夢に旅立つ
ー/ー
一年の月日が流れた。フィリップと別れてからのアンジュの日常は、時が逆行したかのように、以前の日々に戻り、独りで青春を過ごしていた。家事や雑用、子守りに追われ、休憩時間には、いつもの椰子の木の上で、好きな歌を歌っている。
彼がいなくなってからも、海辺に行くことは止めなかった。彼女にとって、これが習慣になってしまっていたのもあるが、彼との思い出に、少しでも関わっていたかったのだ。
だが、変わった事も、確かにあった。彼が遺してくれたものは、アンジュの心の中で宝として存在している。身体にも変化があった。この町に引き取られてきた頃、『ガリガリの痩せぎす、器量も人並み』と言われた外見だ。今では年頃の少女らしく垢抜け、少しばかり丸みを帯びた体型に成長していた。
とは言うもの、時たま、フィリップに似た風貌の少年を見かける度、驚き、期待し、失望するという連鎖で心は疲弊していたのだが、忘れることはできなかった。
消してしまえば、どんなに楽かもしれなかったが、あの目映く尊い日々を過ごし、今に至る自分を、全否定するような気がしたのだ。ただ、抱える思い出が綺麗過ぎて、大切過ぎて、自分には分不相応だと、重く痛く感じる時もあったのだが……
今年で、ついに十六歳になるらしい。孤児院を卒業する日が近づいていた。嫌でも院を出なければいけない。養子として貰い手のない彼女は、どこかで働くしかなかった。かといって、職種を選べる程の知識も経験もない。
――このまま放り出されるのかな…… 何も知らないまま……
――ちゃんと働けるのかな…… 家事と子守り、簡単な読み書きくらいしか出来ないのに……
そんな不安を抱えながら、惰性的な日々を送っていた。十五年以上、ろくに勉学をして来なかった自分が、世の中の理を何も知らない自分が、いきなり外の世界に出て、果たして生きていけるのだろうか。
内実は、時が来たと、叔母でもある院長が、下働きとして働かせるなり、身売りするなり、なるべく高値で引き渡せる所を、必死に探している最中だったのだが……
――こんな時、フィリップがいてくれたらな…… どこでも頑張れるのに……
春は近づいていたが、まだ海も空もブルーグレー。どこか物悲しい冬の色をしていた。ひやり、とした冷たい木枯らしが吹き抜け、アンジュの膝に、もう何粒目なのか分からない、涙の雫がぽたり、と落ちた。
以前より涙腺が緩くなり、感情の振り幅が少し広がった、というのも、フィリップがくれたものの一つだ。暗く沈んだ弱気な心を振り切るように、涙を拭って、以前、彼が好きだと言っていた、フランスの民謡を口ずさんだ。
どこにいるか分からない、海の向こうの彼の人に届くよう……想いを込めて。
そんな彼女を、一人の年配の男が少し離れた物陰から、じっと見ていた。
数日後の夜。夕食の後片付けをしていると、アンジュは、院長に話があると呼び出された。急に何だろう……という不安な気持ちを胸に、院長の部屋を訪ねる。
「あの、話って……?」
少し警戒しながら、おずおずと尋ねる。ロッキングチェアに深く腰掛け、先程、アンジュが淹れた、湯気の立っているコーヒーを飲みながら、院長は、淡々と切り出した。
「アンジュ。お前に働き口が出来たから、近いうちに出て行きなさい」
唐突な彼女の言葉に、アンジュは面食らった。急に出て行けって……
「先生、それは……」
「浜辺で歌っているのを、英国の楽団の偉い方が聴いていたらしくてね。雇いたいと仰ってくれてるんだよ」
アンジュは、何かの間違いではないか、と耳を疑った。歌を聴いてくれていた。楽団の人。雇いたい。どれも信じられないような、夢みたいな話だった。
あの時、フィリップを想って歌った歌が、認められたのだ。でも、英国の楽団ということは……
「今はその方が、たまたまこっちに来てるけど、なるべく早くお前を連れて、ロンドンへ戻りたいそうよ」
――英国……イギリス……ロンドン…… 海を渡る……?
