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Good, bye……

ー/ー



 翌日。アンジュは、フィリップと待ち合わせた、いつもの海辺に来ていた。しかし、いつまで経っても彼は現れない。後に来るはずのエレンも、一向に来る気配が無い。
 すっかり秋が深くなった海辺は、どこか寂しげに見える。ひんやりとした冷たい風が吹き抜け、鮮やかに紅く色づいた木の葉を舞い上がらせている。心細い気持ちを抱きしめ、時間が許す限り、ひたすら待ち続けた。
 だが次の日も、そのまた次の日も、フィリップもエレンも、現れない。

 ――どうして……? どうして、来てくれないの……?
 ――何かあったの……? フィリップ……? エレン……?

 二人が来なくなってから一週間が経ち、さすがに心配になったアンジュは、以前、父親の別荘だと教えてもらっていた、フィリップの屋敷を尋ねる事にした。頭上の空は、今にも泣き出しそうな曇天で、灰色の雨雲で覆いつくされている。今の彼女の心境のようだ。
 ようやく、町外れにあるレンガ造りの屋敷に辿り着くと、潰れそうな心を抑えながら、立派な装飾の付いた門の呼び鈴を、勢いよく鳴らした。暫くすると屋敷の扉から、黒地の制服に白いエプロン姿の、厳格な風格のある、メイドらしき女性が出て来た。

「何か、御用ですか?」

 鉄格子の門越しに、冷たく威圧的で口調で彼女は問う。アンジュは怯えた。圧倒され、挫けそうになったが、ありったけの勇気を振り絞り、口を開く。

「あ……あの、フィリップ……フィリップ様に、お会いしたいのですが」
「坊っちゃんは、誰にもお会いにならないと(おっしゃ)っております。どうかお引き取り下さい」

 事務的な口調で、思いがけない言葉を放つメイドに、アンジュは狼狽(うろた)える。

「えっ…… どうしてですか?」
「存じません。お帰り下さい」

 硬い鉄格子を握り締めながら、必死に問うアンジュだったが、メイドの女性は淡々と突き放ち、屋敷の中へ戻って行った。

「待って……待って下さい! フィリップ様と話をさせて下さい……!! お願いします!!」

 精一杯の声を張り上げ、必死に()う。しかし、無情にも屋敷の扉は閉まり、曇天の空からは冷たい雨粒が、パラパラ落ちてきた。

 アンジュの()からも、大粒の水滴が、あとからあとから、零れ出す。暫くの間、呆然と立ち尽くしていたが、雨脚が強くなった頃、濡れた体を引きずるように、ゆっくりと、その場を後にした。
 その一部始終を、フィリップは自分の部屋の窓から見ていた。彼の()からも、一筋の涙が、つたい流れている。

 ――アンジュ。許してくれ。今の僕には、こうするしかできない
 ――だって、言える訳がない。君が孤児院の子だから、もう会えないだなんて……深く傷つけるに決まってる
 ――それなら、いっそのこと酷い奴だと思って、嫌ってもらった方がいい……!!

 ぎゅっ、と唇を噛み締め、フィリップは、拳で壁を思い切り叩き、その場に崩れ落ちた。


 降りしきる雨に打たれながら、アンジュは歩いて来た道を無意識に辿っていた。頭から足の先までびしょ濡れで、顔に付いた水滴が、涙なのか、雨なのかも分からない。『どうして?』という言葉が、茫然自失した脳裏の中を、ずっと駆け巡り続けている。

 ――どうして、会ってくれないの?
 ――どうして、避けるの?
 ――どうして、離れていくの?
 ――『また明日ね』って言って、笑って別れたのに……
 ――私、何かしたの? だから、嫌いになったの……?

 何か理由があるに違いない。そう思わないと、今、この場で泣き崩れそうだ。降りしきる雨の中を無気力に歩いているうち、いつの間にか孤児院に着いていた。自分の部屋に入るなり、すぐさまベッドに倒れこみ、そのまま気を失った。


 翌日。アンジュは風邪をひいて寝込んでしまった。院長にさんざん小言を言われた後、自分で作ったミルクがゆを食べる。あんなに辛い事があったのに、悲しくて悲しくて、心が潰れそうに辛かったのに、朝、ちゃんとお腹はすいていた。
 クルクル、と小さな音を鳴らしながら、ミルクがゆを消化していく胃の辺りをさする。こんな時でも栄養を求めて、生きようとしている自分の体が、アンジュは不思議だった。

