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5.魂の片割れの棲まう部屋-2

ー/ー



 ひとまず、面倒な仕事は終わった。
(ムスカ)〉は、やれやれとばかりに溜め息をついた。
 先ほどは、この神聖な研究室に、俗人が土足で踏み込んできた。許しがたい蛮行であった。
 白衣の長い裾を翻し、〈(ムスカ)〉は研究室を大股に歩き回る。抑えきれない苛立ちを鎮めようと、彼の足は無意識のうちに動いていた。
 それは、自分の領域(テリトリー)を侵された、獣の習性とよく似ていた。他者の気配の残る場所を、獣であれば自分の臭いで清めるように、摂政とその客の貴族(シャトーア)が存在した痕跡を〈(ムスカ)〉は足音でもって消し去ろうとする。
 窓のない地下室に、硬い床を打ち鳴らす靴音だけが響いていた。
「……っ」
(ムスカ)〉の口から舌打ちが漏れる。
 本来、彼には摂政カイウォルに従う義務はない。
 摂政とは、王宮で政務を執る人間である。それに対して、〈(ムスカ)〉の属する〈七つの大罪〉は、神殿に拠点を置く研究機関。まったく別系統の組織だ。
 勿論、王宮にしろ、神殿にしろ、頂点に立つのは王である。だからカイウォルとしては、摂政という王の代理の職にある自分には、〈(ムスカ)〉に指図する資格があると言いたいのだろう。しかし、それはとんでもない間違いだ。

〈悪魔〉とは、『真の王から創世神話の真実を告げられ、それをもとに研究を行う者』だ。

〈悪魔〉たちは、打ち明けられた王族(フェイラ)の『秘密』を決して外部に漏らさぬ誓いの証として『契約』を交わす。口外したら死を約束すると、脳に刻み込まれる。
 だが『契約』は、王との主従関係の契りではない。あくまでも取り引きであり、『秘密』の流布を恐れる用心深い王が保険をかけているだけだ。
 では、何ゆえに研究者たちが、命を預けるような『契約』を受け入れてまで〈悪魔〉となるのかといえば、見返りに魅力があるからだ。
 王が提供する、潤沢な資金。どんなに人の道を外れた研究をしても許される、絶対の加護。蓄積された門外不出の技術に触れられる、唯一の手段……。
 天秤の皿の左右に、命と見返りを載せたとき、そのままで見返りに傾く者はまずいない。けれど、命の皿から『良心』という分銅を取り除くことができたなら……。命の皿は、あっけないほど簡単に軽くなる。
 すなわち、〈悪魔〉とは、『研究のために、魂を捧げた者』。
〈七つの大罪〉の研究者が、『悪魔』と呼ばれる所以(ゆえん)だ。
 しかし、あの摂政は禁秘の技術の崇高さも、研究への高潔なる情熱も、まるで理解していない。カイウォルの頭にあるのは、権力にまつわる利害関係だけだ。
 奴は、我欲の塊だ。
(ムスカ)〉は、ふんと鼻を鳴らす。非常に不快であった。
 それでも〈(ムスカ)〉がカイウォルを立ててやるのは、本来の姿の〈七つの大罪〉が失われ、彼を蘇らせたホンシュアも死んだ今、彼の生活の保証をしているのがカイウォルだからである。
 恒久的な関係を持つつもりなど毛頭ないが、彼は、ある意味で『まだ、生まれたばかり』だ。現状について、知らないことが多すぎる。『独り立ち』するまで、もう少し時間がほしい。
 だから、手を組む。
(ムスカ)〉は、カイウォルに『ライシェン』を提供する。
 カイウォルは、〈(ムスカ)〉に資金と安全を保証する。
 対等な関係であるはずだ。――それが、高慢な王族(フェイラ)に通じるわけもないが。
 そして、上流階級の人間を相手にする場合、適当に機嫌をとっておいたほうが扱いやすいことなど、〈(ムスカ)〉は百も承知していた。
 彼は、がりがりと掻きむしるように頭を掻いた。そして何気なく、抜けて指に絡まった髪を見やる。
