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6.一条の輝き-1

ー/ー



 遮光カーテンから漏れた陽射しが、壁の姿見に弾かれ、化粧台の三面鏡で乱反射する。
 そうして、鏡で彩られた空間は、淡く幻想的な光景を描き出す。
 そう――。
 硝子ケースの中で優雅に眠る、裸体の美女の姿を……。
 浮き立つように照らされた美貌は、ミンウェイに酷似していた。けれど、彼女よりもずっと年上で、ちょうど彼女の母親くらいの年齢に見える。
『彼女』は、いったい何者なのか?
『彼女』を王妃の部屋に連れてきた〈(ムスカ)〉の想いは……。
 切ない憶測が胸をよぎり、ルイフォンは『彼女』から目を離せなくなる。
「――……」
 唐突に、部屋が陰った。しかし、次の瞬間には、何ごともなかったかのように、もとに戻る。
 不自然な光の揺らめきに、ルイフォンの思考は遮られ、そこで『彼女』への意識が途切れた。なんのことはない。窓の外を鴉が横切っただけだ。しゃがれた不吉な鳴き声が聞こえてくる。
「……余計なことを考えている場合じゃなかったな」
 ルイフォンは、自らの頬をペしんと叩いた。よりによって鴉とは……などと思う心も振り払い、頭を切り替える。
 ここは危険だ。いずれ、〈(ムスカ)〉が『彼女』を迎えに来る。速やかに、この部屋以外の待機場所を決め、移動すべきだろう。
 彼の指先が、携帯端末の上を滑り出した。
 そのときだった。
「ルイフォン」
 緊張を帯びた声で、リュイセンが彼の名を呼んだ。ただならぬ様子に、ルイフォンの心臓が跳ね上がる。
「どうした?」
「今、かすかに機械音が聞こえた。エレベーターが動いている」
「!」
 嫌な予感に、ルイフォンは瞬時に端末の映像をエレベーターのカメラに切り替えた。……そこに映ったのは、斜め上のアングルからのふたりの人物だった。
「リュイセン、これ!」
「――っ!」
 画面を押し付けられたリュイセンの両目が見開かれ、口から短い息が漏れる。
(ムスカ)〉が、タオロンを連れてエレベーターに乗っていた。しかも、行き先はルイフォンたちのいる階だ。階数ボタンが点灯している。
 この階には〈(ムスカ)〉の居室がある。奴は、自分の部屋に向かっているのか……。
 ――否。
「奴は、『彼女』を迎えに来た。タオロンは手伝い、ってところだろう」
 ルイフォンの断言に、リュイセンも頷く。
 移動先をゆっくり検討している余裕はない。ともかく、一刻も早くこの部屋を出よう。――ルイフォンが、そう続けようと思ったときだった。
「ルイフォン。ここで奴を迎え討つぞ」
「――え?」
 ルイフォンが驚きの声を上げている間にも、リュイセンは上着を脱ぎ捨て、身軽になる。入口のほうへと向き直った横顔は、風を斬り裂くように研ぎ澄まされており、野生の獣の気配を身にまとっていた。
 臨戦態勢に入ったのだ。びりびりとした空気の震えに、ルイフォンは圧倒される。
「今から部屋を出ても、廊下で鉢合わせするだけだ。それなら、ここで待ち構えているほうがいい」
「リュイセン……」
 今やるべきことを見極めたときの兄貴分は、恐ろしく決断が早い。
「……そうだな……」
 相槌を打ちながら、ルイフォンは思案する。
 予定とはだいぶ違うが、この状況は決して悪くはない。
 映像から、相手はふたりとも丸腰だ。懐にナイフくらいは持っていたとしても、完全武装のこちらに分がある。
「……あ。つまり、そうか……!」
 ルイフォンは気づいた。
「そういうことに……なるのか!」
 ぶつぶつと呟く弟分に、リュイセンが、はっとしたように振り返る。
「すまん。ひょっとして、昼間から行動を起こすと、ハオリュウに迷惑が掛かるのか?」
 会議のときに、さんざん配慮が足りないと言われたのを思い出したらしい。兄貴分が気まずそうに眉を曇らせる。
「いや、その点は大丈夫だ」