住み慣れたこの土地を離れて、赤道を越え、見ず知らずの北半球の国へ行って働く…… しかも、英国のロンドンという都市は、フランスのパリに並ぶ由緒ある大都会だと、同じ欧州に住むフィリップから、以前に聞いて知っていた。
「まあ、お前がいなくなるのは困るけど…… そろそろ頃合いだし、いつまでも置いておく訳にはいかないから」
――そういう、こと……
取り成すような言葉に、アンジュは心の中で空虚に呟く。メイド代わりがいなくなるのは困るけれど、厄介払いをしたいからなのだろう……と思った。
実際、院長は巧みに交渉し、楽団側と良い値で取引きが出来たのだ。そんな内情は知らない彼女は、無力な自分が改めて悲しくなり、小さくため息をつく。
問題は……住み慣れたこの土地を離れ、イギリスという、海を越えた未知の国へ行くということだ。無理もない話だ。十年と少しの間、この小さな町の中でずっと生きてきたのに、いきなり遥か北の見知らぬ土地……大都会で暮らすのだから。
「まさか、嫌だなんて言うんじゃないだろうね? お前なんかを雇いたいなんて、勿体無い話よ? 出発の準備をしておきなさい」
「…………」
「何? 不満なの?」
相変わらず勝手で理不尽な院長に、改めて腹が立った。が、どう反論するべきか判らなかったので、「いえ。解りました」とだけ返答し、アンジュは自室に戻った。
就寝の支度をしている間、院長に言われた言葉について、ずっと考えていた。喜び、不安、悲しみが、心の中でミックスされ、溢れ返っていて、なかなか整理できない。
自分の歌が認められたのは……嬉しい。だが、北の海の彼方にある、見知らぬ異国へ行かなくてはならない。それに、そんなに有名な楽団で通用するのだろうか。しかし、ここで断ったら、このまま何も当ての無いまま、孤児院から放り出される……
長いウェーブの髪をとかしながら、壁に掛けられた古びた小さな鏡に自分の姿を映し、そっ、と鏡面に触れる。
――ねぇ、私、どうすればいい……?
心の中で問いかけた。フィリップがいなくなってから、誰かに相談したい時は、こうして虚像の自分に語りかけていたのだ。
鏡の向こうの彼女は、もちろん何も言わない。ふふ、と自嘲気味に笑い、アンジュはベッドに潜り込んだ。なかなか寝つけない。体も心も、芯から冷えきっている。
人の優しさ、温かさを知ってしまった今、必然的にいつも求めてしまう。一度味わってしまったからか以前のように、一人きりで頑張ることは、二度とできない気がした。
――知らない方が良かった? その方が、強くいられた……?
微睡みの中、眠りに落ちる直前、フィリップの明るい笑顔が浮かんだが、その像を振り切るかのように、アンジュは、きつく目を閉じた。
翌日の午後。アンジュは、いつもの海辺に来て、椰子の木の上から海を眺めていた。
――そうか。こことも、お別れなのね……
大好きな海。大好きな空。大好きな波音。大切な時間が詰まった場所。
――フィリップとの思い出もいっぱいなのに、離れないといけないんだ……
もし、ここに彼が居たら何て言うだろうか。『行くべきだ』? それとも『行かない方がいい』? フィリップの明るい笑顔を思い出しながら、考える。
――……この話をしたら、きっと喜んでくれるわね。『おめでとう!』って言って、笑ってくれるだろうな……
瞬間、彼と交わした約束が、脳裏にフィードバックする。
『君は夢を叶えて欲しい。僕の分まで、夢を忘れないで生きて欲しいんだ』
『君の歌声は、もっと沢山の人に聴いてもらいたい。それだけの価値があると思う。少なくとも、僕は元気になれた』
『いつか、大勢の人の前で歌う君を見てみたい。僕は誇りに思うよ』
そうだ。あの時、確かに約束したのだ。
『約束するわ。まだ何ができるか分からないけど、貴方の言葉は、絶対に忘れない』
今でもはっきり思い出せる。彼の言葉も、自分の言葉も。自分の歌を褒めてくれた。自分なんかの歌で、元気になれた、癒されたと言ってくれた。もっと沢山の人に聴いてもらいたいとまで言ってくれた。『僕の分まで、夢を持って生きて欲しい』と……
