まぶたを開けると、ぼやけた視界の先に、霞のように淡い髪色をした女性が浮かび上がった。
「レタ、ここは? 長が言う魔女の噂って?」
「ユート、なに言ってるの? わたくしはソーマですわよ」
「えっ?」
フラフラと立ち上がった勇斗は周囲をぼんやりと眺めた。石壁に囲まれた巨大な空間が、幾つもの篝火によって照らされている。
「僕は、どうなってたの」
「急に倒れたんだよ。チビスケも同じさ。全然起きないし、心配したよ」
勇斗は思考を巡らす。炎が竜の姿になった瞬間、意識は雪の世界に飛んでいた。あれは夢だったのか。夢にしてはリアルだった。まるでその場に居合わせたような。
ルークという人は、以前聞いた伝説の勇者と同じ名前だった。妙にひょうきんな性格をしていて、自分と同じ剣と鎧を装備していた。その傍にいた少年は、確か――
「そうだ、ランパ」
広間の中央にランパは倒れていた。駆け寄り、小さな体を揺さぶる。
「ランパ、ねぇ、起きてよ」
「むにゃむにゃ、ルーク……あれ? ユート?」
ランパは、よだれを垂らしながらうっすらと目を開けた。
「オイラ、少し思い出した」
「思い出したって。記憶が戻ったの?」
「うん、ちょっとだけ。オイラは昔、ルークってやつと魔神を倒す旅に出たんだ。チキサ様に命じられてな。旅の途中、大きな鹿を倒して、レタに会ったところまで思い出したぞ!」
勇斗は鳥肌が立った。
「僕も、同じ光景を見た。あれは、夢じゃないの?」
――あなたたちが見たのは、ランパの記憶の断片。
しゃがれた声が、再び勇斗の脳内に響いた。
勇斗が身につけている鎧――精霊器ラクメトに埋め込まれた赤い宝石の数々が光った。次の瞬間、勇斗の周りを炎が渦巻いた。
――私は炎の大精霊。再び、精霊器に宿りましょう。
炎が、精霊器ラクメトに吸い込まれていく。
勇斗は呆然と立ち尽くしていた。
「今の炎は? 何が起こった?」
ミュールが、険しい顔をしながら駆け寄ってきた。
「えっと、実は」
ガラッと、何かが崩れ落ちる音がした。
「話はあとにしよう。気をつけろ、来るぞ」
音がした方を振り向くと、石壁の一部が剥がれ落ちていた。ぽっかりと空いた隙間から、黒く細い、鋭利なものが突き出していた。
勇斗は息を呑み、鋭利な先端を見つめた。紫色の液体がポタポタと垂れていた。液体が落下した先の地面が焦げ、黒い煙を上げる。とてつもない悪臭が漂ってきた。
突然現れた異物に、勇斗たちは釘付けになった。
地面が大きく揺れる。砂埃を舞い上がらせ、ガラガラと石壁が一気に崩れ落ちた。
ぽっかり空いた闇の中から、巨大な黒い蛇が姿を現した。頭部は魚みたいだった。紫の液体を垂らす鼻先がカジキのように細長い。胴体はずんぐりとしていて、背中から翼が生えている。どこかアンバランスさを感じた。
胴体から滑らかに伸びる長い尾をくねくねと動かせ、巨大蛇は勇斗たちの前に躍り出た。
「ま、魔族!?」
「ユート、やるぞ」
ミュールは背負っていたリュックを地面に放り投げ、両腕に装着された爪付きガントレットを打ち鳴らした。
「ダメだよ、あんなデカいのに勝てないよ。逃げよう」
勇斗はおろおろしながら言った。
「逃げるのは、無理っぽいですわね」
ソーマがため息をつく。出入り口が、塞がれていた。
「あの結界を張ってるのは、おそらくあのでかい蛇。ここから出るには、あいつを倒さなきゃならないみてぇだ」
眉を吊り上げたランパは、精霊樹の枝を構えた。
「ユート、剣を抜け!」
ミュールが声を荒げた。
「ううっ」