 ルイフォンは即答した。それよりも、自分の気づいた事実に興奮していた。
 早くその話をしたかったのだが、リュイセンの狐につままれたような顔が、『何故、大丈夫と言い切れるのだ?』と問うている。生真面目な兄貴分は、納得しないことには落ち着かないだろう。
 ルイフォンは、まずはリュイセンの疑問に答えることに決め、ちらりと『彼女』を見やった。
「ここに、『彼女』がいるからだ」
「え?」
「〈(ムスカ)〉は、まず間違いなく、摂政から『彼女』を隠したがっている。だから、この部屋で俺たちを見つけたとしても、人を呼ぶことができない。騒ぎが大きくなれば、摂政の耳に入り、『彼女』のことを知られる可能性が高いからな」
「ええと、つまり……。他の場所ならともかく、この部屋での出来ごとだけは、他でもない〈(ムスカ)〉自身が内密に済まそうとする、ってことか?」
「そうだ。――で、ハオリュウに迷惑が掛かるのは、摂政に俺たちの侵入がばれ、ハオリュウの手引きを疑われたときだけだ。ほら、問題ないだろ?」
「なるほど……」
 突然の鉢合わせには慌てたが、冷静に考えると現状は願ってもいない好機だった。
「今なら、最高の布陣が敷けるんだ」
「最高の布陣?」
「ああ、実はな……」
 ルイフォンは、先ほど気づいたことを兄貴分に告げ、にやりと不敵に嗤う。リュイセンは驚きの表情を見せ、そして彼もまた、ふっと口元を緩めた。


 廊下に人の気配を感じた。〈(ムスカ)〉とタオロンだ。
 ルイフォンは息を潜めた。
 けれど、〈(ムスカ)〉も鷹刀一族の男だ。彼我の距離が近くなれば、気配を消すのに()けたリュイセンのことはともかく、ルイフォンの存在には、すぐ感づくだろう。
 だから、逃げも隠れもしない。
 王妃の部屋の作りは、扉を開けてすぐが、まるで高級ブティックのような衣装部屋。そして、カーテンで仕切られた奥が、化粧台や姿見の置かれた、身支度を整えるための場所になっている。大振りのテーブルとソファーまで用意されているので、控え室のような使われ方をしていたのだろう。だからこそ、〈(ムスカ)〉は『彼女』をここに連れてきたのだ。
(ムスカ)〉を待ち受けるにあたり、ルイフォンたちは奥を選んだ。
 激しい戦闘になる前に片をつけるつもりだが、万一、リュイセンが刀を振るうことになれば、広い空間のほうが望ましい。それに、『彼女』の存在が牽制になるかもしれないと考えた。
 仕切りのカーテンの向こうから、扉を開ける音が聞こえてきた。
 ルイフォンとリュイセンは、目線を交わし合う。
 いよいよだ。
 廊下から、ひやりとした空気が流れ込む。それと同時に、ふたつの狼狽の息遣いを感じた。
「誰かいますね」
 低い声が響いた。
 神経質に(とが)った言葉は、深い怒気をはらんでいた。魅惑の魔性を帯びた、鷹刀一族特有の声質が、凄みに拍車をかけている。
(ムスカ)〉は侵入者には気づいても、それがルイフォンたちであることを知らない。摂政の手の者が、何か不愉快な詮索をしているとでも考えたのだろう。強い警戒を放ちながらも、迷うことなく近づいてきた。
 期待通りの展開だ。
 ルイフォンが猫の目を細めたときのことだった。
 ばさりと。
 仕切りのカーテンが薙ぎ払われた。
「……なっ! ……き、貴様ら……!?」
 白髪交じりの髪がカーテンの起こした風に巻き上げられ、青白い血管の浮き出た額があらわになる。顔は驚愕に彩られ、唇はわなわなと震えていた。
(ムスカ)〉の素顔は初めてではないが、こうして間近でじっくりと見るのは初めてだった。見れば見るほどエルファンにそっくりで、同じ一族なのだと改めて思い知らされる。
 だからといって、あとに引く気などさらさらない。上の世代には思うところがあるようだが、奴に与えるものは『死』のみだと、総帥イーレオが一族の方針として宣言している。
 聞き出したい情報が山ほどあるから、今はまだ殺さない。
 だが――。

 ここで、決着(ケリ)をつける……!