 黒い毛に混じり、白髪が一本、きらりと光った。
「……」
 三十代の記憶を持つ彼にとって、五十路手前のこの体は、肉体的にも精神的にも苦痛だった。研究日誌を付ける際に、老眼が混じっていることに気づいた日には、おぞましさに吐き気すらもよおした。
 こんな『自分』という存在を作ったホンシュアを恨んだ。
 何もかもが宙ぶらりんなまま、勝手に死んだ彼女が憎かった。
 そして、姿を見たこともないホンシュアの本体、鷹刀セレイエを呪った。
 すべての元凶は、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』を作った、鷹刀セレイエだ。
 彼女は今どこにいて、何をしているのか。
 彼女は間違いなく、王族(フェイラ)と深い繋がりがある。それは、『ライシェン』が証明している。
(ムスカ)〉は『ライシェン』の硝子ケースの前で立ち止まり、じっと彼を見つめた。白金の髪の胎児は、培養液に体を預け、夢見るように眠っていた。
 経過は順調だった。あと少しで凍結保存できるだろう。
 ここで初めて、〈(ムスカ)〉は、ほんの少し表情を緩めた。
『ライシェン』は、摂政カイウォルへの切り札という『駒』ではあるが、同時に〈(ムスカ)〉の大切な研究の成果でもある。彼なりの愛情を注いでいた。
(ムスカ)〉が足を止めたことで、研究室は静けさを取り戻した。ほぼ無音となった室内を、空気清浄機の運転音が低くうなりを上げる。それに混じり、階段を降りてくる足音が、わずかに聞こえてきた。
 斑目タオロンが来たのだろう。
〈悪魔〉でも王族(フェイラ)でもない人間に、硝子ケースに入った〈神の御子〉を見られるわけにはいかない。〈(ムスカ)〉は、『ライシェン』に黒い布を掛けた。
 そして、机に向かって書き物をしているふりをしていると、ほどなくしてタオロンが研究室の扉を叩く。
「待っていましたよ」
(ムスカ)〉は平坦な声で出迎えた。本当は待ちわびていたなど、おくびにも出さない。
「まだ館の中に客がいるようだが、今でいいのか?」
「構いません。もう摂政殿下は、研究室の視察を終えられましたからね」
 淡々と、そう答える。
 タオロンのことは、先ほど〈(ムスカ)〉が呼びつけた。彼を連れて、『ミンウェイ』を迎えに行くためである。
 あんな埃っぽい部屋に、いつまでも彼女を置いておけるわけがない。一刻も早く、この清浄な研究室に戻すべきだった。
 ――〈(ムスカ)〉は、摂政が研究室に来ると聞いて、『ミンウェイ』を隠すことを考えた。あの男の目に『ミンウェイ』の姿が映るなど、想像しただけで虫唾(むしず)が走ったからだ。
 そして、ここに移り住んだばかりのころに見つけた、王妃の支度部屋に彼女を連れて行くことを思いついた。豪華な衣装や、立派な化粧台のある、彼女にふさわしい美しい部屋だった。
 それが今朝、数カ月ぶりに訪れて驚いた。
 すっかり埃にまみれていた。かといって、今更、場所を変える余裕もなく、そのまま彼女を置いてきてしまったのだ……。
『ライシェン』には、布を掛けてタオロンの目を誤魔化すにとどめ、『ミンウェイ』のことは手間を掛けて、丁重に別室に移す。ここに、ふたつの硝子ケースに対する、〈(ムスカ)〉の想いの差が如実に現れていた。
「それでは行きましょうか」
(ムスカ)〉が白衣の裾を翻すと、タオロンもあとに続いて研究室を出た。


 狭く暗い地下通路に、ふたつの足音が木霊(こだま)していた。
 しばらく行くと、階段にたどり着く。上階に繋がる、唯一の手段だ。
 地上の階にはエレベーターが完備されているが、地下には通っていない。地下の研究室は〈(ムスカ)〉がこの館に居を構えるにあたり、あとから作られたものであり、もとからあるエレベーターを伸ばすのが困難だったためだ。