 ――何で『食べたい』なんて、思えるんだろう……

 昨日の出来事は、自分の中でまだ消化出来ていない。起こった事を受け入れるには、時間が足りなさ過ぎる。誰を責めればいいのか、何を恨めばいいのかわからなくて、この苦しさの行き場を見つけられずにいた。
 心が痛かった。ものすごく、裂かれるように痛かった。心が悲鳴を上げてるのが判る。でも、治し方は分からない。誰かに避けられて離れていかれたのは、これが初めてじゃなかった。しかし、今回は、最も辛く、苦しい別れだ。

「……どうして?」

 アンジュの()から、また涙が零れ落ち、皿の中に、幾つもの波紋を作った。


 数日後、ようやく風邪が治ったアンジュは、一人でいつもの海辺に来ていた。あんなことがあっても、何故か来ずにはいられなかったのだ。
 フィリップは、ここには二度と来ないだろう、と何となく察していたが、心のどこかで、もしかしたら来てくれるんじゃないか、という淡い期待もしていた。
 そんな諦めと期待の混ざった、複雑な気持ちを抱えながら、遠く虚ろな目をして、眼前に広がる、くすんだ群青色の海を眺める。

 ザ……ン ザザ……ン…………

 寄せては返す波は、アンジュの不安定な心を表しているかのようだ。海を見ていると、フィリップと過ごした日々を思い出す。
 彼のサーフィンの、最高に綺麗なライディング。白波と一体になり、本当に美しくて……素敵だった。
 一緒に食べた、お弁当のサンドイッチの味。物を食べて、初めて心から美味しいと感じた瞬間だった。
 怪我の手当てをしてくれた日……あの時の夕陽は、本当に、本当に綺麗だった……
 落ち込んでたら、優しく励ましてくれた。指切りして交わした、大切な約束。彼の声が、言葉が、笑顔が、頭から離れない。彼に似た人を見かけると、思わず目で追ってしまう。
 笑って、泣いて、楽しかった、大切な時間。なのに、今はその思い出が、とても辛くて、痛い……

 ――フィリップ……フィリップ……フィリップ!!

 何度も、何度も、心の声で彼の名を叫び、呼んだ。比例するように、泣いても泣いても、関を切ってしまったのか、(しずく)は止めどなく溢れてくる。
 彼がいたから、毎日が楽しかった。彼がいたから、嫌な事があっても頑張れた。
 彼がいたから、初めて笑うことが出来た。彼がいたから、初めて人前で泣くことが出来た。
 今まで知らなかった幸せな時間を過ごせた、やっと出来た、大切な友達だったのだ。もし、このまま、彼が離れていったら、自分はどうなるのだろうか……

 ――怖い。怖い。怖くて堪らない。神様は、どうして、こうなるようにしたのですか……?
 ――どうして、こんな目に遭わせるのですか……? 辛すぎます……

 いつもの海、いつもの空、いつもの砂浜……変わらない、見慣れた風景。なのに彼だけがそこにいない……

 ――いつか離れていかれるのなら、別れが来るのなら、こんなに痛いのなら、もう誰とも、心通わせなくていい……!!

 がくり、とアンジュはその場に崩れ落ち――慟哭した。


 一ヶ月後、季節は初冬を迎えていた。相変わらず、フィリップもエレンも、姿を現さなかったが、アンジュは海辺に行くことは止めなかった。
 フィリップとの出来事を、どう受け止めたらいいのかまだ分からなかったのだ。そんな未練がましい自分が嫌だったが、そうするしか出来ないでいる。
 そんな思いを振り切るように、アンジュは孤児院でも、なるべく平静を装っていて、今日は市場に買い物に来ていた。

「こんにちは」
「おっ、いらっしゃい。アンジュちゃん。今日は、じゃがいもが安いよ」

 馴染みの八百屋の主人に声をかけて、野菜を選んでいると、通りすがりの二人組の女性の会話が、背後から聞こえてきた。

「……でね、そのベルモント家の坊っちゃんが……」
「ああ、あの町外れのお屋敷の?」

 『ベルモント家』『町外れのお屋敷』という単語を聞いた瞬間、アンジュは銅像のように硬直した。そんな彼女に、追い討ちをかける言葉が続く。

「そうそう。フィリップ様。素敵だったわよねぇ。幼なじみの富豪のお嬢様と婚約したらしいのよ。えっと、確か、エレンとかいう」

 アンジュは耳を疑った。今、『婚約』って、言った……?