『彼女』の硝子ケースを背に、ルイフォンとリュイセンは、まっすぐに前を見据えた。
「〈(ムスカ)〉、お前を捕らえに来た」
 ルイフォンのテノールが、静かに〈(ムスカ)〉を迎える。
 不意を()くような襲撃も考えた。
 実際、予定通りに夜中に仕掛けるのであったら、無言の一刀で斬りつけるつもりだった。
 けれど――。
 ルイフォンは、〈(ムスカ)〉から、ほんの少し視線をずらす。〈(ムスカ)〉の背後で、戸惑いの表情を浮かべているタオロンへと。
「タオロン。今すぐ、ここで――〈(ムスカ)〉と手を切ってくれ」
「!?」
 タオロンの太い眉がぴくりと上がり、眼球が迷子になったかのように落ち着きなく動き回った。同時に、〈(ムスカ)〉のこめかみが大きく脈打ち、眉間に深い皺を作り、激しい憤りを匂わせる。
 どちらも等しく、『強い当惑』と呼ぶべきものであったが、ふたりの感情はまったく異なる色彩をはらみ、不協和音を奏でた。
「タオロン、俺たちに協力してくれ。俺たちは〈(ムスカ)〉を捕らえたい」
 ルイフォンは重ねて呼びかける。
(ムスカ)〉は今、前方をリュイセン、後方をタオロンという、武の達人に挟まれている。
(ムスカ)〉自身もそれなりの使い手ではあるが、貧民街で初めて対峙したときに、リュイセンに対して『力では敵わない』と自ら認めている。自分は本来、表立って戦う者ではないと言って、衝突を避けたくらいだ。
 だから、タオロンがこちらにつけば、〈(ムスカ)〉に逃げ場はなくなる。
(ムスカ)〉は、メイシアの父親を、あの優しい親父さんを殺したも同然の怨敵だ。慈悲を掛ける価値はない。
 けれど、無駄に傷を負わせることを喜ぶような、性根の腐った人間に、ルイフォンはなりたくなかった。
 憎いからこそ。
 報復が、甘美な香りを放つからこそ。
 自分を律するためにも。自分の矜持にかけても。
『〈(ムスカ)〉を、できる限り無傷で捕らえる』
 それこそが、武を避け、策を弄する人間である〈(ムスカ)〉にふさわしい屈辱であり、決着のつけ方であるはずだ。
 鍵となるのは、タオロン。
 本来の作戦であれば、四六時中、見張られているタオロンに、あらかじめ接触することは不可能だった。だから、事後承諾で味方にして脱出をはかる予定だった。
 けれど今なら、きちんと筋を通して、タオロンと手を組める。仲間として手を取り合って、〈(ムスカ)〉を捕らえることができる。
 今回の作戦の目的は、勿論〈(ムスカ)〉を捕らえることだ。
 けれど、もうひとつある。
 それは、タオロンをこちらへと――光の中へと救い出すこと。
 この布陣は、ふたつの目的を同時に果たす、最高の布陣だ――!