 そして、この階段こそが、『ミンウェイ』の移動に、タオロンが必要となる理由だった。
『ミンウェイ』の大型の硝子ケースには、相応の重量がある。運搬にはストレッチャーが不可欠なのだが、車輪は階段を越えられない。
 故に、ここだけは、ふたりがかりで人の手で、となるわけだ。
 今まで、〈(ムスカ)〉は階段に不便を感じたことはなかった。勿論、エレベーターのほうが自室との行き来が楽であろうが、この老化した体を少しでも鍛えるためには、かえって健康的で良いとすら思っていた。
 しかし、今日だけは別だった。
(ムスカ)〉は、神経質な眉間に皺を寄せる。
 小生意気な貴族(シャトーア)の子供に、さも当然とばかりに車椅子を運ばされたのを思い出したのだ。
 あの子供は、藤咲メイシアの異母弟だ。〈(ムスカ)〉のことを知っていて、わざと人夫の扱いをしたのだ。小賢しさに、はらわたが煮えくり返る。
 そう――。
 あの子供は、『藤咲メイシア』の異母弟なのだ。
 摂政カイウォルが、あの餓鬼を囲い込もうとするのには政治的な意図もあろうが、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』とも無関係ではないだろう。
 摂政は、藤咲メイシアが生きていることを知っていた。
 もしや奴も『藤咲メイシアの正体』を知っているのだろうか……?
(ムスカ)〉の内部を焦りの感情が駆け抜ける。
 そうであれば、摂政がなんらかの行動に移る前に、藤咲メイシアを手に入れる必要がある――!
「……っ」
 知らずのうちに肩に力が入っていたことに気づき、〈(ムスカ)〉は自嘲した。今は、『ミンウェイ』を迎えに行くところだ。険しい顔は似合わない。
 冷静さを取り戻し、後ろにいるタオロンに不審に思われなかったかを、少しだけ気に掛ける。イノシシ坊やになんと思われようとも構わないのだが、余裕のないところを他人に見せるのは、彼の美学に反するからだ。
 背後の様子を探り……〈(ムスカ)〉は首をかしげた。
 タオロンの気配が揺れていた。
 口数の多い男ではないので、黙々とついてくるだけなのは不思議ではない。しかし、妙な緊張感を身にまとっている。無理に心を落ち着けようとして、かえって気を乱しているのが明らかだった。
「どうかされましたか?」
「……っ! いや……何も!」
 振り返った〈(ムスカ)〉に、タオロンは大仰な素振りで答えた。
 それは、ルイフォンたちが来ていることを聞いた彼が、平常心でいられなかったためなのだが、当然のことながら〈(ムスカ)〉はそんなことを知らない。
 脅えたようにも見えるその仕草に、だから〈(ムスカ)〉は勘違いをした。これから迎えに行く『ミンウェイ』に、タオロンは憎悪と畏怖を(いだ)いているのであると――。
 今朝、『ミンウェイ』を王妃の部屋に連れて行くとき、彼女を初めて見たタオロンは、〈(ムスカ)〉に憤怒の表情をぶつけてきた。
 おそらく、彼女を人体実験の被験者か何かだと思ったのだろう。だから、視察に来るという摂政の目から、彼女を隠そうとしている。そう解釈したのだ。
 タオロンは、〈七つの大罪〉の技術を『人として許されない』と言って嫌悪している。いつだったか、彼の怪我の治癒に〈七つの大罪〉の技術を用いたと教えたら、自分の傷跡を穢らわしいものを見る目で睨みつけていた。
 それでも『ミンウェイ』を運んでいる間、口ではひとこともなかった。
 自分の立場をわきまえていて、余計なことを言ってはならぬと分かっているのだ。
 典型的な『非捕食者』だ。これでは斑目一族にいいように利用されていたのも、仕方ないといえよう。