――夢…… 私の、夢は……
そこまで考えた時、アンジュの心は、固く決まった。
――行こう。ロンドンへ。歌い手……歌手を目指そう
――彼みたいに、沢山の人に元気になってもらえるような、歌手になりたい…… それが、今の、私の夢
これは、いい機会かもしれない。住み慣れた土地を離れるのはとても怖いけど、思い出にすがり付いて死んだように生きていても、きっと彼は喜ばないだろう……
アンジュは、故郷を離れることを決意した。心なしか、昨日まで暗く沈んだ色をしていた海が、今は儚くも穏やかな冬の光に照らされ、オーロラのように、七色に煌めいているような気がした。
瞬く間に日は過ぎ、出発の時がやって来た。前日の夕方、アンジュは、大好きだったいつもの海辺に来ていた。目の前に広がる風景は、十年前と何も変わらない。
今の時期は、少し霞んでいるけれど、透き通るターコイズグリーンの美しい海は、昨日と変わらない。綿菓子のような白い雲、澄んだ青い空。照りつける陽射し、海面に見える色とりどりのサーフボード……
ここで過ごす事は、暫く無いんだな……と、少し寂しくなる。色んな出来事があった。辛い思いもしたけれど、楽しい時間も沢山あった。この海は、いつも慰めてくれた。元気をくれた。勇気をくれた。嬉しい時も、悲しい時も、いつも一緒にいてくれたのだ。
今日までの彼女の日々を知っている、地球上全ての生命の始まりで、源である、偉大で尊い存在。どこで生まれたのか分からないけれど、この海が、彼女の故郷で、帰る場所だった。
「きっと、必ず帰って来るから、それまで、どうか待ってて…… 行って、来ます……」
静かに、アンジュは呟いた。泣くことはしなかった。海と同じ色をしたマリンブルーの瞳は、強い意志に満ちていた。
世界は、世の中は、変わってゆくものばかりだけれど、この美しい海だけは、貴い景色だけは、未来永劫、ずっと変わらない。そう……信じていた。
翌朝。迎えに来た楽団の遣いと共に、小さなボストンバッグだけを持って、アンジュは、孤児院の玄関先に居た。
別れ際でも、院長は特に何も言わなかった。血縁上の叔母でもあるが、良い思い出が無い。嫌な印象の方が多かった。それがアンジュには悲しく、何とも言えない胸詰まりがあった。でも、自分を十年間預かってくれた人でもある、と重い口を開く。
「今まで、ありがとうございました」
ゆっくりとお辞儀をして、十年間暮らした院の建物と、十字架のシンボルを見上げた。
十年と少し前、まだ幼子だった自分は、この入り口の前で、暗い表情をして怯えていたらしい。そして今は、同じ場所から旅立とうとしている。
これから、どんな事が自分を待っているのか、はち切れんばかりの不安と恐怖で潰されそうだった。しかし、何があっても、フィリップと交わした約束だけは、きっと忘れないだろう。これからは、この誓いが、自分を支えてくれるはずだ。
大切な人との別れが、こんなにも痛くて辛いのなら、もう二度と、誰とも分かり合いたくないと思った。しかし、彼と出会えたから、今、自分は初めて夢を持てて、歩き出そうとしている。決して無駄ではない。無駄にしたくない。
――フィリップ、私、頑張るから。いつか、貴方の耳に入るくらいの、一人前の歌手になるから。いつか、また会おうね……
――これから先、貴方じゃない他の誰かを、好きになれるか……わからないけど……
先を歩いていた遣いの男に促され、アンジュは、前を向いて歩き出した。そして、二度と振り返らなかった。馬車に乗り込み、駅まで向かう途中、思い出の海辺が見えたが、あまり感傷には浸らなかった。
――きっと……帰って来るわ
様々な運命に翻弄されながらも、アンジュはこうして自分の道を歩き始めた。そんな彼女を激励するかのように、故郷の水面は、より一層、まるで光のヴェールの如く、美しく煌めいていた。