「――っ」
 何か言おうと、タオロンが口を開きかけた。しかし、それを遮るように〈(ムスカ)〉の哄笑が響く。
「鷹刀の子猫。何をふざけたことを言っているのですか?」
「〈(ムスカ)〉!?」
「タオロンは、彼の意思で、私のもとにいるのです。何しろ私は、彼と娘を斑目一族の追手から擁護しているのですから。彼は、その恩を忘れるような男ではないでしょう?」
 明らかに圧力をかけるような物言いに、タオロンは顔を歪め、ぐっと唇を噛む。
「勝手を言いやがるな! 斑目から守っているってのは、嘘じゃねぇかもしれないが、ファンルゥを人質にタオロンをいいように使っている、ってのが実情だろ! そんな関係に、恩義を感じる必要はねぇ!」
(ムスカ)〉に言い返すと言うよりも、タオロンへと訴えかけるようにルイフォンは叫び、更に畳み掛ける。
「タオロン! シャンリーが――警備会社の『草薙』が、お前を雇いたいと言っている」
「……っ!?」
 タオロンの体が、びくりと動いた。浅黒い肌の色合いに変化はないが、その表情には確かに明るい色味が差した。
「ファンルゥと一緒に、住み込みでだ。お前の仕事中はファンルゥの面倒をみてくれるし、ファンルゥが独り立ちできるよう武術も仕込んでくれるそうだ」
「……!」
 小ぶりなタオロンの目が、太い眉を押しのけるかのように極限まで見開かれた。大きく息を吸い込んだまま半開きで動きを止めた口が、無言で『信じられない』と告げている。
「タオロン、俺たちの手を取れ!」
 ――やっと、言うことができた。
 初めて会ったとき、タオロンはメイシアを狙う敵であった。けれど、正義馬鹿の言動に圧倒された。憎むどころか、好感を持った。
 敵対する立場であるにも関わらず、彼は何度も助けてくれた。正しくあろうとする彼の魂は、いつだってルイフォンたちに近いところにあった。
 ずっと、ずっと。
 すれ違いながら、響き合っていた。敵であるのに、敵ではなかった。
 ルイフォンは、ずいと一歩、前に迫る。
 その拍子に、背中で編まれた髪が跳ねた。先を留める金の鈴が、鏡の光をぎらりと反射させる。その輝きは、ルイフォンの強い眼差しにそっくりだった。
「タオロン、俺たちのところに来い!」
(ムスカ)〉の憎悪の威圧を押しのけ、ルイフォンは手を差し伸べる。
 闇に捕らわれているタオロンとファンルゥの父娘を、光の側へと引き上げるように……。
 タオロンは、くしゃりと破顔した。
「お前らは、本当にいい奴だなぁ……」
 決して大きくはなく、むしろ囁くような呟きであった。けれど太い声は、まるで鏡に乱反射したかのように、部屋中に響き渡る。
 そして、今までに、ひとつも見たことのなかったタオロンの極上の笑顔もまた、合わせ鏡によって無数に、無限に広がっていった。


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 遮光カーテンから漏れた陽射しが、壁の姿見に弾かれ、化粧台の三面鏡で乱反射する。
 そうして、鏡で彩られた空間は、淡く幻想的な光景を描き出す。
 そう――。
 硝子ケースの中で優雅に眠る、裸体の美女の姿を……。
 浮き立つように照らされた美貌は、ミンウェイに酷似していた。けれど、彼女よりもずっと年上で、ちょうど彼女の母親くらいの年齢に見える。
『彼女』は、いったい何者なのか?
『彼女』を王妃の部屋に連れてきた〈|蝿《ムスカ》〉の想いは……。
 切ない憶測が胸をよぎり、ルイフォンは『彼女』から目を離せなくなる。
「――……」
 唐突に、部屋が陰った。しかし、次の瞬間には、何ごともなかったかのように、もとに戻る。
 不自然な光の揺らめきに、ルイフォンの思考は遮られ、そこで『彼女』への意識が途切れた。なんのことはない。窓の外を鴉が横切っただけだ。しゃがれた不吉な鳴き声が聞こえてくる。
「……余計なことを考えている場合じゃなかったな」
 ルイフォンは、自らの頬をペしんと叩いた。よりによって鴉とは……などと思う心も振り払い、頭を切り替える。
 ここは危険だ。いずれ、〈|蝿《ムスカ》〉が『彼女』を迎えに来る。速やかに、この部屋以外の待機場所を決め、移動すべきだろう。
 彼の指先が、携帯端末の上を滑り出した。
 そのときだった。
「ルイフォン」
 緊張を帯びた声で、リュイセンが彼の名を呼んだ。ただならぬ様子に、ルイフォンの心臓が跳ね上がる。
「どうした?」
「今、かすかに機械音が聞こえた。エレベーターが動いている」