「あら、まさか、政略結婚?」
「そう。で、故郷のフランスに、二人で帰ったみたいよ。まだ若いのにねぇ」

 そう、口々に言いながら、女性達は立ち去って行った。
 じゃがいもを手にしたまま、ついさっき聞いた言葉の数々が信じられず、アンジュは呆然としている。

 ――フィリップが婚約…… 相手はエレン…… 政略結婚……

 そこまで復唱した時、はっ、と気づいた。

 ――もしかして…… 両親に私との関わりを知られて反対されて……それで、急に会わないなんて言ったんじゃ……
 ――でも、恋人じゃないのに…… それなら、そう言ってくれたらいいのに…… どうして……?

「アンジュちゃん? 大丈夫かい?」

 青ざめている彼女に、八百屋の主人が、心配そうに声をかけた。はっ、と我に返って、アンジュは主人を見返す。

「君も坊っちゃんのファンだったのかい? 彼は、この街の女の子のアイドルだったしね」
「でも…… まぁ、しょうがないよね。やっぱり(わし)らとは、住む世界が違うっていうかさ」

 主人の言葉で、また愕然とした。フィリップは身分が違う。しかも、自分は、孤児院の……
 アンジュは、彼が何も言わないまま、突然離れて行った理由を察した。彼と楽しい時間を過ごしているうちに、いつの間にか、自分達を隔てる見えない()の存在を忘れていた……

 ――私を傷つけないように、わざとあんな別れ方をしたんだ…… 本当に……最後の最後まで、優しいんだから……

 真実は、彼女にとって非常に残酷で、気が遠くなる程に辛いものだった。でも、彼が残してくれた優しさのおかげで、幾分か救われていた。
 そんなフィリップの想いに感謝し、アンジュは別れを受け入れる覚悟をした。彼の優しさを、無駄にしたくなかったのだ。心の中に、儚くも美しい思い出をそっ、と残し……改めて、彼を想う。

 ――フィリップ。もう二度と会えないかもしれないけど、せめて、私の中だけで、友達って思わせてもらっていいですか……?
 ――貴方は、私の初めての友達で、初めて好きになった人なの……

 自分にとって大切な人を失うのが、どんなに辛いのかという事を、アンジュは、生まれて初めて痛い程味わっていた。
 これは彼女の人生に訪れる、苦難の始まりに過ぎない。しかし、そんなことは知るはずもなく、ただ、今は、突然やって来た深い悲しみに耐え、受け入れるしかなかった。