(ムスカ)〉は、タオロンに憐れすら覚える。
 娘さえ人質に取っていれば、非常に従順な部下であることを〈(ムスカ)〉は誰よりもよく知っている。だからこそ、こうして『ミンウェイ』を運ぶのにも、金で雇った私兵ではなくタオロンを使っているのだ。
 条件つきであるのは承知していたが、〈(ムスカ)〉はタオロンを信頼していた。
「『彼女』は、私の妻ですよ」
 わずかに笑みをこぼしながら、〈(ムスカ)〉は告げた。
 わざわざ、タオロンに教えてやる必要はないのは分かっている。ただ、得体の知れない不気味な『もの』を見る目を、彼女に向けてほしくなかったのだ。
「二十歳になる前に亡くなりましたけどね」
「――!」
「禁忌に触れたと、私を責めますか?」
「……っ、俺は――」
(ムスカ)〉の問いに、タオロンはうめくような低い声を漏らし、途中で唇を噛んでうつむく。
 もとより、どんな返答も期待していない。だが、これでタオロンは、彼女のことを『人』として見るようになる。そういう男だ。
 実のところ、あの『ミンウェイ』が何者なのかは、〈(ムスカ)〉も知らない。
 彼女は、彼がホンシュアによって蘇らされたときから、彼のそばに居た。彼が目覚めた手術台の近くに、彼女の硝子ケースが置かれていたのだ。
 彼が知っていることは、それだけだ。けれども、彼女がミンウェイである以上、彼の愛する者だった。
 押し黙ったままのタオロンを残し、〈(ムスカ)〉は(きびす)を返そうとした。そのとき、野太い声が「〈(ムスカ)〉」と呼び止めた。
「死んだ〈天使〉ホンシュアが、俺に尋ねたことがある」
「〈(サーペンス)〉が? あなたに何を?」
 タオロンの口から出るにしては、意外な名前だった。〈(ムスカ)〉は、にわかに興味を(いだ)く。
「『もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったら、生き返らせたいか』――と」
「……!」
 それは、〈(ムスカ)〉が――ヘイシャオが、(こいねが)ったことだ。
 心を撃ち砕かれたかのように、〈(ムスカ)〉の動きが止まった。
 そしてタオロンもまた、次の句を詰まらせていた。猪突猛進の彼にしては珍しいことだった。
「……つまり、『彼女』は……。いや、なんでもねぇ……」
 何かを振り切るように頭を振り、タオロンは太い眉に力を込めて言葉を打ち切る。
 沈黙が流れた。
 ホンシュアは何故、そんなことをタオロンに問うたのだろう。〈(ムスカ)〉はそう思い、すぐに答えに行き着く。
「ああ……、そうでした。あなたも妻を亡くされていましたね」
 その呟きは、特にタオロンに向けたものではなかったのだが、そばにいた彼は当然、自分に向けられたものだと解釈した。 
「『妻』じゃねぇよ。俺は、籍も入れてやれなかった。――糞が……」
 毒づいて、そっぽを向く。地下通路の薄暗さに隠されているが、おそらく最愛の人を想う顔をしているのだろう。
 妻に尽くせなかったことを後悔しているのだ。……彼も。
 でも――。
「あなたは『生き返らせたいとは思わない』と、答えたのでしょう?」
(ムスカ)〉の断言に、タオロンは目を見開いた。
「ああ。……何故、分かった?」
「簡単なことです――」
 不器用で直情的な彼が、禁忌の技術を受け入れるわけがない。
「――あなたが『悪魔』ではないからですよ」
 それだけ告げると、〈(ムスカ)〉は階段を登り始めた。
 上階から漏れてきた光が〈(ムスカ)〉を照らし、黒い影を濃く伸ばした。それは、まるで悪魔の翼のようであった。


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 ひとまず、面倒な仕事は終わった。