「!」
 嫌な予感に、ルイフォンは瞬時に端末の映像をエレベーターのカメラに切り替えた。……そこに映ったのは、斜め上のアングルからのふたりの人物だった。
「リュイセン、これ!」
「――っ!」
 画面を押し付けられたリュイセンの両目が見開かれ、口から短い息が漏れる。
〈|蝿《ムスカ》〉が、タオロンを連れてエレベーターに乗っていた。しかも、行き先はルイフォンたちのいる階だ。階数ボタンが点灯している。
 この階には〈|蝿《ムスカ》〉の居室がある。奴は、自分の部屋に向かっているのか……。
 ――否。
「奴は、『彼女』を迎えに来た。タオロンは手伝い、ってところだろう」
 ルイフォンの断言に、リュイセンも頷く。
 移動先をゆっくり検討している余裕はない。ともかく、一刻も早くこの部屋を出よう。――ルイフォンが、そう続けようと思ったときだった。
「ルイフォン。ここで奴を迎え討つぞ」
「――え?」
 ルイフォンが驚きの声を上げている間にも、リュイセンは上着を脱ぎ捨て、身軽になる。入口のほうへと向き直った横顔は、風を斬り裂くように研ぎ澄まされており、野生の獣の気配を身にまとっていた。
 臨戦態勢に入ったのだ。びりびりとした空気の震えに、ルイフォンは圧倒される。
「今から部屋を出ても、廊下で鉢合わせするだけだ。それなら、ここで待ち構えているほうがいい」
「リュイセン……」
 今やるべきことを見極めたときの兄貴分は、恐ろしく決断が早い。
「……そうだな……」
 相槌を打ちながら、ルイフォンは思案する。
 予定とはだいぶ違うが、この状況は決して悪くはない。
 映像から、相手はふたりとも丸腰だ。懐にナイフくらいは持っていたとしても、完全武装のこちらに分がある。
「……あ。つまり、そうか……!」
 ルイフォンは気づいた。
「そういうことに……なるのか!」
 ぶつぶつと呟く弟分に、リュイセンが、はっとしたように振り返る。
「すまん。ひょっとして、昼間から行動を起こすと、ハオリュウに迷惑が掛かるのか?」
 会議のときに、さんざん配慮が足りないと言われたのを思い出したらしい。兄貴分が気まずそうに眉を曇らせる。
「いや、その点は大丈夫だ」
 ルイフォンは即答した。それよりも、自分の気づいた事実に興奮していた。
 早くその話をしたかったのだが、リュイセンの狐につままれたような顔が、『何故、大丈夫と言い切れるのだ?』と問うている。生真面目な兄貴分は、納得しないことには落ち着かないだろう。
 ルイフォンは、まずはリュイセンの疑問に答えることに決め、ちらりと『彼女』を見やった。
「ここに、『彼女』がいるからだ」
「え?」
「〈|蝿《ムスカ》〉は、まず間違いなく、摂政から『彼女』を隠したがっている。だから、この部屋で俺たちを見つけたとしても、人を呼ぶことができない。騒ぎが大きくなれば、摂政の耳に入り、『彼女』のことを知られる可能性が高いからな」
「ええと、つまり……。他の場所ならともかく、この部屋での出来ごとだけは、他でもない〈|蝿《ムスカ》〉自身が内密に済まそうとする、ってことか?」
「そうだ。――で、ハオリュウに迷惑が掛かるのは、摂政に俺たちの侵入がばれ、ハオリュウの手引きを疑われたときだけだ。ほら、問題ないだろ?」
「なるほど……」
 突然の鉢合わせには慌てたが、冷静に考えると現状は願ってもいない好機だった。
「今なら、最高の布陣が敷けるんだ」
「最高の布陣?」
「ああ、実はな……」
 ルイフォンは、先ほど気づいたことを兄貴分に告げ、にやりと不敵に嗤う。リュイセンは驚きの表情を見せ、そして彼もまた、ふっと口元を緩めた。
 廊下に人の気配を感じた。〈|蝿《ムスカ》〉とタオロンだ。
 ルイフォンは息を潜めた。
 けれど、〈|蝿《ムスカ》〉も鷹刀一族の男だ。彼我の距離が近くなれば、気配を消すのに|長《た》けたリュイセンのことはともかく、ルイフォンの存在には、すぐ感づくだろう。
 だから、逃げも隠れもしない。
 王妃の部屋の作りは、扉を開けてすぐが、まるで高級ブティックのような衣装部屋。そして、カーテンで仕切られた奥が、化粧台や姿見の置かれた、身支度を整えるための場所になっている。大振りのテーブルとソファーまで用意されているので、控え室のような使われ方をしていたのだろう。だからこそ、〈|蝿《ムスカ》〉は『彼女』をここに連れてきたのだ。
〈|蝿《ムスカ》〉を待ち受けるにあたり、ルイフォンたちは奥を選んだ。
