしれない。わかんないね。あはは」
 あはは、って……。
 うーん。
 深く考えるだけ無駄な気がしてきた……。
「答えたくなかったら、言いたくないでいいからね」
「いや、答えたくないというわけではないのですが……」
「というと?」
「……わからないのです」
「ふむ。何がわからないのかな?」
 言ってごらん、と。
 藤枝さんは穏やかに促す。
 僕は、質問の答えにはならない答えを言った。
「人を好きになるというのがどういうものなのか、わからないのです」
 ふむふむ。
 藤枝さんは神妙に相槌を打つ。
「もしかしたら誰かを好きになったことがあるのかもしれないし、今も誰かを好きでいるのかもしれないけれど……好きというのがどういうものなのかわからないから、好きな人がいるのかいないのか、わからないです」
 うんうん、と。
 藤枝さんは得心が言ったというように深く頷き、キーボードの小気味良い音を奏でる。
 今ので何かわかったのだろうか。
 先の問答が僕の抱えた問題に関係しているとは到底思えないのだけれど……。
 まあ、いくら胡散臭い身なりをしているとはいえ、相手はプロだからな。僕にはわからなくても、彼にはわかるのかもしれないな。
「うん、やっぱり童貞だったか」
「待ってください先生。それは絶対関係ないですよね?」
 というか、お願いだから無関係であってほしい。
 そんな理由で毎朝涙を流しているとか悲しすぎる。
「あはは、冗談だよ冗談。世田谷ジョークさ」
「そんな文化は聞いたことありません。世田谷人に失礼です」
「あれえ、そうなの? 僕の周りではよく聞くんだけど……まあ、世田谷は広いからねえ」
「それはまあ、そうですけれど……」
「いやあ、だって、藤滝くんはとても男子大学生とは思えないほど、童顔で可愛い見た目をしてるからさあ」
「それコンプレックスなんでやめてください!」
「あはははは。僕は、藤滝くんがどっちを先に卒業するのかとても興味があるよ」
 絶句。
 あまりにも酷い。
 長机を挟んだ向こう側には、他人のコンプレックスをけたけたと笑う精神科医。僕はこれが終わったら、ありとあらゆる罵詈雑言を並べた最低評価のレビューを投稿してやると心に誓った。
「ああ、そういえば」
 藤枝さんは、この話はもうおしまいだと言わんばかりに、ドラマチックに――悪く言えば、かなりわざとらしく話題を変えて、こう続けた。
「今日は母の日だけど、お母さんに感謝の言葉は伝えたかい?」
「…………」
 僕は、すぐには答えられなかった。
 それは、突飛な質問に驚いたというわけではなかった。
「……いえ」
「ああ、そうなの。もしかしてお母さんと仲が悪かった?」
「いや……」
「ん? どうしたんだい?」
 爽やかな笑顔を浮かべた医師は、僕に尋ねる。
「何か問題でもあるのかい?」
「…………」
 とても『言いたくない』と言える雰囲気ではなかった。
「僕には、母がいません」
 そう。
 僕には、母と呼べる存在がいないのだ。
「そうか。それは悪いことを訊いたね」
 と、藤枝さんは白々しくそう言って――
「だけど、もう少し詳しく聞かせてくれるかな?」
 と、そう迫ってきた。
 黙秘する理由は、なかった。
「もともとは母子家庭だったのですが、僕が幼い頃に、母は亡くなったらしいです」
「らしい?」
「はい。僕がまだ一歳になる前だったそうです。だから、僕には母の記憶はありません」
「そうか。それはお気の毒に……」
 藤枝さんは、僕の境遇を憂うような素振りを見せて、質問を続ける。
「それでその後、君はどうなったんだい?」
「身寄りのなかった僕は、児童養護施設に引き取られて、そこで育ちました」
「なるほど。そして進学を機にそこを出て、今に至る、ということかな?」
「……そうです」
 という話である。
 ありふれた話というわけではないが、特別珍しいかと言われれば、そうではないと言える、そんな話。
「そうかそうか」
 ありがとう。よく話してくれたね。
 罪を自白した幼い子供を報うようにそう言って――
 おちゃらけた格好の医師は、冗談みたいに真面目な表情を浮かべて、こう言った。
「愛欠乏症だね」
「……はい?」
 アイケツボウショウ?