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一年の月日が流れた。フィリップと別れてからのアンジュの日常は、時が逆行したかのように、以前の日々に戻り、独りで青春を過ごしていた。家事や雑用、子守りに追われ、休憩時間には、いつもの|椰子《やし》の木の上で、好きな歌を歌っている。
彼がいなくなってからも、海辺に行くことは止めなかった。彼女にとって、これが習慣になってしまっていたのもあるが、彼との思い出に、少しでも関わっていたかったのだ。
だが、変わった事も、確かにあった。彼が遺してくれたものは、アンジュの心の中で宝として存在している。身体にも変化があった。この町に引き取られてきた頃、『ガリガリの痩せぎす、器量も人並み』と言われた外見だ。今では年頃の少女らしく垢抜け、少しばかり丸みを帯びた体型に成長していた。
とは言うもの、時たま、フィリップに似た風貌の少年を見かける度、驚き、期待し、失望するという連鎖で心は疲弊していたのだが、忘れることはできなかった。
消してしまえば、どんなに楽かもしれなかったが、あの|目映《まばゆ》く尊い日々を過ごし、今に至る自分を、全否定するような気がしたのだ。ただ、抱える思い出が綺麗過ぎて、大切過ぎて、自分には分不相応だと、重く痛く感じる時もあったのだが……
今年で、ついに十六歳になるらしい。孤児院を卒業する日が近づいていた。嫌でも院を出なければいけない。養子として貰い手のない彼女は、どこかで働くしかなかった。かといって、職種を選べる程の知識も経験もない。
――このまま放り出されるのかな…… 何も知らないまま……
――ちゃんと働けるのかな…… 家事と子守り、簡単な読み書きくらいしか出来ないのに……
そんな不安を抱えながら、惰性的な日々を送っていた。十五年以上、ろくに勉学をして来なかった自分が、世の中の|理《ことわり》を何も知らない自分が、いきなり外の世界に出て、果たして生きていけるのだろうか。
内実は、|時《・》が来たと、叔母でもある院長が、下働きとして働かせるなり、身売りするなり、なるべく高値で引き渡せる所を、必死に探している最中だったのだが……
――こんな時、フィリップがいてくれたらな…… どこでも頑張れるのに……
春は近づいていたが、まだ海も空もブルーグレー。どこか物悲しい冬の色をしていた。ひやり、とした冷たい木枯らしが吹き抜け、アンジュの膝に、もう何粒目なのか分からない、涙の雫がぽたり、と落ちた。
以前より涙腺が緩くなり、感情の振り幅が少し広がった、というのも、フィリップがくれたものの一つだ。暗く沈んだ弱気な心を振り切るように、涙を拭って、以前、彼が好きだと言っていた、フランスの民謡を口ずさんだ。
どこにいるか分からない、海の向こうの|彼《か》の人に届くよう……想いを込めて。
そんな彼女を、一人の年配の男が少し離れた物陰から、じっと見ていた。
数日後の夜。夕食の後片付けをしていると、アンジュは、院長に話があると呼び出された。急に何だろう……という不安な気持ちを胸に、院長の部屋を訪ねる。
「あの、話って……?」
少し警戒しながら、おずおずと尋ねる。ロッキングチェアに深く腰掛け、先程、アンジュが淹れた、湯気の立っているコーヒーを飲みながら、院長は、淡々と切り出した。
「アンジュ。お前に働き口が出来たから、近いうちに出て行きなさい」
唐突な彼女の言葉に、アンジュは面食らった。急に出て行けって……
「先生、それは……」
「浜辺で歌っているのを、英国の楽団の偉い方が聴いていたらしくてね。雇いたいと仰ってくれてるんだよ」
アンジュは、何かの間違いではないか、と耳を疑った。歌を聴いてくれていた。楽団の人。雇いたい。どれも信じられないような、夢みたいな話だった。
あの時、フィリップを想って歌った歌が、認められたのだ。でも、英国の楽団ということは……
「今はその方が、たまたまこっちに来てるけど、なるべく早くお前を連れて、ロンドンへ戻りたいそうよ」
――英国……イギリス……ロンドン…… 海を渡る……?