〈|蝿《ムスカ》〉は、やれやれとばかりに溜め息をついた。
 先ほどは、この神聖な研究室に、俗人が土足で踏み込んできた。許しがたい蛮行であった。
 白衣の長い裾を翻し、〈|蝿《ムスカ》〉は研究室を大股に歩き回る。抑えきれない苛立ちを鎮めようと、彼の足は無意識のうちに動いていた。
 それは、自分の|領域《テリトリー》を侵された、獣の習性とよく似ていた。他者の気配の残る場所を、獣であれば自分の臭いで清めるように、摂政とその客の|貴族《シャトーア》が存在した痕跡を〈|蝿《ムスカ》〉は足音でもって消し去ろうとする。
 窓のない地下室に、硬い床を打ち鳴らす靴音だけが響いていた。
「……っ」
〈|蝿《ムスカ》〉の口から舌打ちが漏れる。
 本来、彼には摂政カイウォルに従う義務はない。
 摂政とは、王宮で政務を執る人間である。それに対して、〈|蝿《ムスカ》〉の属する〈七つの大罪〉は、神殿に拠点を置く研究機関。まったく別系統の組織だ。
 勿論、王宮にしろ、神殿にしろ、頂点に立つのは王である。だからカイウォルとしては、摂政という王の代理の職にある自分には、〈|蝿《ムスカ》〉に指図する資格があると言いたいのだろう。しかし、それはとんでもない間違いだ。
〈悪魔〉とは、『真の王から創世神話の真実を告げられ、それをもとに研究を行う者』だ。
〈悪魔〉たちは、打ち明けられた|王族《フェイラ》の『秘密』を決して外部に漏らさぬ誓いの証として『契約』を交わす。口外したら死を約束すると、脳に刻み込まれる。
 だが『契約』は、王との主従関係の契りではない。あくまでも取り引きであり、『秘密』の流布を恐れる用心深い王が保険をかけているだけだ。
 では、何ゆえに研究者たちが、命を預けるような『契約』を受け入れてまで〈悪魔〉となるのかといえば、見返りに魅力があるからだ。
 王が提供する、潤沢な資金。どんなに人の道を外れた研究をしても許される、絶対の加護。蓄積された門外不出の技術に触れられる、唯一の手段……。
 天秤の皿の左右に、命と見返りを載せたとき、そのままで見返りに傾く者はまずいない。けれど、命の皿から『良心』という分銅を取り除くことができたなら……。命の皿は、あっけないほど簡単に軽くなる。
 すなわち、〈悪魔〉とは、『研究のために、魂を捧げた者』。
〈七つの大罪〉の研究者が、『悪魔』と呼ばれる|所以《ゆえん》だ。
 しかし、あの摂政は禁秘の技術の崇高さも、研究への高潔なる情熱も、まるで理解していない。カイウォルの頭にあるのは、権力にまつわる利害関係だけだ。
 奴は、我欲の塊だ。
〈|蝿《ムスカ》〉は、ふんと鼻を鳴らす。非常に不快であった。
 それでも〈|蝿《ムスカ》〉がカイウォルを立ててやるのは、本来の姿の〈七つの大罪〉が失われ、彼を蘇らせたホンシュアも死んだ今、彼の生活の保証をしているのがカイウォルだからである。
 恒久的な関係を持つつもりなど毛頭ないが、彼は、ある意味で『まだ、生まれたばかり』だ。現状について、知らないことが多すぎる。『独り立ち』するまで、もう少し時間がほしい。
 だから、手を組む。
〈|蝿《ムスカ》〉は、カイウォルに『ライシェン』を提供する。
 カイウォルは、〈|蝿《ムスカ》〉に資金と安全を保証する。
 対等な関係であるはずだ。――それが、高慢な|王族《フェイラ》に通じるわけもないが。
 そして、上流階級の人間を相手にする場合、適当に機嫌をとっておいたほうが扱いやすいことなど、〈|蝿《ムスカ》〉は百も承知していた。
 彼は、がりがりと掻きむしるように頭を掻いた。そして何気なく、抜けて指に絡まった髪を見やる。
 黒い毛に混じり、白髪が一本、きらりと光った。