「えっと……『アイ』って、あの『愛』ですか……?」
「そう。あの『愛』だ」
「『青は愛より出でて僕は君だけを離さない』の『愛』ですか?」
 それだと赤色ができそうだけど、と。
 藤枝さんは突っ込む。
「そう。Loveの『|愛《あい》』だよ。Blueという意味の『|藍《あい》』でもなければ、ブルーな気持ちという意味の『|哀《あい》』でもない」
「……欠乏症ってことは、足りていないってことですか?」
「まあ、平たく言うとそうだね」
「平たく言うと……」
 じゃあ、平たく言わなかったらどうなのか気になるところではあるが、僕は自分の思うところを伝える。
「でも、そんな自覚はないのですが……」
「うんうん、それも無理はないよ。症状と呼ぶべきなのかは甚だ疑問だけれど、まあそれは置いといて――自覚症状が無いのはよくあることだ。あるあると言ってもいい」
 それはもう歌いたくなっちゃうぐらいにね。
 と、戯けてみせる藤枝さん。
「愛が有ることも、逆に愛が無いことも、当人にはなかなか気付けないものだ。愛とはそういうものなんだよ」
「は、はあ……」
 相槌を打ってみるが、この医者が何を言っているのか、僕にはよくわからない。
 愛が、ない?
 愛がないって、なんだ?
 僕が受けてきた愛が足りないということなのか?
 それとも、僕から他者へ向けられた愛が足りないということなのか?
 さっぱりわからない。
 いや、そもそも、僕の抱えた問題となんの関係が――
「とにかく」
 藤枝さんは、きっぱりとした口調でそう言って、僕のごちゃごちゃとした思案を一蹴する。
「薬を出すから、夜寝る前に飲んでみてよ」
「えっ、薬?」
 予想外の言葉に、思わず声が裏返る。
「うん。もしかして、錠剤を飲むのは苦手だったかな?」
「あっ、いや、そうではなくて……」
「もし苦手だったら、服薬ゼリーを使うといいよ。一錠が結構大きくて、慣れない人は飲み込むのに苦労するからね」
「わ、わかりました……」
「それと――」
 藤枝さんは、にこやかな表情を浮かべて言った。
「帰りにカーネーションでも買っていったらどうかな? あれは日持ちもいいし、なんて言ったって、綺麗だからね」
 心も幾分か休まるだろう、と付け加えて、藤枝さんは立ち上がる。
「えっ、いや、ちょっ、待っ――」
「さあ、これで診察はおしまいだ。ほらほら、荷物を持って。これ以上は延長料金が必要だよ」
「そ、そんな、まるで『お金を払ってまで藤枝さんに会いに来てる』みたいな言い方しないでください!」
「まあまあ、実際そのようなもんだろう? はい、じゃあ、お大事にね」
 そうして、爽やかな挨拶と共に、僕は診察室を追い出されたのだった。
 その後、頭の整理がつかないまま会計と処方箋の受け取りを済ませて、同じビルの一階に入っている調剤薬局へと向かった。
 受付で処方箋を渡し、数分待った後に再び受付に呼ばれる。薬剤師に処方薬の簡単な説明を受けて、薬を受け取る。その際に、藤枝さんに言われたものと同じ忠告をされた。
 大きくて飲み込むのが大変だから気をつけろ、と。
 薬剤師から渡されたそれは、たしかに飲み込むには大変そうな大きさだった。だが、それよりも、僕はその異様な見た目に呆気を取られてしまった。
 包装シートにパッキングされた、薄く桃色を帯びるハート型の錠剤。
 めっちゃ胡散臭い……。
 これが駄菓子屋に置いてあったら、遠足御用達のお菓子に見えるだろうし、ディスカウントストアに置いてあったら、大人向けのジョークグッズに見えるだろう。
 とにかく、ふざけた見た目だった。
 僕は藪医者にかかってしまったのだろうか。
 そして、現在進行形で薬剤師ぐるみで騙されているのだろうか。
 そんな猜疑心に苛まれながらも流されるままに会計を済ませ、結局、何もわからないどころか、問題をもうひとつ抱えてビルを出たのであった。
「はあ……なんだったんだ……」
 えっと、なんだっけ。『カリオフィパム』だっけ?