 激しい戦闘になる前に片をつけるつもりだが、万一、リュイセンが刀を振るうことになれば、広い空間のほうが望ましい。それに、『彼女』の存在が牽制になるかもしれないと考えた。
 仕切りのカーテンの向こうから、扉を開ける音が聞こえてきた。
 ルイフォンとリュイセンは、目線を交わし合う。
 いよいよだ。
 廊下から、ひやりとした空気が流れ込む。それと同時に、ふたつの狼狽の息遣いを感じた。
「誰かいますね」
 低い声が響いた。
 神経質に|尖《とが》った言葉は、深い怒気をはらんでいた。魅惑の魔性を帯びた、鷹刀一族特有の声質が、凄みに拍車をかけている。
〈|蝿《ムスカ》〉は侵入者には気づいても、それがルイフォンたちであることを知らない。摂政の手の者が、何か不愉快な詮索をしているとでも考えたのだろう。強い警戒を放ちながらも、迷うことなく近づいてきた。
 期待通りの展開だ。
 ルイフォンが猫の目を細めたときのことだった。
 ばさりと。
 仕切りのカーテンが薙ぎ払われた。
「……なっ! ……き、貴様ら……!?」
 白髪交じりの髪がカーテンの起こした風に巻き上げられ、青白い血管の浮き出た額があらわになる。顔は驚愕に彩られ、唇はわなわなと震えていた。
〈|蝿《ムスカ》〉の素顔は初めてではないが、こうして間近でじっくりと見るのは初めてだった。見れば見るほどエルファンにそっくりで、同じ一族なのだと改めて思い知らされる。
 だからといって、あとに引く気などさらさらない。上の世代には思うところがあるようだが、奴に与えるものは『死』のみだと、総帥イーレオが一族の方針として宣言している。
 聞き出したい情報が山ほどあるから、今はまだ殺さない。
 だが――。
 ここで、|決着《ケリ》をつける……!
『彼女』の硝子ケースを背に、ルイフォンとリュイセンは、まっすぐに前を見据えた。
「〈|蝿《ムスカ》〉、お前を捕らえに来た」
 ルイフォンのテノールが、静かに〈|蝿《ムスカ》〉を迎える。
 不意を|衝《つ》くような襲撃も考えた。
 実際、予定通りに夜中に仕掛けるのであったら、無言の一刀で斬りつけるつもりだった。
 けれど――。
 ルイフォンは、〈|蝿《ムスカ》〉から、ほんの少し視線をずらす。〈|蝿《ムスカ》〉の背後で、戸惑いの表情を浮かべているタオロンへと。
「タオロン。今すぐ、ここで――〈|蝿《ムスカ》〉と手を切ってくれ」
「!?」
 タオロンの太い眉がぴくりと上がり、眼球が迷子になったかのように落ち着きなく動き回った。同時に、〈|蝿《ムスカ》〉のこめかみが大きく脈打ち、眉間に深い皺を作り、激しい憤りを匂わせる。
 どちらも等しく、『強い当惑』と呼ぶべきものであったが、ふたりの感情はまったく異なる色彩をはらみ、不協和音を奏でた。
「タオロン、俺たちに協力してくれ。俺たちは〈|蝿《ムスカ》〉を捕らえたい」
 ルイフォンは重ねて呼びかける。
〈|蝿《ムスカ》〉は今、前方をリュイセン、後方をタオロンという、武の達人に挟まれている。
〈|蝿《ムスカ》〉自身もそれなりの使い手ではあるが、貧民街で初めて対峙したときに、リュイセンに対して『力では敵わない』と自ら認めている。自分は本来、表立って戦う者ではないと言って、衝突を避けたくらいだ。
 だから、タオロンがこちらにつけば、〈|蝿《ムスカ》〉に逃げ場はなくなる。
〈|蝿《ムスカ》〉は、メイシアの父親を、あの優しい親父さんを殺したも同然の怨敵だ。慈悲を掛ける価値はない。
 けれど、無駄に傷を負わせることを喜ぶような、性根の腐った人間に、ルイフォンはなりたくなかった。
 憎いからこそ。
 報復が、甘美な香りを放つからこそ。
 自分を律するためにも。自分の矜持にかけても。
『〈|蝿《ムスカ》〉を、できる限り無傷で捕らえる』
 それこそが、武を避け、策を弄する人間である〈|蝿《ムスカ》〉にふさわしい屈辱であり、決着のつけ方であるはずだ。
 鍵となるのは、タオロン。
 本来の作戦であれば、四六時中、見張られているタオロンに、あらかじめ接触することは不可能だった。だから、事後承諾で味方にして脱出をはかる予定だった。
 けれど今なら、きちんと筋を通して、タオロンと手を組める。仲間として手を取り合って、〈|蝿《ムスカ》〉を捕らえることができる。
 今回の作戦の目的は、勿論〈|蝿《ムスカ》〉を捕らえることだ。
 けれど、もうひとつある。
 それは、タオロンをこちらへと――光の中へと救い出すこと。
 この布陣は、ふたつの目的を同時に果たす、最高の布陣だ――!