「……」
 三十代の記憶を持つ彼にとって、五十路手前のこの体は、肉体的にも精神的にも苦痛だった。研究日誌を付ける際に、老眼が混じっていることに気づいた日には、おぞましさに吐き気すらもよおした。
 こんな『自分』という存在を作ったホンシュアを恨んだ。
 何もかもが宙ぶらりんなまま、勝手に死んだ彼女が憎かった。
 そして、姿を見たこともないホンシュアの本体、鷹刀セレイエを呪った。
 すべての元凶は、『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』を作った、鷹刀セレイエだ。
 彼女は今どこにいて、何をしているのか。
 彼女は間違いなく、|王族《フェイラ》と深い繋がりがある。それは、『ライシェン』が証明している。
〈|蝿《ムスカ》〉は『ライシェン』の硝子ケースの前で立ち止まり、じっと彼を見つめた。白金の髪の胎児は、培養液に体を預け、夢見るように眠っていた。
 経過は順調だった。あと少しで凍結保存できるだろう。
 ここで初めて、〈|蝿《ムスカ》〉は、ほんの少し表情を緩めた。
『ライシェン』は、摂政カイウォルへの切り札という『駒』ではあるが、同時に〈|蝿《ムスカ》〉の大切な研究の成果でもある。彼なりの愛情を注いでいた。
〈|蝿《ムスカ》〉が足を止めたことで、研究室は静けさを取り戻した。ほぼ無音となった室内を、空気清浄機の運転音が低くうなりを上げる。それに混じり、階段を降りてくる足音が、わずかに聞こえてきた。
 斑目タオロンが来たのだろう。
〈悪魔〉でも|王族《フェイラ》でもない人間に、硝子ケースに入った〈神の御子〉を見られるわけにはいかない。〈|蝿《ムスカ》〉は、『ライシェン』に黒い布を掛けた。
 そして、机に向かって書き物をしているふりをしていると、ほどなくしてタオロンが研究室の扉を叩く。
「待っていましたよ」
〈|蝿《ムスカ》〉は平坦な声で出迎えた。本当は待ちわびていたなど、おくびにも出さない。
「まだ館の中に客がいるようだが、今でいいのか?」
「構いません。もう摂政殿下は、研究室の視察を終えられましたからね」
 淡々と、そう答える。
 タオロンのことは、先ほど〈|蝿《ムスカ》〉が呼びつけた。彼を連れて、『ミンウェイ』を迎えに行くためである。
 あんな埃っぽい部屋に、いつまでも彼女を置いておけるわけがない。一刻も早く、この清浄な研究室に戻すべきだった。
 ――〈|蝿《ムスカ》〉は、摂政が研究室に来ると聞いて、『ミンウェイ』を隠すことを考えた。あの男の目に『ミンウェイ』の姿が映るなど、想像しただけで|虫唾《むしず》が走ったからだ。
 そして、ここに移り住んだばかりのころに見つけた、王妃の支度部屋に彼女を連れて行くことを思いついた。豪華な衣装や、立派な化粧台のある、彼女にふさわしい美しい部屋だった。
 それが今朝、数カ月ぶりに訪れて驚いた。
 すっかり埃にまみれていた。かといって、今更、場所を変える余裕もなく、そのまま彼女を置いてきてしまったのだ……。
『ライシェン』には、布を掛けてタオロンの目を誤魔化すにとどめ、『ミンウェイ』のことは手間を掛けて、丁重に別室に移す。ここに、ふたつの硝子ケースに対する、〈|蝿《ムスカ》〉の想いの差が如実に現れていた。
「それでは行きましょうか」
〈|蝿《ムスカ》〉が白衣の裾を翻すと、タオロンもあとに続いて研究室を出た。
 狭く暗い地下通路に、ふたつの足音が|木霊《こだま》していた。
 しばらく行くと、階段にたどり着く。上階に繋がる、唯一の手段だ。
 地上の階にはエレベーターが完備されているが、地下には通っていない。地下の研究室は〈|蝿《ムスカ》〉がこの館に居を構えるにあたり、あとから作られたものであり、もとからあるエレベーターを伸ばすのが困難だったためだ。