住み慣れたこの土地を離れて、赤道を越え、見ず知らずの北半球の国へ行って働く…… しかも、英国のロンドンという都市は、フランスのパリに並ぶ由緒ある大都会だと、同じ欧州に住むフィリップから、以前に聞いて知っていた。
「まあ、お前がいなくなるのは困るけど…… そろそろ頃合いだし、いつまでも置いておく訳にはいかないから」
――そういう、こと……
取り成すような言葉に、アンジュは心の中で空虚に呟く。メイド代わりがいなくなるのは困るけれど、厄介払いをしたいからなのだろう……と思った。
実際、院長は巧みに交渉し、楽団側と良い値で取引きが出来たのだ。そんな内情は知らない彼女は、無力な自分が改めて悲しくなり、小さくため息をつく。
問題は……住み慣れたこの土地を離れ、イギリスという、海を越えた未知の国へ行くということだ。無理もない話だ。十年と少しの間、この小さな町の中でずっと生きてきたのに、いきなり遥か北の見知らぬ土地……大都会で暮らすのだから。
「まさか、嫌だなんて言うんじゃないだろうね? お前なんかを雇いたいなんて、勿体無い話よ? 出発の準備をしておきなさい」
「…………」
「何? 不満なの?」
相変わらず勝手で理不尽な院長に、改めて腹が立った。が、どう反論するべきか判らなかったので、「いえ。解りました」とだけ返答し、アンジュは自室に戻った。
就寝の支度をしている間、院長に言われた言葉について、ずっと考えていた。喜び、不安、悲しみが、心の中でミックスされ、溢れ返っていて、なかなか整理できない。
自分の歌が認められたのは……嬉しい。だが、北の海の彼方にある、見知らぬ異国へ行かなくてはならない。それに、そんなに有名な楽団で通用するのだろうか。しかし、ここで断ったら、このまま何も当ての無いまま、孤児院から放り出される……
長いウェーブの髪をとかしながら、壁に掛けられた古びた小さな鏡に自分の姿を映し、そっ、と鏡面に触れる。
――ねぇ、私、どうすればいい……?
心の中で問いかけた。フィリップがいなくなってから、誰かに相談したい時は、こうして虚像の自分に語りかけていたのだ。
鏡の向こうの彼女は、もちろん何も言わない。ふふ、と自嘲気味に笑い、アンジュはベッドに潜り込んだ。なかなか寝つけない。体も心も、芯から冷えきっている。
人の優しさ、温かさを知ってしまった今、必然的にいつも求めてしまう。一度味わってしまったからか以前のように、一人きりで頑張ることは、二度とできない気がした。
――知らない方が良かった? その方が、強くいられた……?
|微睡《まどろ》みの中、眠りに落ちる直前、フィリップの明るい笑顔が浮かんだが、その像を振り切るかのように、アンジュは、きつく目を閉じた。
翌日の午後。アンジュは、いつもの海辺に来て、|椰子《やし》の木の上から海を眺めていた。
――そうか。こことも、お別れなのね……
大好きな海。大好きな空。大好きな波音。大切な時間が詰まった場所。
――フィリップとの思い出もいっぱいなのに、離れないといけないんだ……
もし、ここに彼が居たら何て言うだろうか。『行くべきだ』? それとも『行かない方がいい』? フィリップの明るい笑顔を思い出しながら、考える。
――……この話をしたら、きっと喜んでくれるわね。『おめでとう!』って言って、笑ってくれるだろうな……
瞬間、彼と交わした約束が、脳裏にフィードバックする。
『君は夢を叶えて欲しい。僕の分まで、夢を忘れないで生きて欲しいんだ』
『君の歌声は、もっと沢山の人に聴いてもらいたい。それだけの価値があると思う。少なくとも、僕は元気になれた』
『いつか、大勢の人の前で歌う君を見てみたい。僕は誇りに思うよ』
そうだ。あの時、確かに|約《・》|束《・》したのだ。
『約束するわ。まだ何ができるか分からないけど、貴方の言葉は、絶対に忘れない』
今でもはっきり思い出せる。彼の言葉も、自分の言葉も。自分の歌を褒めてくれた。自分なんかの歌で、元気になれた、癒されたと言ってくれた。もっと沢山の人に聴いてもらいたいとまで言ってくれた。『僕の分まで、夢を持って生きて欲しい』と……