 やたらと脅されるから、飲むの怖くなってきた。というか、飲み込むのが大変だってわかってるなら、一錠を小さくして、一回二錠とかにすればいいような気もするのだが……。
 まあ、ちゃんとした理由があるんだろうけれども。
 うーん。
 ここに来たことでむしろ僕のメンタルヘルスが害された気がするけど、どうか僕の気の所為であってほしい。
 スマホを確認すると、現在の時刻は十二時二十分。なんだかんだで一時間以上もここにいたようだ。
「はあ」
 なんとも言い難い微妙な気持ちをぶら下げて、僕は自宅へと歩き出した。
 商店街の小さな花屋は、相変わらず客でごった返していて、レジのお姉さんは息も継げないような忙しさで絶え間なく客をさばいている。藤枝さんに勧められたこともあって、カーネーションを一輪だけ買っていこうかと悩んでいたが、生憎、今の僕は、あの人ごみの中に入っていけるような気分ではなかった。
 だから、まっすぐ家へと帰った。
 自宅であるアパートの一室に戻った僕は、溜まっていた衣服を洗濯したり、部屋の掃除をしたり、無意味に長く湯船に浸かったり、と。これと言って特徴のない日曜日の午後を過ごし、いつもより早く就寝の準備に入った。
 寝る前にすることがひとつ。
 紙袋から包装シートを取り出して、ぱちりと、錠剤をひとつ押し出す。掌に載せてみて、改めてわかるその大きさ。
 いや、でっか。
 猫の額ぐらいあるじゃん。
 いや、本来は小さいっていう意味だけど……。
 やっぱり、見栄なんか張らないで服薬ゼリーを買ってくればよかった……。
「うう…………」
 よし、覚悟を決めよう。
 僕は大きめのコップになみなみと水を注いで、深く息を吐きだす。そして、口に放り込んだ錠剤を一気に水で流し込んだ。
 どうやら、過剰な心配だったようで、それは難なく喉を通り過ぎた。けれど、なんとなく喉の奥に引っかかっているような、もやもやとした不快感が残って――もう一杯、水を流し込んでからベッドに入った。
 今日は色々あって疲れていたのだろうか。心なしか、いつもより寝つきが良かった。
 ふと、目を開けると、僕はリビングのテーブルについていた。僕のより長い脚のついた椅子に腰を掛けて、キッチンの方を眺めている。
 見覚えのない風景。
 けれど、僕はなんの疑いもなくそれを受け入れていた。
 不意に、開いていたらしいキッチンの小さな窓から風が吹き込み、そこにかけられたカーテンがふわりとなびく。
 次の瞬間――先程まで誰もいなかったキッチンに女性が立っていた。
 僕に背を向けて、コンロの前に立つ女性。
 母だった。
 見覚えのない後ろ姿。見覚えのないエプロン。見覚えのない仕草。
 僕は自分の母のことをほとんど知らない。写真で見たことはあるけれど、その顔だってうろ覚えだ。けれど、今、僕が見ている女性は紛れもなく母だった。
 母という存在だった。
 そして、僕はなんの疑いもなくそれを受け入れていた。
 何かを終えたらしい母は、こちらへ振り返り近づいてくる。僕は母の顔が見たいのに、僕の視線は母が手にしている物に釘付けで、動かなかった。
 母は、それをことりと僕の目の前に置く。
 ホットケーキだ。
 小麦色のまん丸。
 それはまるで、満月のようなホットケーキだった。
 僕は、母を見上げて訊いた。
「いいの?」
「ええ、いいのよ」
 母は穏やかな表情を浮かべて、そう言った。僕には母の声は聞こえなかったけれど、確かにそう言っていた。
 それに、僕が見上げているその顔は、まるで薄雲がかかったようにぼやけていて、霞んでいて、輪郭さえも曖昧だったけれど、確かに母は柔らかい笑みをたたえていた。
 そっか、いいんだ。