勇斗は震える手で剣を抜いて、構えた。しかし、全身が震えていた。あんな化け物に、勝てるわけがない。
「ソーマは隠れていろ。オレたちでなんとかする」
「わかりましたわ。みなさま、お気をつけて!」
ソーマが石柱の影に隠れる。
「いくぞ!」
ミュールは地面を蹴り、電光石火の如く掌底を放った。バキッと、巨大蛇の鱗にヒビが入る。
「ユートも頑張れ!」
ランパが声を張り上げる。
「む、無理だよ!」
勇斗は思わず後ずさった。瞬間、何かが鎧の肩当てをかすめた。
「えっ?」
ジュウゥという音が聞こえてきた。巨大蛇の鼻先から放たれた液体が、肩当てを溶かしていた。
「気をつけろ、あれは毒の液だ。まともに受けたらやばいぞ」
直後、意味不明の言葉が聞こえてきた。顔を上げると、巨大蛇が口を高速で動かしていた。背中から生えた翼を大きく広げ、頭上には茶色い魔法陣が浮かび上がる。
「魔法だ!」
ランパが叫ぶと同時に、激しい砂嵐が巻き起こった。
視界が遮られる。瞬間、勇斗の脇腹に大きな衝撃が走った。体が浮く感覚。さらに背中に衝撃。骨が軋む音がした。
石壁に叩きつけられた勇斗は、口から血を吐いた。瓦礫と一緒に地面に落下して、うつ伏せに倒れる。
「うぅ……」
勇斗は両腕の力で体を起こした。砂嵐は止んでいた。視界の先では、巨大蛇が長い尾を激しく振り回している。あの尻尾にやられたのだろうか。
「大丈夫か、ユート」
全然大丈夫ではない。全身が痛い。口の中に血の味が広がる。勇斗は意識がもうろうとする中、剣を杖代わりにして立ち上がった。
「また砂嵐を起こされる前に、攻撃を仕掛けるか……えっ?」
ミュールは大きく目を見開いた。
巨大蛇の傷が消えている。裂けていたはずの胴体が、完全に元通りになっていた。
「あんなの、どうやって倒せばいいんだよ」
勇斗の息遣いが荒くなる。
いつの間にか、巨大蛇が至近距離まで近づいてきていた。大きな翼を広げ、再び聞き取れない言葉を発した。
瞬間、巨大蛇の左右に緑色の魔法陣が浮かんだ。魔法陣から、雷を帯びた二つの球体が出現し、それぞれがランパとミュールに放たれた。
球体に囚われた二人は、絶叫した。
「ランパ! ミュール!」
球体が消滅すると、うつ伏せに倒れている二人の姿が見えた。身体中から黒い煙が噴き上がっている。焦げ臭い匂いが漂ってきた。
「ちく、しょう……痺れて、動けねぇ」
ミュールが、力なく言った。ランパはうつ伏せになったまま動かない。
二人がやられた。まずいまずい、どうしよう。耳に残るほど、心臓の音がバクバクと強く響いた。
「あっ」
巨大蛇の鋭利な鼻先が、勇斗の目の前に来ていた。
勇斗の思考がショートした。
「ユート!」
勇斗の体が真横に飛んだ。何が起こったのかわからず、ゴロゴロと地面を転がる。
「大丈夫? ユート」
仰向けになった勇斗に、ソーマが覆い被さっていた。
「た、助かったよ、ソーマ」
心臓の音は、まだ鳴り止まない。
「ユートに死なれたら困るのですわ」
ソーマの目には、涙が溜まっていた。
「あっ」
巨大蛇の頭部が、再び近づいてくる。ソーマは素早く立ち上がり、両手を横に広げた。
「だ、だめだ」
鋭利な鼻先が、ソーマの目前まで迫る。
「――――――」
一瞬、巨大蛇の動きが止まった。
「ユート、今ですわ!」
「えっ、う、うん」
勇斗は立ち上がり、剣を振るった。細く鋭い鼻先はあっけなく裂かれ、ボトリと落下した。
巨大蛇は狂ったような声を上げ、翼を打ち鳴らして跳び上がった。天井に頭部をぶつける。落盤と共に堕ち、地面に伏した。動かない。死んだのだろうか?