――夢…… 私の、夢は……
そこまで考えた時、アンジュの心は、固く決まった。
――行こう。ロンドンへ。歌い手……歌手を目指そう
――彼みたいに、沢山の人に元気になってもらえるような、歌手になりたい…… それが、今の、私の夢
これは、いい機会かもしれない。住み慣れた土地を離れるのはとても怖いけど、思い出にすがり付いて死んだように生きていても、きっと彼は喜ばないだろう……
アンジュは、故郷を離れることを決意した。心なしか、昨日まで暗く沈んだ色をしていた海が、今は儚くも穏やかな冬の光に照らされ、オーロラのように、七色に煌めいているような気がした。
瞬く間に日は過ぎ、出発の時がやって来た。前日の夕方、アンジュは、大好きだったいつもの海辺に来ていた。目の前に広がる風景は、十年前と何も変わらない。
今の時期は、少し|霞《かす》んでいるけれど、透き通るターコイズグリーンの美しい海は、昨日と変わらない。綿菓子のような白い雲、澄んだ青い空。照りつける陽射し、海面に見える色とりどりのサーフボード……
ここで過ごす事は、暫く無いんだな……と、少し寂しくなる。色んな出来事があった。辛い思いもしたけれど、楽しい時間も沢山あった。この海は、いつも慰めてくれた。元気をくれた。勇気をくれた。嬉しい時も、悲しい時も、いつも一緒にいてくれたのだ。
今日までの彼女の日々を知っている、地球上全ての|生命《いのち》の始まりで、源である、偉大で尊い存在。どこで生まれたのか分からないけれど、この海が、彼女の故郷で、帰る場所だった。
「きっと、必ず帰って来るから、それまで、どうか待ってて…… 行って、来ます……」
静かに、アンジュは呟いた。泣くことはしなかった。海と同じ色をしたマリンブルーの|瞳《め》は、強い意志に満ちていた。
世界は、世の中は、変わってゆくものばかりだけれど、この美しい海だけは、|貴《とうと》い景色だけは、未来永劫、ずっと変わらない。そう……信じていた。
翌朝。迎えに来た楽団の遣いと共に、小さなボストンバッグだけを持って、アンジュは、孤児院の玄関先に居た。
別れ際でも、院長は特に何も言わなかった。血縁上の叔母でもあるが、良い思い出が無い。嫌な印象の方が多かった。それがアンジュには悲しく、何とも言えない胸詰まりがあった。でも、自分を十年間預かってくれた人でもある、と重い口を開く。
「今まで、ありがとうございました」
ゆっくりとお辞儀をして、十年間暮らした院の建物と、十字架のシンボルを見上げた。
十年と少し前、まだ幼子だった自分は、この入り口の前で、暗い|表情《かお》をして怯えていたらしい。そして今は、同じ場所から旅立とうとしている。
これから、どんな事が自分を待っているのか、はち切れんばかりの不安と恐怖で潰されそうだった。しかし、何があっても、フィリップと交わした約束だけは、きっと忘れないだろう。これからは、この誓いが、自分を支えてくれるはずだ。
大切な人との別れが、こんなにも痛くて辛いのなら、もう二度と、誰とも分かり合いたくないと思った。しかし、彼と出会えたから、今、自分は初めて夢を持てて、歩き出そうとしている。決して無駄ではない。無駄にしたくない。
――フィリップ、私、頑張るから。いつか、貴方の耳に入るくらいの、一人前の歌手になるから。いつか、また会おうね……
――これから先、貴方じゃない他の誰かを、好きになれるか……わからないけど……
先を歩いていた遣いの男に|促《うなが》され、アンジュは、前を向いて歩き出した。そして、二度と振り返らなかった。馬車に乗り込み、駅まで向かう途中、思い出の海辺が見えたが、あまり感傷には浸らなかった。
――きっと……帰って来るわ
様々な運命に翻弄されながらも、アンジュはこうして自分の道を歩き始めた。そんな彼女を激励するかのように、|故郷《ふるさと》の|水面《みなも》は、より一層、まるで光のヴェールの|如《ごと》く、美しく煌めいていた。