 そして、この階段こそが、『ミンウェイ』の移動に、タオロンが必要となる理由だった。
『ミンウェイ』の大型の硝子ケースには、相応の重量がある。運搬にはストレッチャーが不可欠なのだが、車輪は階段を越えられない。
 故に、ここだけは、ふたりがかりで人の手で、となるわけだ。
 今まで、〈|蝿《ムスカ》〉は階段に不便を感じたことはなかった。勿論、エレベーターのほうが自室との行き来が楽であろうが、この老化した体を少しでも鍛えるためには、かえって健康的で良いとすら思っていた。
 しかし、今日だけは別だった。
〈|蝿《ムスカ》〉は、神経質な眉間に皺を寄せる。
 小生意気な|貴族《シャトーア》の子供に、さも当然とばかりに車椅子を運ばされたのを思い出したのだ。
 あの子供は、藤咲メイシアの異母弟だ。〈|蝿《ムスカ》〉のことを知っていて、わざと人夫の扱いをしたのだ。小賢しさに、はらわたが煮えくり返る。
 そう――。
 あの子供は、『藤咲メイシア』の異母弟なのだ。
 摂政カイウォルが、あの餓鬼を囲い込もうとするのには政治的な意図もあろうが、『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』とも無関係ではないだろう。
 摂政は、藤咲メイシアが生きていることを知っていた。
 もしや奴も『藤咲メイシアの正体』を知っているのだろうか……?
〈|蝿《ムスカ》〉の内部を焦りの感情が駆け抜ける。
 そうであれば、摂政がなんらかの行動に移る前に、藤咲メイシアを手に入れる必要がある――!
「……っ」
 知らずのうちに肩に力が入っていたことに気づき、〈|蝿《ムスカ》〉は自嘲した。今は、『ミンウェイ』を迎えに行くところだ。険しい顔は似合わない。
 冷静さを取り戻し、後ろにいるタオロンに不審に思われなかったかを、少しだけ気に掛ける。イノシシ坊やになんと思われようとも構わないのだが、余裕のないところを他人に見せるのは、彼の美学に反するからだ。
 背後の様子を探り……〈|蝿《ムスカ》〉は首をかしげた。
 タオロンの気配が揺れていた。
 口数の多い男ではないので、黙々とついてくるだけなのは不思議ではない。しかし、妙な緊張感を身にまとっている。無理に心を落ち着けようとして、かえって気を乱しているのが明らかだった。
「どうかされましたか?」
「……っ! いや……何も!」
 振り返った〈|蝿《ムスカ》〉に、タオロンは大仰な素振りで答えた。
 それは、ルイフォンたちが来ていることを聞いた彼が、平常心でいられなかったためなのだが、当然のことながら〈|蝿《ムスカ》〉はそんなことを知らない。
 脅えたようにも見えるその仕草に、だから〈|蝿《ムスカ》〉は勘違いをした。これから迎えに行く『ミンウェイ』に、タオロンは憎悪と畏怖を|抱《いだ》いているのであると――。
 今朝、『ミンウェイ』を王妃の部屋に連れて行くとき、彼女を初めて見たタオロンは、〈|蝿《ムスカ》〉に憤怒の表情をぶつけてきた。
 おそらく、彼女を人体実験の被験者か何かだと思ったのだろう。だから、視察に来るという摂政の目から、彼女を隠そうとしている。そう解釈したのだ。
 タオロンは、〈七つの大罪〉の技術を『人として許されない』と言って嫌悪している。いつだったか、彼の怪我の治癒に〈七つの大罪〉の技術を用いたと教えたら、自分の傷跡を穢らわしいものを見る目で睨みつけていた。
 それでも『ミンウェイ』を運んでいる間、口ではひとこともなかった。
 自分の立場をわきまえていて、余計なことを言ってはならぬと分かっているのだ。