「やったな、ユート」
おぼつかない足取りで、ランパとミュールが歩いてきた。
「二人とも、大丈夫なの?」
「何とか。まだビリビリするけど」
「さーて、帰ろうぜ。腹へった。はやくメシ食いたい!」
「でも、結界はまだ……えっ?」
勇斗は、右足に違和感を感じた。
「ゆ、ユート……」
「あっ、ぎゃあああああっ!」
激痛。細長い鋭利なものが、勇斗の右大腿部を、金属ごと貫いていた。
「ああああああっ」
大腿を貫通したものは、先ほど勇斗が切り落とした巨大蛇の鼻先だった。突き刺さった鼻先は細かく動いたあと、溶けた。勇斗の大腿に開いた穴から、ドス黒い煙が噴き出る。血がドロドロと膝をつたう。
勇斗は絶叫し、その場に崩れた。足に開いた穴を必死に両手で押さえ、叫ぶ。痛い。熱い。痺れる。得体の知れない感覚が、全身を駆け巡る。
「くそっ、オイラの精霊術じゃ毒は治せねぇ」
「あっ、あれ!」
ソーマが指先を震わせた。見ると、巨大蛇が、大きな翼を広げていた。切り裂いたはずの鼻先は元通りになっている。
「ちっ。オレがアイツを引きつける。チビスケはユートを何とかしろ!」
歯を食いしばったミュールは、駆け出した。
「ユート」
ランパは顔をしかめ、唇を噛んだ。
「たすけて、しにたくない」
勇斗は、掠れた声を弱々しく出した。
「オイラ、オイラの力じゃ」
ランパはペタンとへたり込む。そのとき、開いたポーチから、古びた指輪が転がり落ちた。見張りの塔を出る際、ロンから受け取ったものだ。
「これは……そうか」
ランパは精霊樹の枝の葉を一枚摘み取り、指輪と一緒に手で包み込んだ。次第に手の中から光が溢れだす。
「これがオイラの能力、合成の力だ!」
ランパが生成したのは――葉巻だった。太く、長い。吸い口付近には、美しく輝く金色のリングが取り付けられている。
「ランパ、これは……」
「魔法の葉巻、ドラシガーだ。煙を吸うと体にマナが入って毒は消える!」
ドラシガー。確か、ルークが吸っていた葉巻。
ランパはナイフを抜き、葉巻の吸い口を切り落とした。慣れた手つきだった。
勇斗の右手に魔法の葉巻――ドラシガーが乗せられた。
「ぼ、僕、葉巻なんて、吸ったことないよ」
「言ってる場合かっ! 死ぬぞ! オイラ、ユートに死んでほしくないっ!」
ランパの目から涙が溢れる。
「ランパ……」
死にたくない。生きたい。生きて元の世界に帰りたい。
「がっはあああぁぁぁ」
ミュールの体が、壁にめり込んだ。
――迷っている時間はない。勇斗は、右手でドラシガーを握りしめた。
「左のガントレットに向かって念じるんだ。炎よ、って!」
ランパに言われるがまま、勇斗は念じる。すると、ガントレットの甲側に埋め込まれた赤い宝石から、ボゥ、と青白い炎がバーナーのように噴き上がった。
――火をつけるときは、まず葉巻の先端を炙り、炭化させる。
父の言葉が、蘇った。勇斗はドラシガーの底面を炎に近づける。ジリジリと、詰め込まれた葉が燃え始めた。
――表面が均等に黒くなったら、息を吹きかけて燃焼を促す。
勇斗は、ドラシガーに息を三回吹きかけた。
ドラシガーを指先で回しながら着火すると、淡い緑色をした煙が立ち昇った。湿った森林のような香りが漂う。
――吸うときは、一気に吸い込むのではなく、ゆっくりとな。
勇斗は頬をへこませ、ジュースをストローで吸うよう、静かに煙を口に含む。肺には入れず、舌の上で転がすように馴染ませる。
温かな煙が口腔内の粘膜に染み込み、じんわりと体の奥へと広がる。痛みが薄れ、感覚が研ぎ澄まされていく。
――そして吐く。
口から吐き出された緑煙が、勇斗の周囲を渦巻いた。
これが、葉巻。父が見ていた世界。
勇斗は再びドラシガーを咥えた。静かに剣を拾い、ゆっくりと立ち上がる。足の痛みは消えていた。
戦いのイメージが、次々と頭の中に浮かんでくる。
――斬る。
すかさず距離を詰め、高速の斬撃を何度も浴びせる。勇斗は、なぜか知っている動きのように感じた。
悲鳴を上げた巨大蛇は、長い尾を滅茶苦茶に振り回した。勇斗は素早く真後ろに跳び、攻撃をかわす。
勇斗は空気を吸い上げた。口腔に溜め込んだ煙を、口の隙間から一気に放出する。
身体が熱い。
両手に握られた聖剣クトネシスの刃が、真紅の光を帯びた。
煙をまとった勇斗は、消えた。一瞬のうちに、巨大蛇の背後に立っていた。
ずんぐりとした胴体に、幾つもの紅い線が走る。
一瞬の静寂。
剣を鞘に納めた勇斗は、口からドラシガーを離す。そして、淡い緑色の煙を天に向かって勢いよく吐き出した。
刹那、巨大蛇は爆散した。