 僕はホットケーキが置いてある手元に視線を落とす。
 すると僕は、母の膝の上に座っていた。
 ソファに腰を掛ける母の膝の上で、母の胸に背中を預けるようにして座っていた。
 顔は見えない。
 もしかしたら、見えたとしてもわからないかもしれない。
 記憶にはない母の匂い。
 記憶にはない母の温もり。
 けれど、僕を包むその人は確かに母だった。
 僕のお母さんだった。
 目を覚ますと、僕はいつもの部屋の中にいた。
 いや、それは当たり前か。昨日の夜に、ここで眠りについたのだから当然だ。
 しかし、それでも僕は、上体を起こして周囲を見渡さないではいられなかった。確認せずには――探さずにはいられなかった。けれど、やっぱり僕はいつもと同じ部屋で、いつもと同じベッドの上にひとりでいた。
 そして、僕は確信した。
 やはり彼は藪医者だった。
「ちっとも良くならないじゃないか……」
 僕の両の眼は、また涙を零していた。
 ぽたぽたと、まるで点滴のように。
 止め処なく水滴が零れ落ちる。
 結局、僕の抱えた問題は、改善するどころかむしろ悪化していた。
 いつもならすぐに止むはずのそれは、僕の意思に反して滔々と流れ続ける。
 拭っても拭っても、涙が頬を伝う。
 それに、酷く胸が苦しかった。
 いつもの無感情な涙ではない。
 僕は、はっきりと悲しかった。
 はっきりと。
 そうか――
 僕は寂しかったのか。
 そっか。
 そんなことで僕は毎日涙を流していたのか。
 十八歳にもなって、そんな理由で。
 そんなの、今に始まったことじゃないのに。
 ああ、情けない。
 実に。
 実に実に。
 情けないなあ。
「うっ……うぅうう……うわぁあああ――」
 気が付けば、僕は泣き喚いていた。
 飲み込み切れない感情に耐え切れず溢れてしまったのか、今まで溜め込んできた分を纏めて返済しようとしているのか、それとも、幼稚な自分が情けなくてなのか、いまいちわからない。
 自分の気持ちがわからないなんて、おかしな話だけれど。
「う、うぅうう……ぐすっ、う、うわぁあああん」
 けれど、とにかく僕は――
 まるで、産声をあげるように。
 みっともなく大声をあげて、
「うわぁあああああああん、う、あ、あああ……わぁああああ――」
 泣いていた。
 どれくらいの時間、泣いていたのだろう。
 やっと落ち着いて、机の上の時計を確認すると、現在の時刻は九時五十分。
 月曜日の講義は午後だけだから、二度寝もできてしまうが、流石にもう眠気は残っていないし、前回の食事からそれなりに時間が空いているからか、とても空腹を感じる。
 ふと、夢に出てきたホットケーキを思い出す。
 綺麗な焼き目のついた小麦色のまん丸。
「美味しそうだったなあ……」
 うん。
 朝食兼昼食はホットケーキにしようかな。夢の中じゃあ食べられなかったし。
 まあ、僕があんなに上手に焼けるとは思えないけれど。
 よし、そうと決まれば、まずはホットケーキミックスを買ってこなきゃだな。
 僕は冷たい水で顔を洗って、寝間着のまま、財布だけを持って玄関に立つ。瞼は赤く腫れ上がっていて、姿見に映る僕はみっともないのひと言だったけれど、まあよしとしよう。
 そうだ。ついでにカーネーションでも買ってこよう。少し遠回りにはなるけど、講義までは時間がある。それに、昨日からは一変、閑散とした店内に、あのお姉さんも寂しく思っているかもしれないし。
 一日遅れにはなるけれど、別に感謝を伝える日なんていつだって構わないだろう。
 僕に限っては、お日柄なんて関係ないのだから。
 よし、それじゃあ――
「いってきます」
 晴れ上がった空を望んで、僕はドアを開けた。