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 翌日。アンジュは、フィリップと待ち合わせた、いつもの海辺に来ていた。しかし、いつまで経っても彼は現れない。後に来るはずのエレンも、一向に来る気配が無い。
 すっかり秋が深くなった海辺は、どこか寂しげに見える。ひんやりとした冷たい風が吹き抜け、鮮やかに紅く色づいた木の葉を舞い上がらせている。心細い気持ちを抱きしめ、時間が許す限り、ひたすら待ち続けた。
 だが次の日も、そのまた次の日も、フィリップもエレンも、現れない。
 ――どうして……? どうして、来てくれないの……?
 ――何かあったの……? フィリップ……? エレン……?
 二人が来なくなってから一週間が経ち、さすがに心配になったアンジュは、以前、父親の別荘だと教えてもらっていた、フィリップの屋敷を尋ねる事にした。頭上の空は、今にも泣き出しそうな曇天で、灰色の雨雲で覆いつくされている。今の彼女の心境のようだ。
 ようやく、町外れにあるレンガ造りの屋敷に辿り着くと、潰れそうな心を抑えながら、立派な装飾の付いた門の呼び鈴を、勢いよく鳴らした。暫くすると屋敷の扉から、黒地の制服に白いエプロン姿の、厳格な風格のある、メイドらしき女性が出て来た。
「何か、御用ですか?」
 鉄格子の門越しに、冷たく威圧的で口調で彼女は問う。アンジュは怯えた。圧倒され、挫けそうになったが、ありったけの勇気を振り絞り、口を開く。
「あ……あの、フィリップ……フィリップ様に、お会いしたいのですが」
「坊っちゃんは、誰にもお会いにならないと|仰《おっしゃ》っております。どうかお引き取り下さい」
 事務的な口調で、思いがけない言葉を放つメイドに、アンジュは|狼狽《うろた》える。
「えっ…… どうしてですか?」
「存じません。お帰り下さい」
 硬い鉄格子を握り締めながら、必死に問うアンジュだったが、メイドの女性は淡々と突き放ち、屋敷の中へ戻って行った。
「待って……待って下さい! フィリップ様と話をさせて下さい……!! お願いします!!」
 精一杯の声を張り上げ、必死に|乞《こ》う。しかし、無情にも屋敷の扉は閉まり、曇天の空からは冷たい雨粒が、パラパラ落ちてきた。
 アンジュの|眼《め》からも、大粒の水滴が、あとからあとから、零れ出す。暫くの間、呆然と立ち尽くしていたが、雨脚が強くなった頃、濡れた体を引きずるように、ゆっくりと、その場を後にした。
 その一部始終を、フィリップは自分の部屋の窓から見ていた。彼の|眼《め》からも、一筋の涙が、つたい流れている。
 ――アンジュ。許してくれ。今の僕には、こうするしかできない
 ――だって、言える訳がない。君が孤児院の子だから、もう会えないだなんて……深く傷つけるに決まってる
 ――それなら、いっそのこと酷い奴だと思って、嫌ってもらった方がいい……!!
 ぎゅっ、と唇を噛み締め、フィリップは、拳で壁を思い切り叩き、その場に崩れ落ちた。
 降りしきる雨に打たれながら、アンジュは歩いて来た道を無意識に辿っていた。頭から足の先までびしょ濡れで、顔に付いた水滴が、涙なのか、雨なのかも分からない。『どうして?』という言葉が、茫然自失した脳裏の中を、ずっと駆け巡り続けている。
 ――どうして、会ってくれないの?
 ――どうして、避けるの?
 ――どうして、離れていくの?
 ――『また明日ね』って言って、笑って別れたのに……
 ――私、何かしたの? だから、嫌いになったの……?
 何か理由があるに違いない。そう思わないと、今、この場で泣き崩れそうだ。降りしきる雨の中を無気力に歩いているうち、いつの間にか孤児院に着いていた。自分の部屋に入るなり、すぐさまベッドに倒れこみ、そのまま気を失った。
 翌日。アンジュは風邪をひいて寝込んでしまった。院長にさんざん小言を言われた後、自分で作ったミルクがゆを食べる。あんなに辛い事があったのに、悲しくて悲しくて、心が潰れそうに辛かったのに、朝、ちゃんとお腹はすいていた。
 クルクル、と小さな音を鳴らしながら、ミルクがゆを消化していく胃の辺りをさする。こんな時でも栄養を求めて、生きようとしている自分の体が、アンジュは不思議だった。
 ――何で『食べたい』なんて、思えるんだろう……
 昨日の出来事は、自分の中でまだ消化出来ていない。起こった事を受け入れるには、時間が足りなさ過ぎる。誰を責めればいいのか、何を恨めばいいのかわからなくて、この苦しさの行き場を見つけられずにいた。
 心が痛かった。ものすごく、裂かれるように痛かった。心が悲鳴を上げてるのが判る。でも、治し方は分からない。誰かに避けられて離れていかれたのは、これが初めてじゃなかった。しかし、今回は、最も辛く、苦しい別れだ。
「……どうして?」
 アンジュの|眼《め》から、また涙が零れ落ち、皿の中に、幾つもの波紋を作った。
 数日後、ようやく風邪が治ったアンジュは、一人でいつもの海辺に来ていた。あんなことがあっても、何故か来ずにはいられなかったのだ。
 フィリップは、ここには二度と来ないだろう、と何となく察していたが、心のどこかで、もしかしたら来てくれるんじゃないか、という淡い期待もしていた。
 そんな諦めと期待の混ざった、複雑な気持ちを抱えながら、遠く虚ろな目をして、眼前に広がる、くすんだ群青色の海を眺める。
 ザ……ン ザザ……ン…………