「――っ」
 何か言おうと、タオロンが口を開きかけた。しかし、それを遮るように〈|蝿《ムスカ》〉の哄笑が響く。
「鷹刀の子猫。何をふざけたことを言っているのですか?」
「〈|蝿《ムスカ》〉!?」
「タオロンは、彼の意思で、私のもとにいるのです。何しろ私は、彼と娘を斑目一族の追手から擁護しているのですから。彼は、その恩を忘れるような男ではないでしょう?」
 明らかに圧力をかけるような物言いに、タオロンは顔を歪め、ぐっと唇を噛む。
「勝手を言いやがるな! 斑目から守っているってのは、嘘じゃねぇかもしれないが、ファンルゥを人質にタオロンをいいように使っている、ってのが実情だろ! そんな関係に、恩義を感じる必要はねぇ!」
〈|蝿《ムスカ》〉に言い返すと言うよりも、タオロンへと訴えかけるようにルイフォンは叫び、更に畳み掛ける。
「タオロン! シャンリーが――警備会社の『草薙』が、お前を雇いたいと言っている」
「……っ!?」
 タオロンの体が、びくりと動いた。浅黒い肌の色合いに変化はないが、その表情には確かに明るい色味が差した。
「ファンルゥと一緒に、住み込みでだ。お前の仕事中はファンルゥの面倒をみてくれるし、ファンルゥが独り立ちできるよう武術も仕込んでくれるそうだ」
「……!」
 小ぶりなタオロンの目が、太い眉を押しのけるかのように極限まで見開かれた。大きく息を吸い込んだまま半開きで動きを止めた口が、無言で『信じられない』と告げている。
「タオロン、俺たちの手を取れ!」
 ――やっと、言うことができた。
 初めて会ったとき、タオロンはメイシアを狙う敵であった。けれど、正義馬鹿の言動に圧倒された。憎むどころか、好感を持った。
 敵対する立場であるにも関わらず、彼は何度も助けてくれた。正しくあろうとする彼の魂は、いつだってルイフォンたちに近いところにあった。
 ずっと、ずっと。
 すれ違いながら、響き合っていた。敵であるのに、敵ではなかった。
 ルイフォンは、ずいと一歩、前に迫る。
 その拍子に、背中で編まれた髪が跳ねた。先を留める金の鈴が、鏡の光をぎらりと反射させる。その輝きは、ルイフォンの強い眼差しにそっくりだった。
「タオロン、俺たちのところに来い!」
〈|蝿《ムスカ》〉の憎悪の威圧を押しのけ、ルイフォンは手を差し伸べる。
 闇に捕らわれているタオロンとファンルゥの父娘を、光の側へと引き上げるように……。
 タオロンは、くしゃりと破顔した。
「お前らは、本当にいい奴だなぁ……」
 決して大きくはなく、むしろ囁くような呟きであった。けれど太い声は、まるで鏡に乱反射したかのように、部屋中に響き渡る。
 そして、今までに、ひとつも見たことのなかったタオロンの極上の笑顔もまた、合わせ鏡によって無数に、無限に広がっていった。