 典型的な『非捕食者』だ。これでは斑目一族にいいように利用されていたのも、仕方ないといえよう。
〈|蝿《ムスカ》〉は、タオロンに憐れすら覚える。
 娘さえ人質に取っていれば、非常に従順な部下であることを〈|蝿《ムスカ》〉は誰よりもよく知っている。だからこそ、こうして『ミンウェイ』を運ぶのにも、金で雇った私兵ではなくタオロンを使っているのだ。
 条件つきであるのは承知していたが、〈|蝿《ムスカ》〉はタオロンを信頼していた。
「『彼女』は、私の妻ですよ」
 わずかに笑みをこぼしながら、〈|蝿《ムスカ》〉は告げた。
 わざわざ、タオロンに教えてやる必要はないのは分かっている。ただ、得体の知れない不気味な『もの』を見る目を、彼女に向けてほしくなかったのだ。
「二十歳になる前に亡くなりましたけどね」
「――!」
「禁忌に触れたと、私を責めますか?」
「……っ、俺は――」
〈|蝿《ムスカ》〉の問いに、タオロンはうめくような低い声を漏らし、途中で唇を噛んでうつむく。
 もとより、どんな返答も期待していない。だが、これでタオロンは、彼女のことを『人』として見るようになる。そういう男だ。
 実のところ、あの『ミンウェイ』が何者なのかは、〈|蝿《ムスカ》〉も知らない。
 彼女は、彼がホンシュアによって蘇らされたときから、彼のそばに居た。彼が目覚めた手術台の近くに、彼女の硝子ケースが置かれていたのだ。
 彼が知っていることは、それだけだ。けれども、彼女がミンウェイである以上、彼の愛する者だった。
 押し黙ったままのタオロンを残し、〈|蝿《ムスカ》〉は|踵《きびす》を返そうとした。そのとき、野太い声が「〈|蝿《ムスカ》〉」と呼び止めた。
「死んだ〈天使〉ホンシュアが、俺に尋ねたことがある」
「〈|蛇《サーペンス》〉が? あなたに何を?」
 タオロンの口から出るにしては、意外な名前だった。〈|蝿《ムスカ》〉は、にわかに興味を|抱《いだ》く。
「『もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったら、生き返らせたいか』――と」
「……!」
 それは、〈|蝿《ムスカ》〉が――ヘイシャオが、|希《こいねが》ったことだ。
 心を撃ち砕かれたかのように、〈|蝿《ムスカ》〉の動きが止まった。
 そしてタオロンもまた、次の句を詰まらせていた。猪突猛進の彼にしては珍しいことだった。
「……つまり、『彼女』は……。いや、なんでもねぇ……」
 何かを振り切るように頭を振り、タオロンは太い眉に力を込めて言葉を打ち切る。
 沈黙が流れた。
 ホンシュアは何故、そんなことをタオロンに問うたのだろう。〈|蝿《ムスカ》〉はそう思い、すぐに答えに行き着く。
「ああ……、そうでした。あなたも妻を亡くされていましたね」
 その呟きは、特にタオロンに向けたものではなかったのだが、そばにいた彼は当然、自分に向けられたものだと解釈した。 
「『妻』じゃねぇよ。俺は、籍も入れてやれなかった。――糞が……」
 毒づいて、そっぽを向く。地下通路の薄暗さに隠されているが、おそらく最愛の人を想う顔をしているのだろう。
 妻に尽くせなかったことを後悔しているのだ。……彼も。
 でも――。
「あなたは『生き返らせたいとは思わない』と、答えたのでしょう?」
〈|蝿《ムスカ》〉の断言に、タオロンは目を見開いた。
「ああ。……何故、分かった?」
「簡単なことです――」
 不器用で直情的な彼が、禁忌の技術を受け入れるわけがない。
「――あなたが『悪魔』ではないからですよ」
 それだけ告げると、〈|蝿《ムスカ》〉は階段を登り始めた。
 上階から漏れてきた光が〈|蝿《ムスカ》〉を照らし、黒い影を濃く伸ばした。それは、まるで悪魔の翼のようであった。