 寄せては返す波は、アンジュの不安定な心を表しているかのようだ。海を見ていると、フィリップと過ごした日々を思い出す。
 彼のサーフィンの、最高に綺麗なライディング。白波と一体になり、本当に美しくて……素敵だった。
 一緒に食べた、お弁当のサンドイッチの味。物を食べて、初めて心から美味しいと感じた瞬間だった。
 怪我の手当てをしてくれた日……あの時の夕陽は、本当に、本当に綺麗だった……
 落ち込んでたら、優しく励ましてくれた。指切りして交わした、大切な約束。彼の声が、言葉が、笑顔が、頭から離れない。彼に似た人を見かけると、思わず目で追ってしまう。
 笑って、泣いて、楽しかった、大切な時間。なのに、今はその思い出が、とても辛くて、痛い……
 ――フィリップ……フィリップ……フィリップ!!
 何度も、何度も、心の声で彼の名を叫び、呼んだ。比例するように、泣いても泣いても、関を切ってしまったのか、|滴《しずく》は止めどなく溢れてくる。
 彼がいたから、毎日が楽しかった。彼がいたから、嫌な事があっても頑張れた。
 彼がいたから、初めて笑うことが出来た。彼がいたから、初めて人前で泣くことが出来た。
 今まで知らなかった幸せな時間を過ごせた、やっと出来た、大切な友達だったのだ。もし、このまま、彼が離れていったら、自分はどうなるのだろうか……
 ――怖い。怖い。怖くて堪らない。神様は、どうして、こうなるようにしたのですか……?
 ――どうして、こんな目に遭わせるのですか……? 辛すぎます……
 いつもの海、いつもの空、いつもの砂浜……変わらない、見慣れた風景。なのに彼だけがそこにいない……
 ――いつか離れていかれるのなら、別れが来るのなら、こんなに痛いのなら、もう誰とも、心通わせなくていい……!!
 がくり、とアンジュはその場に崩れ落ち――慟哭した。
 一ヶ月後、季節は初冬を迎えていた。相変わらず、フィリップもエレンも、姿を現さなかったが、アンジュは海辺に行くことは止めなかった。
 フィリップとの出来事を、どう受け止めたらいいのかまだ分からなかったのだ。そんな未練がましい自分が嫌だったが、そうするしか出来ないでいる。
 そんな思いを振り切るように、アンジュは孤児院でも、なるべく平静を装っていて、今日は市場に買い物に来ていた。
「こんにちは」
「おっ、いらっしゃい。アンジュちゃん。今日は、じゃがいもが安いよ」
 馴染みの八百屋の主人に声をかけて、野菜を選んでいると、通りすがりの二人組の女性の会話が、背後から聞こえてきた。
「……でね、そのベルモント家の坊っちゃんが……」
「ああ、あの町外れのお屋敷の?」
 『ベルモント家』『町外れのお屋敷』という単語を聞いた瞬間、アンジュは銅像のように硬直した。そんな彼女に、追い討ちをかける言葉が続く。
「そうそう。フィリップ様。素敵だったわよねぇ。幼なじみの富豪のお嬢様と婚約したらしいのよ。えっと、確か、エレンとかいう」
 アンジュは耳を疑った。今、『婚約』って、言った……?
「あら、まさか、政略結婚?」
「そう。で、故郷のフランスに、二人で帰ったみたいよ。まだ若いのにねぇ」
 そう、口々に言いながら、女性達は立ち去って行った。
 じゃがいもを手にしたまま、ついさっき聞いた言葉の数々が信じられず、アンジュは呆然としている。
 ――フィリップが婚約…… 相手はエレン…… 政略結婚……
 そこまで復唱した時、はっ、と気づいた。
 ――もしかして…… 両親に私との関わりを知られて反対されて……それで、急に会わないなんて言ったんじゃ……
 ――でも、恋人じゃないのに…… それなら、そう言ってくれたらいいのに…… どうして……?
「アンジュちゃん? 大丈夫かい?」
 青ざめている彼女に、八百屋の主人が、心配そうに声をかけた。はっ、と我に返って、アンジュは主人を見返す。
「君も坊っちゃんのファンだったのかい? 彼は、この街の女の子のアイドルだったしね」
「でも…… まぁ、しょうがないよね。やっぱり|儂《わし》らとは、住む世界が違うっていうかさ」
 主人の言葉で、また愕然とした。フィリップは身分が違う。しかも、自分は、孤児院の……
 アンジュは、彼が何も言わないまま、突然離れて行った理由を察した。彼と楽しい時間を過ごしているうちに、いつの間にか、自分達を隔てる見えない|壁《・》の存在を忘れていた……
 ――私を傷つけないように、わざとあんな別れ方をしたんだ…… 本当に……最後の最後まで、優しいんだから……
 真実は、彼女にとって非常に残酷で、気が遠くなる程に辛いものだった。でも、彼が残してくれた優しさのおかげで、幾分か救われていた。
 そんなフィリップの想いに感謝し、アンジュは別れを受け入れる覚悟をした。彼の優しさを、無駄にしたくなかったのだ。心の中に、儚くも美しい思い出をそっ、と残し……改めて、彼を想う。
 ――フィリップ。もう二度と会えないかもしれないけど、せめて、私の中だけで、友達って思わせてもらっていいですか……?
 ――貴方は、私の初めての友達で、初めて好きになった人なの……
 自分にとって大切な人を失うのが、どんなに辛いのかという事を、アンジュは、生まれて初めて痛い程味わっていた。
 これは彼女の人生に訪れる、苦難の始まりに過ぎない。しかし、そんなことは知るはずもなく、ただ、今は、突然やって来た深い悲しみに耐え、受け入れるしかなかった。